澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「五黄の寅の元日生れ」であった、私の父。

(2022年1月1日)
 2022年、「五黄の寅」年の元日である。私の父・澤藤盛祐(1914年1月1日生?1997年8月16日没)のことを語りたい。父は、「五黄の寅の元日生れ」である。

 「五黄の寅」も「元日生れ」も誇るべきほどのことでもなさそうだが、父は「だから、自分は最も強い運気に恵まれている」と言っていた。もっとも、その生涯は必ずしも運気に恵まれたものではなかったようだ。

 元号でいえば大正3年の生まれ。父は、その時代の空気の中で、「お国のために」真面目に生きようとした庶民の一人であった。「大正生まれの歌」というものがある。小林朗 作詞・大野正雄 作曲でレコードも出ているそうだが、おそらくは多くの替え歌バージョンがあるのだろう。いくつか目に留まった歌詞が下記のとおりで、なんともうら悲しい世代の歌である。「五黄の寅」よりは、こちらの方が父にピッタリのように思えてならない。いかにも運気隆盛ではない。

 ☆大正生まれの俺達は
  明治の親父に育てられ
  忠君愛国そのままに
  お国の為に働いて
  みんなの為に死んでゆきゃ
  日本男子の本懐と
  覚悟は決めていた なぁお前

 ☆大正生まれの青春は
  すべて戦争(いくさ)のただ中で
  戦い毎の尖兵は みな大正の俺達だ
  終戦迎えたその時は 西に東に駆けまわり
  苦しかったぞ なぁお前

 ☆大正生まれの俺達は
  明治と昭和にはさまれて
  いくさに征って 損をして
  敗けて帰れば 職もなく
  軍国主義者と指さされ
  日本男児の男泣き
  腹が立ったぜ なあお前

 ☆大正生まれの俺達は
  祖国の復興なしとげて
  やっと平和な鐘の音
  今じゃ世界の日本と
  胸を張ったら 後輩が
  大正生まれは 用済みと
  バカにしてるぜ なあお前

 父は岩手県黒沢尻(現北上市)の生まれ。小学校6年を飛び級し旧制黒沢尻中学を受験して合格、同校の第2期生となっている。子どもの頃は秀才だったのだろう。卒業後は上級学校への進学を望んだが生家が零落して希望は叶わず、「株屋」に就職している。その樺太支店に勤務し、支店長も務めたというが、勤務先の株屋が破産。どうも「運気」旺盛とはいいがたい。

 その後、中学時代の教師の伝手で盛岡市役所に職を得、商工会議所設立の準備をするが、召集令状が届いてこれも中断する。

 父が残したメモによると陸軍に応召が2度、海軍にも徴用されている。
  第1回招集 3年7か月
  帰郷     10か月
  海軍徴用    9か月
  第2回招集 1年3か月

 第1回の招集は1939年5月のこと。弘前の聯隊からソ満国境の愛琿(アイグン)の守備隊に配属された。地平線から昇る満州の仲秋の名月を2度見ている。除隊になってから長子である私が生まれたが、その直後に横須賀海軍工廠造兵部に徴用されている。そして、第2回の招集で横須賀から弘前に直行して青森の小さな部落で終戦を迎えたようだ。

 これも父のメモである。「軍隊生活とは」とされており、「戦争とは何であったか」という問にはなっていない。
 「軍隊生活とは、私にとってなんであったろうか。
  まったく聖戦だと思っていたし、
  実弾の下をくぐったこともなく、
  白刃をふるったこともなく、
  演習につぐ演習。
  辛くはあったが、軍隊を地獄と思ったことはない。
 身体を鍛えてもらっただけでも、
 私は恵まれた星の下において頂けたのだと思う。」

 父は実戦の惨劇に遭遇することはなく、現地の人々に危害を加えることも加えられることもなく、郷土部隊の中で居心地悪からぬ軍隊生活を送ったようなのだ。兵から軍曹になり、最後は曹長になった父の軍隊内の地位も影響しているのだろう。

 生年月日で決まった父の運気は、戦争には駆り出されたが戦闘を経験することはなく生き延び、戦後は穏やかに過ごすことに費やされたのかも知れない。

 戦後父は、思うところあって、宗教団体「PL教団」の布教師となり、生涯を教団に捧げた。晩年、「教えと出会えたことが人生最大の幸運」「教えに人生を捧げたことに一点の悔いもない」と言っていた。

 父は自らの意思で教団に飛び込んだが、私は宿命として教団の中で育った。教団が経営する私立高校を卒業後、教団を離れて自立し上京して進学したいという私の希望を父は、受け入れた。

 進学先は、国立大学しか考えられなかったが、それでも清貧を余儀なくされている父の経済状態では仕送りなどは望むべくもなかった。私は、高校在学中に幾つかの奨学金受給の申請をし合格した。そのとき、学校からの手続への協力が必要だったが、必ずしも学校(教団)は協力的ではなかった。籠から鳥が飛び立つことを歓迎しなかったのだ。

 そのとき、父は敢然と学校に抗議をしてくれた。おそらく、父のたった一度の教団への反抗であったろう。私は、そのお蔭で大学に進学し、奨学金とアルバイトで学生生活を送った。仕送りを受けたことはないが、父には感謝している。

 あのとき父は多くを語らなかったが、進学を断たれた自分の無念の思いを反芻していたのだろう。「五黄の寅の元日生れ」の運気は、長男の私には御利益をもたらしたのだ。

 遺された子どもたちも高齢になった。今年こそは生前の父の追悼歌集を作ろうと企画している。もとは次弟の明が発案し、資料を集めて選歌もし版組までの作業をしていたのだが、昨夏急逝した。替わって末弟の盛光が編集をしている。

 その盛光の提案で、歌集の題名は「草笛」となった。歌集の冒頭に掲載の第一句からの命名である。
 
  校庭の桜の若き葉をつまみ草笛吹きし少年のころ

 中学生であった父は、校庭で草笛を吹きながら自分の将来やこの社会の行く末をどのように考えていたのだろうか。

批判されない権力は間違う。批判を許さない権力は間違いを修正できない。

(2021年12月9日)
 昨日の当ブログの記事「1941年12月8日、このときの過ちを繰り返さないために」を読み直すと不満足と言うしかない。本日はその補訂である。

