澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

弁護士会選挙結果報告ー安保関連法廃止の方針に変化はない

日弁連会長選挙は、昨日(2月5日)の投開票で、「現執行部の路線を継承する大阪弁護士会元会長の中本和洋氏(69)が、東京弁護士会の高山俊吉氏(75)を破り、次期会長に内定した」(毎日新聞)

日弁連選管の発表は以下のとおり。
選挙人数       37,374
投票総数       17,633
投票率        47.18%
中本候補有効票  12,282
高山候補有効票   4,923
白票             386
疑問票            42
中本候補獲得会      48単位会
高山候補獲得会   下記4単位会
(埼玉・千葉県・栃木県・岩手各弁護士会)

なお、その他、下記のように拮抗している単位会がある。
横浜   362対330
長野県  94対71
愛知県 266対193
岐阜県  41対33
大分県   44対30
仙台   101対62
函館    24対15

ダブルスコアでの中本候補圧勝は、両陣営の地力の差なのではあろう。とは言うものの、嫌われ者稲田朋美への政治献金話題の影響が小さかったことに意外の感を禁じ得ない。

もっとも、私にも何本かあった中本候補への投票依頼の電話は、いずれも中本候補の憲法感覚や人権擁護に関して筋を通す姿勢を評価してのものだった。また、「中本氏は開票後の記者会見で安全保障法制について『施行されても違憲性に変わりはない。廃止を求め取り組んでいく』と述べ、憲法改正の動きも注視していく考えを示した」(毎日新聞)と報道されてもいる。中本陣営は、「稲田献金による誤解」を払拭すべく、立憲主義、平和主義などの姿勢を強調したという印象。そのため、稲田献金問題は事前に予想されたほど大きな失点にはならなかったようだ。ぜひ、当選後の記者会見での姿勢を貫ぬく活躍をされるよう期待したい。

なお、東京弁護士会選挙の公式発表は以下のとおり。
「2016(平成28)年度の東京弁護士会役員は,本日下記のとおり確定いたしました。
会  長  小林 元治 (こばやし もとじ)
副会長  成田 慎治 (なりた しんじ)
副会長  仲   隆  (なか たかし)
副会長  芹澤 眞澄 (せりざわ ますみ)
副会長  佐々木広行 (ささき ひろゆき)
副会長  谷  眞人  (たに まさと)
副会長  鍛冶 良明  (かじ よしあき)
監 事  菅沼 真    (すがぬま まこと)
監 事  村田 智子  (むらた ともこ)
※副会長は選挙の得票順
※監事選挙は無投票・立候補届出順

◇副会長選挙投票率は以下のとおりです。
有権者数:7676名
投票者数:4477名
投票率 :58.325%

副会長選挙の得票数は以下のとおり。
1位 成田 慎治  837
2位 仲  隆    784
3位 芹澤 眞澄  655
4位 佐々木広行 627
5位 谷  眞人  618
6位 鍛冶 良明  542
7位 赤瀬 康明  359 (落選)

私には選挙事情のディテイルはよく分からないのだが、大方の予想にしたがった順当な選挙結果なのだろう。番狂わせのない現状維持の選挙結果は、これまでの弁護士会の方針が是認されて続くことになる。

なお、投票前の選挙に関する当ブログでの論評は以下のとおり。

https://article9.jp/wordpress/?p=6309
https://article9.jp/wordpress/?p=6329

政権が極端な憲法軽視の姿勢に偏るとき、法の専門家集団としての弁護士会が在野の立場から政権批判の側に立つことは、きわめて健全なあり方と言わねばならない。政権によって戦後民主主義が攻撃されているとき、人権や民主主義そして平和を、崩壊せぬよう支えている弁護士の役割は大きい。今回の選挙結果は、多くの弁護士がこれまでの弁護士会の立憲主義擁護の運動のあり方を是認したものと受け止めてよいと思う。
(2016年2月6日)

東京弁護士会副会長選挙における「理念なき立候補者」へ

1月が行って、今日から2月。今年もまた弁護士会役員選挙の季節となった。2月5日(金)が日弁連と単位会の投票日。今日から期日前投票が始まっている。

私は、弁護士会の人事はけっして私事ではないと思っている。弁護士会の役員選挙は、社会の関心事でなければならない。どんなグループがどんな理念をもって選挙に打って出ているのか、何が対立する論争のテーマなのか。出来るだけ正確に市民に知ってもらうことが望ましい。だから、各陣営や有権者の選挙運動は開かれたものとして市民の目に触れるものとすべきであろう。

今年の日弁連会長選挙は、もっぱら「稲田朋美騒動」の様相。「稲田朋美に政治献金をするような候補者は日弁連のトップにふさわしくない」のか、「稲田がいかに唾棄すべき輩であるとしても、それだけを候補者選定の基準にするのは了見が狭すぎる」のか。私は、ほかの政治家はともかく、稲田だけはアウトだろうという立場。そのことは下記のブログに書いた。
 野暮じゃありませんか、日弁連の「べからず選挙」。(1月29日)
  https://article9.jp/wordpress/?p=6309

ところで、東京弁護士会は会長立候補者がひとりだけ。これは淋しい。が、選挙公報で語られている「立候補補に当たっての基本姿勢」は、至極真っ当である。その冒頭の文章は、次のとおり。
「私たちの先達は、戦前の官憲による人権弾圧の経験から、戦後、議員立法である弁護士法により弁護士自治を獲得しました。それにより、弁護士は基本的人権の擁護と社会正義の実現を自らの使命として高らかに謳い、戦後の民主主義と人権の担い手となりました…。」

憲法問題については、「安保法制と憲法改正」という項を起こして、「2014年7月1日閣議決定を踏まえた安全保障関連法案は、昨年9月19日に成立しました。 憲法解釈の限界を超え、立憲主義に違反すると言わざるを得ません」「恒久平和主義を根底から覆すような憲法改正には反対です」と明記されている。

そして、「司法アクセスへの充実」「人権課題への取り組み」「法曹養成のあり方」などが、バランス感覚よく語られている。安心できるという印象。

さて、問題は副会長選挙である。定員6名のところに7名が立候補した選挙戦となっている。
本日昼ころ、法律事務所には場違いのファクスが舞い込んできた。
「てか、弁護士会職員の人件費 高くね? そう思った方はもう少し読んでください。」
そういえば、先週には、こんなのもきていた。
てか、若手弁護士会費負担 減らせね? そう思った方はもう少し読んでください。」

中学校や高校の児童会・生徒会でも、こんな品位に欠けた乱暴なチラシは作らないのではないか。弁護士会選挙にふさわしくないなどと言うのではない。とても、大人が真面目に書いた文章とは思えない。

今日のファクスの内容は、「私は、無駄な委員会活動、そしてそれに伴う人件費を徹底的に削減します」というもの。このファクスの送信者は、「ごめんなさい。熱くなりすぎてしまって…(笑)皆さんおなじみの赤・瀬・康・明(あかせやすあき)です!!」となっている。

昨年に引き続いての問題候補赤瀬康明の立候補である。私は昨年当ブログで2回この候補者を取り上げて、「立候補の理念を欠く」と叱責した。

 弁護士会選挙に臨む三者の三様ー将来の弁護士は頼むに足りるか(2015年2月2日)
  https://article9.jp/wordpress/?p=4313
 東京弁護士会役員選挙結果紹介 ? 理念なき弁護士群の跳梁(2015年2月15日)
   https://article9.jp/wordpress/?p=4409
今年も同じことを繰り返さなければならない。そして、もう一つ、その訴え方の不まじめさの指摘を付け加えねばならない。

東京弁護士会選挙公報から同候補の「立候補の弁」の一部を抜粋してみる。

昨年度の副会長選挙では私が掲げたマニフェスト以前に、私の立候補には「理念がない」とのお声をいただきました。
その声がいう「理念」とはなんでしょうか?
「理念」という言葉をひとり歩きさせ、何も動かないことでしょうか?
その声がいう「理念」が、東京弁護士会の会員の方を満足させたのでしょうか?
私に「理念」があるとしたら、ただひとつ。それは、「実際に決断・実行し、東京弁護士会の会員にとって東京弁護士会をより魅力的な会にすること」です。
東京弁護士会にとってお客様はだれでしょうか?
誰のお金によって運営できているのでしょうか?
いうまでもなく、東京弁護士会に所属する会員こそが「お客様」であるはずです。
他の誰でもなく、会員の方こそが会費を支払っているのです。
もう一度、皆様にお尋ねします。
今の弁護士会のあり方や活動に本当に満足していますか?
今の弁護士会の活動はあなたの意志を本当に反映していますか?

