一昨日(9月9日)、昭和天皇実録とジャーナリズムの関係について当ブログで取りあげた。中央各紙の社説を紹介したが、その後気になって、いくつかの地方紙の社説にも目を通した。さすがに、中央各紙よりは地方紙の社説の水準が高く、姿勢もよい。
中でも琉球新報9月10日付社説が出色である。これに比べてのことだが、沖縄タイムスの10日付社説「[昭和天皇実録]戦後史の理不尽を正せ」はやや歯切れが悪く影が薄い。
琉球新報社説のタイトルは、「昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ」というもの。二つの責任とは、「戦争責任」と「戦後責任」のこと。沖縄県民の立場からの視点を明確にして、天皇の戦時中の戦争遂行についての責任と、戦後の戦争処理についての責任を、ともに明確にせよという迫力十分な内容。
同社説は、「昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられている」という。内2回が「戦争責任」、1回が「戦後責任」に当たる。
「最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が『国体護持』の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は『今一度戦果を挙げなければ実現は困難』との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の『捨て石』にされた。だが、実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない。」
戦況を把握している者にとって、1945年2月には日本の敗戦は必至であった。国民の犠牲を少なくするには早期に戦争を終結すべきが明らかであった。しかし、天皇は『今一度戦果を挙げなければ実現は困難』と言い続けたのだ。この天皇の姿勢は、同年8月12日午後の皇族会議での発言(「国体護持ができなければ戦争を継続するのか」と聞かれ、天皇は「勿論だ」と答えている)まで一貫して確認されている。
この間に、東京大空襲があり、沖縄戦地上戦があり、各地の空襲が続き、広島・長崎の惨劇があり、そしてソ連参戦による悲劇が続いた。外地でも、多くの兵と非戦闘員が亡くなり、生き残ったものも塗炭の辛酸を味わった。天皇一人の責任ではないにせよ、天皇の責任は限りなく大きい。
「二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された『和平交渉の要綱』は、日本の領土について『沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする』として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から『捨てる』選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。」
国民を赤子として慈しむ、天皇のイメージ作りの演出が行われたが、実は、国体護持のためには「臣民」を「捨てる」ことにためらいはなかったのだ。沖縄県には、天皇の責任を徹底して追求する資格がある。
そして、最後が沖縄の現状に今も影響をもたらしている戦後責任。「天皇メッセージ」としてよく知られた事件だ。
「三つ目が沖縄の軍事占領を希望した『天皇メッセージ』だ。天皇は47年9月、米側にメッセージを送り『25年から50年、あるいはそれ以上』沖縄を米国に貸し出す方針を示した。実録は米側報告書を引用するが、天皇が実際に話したのかどうか明確ではない。『天皇メッセージ』から67年。天皇の意向通り沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中して『軍事植民地』状態が続く。『象徴天皇』でありながら、なぜ沖縄の命運を左右する外交に深く関与したのか。実録にその経緯が明らかにされていない。」
社説は次のように結ばれている。
「私たちが知りたいのは少なくとも三つの局面で発せられた昭和天皇の肉声だ。天皇の発言をぼかし、沖縄訪問を希望していたことを繰り返し記述して『贖罪意識』を印象付けようとしているように映る。沖縄に関する限り、昭和天皇には『戦争責任』と『戦後責任』がある。この点をあいまいにすれば、歴史の検証に耐えられない。」
この社説が求めていることは、歴史の要所において、沖縄県民の命を奪い、あるいは不幸をもたらした国家の政策に、昭和天皇(裕仁)個人がどのように関わっていたかを明確にすることだ。未曾有の大戦争に天皇はどう関わり、戦後はどう振る舞ったのか。無数の人々の不幸に、どのような責任をもつべきなのかを明確にせよ、との要求なのだ。
私は、感動をもってこの社説を読んだ。ジャーナリズムは、この国の中央では瀕死の状態にあるものの、沖縄で健全な姿を示している。
(2014年9月11日)
8月5日、朝日新聞が慰安婦問題での吉田清治証言を誤りと認め過去の16本の掲載記事を取り消すとして以来の朝日批判が喧しい。これに、池上彰への記事掲載拒否問題が油を注いだ。
朝日への口を揃えてのバッシング。総批判、総非難の大合唱である。あたかも、一羽のムクドリが飛び立つと、あとのムクドリの大群が一斉に同じ方向に飛び立つという、あの図を思い起こさせる。もちろん、朝日批判に十分な理由はある。これに加わるのは楽だ。
しかし私は、何であれメディアの付和雷同現象を不愉快に思う。ジャーナリストとは、所詮はへそ曲がりの集団ではないか。他人と同じ発想で、同じように口を揃えることを恥とすべきだろう。