 不満足は、なによりも「繰り返してはならない12月8日の過ち」のなんたるかが十分に語られていないことにある。いったい、あの時点において、どんな過ちがあっただろうか。

 天皇(裕仁)や東條らも、開戦後間もなく戦況が悪化した後は「取り返しのつかない過ち」を反省したに違いない。その反省は、「負ける戦を仕掛けた過ち」以上のものではない。「もっと慎重に時期を選び、もっと十分に準備をして、勝てる戦争をすべきだった」という反省なのだ。天皇(裕仁)は御前会議で、くりかえし「勝てるか」「本当に勝てるか」と軍部に念を押してゴーサインを出している。最高指導者の「過ち」と「反省」は、負けたことに尽きるのだ。決して、「戦争を仕掛けたことの過ち」でも、「平和を維持できなかった過ち」でもない。

 責任の所在と軽重は、常に権限の所在と軽重に対応している。厖大な内外の死者を出した悲惨な戦争の責任は、まず開戦の権限をもつ天皇(裕仁)にあり、次いでこれを補弼する任にあった内閣や軍部にも分有されていた。天皇(裕仁)を除く補弼の責任者は、戦後文明の名において裁かれその責任を生命をもって償った。ひとり、最高責任者である天皇(裕仁)のみが、まったく責任をとらなかった。

 いかなる戦争も、おびただしい無辜の人々にこの上ない不幸をもたらす。我々は戦後、戦争そのものを悪とする非戦の思想をわがものにし、これを日本国憲法に刻んだ。この視点から、太平洋戦争を開始した指導者たちの責任を厳しく追及しなければならない。日清・日露も韓国併合も日中戦争も、決して繰り返してはならないのだ。

 戦争責任の所在とは別に、12月8日の開戦に対する国民の意識や意見にどのような教訓があるだろうか。

 人の意見は、基本的にはその人のもつ思想の表れだが、その人のもつ情報によって大きく左右される。12月8日の国民の意見は、開戦後の戦況見通しの基礎となる情報をもっているかいないかで決定的に異なることになった。

 近衛文麿、松岡洋右らが「えらいことになった」「僕は悲惨な敗北を予感する」「僕は死んでも死にきれない」などと語ったというのは、しかるべき情報をもち、戦争の結果を予想し得たからであろう。南原繁の「人間の常識を超え学識を超えておこれり 日本世界と戦ふ」という下手な歌のごときものは嘆息とも感激とも読めなくはないが、いずれにせよこの開戦は「常識ではあり得ぬもの」と認識していたのだ。ある程度の情報はあったのだろう。そして、将来を見る能力も。

 他の多くの国民や作家たちは、判断の基礎となる情報をもたない。日本と米国との国力差、工業力差、兵力差、総合的な軍事力の格差、そして教育水準や、国民の戦意等々についての基礎情報を持たぬまま、日本型ナショナリズムの高揚に流されていた。

 小林秀雄が日本型ナショナリズムの高揚に流された典型だろう。開戦の詔勅を聞いて<眼頭は熱し、畏多い事ながら、比類のない美しさを感じた><海軍の戦果を「名人の至藝」とたたえた>という。知性あるように見える人も、ここまで洗脳されるのだ。

 市井の人々の中に、「英米を敵にまわして勝てるわけがない」と言った多くの人がいたことも記録されている。十分な情報はなくとも、真実を見ようという思想を持っていた人の真っ直ぐな目と意見である。

 そして最後が、十分な情報を持ちながら、間違った選択をした、最も愚かで責任の大きな一群。当然にその筆頭に天皇(裕仁)がいる。しかし、当時天皇(裕仁)とその官僚への批判は許されなかった。それが負け続け、被害を拡大しつつなお、戦争をやめることができない原因となった。

 権力は間違う。批判を許さぬ権力は大きく間違う。国民からの権力批判だけが間違いを修正しうるが、権力批判は封じられていた。12月8日に噛みしめるべき教訓である。

1941年12月8日、このときの過ちを繰り返さないために。

(2021年12月8日)
 他の日ならぬ12月8日である。80年前のこの日に、我が国は後戻りのできない亡国への急傾斜を滑り始めた。行き着く先のどん底が1945年8月15日、この日に日本は一度亡びたのだ。市街地に繰り返された大空襲、沖縄の悲惨な地上戦、2度にわたる原爆の投下…。完膚なきまでの敗戦に、国民生活は惨状を極めた。この亡国をもたらした責任者の筆頭は天皇・裕仁であり、これに東京裁判で裁かれた東條英機以下のA級戦犯が続く。

 もしかすると、亡国へ滑り始めた日はもう少し前の37年7月7日(盧溝橋事件)か、31年9月18日(柳条湖事件)であったかも知れない。あるいは1910年8月29日(日韓併合)。しかし、12月8日の国民的衝撃はこれまでに経験したことのないものだった。明らかに、全国民の運命に直接関わる総力戦の覚悟が求められた日である。この日の日本人は、いったい何を考え、これからどうなる、これから何をなすべきと考えたのだろうか。

 10年前の2011年11月30日付「毎日新聞」に「太平洋戦争:日米開戦から70年 運命の12・8 作家らはどう記したか」という、記事がある。棚部秀行、栗原俊雄両記者の労作。「当時の小説やエッセーをひもとくと、開戦賛美一辺倒の世間のムードが伝わってくる」というトーン。内容の一部を引用させていただく。

伊藤整 「いよいよ始まった」と高揚感吐露

 作家の伊藤整(05〜69)は真珠湾攻撃のニュースを聞き、夕刊を買うため新宿へ出かけた。混雑したバスの中で<「いよいよ始まりましたね」と言いたくてむずむずするが、自分だけ興奮しているような気がして黙っている>と、高揚感を吐露している。そして<我々は白人の第一級者と戦う外、世界一流人の自覚に立てない宿命を持っている>と記した(『太平洋戦争日記(一)』)。