疑問形になっているから、答えよう。私が、キミの理念の欠如を指摘したひとりだ。私がいう「弁護士になくてはならない理念」とは、弁護士法にいう「基本的人権の擁護と社会正義の実現」のことだ。このような理念をもっていればこその弁護士であり、この理念を失えばバッジをつけていても弁護士ではない。その点で、キミはどうやら失格ではないか。

もちろん、「理念」がひとり歩きすることはない。理念の実現のためには、弁護士と弁護士会が汗をかいて動かねばならない。課題は数え切れないほどにある。冤罪の訴えある者を支援し、ヘイトスピーチの被害に泣く者を救済し、外国人難民の在留に手を貸し、震災被害者の救援もし、公害・薬害・消費者被害に苦しむ者を援助し、さらには司法制度の円滑な運用や、憲法上の人権・民主主義・平和を守ることまで、弁護士会はその使命として目配りをしなければならない。
キミに「理念」があるとしたら、ただひとつ。それは、「基本的人権の擁護と社会正義の実現などという陳腐な呪縛は捨ててしまえ」という姿勢のみだ。人権擁護活動などは、弁護士個人が勝手にやるべきことで、東京弁護士会としては何もしないと決断すべきだというのだ。そうして会費を節減することこそが、会員のホンネにおける魅力的な会のあり方、と言っているのだ。キミは、東弁の会員弁護士や、とりわけ若手を見くびっているのではないか。

キミは、「東京弁護士会にとってお客様はだれでしょうか? 誰のお金によって運営できているのでしょうか?」と問う。そのとき、キミの視野には市民が入っていない。本当の「お客様」は市民ではないか。弁護士の「お金」も市民からのものだということが忘れられていないか。市民の役に立ち、社会に支えられていればこその弁護士であり、弁護士会ではないか。市民からの支援あれば司法修習の給費制を実現出来る。弁護士・弁護士会の人権活動や公益活動なくして給付制の実現はない。実は弁護士活動のすべてについて言えることなのだ。市民から見捨てられるような、弁護士会のあり方の政策提起は、とうてい是認し得ない。

去年のブログの一節をもう一度繰り返す。
弁護士会の人権活動や公益活動を費用の無駄と考え、弁護士自治に関心なく、稼ぎに汲々としている若手弁護士が群をなして存在しているという。志のない弁護士たち、漫然と法律事務所に就職したとの意識の弁護士たち。こんな弁護士が増えつつあることは、保守政権や財界にとっては、確かに「希望の幕開け」といってよい。彼らは、つべこべ言わずに、ひたすら報酬を求めて、強者の利益のために働くことを恥と思わない弁護士となるのだろうから。

歌を忘れたカナリヤのごとく、公益性も志も忘れた「資格だけの弁護士群」の拡大は、由々しき問題だと思う。国民から「後ろの山に棄てましょか」とされかねない。いま、人権や平和などの憲法理念の有力な担い手としての弁護士層の役割を頼もしいと思う立場からは、志を失った弁護士の将来像を思うとき、暗澹たる気分とならざるをえない。

昨年の暗澹たる思いは、赤瀬候補の落選で多少は救われた気持になっている。まさか今年が、嘆きの年になるまいとは思うのだが。
(2016年2月1日)

季刊『フラタニティ』創刊号に「私はいかにして弁護士となったか」

季刊『Fraternity フラタニティ』が創刊され、明日(2月1日)が発行日となる。
フラタニティとは友愛のこと。フランス革命のスローガンとして知られている「自由・平等・友愛」の内、「自由・平等」は普遍的原理として世界に定着したものの、友愛が不当に軽視されている。日本国憲法の理念として友愛を根付かせることによって、憲法をよりよく活かそう、というコンセプト(だと思う)。雑誌のモットーが副題として「友愛を基軸に活憲を!」となっている。私も賛同して、編集委員のひとりとなった。編集長が村岡到、編集委員に西川伸一、吉田万三などの名がある。

資本主義社会の「競争」に対峙する原理としての「協同」の奥あるいは基礎に「友愛」がある。私は個人的にそう理解している。「友愛」を理念とする市民が、「競争」を行動原理とする企業をコントロールすることが、夢想ではなく可能ではないか。その基本は民主主義による企業統制だが、それ以外にも現実にいくつかの手法が成功しているように思う。

創刊号が刷り上がっているが、なかなかの出来だと思う。読ませるこの内容で、一冊600円は割安感がある。

ぜひ、下記のURLを開いていただいて、出来れば定期購読していただけたらありがたい。
  http://logos-ui.org/fraternity.html

創刊号の特集が「自衛隊とどう向き合うか」で、次の3本の記事がメインとなっている。
 村岡 到 「非武装」と「自衛隊活用」を深考する 
 松竹伸幸 護憲派の軍事戦略をめぐって
 泥 憲和 安保法制批判側が国民の支持を得られない理由
そのほかに、
 編集長インタビュー 孫崎 享 東アジア共同体が活路
 TPPを何としても止めよう!  山田正彦
 沖縄は今
 脱原発へ
 高野 孟 ジャーナリストの眼? 
 地域から活憲を? ねりま9条の会
 ロシアの政治経済思潮 ? 
 友愛を受け継ぐ人たち? 友愛労働歴史館
 わが街の記念館? 賢治とモリスの館
等々

創刊号の裏表紙に、編集長の「季刊『フラタニティ』創刊アピール」が掲載されている。「季刊『フラタニティ』は、「友愛を基軸に活憲を!」をモットーに刊行されます。」ではじまる創刊の辞は、かなりの長文で意気込みに溢れたもの。最後が「ともに〈活憲〉の時代を切り開いていきましょう」に収斂する。しかし、何よりもこの雑誌の性格をよく物語っているのは、欄外に小さな活字で書かれた編集長自身の次の文章である。
「〈付〉上記のアピールは小さな編集委員会でもいろいろ異論があります。一つの方向として、深く考える素材として発せられたものです。」

こういう、まとまりのなさを率直に明示しているところがこの雑誌の魅力である。多様な書き手のそれぞれの個性が、まとめられたり整理されたりすることなく、素のまま表れているのだ。

私も連載を引き受けた。「私がかかわった裁判闘争」というタイトル。5頁というスペースをもらっている。執筆を引き受けて、自分のこれまでの弁護士生活を振り返るよい機会だと思っている。編集長からの注文があって、その第1回で「岩手沿岸の『浜の一揆』訴訟」を取り上げた。自分で読み直してみて、結構面白いと思う。

その連載第1回の冒頭に、「私はいかにして弁護士となったか。」を書いた。
フラタニティ創刊号の予告編として、その一部を抜粋して引用しておきたい。抜粋でなく全文に興味が湧けば、ぜひ雑誌の購読をお願いしたい、という魂胆。

 実は、私こそが法が求める弁護士であると自負している。密かに自負していれば穏当なのだが、執拗に広言してやまない。
 「資格を持っているだけの弁護士」と「法が想定する弁護士」とは一致しない。「基本的人権の擁護と社会正義の実現」は、在野・反権力に徹し、かつ資本の支配に抗することによって初めて可能となる。それだけではない。この社会においては、権力は社会の多数派によって担われる。だから、社会の多数派が形づくる常識が、権力のイデオロギーとなる。毅然として権力と対峙するには、社会の常識に絡めとられてはならない。私は、意識的にこの社会の常識を排する。「和の精神」も、愛国心や国旗・国歌も大嫌い。民族の歴史・伝統・文化には馴染めない。その中核をなす國體思想には生理的嫌悪を禁じ得ない。
 そのような私だからこそ、最も弁護士らしい弁護士なのだ。現行法制度は人権擁護のために「弁護士という国家権力から独立した法技術者の職能集団」をつくった。その法の趣旨にもっとも適合的な弁護士像が、在野に徹し、資本に抗い、天皇制批判に躊躇しない私だと思っているのだ。

 啄木の「一握の砂」に、「わが抱く思想はすべて 金なきに因するごとし 秋の風吹く」という一首がある。啄木が詠んだから「歌」になっているが、散文にすれば唯物論の基本に過ぎない。「この社会において人が抱く思想は、すべて金なきに因する」か、あるいは「金あるに因する」かのどちらか。私が抱いた思想も、基本的に「金なきに因する」ものだった。
 「苦学生」とは今は死語になっているのだろうか。私はまさしく古典的な苦学生だった。高校卒業後はいっさいの仕送りなしの生活。奨学金とアルバイトだけでの自活だった。
 今はなき東大駒場寮に居住していた当時、寮生の自治運営だった寮食堂は格安だったが、その安い食費の捻出ができない寮生も多かった。そのような寮生に、「残食」という制度があった。夜8時頃だったろうか。ダンピングの「残食」にありつこうという寮生が列をなすのだ。経済的下層の学生が、「残食」グループを形成する。ところが、下には下がある。私ほか数名は、その列を尻目に、自由に掬える汁類をごっそりと漁るのだ。こちらは一汁だけだがタダの夕食。これを咎められた覚えがない。誰もが暖かく見守ってくれていたはずはないが、大目には見てくれていた。

 そんな学生だった私には、自分が企業への就職活動をするなどとイメージできなかった。公務員になることも考えられなかった。「資本の走狗にも、権力の尖兵にもならない」などと言えば格好は良いのだが、務まりそうはないというのがホンネのところ。芸術や文筆の才能あれば、その道で生きていきたいところだが、所詮は夢のまた夢。アルバイトで明け暮れた大学生活4年間が過ぎるころに、弁護士になろうと腹を決めた。
 志望の動機の最大のものは消去法である。他人に使われての勤めは自分には無理だ、と思い込んでいた。その自分にも、弁護士という自由業なら務まるのではないか。憧れたのは、飽くまで自由な生き方。誰にも束縛されず、他人におもねることなく生きる自由である。
 1969年3月に6年間在学した大学を中退し、4月に最高裁管轄下の司法研修所に入所して司法修習生、つまりは法曹の卵になった。当時の司法研修所は牧歌的で、少なからず学生生活の延長の雰囲気があった。私は、正規のカリキュラムよりは、課外の自主活動で有益な研修をした。その過程で、世の中の紛争はさまざまであり、弁護士も誰の利益を代弁するか、実にさまざまであることを知った。
 こうして、いくつかの「別の道」の選択もあったのだが、結局「金なきに因するわが抱く思想」に忠実であろうと心に決めて弁護士実務に就くことになった。権力の側、資本の側には就かない。強い側、多数派には与しない。こう心に決めての職業人生の出発だったが、しばらくして気が付いた。権力も資本も、私に事件の依頼などして来ない。だから、格別改めての決意など不要で初心を忘れずにいられる。こうして45年が過ぎ、いつの間にか、過去を語る齢になった。

 これまで私が携わってきた分野は比較的広い。それだけ、専門性は低いとも言える。労働・労災職業病・消費者・医療過誤・薬害・差別・政教分離・選挙運動の自由・教育・平和訴訟・「日の丸君が代」強制反対等々。なんとなく、「思想・良心の自由」のフィールドがライフワークとなっている感がある。その中から、今後いくつかの事件を拾って報告の連載をしてみたい。第一回は、私の故郷岩手で、始まったばかりの「浜の一揆」訴訟である。
(2016年1月31日)