とりわけ、吉田清治証言撤回を、日本軍慰安婦問題全体が虚構であったような悪乗り論調を恥とすべきだ。吉田証言の信憑性の欠如は、20年前には公知の事実となっていた。たとえば、吉見義明の「従軍慰安婦」(岩波新書)は1995年4月の発行。巻末に、9ページにわたって参照文献のリストが掲載されているが、吉田の著作や証言はない。もちろん、本文での引用もない。
吉田証言が歴史家の検証に耐え得るものでなかったことについては、貴重な教訓としなければならない。しかし、他の多くの資料と証言とが積み重ねられて、日本軍慰安婦問題についての共通認識が形成されてきた。いまの時点で、吉田証言に信憑性がなかったことを言い募っても、歴史の真実が揺らぐわけではない。
この機会に、日本軍が一体何をしてきたのか、その歴史を見直そう。日本軍の慰安所は、いつからどのようにして設置され、どのように運営されていったのか、どのようにして慰安婦は徴集されたのか、どこの国の軍隊にもあったものなのか、そのような立場におかれた女性がどのような行為を強いられたか、戦時どのような運命を忍受したか、そして戦後どのような人生を送ったのか。さらに、今、世界はこの問題をどう見ているのか。国際法的にどのようにもんだとされているのか。
以下が、国連自由権規約委員会における対日審査最終所見(本年7月25日)の「慰安婦」関連部分の日本語訳(wamホームページから)。
〔14〕委員会は、締約国(日本政府)が、慰安所のこれらの女性たちの「募集、移送及び管理」は、軍又は軍のために行動した者たちにより、脅迫や強圧によって総じて本人たちの意に反して行われた事例が数多くあったとしているにもかかわらず、「慰安婦」は戦時中日本軍によって「強制的に連行」されたのではなかったとする締約国の矛盾する立場を懸念する。委員会は、被害者の意思に反して行われたそうした行為はいかなるものであれ、締約国の直接的な法的責任をともなう人権侵害とみなすに十分であると考える。委員会は、公人によるものおよび締約国の曖昧な態度によって助長されたものを含め、元「慰安婦」の社会的評価に対する攻撃によって、彼女たちが再度被害を受けることについても懸念する。委員会はさらに、被害者によって日本の裁判所に提起されたすべての損害賠償請求が棄却され、また、加害者に対する刑事捜査及び訴追を求めるすべての告訴告発が時効を理由に拒絶されたとの情報を考慮に入れる。委員会は、この状況は被害者の人権が今も引き続き侵害されていることを反映するとともに、過去の人権侵害の被害者としての彼女たちに入手可能な効果的な救済が欠如していることを反映していると考える。
締約国(日本政府)は、以下を確保するため、即時かつ効果的な立法的及び行政的な措置をとるべきである。
(i) 戦時中、「慰安婦」に対して日本軍が犯した性奴隷あるいはその他の人権侵害に対するすべての訴えは、効果的かつ独立、公正に捜査され、加害者は訴追され、そして有罪判決がでれば処罰すること。
(ii) 被害者とその家族の司法へのアクセスおよび完全な被害回復。
(iii) 入手可能なすべての証拠の開示。
(iv) 教科書への十分な記述を含む、この問題に関する生徒・学生と一般市民の教育。
(v) 公での謝罪を表明することおよび締約国の責任の公的認知。
(vi) 被害者を侮辱あるいは事件を否定するすべての試みへの非難。
以上の文脈で語られる「強制」に関して、ことさらに狭く定義しておいて「強制性を否定する」論法に惑わされてはならない。軍の管理のもとにおかれた女性たちが、戦地で「自由」であったはずはない。吉田証言の類の「慰安婦狩り」の事実があろうとなかろうと「強制」は自明であろう。
とりわけ自ら慰安婦として軍に強制されたと名乗り出た人々の証言は重い。それが法廷でのことであればなおさらのことである。本年3月に高文研から出版された、「法廷で裁かれる日本の戦争責任」は、その集大成として貴重な資料となっている。
同書は、「従軍慰安婦」、強制連行、空襲、原爆、沖縄戦などの日本の戦争責任を巡る50件の訴訟について、各担当弁護士が解説したものである。
第?章 「従軍慰安婦」は、以下の8本の解説記事。
※韓国人従軍「慰安婦」訴訟を振り返って
※関釜朝鮮人「従軍慰安婦」・女子挺身隊公式謝罪訴訟
※フィリピン日本軍「性奴隷」裁判
※オランダ及びイギリス等連合国の捕虜・民間拘留者(「慰安婦」を含む)損害賠償訴訟
※台湾人元「従軍慰安婦」訴訟
※中国人元「慰安婦」訴訟と山西省性暴力被害者訴訟
※中国人「慰安婦」第二次訴訟 最高裁判決と今後の闘い
※中国人「慰安婦」訴訟・海南島事件
多くの外国人女性が、日本軍にどのように人格も人権も蹂躙されたかが具体的に描かれている。
膨大な証言が積み上がっての「日本の戦争責任」なのだ。吉田証言があろうとなかろうと。
(2014年9月4日)
1941年は、旧体制が日中戦争の泥沼から抜け出せないままに、破滅に向けて米・英・蘭への宣戦を布告した年として記憶される年。
既に前年10月主要諸政党は解散して大政翼賛会に吸収されていた。国家総動員法が国民生活を締めつけている中で、この年は1月8日観兵式における陸相東条英機の戦陣訓示達であけた。未曾有の規模の重慶爆撃の凶事があり、仏領インドシナへの進攻があり、治安維持法の大改悪と国防保安法の制定があり、4度の御前会議で対英米戦開戦が決せられて、東条内閣がその引き金を引いた。
注目すべきは、この年の5月、究極の戦時態勢下に文部省が「国民礼法」を制定していることである。併せて同時期に、実質的に文部省による「国民学校児童用礼法要項」「〈文部省制定〉昭和の国民礼法」「昭和国民礼法要項」「礼法要項〈要義〉」などの解説本が刊行されている。体制の「国民礼法」へのこのこだわりかたはいったい何なのだろうか。
早川タダノリという、戦時国民生活の研究者(ずいぶん若い方のようだ。文章は分かり易く、新鮮な視点から教えられることが多い)が次のように書いている。
