商品には、消費者が期待する品質の保証が必要だ。品質の不良にも、商品の欠陥にも業者は消費者に責任を負わねばならない。
議員にも、選挙民が期待する品質の保証が必要だ。議員の資質不良にも欠陥にも、政党が責任を負わねばならない。
武藤貴也という、安倍自民党が粗製濫造した議員の欠陥が明らかとなった。安倍自民党はこれに責任を負わねばならない。邪魔な尻尾として切って捨てて、「それは仕方がない」というだけの安倍晋三の姿勢は無責任の極みだ。
商品に欠陥があって消費者被害が生じたときには、欠陥商品を製造・輸入・販売した事業者に無過失の賠償責任が生じる。消費者保護の思想から導かれる製造物責任(product liability)の観念である。何を欠陥とし、どの範囲の業者に、どの範囲の賠償をさせるか、具体的な立法政策には幅があるものの、資本主義的財産法の大原則とされた「過失なければ責任なし」を大転換するものである。
我が国でも、1995年に製造物責任法(PL法)が施行されて20年となった。消費者保護の思想が実定法化されて既に定着している。経済社会でのこの常識が、政治の世界でも通用しなければならない。自民党は、自らが公認して当選したこの議員の欠陥を洗い出し、謝罪した上、しかるべき責任のとりかたを考えなければならない。それが最低限の常識的な政党のありかたであろう。
武藤貴也という、このいかがわしい人物は、滋賀4区で当選し「安倍チルドレン」の一人として衆議院議員となった。当選すれば議会での貴重な一票をもつ。もちろん、戦争法案の強行採決に加わっている。安倍応援団の一人として、「マスコミ弾圧勉強会」参加者の一員でもあった。
未熟で実績のないこの人物が当選できたのは、偏に自民党公認であったからである。安倍自民党が製造した議員といってよい。あるいは、安倍自民党が保証マークをつけて売り出した議員だ。その欠陥が明らかになった途端に、離党届を受理して「ハイ、おしまい」。それはないよ。
武藤貴也が何者であるか、選挙民はよくは知らない。それでも投票したのは、自民党公認だったからだ。自民党の保証マークを信用したからだ。その安倍自民党印議員の欠陥が明らかになったのだから、自民党が責任をとらねばならないのは当然ではないか。
私は、議員の品質のレベルを、「選良」というにふさわしいものと考えているわけではない。自民党議員に、市民の意見に耳を傾け、これを政策化して実現する誠実さと能力など求めていない。そんな品質を望むことは、木に縁って魚を求むるの類であろう。武藤のお粗末さは、常識的通常人には遙かに遠い恐るべきレベルなのだ。
武藤なる人物をいかがわしいと言い、議員としての資質に明らかな欠陥というのは、週刊文春が報じる彼の友人Aへの「LINE(ライン)」の記録による。
「来月新規公開株の取引の話しがあり、最低でも2倍になると言われています。内々で俺(武藤)に取引を持ちかけているのだけど元手がありません」「株の枠を抑(ママ)えてもらっていることは本当なので」「この件はクローズだからね。正直証券会社からも、『うちが国会議員のために枠を抑えてるのが一般に知れたら大変だ』と言っています。その辺呉々も注意してください」というもの。
8月19日発売の週刊文春によれば、武藤は昨年「国会議員枠で買える」と未公開株購入を知人らに勧め、その結果23人が計4104万円を武藤の政策秘書名義口座に振り込んだ。しかし、株は実際には購入されず、出資金の一部は戻っていないという。また、Aは、「新宿の喫茶店で武藤本人から直接説明を受けた」と述べている。
武藤は、その後弁明はしているものの、週刊文春の記事を否定していない。ラインの記録もAへの説明の内容も事実上その正確性を認めている。武藤とAとのトラブルについては、武藤側の言い分があるようだが、23人に4104万円を振り込ませて一部を流用し今なお700万円を未返還であることは争いないと見てよいようだ。
ラインに残る武藤の「勧誘文言」は、詐欺罪の構成要件に該当する欺罔行為となる公算が高い。未公開株詐欺と同様の手口なのだ。議員自身が「国会議員枠」の存在を強調している点は明らかに欺罔であり、ばれないように秘密を守れといっている点などは、タチが悪く常習性すら感じさせる。
自民党は、武藤の離党届を受理してはならない。党公認の議員としての適格性を検証し吟味しなければならない。事実関係を洗い出し、とりわけ詐欺の故意の有無を徹底して検証の上、除名を含む厳正な処分をしなければならない。そして、当該選挙区の選挙民を含む主権者国民に経過を報告するとともに、責任の所在を明らかにして謝罪しなければならない。さらには、粗製濫造の安倍チルドレンの中に、他にも欠陥議員がないかを十分に点検しなければならない。
以上が常識的なところだが、私はこれでは済まないと思う。自民党は、自分が当選させた欠陥候補者の選挙をやり直す責任があると思う。商品に欠陥ある場合、消費者は完全な他の商品の引渡を求める権利がある。いわゆる代物請求権である。
滋賀4区の有権者は、いや国民は詐欺犯もどきの欠陥議員をつかまされっぱなしで、衆議院議員としての居直りを許していることになる。いまや滋賀4区の恥となった欠陥議員についての代物請求権の行使が認められなければならない。こんな人物と知っていればよもや有権者が投票したはずはない。この議席はだまし取られたものなのだ。自民党が選挙民の代物請求に誠実に向き合う方法は、武藤を説得して議員辞職をさせることだ。それができれば、選挙民は欠陥議員に代えた新たな議員を選任する機会をもつことになる。再びの欠陥議員選任のリスクは…、まあ少なかろう。
(2015年8月20日)
政治資金規正法の運用は厳正になされなければならない。なぜなら、それこそが政治の透明性を確保し、政治を市民の監視下におくことを通じて政治の腐敗を防止する主たる手段とされているからだ。政治資金収支報告書の作成に、厳格な正確性が求められることは当然である。
法の支配を政治の原理とする国家においては、行政府の長に厳格な法の遵守が求められる。日本にあっては、内閣総理大臣に厳正な法令遵守が求められる。とりわけ政治資金規正法にもとづく政治資金収支報告書の記載には、首相なるが故の厳格な記載の正確性が求められてとうぜんである。
首相の政治資金規正法の記載に16個所の虚偽記載が見つかった。明らかに、構成要件に該当する犯罪行為である。政治の透明性確保が、民主政治に死活的に重要であることと考える市民4人がこれを告発したが、東京地検は不起訴処分とした。
不起訴には納得しがたいとして、本日その4人が検察審査会に、起訴相当の議決を求めて審査申立をして受理された。
以下は、その申立書の全文である。
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2015年8月19日
審 査 申 立 書
東京 検察審査会 御 中
被 疑 者 下記の両名
◇ ◇ ◇ 美
住 所 不詳
職 業 不詳(団体事務職員と思われる)
安 倍 晋 三
住 所 不詳(国会議員としての事務所所在地は、
〒100-8981東京都千代田区永田町2-2-1
衆議院第一議員会館1212号室)
職 業 国会議員(内閣総理大臣)
申 立 人 被疑者両名の告発人であった下記4名
醍 醐 聰
田 島 泰 彦
湯 山 哲 守
斎 藤 貴 男
申立人ら代理人
弁護士 澤 藤 統一郎
同 阪 口 徳 雄
同 神 原 元
同 藤 森 克 美
同 野 上 恭 道
同 山 本 政 明
同 茨 木 茂
同 中 川 素 充
添 付 資 料
疎明資料(すべて写) 下記各1通
1 処分通知書各申立人宛のもの各1通
2 晋和会2011(平成23)年分政治資金収支報告書 訂正以前のもの
3 同上訂正後のもの
4 晋和会2012(平成24)年分政治資金収支報告書 訂正以前のもの
5 同上訂正後のもの
6 「サンデー毎日」2014年7月27日号関連記事抜粋
委任状 4通
申 立 の 趣 旨
被疑者◇◇◇美及び同安倍晋三に下記各政治資金規正法違反の犯罪行為があって告発がなされたにもかかわらず、いずれの被疑者についても不起訴処分となったので、被疑者◇◇◇美については政治資金規正法第12条第1項・第25条第1項にもとづき、被疑者安倍晋三については政治資金規正法第25条第2項にもとづき、いずれも「起訴相当」もしくは「不起訴不当」の議決を求める。
申 立 の 理 由
第1 告発と不起訴処分の経過
1 申立人らは、2014年8月18日東京地方検察庁検察官に対し後記の各被疑事実について被疑者◇◇◇美及び同安倍晋三をいずれも政治資金規正法違反の罪名で告発したところ、同告発については2015年7月27日付で不起訴処分(平成27年検第23108号・23109号)とする旨の通知に接した。
同不起訴処分をした検察官は、東京地方検察庁廣田能英検事である。
2 前項の処分の当日午後2時過ぎに、廣田検事から申立人ら代理人の澤藤に処分内容を通知する電話があり、口頭で「不起訴の理由は、被疑者◇◇◇美については嫌疑不十分、被疑者安倍晋三については嫌疑なし」との説示があった。
なお、翌7月28日付朝日新聞朝刊(第37面)には、同じ内容の記事が掲載されている。
第2 被疑事実ならびに罪責
1 被疑者◇◇◇美は、2011(平成23)年当時から現在に至るまで政治資金規正法上の政治団体(資金管理団体)である「晋和会」(代表者 安倍晋三、主たる事務所の所在地 東京都千代田区永田町2?2?1 衆議院第一議員会館1212号室)の会計責任者として、同法第12条第1項に基づき同会の各年の政治資金収支報告書を作成して東京都選挙管理委員会を通じて総務大臣に提出すべき義務を負う者であるところ、2012年5月31日に「同会の2011(平成23)年分収支報告書」について、また2013年5月31日に「同会の2012(平成24)年分収支報告書」について、いずれも「寄附をした者の氏名、住所及び職業」欄の記載に後記「虚偽記載事項一覧」のとおりの各虚偽の記載をして、同虚偽記載のある報告書を東京都選挙管理委員会を通じて総務大臣宛に提出した。
被疑者◇◇◇美の以上の各行為は同法第25条第1項3号に該当し、同条1項によって5年以下の禁錮または100万円以下の罰金を法定刑とする罪に当たる。
2 被疑者安倍晋三は、資金管理団体「晋和会」の代表者として、同会の会計責任者の適正な選任と監督をなすべき注意義務を負う者であるところ、同会の会計責任者である被疑者◇◇◇美の前項の罪の成立に関して、同被疑者の選任及び監督について相当の注意を怠った。
被疑者安倍晋三の以上の行為は、政治資金規正法25条第2項に基づき、50万円以下の罰金を法定刑とする罪に当たる。
3 虚偽記載事項一覧
2011(平成23)年分 (2012年5月31日作成提出)
・寄付者小山好晴について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「NHK職員」あるいは「団体職員」
・寄付者小山麻耶について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「会社員」