野暮じゃありませんか、日弁連の「べからず選挙」。

昨日の私のDHCスラップ訴訟控訴審判決法廷に、徳岡宏一朗さんが私の代理人のひとりとして出廷してくれた。記者会見にも出席して、著名ブロガーとしての自らの体験から、ブロガーの表現の自由の大切さを語った。

徳岡さんは、私の「万国のブロガー団結せよ」という呼びかけに呼応して、「リベラルブロガーの団結」の機会を作ろうと具体的プランを練っている。その彼が、記者会見の席で、ブロガーの表現の自由を守り通すことの困難な状況をも語った。

その困難な状況のエピソードのひとつとして、日弁連会長選挙に関連した彼のブログ記事が、「選挙管理委員会から削除を要請された」と報告された。その理由は、「候補者以外の会員による選挙活動は禁止されている」からだという。徳岡さん自身は、会見の場では選挙管理委員会の措置を不当とも不満とも言わなかったが、これは看過できない問題ではないか。

私は、これまで刑事弁護活動に際して公職選挙法に目を通す機会は多く、「べからず選挙」となっている選挙活動の制約過剰を批判し続けてきた。かなり以前のことだが、「戸別訪問禁止は憲法(21条)違反」という判決を勝ち取ったこともある。(もっとも、無罪は一審段階限りで、検事控訴によって覆り最高裁でも上告棄却で終わったが)

日弁連会長選挙が、公職選挙法に類する「べからず」選挙とは知らなかった。今回、初めて会長選挙規定を一読して、首を傾げた。なるほど、これはおかしい。社会正義と人権の擁護者としての弁護士の組織が行う選挙である。選挙における民主主義や人権は、国の法律よりも抜きん出て重んじられなければならない。にもかかわらず、なんと古色蒼然たる理念に基づく規定であろうか。

関連規定は、以下のとおり(読み易く一部省略)である。
第56条の2(ウェブサイトによる選挙運動)
1項 候補者は、ウェブサイトを利用する方法により、選挙運動をすることができる。
2項 選挙運動のために利用するウェブサイトは、選挙運動の期間中に限り開設される選挙運動専用のものでなければならない。

第58条(禁止事項)
候補者及びその他の会員は、選挙運動として次に掲げる行為をし、又は会員以外の者にこれをさせてはならない。
第4号 第56条の2の規定に違反してウェブサイトを利用する方法による選挙運動をすること。

要するに、ウェブサイトを利用する選挙運動は、候補者だけに可能とされ、一般会員有権者には禁止されているのだ。規定がこうなっている以上、任務に忠実を心掛ける謹厳な選管委員氏が、徳岡さんのブログを看過できないとしたわけだ。だが制裁措置は予定されていない訓示規定。どう運営するかは選管次第。看過したところでなんということもないのだ。むしろ、規定の方に大いに問題があり、異議ありなのだ。

この会長選挙規定をおかしいという根拠の一つは、選挙運動主体についての理念を古色蒼然で戦前型といわねばならないことにある。私は、民主主義社会の選挙運動の主体は候補者でもその取り巻きでもなく、主権者国民であることを疑わない。かつて、普通選挙法(1925年改正衆議院議員選挙法)成立後敗戦までの間は、「演説又は推薦状による場合を除き、候補者、選挙事務長、選挙委員又は選挙事務員でない第三者は選挙運動をすることができない(第96条)」と規定された。この「第三者」とは有権者国民のことである。選挙運動の主体は、候補者と、登録された運動員に限られ、「第三者」たる一般国民には選挙運動が禁止されていた。国民は選挙運動の主体ではなく、もっぱら選挙運動の受け手に留め置かれたのだ。可能な限り臣民に民々主義的な政治感覚を育てたくないとする天皇制政府の(悪)知恵の所産である。日弁連の会長選挙規定がこの思想を受継しているかにみえることに一驚せざるを得ない。

選挙とは、本来的に有権者相互間の言論戦である。選挙運動としての言論の規制を合理的だというためには、カネがかかりすぎるか、虚偽や詐術の場合以外には考えがたい。しかし、ブログこそは最も金のかからない言論手段ではないか。また、虚偽や詐術には反論を第一とすべきであろう。後見的に選管が注意や勧告をするのはよくよくのことがなくてはならない。

徳岡さんのケースを具体的に見る必要があるだろう。彼の1月25日付ブログに次の記事がある。

「さっき、日本弁護士連合会選挙管理委員会の副委員長さんから、わざわざお電話をいただきました。わたくし、なんかの選挙にも出た覚えがないので、ビックリしたのですが、なんと私のブログ記事が日弁連の選挙管理規定に違反するので、削除して欲しいと言うのです。」
問題となったのは以下の記事。2016年1月17日付け記事で、
「【悲報】日本弁護士連合会の執行部側○○○○候補が、稲田朋美自民党政調会長に何度も献金していた。」というもの。
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/91b8d2267e07171d450b4c1dd6ab2c65

選管は、同候補が稲田朋美に献金をしていたことが事実かどうかを問題にするのではなく、形式的に「日弁連の選挙管理規定違反」だけを削除要求の理由に挙げたようだ。

私は、今回の候補者のひとりが稲田朋美という極右の政治家に政治献金をしていたという事実を知らなかった。徳岡ブログによって、貴重な私自身の投票行動の判断基準となるべき重要事実を知ることとなった。明らかに、候補者以外の会員が発するブログ記事は有益である。

もっとも、今回は、選管が動いたということが大きな話題となって、末端会員である私も、某候補者と極右稲田との関係を知るところとなった。選管の徳岡ブログ削除要求は話題作りの高等戦術なのか、あるいは単なるオウンゴールなのかは判然としない。

稲田朋美が何者であるか、いったんは私も情報を整理しようとしてみたが、その必要はない。徳岡さんが、これ以上はないという綿密さで、見事なプロファイリングをしてくれた。これを読めば、稲田が政治家としても、弁護士としても、いや市井のひとりしても、人間性を疑問視されるべきトンデモナイ人物であることが一目瞭然である。これも、選管介入の賜物であろうか。ぜひとも多くの人に読んでいただきたい。大いに拡散したいものである。
「日本弁護士連合会会長候補が献金していた稲田朋美政調会長とは、こんな極右政治家。」
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/db48f4b75b6bf719015cffa4eb8f2d57

公正を期すために、稲田との関係を指摘された候補者の釈明(抜粋)を記載しておきたい。
「年数万円の政治献金だけが事実で、あとはみなでたらめです。しかも、私が献金しているのは、稲田議員だけではありません。
稲田議員は、私と同じ大阪弁護士会に所属しており、旧知の間柄であるだけではなく、給費制やTPPの弁護士に関する条項の問題では、弁護士会と同じ立場に立って活動しています。法曹人口問題や法曹養成問題、給費制など、弁護士をめぐる様々な問題は、政治問題でもありますので、政治家への働きかけは欠かせません。私はこう考え、弁護士議員を中心に、与野党を問わず、幅広い議員に政治献金をしています。ここで個人名を挙げるのは控えますが、憲法問題でおよそ稲田議員と対極の立場にある野党議員にも献金しています。それを言わないで、稲田議員のみを取り上げるのは、ためにする議論としかいえません。」「弁護士の立場を守る議員は与野党を問わず応援するが、個別の政見については是々非々で対応する。これが私の立場です。もっとも、今までは一人の弁護士として献金してきましたが、公的な立場である日弁連会長となった暁には、全議員に対して献金を控えることといたします。」

稲田への「年数万円の政治献金だけが事実」と認めた上で、堂々とその理由を述べている。これはこれで見識と言えよう。「極右稲田もいまや有力な与党政治家なのだから、これと上手に付き合う必要がある」「弁護士会の利益のために、清濁併せ呑むべきは当然」「良い人とだけつきあっていたら選挙落ちちゃうんですね」「濁の濁たる稲田とでも付き合わなくては」との考え方である。他方「こんな輩とエールを交換することは断じてあってはならない」とする潔癖な批判は当然にある。考え方は、いろいろあってよい。が、「某候補者に対稲田献金あり」との事実摘示のブログを削除せよとする選管のやり方は穏やかではない。

必要にして十分な情報の交換とともに、批判と反批判の応酬の場を保障して、判断は有権者に任せればよいだけのことではないか。いずれ、この首を傾げざるを得ない日弁連会長選挙規定は変わらざるをえない。それまでの間、この点についての四角四面の厳格運用は野暮ではないか。野暮とは、法形式のみにとらわれて、民主主義の本質についての理解に欠けるという程度の意味合いである。
(2016年1月29日)

弁護士の生きがいー夫婦別姓訴訟・大法廷判決に思う

私は1968年の司法試験に合格して、69年4月から71年3月までの司法修習を受けた。当時は有給で修習専念義務は当然のことと受け入れた。しかし、カリキュラムの過密を意識することはなく、現役の裁判官・検察官・弁護士から成る教官たちには、ごく真っ当な常識的感覚と後輩の法曹をあるべき姿に育てることへの情熱を感じた。当時毎年500人の修習生は、2年間の修習期間中に、どの分野に進むかどのような法曹になるかを十分に考えた。課外の自主活動も活発で余裕のある2年間だった。

私の実務修習地は東京、配属弁護士会は第二東京弁護士会だった。今はなき、戸田謙弁護士(この人について語るべきことは多い)が修習指導担当で4か月間戸田法律事務所に通った。その際、いくつかの典型的な法律事務所訪問の機会を得た。修習委員会が組んだプログラムとして、虎ノ門の法律事務所に大野正男を訪ねたことを記憶している。同弁護士は、当時既に高名でその後最高裁裁判官になった人。

私を含め当時の修習生の多くは、ビジネスローヤーというものにいささかの敬意ももちあわせていなかった。そんなものは、法曹を目指す動機や弁護士としての生きがいになんの関わりもあろうとは思えなかった。身すぎ世すぎの術として、資本に奉仕する弁護士業務とはいったい何だ。経済的には恵まれようが、生きがいとは無縁。金が欲しけりゃ、大企業の出世コースを歩むか、自分で業を起こせばよいだけのこと。まったく魅力は感じなかった。