昭和16(1941)年に「国民礼法」が制定されたのは、特定の階級のマナーを全国民に「強制的同質化」しようとした試みであるように思われてならない(委員会の座長は徳川義親だったしね)。「国民礼法」に付された文部省の序文では、次のように書かれている。
礼法は実は道徳の現実に履修されるものであり、古今を通じ我が国民生活の規範として、全ての教養の基礎となり、小にしては身を修め、家を齋へ、大にしては国民の団結を強固にし、国家の平和を保つ道である。宜しく礼法を実践して国民生活を厳粛安固たらしめ、上下の秩序を保持し、以て国体の精華を発揮し、無窮の皇運を扶翼し奉るべきである。(『国民学校児童用 礼法要項』昭和十六年)
――結論をはっきり言ってくれているから、付け加えることもないほどである。
「昭和国民礼法要項」(1941年5月発行)の目次は、次のとおりだという(ある方のブログから引用させていただく)。
前編及び注釈
第一章 姿勢
第二章 最敬礼
第三章 拝礼
第四章 敬礼・挨拶
第五章 言葉使い
第六章 起居
第七章 受渡し
第八章 包結び
第九章 服制
後編
皇室に関する礼法
第一章 皇室に対し奉る心得
第二章 拝謁
第三章 御先導
第四章 行幸啓の節の敬礼
第五章 神社参拝
第六章 祝祭日
第七章 軍旗・軍艦旗・国旗・国歌・万歳
家庭生活に関する礼法
第八章 居常
第九章 屋内
第十章 服装
第十一章 食事
第十二章 訪問
第十三章 応接・接待
第十四章 通信
第十五章 紹介
第十六章 慶弔
第十七章 招待
社会生活に関する礼法
第十八章 近隣
第十九章 公衆の場所
第二十章 公共物
第二十一章 道路・公園
第二十二章 交通・旅行
第二十三章 集会・会議
第二十四章 会食
第一節 席次
第二節 和食の場合
第三節 洋食の場合
第四節 支那食の場合
第五節 茶菓の場合
第二十五章 競技
第二十六章 雜
「第七章 軍旗・軍艦旗・国旗・国歌・万歳」だけ、内容を紹介しておきたい。
一、 軍旗、軍艦旗に対しては敬礼を行う。
二、 国旗は常に尊重し、その取り扱いを丁重にする。汚損したり、地に落としたりしてはならない。
三、 国旗は祝祭日その他、公の意味ある場合にのみ掲揚し、私事には掲揚しない。特別の場合の外、夜間には掲揚しない。
四、 国旗はその尊厳を保つに足るべき場所に、なるべく高く掲揚する。門口には単旗を本体とし右側(外から向かって左)に掲揚する。二旗を掲げる場合は、左右に並列する。室内では旗竿を用いないで、上座の壁面に掲げてもよい。
五、 外国の国旗と共に掲揚する場合は、我が国旗を右(外から見て左)とする。旗竿を交叉する場合、我が国旗の旗竿を前にし、その本を左方(門外から見て右)とする。二カ国以上の国旗と共に掲揚する場合は我が国旗を中央とする。
六、 旗布の上端は旗竿の頭に達せしめ、竿頭に球などのある場合は、これに密接せしめる。
七、 団体で国旗の掲揚を行う場合は、旗竿に面して整列し、国旗を掲揚し終わるまで、これに注目して敬意を表す。国旗を下ろす場合もこれに準ずる。
八、 弔意を表すために国旗を掲げる場合は、旗竿の上部に、旗布に接して黒色の布片をつける。球はこれを黒布で覆う。また竿頭からおよそ旗竿の半ばに、もしくはおよそ旗布の縦幅だけ下げて弔意を表すこともある。
九、 国歌を歌うときは、姿勢を正し、真心から寶祚の無窮(皇位の永遠)を寿ぎ奉る。国歌を聴くときは、前と同様に謹厳な態度をとる。
十、 外国の国旗および国歌に対しても敬意を表する。
十一、 天皇陛下の万歳を奉唱するには、その場合における適当な人の発声により、左の例に従って三唱する。
天皇陛下万歳 唱和(万歳)万歳 唱和(万歳)万歳 唱和(万歳)
十二、 万歳奉唱にあたっては、姿勢を正して脱帽し両手を高く上げて、力強く発声、唱和する。最も厳粛なる場合は、全然手を上げないこともある。
【注意】
一、 国旗は他の旗と共に同じ旗竿に掲揚しない。
二、 国旗を他の旗と並べて掲揚するときは、常に最上位に置く。
三、 外国の元首またはその名代の奉迎等、もしくは特に外国に敬意を表すべき場合に限り、その国の国旗を右(外から見て左)とする。
四、 行事のために国旗を掲揚した場合は、その行事が終われば下ろすがよい。
五、 皇族・王(公)族の万歳を唱え奉る場合、もしくは大日本帝国万歳を唱えるときは三唱とする。外国の元首もしくは国家に対する場合もこれに準ずる。その他はすべて一唱とする。ただし、幾回か繰り返してもよい。
六、 万歳唱和後は、拍手・談笑など喧騒にわたることにないようにする。
七、 万歳唱和をもって祝われた人は、謹んでこれを受ける。
八、 万国旗を装飾に用いてはならない。
今にして思えば、この「煩瑣でがんじがらめの礼法(ないし儀礼)の強制」こそが国民生活や国民意識のレベルでの戦争の準備であった。
国家自らが、「身を修め、家を齋へ、国民の団結を強固にし、戦勝による強国の平和を保つ道」と「礼法」を位置づけている。「宜しく礼法を実践して国民生活を厳粛安固たらしめ、上下の秩序を保持し、以て国体の精華を発揮し、無窮の皇運を扶翼し奉るべき」と、臣民に対する外形的儀礼行為の強制を通じて、その内心の「体制的秩序維持、天皇制への無条件忠誠」の精神性を教化(刷り込み)しようとしているのだ。
国旗国歌への敬意表明を強制する、今の都教委や大阪府教委の姿勢のルーツがここにある。1941年を繰り返してはならない。この夏に、深くそう思う。
(2014年8月26日)
「8月ジャーナリズム」という言葉を耳にする。「8月限りの際物」という揶揄したニュアンスがある。それでも8月いっぱいは、戦争を回顧し戦争の悲惨を思い起す報道を期待したい。そのことを通じて、ふたたび戦争を繰り返さない誓いが、この国の再生の原点であったことを思い起こそう。危険な政治家によって、その原点に揺らぎが見えるこの夏においてはなおさらである。
赤旗が、「2014年夏 黙ってはいられない」という連載をしている。益川敏英、山極寿一といった著名人が、常ならぬこの夏を語るという企画。昨日(8月24日)は、山田洋次さんが登場した。その中に印象に残る一節がある。