・寄付者周士甫について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「会社員」
・寄付者すぎやまこういちについて職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「作曲家」
・寄付者神浩人について職業欄の「医師」という表示が虚偽
→正しくは「法人役員」
・寄付者中川稔一について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「団体役員」
・寄付者井上時男について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「無職」
・寄付者吉永英男についての職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは弁護士
2012(平成24)年分 (2013年5月31日提出)
・寄付者小山好晴について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「NHK職員」あるいは「団体職員」
・寄付者小山麻耶について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「会社員」
・寄付者周士甫について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「会社員」
・寄付者すぎやまこういちについて職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「作曲家」
・寄付者中川稔一 について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「団体役員」
・寄付者宇田川亮子について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「会社員」
・寄付者神浩人について職業欄の「医師」という表示が虚偽
→正しくは「法人役員」
・寄付者井上時男について職業欄の「会社役員」という表示が虚偽
→正しくは「無職」
4 本件虚偽記載発覚の経緯
本件の発覚は、NHKの職員(チーフプロデューサー)である小山好晴が有力政治家安倍晋三(現首相)の主宰する政治団体(資金管理団体)に政治献金をしていることを問題としたマスメディアの取材に端を発する。
「サンデー毎日」本年7月27日号が、「NHKプロデューサーが安倍首相に違法献金疑惑」との見出しを掲げて報道した。同報道における「NHKプロデューサー」とは小山好晴を指し、「NHK職員による安倍首相への献金の当否」を問題とするものであった。また、同報道は小山好晴の親族(金美齢)の被疑者安倍晋三への献金額が政治資金規正法上の量的制限の限度額を超えるため、事実と認定された場合は脱法行為となる「分散献金」を隠ぺいするために小山好晴からの名義借りがあったのではないかという疑惑を提示し、さらに、政治資金収支報告書上の寄付者小山好晴の「職業」欄の「会社役員」という表示について、これを虚偽記載と疑う立場から検証して問題とするものであった。
小山好晴が「NHK職員」であることは晋和会関係者の知悉するところである。政治資金規正法(12条第1項1号ロ)によって記載を義務付けられている「職業」欄の記載は、当然に「NHK職員」あるいは「団体職員」とすべきところを「会社役員」と記載したことは、被疑者安倍晋三に対するNHK関係者の献金があることをことさらに隠蔽する意図があったものと推察される。
「サンデー毎日」が上記記事の取材に際して小山好晴らに対して「会社役員」との表示は誤謬ではないかと問い質したことがあって、その直後の7月11日晋和会(届出者は被疑者◇◇)は小山好晴の「職業」欄の記載を、「会社役員」から「会社員」に訂正した。しかし、小山は「会社員」ではなく、訂正後の記載もなお虚偽記載にあたる。
晋和会(届出者は被疑者◇◇)は、7月11日に寄付者小山麻耶(小山好晴の妻・金美齢の子)についても、「会社役員」から「会社員」に訂正している。この両者について、原記載が虚偽であったことを自認したことになる。
さらに7月18日に至って、晋和会(届出者は被疑者◇◇)は、自ら、後記「虚偽記載一覧」に記載したその余の虚偽記載についても訂正届出をした。合計16か所に及ぶ虚偽記載があったことになる。
申立人(告発人)らにおいて虚偽記載を認識できるのは寄付者小山好晴についてのみで、その余の虚偽記載はすべて政治資金収支報告書の訂正によって知り得たものである。当然に、訂正に至らない虚偽記載も、訂正自体が虚偽である可能性も否定し得ないが、申立人らは確認の術を持たない。
5 本件各記載を「虚偽記載」と判断する理由
政治資金規正法第12条第1項・第25条第1項の虚偽記載罪の構成要件は、刑法総則の原則(刑法第38条第1項)に従って本来は故意犯と考えられるところ、政治資金規正法第27条第2項は「重大な過失により第25条第1項の罪を犯した者も、これを処罰するものとする」と規定して、重過失の場合をも含むものとしている。
その結果、「虚偽記載」とは行為者が「記載内容が真実ではないことを認識した場合の記載」だけでなく、「重大な過失により誤記であることを認識していなかった場合の記載」をも含むものである。
申立人らは、被疑者◇◇に、寄付者小山好晴の職業欄記載については、故意があったものと思料するが、構成要件該当性の判断において本件の他の虚偽記載と区別する実益に乏しい。
刑法上の重過失とは、注意義務違反の程度の著しいことを指し、「わずかな注意を払いさえすれば容易に結果回避が可能であった」ことを意味する。本件の場合には、「わずかな注意を払いさえすれば容易に誤記であることの認識が可能であった」ことである。
本件の「虚偽記載」16か所は、すべて被疑者◇◇において訂正を経た原記載である。小山好晴の職業についての虚偽記載を指摘されて直ちに再調査の結果、極めて容易に誤記であることの認識が可能であったことを意味している。すべてが、「わずかな注意を払いさえすれば容易に誤記であることの認識が可能であった」という意味で、注意義務違反の程度が著しいことが明らかである。
以上のとおり、被疑者◇◇の行為は、指摘の16か所の記載すべてについて、政治資金規正法上の虚偽記載罪の構成要件に該当するものと思料される。
なお、被疑者◇◇の犯罪成立は、虚偽記載と提出で完成し、その後の訂正が犯罪の成否に関わるものでないことは論ずるまでもない。
6 被疑者安倍晋三の罪責
政治資金規正法第25条第2項の政治団体の責任者の罪は、過失犯(重過失を要せず、軽過失で犯罪が成立する)であるところ、会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合には、当然に過失の存在が推定されなければならない。資金管理団体を主宰する政治家が自らの政治資金の正確な収支報告書に責任をもつべきは当然だからである。
被疑者安倍において、当該会計責任者の虚偽記載を防止できなかったことを首肯せしめる特別の事情がない限り、会計責任者の犯罪成立があれば直ちにその選任監督の刑事責任も生じるものと考えるべきである。
とりわけ、被疑者安倍晋三は、被疑者◇◇が晋和会の2012(平成24)年分の政治資金収支報告書を提出した約半年前から内閣総理大臣として行政府のトップにあって、行政全般の法令遵守に責任をもつべき立場にある。自らが代表を務める資金管理団体の法令遵守についても厳格な態度を貫くべき責任を負わねばならない。
なお、被疑者安倍晋三が本審査申立に対する決議の結果、起訴に至って有罪となり刑が確定した場合には、政治資金規正法第28条第1項によって、その裁判確定の日から5年間公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権を失う。その結果、被疑者安倍晋三は公職選挙法99条の規定に基づき、衆議院議員としての地位を失う。
また、憲法第67条1項が「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」としているところから、衆議院議員としての地位の喪失は、仮にその時点まで被疑者が安倍晋三が内閣総理大臣の地位にあった場合には、その地位を失うことを意味している。
そのような結果は、法が当然に想定するところである。いかなる立場の政治家であろうとも、厳正な法の執行を甘受せざるを得ない。本件審査申立における議決に、特別の政治的な配慮が絡むようなことがあってはならない。臆するところなく、厳正な議決を求める次第である。
第3 不起訴処分を不当とする理由
1 以上の次第で、被疑者◇◇についても、被疑者安倍についても、被疑事実の証明は添付の資料をもって十分である。
しかるに、東京地検検事はこの両者を不起訴処分とした。しかも、口頭(電話)での説示によれば、被疑者安倍晋三については、「嫌疑なし」とのことである。到底納得し得ず、検察審査会の市民感覚に期待して、「起訴相当」あるいは「不起訴不当」の決議を求めるものである。
2 なお、被疑者安倍の罪責とされているものは、被疑者◇◇の選任監督における過失である。これを嫌疑なしとして免責するためには、◇◇の虚偽記載について嫌疑なしと結論づけることが、論理の必然として要求される。
被疑者◇◇の嫌疑について、「なし」ではなく「不十分」であることは、嫌疑を払拭しえなかったということであり、その◇◇の選任監督の責任についても「なし」とすることは論理の破綻と指摘せざるを得ない。
3 本件は決して軽微な罪ではない
政治資金規正法は、政治資金の流れについて透明性を徹底することにより、政治資金の面からの国民の監視と批判を可能として、民主主義的政治過程の健全性を保持しようとするものである。
法の趣旨・目的や理念から見て、政治資金収支報告書の記載は、国民が政治の動向を資金面から把握し監視や批判を行う上において、この上なく貴重な基礎資料である。したがって、その作成が正確になさるべきは、民主政治に死活的な重要事項といわざるを得ない。それ故に、法は刑罰の制裁をもって、虚偽記載を禁止しているのである。
本件16か所の「虚偽記載」(故意または重過失による不実記載)は、法の理念や趣旨から到底看過し得ない。特に、現首相の政治団体の収支報告は、法に準拠して厳正になされねばならない。
被疑者らの本件行為については、主権者の立場から「政治資金規正法上の手続を軽んじること甚だしい」と叱責せざるを得ない。
4 申立人らは、我が国の民主政治の充実とさらなる発展を望む理性ある主権者の声を代表して本件告発に及んだ。しかし、行政機関としての検察庁(検察官)は、この主権者の声を適正に受け止め得ず、不起訴処分とした。
申立人らは、主権者を直接に代表する立場にある貴検察審査会の民主主義的良識に期待して、本申立に及ぶ。
以上
(2015年8月19日)
DHCスラップ訴訟は本日結審。次回判決言い渡し期日は9月2日午後1時15分と指定された。