その対極にある弁護士として大野正男をイメージしていた。この人なら、弁護士としての生きがいを熱く語ってくれるだろう。この人の言うことになら耳を傾けてみたい。期待は高かったのだが、実はこの高名な弁護士が何を語ったのか記憶にない。確かに彼は何かを語ったが、若い(生意気な)修習生たちに受けるような内容ではなかった。ともかく話の内容は地味で、高揚感とは無縁のものだった。

話しのあとに水を向けてみた。「弁護士の仕事は、問題を事後的にしか解決しません。しかもきわめて個別的で分散的で、一つひとつの仕事が社会的な影響力をもつということは滅多にない。それでも、やりがいのあることでしょうか」

これに対する大野正男の回答は、確かこんなふうに落ちついたものだった。
「そのとおりですよ。弁護士が日常扱う個々の事件処理は、事後的な問題解決で個別的。地味なものです。政治家のような、何か華々しいものと錯覚してはならない。社会を変えようとして事件を受任するわけではなく、問題を抱えている人のために仕事をするのが弁護士。個々の依頼者に喜んでもらうことが、弁護士としての生きがいですよ。」

当時、私の脳裏にあったのは、砂川事件の伊達判決であり、松川無罪判決であり、恵庭や長沼事件であり、人権派弁護士大活躍の舞台だったいくつかの公害事件だった。弁護士が取り組んだ一つの事件、一つの勝利判決が、大きく社会や政治を動かすというロマン。自分もそのような仕事をしてみたい。そういう気持を、思い上がりとしてたしなめられたという印象が残った。

その後、私は地域密着型の法律事務所で弁護士としての仕事を始め、ときどき大野正男の言葉を思い出した。なるほど、あの言葉のとおりだ。事件の大小に関係なく、依頼者のために地味な事件を処理していくことの大切さと、そのことのやり甲斐とを実感するようになった。華々しい弁護士像追求を邪道と感じるようにもなって今日に至っている。

で、今は、弁護士と事件との出逢いは、「なかば偶然、なかば必然」と考えている。悪徳商法専門やスラップ常連弁護士は、事件と必然性をもって結びついているだろう。これに比べて、本日の最高裁大法廷判決2事件(「別姓訴訟」「待婚期間違憲訴訟」)などは、弁護士の日常業務が社会を動かす大事件に発展した好例。とりわけ、「夫婦同姓強制違憲訴訟」は、大きなインパクトをもつ事件だ。大法廷判決で、勝てればすばらしいことだったのだが…。「修身斉家治国平天下」の壁は厚く破れなかった。

担当弁護士は、さぞ頑張ったことだろうが、残念な結果に終わった。まことに無念。
それでも、事件と格闘して、ここまで社会に問題提起をした原告と弁護団に、心からの敬意を表したい。

法廷意見への賛否は10対5だったという。次がある。またその次もある。誰かがいつかは破る壁だと思いたい。

前例がある。津地鎮祭訴訟上告審の大法廷判決で、厳格政教分離派が敗れたのが1977年7月。判決は、やはり10対5に分かれていた。その20年後、97年4月に愛媛玉串料訴訟の最高裁大法廷判決が、同じ目的効果論を使いながら、厳格政教分離の側に軍配を上げた。逆転して、違憲派が13、合憲派は僅か2名だった。

逆転のゴールに誰かがすべり込むだろう。その目標も、弁護士としての生きがい。
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   DHCスラップ訴訟12月24日控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田嘉明が私を訴え、6000万円の慰謝料支払いを求めている「DHCスラップ訴訟」。本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は全面敗訴となった。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、事件は東京高裁第2民事部(柴田寛之総括裁判官)に係属している。

その第1回口頭弁論期日は、
 クリスマスイブの12月24日(木)午後2時から。
 法廷は、東京高裁庁舎8階の822号法廷。
ぜひ傍聴にお越し願いたい。被控訴人(私)側の弁護団は、現在136名。弁護団長か被控訴人本人の私が、意見陳述(控訴答弁書の要旨の陳述)を行う。

また、恒例になっている閉廷後の報告集会は、
 午後3時から
 東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・Bで。
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちたい。
 表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加を歓迎する。
(2015年12月16日・連続第990回)

いま、我が国の司法界に「前官礼遇」ありやなしや

「ヤメ検」とは、元は検事だった弁護士をさす。何とも微妙な伝えがたいニュアンスをもった業界用語。その「ヤメ検」のニュアンスに、また一つ影響を与える事件の報道がなされた。

本日の毎日新聞朝刊が、「容疑者の妻連れ 検事総長に面会 弁護士を処分」という記事を掲載した。デジタル版の見出しは、「元最高検総務部長:容疑者妻連れ検事総長面会…戒告」というさして長くない記事なので、全文を引用する。

「元最高検総務部長で横浜弁護士会に所属する中津川彰弁護士(80)が、弁護を担当した強制わいせつ事件の容疑者の妻を連れ、検察トップの検事総長らに面会していたことが分かった。横浜弁護士会は刑事処分の公正さに疑念を抱かせたなどとして、中津川弁護士を戒告の懲戒処分とした。処分は7月8日付。弁護士会によると、弁護士側からの異議申し立てはないという。

日弁連の資料などによると、中津川弁護士は2013年6月に容疑者の弁護人に選任された後、勾留中に容疑者の妻を連れて捜査担当検事や上司、当時の検事総長と面会。「元検察官としてのキャリアや人脈などを強く印象付け、刑事処分の公正に対して疑惑を抱かせた」としている。担当検事には本人の意思を確認しないまま「罪を認めて深く反省」などと記した誓約書を提出していたという。

 横浜弁護士会の佐藤正幸副会長は「検察幹部との面会で手心が加わったかどうかは不明だが、『検察に顔が利く』という過剰な期待を依頼者に抱かせる場を設定したこと自体が問題」と話した。

 中津川弁護士は札幌地検検事正や最高検総務部長などを歴任。退職後の05年に弁護士登録した。」

この記事でも分かるとおり、懲戒事由ありとされた同弁護士の非行は2013年6月のこと。2015年7月に横浜弁護士会が戒告処分とし、同年10月1日付で日弁連が公告した。日弁連機関誌「自由と正義」同月(2015年10月)号に、この広告は掲載されている。言わば旧聞に属することなのだが、毎日の記者が、たまたま何かのきっかけでこの懲戒事由を知ったのだろう。看過できない事件と判断して記事にし、社もこれを全国版に掲載した。指摘されてみれば、なるほど、これは司法に対する社会の信頼に関わる事件であり、法曹の閉鎖性に関わる深刻な問題でもある。

中津川元検事の経歴は下記の如くである。
 昭和36年4月 検事任官
 昭和49年12月 最高裁判所司法研修所教官
 昭和61年4月 公安調査庁 調査第2部長
 昭和63年12月 同庁 総務部長
 平成2年8月 東京法務局長
 平成5年7月 最高検察庁 総務部長検事
 平成17年10月 弁護士登録

申し分のない立派な経歴と言ってよい。多くの部下に指揮命令の権限をもっていたはず。その多くの部下が、今検察の中枢にいることは想像に難くない。その元部下のなかに検事総長もいたのかも知れない。しかし、弁護士として野に下った途端に、その権力も影響力もなくなるのだ。事実上の社会的影響力は、努めて排除しなければならない。弁護士は無位無冠、なんの権力とも、また特権とも無縁なのだから。

「自由と正義」10月号に掲載の「処分の理由の要旨」は以下のとおりである。
(1) 被懲戒者は2013年6月30日に懲戒請求者に接見しその強制わいせつ被疑事件を受任したが、その際委任契約書を作成せず弁護士報酬についての説明も十分しなかった。
(2) 被懲戒者は上記(1)の事件に際し「自己の罪を認めて深く反省し」などと記載した2013年7月18日付けの懲戒請求者名義の誓約書を担当検察官に提出すたが、誓約書の提出に当たり懲戒請求者の意思を確認しなかった。
(3) 被懲戒者は上記(1)の事件に関し懲戒請求者が勾留されている間に懲戒請求者の妻を帯同して担当検察官やその上司である検察官、更に検事総長や検察幹部と面会し、被懲戒者の元検察官としてのキャリアや人脈等を強く印象付け、刑事処分の公正に対して疑惑を抱かせる行為を行った
(4) 被懲戒者は上記(1)の事件に関し被害者との示談交渉の席に懲戒請求者の姉の内縁の夫であったAを同席させ、その後の示談交渉及び書面の作成に関して懲戒請求者の意思を確認し内容を確定して起案するなどの行為を中心となって行わなかった。
(5) 被懲戒者は上記示談交渉に際しAが懲戒請求者から相当額の示談金を受領する可能性を予見できたにもかかわらずこれを回避する措置を採らず、結果として被懲戒者が関与しないまま、Aが懲戒請求者から示談金名目の700万円を受領し保管した。
(6) 被懲戒者は2013年9月7日に上記(1)の事件の弁護人を辞任したが懲戒請求者から弁護士報酬の返還請求に対し脅迫的な意味合いを有し、返還請求をちゅうちょさせるような文言が記載された同年10月11日付けの書面に署名押印した。
(7) 被懲戒者の上記(1)の行為は弁護士職務基本規定第29条及び第30条に上記(2)(4)及び(5)の行為は同規定第46条に違反し上記各行為は弁護士法第56条第1項に定める弁護士としての品位を失うべき非行に該当する。

刑事事件の一人の依頼者からの懲戒請求があって、6個の非行が認定されたことになるが、報道に値するとされたのは「『検察に顔が利く』という過剰な期待を依頼者に抱かせる場を設定したこと自体が問題」という点である。