ぼくは旧満州で戦前の軍国主義の教育をシャワーのように浴びながら育った世代です。あの頃の日本人は中国、朝鮮の人たちに恐ろしいような差別意識を持っていた、中国の兵隊が殺されるのは当たり前だし朝鮮の娘さんが慰安婦になっていることは小学生のぼくまでが知っていて、それを当たり前のことのように考えていた。あの恥ずべき差別意識は、資料では残されていないし残しようもないけど、それがあの戦争の根底にあったことを、戦争は他民族に対する憎しみや差別視というおぞましい国民感情をあおり立てることから始まることを、ナチスのユダヤ人排斥の例を引くまでもなくぼくの世代は身にしみて知っているのです。差別され迫害された側の記憶はいつまでも消えないということを、戦後生まれの日本の政治家はよく考えなければいけない。
相手国や国民を、憎み、侮蔑し、差別する感情がなければ戦争はできない。また、そのような差別意識の醸成は、戦争の徴候であり周到に仕組まれた準備でもありうる。
「右翼」の鈴木邦男氏が、今年の8月15日の靖国神社の光景を次のように描写している(要約)。
地下鉄九段下駅を降りて、靖国神社まで…道の両側に、ビッチリと「店」が並んでいる。食べ物やみやげ物を売ってる店ではない。いわば、「思想」を売っている店だ。いや、自分たちの「主張」を売っている店だ。「中国・韓国は許せない。10倍返しだ!」「歴史教科書はおかしい。変えろ!」「全ては憲法のせいだ! 改正しよう! 署名をお願いします」…と。
ギョッとする光景に出会った。女性が声を張り上げて、朝日新聞を攻撃していた。慰安婦問題で嘘ばかり書いている朝日は廃刊にすべきだ、と。「朝日は、そんなに日本が憎いのですか!」と。…「南京大虐殺はなかった」「従軍慰安婦はなかった」…と、エスカレートする。「戦争中に虐殺したり、レイプしたりする兵隊は1人もいなかった。ましてや慰安所などなかった」。そして、こう言ったのだ、「日本兵は世界で一番、道徳的な兵隊です!」
改憲の動きがあるし、集団的自衛権もあるし、ヘイトスピーチデモもある。書店に行くと、反韓・反中の排外的な本ばかりが並んでいる。「国のためなら戦え!」「中国・韓国なんか、やっちまえ!」
何ともやりきれない光景である。安倍政権誕生以来の光景に見えるが、このような光景を生む土壌が安倍政権を誕生させたのか。かなりやばい、この夏の風景。
しかし、このような動き一色でない。昨日(8月24日)の毎日朝刊に、ホッとするような、励まされるような投書を見つけた。
「すばらしい憲法9条大切に」という表題。投書者は山口県岩国市の60代の主婦。お名前の「詩代」にふさわしい文章。
7月29日の本欄に「憲法9条は一国では持っている意味がない」という投書がありました。本当ですよね。こんなにすばらしい憲法なのですから、まわりの国にも「戦争をしない国」の信念を伝えて、日本と同じ憲法9条を持ってもらうように努力しましょう。日本しか持っていないから役に立たないなんていわないで、頑張りましょう。
抑止力というのは、自分の方が上だという上から目線の見方で、相手は良い気はしません。こちらがこれだけ力があると見せれば、相手はまだ上を目指します。そして日本は、またその上の抑止力を考えなければいけません。
きりのない抑止力競争より、周囲の国を戦争をしない国に巻き込んでいくことの方が資金もかかりません。近隣国と話し合いをし、仲良くしていきませんか?
安倍首相お願いします。
私は、子供も孫も戦争には絶対に行かせません。
この短い文章で、9条の精神を余すところなく解き明かしている。
近隣諸国と話し合いをし仲良くしていこう。差別意識をもつことの恥ずかしさを確認しよう。そして、私も、「子供も孫も戦争には絶対に行かせません」と誓おう。
今年の夏、去年までとは違う風景がある。例年以上に「8月ジャーナリズム」にこだわらずにはおられない。
(2014年8月25日)
今ならまだ間に合う。
明日では遅すぎる…かも知れない。
だから、今、声を上げなければならない。
今は、そのような「前夜」ではないか。
「前夜」に続く茶色の朝、
「改憲」が実現する悪夢の日。
歴史の歯車が逆転して、
いつかきた道に迷い込み、
その行きつく先にある、
「取りもどされた日本」。
69年前、
戦争の惨禍というこの上ない代償をもって、
われわれ国民は、主権と人権と、なによりも平和を手に入れた。
それまでの大日本帝国とは断絶した、
新しい原理に拠って立つ新生日本国を誕生させた。
「前夜」とは、
その新生日本国の原理が蹂躙される「恐るべき明日」の前夜。
邪悪な力による逆行した時代到来の前夜。
断絶し封印されたはずの過去が、新たなかたちでよみがえるその日の前夜。
訣別したはずの過去において、
主権は天皇にあった。
天皇は神として神聖であり、
天皇の命令は絶対とされた。
君と国とが主人であり、
この地に生きるものは「臣民」であった。
臣民には、恵深い君から思し召しの権利が与えられ、
臣民はそのかたじけなさに随喜した。
国が目指すは富国強兵。
強兵こそが富国の手段で、
富国こそがさらなる強兵を可能とする。
「自存自衛」、「帝国の生命線防衛」の名の下、
侵略戦争と植民地の拡大が国策とされた。
そのための国民皆兵が当然とされた。
学校と軍隊が、国家主義・軍国主義を臣民に叩き込んだ。
国定教科書が、統治の対象としての臣民に、服従の道徳を説いた。
排外主義と近隣諸国民にたいする優越意識が涵養された。
男女平等はなく、家の制度が国家的秩序のモデルとされた。
このような理不尽な国家を支えた法体系の一端は、
大日本帝国憲法
刑法(大逆罪・不敬罪・姦通罪)
陸軍刑法
海軍刑法
徴兵令
讒謗律1875(明治8)年
集会条例1880(明治13)年
新聞紙条例1875(明治8)年
保安条例1887 (明治20年)