高村光太郎 「時代は区切られた」

 また詩人の高村光太郎(1883〜1956)はこの日、大政翼賛会中央協力会議に出席していた。エッセー「十二月八日の記」に<世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた>と、開戦の感激を書き留めている。

太宰治 「けさから、ちがう日本」

 太宰治(09〜48)には、「十二月八日」という短編小説(『婦人公論』42年2月号)がある。「作家の妻」という女性の一人称で、開戦の日の興奮と感動を描いた。早朝、主人公は布団の中で女児に授乳しながら、ラジオから流れる開戦のニュースを聞く。<しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。(中略)日本も、けさから、ちがう日本になったのだ>

竹内好 「うしろめたさ払拭された」

 37年に始まった日中戦争は、国民の間で不人気だった。戦争目的がよく分からないまま100万人に及ぶ兵士が動員され、死傷者と遺族が増えていったからだ。中国文学者・評論家の竹内好(10〜77)は真珠湾攻撃直後の日記で<支那事変に何か気まずい、うしろめたい気持ちがあったのも今度は払拭された>とし、新たに始まった戦争を<民族解放の戦争に導くのが我々の責務である>と記した(12月11日)。日本人は12月8日の開戦によって、アジアを欧米の植民地支配から解放するという大義名分を得たのだ。

小林秀雄 「晴れ晴れとした爽快さ」

 評論家の小林秀雄(02〜83)は開戦の日、文芸春秋社で「宣戦詔勅」奉読放送を直立して聞いた。<眼頭は熱し、心は静かであった。畏(おそれ)多い事ながら、僕は拝聴していて、比類のない美しさを感じた>。さらに海軍の戦果を「名人の至藝」とたたえた(『現地報告』42年1月)。

 多くの文筆家が開戦に快哉を叫んだ。作家の坂口安吾(06〜55)も、報道に感激している。また、民衆も開戦を支持。日本は、中国との戦争やアメリカによる経済制裁などによる重圧感にあえいでいた。当時11歳だった作家の半藤一利さんは、開戦によって<晴れ晴れとした爽快さのなかに、ほとんどの日本人はあった>(『〔真珠湾〕の日』)と振り返る。

 もちろん、開戦を歓迎した人ばかりではない。本日(12月8日)の毎日新聞・余録には、次の記事がある。

当時、米映画の配給会社にいた淀川長治は号外を見て、「『しまった』という直感が頭のなかを走り、日本は負けると思った」と回想している▲名高いのは後に東大学長となる南原繁が開戦の報に詠んだ歌、「人間の常識を超え学識を超えておこれり 日本世界と戦ふ」である。
 では「えらいことになった、僕は悲惨な敗北を予感する」と沈痛な表情を浮かべたのは誰だろうか▲2カ月前に日米交渉を打開できぬまま辞任した前首相、近衛文麿だった。それより前に南部仏印進駐で米国を対日石油禁輸に踏み切らせて対米戦争への扉を開き、前年に米国に敵視と受けとられた日独伊三国同盟を締結した人である▲開戦日には、その三国同盟を「一生の不覚」と嘆いた人もいた。同盟の立役者で締結当時の外相、松岡洋右である。米国の参戦を防ぐつもりが「事ことごとく志とちがい、僕は死んでも死にきれない」。腹心に語り、落涙したという。

 余録は、こう結んでいる。「緒戦の大勝に熱狂する世論、米映画通が予感した敗戦、知や合理性を超えた政府決定にあぜんとする学者、そして戦争への道を開いた当事者らの暗鬱な予言…。学ぶべき教訓は尽きない開戦80年である。」

 今振り返って、後知恵で当時の人の考えを評価するのは僭越に過ぎるとの批判はもっともなこと。しかし、教訓とすべきは、人は案外賢くないのだということ。天皇(裕仁)や東條などの戦犯ばかりではなく、日本の知性と言われた人もである。小林秀雄などはその典型だろう。国を滅ぼす出来事の前で、やたらに高揚するばかりで、冷静さを欠いている。

 80年前、天皇制政府は大きく国策を誤って国を滅ぼした。その過ちを繰り返さないためには、可能な限りに情報を共有し、可能な限りの衆知を集約することである。つまりは、民主主義を徹底することだ。それでも、過ちをなくすることはできないかも知れない。しかし、広範な国民に批判の自由が保障されていれば、常に過ちを修正することが可能となる。民主主義こそは、大きな過ちを防止するための知恵と言うべきだろう。国家にとっても、政党やその他の諸組織にとっても。

国家は、戦死を美化する。国民の戦意を高揚するために。

(2021年12月7日)
 明日が12月8日。旧日本軍の真珠湾奇襲から80周年となる。「奇襲」とは、要するに「不意打ち」であり、「だまし討ち」ということである。現地時間では1941年12月7日、日曜日の朝を狙った卑怯千万の宣戦布告なき違法な殺傷と破壊。その「奇襲」成功の報に野蛮な日本が沸いた。このとき殺戮された米国人は2400人に及ぶが、その報復は310万の日本人の死をもたらした。

 「奇襲」は、常に隠密裡に行われる。臣民たちは政府の対米英蘭開戦の意図を知らなかった。天皇の軍と政府は、国民に秘匿して大規模なテロ行為を準備していたのだ。国民に情報主権なき時代の恐るべき悲劇であった。

 毎日新聞が、昨日(12月6日)から「あの日真珠湾で」と題して関係者に取材した大型特集の連載を始めた。6日と7日の記事は、真珠湾攻撃で犠牲になった特殊潜航艇(「甲標的」と呼ばれる)乗組員の遺族を取材したもの。

 「甲標的」は5隻、乗員は10名だった。戦死が確認された搭乗員9名は「九軍神」と称揚された。大本営は、潜航艇が戦艦アリゾナを撃沈する大戦果をあげたと発表。実際にはアリゾナの轟沈は飛行隊によるものだったが、飛行隊には戦死した特殊潜航艇乗員を軍神として宣伝するため手柄を譲るように求められたという。