いくつかのことを連想する。もう、15年ほども以前のことだが、中国司法制度調査団を組んで訪中し、現地の弁護士と交流したことがある。そのときの話しを聞いて驚いた。有力な弁護士は、ウイークエンドには、判事との夕食会に忙しいのだという。むしろ誇らしげに聞かされた。依頼者には、そのように自分が判事と親しいことをアピールする。あるいは自分が手がけている事件の担当裁判官と同姓であることがアピールの材料となるのだともいう。

裁判も、法治ではなく人治となっていた事情を垣間見た。近代化進む中国のこと。今は、そのようなことはないだろう。むしろ、日本に「顔が利く」ことを誇示する弊風が残っていたのだ。

2012年4月、日民協が韓国司法制度調査団をつくって憲法裁判所などを訪問した。その際、韓国の司法改革が進んでいることを知って驚いたが、李京柱・仁荷大学教授の話しで、同地の「前官礼遇」という悪しき慣行を耳にした。元「官」にいた者が、現在「官」にある者から手厚く遇されるということ。裁判官、検察官の任官経験者が退官後に弁護士となり、後輩として在職している裁判官や検察官から、事件で有利な取り計らいをうけるという悪習。しかも、根深く歴代順繰りに行われてきたのだという。この「『前官礼遇』に象徴される裁判所と在野法曹との癒着や腐敗を一掃すべきという国民の声が司法改革を牽引する力になった」という説明だった。裁判官や検事の座にあった者にとっては、当然に受けるべき既得権と考えられていたのだ。

さて、中津川元検事は、現役時代に、先輩ヤメ検から「前官礼遇」の依頼や要求を受けていたのだろうか。そのような習慣が、実は広く残っているということはないのだろうか。法に携わる者、襟を正さねばならない。

なお、権力を持っていた人物は、その地位を去っても権力を持っていた時代の懐かしさが忘れられない。往々にして、自分にはもともと人に命令する権能が備わっているのだと誤解する。そんな話しは、古今東西ありふれている。権力は魔力を持っている。心して取り扱わねばならない。
(2015年11月13日・連続第958回)

人権と憲法擁護の志ある人にだけ「合格おめでとう」

昨日(9月8日)、司法試験の合格発表があった。試験問題漏洩事件が大きな話題となっている中でのことである。
1850人の合格者すべてに、「おめでとう」などとはけっして言わない。この中に、高村正彦や北側一雄、あるいは稲田朋美、橋下徹などの後輩が確実に潜んでいるからだ。権力や資本にシッポを振ることを恥と思わぬ弁護士や、スラップ訴訟請負常連の弁護士などもいる。
 
そのような連中を除いて、とりわけ「平和と人権と民主主義」擁護の志を堅持しようという未来の法曹に心からおめでとうと言いたい。これからどのような法律家になろうかと、悩んでいる合格者諸君にも祝意を表して、法律家としての生きがいを探して欲しい。

志ある合格者に「登科後」という唐代の詩を贈る。登科とは科挙に合格すること。作者孟郊は46歳にして進士に合格した。合格翌日の伸びやかな心境を詠ったもの。

   昔日齷齪不足誇
   今朝放蕩思無涯
   春風得意馬蹄疾
   一日看尽長安花

読みは、昔日の齷齪(あくせく)誇るに足らず、
      今朝放蕩として思い涯(はて)無し。
      春風意を得て馬蹄はやし、
      一日看尽くす長安の花。

作者は、今朝は昨日までとは打って変わってどこまでも伸びやかな心もち。春風のなか得意満面で軽やかに馬上の人となっている。当時、合格発表は牡丹の季節。科挙の合格者には、長安城内の貴族の家々が牡丹の花を見せた。皆、合格者には一目置いて扉を開けたのだ。作者は、広い長安で、家々の牡丹を見尽くしているというのだ。家々のもてなしは、牡丹だけではなかったのかも知れない。

なお、1858年清末に科挙で賄賂を取っての不正合格が発覚した。驚くべきことに、不正を犯した考査官2名だけでなく、不正合格者も死刑に処せられたという(宮崎市定「科挙」中公新書・101頁)。

私が司法試験に合格したのは、1968年といういまは昔のこと。苦学生だった私が司法試験を目指したのは、誰でも受験が可能で合格すれば司法修習生として公務員に準じた給与の支給を受けられることが大きな魅力だった。

私は文学部の出身だから、授業での法学の勉強はしなかった。当時予備校や塾などという存在はなく(あったかも知れないが知らなかった)、模試すら受けたことはない。友人の司法試験グループに入れてもらって勉強した。いまなら、法学未習コース。司法試験とは、受験まで金がかからず、合格すれば給与が支給された。当時、この制度のおかげで、私のような貧乏学生が法曹になった。

合格して司法修習生として採用になったのが、1969年の4月。最初の給与をもらったときは本当に嬉しかった。それまでは、身を粉にして不定期な学生アルバイトで生計を立てていたのだから。勉強しているだけで、安定した給与の支給を得られるなど、夢のような話しではないか。そのとき、けなげにも思った。私はいま、社会からの恩恵を受けた立場にある。社会は私に、相応の期待をしているのだ。この期待に応え、将来社会に還元しなければならない。そういう意識は、その後弁護士となってからも持ち続け、いまもある。

現在司法修習における給費の制度は廃止されている。貸費の制度はあるようだが、どうせ弁護士は儲け仕事なのだろうと位置づけられたことになる。若い弁護士諸君が給費制復活の運動をしている。日弁連も支援しているが、十分に大きな運動にはなっていない。人権擁護に奉仕しようという弁護士を求める社会の期待はなくなったのだろうか。

いま、全国の弁護士会が、戦争法案反対で大きな運動を巻き起こしている。先年には、特定秘密保護法反対にも熱心だった。平和・人権・民主主義、そして憲法を擁護する姿勢において、弁護士会はきわめて真っ当である。十分に社会からの期待に応える活動をしていると思う。給費制復活の世論が盛りあがってもよいはずではないか。

私は、弁護士とは成熟した市民社会が創造した反権力の職業だと思っている。いざというとき、法を武器にして、弱者の人権のために権力や金力に怯むことなく対抗してたたかう専門職である。在野であることが絶対の基本であり、多数派の同調圧力や常識にもとらわれない、真の意味で自由人としての存在でなければならない。

新合格者諸君。今日は、思う存分牡丹の香りに酔え。明日からはぜひ、人権のために研鑚せよ。
(2015年9月9日・連続892回)

東京弁護士会役員選挙結果紹介 ? 理念なき弁護士群の跳梁

本年2月2日の当ブログに、東京弁護士会の役員選挙事情を掲載した。「弁護士会選挙に臨む三者の三様ー将来の弁護士は頼むに足りるか」というもの。投票日(2月6日)直前の記事だったので、選挙結果の報告もしなければなるまい。

下記は、東京弁護士会の役員選挙についての、同会ホームページの紹介である。公式の報告だから無味乾燥。外部から注目を惹くところは皆無。せいぜい、「公式ホームページで元号ではなく西暦が使用されているのか」という程度だろう。

2015年度東京弁護士会役員選挙結果について(2015年2月9日)
2015年度東京弁護士会役員等選挙の投票及び開票が2015年2月6日(金)に行われました。同日、東京弁護士会選挙管理委員会において開票結果を確定し、以下の者を当選者と決定しました。

2015年度東京弁護士会役員選挙 結果
会長選挙  当選者
伊藤 茂昭 (いとう しげあき)
副会長選挙 当選者(弁護士登録年月日順)
森   徹 (もり とおる)
佐藤 貴則 (さとう たかのり)
渡辺 彰敏 (わたなべ あきとし)
大森 夏織 (おおもり かおり)
中嶋 公雄 (なかじま きみお)
湊  信明 (みなと のぶあき)
監事選挙  当選者(無投票・弁護士登録年月日順)
吉村 誠 (よしむら まこと)
鹿野 真美 (しかの まみ)
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これに、もう少し情報を加えると、弁護士会事情が多少は見えてくる。

? 会長選挙
当選   伊藤茂昭 3665票 (法友会)
落選   武内更一  758票
? 副会長選挙
当選 1 湊 信明  909票 (法友会)
当選 2 大森夏織  795票 (期成会)
当選 3 渡辺彰敏  718票 (法友会)
当選 4 森  徹  635票 (法曹親和会・東京法曹会)
当選 5 佐藤貴則  593票 (法曹親和会・二一会)
当選 6 中嶋公雄  522票 (法曹親和会・大同会)
落選   赤瀬康明  305票

法友・親和が東弁の二大会派である。会派とはインフォーマルな派閥のこと。選挙人事は派閥が取り仕切っている。二大派閥による人事壟断に異を唱え、東京弁護士会民主化を掲げて誕生したのが期成会。私もその会員の一人だが、今では既成派閥の一つになったと見る人が多いようだ。各派閥は、それぞれに研修もし親睦も重ねて親密化している。そして、微妙なバランスで、役員選挙を取り仕切っている。会長候補の武内と副会長候補の赤瀬が、この微妙なバランスの外にある。もっとも、この両者はイデオロギー的には正反対の存在。

2月2日ブログに書いたとおり、私が最も注目していたのは、赤瀬康明候補の当落だった。落選したことは、まずは目出度い。しかし、この305という得票数をどう見るべきか。歯牙にかける必要もない少数集団と見てよいのか、泡沫候補と看過し得ないと危機感をもつべきなのだろうか。微妙なところ。

会長・副会長立候補者9名のうち、赤瀬を除く8名は、とにもかくにも弁護士や弁護士会の理念を語っている。会長戦に敗れた武内更一がその熱さにおいて筆頭であるが、いずれも弁護士の使命を語り、その弁護士の使命を全うするための弁護士会のあり方について所信を述べている。赤瀬だけにそれがない。むしろ、「弁護士会を任意加盟にせよ」「弁護士自治など必要はない」「弁護士会の公益活動など無用」「人権擁護活動よりは、会費を安くせよ」という。理念派ではなく、非理念派。真面目派に対して非真面目派。彼と、これを支持した300名にとっては、弁護士とは公益業務ではなく、ビジネスなのだ。弁護士の役割や使命への自覚はなく、専ら経営の安定だけが関心事と見える。