集会及政社法1890(明治23)年
出版法1893(明治26)年
軍機保護法1899(明治32)年
治安警察法1900(明治33)年
行政執行法1900(明治33)年
新聞紙法1909(明治42)年
治安維持法1925(大正14)年
暴力行為等処罰法1926(大正15)年
治安維持法改正1928(昭和3)年
軍機保護法全面改正1937(昭和12)年
国家総動員法1938(昭和13)年
軍用資源秘密保護法1939(昭和14年)
国家総動員法改正1941(昭和16)年
国防保安法1941(昭和16)年
治安維持法改正1941(昭和16)年
言論、出版、集会、結社等臨時取締法1941(昭和16)年
戦時刑事特別法1941(昭和16)年
議会制の終焉を告げる大政翼賛会の結成は
1940年(昭和15年)10月。
その後1年余で、太平洋戦争が勃発した。
今、歴史の歯車の逆回転を意識せずにはおられない。
日本国憲法が払拭したはずの旧体制の残滓が復活しつつあるのではないか。
自民党は、憲法改正草案を公表した(2012年4月)。
この草案自体が既に悪夢だ。
立憲主義を崩壊させ、日本を天皇をいただく国にし、
堂々の国防軍をつくろうという。
そして、「表現の自由」圧殺を公言するもの。
特定秘密保護法とは、
「国民には国家が許容する情報だけを知らせておけば足りる」
という思想をかたちにしたもの。
国民が最も知らねばならないことを、知ってはならないと阻むもの。
国民の知る権利の蹂躙は、民主々義の根幹を破壊すること。
そして、議会制民主々義を形だけのものとすること。
衆参両院の議員は、この悪法の成立に手を貸したのだ。
さらに、だ。
2014年7月1日集団的自衛権行使容認の閣議決定。
憲法の平和主義は後退を余儀なくされてはいるが、
専守防衛の一線で踏みとどまっている。
今、自衛隊が外国で闘うことはできない。
これを突破しようというのが、集団的自衛権行使容認。
防衛大綱は見直され、海兵隊能力が新設される。敵基地攻撃能力にまで言及されている。「軍国日本を取り戻す」まで、あと一歩ではないか。
法律だけでは、戦争はできない。
他国民への憎悪をかきたてなければならない。
それには、教育とメデイアの統制が不可欠なのだ。
大学の自治も教育の自由も邪魔だ。
権力の煽動に従順な国民が必要で、権威主義の蔓延こそ権力の望むところ。
排外主義を撒き散らすヘイトスピーチ大歓迎なのだ。
「憲法を守ろう」という声には、
「政治的」というレッテルを貼って萎縮させることも。
着々と、再びの悪夢の準備が進行しつつある。
いまこそ、あらゆるところで、声を上げよう。
その「恐ろしい明日」を拒絶するために、
今なら間に合う。声を上げられる。
明日では手遅れ、になりかねないのだから。
(2014年8月16日)
毎日新聞「万能川柳」の先月(7月)の投句は、葉書の数で1万2000通を超えているという。葉書1枚に5句の投句が可能だから、句数を計算すれば4?5万になるのだろう。その中で、たった一句の月間大賞受賞作が本日の朝刊に発表されている。それが、17日に秀逸句として掲載された次の句。
世界中わが憲法と同じなら(水戸拷問)
「短詩故の豊かな余韻が味わいふかい」と言われてしまえば反論のしようもないが、この曖昧な5・7・5のあと、どう続くのか気になってしかたがない。作者に聞いてみたいところ。
A「世界中の国の憲法がわが日本国憲法と同じなら、どこの国の軍隊もなくなる。世界に軍隊がなくなればどこにも戦争は起こらない。平和な世界が実現する」
おそらく作者はそう言いたいにちがいない。そのような立ち場から、「世界に憲法9条を」「憲法9条を輸出しよう」「世界遺産として9条を登録しよう」などというという運動が広まりつつある。
しかし、句の読み方が一つだけとは限らない。安倍首相なら、こう解釈するだろう。
B「世界中の国の憲法がわが日本国憲法と同じなら平和な世界が実現するでしょう。でも現実にはちがうのだからしょうがない。どこの国にも軍隊はある。だから日本だけが軍隊をもたないわけにはいかない」と。
「右翼の軍国主義者」も、「戦争が好き」「平和は嫌い」とは言わない。「平和を守るために敵に備えよ」「平和が大切だから戦争の準備を怠るな」「より望ましい平和のための戦争を恐れるな」というのだ。国境を接する両国がこのような姿勢でいる限り、お互いを刺激し合い、戦争の危険を増大し合うことになる。そして、ある日危険水域を越えて戦争が始まるのだ。
Aは、世界を説得しても軍隊をなくして平和を築こうとする立ち場。
Bは、世界を説得するなど夢物語。軍事力をもたねば不安とする立ち場。
最近、7月1日以後は、もっと別の読み方もできよう。
C「世界中の国の憲法がわが日本国憲法と同じであろうとなかろうと、どこの国の軍隊もなくならない。もちろん戦争もなくならない。だって、憲法に指一本触れずに政府が解釈を変えてしまえば、どんな軍隊も持てるし、世界中どんなところでも戦争ができるのだから」
7月1日閣議決定を受けて7月17日に、選者がこの句をその日の秀逸句とし、さらに月間大賞を与えたとしたら、辛口にCのような解釈をとっているのかも知れない。これはブラックユーモアの世界。
集団的自衛権行使容認の閣議決定は、憲法の存在感を著しく稀薄化した。憲法になんと書いてあろうとも、「最高責任者である私の解釈次第でどうにでもなる」と言われたのだ。「9条にどう書かれていようとも、日本は自衛を超えて戦争ができるようになりました」ということなのだ。
立憲主義を貫徹し平和主義を確立してはじめて、「世界中わが憲法と同じなら」は平和を希求する句(Aの読み方)となる。古典的安倍流(B)でも、ニューバージョン安倍流(C)でも、平和の句とは無縁なのだ。
(2014年8月12日)
8月は、6日9日15日。
誰が言い始めたかは知らない。これで立派な句となっている。