 戦死とは、国家が国民に強いた死である。国家はその犠牲を美化しなければならない。美化の最高の形式が神として祀ることであった。その美化は、戦意高揚のプロパガンダにもつながる。そのためには、戦死者の「功績」が必要である。雄々しく闘い「不滅の偉勲」あっての死として飾られなければならない。そのように盛りつけることで、死者は「軍神」となり「護国の神」ともなる。

 昨日(6日)の毎日新聞記事は、開戦早々に捕虜第1号となり生存した酒巻和男を取りあげている。言わば、「軍神になり損ねた男」のその後である。本日(7日)は、「軍神とされた男」の話。同じ艇の同乗者として戦死し「九軍神」の一人となった稲垣清の遺族に取材した記事。「むなしい『軍神』の名」「母『なんで片方だけ』何度も」という見出しが付いている。

 「村を挙げて大変な葬儀を開いてもらったようです」。稲垣清さんのおいの清一さん(72)が、新聞記事が出た42年に営まれた葬儀の様子を収めた写真を手に話した。写真には僧侶を先頭に、20代でこの世を去った清さんの遺影を持った男性らが列をなして歩き、道端の人が深々と頭を下げる様子が写る。清さんの生家前の通りは「稲垣通り」と呼ばれるようになり、生家を知らせる立て札もできた。葬儀後も、「軍神参り」に訪れる人の姿は絶えなかったという。
 遠方からも清さんを賛美する手紙が届き、清さんの生家があった場所で暮らす清一さんが今も保管している。ある手紙には、色鮮やかな軍艦や戦闘機の絵とともに「大東亜戦争勃発のあの日の感激、ラジオの声に一心に聞き入った僕等一億国民の胸は高なるばかり」などとつづられていた。」

 しかし、遺族がどんな気持ちで戦死の知らせを受けたのか、今語ることのできる人はいない。ただ、清一さんは次のように話している。

 終戦から10年ほどたったある日、清さんと同じ潜航艇に乗り込み米軍の捕虜になった酒巻和男さん(99年に81歳で死去)が墓参りに訪ねてきたことがあった。ほとんど会話もなく酒巻さんが家を去った後、清さんの母は「なんで片方だけ」と漏らした。「生きて帰った酒巻さんを見て、息子を兵隊にしたのを後悔したのではないか。その言葉は、その後も何度となく聞きました」という。

 息子の死を悲しみ兵隊にしたのを後悔したのが、「軍神の母」の本心であったろう。「戦死した軍神の母」よりは、「生きて帰った捕虜の母」でありたいと願うのが、母の心情というものではないか。

 「『軍神の家』にされて、いいことなんてなかった」「当時を思い出すとつらい、苦しい」「戦時中、戦死や特攻が名誉とされた。でも、結局は戦争の駒とされたのも事実」などと、他の軍神遺族の言葉が紹介されている。

 戦死の美化は、80年経過した今に続く。昨日(12月6日)、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が、集団参拝した。コロナ禍に妨げられて、2年2か月ぶりだという。参拝したのは衆院議員68人、参院議員31人の計99人。参拝後、尾辻会長は「国難に殉じていかれたご英霊に、コロナという国難に見舞われております日本をしっかりと守ってくださいとお願いをしながらご参拝をさせていただいた」と述べた旨報じられている。

 この「靖国派議員99人」の頭の中は、9人の戦死者を「軍神」に祀り上げたあの時代の軍部や政府とまったく同じなのだ。まず戦死を美化しなければならないとの思いが先行する。「軍神」の替わりに用いられる言葉は「英霊」である。戦死者を「英霊(すぐれたみたま)」とするのは、侵略戦争を聖戦とする立場からのみ可能となる。のみならず、首相や議員の参拝は、国威発揚、戦意高揚の手段とされている。

 彼らはこういう信仰をもっている。「靖国神社には国難に殉じたご英霊」が祀られており、「ご英霊には、国難に見舞われている日本をしっかりと守る」神としての霊力が備わっている。今、目の前にある国難はコロナである。しかし、国難はさまざまといわねばならない。かつて、鬼畜とされた米英も、膺懲すべき暴支も不逞な鮮人も、すべて国難の元兇とされた。

 そして、軍国神社靖国の240万柱の神々は、「次に戦争する相手国」に打ち勝つ加護をもたらす霊力をもっており、靖国神社参拝はその神の力の確認と祈願の機会なのだ。

 12月8日、あらためて平和を誓わねばならない。

戦時中の国民学校は、「死のみちを説きし学舎」だった。

(2021年10月11日)
「南日本新聞」は鹿児島県の地方紙。発行部数は25万部を超えるそうだ。九州の地方紙としては西日本新聞に次ぐ規模だという。そのデジタル版の昨日(10月10 日)11:03の記事を知人から紹介された。おそらくは、本日の朝刊記事になっているのだろう。

https://373news.com/_news/photo.php?storyid=144583&mediaid=1&topicid=299&page=1

タイトルが長文である。「教室で直された兵隊さんへの手紙。『元気にお帰りを』が『立派な死に方を』に。国民を死へ誘導した教育。今思えば『洗脳』としか言いようがない〈証言 語り継ぐ戦争〉」というもの。

内容は、87才女性の戦時の学校生活を回想した貴重な証言。「兵隊さんに、立派な死に方を」といえば靖国問題だ。教育や靖国や戦争に関心を持つ者にとっては見過ごせない記事。このような戦争体験を語り継ぐ努力をしている地方紙に敬意を表したい。