2009年には、赤瀬が所属する弁護士法人(「アデイーレ」)の所長・石丸幸人が東弁会長選挙に立候補して惨敗している。それから6年、弁護士は増員となったが、赤瀬の票は殆ど増えていない。今のところは、理念派が持ちこたえている。

今の世を席巻している新自由主義の波は、司法界にも押し寄せている。全てを市場原理に委ねて何が悪い、という開き直りである。1999年7月、内閣に「司法制度改革審議会」が設置されて本格化した「司法改革」の基調は、この新自由主義にあるというべきであろう。

企業が求めているのは、面倒な理念など持たない、使い勝手のよい安価な「法技術提供者」である。そのような弁護士の大量創出こそが「司法改革」の名で語られた。いま、その需要に応えた弁護士群が育ちつつあるのだ。主観的にはともかく客観的には、彼らは司法改革を推進した財界に弁護士会の内側から公然とこれに呼応する勢力である。警戒を緩めてはならない。
(2015年2月15日)

弁護士会選挙に臨む三者の三様ー将来の弁護士は頼むに足りるか

早春は弁護士会選挙の季節。今週金曜日2月6日が、私の所属する東京弁護士会の会長・副会長・監事・常議員各選挙の投票日となっている。日本最大のマンモス単位会7000人の選挙。いま、その選挙運動がたけなわである。例年のとおり、選挙公報に目を通してみる。

弁護士会の役員たらんとする者、弁護士会運営の理念を語らねばならない。その理念とは、弁護士の使命である人権擁護をいかにして実現せしめるかを中心に据えたものでなくてはならない。現実の社会のあり方や政権の動向から遊離して人権擁護実現の課題はありえない。だから、弁護士会選挙の公約やスローガンは、現実の社会や政権と切り結ぶものとならざるを得ない。

主流会派から今回会長選に立候補している候補者のメインスローガンは、「頼りがいのある弁護士会を」というもの。弁護士にとっての頼りがいではなく、「市民にとって頼りがいのある弁護士会を」という内容である。

選挙公報で彼は次のように語っている。
「…目を国政に転じてみると、立憲主義と恒久平和主義が危機にさらされています。また市民の中には高齢者や障がいのある人などまだまだ弁護士へのアクセスが困難な方がいます。弁護士・弁護士会に期待される、憲法の基本原理を守り、さまざまな人権を擁護する活動は、このような困難な中でも若手会員の参加を得て継続・強化してゆく必要があります」
「基本的人権の擁護は、弁護士の使命です。これまで弁護士会は再審無罪事件の支援など、歴史的に数多くの社会的弱者の人権救済や、人権擁護に資する立法活動に携わってきました。この伝統を受け継ぎ、多分野の人権擁護活動に継続的に取り組んでいきます。特に戦争はあらゆる意味で多くの犠牲者を出す国家の人権侵害です。その危険を除くことも重要な弁護士の使命です。また昨今の人種差別を煽るヘイトスピーチによる人権侵害の救済にも取り組みます」

「集団的自衛権行使容認反対と憲法改正問題」との標題で次の公約もある。
「昨年の閣議決定による集団的自衛権の行使容認は認めることができません。手続き的に立憲主義に反するものであり、恒久平和主義とも相容れません。この閣議決定に基づく関連諸法の改正に対して憲法の基本原理を維持する立場から対応します。また、恒久平和主義を根底から変えようとする憲法改正の動きに対しては断固として反対いたします」
会内の保守的穏健派の良識が表明されていると見てよいだろう。

これに対立して「革新派」候補が立候補している。反権力・反政権の旗幟が鮮明である。「盗聴を容認する日弁連を東弁から変えよう」「 改憲と戦争を阻止する行動に立ち上がろう」などがメインスローガン。

彼は、情勢認識から語る。「再び世界戦争が惹き起こされようとしています。フランスの銃撃・人質殺害事件と、それに対する各国政府の「反テロ戦争」宣言は、そのことを強く危惧させます。銃撃事件の実行者は、それを「イスラム国」に対するフランスの空爆に対する報復・反撃と言っています。結局、アメリカを中心とし、フランス、イギリス、ドイツその他の国が行った中東地域の石油支配をめぐる争奪戦に起因するものであることは間違いありません。
日本も、「集団的自衛権行使」を容認する7.1閣議決定以来、こうした欧米各国に遅れまいとして突き進んでいます。安倍首相は、新たに「存立事態」などという概念を創り出し、「自衛」の名のもとに、日本の軍隊を世界のどこにでも送り込めるようにするため、今通常国会で法整備をすることを言明し、8月15日には「戦後70年談話」を発表し、日本国憲法体制を転覆するつもりです。
戦争は、それによって利益を挙げる一部の富裕層が起こすものであり、民衆にとっては、相手国の民衆との殺し合いを国家から強要され、失うものばかりで益するものは何もありません。
「政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起ることのないようにする」と誓った私たちは、この国の圧倒的多数を占めている労働者民衆とともに力をあわせて、政府の改憲・戦争政策と治安強化立法の制定を阻止することが、今どうしても必要です。私は、東弁会長としてその先頭に立ちます。」

「圧倒的多数を占めている労働者民衆とともに力をあわせて、政府の改憲・戦争政策と治安強化立法の制定を阻止することが、今どうしても必要」だという認識が、革新派たる所以。個別政策テーマでは、刑事司法のあり方に過半の紙幅を割いて、日弁連の妥協的姿勢を厳しく叱正している。

この対向関係が弁護士選挙の基本パターンといってよい。定員6名に7名が立候補した副会長選挙でも大方がこの基本パターンに属する。保守中道的な姿勢で在野精神と反権力を語るか、革新的に明確な政権批判運動へのコミットを口にするか、なのだ。

ところが、副会長候補者の一人だけが、まったく色合いを異にする「マニフェスト」を掲げている。弁護士や弁護士会の理念を語るところがない。むしろ、理念を払拭することをもって、「新たなる弁護士会の幕開け」「『新』世代が起ち上がる、時が来た」という。64期・36歳だという。

彼のいう「弁護士会の変革」とは、「弁護士をサラリーマン化し、弁護士会を会社化すること」にほかならない。公益活動から手を引いて、徹底して会財政をスリム化して、会費を半減しようという。さらに、「任意加入制でよいではないか。弁護士会から受ける利益よりも参加することの負担が大きい人には、弁護士会に参加しない権利も認められるべきです」という。一昔前までは、恥ずかしくてとても公の場では言えないことを、あっけらかんと言ってのけている。彼のいう「新たなる弁護士会の幕開け」は、「恐るべき弁護士会の幕開け」にほかならない。

政治信条が保守であろうと革新であろうと、拠って立つ基盤が財界であろうと労働者であろうと、弁護士は弁護士である。弁護士が弁護士である所以は、在野性にある。権力に縛られることがなく、仲間以外の誰からも監督も指導も受けることはない。その意味では、弁護士会は公的存在でありながら、監督官庁からの指揮監督を受けない国内唯一の組織である。弁護士の懲戒権を弁護士会が有していることの意義を軽んじてはならない。

「あっけらかんマニフェスト」の文中に、こんな言がある。
「現在、弁護士会は強制加入の団体です。しかし、既存の弁護士会には高すぎる会費の問題や政治性の高い活動を行っていることなど強制加入の団体にふさわしくない点があります。懲戒や公益活動についても裁判所や行政の関与で代替可能であり、弁護士会が自ら行う必要はありません」「所得の二極化が進んでいると言われている現状では、若手弁護士は、弁護士会に所属する意味を見出すことができません」「会員利益にならない活動、公益上必要不可欠でない活動、強制加入団体にそぐわない過度に政治的な活動について廃止・縮小を検討し、会費や会務活動の無駄を省きます」

彼が、積極的に何かの課題に取り組むという言及は皆無である。刑事司法制度についても、民事司法制度についても関心があるようには見受けられない。関心は、ただひとつ、弁護士自身が喰っていけるようにせよ、ということ。

なるほど、弁護士会の人権活動や公益活動を費用の無駄と考え、弁護士自治に関心なく、稼ぎに汲々としている若手弁護士が群をなして存在しているのだ。志のない弁護士たち、会社員と同じノリで法律事務所に就職したとの意識の弁護士たち。こんな弁護士が増えつつあることは、保守政権や財界にとっては、確かに「希望の幕開け」といってよい。彼らは、つべこべ言わずに、ひたすら高額の稼ぎを求めて、強者の利益のために働くことを恥と思わない弁護士となるのだろうから。

歌を忘れたカナリヤのごとく、公益性も志も忘れた「資格だけの弁護士群」の拡大は、由々しき問題だと思う。国民から「後ろの山に棄てましょか」とされかねない。いま、人権や平和などの憲法理念の有力な担い手としての弁護士層の役割を頼もしいと思う立場からは、志を失った弁護士の将来像を思うとき、暗澹たる気分とならざるをえない。
(2015年2月2日)

北星学園への卑劣な攻撃を許さないー「電凸・告発」の顛末

各紙に既報のとおり、昨日(12月26日)北星学園関連の第2弾告発状が札幌地検に提出された。告発人は348名(道内154名・道外194名)、告発人代理人の弁護士は438名(道内165名・道外273名)である。第1弾と同じ5名の弁護士が告発人代理人代表として名前を出している。私もその一人だ。

被告発人は「たかすぎしんさく」と名乗る人物。2度にわたって北星学園に架電し、通話の内容を録音したうえ字幕や静止画像を交えて、ユーチューブに投稿するという手口。業務妨害を意図しての「電話突撃」という手法が右翼に定着しているという。これを略して「電凸」(でんとつ)。この用語もネットの世界で定着していると初めて知った。たかすぎしんさくの手口は「電凸」と「ユーチューブ投稿」とを組み合わせたものだ。