今日は、その8月6日。特別な日である。人類にとっても、日本にとっても、そして私個人にとっても。私は、広島で爆心地近くの小学校一年生となった。まだ、街の方々に瓦礫の山があったころのこと。原爆ドームもそのうちの一つだった。
私は終戦時には2才。直接には戦争も軍国主義の空気も知らない。父と母から語られたものが戦争と旧社会の記憶である。父は幸いに一度の戦闘参加もなく、ソ満国境から帰還している。その軍隊経験の伝承には苛酷で悲惨な色彩が薄かった。下士官だった父は、楽しげな思い出として軍隊生活を語ることすらあった。これに比して、内地で銃後にあった母の苦労の話が私の戦争の原イメージをかたちづくっている。「戦争はいやだ」「あんな思いは金輪際繰り返したくない」という、日本中にあふれていた共通の思い。
私が生まれた盛岡の中心部にもB29の空襲はあった。しかし、その規模は他の都市と比べれば微々たるものだった。それでも母は、ハシカの私を負ぶって空襲警報の鳴る度に防空壕に避難したことを度々語った。なによりも母の義弟が戦争末期の招集でサイパンで戦死している。母の妹は、子どもを抱えた寡婦として戦後を生き抜いた。私の胸の内に、この叔母と同年代の従兄のことが、むごい戦争の癒しようのない疵痕として刻み込まれている。
穏やかな地方都市盛岡にも、戦後は戦争の爪痕が残り、人々の暮らしにも戦争が深く影響していたはずだ。しかし、父と母とに守られた幼い私には分からないことだった。広島で初めて、小学生の私が否応なく視覚的に戦争の痕跡と向かいあったことになる。
69年前の一発の爆弾が、人類史に与えた影響は計り知れない。人類は、自らを亡ぼす手段を手に入れたのだ。人類は、自らの手に負えない危険な代物を作り出してしまった。この人類と共存しえない絶対悪を、この世から廃絶しなければならない。この願いこそ、絶対の正義だ。子どものころから、そう思い続けて来た。私の感覚では、私の身の回りはすべて戦争の被害者であった。被害者の視点で、徴兵も空襲も被爆も見てきた。
そしてやや長じて、広島が軍都であることを知った。広島も、小倉(8月9日原爆攻撃の第一目標都市)も、軍都であるが故に原爆投下候補地として選定されていることは否めない。戦前の広島には陸軍の施設が集中し、軍需工業として重工業も発達した。都市全体に軍事的な性格が強かった。被侵略国の人々が広島に落とされた「新型爆弾」の威力に拍手をしたことも聞いた。
戦争は、一面的な被害の文脈だけでは語れない。悲しいことに、日本は加害国であった。私の父も母も戦没した伯父も、消極的にもせよ侵略戦争を起こした側にいた。被侵略側から見れば侵略の加担者である。少なくとも積極的に戦争に反対をすることはなかった。広島の被爆被害でさえ、軍都であったことからの責任なしとしないのだ。
「過ちは繰り返しません」というフレーズは限りなく重い。今再びの戦前を思わせる時代の空気の中で、愚かな為政者による戦争の危険をきっぱりと断たねばならない。なによりも今、憲法をないがしろにする集団的自衛権行使容認の解釈改憲が大きな問題である。これに反対の声を挙げることなく見過ごすことは、「過ちを繰り返して、戦争や被爆のリスクを再び背負う」ことにつながる。
8月6日、今日は、20万のヒロシマの死者に思いをいたし、あらためて安倍政権の集団的自衛権行使容認に反対の意思を表明する日としなければならない。人権も民主主義も、そして平和も、為政者の暴走を許すところから崩れていく。
本日、被爆7団体の代表が安倍首相と面談し、集団的自衛権の行使を容認した7月1日閣議決定の撤回を申し入れた。7団体は首相宛の要望書の冒頭で「政府は憲法の精神を消し去ろうとしている」と非難。面談では、「(閣議決定は、)殺し殺され、戦争の出来る国にするものだ。失われるものがあまりに大きい」との意見が出たという。
時宜を得た、まことに的確な行動ではないか。被爆者の声は、20万の死者を代理してのものだ。臆するところなく、遠慮をすることもなく、ズバリとものを言わざるを得ないのだ。その声は、安倍の耳に届いただろうか。胸の底まで響いたであろうか。骨身に沁みただろうか。
(2014年8月6日)
集団的自衛権の行使を容認した7月1日閣議決定への批判の嵐は収まりそうにない。
「政府が右と言えば左とは言えない」NHKは特殊な例外として、あらゆる方面から、これまでにない規模とかたちの批判が噴出している。なかでも、三重県松坂市の若い市長による閣議決定の無効確認集団提訴運動の呼び掛けはとりわけ異彩を放っている。
7月1日の閣議決定を受けて、松阪市の山中光茂市長は、同月17日には提訴のための市民団体「ピースウイング」を設立し、自らその代表者となった。今後、全国の自治体首長や議員、一般市民に参加を呼び掛け、集団的自衛権をめぐる問題に関する勉強会やシンポジウムを開くなど提訴に向けた準備を進める予定と報じられている。大きな成果を期待したい。
伝えられている記者会見での市長発言が素晴らしい。「愚かな為政者が戦争できる論理を打ち出したことで幸せが壊される。国民全体で幸せを守っていかなければならない」というのだ。素晴らしいとは、安倍首相を「愚かな為政者」と評した点ではない。そんなことは国民誰もが知っている。「国民の幸せを壊されないように守って行かなければならない」と呼び掛けていることが素晴らしいのだ。
言葉を補えば、「集団的自衛権行使容認の閣議決定によって、このままでは国民の幸せが壊されることになりかねない。そうさせないように、国民全体で国民一人一人の幸せを守っていかなければならない。そのために提訴をしよう」という認識が語られ、具体的な行動提起がなされている。
おっしゃるとおりなのだ。国民は幸せに暮らす憲法上の権利を有している。とりわけ戦争のない平和のうちに生きる権利を持っている。