証言者は、霧島市隼人町の小野郁子さん(87)。「戦争中の学校教育を『死ぬための教育だった』と振り返る」と記事にある。

最初に、今年戦後76年目の夏に詠んだという、この人の2句が紹介されている。
 「少年の日の夢何処(いずこ)敗戦忌」
 「死のみちを説きし学舎(まなびや)敗戦忌」

「死のみちを説きし学舎」という言い回しに、ドキリとさせられる。

以下、記事の引用である。
「43年4月、家族で(鹿児島県内)牧園町の安楽に引っ越した。中津川国民学校に転校。4年生だった。
 44年からは町内の全ての国民学校に軍隊が配置され、教室が宿舎になった。中津川には北海道部隊と運搬用の馬、「農兵隊」という小学校を卒業したくらいの少年の一団がやって来た。九州に敵が上陸する時に備えた戦力の位置づけだった、と戦後になって聞いた。
 当時、私たちの一日は次のように始まった。ご真影と教育勅語を安置する奉安殿前に整列。まず皇居の方角に、次に奉安殿に向かって最敬礼。その後、校長先生が「靖国神社に祭られるような死に方をしよう」といった話をした。似たような言葉を、日に3度は聞いた。
 授業らしい授業はほとんど無くなっていたが、教室でみんなと戦地の兵隊さんに手紙を書いた日のことをよく覚えている。
 「国のためにいっしょうけんめい戦って、元気でお帰りください」という文を「天皇陛下のために勇ましく戦って、靖国神社に祭られるようなりっぱな死にかたをしてください。会いに行きます」と書き直すよう指導された。どんな死に方か分からなかったが、言われるがまま書き直した。今思えば「洗脳」としか言いようがない。

 国民を死へと誘導した教育の中心に、靖国神社があったのは事実だ。平和の実現のために選ばれたはずの政治家が靖国神社に参拝する姿を見ると、「もっと歴史を知ってほしい」と憤りを感じる。

 授業の代わりに割り当てられていたのが、食料増産のための開墾や、戦死者や出征の留守宅の奉仕作業だった。真夏のアワ畑の雑草取りのきつさは言葉にできない。

 農作業中に敵のグラマンに襲われたことが記憶するだけで3回ある。44年の夏が最初だった。犬飼滝の上にある和気神社右手の学校実習地で、サツマイモ畑の草取りをしていた。午前10時ごろ、見張り役の児童が「敵機襲来」と叫んだ。顔を上げると、犬飼滝の東の空にグラマン1機が見えた。

 機銃掃射が繰り返され、私は畑の脇の小さな杉の根元に頭を突っ込んで、ただただ震えていた。近くの旧国道を通り掛かった女性が即死し、はらわたが飛び散った。その道は、後に高校の通学路に。血の跡が残るシラス土手の脇を通るたび胸が痛くなった。

 軍歌を歌わなくてよくなり、自由に好きな絵が描けるようになった時、改めて戦争が終わったと実感した。」

 特殊な立場にある人の特殊な体験ではない。おそらくは、当時日本中の国民学校の学校生活がこうだったのだろう。「死のみちを説きし学舎」だったのだ。

 「生きろ」「生きぬけ」「生きて帰れ」という呼びかけは、人間としての真っ当な気持の発露である。が、10才の国民学校4年生に教えられたことは、「国家のために死ね」「天皇のために勇ましく戦って、靖国神社に祭られるようなりっぱな死にかたを」という、「死のみち」であった。

 国民を死へと誘導した教育の中心に、天皇があり靖国神社があった。恐るべきことに、「今思えば「洗脳」としか言いようがない教育」が半ば以上は成功していた。「天皇のために死ぬことが立派なことだ」と本気で思っていた国民が少なからずいたのだ。天皇も靖国も、敗戦とともに本来はなくなって当然の存在だったが、生き延びた。そして、さらに恐るべきことは、あの深刻な洗脳の後遺症が、いまだに完全には払拭されていないことなのだ。 

「満州事変」勃発の日に、噛みしめる平和。

(2021年9月18日)
 私が生まれたころ、日本は長い長い戦争をしていた。いま「15年戦争」と呼ばれるその戦争の始まりが、ちょうど90年前の今日。
 
 1931年9月18日午後10時20分、関東軍南満州鉄道警備隊は、奉天(現審陽)近郊の柳条湖で自ら鉄道線路を爆破し、それを中国軍によるものとして、至近の張学良軍の拠点である北大営を襲撃した。皇軍得意の謀略であり、不意打ちでもある。この事件が、1945年8月15日敗戦までの足かけ15年に及んだ日中戦争のきっかけとなった。

 関東軍自作自演の「柳条湖事件」は、満州での兵力行使の口実をつくるため、石原莞爾、板垣征四郎ら関東軍幹部が仕組んだもので、関東軍に加えて林銑十郎率いる朝鮮軍の越境進撃もあり、たちまち全満州に軍事行動が拡大した。日本政府は当初不拡大方針を決めたが、のちに関東軍による既成事実を追認した。こうして、事件は、満州事変となり、翌32年3月には傀儡国家「満州国」の建国が強行される。

 一方、中華民国政府はこの事件を9月19日国際連盟に報告し、21日には正式に提訴して理事会に事実関係の調査を求めた。連盟理事会は、「国際連盟日支紛争調査委員会」(通称リットン調査団)を設置し、同調査団は32年10月最終報告書を連盟に提出し、世界に公表する。翌33年3月28日、国際連盟総会は同報告書を基本に、日本軍に占領地から南満州鉄道付近までの撤退を勧告した。勧告決議が42対1(日本)で可決されると、日本は国際連盟を脱退し、以後国際的孤立化を深めることになる。こうして、国際世論に耳を貸すことなく、日本は本格的な「満州国」の植民地支配を開始した。

 いったん収束した満州事変は、宣戦布告ないままの日中全面戦争に拡大し、さらに戦線の膠着を打破するためとして太平洋戦争に突入して、軍国日本が敗戦によって壊滅する。その長い長い戦争のきっかけとなった日が、今日「9・18」である。

 もう、何年前になるだろうか、柳条湖事件の現場を訪れたことがある。事件を記念する歴史博物館の建物の構造が、日めくりカレンダーをかたどったものになっており、「九・一八」の日付の巨大な日めくりに、「勿忘国恥」(国恥を忘れるな)と刻まれていた。侵略された側が「国恥」という。侵略した側は、この日をさらに深刻な「恥ずべき日」として記憶しなければならない。