たかすぎしんさくのユーチューブ投稿画像は、犯罪行為そのものであるだけでなく、そのまま犯罪の証拠でもある。告訴・告発、あるいは損害賠償請求をするに際して完璧な証拠を入手できるのだから、告発側にはこの上なく好都合なのだ。それだけではなく、捜査機関にとっては、プロバイダーとIPアドレスをたどることによって、被告発人を割り出すことも容易なはず。

われわれが、たかすぎしんさく告発の予定を公にした途端に、問題のユーチューブ画像は閲覧できなくなった。たかすぎしんさくも、これはやばいと思って引っ込めたのだろう。もちろん、録画してあるから今さら撤回しても時既に遅しなのだ。もっとも、早期に自発的に画像の公開を撤回したことは情状において酌むべきことにはなるはずだ。

刑法第233条(業務妨害)は、「虚偽の風説を流布し、又は偽計を用いて、人の信用を毀損し、又はその業務を妨害した者は、3年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。」と定める。
行為態様は「虚偽の風説の流布」「偽計」の2通り、法益侵害態様は「信用を毀損」「業務を妨害」の2通りである。その組み合わせによるバリエーションは4通りとなってどれでも可罰性があることになるが、われわれは、最初からユーチューブ投稿を目論んでの電凸は、「虚偽の風説の流布による業務妨害」にぴったりだと考えた。

北星学園に対する電話での業務妨害の典型としても、また右翼の常套手段となった電凸に対する制圧策としても、たかすぎしんさく電凸は、一罰百戒の効果をも期待しうるものとして恰好の告発対象なのだ。

虚偽の風説とは、ユーチューブ画像の中で、たかすぎしんさくが繰りかえし口にしている、「国賊大学」「嘘つき大学」「犯罪者を採用」「爆破予告電話は自作自演」等の表現をいう。これをユーチューブに流して不特定多数の誰もが閲覧できるようにしたことが「流布」に当たるのだ。
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12月26日午後2時45分、告発人代理人弁護士8名が、札幌地検を訪れ、渡邉特別刑事部長立会いのもと、特別刑事部志村康之検事に、告発状・告発人目録・告発人代理人目録・各資料・委任状を提出した。

席上、告発人代理人から担当検事に、告発の趣旨を説明し、たかすぎしんさくの人物特定のための情報を提供した。この間、志村検事はきちんとメモを取っていたと報告されている。

また、渡邉部長から、「今回の告発人は弁護士以外の人なのですね」との確認の発言があり、さらに「3回目の告発もあるのですか」と、和やかな雰囲気だったという。

その後、3時10分から札幌弁護士会館で記者会見が行われた。

会見席の横断幕には、
「言論への批判は堂々と言論で」
「教員を解雇させるため根拠のない事実を広めることは犯罪だ!!」
と大書されていた。なお、記者会見の主体は、「国賊大学等虚偽の風説を流布する行為を告発する全国告発人・弁護士有志」である。

テレビを含む会見参加のメデイアに対して、告発代理人を代表して郷路征記弁護士から約30分にわたって、告発の経過、犯罪事実の説明、犯情の悪さ等の説明があった。記者の関心は高く、質疑は活発だったと報告されている。

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第1弾・第2弾と、果敢に告発を重ねたこと、しかも告発の動きを隠密理にするのではなく公然と目に見える形で行ったことが、右翼の卑劣な攻撃を掣肘する効果に結実していると思う。このことは味方をも励まし、植村隆さんの雇用継続に一定の貢献もしたのではないかと思っている。

朝日バッシングの理不尽な蠢動に対しては、しばらくは有効な反撃がなかった。右翼勢力のなすがままに、やられっぱなしだったのではないか。これを見て図に乗った有象無象の輩がこれくらいのことはやってもよいと、勘違いしてしまったのだ。なにしろ、歴史修正主義の大立者が内閣総理大臣となっているこの時代の空気なのだから。

それでも、犯罪は犯罪、そして犯罪には刑罰である。手をゆるめずに刑事告発の目を光らせることは、不当な業務妨害を制圧するための効果は大きい。扇動する者と乗せられる者があり、とりあえずは着実に乗せられた者を摘発するしかないが、メディアや評論家など煽った者たちの責任は大きい。

ところで、告発代理人となった弁護士たちは相当の時間も労力も使った。東京での作戦会議に、札幌や大阪からの参加は身銭を切ってのものだ。しかし、これは誰に依頼されての仕事でもない。強いて言えば、今危うくなっている、日本の民主義が依頼者である。哀しいかな、この依頼者は弁護士報酬を支払う意欲も能力もない。もちろん、民主主義以外に弁護士たちに指示や指令をする者はなく、400名を超す弁護士内部の誰にも他に対する命令権限などあろうはずもない。すべての告発人代理人となった弁護士たちは、まったく自発的に弁護士法に基づく弁護士としての使命を実践したのだ。

この告発準備において意見を交換したメーリングリストの最後に、次のような投稿があった。

日本の民主主義になり代わってお礼を申しあげます。
何ごとかを成し遂げたという、この充実感こそが仕事への唯一の報酬。
一番苦労した人が、一番その充実感を味わうことになる。だから、一番多くの報酬を受けることにもなる。

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告  発  状

2014年(平成26年)12月26日

札幌地方検察庁検察官殿

告  発  人  別紙告発人目録に記載   (計348名)

告発人代理人共同代表 弁護士 阪口徳雄  (大阪弁護士会)
告発人代理人共同代表 弁護士 中山武敏(第二東京弁護士会)
告発人代理人共同代表 弁護士 澤藤統一郎 (東京弁護士会)
告発人代理人共同代表 弁護士 梓澤和幸  (東京弁護士会)
告発人代理人共同代表 弁護士 郷路征記  (札幌弁護士会)
上記代表を含む別紙告発人代理人目録記載の弁護士(438名)

被 告 発 人 たかすぎしんさく こと 住 所 氏 名 不 詳 者
(以下、本告発状では「被告発人たかすぎ」という)

第一 告発の趣旨
被告発人たかすぎの下記各行為は、刑法233条(虚偽の風説の流布による業務妨害罪・以下、「業務妨害罪」という。)に該当することが明らかである。
しかも、同被告発人の行為態様は、虚偽の風説をインターネットの動画サイトを利用することによって流布するものであるため、これまでには考えられない規模の多数人に対する伝播が行われ、しかも日々その規模は増大しつつある。その結果、業務妨害の法益侵害は規模が大きいというだけでなく、それが現に累積増加しつつあり、直接間接に影響が深刻化している。
貴職におかれては、本件の上記特徴を的確に把握のうえ、早急に被告発人たかすぎに対する捜査を遂げ、厳正な処罰をされたく、告発する。

第二 告発事実
第1 2014年(平成26年)8月7日インターネット動画掲載に関わる件
被告発人たかすぎは、2014年(平成26年)8月上旬、元朝日新聞記者である植村隆氏が非常勤講師として勤務する学校法人北星学園(理事長 大山綱夫)が運営する北星学園大学(学長 田村信一。札幌市厚別区大谷地西2丁目3番1号所在。以下、「同大学」という)の代表電話に架電し(以下、「本件電話1」という。)、対応した同大学事務局学生支援課のかわもと某(以下、「かわもと」という。)に対して、「植村さんは国賊に近い方なんですよ。・・・そういう問題があって神戸の松蔭学院大学も、これ採用を止めたんですよ。不適格やて。そういう方をおたくはね、そういう事実をわかっとって採用されてるんですよ。ね、北星学園大学はね、国賊大学いうことなるんですよ。こういうことやっとったら。」(以下、「虚偽事項1」という。)と虚偽を申し向け、さらに、本件電話1によるかわもととのやり取りを自ら録音し、その音声ファイルに同大学の校舎を写した静止画像と字幕をつけて動画ファイルとし、同年8月7日、インターネットの動画共有サイトであるYouTubeにこれをアップロードし、上記虚偽事項1を含む本件電話1を誰もが聴取可能なものとして公開し、もって虚偽の風説を流布して同大学の業務を妨害した。

第2 2014年(平成26年)10月2日インターネット動画掲載に関わる件
被告発人たかすぎは、同年10月2日、再び同大学の代表電話に架電(以下、「本件電話2」という。)し、対応した同大学事務局の氏名不詳某に対して、「もう9月以降のカリキュラムに植村さんの名前が入っとった言うてるやんか、調べたら。北星学園大学は嘘つきの大学なんですか、これ。そういうことになりますよ。」(以下、「虚偽事項2」という。)と語気鋭く申し向け、又、「北星学園大学ゆうところは、国賊の人間を採用しているゆうことでよろしいんですか」、「北星学園大学の、これ大変なことになりますよ。こういうことやられとったら。犯罪者をね、採用するなんてふざけたことをしなさんな!これ。違いますか、これ。犯罪以上のもんですよ、この方は。」(以下、「虚偽事項3」という。)と語気鋭く申し向け、さらに本件電話2による氏名不詳従業員某とのやりとりを自ら録音し、その音声ファイルに同大学の校舎を写した静止画像と、「『脅迫文』や『爆破予告電話』などは国賊、植村隆を擁護し、雇用している同大学への批判をかわす為の『自作自演』の可能性があると思います。」(以下、「虚偽事項4」という。)との文言を含む字幕をつけて動画ファイルとし、同日、インターネットの動画共有サイトであるYouTubeにこれをアップロードし、上記虚偽事項2、3を含む本件電話2と虚偽事項4を含む字幕を誰もが閲覧・聴取可能なものとして公開し、もって虚偽の風説を流布して同大学の業務を妨害した。