このことを憲法前文は、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と宣言している。しかも、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…この憲法を確定する」とも言っている。この2文をつなげて理解すれば、「為政者によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意してこの憲法はできている。だから、安倍のごとき愚かな為政者が憲法をないがしろにしようとするときは、一人一人の国民が平和のうちに生存する権利を行使することができる」ことになる。これが、平和的生存権という思想である。
憲法は、人権を中心に組み立てられている。憲法上の制度は、人権を擁護するためのツールと言ってよい。信仰の自由という人権を擁護するために政教分離という制度がある。学問・教育の自由という人権を擁護するために大学の自治という制度がある。言論の自由に奉仕する制度として検閲の禁止が定められている。
これと軌を一にして、平和的生存権を全うするために憲法9条がある。戦争を放棄し戦力を保持しないことで国民一人一人の平和に生きる権利を保障しているのだ。憲法9条の存在が平和的生存権を導いたのではなく、平和的生存権まずありきで、平和的生存権を全うするための憲法9条と考えるべきなのである。
平和的生存権を単なる学問上の概念に留めおいてはならない。これを、一人前の訴訟上の具体的な権利として育てて行かなくてはならない。その権利の主体(国民個人)、客体(国)、内実(具体的権利内容)を、度重ねての提訴によって、少しずつ堅固なものとしていかなければならない。
私は、平和的生存権の効果として、具体的な予防・差止請求、侵害排除請求、被害回復請求をなしうるものと考えている。そして、そのことは裁判所の実効力ある判決を求めうる権利でなくてはならない。
この平和的生存権は、松坂市長が提唱する閣議決定違憲確認訴訟(いわば「9条裁判」)成立の鍵である。これなくして、抽象的に「閣議決定の違憲確認請求訴訟」は成立し得ない。
最も古い前例を思い起こそう。1950年警察予備隊ができたときのこと、多くの人がこの違憲の「戦力」を司法に訴えて断罪することを考えた。この人たちを代表するかたちで、当時の社会党党首であった鈴木茂三郎が原告になって、最高裁に直接違憲判断を求めた。有名な、警察予備隊違憲訴訟である。
その請求の趣旨は、「昭和26(1951)年4月1日以降被告がなした警察予備隊の設置並びに維持に関する一切の行為の無効であることを確認する」というもの。これが、違憲確認訴訟の元祖である。
最高裁は前例のないこの訴訟を大法廷で審理して、全員一致で訴えを不適法と判断して却下した。ここで確立した考え方は、次のようなもの。「日本の司法権の構造は、具体的な権利侵害をはなれて抽象的に法令の違憲性を求めることはできない。具体的な権利侵害があったときに、権利侵害を受けた者だけが、権利侵害の回復に必要な限りで裁判を申し立てる権利がある」ということ。
この確定した判例の立ち場からは、「7月1日閣議決定が憲法9条に違反する内容をもつ」と言うだけでは違憲確認の判決を求める訴訟は適法になしえない。誰が裁判を起こしても、「不適法・却下」となる。
そこで、平和的生存権の出番となる。国民一人一人が平和的生存権を持っている。誰もが、愚かな政府の戦争政策を拒絶して、平和のうちに生きる権利を持っている。この権利あればこそ、人を殺すことを強制されることもなければ、殺される恐怖を味わうこともないのだ。
父と母とは、わが子を徴兵させない権利を持っている。教育者は、再び生徒を戦場に送らせない権利を持つ。宗教者は、一切の戦争加担行為を忌避する権利を持つ。医師は、平和のうちに患者を治療する権利を持つ。農漁民も労働者も、平和のうちに働く権利を持ち、戦争のために働くことを拒否する権利を持つ。自衛隊員だって、戦争で人を殺し、あるいは殺されることの強制から免れる権利を持っているのだ。
その権利が侵害されれば、その侵害された権利回復のための裁判が可能となる。侵害の態様に応じて、請求の内容もバリエーションを持つ。戦争を招くような国の一切の行為を予防し、国の戦争政策を差し止め、戦争推進政策として実施された施策を原状に復する。つまりは、国に対して具体的な作為不作為を求める訴訟上の権利となる。その侵害に、精神的慰謝料も請求できることになる。これあればこその違憲確認請求訴訟であり国家賠償請求訴訟なのだ。
もとより、裁判所のハードルが高いことは覚悟の上、それでもチャレンジすることに大きな意味がある。訴訟に多くの原告の参加を得ること、とりわけ首長や議員や保守系良識派の人々を結集することの運動上のメリットは極めて大きい。そうなれば、裁判所での論戦において、裁判所は真剣に耳を傾けてくれるだろう。平和的生存権の訴訟上の権利としての確立に、一歩、あるいは半歩の前進がなかろうはずはない。
困難な訴訟だと訳け知り顔に批判するだけでは何も生まれない。若い市長の挑戦に拍手を送って暖かく見守りたい。
(2014年8月5日)
蝉時雨と、近所の公園のラジオ体操の大音響で目を覚ました。2014年の夏、今日から8月。1945年から数えて69回目の8月である。
8月で連想する言葉は、広島、長崎、ポツダム宣言、そして敗戦、戦争の惨禍。さらに戦争責任と歴史認識等々である。
8月こそは、戦争と平和、そして憲法を熱く語るべき季節。1か月前の7月1日、安倍内閣は集団的自衛権行使容認の閣議決定に踏み切った。平和に危うさが見える今年の8月であればこそ、なおさらである。
加えて、個人的には『DHCスラップ訴訟』の事実上の第1回口頭弁論が8月20日午前10時半に開かれることが大事件。ここから本格的な論戦が始まる。
この8月、当ブログは「平和」と「表現の自由」。この両テーマを焦点として書き続けることになる。