 「9・18」を、中国語で発音すると、「チュー・イーパー」となる。何とも悲しげな響き。その博物館で、「チュー・イーパー」という歌を聴いた。もの悲しい曲調に聞こえた。中国の国歌は、抗日戦争のさなかに作られた「義勇軍進行曲」。作詞田漢、作曲聶耳として名高く、「起来!起来!起来!」(チライ・チライ・チライ=立ち上がれ)と繰り返される勇猛な曲。「チュー・イーパー」の曲は、およそ正反対のメロディだった。

 柳条湖事件は、石原・板垣ら関東軍幹部の自作自演の周到な謀略であった。国民の目の届かぬところで戦争のシナリオを作り、実行したのだ。が、留意すべきは満州侵略を熱狂的に支持する「民意」があればこその「成功」であった。世論は、幣原喜重郎外相の軟弱外交非難の一色となった。「満蒙は日本の生命線」「暴支膺懲」のスローガンは、当時既に人心をとらえていた。「中国になめられるな」「満州の権益を日本の手に」「これで景気が上向く」という圧倒的な世論。真実の報道と冷静な評論が禁圧されるなかで、軍部が国民を煽り、煽られた国民が政府の弱腰を非難する。そのような、巨大な負のスパイラルが、1945年の敗戦まで続くことになる。

 学ばねばならないことは、軍という組織の危険な本質であり、国家機関が国民の目の届かぬところで暴走する危険であり、煽動される民意が必ずしも肯定されるべきではないということであり、国際世論に耳を傾けることのない孤立の危険…等々である。

 90年前の教訓は今にどれだけ生かされているだろうか。民主主義は、常に危うい。自由も、平和もである。

「対テロ戦争20年」はいったい何だったのか。

(2021年9月11日)
 9・11の衝撃から、今日でちょうど20年。あの同時多発テロ事件とは何だったのか。そして、「対テロ戦争」とは。単純にまとめ切れないが、「平和新聞」(9月5日号)の特集記事に、9・11に引き続くアフガン戦争に限定してのことではあるが、宮田律(現代イスラム研究センター理事長)と、谷山博史(日本国際ホランティアセンター(JVC)顧問)という著名な二人が解説している。この意見に賛意を表しつつ、以下の示唆に富む解説を引用する。

 宮田律は、現地の混乱の温床を「貧困」とし、人々は貧困ゆえに戦っているととらえて、米英流の「対テロ戦争」では、事態を解決しえないことを説く。

 アフガニスタン南部のカンダハルを訪れた時、政府軍兵士の若者とタリバン兵の若者が仲良くしている場面に出くわしました。
 その若者たちは、その時の形勢や給料の多寡を見ながら、政府軍に入るかタリバンに入るかを決めているようでした。彼らは生活のために戦っていました。

 ペシャワル会の中村哲さんも言っていましたが、普通に仕事をして食べられるようになれば、若者たちは命まで懸けて戦う必要はなくなります。だから中村さんは、用水路を掘って農業ができるようにしようとしたのです。
 「テロとの戦い」は、そもそも武力でテロをなくするという発想自体が間違いでした。米国も途中から武力だけでは駄目だと気付いて復興支援にも力を入れるようになりましたが、空爆などで破壊を続けながらの復興支援では成果を上げることはできませんでした。
 支援の中身も、一方的にモノやカネをばら撒くだけで、中村さんのように住民の目線に立った支援ではありませんでした。

 米国はアフガニスタン政府にも莫大な復興資金を注ぎ込みましたか、その多くは旧政権の高官たちの懐に消え、アフガニスタンの人々の貧困を改善することができませんでした。それが、米国が失敗した最大の要因と思います。

 では米軍が撤退したアフガニスタンの混沌たる事態に、これからどう対処すべきか。谷山博史が、具体的なエピソードを挙げつつ、こう語っている。

 タリバンを「極悪非道な連中」と決めつけて対話の扉を閉ざすことは、かえってタリバン政権を強硬な路線に追いやることになりかねません。国際社会も、早くタリバンと交渉のチャンネルを作って、対話を始るべきです。
 それを仲介できる立場にいるのが、日本です。タリバンは、日本を他の欧米諸国とは違うと見ています。
 なぜなら、主要諸国の中で日本だけがアフガニスタン本土に軍隊を派遣せず、一人のタリバン兵もアフガニスタンの市民も殺していないからです。
 そういう日本が国際社会とタリバンとの対話をリードしていくことは、軍事一辺倒の安全保障とは違う道があるということを改めて確認する意味があると思います。

 まったくその通りだと思う。人々の生活の安定と平和とは緊密に結びついた課題となっている。テロの温床である貧困をなくすことが平和への第一歩であって、対テロ戦争と称して、武力での制圧を図ることは、貧困と貧困ゆえの戦闘員を再生産して、負のスパイラルに陥ることになる。アフガニスタンの20年は、その実証に費やされた。

 反射的に、9・11同時多発テロへの報復として米国が始めた戦争は、結局は世界中にテロを拡散し、人々の米国への憎悪を再生産した。米国はアフガニスタンを混乱させただけで、軍を完全撤退させた。「対テロ戦争」の手痛い失敗をさらけ出したのだ。武力でテロを制圧することはできない。テロに走らざるを得ない現地の土壌を改善する以外に方法はない。

 国民の経済的安定が平和主義の土台でもあるということ。日本国憲法に則っての表現をすれば、25条の実効化が9条遵守につながることになる。多大の犠牲を払って得たこの貴重な教訓である。国の内・外に活かしたい。

22年間頓挫していた「東京都平和祈念館」建設に光明

(2021年8月19日)
 現代の日本は、先の大戦における敗戦の惨禍の中から生まれた。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすること」こそが国是である。この「戦争の惨禍」「敗戦の惨禍」を繰り返し記憶し承継することによって平和を守ろうとする勢力と、「戦争の惨禍の強調よりは戦前の栄光をこそ」という大国化を求める守旧勢力との角逐が連綿として続いている。

 その角逐を象徴するものの一つが、「東京都平和記念館」構想である。東京都は、かつて都民の戦争被害の情報センターとして、都立の「平和祈念館」設立を構想し、その準備に着手している。展示予定の相当の戦争遺品を収集し、300本余の貴重な証言ビデオも作成した。だが、その構想は立ち消えとなり、いま貴重な戦争遺品は倉庫に眠ったままなのだ。