賑やかな結審法廷となった。満員の傍聴席に顔をそろえたのは、私の家族、妹、姪、学生時代の同級生、昔の依頼者、今戦いを共にしている仲間たち、30名の弁護団、そして私のブログを読んで駆けつけていただいた初対面の人たち。なんとも心強く、ありがたい。
私は、意見陳述で思いの丈を吐露した。いくつかのバージョンを経て、本日アップするものが、法廷での私の発言。10分間で朗読できるよう贅言を殺いだ最終版が、まとまりの良い意を尽くした文章になったと思う。なお、朗読しているうちに、「スラップに成功体験をさせてはならない」という言葉が突然出てきた。まことにそのとおりである。
報告集会は、光前弁護団長の解説で始まり、私の挨拶で終わった。
光前さんは、「本格的に、政治的な言論の自由と切り結んだ判決を期待する」ことを表明した。そして、何人かの弁護団員から、「請求棄却の勝訴判決を得ただけでは不十分ではないか」「DHCに対する効果的な制裁を考えるべきだ」という意見が相次いだ。
なお、本年1月15日1審判決があったDHC対折本弁護士事件の控訴審は、4月23日に東京高等裁判所第24民事部で一回結審し、6月25日控訴棄却判決となった旨の報告があった。折本さんは、「粛々と勝ちに行く方針」を実践されて勝訴した。仮にDHC側が上告受理申立をしても逆転はあり得ない。これで、DHC・吉田は、仮処分と本訴を併せて、7戦7敗である。既にDHC・吉田の濫訴は明白になったと言うべきであろう。
私は、多くの人の支援や励ましに恵まれた「幸福な被告」である。しかし、被告が常に法的、財政的、精神的な支援に恵まれる訳ではない。スラップの被害に遭った者がペンの矛先を鈍らせることも十分にあり得ることと言わざるを得ない。だから、恵まれた立場にある私は、声を大にして、DHC・吉田の不当を叫び続けなければならない。そして、スラップの根絶に力を尽くさなければならないと思う。
次回、判決法廷と、その後の報告集会については、後刻お知らせします。皆さま、ぜひまた、傍聴と集会参加をお願いします。
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被 告 本 人 意 見 陳 述
弁論終結に際して、裁判官の皆さまに意見を申し述べます。
私は、突然に被告とされ、応訴を余儀なくされています。当初は2000万円、現在は、6000万円を支払え、とされる立場です。当然のことながら、心穏やかではいられません。このうえなく不愉快な体験を強いられています。理不尽極まる原告らの提訴を許すことができません。
私は、憲法で保障された「表現の自由」を行使したのです。本件で問題とされた私の言論の内容は、「政治をカネで歪めてはならない」という民主主義社会における真っ当な批判であり、消費者利益が危うくなることに関しての社会への警告なのです。むしろ私は、社会に有益で有用な情報や意見を発信したのだと確信しています。被告とされる筋合いはありえません。この点について、ぜひ十分なご理解をいただきたいと存じます。
関連してもう一点お願いいたします。原告の訴状では、私の書いた文章がずたずたに細切れにされ、細切れになった文章の各パーツに、なんとも牽強付会の意味づけがされ、「違法な文章」に仕立て上げられようとしています。細切れにせずに、各ブログの文章全体をお読みください。そうすれば、私の記事が、いずれも非難すべきところのない真っ当な言論であることをご理解いただけると存じます。
私は、45年の弁護士生活を通じて、政治とカネ、あるいは選挙とカネをめぐる問題を、民主主義の根幹に関わるものととらえて、関心を持ち続けてきました。また、消費者事件の諸分野で訴訟実務を経験し、東京弁護士会の消費者委員長を2期、日本弁護士連合会の消費者委員長2期を勤めています。消費者問題に取り組む中で、「官僚規制の緩和」や「既得権益擁護の規制撤廃」などという名目で、実は事業者の利益のために、消費者保護の制度や運用が後退していくことに危機感を募らせてきました。そのことが本件各ブログに、色濃く反映しています。
私の「憲法日記」と表題するインターネット・ブログは、弁護士としての使命履行の一端であり、職業生活の一部との認識で書き続けているものです。現在のものは、2013年4月1日に開設し毎日連続更新を宣言して連載を始めたもので、昨日で連続更新821日を記録しています。このブログは権力者や社会的強者に対する批判の視点で貫かれていますが、そのような私の視界に、「DHC8億円裏金事件」が飛び込んできたのです。
昨年3月「週刊新潮」誌上に吉田嘉明手記が発表される以前は、私はDHCや原告吉田への関心はまったくなく、訴状で問題とされた3本のブログは、いずれも純粋に政治資金規正のあり方と規制緩和問題の両面からの問題提起として執筆したものです。公共的なテーマについての、公益目的での言論であることに、一点の疑義もありません。
原告らは、私の言論によって社会的評価を低下した、と主張しています。しかし、自由な言論が権利として保障されているということは、その言論によって傷つく人のあろうことは、法が想定していることなのです。誰をも傷つけることのない人畜無害の言論には、格別に「自由」だの「権利」だのと法的な保護を与える必要はありません。仮に原告両名が、私の憲法上の権利行使としての言論によって、名誉や信用を毀損されることがあったとしても、これを甘受しなければならないのです。
そのことを当然とする根拠を3点上げておきたいと思います。
その第1は、原告らの「公人性」が著しく高いことです。もともと原告吉田は単なる「私人」ではありません。多数の人の健康に関わるサプリメントや化粧品の製造販売を業とする巨大企業のオーナーです。行政の規制と対峙しこれを不服とする立場にもあります。これに加えて、公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出して政治に関与しました。さらに、そのことを自ら曝露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立ったのです。自らの意思で「私人性」を放棄し、積極的に「公人性」を獲得したのです。自分に都合のよいことだけは言っておいて、批判は許さないなどということが通用するはずはありません。
その第2点は、私の言論の内容が、政治とカネというきわめて公共性の高いテーマであることです。「原告吉田の行為は政治資金規正法の理念を逸脱している」というのが、私の批判の内容です。仮にもこの私の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となり、民主主義の政治過程がスムーズに進行するための基礎を失うことになってしまいます。
さらに、第3点は、私の言論が、すべて原告吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づくものであることです。本来、真実性の立証も、相当性の立証も問題となる余地はありません。私は、その事実に常識的な推論を加えて論評しているに過ぎないのです。意見や論評を自由になしうることこそが、表現の自由の真髄です。私の論評がどんなに手痛いものであったとしても、原告吉田はこれを甘受しなければならないのです。
にもかかわらず、吉田は私をいきなり提訴しました。しかも、私だけでなく10人の批判者を被告にして同じような訴訟を提起しています。カネをもつ者が、カネにものを言わせて、裁判という制度を悪用し、自分への批判の言論を封じようという試みが「スラップ訴訟」です。本件こそが、典型的なスラップ訴訟にほかなりません。原告吉田は、私をだまらせようとして、非常識な高額損害賠償請求訴訟を提起したのです。私は、「黙れ」と恫喝されて、けっして黙ってはならない、と決意しました。もっともっと大きな声で、何度でも繰りかえし、原告吉田の不当を徹底して叫び続けなければならない、これも弁護士としての社会的使命の一端なのだ、そう自分に言い聞かせています。
その決意が、私のブログでの「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズの連載です。昨日までで46回書き連ねたことになります。原告吉田は、このうちの2本の記事が名誉毀損になるとして、それまでの2000万円の請求を6000万円に拡張しました。この金額の積み上げ方それ自体が、本件提訴の目的が恫喝による言論妨害であって、提訴がスラップであることを自ら証明したに等しいと考えざるを得ません。
本件は本日結審して判決を迎えることになります。
その判決において、仮にもし私の言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治批判の言論は成り立たなくなります。原告吉田を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになるでしょう。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされるでしょう。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。スラップに成功体験をさせてはならないのです。
貴裁判所には、本件のごとき濫訴は法の許すところではないことを明確に宣言の上、訴えを却下し、あるいは請求を棄却して、司法の使命を果たされるよう要請申し上げます。
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『DHCスラップ訴訟』第8回弁論について
東京地方裁判所民事第24部合議A係
平成27年(ワ)第9408号
原告 吉田嘉明 DHC(株)
被告 澤藤統一郎
裁判長裁判官 阪本勝 陪席裁判官 渡辺達之輔 大曽根史洋
原告代理人弁護士 今村憲 木村祐太 山田昭
被告代理人弁護士 光前幸一 外110名
《前回期日から本日までの経過》
4月22日 第7回(実質第6回)口頭弁論
5月11日 被告準備書面(6) 被告「主張対照表・補充改訂版」提出
6月12日 原告準備書面6・原告吉田陳述書提出、被告本人陳述書提出
7月 1日 (本日)15時? 631号法廷 第8回(実質第7回)弁論 結審
15時30分? 東京弁護士会508号・報告集会
《本日の法廷》
15時00分? 東京地裁631号法廷 第7回口頭弁論期日。
被告本人(澤藤)意見陳述(10分)。
その後に弁論終結、判決期日指定。
《本日の報告集会》
15時30分?17時 東京弁護士会508号会議室
弁護団長 本日までの経過説明(常任弁護団から補充)
弁護団・支援者・傍聴者 意見交換
☆判決報告集会の持ち方
☆他のDHCスラップ訴訟被告との連携
☆原告や幇助者らへの制裁など
被告本人 お礼とご挨拶
《この事件の 持つ意味》
*政治的言論に対する封殺訴訟である。
*言論内容は「政治とカネ」をめぐる論評 「カネで政治を買う」ことへの批判
*具体的には、サプリメント規制緩和(機能性表示食品問題)を求めるもの
*言論妨害の主体は、権力ではなく、経済的社会的強者
*言論妨害態様が、高額損害賠償請求訴訟の提訴(濫訴)となっている。