**********************************************************************
ところで、ブルース・アッカーマン(エール大学教授、法学・政治科学)の安倍政権解釈改憲批判が話題を呼んでいる。このことを最初に耳にしたのは、「戦争をさせない1000人委員会」集会での樋口陽一さんの発言だった。不勉強で、その名は初耳だった。いま、ハフィントンポストのサイトで、同教授意見の邦訳を読むことができる。抜粋すれば以下のとおり。
「日本では、集団的自衛権の解釈がさらに深刻な悪影響を及ぼしつつある。安倍晋三首相は復古主義的なナショナリストで、自ら総裁を務める与党・自民党に対し、戦後の日本国憲法が連合軍の占領政策によって不当に押しつけられたものと貶めるキャンペーンを主導している。
安倍首相の最初の標的は憲法9条で、彼は当初、憲法で定められた国民投票を実施して9条を破棄しようと模索した。この戦略が世論と国会から大きな反発を受けると、安倍首相は方針を転換し、憲法改正を伴わない手段によって同じ成果を得ようとしている。
7月1日、安倍首相は閣議決定で憲法を「解釈変更」し、憲法が「永久に」放棄するとしてきた「武力による威嚇又は武力の行使」を認めると発表した。これは半世紀にわたる憲法解釈を覆したものだ。
こうした動きは、1960年以来の大規模な抗議運動を引き起こし、世論調査でも反対が急激に増えた。これを受けて、日本政府は9月に予定していた関連法案の審議を先送りし、より時間をかけて議論することを約束した。
もし安倍首相の目論見が成功すれば、彼の急進的な解釈改憲は、自民党が憲法改正案で掲げる、日本国憲法が保障する民主政治の基本原理、そして社会的権利を打破する先例となる。安倍首相が政治生命を賭けているとも言えるこの大博打に対し、今後数カ月は現代日本史上で最も重要な議論が展開されるだろう。」
アッカーマン氏のいうこと、いちいちもっともでそのとおりだ。このたびの安倍解釈改憲が成功するとなれば、平和の問題だけではなく、「日本国憲法が保障する民主政治の基本原理、そして社会的権利を打破する先例となる」との指摘は重い。
「今後数カ月は現代日本史上で最も重要な議論が展開されるだろう」とアメリカの識者は見ている。7月1日閣議決定に沿ったかたちで、専守防衛を超えて自衛隊を海外での戦争に使える具体的立法を許すのか、それを阻止して7月1日閣議決定を死文化させることに成功するか。そのことを、「今後数カ月における、現代日本史上で最も重要な議論の展開」と言っているのだ。
私たちは、渦中にあって、安倍政権と厳しく対峙し、安倍壊憲の動きにストップをかけなければならない。今年の8月は、とりわけ熱くなりそうだ。
(2014年8月1日)
本日は「九・一八」。中国では「国恥の日」とされる。1931年9月18日深夜、審陽(当時「奉天」)近郊の柳条湖村で南満州鉄道爆破事件が起き、続いて日本軍が動いた。これが「満州事変」のきっかけとなり、15年戦争のきっかけともなった。
何年か前、事件の現場を訪れた。事件を記念する歴史博物館の構造が、日めくりカレンダーをかたどったもの。そのカレンダーの日付が「九・一八」となっており、「勿忘国恥」と書き添えられていた。侵略された側が「国恥」という。侵略した側は、この日をさらに深刻な「恥ずべき日」として記憶しなければならない。
柳条湖事件は関東軍自作自演の周到な謀略であった。関東軍は、鉄道爆破の直後に「張学良を中心とした中国側の攻撃が行われた」として本格的な戦闘を開始し、直ちに奉天の兵営を攻略した。そして、この日の鉄道爆破が関東軍の謀略であることは、日本の国民には終戦まで知らされなかった。いわば、最高の国家秘密であり続けたのだ。リットン調査団の報告は、政治的な思惑からこの点必ずしも明確にされていない。
この秘密を知った者が、「実は、あの奉天の鉄道爆破は、関東軍の高級参謀の仕業だ。板垣征四郎、石原莞爾らが事前の周到な計画のもと、張学良軍の仕業と見せかける工作をして実行した」と漏らせば、間違いなく死刑とされたろう。軍機保護法や国防保安法、そして陸軍刑法はそのような役割を果たした。安倍内閣のたくらむ「特定秘密保護法」は、同様の国家秘密保護の役割を期待されている。
この事件は、中央政府からみて関東軍の独走であり暴走であった。事件を知った奉天総領事館側は、その日のうちに事件首謀者の板垣征四郎をいさめようとしたが、「統帥権に容喙する者は容赦しない」と、抜刀しての威嚇を受けたと伝えられている。これこそ、国防軍というものの正体とみなければならない。また、天皇の権威はこのような形で利用された。中央政府は事変不拡大の方針を決めたが、現地軍の暴走を止めることができなかった。
その背景に、熱狂した国民の支持があった。「満蒙は日本の生命線」「暴支膺懲」のスローガンは既に人心をとらえていた。「中国になめられるな」「軟弱な外交が怪しからん」「満州も中国も日本の手に」「これで景気が上向く」というのが圧倒的な「世論」だった。
軍部が国民を煽り、煽られた国民が政府の弱腰を非難する。そして、真実の報道と冷静な評論が禁圧される。巨大な負のスパイラルが、1945年の敗戦まで続くことになる。
さて、翻って今。国防軍創設の提案、天皇元首化の動き、日の丸・君が代の強制、秘密保護法の制定、ナショナリズム復活の兆し、ヘイトスピーチの横行、朝鮮や中国への敵視策…、1930年代と似ていると言えば似ている。そう言えば、関東軍参謀長であった東條英機の時代に官僚として満州経営の衝にあたったのが岸信介。その岸を尊敬するという孫が首相になっているのも、不気味な暗合である。
隣国との友好を深めよう。過剰なナショナリズムの抑制に努めよう。今ある表現の自由を大切にしよう。まともな政党政治を取り戻そう。冷静に理性を研ぎ澄まし、安倍や石原や橋下などの煽動を警戒しよう。そして、くれぐれもあの時代を再び繰り返さないように、力を合わせよう。
(2013年9月18日)