 この「東京都平和記念館」構想と受難の経過は、美濃部都政から、鈴木・青島都政を経て、石原都政を成立させた政治状況の変化を反映するものである。だが、本日の毎日新聞の記事によると、この構想が再度日の目を見る希望が出てきているという。先の都議選の結果によってである。

 東京都がこの構想を頓挫させて以来、市民運動がこれを受継している。「東京都平和祈念館(仮称)」建設をすすめる会(柴田桂馬代表)である。会のホームページに経過が略述されている。

 「東京都は、(美濃部都政のもとで)有馬頼義さん、早乙女勝元さんや松浦総三さん、橋本代志子さんなど「東京空襲を記録する会」が調査・編集した「東京大空襲・戦災誌」(1973年3月10日)の発行を支援しました。
 さらに都は、「東京空襲資料館」建設の運動や非核東京都宣言実現を求める運動の広がりの中で、(鈴木都政のもとで)3月10日を「東京都平和の日」とする条例を公布・施行(1990年7月)、その後毎年この「平和の日」には記念式典・行事を開催しています。
 1992年6月には都知事のもとに「東京都平和記念館基本構想懇談会」を発足させ、1993年7月には同懇談会が都知事に報告、…「平和記念館」の基本的な性格としては、次のようなことを挙げています
 1、東京空襲の犠牲者を悼み、都民の戦争体験を継承すること。
 2、平和を学び、考えること。
 3、21世紀にむけた東京の平和のシンボルとすること。
 4、平和に関する情報のセンターとすること。
 そしてこの「平和祈念館(仮称)」建設に賛同し、期待した広範な都民からは、5000点にのぼる資料が寄せられました。
 ところが、かつて日本がすすめた戦争を「アジア解放の戦争だった」などとする一部極右の都議と、それに迎合した石原都政になってから、東京都は都議会各会派代表や有識者が名を連ねる「平和の日」記念行事企画検討委員会をいっさい開催せず、「東京都平和祈念館(仮称)」建設のための努力を一切放棄し、都民から集めた資料はほとんど倉庫にしまい込んだままにするというように、都民の願いに逆行する、まったく無責任な都政をすすめてきたのです。」

 施設の趣旨に賛同する都民らから、多くの関係資料が寄贈されている。 展示品の目玉とされたのが被災した330名のビデオ証言記録であり、先の大戦でこれほどの多数の戦争体験者の証言を集めた資料は国内には他にない。証言者の中には歌手の並木路子もいるという。都は現在も、これらの資料を非公開扱いとし、目黒区の都施設に保管したままである。広島平和記念資料館が、資料のネット公開など、多岐にわたり活用されているのとは対照的であるとされる。石原都政下で、「祈念館建設」が暗礁に乗り上げて、以来22年である。

 その状況の打開に光明が見えるという本日の毎日新聞(東京・地方版)の記事。「祈念館建設、都議会で議論を」「議席を得た会派の3割『前向き』」「市民団体『働きかけ、力入れる』」という内容。以下、林田七恵記者の報告による。

 毎日がまとめた経過は、以下のとおり。

「1945年3月の大空襲では約10万人が亡くなったとされ、90年代に祈念館建設が持ち上がった。都は遺品など資料5040点や空襲体験者330人の証言ビデオを収集。しかし展示内容や歴史認識を巡って都議会各会派や議員の意見が対立した。99年の関連予算案審議で「展示内容は、都議会の合意を得た上で実施する」という付帯決議が可決された後は、22年間、実質的な議論はなく計画は凍結されてきた。」

 つまりは、「都議会の合意」がキーワードだ。石原都政下では圧倒的な議席を維持した自民党が、軽々に「合意」形成に協力するはずもない。

 今年7月の都議選で会派構成が新しくなった。「建設をすすめる会」の14政党・会派へのアンケートでは、当選した127人のうち、共産党(19人)、立憲民主党(15人)、東京・生活者ネットワーク、(1人)――が建設に向け「尽力する」と答えた。また東京みらい(1人)は「資料の共有や閲覧を可能とするよう取り組むべき」とした。最大会派の自民党(33人)は「付帯決議が前提」とし、都民ファーストの会(31人)と公明党(23人)は答えなかった。ただ公明は17年都議選では同様のアンケートで建設に賛成している。

 「建設尽力」と明言する会派が議席のほぼ3割、過去に賛同した会派も含めれば45%が「前向き」になるという。さらに興味深いのは、積極的に反対という会派のないこと。過半数まではもう一歩。

 もう一歩の達成は、都民の民意次第だ。是非とも、「東京都平和祈念館」建設を実現しようではないか。 

「お父さん、教えてください。なぜ戦争に行ったのですか」

(2021年8月17日)
 一昨日(8月15日)には、政府主催の式典だけでなく、東京都と都遺族連合会共催の戦没者追悼式が都庁で開かれている。知事や遺族ら90人が参列した。

 遺族を代表して追悼の言葉を述べたのは、遺族会女性部幹事の木村百合子さん。木村さんの父は、1944年の終わりに出征。当時、妻のおなかにいた木村さんの顔を見ることなく、45年4月にフィリピン・ルソン島で戦死したという。

 木村さんは「どんなに待っても、何年待っても、父は帰ってこない。毎日父を思っています。この心境は遺族でなければ分からない。戦争に行った兵隊さんだけでなく、留守を預かった母たちも大変だったことを伝えたい」と報道陣に語っている。誰もが、共感せざるを得ない。

 その木村さんは、式では献花台の前で「安らかにお眠りください」と追悼の言葉を述べ、最後にお父さん、教えてください。なぜ戦争に行ったのですか」と問いかけた。これは悲痛な言葉だ。この問は、次のように続けることができよう。

 お父さん、なぜ母や私を残して戦争に行ったのですか。お父さんが戦争に行くことさえなければ、母にも私にも、もっと幸せな別の人生があったはず。どうして見たこともない遠い外国にまで戦争に行ったのですか。どうして戦争に行くことを拒否しなかったのですか。どうして戦争が起きたのですか。誰が、なぜ、戦争を起こしたのですか。どうして、皆で戦争を止められなかったのですか。