※争点 「表現の自由」「訴権の濫用」「公正な論評」「政治とカネ」「規制緩和」
《具体的な争点》
※名誉毀損訴訟では、言論を「事実摘示型」と「論評型」の2類型に大別する。
本件をそのどちららのタイプの事案とするかが問題となっている。
☆原告は、ブログの記事のひとつひとつを「事実の摘示」と主張。
☆被告は、全てが政治的「論評」だという主張。
※事実摘示型の言論は原則違法とされ、
(1)当該の言論が公共の事項に係るもので、(公共性)
(2)もっぱら公益をはかる目的でなされ、(公益性)
(3)その内容が主要な点において真実である(真実性)
(あるいは真実であると信じるについて相当の理由がある)(相当性)
が立証された場合に違その言論の法性が阻却される。
(被告(表現者)の側が、真実性や真実相当性の立証の責任を負担する)
※論評型は、「既知の事実を前提とした批判(評価)が社会的評価を低下させる言論」
真実性や真実相当性は前提事実については必要だが、論評自体は、「人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱」していない限りは違法性がないとされる。
《事件の発端とその後の経過》(問題とされたのはブログ「澤藤統一郎の憲法日記」)
ブログ 3月31日 「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
4月 2日 「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
4月 8日 政治資金の動きはガラス張りでなければならない
参照 https://article9.jp/wordpress/?cat=12 『DHCスラップ訴訟』関連記事
4月16日 原告ら提訴(係属は民事24部合議A係 石栗正子裁判長)
事件番号平成26年(ワ)第9408号
5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪要求)
6月 4日 答弁書提出(本案前・訴権の濫用却下、本案では棄却を求める)
6月11日 第1回期日(被告欠席・答弁書擬制陳述)
7月11日 進行協議(第1回期日の持ち方について協議)
7月13日以後 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない・第1弾」
第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
第2弾「万国のブロガー団結せよ」
第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
第4弾「弁護士が被告になって」 現在第46弾まで
7月22日 弁護団発足集会(弁護団体制確認・右崎先生提言)
8月20日 10時30分 705号法廷 第2回(実質第1回)弁論期日。
被告本人・弁護団長意見陳述。
8月29日 原告 請求の拡張(6000万円の請求に増額) 準備書面2提出
新たに下記の2ブログ記事が名誉毀損だとされる。
7月13日の「第1弾」と、8月8日「第15弾」
9月17日 第3回(実質第2回)弁論期日。
11月12日 第4回(実質第3回)口頭弁論
12月24日 第5回(実質第4回)口頭弁論
1月15日 東京地裁民事第30部 DHC対折本弁護士事件判決 DHC完敗
2月25日 第6回(実質第5回)口頭弁論
3月24日 東京地裁民事第23部 DHC対宋文洲氏事件判決 DHC完敗
4月22日 第7回(実質第6回)口頭弁論 裁判長交代 阪本勝判事
7月 1日 第8回(実質第7回)口頭弁論 結審 判決日指定
9月 2日 13時15分 631号法廷 判決言渡し
その後、報告集会(場所未定)と記者会見を予定
(2015年7月1日)
私が被告とされているDHCスラップ訴訟は、7月1日に結審予定となっている。、
その7月1日(水)の予定は以下のとおり。
15時00分? 東京地裁631号法廷 第7回口頭弁論期日。
被告本人(澤藤)意見陳述。その後に弁論終結。
15時30分?17時 東京弁護士会508号会議室 報告集会
弁護団長 経過説明
田島泰彦上智大教授 ミニ講演
本件訴訟の各論点の解説とこの訴訟を闘うことの意義
弁護団・傍聴者 意見交換
判決報告集会の持ち方
他のDHCスラップ訴訟被告との連携
原告や幇助者らへの制裁など
被告本人 お礼と挨拶DHCスラップ訴訟
7月1日法廷では、私が口頭で意見陳述をする予定。その予定稿を掲載する。やや長文だが、読み物としても面白いのではなかろうか。この日、結審となって次回は判決期日となる。ぜひ、ご注目いただきたい。憲法上の言論の自由に関わるだけではない。政治とカネの問題にも、消費者問題の視点からの規制緩和問題にも関連している。
心底から思う。こんなスラップ訴訟の横行を許してはならない。そのためには、まず勝訴判決を取らなければならない。
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目 次
はじめにー本意見陳述の目的と大意
1 私の立場
2 ブログ「憲法日記」について
3 「本件ブログ記事」執筆の動機
4 言論の自由についての私の基本的な理解
5 「本件ブログ記事」の内容その1ー政治とカネの関わりの視点
6 「本件ブログ記事」の内容その2ー規制緩和と消費者問題問題の視点
7 原告らの「本件提訴」の目的とその不当
8 原告DHC・吉田の関連スラップ訴訟
おわりにー本件判決が持つであろう意味
はじめにー本意見陳述の目的と大意
口頭弁論終結に際して、裁判官の皆さまに意見を申し上げます。
本件の法律的な論点については、被告代理人が準備書面で主張し尽くしています。私の陳述は、必ずしも法的構成にとらわれることなく、被告本人として周辺の事情について裁判官のご理解を得たいとするものです。ぜひ、耳を傾けていただくようお願いいたします。
私は、人生ではじめての経験として突然に被告本人となり、この1年余の期間、心ならずも被告として応訴を余儀なくされる立場に置かれて来ました。当初は2000万円、途中請求の拡張があって6000万円の支払いを請求される立場の被告です。当然のことながら、心穏やかではいられません。不当な提訴と確信しつつも、あるいは不当な提訴と確信するからこそ、不愉快極まりない体験を強いられています。
どんな提訴に対しても、応訴には、時間も労力も、そしてある程度の費用もかかります。軽率で不当な提訴が、被告とされる者にいかに大きな有形無形の負担を強いるものであるか、身に沁みて実感しています。この理不尽極まる事態を受容しえません。到底、納得することができません。
どう考えても、私に違法と判断される行為や落ち度があったはずはありません。私は、憲法で保障されている「言論の自由」を行使したに過ぎないのです。いや、むしろ、私は民主主義社会の主権者のひとりとして、社会に有益で有用な言論を発信したのだと確信しています。提訴され被告とされる筋合いはありえません。
本件で問題とされた私の言論は、政治とカネにまつわっての民主主義的政治過程攪乱への批判であり、消費者利益が危うくなっていることに関しての社会への警告です。「民主主義の政治過程をカネの力で攪乱してはならない」という自明の大原則に照らして厳しく批判されるべき原告吉田の行為に対して、必要で適切な批判と警告の言論にほかなりません。
この点についての私の真意を裁判官の皆さまに、十分ご理解をいただきたく、以下のとおり意見を申し述べます。
なお、もう一点お願いしておきたいことがあります。私の書いた文章が、原告の訴状ではずたずたに細切れにされています。貴裁判所の指示で作成された「主張対照表」においても同様です。原告は、細切れになった文章の各パーツに、なんとも牽強付会の意味づけをして、「違法な文章」に仕立て上げようとしています。貴裁判所には、くれぐれも、原告が恣にした細切れのバラバラ文章の印象で、違法性の有無を判断することのないようにお願いしたいのです。
まずは原告が違法と非難する5本の各ブログの文章全体を、私が書いたとおりの文章としてよくお読みいただくようにお願いいたします。文章全体をお読みいただくことで、常識的な理性と感性からは、各記事が、非難すべきところのない政治的言論であることをご理解いただけるものと確信しています。
1 私の立場
私は、司法修習23期の弁護士です。学生時代に、松川事件被告人の救援運動や鹿地亘氏事件の支援運動に携わったことなどから、弁護士を志望しました。修習生の時代に青年法律家協会の活動に加わり、「法は社会的弱者の権利擁護のためにある。司法は弱者の権利救済を実現するための手続である」と確信するようになり、そのような「法や司法本来の理念を実現する法曹になろう」と思い立ちました。
1971年に弁護士登録して、今年が45年目となります。この間、労働事件、消費者事件、医療・薬害訴訟、教育関係事件、職場の性差別撤廃・政教分離・国旗国歌強制反対・平和的生存権などの憲法訴訟に携わってまいりました。常に弱者の側、つまりは、労働者・消費者・患者・市民・国民の側に立って、公権力や大企業、カネや権威を持つ者と対峙して、微力ながらも弁護士本来の仕事をしてまいりました。概ね、これまで初心を忘れることなく職業生活を送ってきたとのいささかの自負があります。
とりわけ、日本国憲法を携えて実務法律家として職業生活を送ることができたことを何よりの人生の好運と考え、憲法擁護、平和・人権・民主主義の憲法理念の擁護のための姿勢を堅持してきたつもりです。
本件に関連していえば、政治資金規正法や公職選挙法問題については、刑事弁護実務において携わった経験から、また、いくつかの選挙運動に関係したことから、関心をもち続けてきました。政治資金規正法の理念である政治資金の透明性確保の要求については、民主主義の基礎をなす制度として強く共感し、カネで政治を動かそうとすることへの強い嫌悪と警戒感を有してきました。
また、市民が弱者として経済的強者に対峙する消費者問題にも強く関心をもち、広範な消費者事件の諸分野で訴訟実務を経験してきました。弁護士会内の消費者委員会活動にも積極的に関与し、東京弁護士会の消費者委員長を2期、日本弁護士連合会の消費者委員長2期を勤め、消費者問題をテーマにした日弁連人権擁護大会シンポジウムの実行委員長も経験しています。消費者問題に取り組む中で、官僚規制の緩和や規制撤廃の名目で、実は事業者の利益拡大の観点から消費者保護の社会的規制が攻撃され、その結果消費者保護行政が後退していくことに危機感を募らせてきました。この規制緩和策への警戒感は、現実の消費者被害や被害者に直接に向き合う中で獲得した心構えとして、貴重なものと考えています。
2 ブログ「憲法日記」について
私は、インターネットに「澤藤統一郎の憲法日記」と標題するブログを書き続けています。これも、弁護士としての職業的な使命の一端であり、職業生活の一部との認識で書き続けているものです。とりわけ、弁護士としての行動の理念的な指針となるべき憲法を擁護する立場を鮮明にし、憲法や憲法の理念について、実務法律家の視点からときどきの話題のテーマを取り上げて書き続けているものです。