第三 構成要件該当性について
1 「業務妨害罪」における虚偽の風説の流布とは、真実と異なった内容の事項を不特定又は多数の人に伝播させることをいう(「条解刑法 第3版」691頁 9?10行目)。
以下、同書に従って個々の構成要件要素について検討する。
2 客観的構成要件要素
(1) 虚偽とは「客観的真実に反すること」(客観説)とするのが、一貫した判例(大判明治44年12月25日)の立場である。
本件における「国賊大学」「嘘つき大学」「犯罪者を採用」「爆破予告電話は自作自演」等の表現は、その表現が表す事実自体が真実に反するという意味において明らかな虚偽である。
のみならず、憲法23条は学問の自由を保障し、大学は高度の自治を保障されている。大学教員の人事はその自治の重要な一環であって、外部からの大学の人事への介入こそが違法な行為である。大学の人事に不当な攻撃を加えて「国賊」「嘘つき」などとその社会的評価をおとしめようとする論難自体が「業務妨害罪」における「虚偽の風説」に該当するものである。
以上のとおり、同大学は「国賊」でも「嘘つき」でもなく、また「犯罪者を採用した」「爆破予告電話を自作自演した」事実もない。
これに対して、被告発人側から「当該表現は侮蔑的ではあっても意見・論評に過ぎなく、真偽の判断に馴染まない」との弁明のあることが考えられる。しかし、意見・論評であっても後記のとおり、業務妨害罪の構成要件たる「風説」に該当するものとしてこの弁明はなりたたない。また、当該意見ないし論評の根拠たる事実が一見明白に真実に反することにおいてもそのような弁明のなり立つ余地はない。
なお、虚偽はある事項の全部について真実に反することを要せず、一部で足りるものと解されている。
(2) 風説とは一般には噂のことであるが、噂という形で流布されることが必要でなく、行為者自身の判断・評価として一定の事項を流布させる場合であっても良いとされている。したがって、「国賊大学」とは被告発人たかすぎの同大学に対する判断・評価と解されるが、それそのものが、業務妨害罪の構成要件たる「風説」に該当するのである。
なお、虚偽の風説は、具体的事実を適示する必要はなく(大判 明治45年7月23日)、悪事醜業の内容を含んでいることも必要ではない(大判 明治44年2月9日)とされている(同書 691頁 下から5?1行目)。
(3) 流布とは不特定、または多数の人に伝播させることを言うが、必ずしも行為者自身、自らが直接に不特定又は多数の人に告知する必要はないとされ、他人を通じて順次それが不特定又は多数の人に伝播されることを認識して行い、その結果、不特定又は多数の人に伝播された場合も含むとされている(同書 692頁 1行目?4行目)
本件電話1および同2をインターネット動画共有サイトであるYouTubeにアップロードした被告発人たかすぎの行為は、極めて強力な不特定多数者への伝播手段の利用であって、法の想定をはるかに超えた態様としての「風説の流布」に該当するものというべきである。
(4) 以上のとおり、被告発人たかすぎは、客観的真実に反する本件各虚偽事項を風説として不特定かつ多数の人に伝播したものであるから、その行為の構成要件該当性に疑問の余地はない。
(5) もっとも、虚偽とは「行為者が確実な資料・根拠を有しないで述べていた事実である」という主観説の立場がある。主観説に基づく判例としては、東京地方裁判所昭和49年4月25日判決(判例時報744号 37頁)が指摘されている。
本件の場合には、被告発人たかすぎが確実な証明に必要な資料・根拠を何ら有することなく各虚偽事項を述べたことは明らかと言うべく、主観説の立場からも、虚偽の事項を述べたものとして構成要件該当性に問題がない。
3 故意
(1) 客観説の故意の内容については、行為当時に知られていた当該事実に関して真実とされる客観的知見を基準にして、これと齟齬する認識があることである。
また、主観説によれば、自己の言説が確実な根拠・資料に基づかないことの認識が故意とされる。
(2) 本件における「国賊大学」「嘘つき大学」「犯罪者を採用」「爆破予告電話は自作自演」等の表現は、当時知られた客観的な事実に照らして大きく齟齬していることが明白であることから客観説における故意の存在が推認されるべきは自明と考えられる。
また、被告発人たかすぎが、上記各虚偽事項の真実性を確実とする根拠・資料を有していることはあり得ないと考えられることから、主観説を採用するとしても、故意の存在は明らかである。
(3) なお、本件各虚偽事項における「国賊」「嘘つき」などの表現が侮蔑的な評価ないし意見であるとしても、当該の表現を含む言説が風説として流布されれることによって同大学の業務を妨害する危険があることを認識していれば、故意の成立を妨げない。また、その評価の根拠たる事実が真実でないことについて被告発人たかすぎは認識していたものというべきであり、その立証にたりる確実な資料を有していないことも明らかであるから、この点についての故意の存在も疑問の余地がない。
4 結論
以上のとおり、被告発人たかすぎの本件各架電とインターネットサイトへの各掲載によって同大学の業務を妨害したものとして、業務妨害罪の外形的構成要件要素の充足に疑問の余地なく、かつ故意の存在も当然に推認される。また、本罪は抽象的危険犯とされ、具体的な業務への支障の発生を要件とするものではない。したがって、被告発人たかすぎの同大学に対する業務妨害罪の構成要件該当性は明らかである。
5 なお、同じ罰条(刑法233条)には、「虚偽の風説の流布」と並んで、「偽計による」業務妨害の構成要件が規定されている。
「虚偽の風説の流布」と「偽計」との関係については、虚偽の風説の流布も偽計の一態様であるとし、偽計の概念の中に虚偽の風説の流布が含まれるとする見解が妥当であるとされており、(同書 693頁 18?20行目)本件を「偽計による業務妨害」として把握することも可能と思われる。
しかし、本件の場合には、虚偽の風説の流布に該当することが明らかな事例であるから、偽計による業務妨害罪によらずして、典型性の高い虚偽の風説の流布による業務妨害罪として立件すべきが相当と考えられる。

第四 本件犯行の背景と告発の動機
1 同大学の非常勤講師である植村氏が元朝日新聞の記者としていわゆる従軍慰安婦問題の記事を書いたのは1991年(平成3年)8月11日付の朝日新聞大阪本社版朝刊であるが、それが捏造記事であるとして植村氏を糾弾、社会的に抹殺せんとする動きが2014年(平成26年)2月6日付週刊文春(同年1月末発行)の「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」と題する記事以降急速に強まった。
植村氏の解職を求める電話等が植村氏本人にではなく、その雇用主になる予定の神戸松蔭女子学院大学に対して1週間で250通集中するという事態が発生し、それによって同大学は植村氏に対し、教授に迎え入れられる状況ではない、学生募集に支障がでるとの判断を示し、同大学内に何の繋がりも持たなかった植村氏は、教授就任を諦めざるを得なかった。植村氏は同大学教授への就任のため朝日新聞社を退社する手続をとっており、同年3月末、同社を退社となった。
2 その後、植村氏が北星学園大学の非常勤講師として勤務していることが知られるところとなり、同氏の解職を求める電話、メール、手紙が同大学に集中することになった。
それらの中でも電話によるものは特に業務への妨害性が高いが、ネットでは抗議や要求等をする電話のことは「電凸」(電話突撃の略で、「でんとつ」と読む)と称されており、本人ではなく雇用主や広告主などの第3者に対して電凸することが、意図的に煽られている。その方が圧倒的に高い効果を得られるからと言われている。
被告発人たかすぎの本件2回の電凸行為は、同大学への架電して大学側の対応を自ら録音しておいて、それをYouTubeにアップロードして社会に公開し、誰もが閲覧、聴取可能なようにしたというところに極めて大きな特徴がある。
本件電話1のYouTube閲覧者数は12月8日現在で42,135名、本件電話2のYouTubeに関しては7,922名であって、個人が他の手段では到底達することができない多数への伝播となっている。そればかりではない。YouTubeにアップされた被告発人たかすぎの電凸ファイルは、
保守速報(http://hosyusokuhou.jp/archives/39576639.html)
嫌韓ちゃんねる(http://ken-ch.vqpv.biz/no/1206.html)等
のブログにダウンロードされて、そこで閲覧可能となり、そこでも電凸が煽られて電凸が更に広まっていくという事態が進行している。
以上のとおり、被告発人たかすぎの本件各電凸は、同大学に対する電凸攻撃を煽り、そそのかす役割を果たしているものである。そして、その役割は現時点でも日々継続している。
3 被告発人たかすぎの本件犯行の動機は、偏に植村氏の言論が自分の主義主張に反していたからということだけを理由に、植村氏に私的なリンチを加えて、社会的抹殺することを企て、そのための手段として同大学から失職させることを目的として、本件各電凸行為をおこなっているのである。
植村氏は、現在実質的に生計の道を断たれた状態にあり、それに加えて同大学の非常勤講師としての職をも失わせようという被告発人たかすぎの本件犯行は、非人道的なものとして犯状極めて悪質と言わなければならない。
また、被告発人たかすぎの本件各行為は、植村氏の言論とは全く関係のない雇用主である同大学の業務を妨害するという極めて卑劣なものである。本件「電凸行為」は同大学の新入生勧誘等の業務を具体的に妨害することなど、業務の支障は大きくこの点でも不当卑劣、犯状悪質と言わざるを得ない。
被告発人たかすぎの本件行為等の結果、同大学に対する抗議電話やメールは累計2000件以上だという。同大学が被告発人たかすぎの行為によって、多大な業務上の妨害を受けていることは明らかである。雇用主に電凸しそれをインターネットで伝播することによって被告発人たかすぎは、その不当な目的達成のため、信じられないほど大きな効果を獲得しているのである。
この日本の社会の平穏を確立し、自由に語り自由に書ける安心な国として維持してゆくために、本件のごとき犯罪の防遏に対する捜査機関の果敢な決断が、今、求められていると我々は考える。
本件犯行に対して、可及的速やかに厳正な捜査を遂げて、被告発人たかすぎの処罰を求めるものである。

第五 立証方法(略)

(2014年12月27日)

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