 その問いは、今なお生々しく、新鮮である。

 明治政府は国民の抵抗を排しつつ国民皆兵の制度を確立していった。1873年に陸軍省から発布された徴兵令を嚆矢として累次の法整備を重ね、1927年4月1日に徴兵令全文改正の形式で兵役法の制定に至っている。

 その第1条は、「帝国臣民タル男子ハ本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス」と、男子の国民皆兵制度を定めていたが、当時は例外の範囲が広かった。しかし、アジア太平洋戦争の進展とともに、徴兵免除の範囲は狭められ、兵役の年齢幅は拡げられていった。徴兵の忌避には次のとおり、同法での罰則が科せられていた。

第74条 兵役ヲ免ルル為逃亡シ若ハ潜匿シ又ハ身体ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作為シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ三年以下ノ懲役ニ処ス

第75条 現役兵トシテ入営スベキ者正当ノ事由ナク入営ノ期日ニ後レ十日ヲ過ギタルトキハ六月以下ノ禁錮ニ処シ戦時ニ在リテ五日ヲ過ギタルトキハ一年以下ノ禁錮ニ処ス

 徴兵逃れの涙ぐましい工夫や、信仰上の信念からの徴兵忌避の事例はけっして少なくはない。しかし、多くの国民にとっては、徴兵は「しかたのないこと」「とうてい抗うことのできない宿命」として受けとめられた。「世間」は、徴兵による出征を「御国のための名誉」として送り出し、戦死さえも「名誉の戦死」と褒め称えた。その同調圧力には抗すべくもなく、徴兵逃れは法的に処罰の対象とされただけでなく、社会的に「非国民」の所業と指弾されたのだ。

 維新政府は、そのような軍事国家体制を作りあげた。天皇を利用し、教育とマスコミを統制することによって。

 「しかたなかったと言うてはいかんのです」は至言である。「しかたなかった」と言わざるを得なくなる前に、国民に不幸を強いる国家を拒否しよう。再び、不幸な子が、亡き父に「お父さん、教えてください。なぜ戦争に行ったのですか」と問いかけることのないように。

兵営の父から一歳半の私に宛てた一枚のハガキ

(2021年8月16日)
 私の父・澤藤盛祐(1914年1月1日生)は2度陸軍に徴兵され、海軍には徴用されている。彼自身が生前に残したメモによるとこんな具合だ。

第1回招集 3年7か月
帰郷     10か月
海軍徴用    9か月
第2回招集 1年3か月

 第1回の招集は1939年5月のこと。弘前の聯隊からからソ満国境の愛琿の守備隊に配属されている。除隊になってから長子である私が生まれたが、その直後に横須賀海軍工廠造兵部に徴用されている。そして、第2回の招集で横須賀から弘前に直行して青森の小さな部落で終戦を迎えたようだ。

 父は、兵営から妻(私の母)に頻繁にハガキを出している。達筆でもあり、得意の絵や版画の出来はなかなかのもの。演習の兵隊や現地の風物、動植物を描いている。我が父ながら、実に器用な人なのだ。満州の様子を書いた兵士のハガキは貴重ではないだろうか。ハガキには自分で番号を付けていたようで、№188というものもあるが、残されているものは30枚にみたない。

 その中に1枚だけ、「澤藤統一郎殿」という宛名のハガキがある。「昭和20年3月7日」付のもの。差出人は、「青森縣弘前市 東部第五十七部隊本部 澤藤盛祐」となっている。「検閲済」の印があり、文面は次のとおり。

 「毎日 お父さんの写眞の前に行って おじぎをしてゐるとは愛い奴ぢゃ 余は満足に思ふぞ」

 これに、後年のメモが付されている。

 「統一郎はこの頃一歳半。その後赤羽の祖父や光子と毎日のように八幡さんや護国神社にお詣りしたとも聞いた。」

 光子は私の母である。旧姓は赤羽。その生家は盛岡の八幡神社や護国神社にほど近い。このあと、盛岡も規模は小さいながらも空襲を受けることになる。2歳に満たない子どもを抱えての銃後。「愛い奴ぢゃ 余は満足に思ふぞ」などと言ってる余裕はなかったろう。「心細かった。必死だった」と、母は繰り返して言っていた。お詣りはその心細さの表れであったろう。

 父の残した戦後のメモの中に、こんな一節がある。

「8月15日敗戦
 兵器を納め、部隊解散までには少々間があり、村人の作った濁酒を飲み、9月末に貨車に乗って盛岡に帰った。」

「軍隊生活とは、私にとってなんであったろうか。
  まったく聖戦だと思っていたし、
  実弾の下をくぐったこともなく、
  白刃をふるったこともなく、
  演習につぐ演習。
  辛くはあったが、軍隊を地獄と思ったことはない。
身体を鍛えてもらっただけでも、
私は恵まれた星の下において頂けたのだと思う。」

 「休憩時の話といえば、召集解除とおいしかった食べもののこと」などいうメモもあるが、父は実戦の惨劇に遭遇することはなく、現地の人々に危害を加えることも加えられることもなく、郷土部隊の中で居心地の悪からぬ軍隊生活を送ったようなのだ。兵から軍曹になり、最後は曹長になった父の軍隊内の地位も影響しているのだろう。

 父と母とでは、戦争に対する嫌悪の温度差が大きかった。私も弟たちも、戦争に対する反省の足りない父には大いに不満ではあった。取りわけ加害責任の意識が希薄なことを問題にはした。さりとて、父を責めることはいたしかねた。この微温的な態度が、実は国民的な規模のものであったのかも知れない。今なお、われわれはあの戦争の責任を詰め切れていないのだから。

 どの人も、どの家族も、必ずあの戦争の歴史を引きずっている。しかし、その記憶は薄れつつあり、記録は散逸しつつある。今残っているものを意識的に残しておきたい。父の兵営からのハガキなどもそれなりに何らかの形で、保存しておきたいと思う。

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