以前にも断続してブログを書いた経験がありますが、現在継続中のものは、第2次安倍政権の発足に危機感を持ち、その改憲路線に警鐘を鳴らすことを主たる目的として、2013年1月1日から書き始めたものです。当初は、以前私が事務局長を務めていた、日本民主法律家協会のホームページの片隅を借りていたのですが、同年4月1日に自前のブログを開設し毎日連続更新を宣言して連載を始めました。幅広く憲法関連問題を題材として、途切れることなく毎日記事を掲載しています。もちろん顕名で、自分の身分を明示し、自分の言論の内容に責任をもっての記事です。
このブログを書き続けて、本年6月9日で、連続更新記録は800日となりました。この間、私のブログは、公権力や権威や社会的強者に対する批判の姿勢で貫かれています。政権や大企業や天皇制などを批判することにおいて遠慮してはならないと自分に言い聞かせながら書き続けています。そのような視点で世の中を見据えて、批判すべきを遠慮なく批判しなければならない。そのような私の視界に、「DHC8億円裏金事件」が飛び込んできたのです。
3 「本件記事」執筆の動機
2014年3月に週刊新潮誌上での吉田嘉明手記が話題となる以前は、私はDHCという企業とは馴染みがなく、主としてサプリメントを製造販売する大手の企業の一つとしか認識はありませんでした。もっともサプリメントについては、多くは実際上効果が期待できないのに、あたかも健康や病気の回復に寄与するかのような大量宣伝によって販売されていることを問題視すべきだとは思い続けていました。
業界に問題ありとは思っていましたが、DHCや原告吉田には個人的な関心はまったくなく、訴状で問題とされた3本のブログは、いずれも純粋に政治資金のあり方と規制緩和問題の両面からの問題提起として執筆したものです。公共的なテーマについて、公益目的でのブログ記事であることに、一点の疑いもありません。
4 言論の自由についての私の基本的な理解
本件訴訟では、原告(DHCと吉田嘉明)両名が、被告の言論によって名誉を侵害されたと主張しています。しかし、自由な言論が権利として保障されているということは、その言論によって傷つけられる人の存在を想定してのものにほかなりません。傷つけられるものは、人の名誉であり信用であり、あるいは名誉感情でありプライバシーです。
そのような人格的な利益を傷つけられる人の存在を想定したうえで、なお、人を傷つける言論が自由であり権利であると保障されているものと理解しています。誰をも傷つけることのない言論は、格別に「自由」だの「権利」だのと法的な保護を与える必要はありません。
視点を変えれば、本来自由を保障された言論によって傷つけられる「被害者」は、その被害を甘受せざるを得ないことになります。DHCと吉田嘉明の原告両名は、まさしく私の権利行使としての言論による名誉や信用の毀損(社会的評価の低下)という「被害」を甘受しなければならない立場にあります。これは、憲法21条が表現の自由を保障していることの当然の帰結といわねばなりません。
もちろん、法が無制限に表現の自由を認めているわけではありません。「被害者」の人格的利益も守るべき価値として、「表現する側の自由」と「被害を受けるものとの人格的利益」とを衡量しています。本件の場合には、この衡量の結果はあまりに明白で、原告DHCと原告吉田嘉明が「被害」を甘受しなければならないことは自明といってもよいと考えられます。
その理由の第1は、原告らの「公人性」が著しく高いことです。しかも、原告吉田は週刊誌に手記を発表することによって自らの意思で「私人性」を放棄し、「公人性」を前面に押し出したのです。
もともと原告吉田は単なる「私人」ではありません。多数の人の健康に関わるサプリメントや化粧品の製造販売を業とする巨大企業のオーナーです。これだけで「公人」性は十分というべきでしょう。これに加えて、公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出し提供して政治に関与した人物なのです。しかも、そのことを自ら暴露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立ったというべきです。自分で、週刊誌を利用して、自分に都合のよいことだけは言いっ放しにして、批判は許さない、などということが通用するはずはないのです。まずは、この点が強調されなければなりません。
その第2点は、私のブログに掲載された、原告らの名誉を侵害するとされている言論が、優れて公共の利害に関わることです。
無色透明の言論というものも、具体的な言論の内容に関わらない表現の自由というものも考えられません。必ず言論の内容に則して表現の自由の有無が判断されます。原告吉田は、自分がした政治に関わる行為に対する批判の言論を甘受すべきなのです。しかも、政治とカネというきわめて公共性の高いシビアなテーマにおいて、政治資金規正法の理念を逸脱しているというのが、私の批判の内容なのです。これは、甘受するしかないはずです。仮にもこの私の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となってしまいます。民主主義の政治過程がスムーズに進行するための基礎を失うことになってしまいます。
さらに、第3点は、私の言論がけっして勝手な事実を摘示するものではなく、すべて原告吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づいて、常識的な推論をもとに論評しているに過ぎないことです。意見や論評を自由に公表し得ることこそが、表現の自由の真髄です。私の原告吉田に対する批判の論評が表現の自由を逸脱しているなどということは絶対にあり得ません。これを違法とすれば、それこそ言論の自由は窒息してしまいます。
仮に私が、世に知られていない原告らの行状を暴露する事実を摘示したとすれば、その真実性や真実であると信じたことについての相当性の立証が問題となります。しかし、私の言論は、すべて吉田自身が公表した手記を素材として、常識的に推論し論評したに過ぎないのですから、事実の立証も、相当性の立証も問題となる余地はなく、私の論評がどんなに手厳しいものであったとしても、原告吉田はこれを甘受せざるを得ないのです。
5 「本件ブログ記事」の内容その1ー政治とカネの関わりの視点
私のDHC・吉田両原告に対する批判は、純粋に政治的な言論です。原告吉田が、小なりとはいえ公党の党首に巨額のカネを拠出したことは、カネで政治を買う行為にほかならない、というものです。
原告吉田はその手記で、「私の経営する会社…の主務官庁は厚労省です。厚労省の規制チェックは特別煩わしく、何やかやと縛りをかけてきます」と不満を述べています。その文脈で、「官僚たちが手を出せば出すほど日本の産業はおかしくなっている」「官僚機構の打破こそが今の日本に求められる改革」「それを託せる人こそが、私の求める政治家」と続けています。
もちろん、原告吉田自身、「自社の利益のために8億円を政治家に渡した」などと露骨に表現ができるわけはありません。しかし、原告吉田の手記は、事実上そのように述べたに等しいというのが、私の意見であり論評です。これは、原告吉田の手記を読んだ者が合理的に到達し得る常識的な見解の表明に過ぎないのです。そして、このような批判は、政治とカネにまつわる不祥事が絶えない現実を改善するために、必要であり有益な言論なのです。
政治資金規正法は、その第1条(目的)において、「政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるように」としています。まさしく、私は、「不断の監視と批判」の言論をもって法の期待に応え、「民主政治の健全な発達に寄与」しようとしたのです。
原告吉田は、明らかに法の理念に反する巨額の政治資金を公党の党首に拠出したのです。しかも、不透明極まる態様においてです。この瞬間に、原告らは、政治家や公務員と同等に、いやそれ以上に拠出したカネにまつわる問題について国民からの徹底した批判を甘受し受忍すべき立場に立ったのです。これだけのことをやっておいて、「批判は許さない」と開き直ることは、それこそ許されないのです。
6 「本件ブログ記事」の内容その2ー規制緩和と消費者問題の視点
私はブログにおいて、8億円の拠出が政治資金規正法の理念に反するというだけでなく、原告吉田の政治家への巨額拠出と行政の規制緩和との関わりを消費者問題としての視点から指摘し批判しました。
薬品・食品の業界は、国民の生命や健康に直接関わる事業として、厚労省と消費者庁にまたがって厳重な規制対象となっています。個々の国民に製品の安全に注意するよう警告しても無意味なことは明らかなのですから、国民に代わって行政が企業の提供する商品の安全性や広告宣伝の適正化についての必要な規制をしなければなりません。国民に提供される商品の安全を重視する立場からは、典型的な社会的規制である消費者行政上の規制を軽々に緩和してはならないはずです。しかし、企業は利潤追求を目的とする組織ですから、消費者の利益を犠牲にしても利潤を追求する衝動をもちます。業界の立場からは、規制はコストであり、規制は業務拡大への桎梏と意識されます。規制を緩和すれば利益の拡大につながると考えます。だから、行政規制に服する立場にある企業は、なんとかして規制緩和を実現したいと画策するのです。これがきわめて常識的な見解です。私は、長年消費者問題に携わって、この常識を我が身の血肉としてきました。
私のブログ記事は、なんのために彼が政治家に巨額の政治資金を提供したのか、という動機に関して、私は原告吉田の政治家への巨額なカネの拠出は行政の規制緩和を狙ったものと指摘し、彼のいう「官僚機構の打破」の内実として機能性表示食品制度導入問題を取り上げました。このようなものの見方は、極めて常識的なものであり、立証を求められる筋合いのものではありません。機能性表示食品制度は、アベノミクスの「第3の矢」の目玉の一つです。つまりは経済の活性化策として導入がはかられたもので、厳格な社会的規制の厳守という消費者利益の保護は二の次とされているのです。
私のブログの記載のなかで、最も問題とされているのは次の記事です。
「サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、『官僚と闘う』の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。
大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。『抵抗勢力』を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携」
今読み直してみて、どこにもなんの問題もないと思います。消費者問題をライフワークとしてきた弁護士として、これくらいのことを社会に発信しなくては、職責を全うしたことにならないとさえ思います。
「大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される」とはガルブレイスの説示によるものです。彼は、一足早く消費社会を迎えていたアメリカの現実の経済が、消費者主権ではなく生産者主権の下にあることを指摘しました。彼の「生産者主権」の議論は、わが国においても消費者問題を論ずる上での大きな影響を及ぼしました。ガルブレイスが指摘するとおり、今日の消費者が自立した存在ではなく、自らの欲望まで大企業に支配され、操作される存在であるとの認識は、わが国の消費者保護論の共通の認識ーつまりは常識となっているものです。
このような基本認識のとおりに、現実に多くの消費者被害が発生しました。だから、消費者保護が必要なことは当然と考えられてきたのです。被害を追いかけるかたちで消費者保護の法制が次第に整備されてくるそのような時代に私は弁護士としての職業生活を送りました。ところが、それに対する事業者からの巻き返しを理論づけたのが「規制緩和論」です。「行政による事前規制は緩和せよ撤廃せよ」「規制緩和なくして強い経済の復活はあり得ない」という経済成長優先が基調となっています。企業あるいは事業者にとって、消費者保護の規制は利益追求の桎梏なのです。消費者の安全よりも企業の利益を優先する規制緩和・規制撤廃の政治があってはじめて日本の経済は再生するというわけです。
アベノミクスの一環としての機能性表示食品制度は、まさしく経済活性化のための規制緩和です。コンセプトは、「消費者の安全よりは、まず企業の利益」「企業が情報を提供するのだから、消費者注意で行けばよい」「消費者が賢くなればよい」「消費者被害には事後の救済という対応でよい」という考え方です。消費者サイドからは、けっして受け容れることが出来ません。
機能性表示食品制度は本年4月から実施されています。報道では「機能性表示食品として消費者庁に届け出した食品の中には、以前、特定保健用食品(トクホ)として国に申請し、「証拠不十分」と却下されたものも交じっている」とされています。「トクホ落ち」という業界用語で語られる食品が、今や機能性表示食品として堂々と宣伝されることになったのです。まさしく、企業のための規制緩和策以外の何ものでもないのです。
原告吉田の手記が発表された当時、機能性表示食品制度導入の可否が具体的な検討課題となっていました。「経済活性が最優先。国民の安全は犠牲になってもやむを得ない」という基本路線に、業界は大いに喜びました。国民の安全を最優先と考える側からは当然に反発の声があがりました。もちろん、日弁連も反対の立場を明確にしています。そのような時期に、私は機能性表示食品制度導入問題に触れて、「DHC吉田が8億円出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての『規制緩和という政治』を買い取りたいからなのだと合点がいく」とブログに表現をしました。まことに適切な指摘だったと思います。
7 「本件提訴」の目的とその不当
カネをもつ者が、そのカネにものを言わせて、自分への批判の言論を封じようという濫訴が「スラップ訴訟」です。はからずも、私が典型的なスラップ訴訟の被告とされたのです。私の口を封じようとしたのはDHC会長の原告吉田嘉明。彼が不愉快として封じようとした私の言論は、私がブログ「憲法日記」に書いた3本の記事。政治とカネにまつわる政治的批判の言論。そして原告吉田の政治資金提供の動機を規制緩和を通じての営利追求にあるとした、消費者問題の視点からの指摘の言論です。これらが社会的に有用な言論であることは既述のとおりです。
原告吉田が私をだまらせようとして、2000万円の損害賠償請求訴訟を提起したことに疑問の余地はありません。私は、原告吉田から「黙れ」と恫喝されて、けっして黙ってはならないと決意しました。もっともっと大きな声で、何度も繰りかえし、原告吉田の不当を叫び続けなければならない。その結果が、同じブログへの「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズの連載です。6月12日現在で、44回書き連ねたことになります。読み直してみるとなかなかに充実した内容で、貴重な問題提起になり得ていると思います。原告吉田は、このうちの2本の記事が名誉毀損になるとして、請求原因を追加し、それまでの2000万円の請求を6000万円に拡張しました。この金額の積み上げ方それ自体が、本件提訴の目的が恫喝による言論妨害であって、提訴がスラップであることを自ら証明したに等しいと考えざるを得ません。
8 原告DHC・吉田の関連スラップ訴訟
原告吉田嘉明の週刊新潮手記が発表されると、政治資金8億円を裏金として受けとっていた「みんなの党」渡辺喜美代表に対して、ごうごうたる非難が巻きおこりました。8億円の内、3億円については借用証が作成されたとのことですが、5億円については貸金であることを示す書類はないようです。カネの動きも、貸金にしては極めて不自然。そのほかにも、渡辺側の不動産を原告吉田が渡辺の言い値で購入したことも明らかとなりました。このような巨額のカネが、政治資金規正法にもとづく届出のない裏金として動いていたのです。
この事件について、渡辺だけでなく原告DHC・吉田側をも批判する論評も多くありました。原告吉田はその内の10件を選び、ほぼ同時期に、削除を求める事前折衝もしないまま、闇雲に訴訟を提起しました。明らかに、高額請求訴訟の提起という爆弾により、市井の言論を委縮させ、更なる批判言論を封じ込むという効果を狙ってのものというべきです。
10件もの提訴自体が、明らかに濫訴であることを物語っています。また、原告吉田が公表した手記を契機に、同じような原告DHC・吉田批判が、彼らの経済的支配の埒外にあるミニコミに噴出したのは、その批判(言論)内容が多くの人に共通した、普遍的な推論と所見であることを推認させるものと考えられます。
東京地裁に提起された訴訟10件の賠償請求額は最低2000万円、最高2億円です。私は当初「最低ライン」の2000万円でしたが、その後ブログに「口封じのDHCスラップ訴訟を許さない」と書き続けて、請求額は6000万円に増額となっています。
その10件のうち、折本和司弁護士(横浜弁護士会)が被告になっている事件は今年の1月15日に第1号判決となり、次いで3月24日に被告S氏についての第2号判決が、いずれも「原告完敗・被告完勝」の結果となりました。私の事件がこれに続く第3号判決になることが予想されます。
そのほかに、関連する2件の仮処分申立事件があって、それぞれに申立の却下決定(東京地裁保全担当部)と抗告却下決定(東京高裁)があります。判決2件とこの4件を合計して計6件、原告DHC・吉田は連戦連敗なのです。私は、可能な限りの記録閲覧をしていますが、今後も、原告DHC・吉田の連敗記録が途切れることはありえないと確信しています。
本年3月24日に東京地裁民事第23部合議部(宮坂昌利裁判長)が、私のブログなどに比較して手厳しいツイッターでの発言について、なんの躊躇もなく、名誉毀損も侮辱も否定して、原告の請求を棄却しています。注目すべきはこの判決の中に次のような判示があることです。
「そもそも問題の週刊誌掲載手記は、原告吉田が自ら『世に問うてみたい』として掲載したもので、さまざまな立場からの意見が投げかけられるであろうことは、吉田が当然に予想していたはずである」「問題とされているツイッターの各記述は、この手記の公表をきっかけに行われたもので、その手記の内容を踏まえつつ、批判的な言論活動を展開するにとどまるもので、不法行為の成立を認めることはできない」
私の事件での被告準備書面は、原告吉田が週刊新潮に手記を発表して、「自ら政治家(みんなの党渡辺喜美)にカネを提供したことを暴露した」という事実を捉えて、「私人性の放棄」と構成しています。これに対して宮坂判決は、原告吉田が「自ら積極的に公人性を獲得した」と判断したのです。
おわりにー本件判決が持つであろう意味
本件は本日結審して判決を迎えることになります。
その判決において、仮にもし私のこのブログによる言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治に対する批判的言論は成り立たなくなります。原告吉田を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになるでしょう。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は後退を余儀なくされるでしょう。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。
仮に私のブログの表現によって原告らに不快とするところがあったとしても、原告はそれを甘受し受忍しなければなりません。原告両名はこの上ない経済的強者です。サプリメントや化粧品など国民の健康に直接関わる事業の経営者でもあります。原告らは社会に多大の影響を与える地位にある者として、社会からの批判に謙虚に耳を傾けねばならない立場にあります。
原告らの提訴自体が違法であることは明白です。貴裁判所には、このような提訴は法の許すところではないと宣告の上却下し、あるいは請求を棄却して、一刻も早く私を被告の座から解放していただくよう要請いたします。
なお、最後に一言いたします。スラップ訴訟提起の重要な狙いとして、「論点すりかえ効果」と「潜在的言論封殺効果」があるといわれています。
本来は、原告吉田嘉明が小なりとはいえ公党の党首(渡辺喜美)に8億円もの政治資金を拠出していたこと、しかもそれが表に出て来ないで闇にうごめいていたことこそが、政治資金規正法の理念に照らして重大問題であったはずです。私の指摘もそこにありました。ところが、その重要な問題が、いまは私のブログの記載が、あるいは原告DHC・吉田からスラップを受けて被告とされたライターの記述が原告DHC・吉田に対する名誉毀損にあたるか否かという矮小化された論点にすり替えられてしまっています。
さらに、本件スラップ訴訟は、けっして私の言論だけを封殺の標的にしているのではありません。私に、あるいは他の9人に対しスラップ訴訟を仕掛けることによって、同じような発言をしようとした無数の潜在的表現者を威嚇し萎縮させて、潜在的言論封殺効果を狙っているのです。だから私は、自分ひとりが勝訴しただけでは喜べない立場にあります。
本件不当訴訟を仕掛けたことに対して、原告DHC・吉田やこれを幇助したその取り巻きに対する相応のペナルティがなければ、スラップ訴訟は「やり得」に終わってしまいます。やり得を払拭し、再発の防止の効果を挙げるために有益な判決を期待しています。
以上のとおり、本件は優れて憲法21条の問題ではありますが、それだけではなく政治資金規正法の理念の問題でもあり、消費者問題と規制緩和の問題でもあり、民事訴訟を濫用しての言論萎縮効果の問題でもあります。これらの問題にも十分配慮され、公正かつ妥当な判決の言い渡しによって、貴裁判所がその職責を果たされるよう、期待申し上げる次第です。
(2015年6月14日)
カネをもつ者が、そのカネにものを言わせて、自分への批判の言論を封じようという濫訴がスラップ訴訟である。はからずも、私が典型的なスラップ訴訟の被告とされた。私の口を封じようとしたのはDHC会長の吉田嘉明。彼が不愉快として封じようとした私の言論は、私がこのブログに書いた3本の記事。政治とカネにまつわる政治的批判の言論。そして吉田の政治資金提供の動機を規制緩和を通じての営利追求にあるとして、消費者問題の視点からの問題指摘である。社会的に有用な言論であることに疑問の余地はない。
吉田は私をだまらせようと、2000万円の損害賠償請求訴訟を提起した。私は、吉田から「黙れ」と恫喝されたのだ。だから私は、さらに大きな声で繰りかえし吉田の不当を叫び続けなければならないと決意した。その結果が、本ブログの「DHCスラップ訴訟」を許さないシリーズ。本日で、44回書き連ねたことになる。読み直してみるとなかなかに、貴重な問題提起になり得ていると思う。吉田は、このうちの2本の記事が名誉毀損になるとして、請求原因を追加し、2000万円の請求を6000万円に拡張した。自らスラップの目的を証明したに等しい。
その「DHCスラップ訴訟」が提訴以来約1年を経て、7月1日に結審になる。この日、私が意見陳述をして弁論が終結する。そして、判決言い渡しの日が決まる。ぜひ、ご注目いただきたい。法廷にも報告集会にもご参集をお願いしたい。
7月1日(水)の予定は以下のとおり。
15時00分? 東京地裁631号法廷 第7回口頭弁論期日。
被告本人(澤藤)意見陳述。その後に弁論終結。
15時30分?17時 東京弁護士会508号会議室 報告集会
弁護団長 経過説明
田島泰彦上智大教授 ミニ講演
本件訴訟の各論点の解説とこの訴訟を闘うことの意義
弁護団・傍聴者 意見交換
判決報告集会の持ち方
他のDHCスラップ訴訟被告との連携
原告や幇助者らへの制裁など
被告本人 お礼と挨拶
DHCと吉田嘉明は、私と同じテーマの言論を封じるために、計10件のスラップ訴訟を提起した。その内1件は取り下げ、残る9件のうちの2件で一審判決が出ている。もちろん、DHC吉田側の全面敗訴である。そのほかに、関連する2件の仮処分申立事件があって、それぞれに申立の却下決定(東京地裁保全担当部)と抗告却下決定(東京高裁)がある。判決2件とこの4件を合計して計6件。DHC吉田は連戦連敗なのだ。私の件が本訴での3件目判決となる。経過から見て、DHC吉田の連敗記録が途切れることはありえない。
本年3月24日に東京地裁民事第23部の合議体(宮坂昌利裁判長)の、請求棄却判決が、私のブログなどに比較して手厳しいツイッターでの発言について、なんの躊躇もなく、名誉毀損も侮辱も否定して、原告の請求を棄却している。注目すべきはこの判決の中に次のような判示があること。
「そもそも問題の週刊誌掲載手記は、原告吉田が自ら『世に問うてみたい』として掲載したもので、さまざまな立場からの意見が投げかけられるであろうことは、吉田が当然に予想していたはずである」「問題とされているツイッターの各記述は、この手記の公表をきっかけに行われたもので、その手記の内容を踏まえつつ、批判的な言論活動を展開するにとどまるもので、不法行為の成立を認めることはできない」
私の事件での被告準備書面は、吉田が週刊新潮に手記を発表して、「自ら政治家(みんなの党渡辺喜美)にカネを提供したことを曝露した」という事実を捉えて、「私人性の放棄」と構成している。これに対して宮坂判決は、吉田が「自ら積極的に公人性を獲得した」と判断したのだ。
この一連の判決・決定の流れの中で、私の事件が万が一にも敗訴になることはありえない。しかし、烏賀陽弘道さんの指摘では、スラップ訴訟提起の重要な狙いとして、「論点すりかえ効果」と「潜在的言論封殺効果」があるという。
本来は、吉田嘉明が小なりとはいえ公党の党首(渡辺喜美)に8億円もの政治資金を拠出していたこと、しかもそれが表に出て来ないで闇にうごめいていたことこそが、政治資金規正法の理念に照らして問題であったはず。私の指摘もそこにあった。ところが、その重要な問題が、いまは澤藤のブログの記載が吉田に対する名誉毀損にあたるか否かという矮小化された論点にすり替えられてしまっている。この論点すりかえの不当を声を大にして、問題にし続けなければならない。
さらに、本件スラップ訴訟は、けっして澤藤の言論だけを封殺の標的にしているのではない。澤藤に訴訟を仕掛けることによって、同じような発言をしようとした無数の潜在的表現者を威嚇し萎縮させて、潜在的言論封殺効果を狙っているのだ。だから私は、自分ひとりが勝訴の見通しをもつに至ったというだけで喜ぶことはできない。
このような不当訴訟を仕掛けたことに対して、DHC・吉田やその取り巻きに対する相応のペナルティがなければ、スラップ訴訟は「やり得」に終わってしまう。やり得を払拭し、再発の防止の効果を挙げるために何をなすべきか。反撃について、知恵を絞りたいし、大いに汗もかきたい。心ある多くの方と、この点についてよく相談し、実効性のある対応策をとりたいと考えている。
皆さま、7月1日(水)15時の法廷(東京地裁631号)とその後の報告集会(東弁508号)に足を運んでください。よろしくお願いいたします。
(2015年6月5日)
ナッツ姫ではなく、ドリル姫こと小渕優子議員の話題。
各紙の報道によれば、「4月28日東京地検特捜部は、政治資金規正法違反(虚偽記載など)容疑に関し、小渕氏については、認識していた証拠がないなどとして不起訴処分(嫌疑不十分)とした」という。報道は、殆どが地検の発表をそのまま伝えるだけだからもどかしいが、このニュースは明らかにオカシイ。
4月27日の各紙は、一斉に「特捜は小渕優子本人に任意で複数回、事情聴取していた」と報道していた。そして、「小渕氏は自身の関与を否定したもよう」というのも、各紙一致した内容。その翌日には、一転して不起訴報道である。起訴されたのは、いずれも元秘書の2人だけ。特捜は、「小渕についても一応は調べは尽くした」という形作りを処分直前になってリークしたのだろう。すべては筋書き通りとの印象。
この件については、「群馬県の市民団体」が告発したと報じられているが、告発状の内容までは報道されていない。常識的には、小渕の行為については、まずは政治資金収支報告書の会計責任者としての記載者本人との共同正犯として虚偽記載罪が成立するという容疑を主位的な被告発事実とするだろう。しかし、捜査の結果その立証が困難である場合に備えて、予備的に過失犯である政治資金規正法第25条2項の政治団体の責任者の罪を被告発事実としたはずである。
この規定は、政治家常套の「すべては秘書のやったこと」「知らぬ存ぜぬ」というシッポ切り逃げ切り術を封じるための歯止め条項である。この活用が、政治資金規正法をザル法とすることを防ぎ、政治をカネの汚濁から救う光明となる。
本件の場合、元秘書の2名は、会計責任者として「法第12条第1項の報告書又はこれに併せて提出すべき書面に虚偽の記入をした者」にあたる。
法25条2項は、会計責任者に虚偽記入罪が成立した場合、「政治団体の代表者が当該政治団体の会計責任者の選任及び監督について相当の注意を怠つたときは、50万円以下の罰金に処する」と定める。
分かり易く翻訳すれば、「政治資金管理団体・未来産業研究会の代表者である小渕優子は、元秘書2名を未来産業研究会の会計責任者に選任するについても、あるいは選任後適正に収支報告書を作成するよう監督するについても、十分な注意をすべきであったのにこれを怠ったと認められるときには、罰金刑を科せられる」ということなのだ。
この法第25条2項の政治団体の責任者の罪は、過失犯である。しかも、重過失を要せず、軽過失で犯罪が成立する。会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合には、当然に過失の存在が推定されなければならない。資金管理団体を主宰する政治家が自らの政治資金の正確な収支報告書に責任をもつべきは当然だからである。
小渕において、特別な措置をとったにもかかわらず会計責任者の虚偽記載を防止できなかったというなにか特殊な事情のない限り、会計責任者の犯罪成立があれば直ちにその選任監督に過失があったとして刑事責任も生じるものと考えなければならない。そうでなくては、政治家本人に責任を持たせようとした法の趣旨は失われ、政治資金規正法はザル法となって、政治の浄化は百年河清を待たねばならないことになる。
なお、小渕が25条2項によって起訴されて有罪となり罰金刑が確定した場合には、政治資金規正法第28条第1項によって、その裁判確定の日から5年間公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権を失う。その結果、小渕は公職選挙法99条の規定に基づき、衆議院議員としての地位を失う。そのような結果は、法が当然に想定するところである。いかなる立場の政治家であろうとも、厳正な法の執行を甘受せざるを得ない。選挙でミソギが済んだなどという言い訳は利かないのだ。
だから、「小渕氏については、認識していた証拠がない」などの理由で「不起訴処分(嫌疑不十分)とした」という報道は的外れでオカシイのだ。本件では、小渕は政治資金収支報告を全面的に元秘書に任せていたことが明白である。まさしく、選任及び監督に関して、政治家として払うべき注意を怠ったことが明々白々ではないか。
たまたま、この時期、小渕の資金管理団体「未来産業研究会」には「収支報告書に記載していない支出が計1億円近くに上ったことが取材で分かった」などとと報じられてもいる。政治資金規正法をザル法にしてはならない。ドリルでの証拠隠滅も許しがたい。
告発をされたグループには敬意を表する。と同時に、さらに徹底した追求をされるよう要望したい。政治資金規正法25条2項を死文にしてはならない。まずは、是非とも検察審査会への審査申し立てをお願いしたい。
(2015年4月30日)
なんと私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回口頭弁論期日は明日4月22日(水)となった。13時15分から東京地裁6階の631号法廷。誰でも、事前の手続不要で傍聴できる。また、閉廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されている。どなたでも歓迎なので、ぜひご参加をお願いしたい。私は、多くの人にこの訴訟をよく見ていただきたいと思っている。そして原告DHC吉田側が、いかに不当で非常識な提訴をして、表現の自由を踏みにじっているかについてご理解を得たいのだ。
DHC会長の吉田嘉明は、私の言論を耳に痛いとして、私の口を封じようとした。無茶苦茶な高額損害賠償請求訴訟の提起という手段によってである。彼が封じようとした私の言論は、まずは、みんなの党渡辺喜美に対する8億円拠出についての政治とカネにまつわる批判だが、それだけでない。なんのために彼が政治家に巨額の政治資金を提供してたのか、という動機に関する私の批判がある。私は当ブログにおいて、吉田の政治家への巨額なカネの拠出と行政の規制緩和との関わりを指摘し、彼のいう「官僚機構の打破」の内実として機能性表示食品制度導入問題を取り上げた。
この制度は、アベノミクスの第3の矢の目玉の一つである。つまりは経済の活性化策として導入がはかられたものだ。企業は利潤追求を目的とする組織であって、往々にして消費者の利益を犠牲にしても、利潤を追求する衝動をもつ。だから、消費者保護のための行政規制が必要なのだ。これを桎梏と感じる企業においては、規制を緩和する政治を歓迎する。これは常識的なものの考え方だ。
私は2014年4月2日のブログを「『DHC8億円事件』大旦那と幇間 蜜月と破綻」との標題とした。以下は、その一節である。これが問題とされている。
たまたま、今日の朝日に、「サプリメント大国アメリカの現状」「3兆円市場 効能に審査なし」の調査記事が掲載されている。「DHC・渡辺」事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての「規制緩和という政治」を買いとりたいからなのだと合点が行く。
同報道によれば、我が国で、健康食品がどのように体によいかを表す「機能性表示」が解禁されようとしている。「骨の健康を維持する」「体脂肪の減少を助ける」といった表示で、消費者庁でいま新制度を検討中だという。その先進国が20年前からダイエタリーサプリメント(栄養補助食品)の表示を自由化している米国だという。
サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、「官僚と闘う」の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。
大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。「抵抗勢力」を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。
「大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される」とはガルブレイスの説示によるものだ。彼は、一足早く消費社会を迎えていたアメリカの現実の経済が消費者主権ではなく、生産者主権の下にあることを指摘した。彼の「生産者主権」の議論は、わが国においても消費者問題を論ずる上での大きな影響をもった。ガルブレイスが指摘するとおり、今日の消費者が自立した存在ではなく、自らの欲望まで大企業に支配され、操作される存在であるとの認識は、わが国の消費者保護論の共通の認識ー常識となった。
また、消費者法の草分けである正田彬教授は次のように言っている。
「賢い消費者」という言葉が「商品を見分け認識する能力をもつ消費者」という意味であるならば、賢い消費者は存在しないし、また賢い消費者になることは不可能である。高度な科学的性格をもつ商品、あるいは化学的商品など、複雑な生産工程を経て生産されたものについてだけではない。生鮮食料品についてすら、商品の質について認識できないのが消費者である。消費者は、最も典型的な素人であり、このことは、現在の生産体系からすれば当然のことである。必然的に、消費者の認識の材料は、事業者―生産者あるいは販売者が、消費者に提供する情報(表示・広告などの)ということにならざるを得ない。消費者は、全面的に事業者に依存せざるをえないという地位におかれるということである。
このような基本認識のとおりに、現実に多くの消費者被害が発生した。だから、消費者保護が必要なことは当然と考えられてきた。被害を追いかけるかたちで、消費者保護の法制が次第に整備されてきた。私は、そのような時代に弁護士としての職業生活を送った。
それに対する事業者からの巻き返しを理論づけたのが「規制緩和論」である。「行政による事前規制は緩和せよ撤廃せよ」「規制緩和なくして強い経済の復活はあり得ない」というもの。企業にとって、事業者にとって消費者規制は利益追求の桎梏なのだ。消費者の安全よりも、企業の利益を優先する、規制緩和・撤廃の政治があってはじめて日本の経済は再生するというのだ。
アベノミクスの一環としての機能性表示食品制度、まさしく経済活性化のための規制緩和である。コンセプトは、「消費者の安全よりは、まず企業の利益」「企業が情報を提供するのだから、消費者注意で行けばよい」「消費者は賢くなればよい」「消費者被害には事後救済でよい」ということ。
本日発売のサンデー毎日(5月3日号)が、「機能性表示食品スタート」「『第3の表示』に欺されない!」という特集を組んでいる。小見出しを拾えば、「国の許可なく『効能』うたえる」「健康被害どう防ぐ」「まずは食生活の改善 過剰摂取は健康害す」などの警告がならぶ。何よりも読むべきは、主婦連・河村真紀子事務局長の「性急すぎ、混乱に拍車」という寄稿。「健康食品をめぐる混乱は根深く、新制度によるさらなる被害」を懸念している。これが、消費者の声だ。
この問題で最も活発に発言している市民団体である「食の安全・監視市民委員会」は4月18日に、「健康食品にだまされないために 消費者が知っておくべきこと」と題するシンポジウムを開催した。その報道では、「機能性表示食品として消費者庁に届け出した食品の中には、以前、特定保健用食品(トクホ)として国に申請し、「証拠不十分」と却下されたものも交じっている」との指摘があったという(赤旗)。まさに、企業のための規制緩和策そのものだ。
あらためて「合点が行く」話しではないか。消費者の安全の強調は、企業に不都合なのだ。私は、そのような常識をベースに、サプリメント製造販売企業オーナーの政治資金拠出の動機を合理的に推論したのだ。消費者の利益を発言し続ける私の口が、封じられてはならない。
(2015年4月21日)
私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回期日は4月22日(水)13時15分に迫ってきた。法廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されているので、ぜひご参加をお願いしたい。
訴訟では、原告(DHCと吉田嘉明)両名が、被告の言論によって名誉を侵害されたと主張している。しかし、自由な言論が権利として保障されているということは、その言論によって傷つけられる人の存在を想定してのものである。傷つけられるものは、人の名誉であり信用であり、あるいは名誉感情でありプライバシーである。そのような人格的な利益を傷つけられる人がいてなお、人を傷つける言論が自由であり権利であると保障されているのだ。誰をも傷つけることのない言論は、格別に「自由」だの「権利」だのと法的な保護を与える必要はない。
視点を変えれば、本来自由な言論によって傷つけられる「被害者」は、その被害を甘受せざるを得ないことになる。DHCと吉田嘉明は、まさしく私の言論による名誉の侵害(社会的評価の低下)という「被害」を甘受しなければならない。これは、憲法21条が表現の自由を保障していることの当然の帰結なのだ。
もちろん、法は無制限に表現の自由を認めているわけではない。「被害者」の人格的利益も守るべき価値として、「表現する側の自由」と「被害を受けるものとの人格的利益」とを天秤にかけて衡量している。もっとも、この天秤のつくりと、天秤の使い方が、論争の対象になっているわけだが、本件の場合には、DHCと吉田嘉明が「被害」を甘受しなければならないことがあまりに明らかである。
その第1点は、DHC・吉田の「公人性」が著しく高いこと。しかも、吉田は週刊誌に手記を発表することによって自らの意思で「公人性」を買って出ていることである。いうまでもないことだが、吉田は単なる「私人」ではない。多数の人の健康に関わるサプリメントや化粧品の製造販売を業とする巨大企業のオーナーというだけではない。公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出し提供して政治に関与した人物である。しかも、そのことを自ら曝露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立ったのだ。
その第2点は、被告の名誉を侵害するとされている言論が、優れて公共の利害に関わることである。無色透明の言論の自由というものはない。必ず特定の内容を伴う。彼が甘受すべきは、政治に関わる批判の言論なのだ。政治とカネというきわめて公共性の高いシビアなテーマにおいて、政治資金規正法の理念を逸脱しているという私の批判の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となってしまう。
さらに、第3点は、私の言論がけっして、虚偽の事実を摘示するものではないことである。私の言論は、すべて吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づいて、論評しているに過ぎない。意見や論評を自由に公表し得ることが、表現の自由の真骨頂である。私の吉田批判の論評が表現の自由をはみ出しているなどということは絶対にあり得ない。
仮に私が、世に知られていない吉田やDHCの行状を曝露する事実を摘示したとすれば、その真実性や真実であると信じたことについての相当性の立証が問題となる。しかし、私の言論は、すべて吉田自身が公表した手記を素材に論評したに過ぎない。そのような論評は、どんなに手厳しいものであったとしても吉田は甘受せざるを得ないのだ。
私のDHC・吉田に対する批判は、純粋に政治的な言論である。吉田が、小なりとはいえ公党の党首に巨額のカネを拠出したことは、カネで政治を買う行為にほかならない、というものである。
吉田はその手記で、「私の経営する会社…の主務官庁は厚労省です。厚労省の規制チェックは特別煩わしく、何やかやと縛りをかけてきます」と不満を述べている。その文脈で、「官僚たちが手を出せば出すほど日本の産業はおかしくなっている」「官僚機構の打破こそが今の日本に求められる改革」「それを託せる人こそが、私の求める政治家」と続けている。
もちろん、吉田が「自社の利益のために8億円を政治家に渡した」など露骨に表現ができるわけはない。しかし、吉田の手記は、事実上そのように述べたに等しいというのが、私の論評である。これは、吉田の手記を読んだ者が合理的に到達し得る常識的な見解の表明に過ぎない。そして、このような批判は、政治とカネにまつわる不祥事が絶えない現実を改善するために、必要であり有益な言論である。
私がブログにおいて指摘したのは、吉田の政治家への巨額拠出と行政の規制緩和との関わりである。薬品・食品の業界は、国民の生命や健康に直接関わるものとして、厚労省と消費者庁にまたがって厳重な規制対象となっている。国民自身に注意義務を課しても実効性のないことは明らかなのだから、国民に代わって行政が、企業の提供する商品の安全性や広告宣伝の適正化についての必要な規制をしているのだ。国民の安全を重視する立場からは、典型的な社会的規制として軽々にこの規制緩和を許してはならない。しかし、業界の立場からは、規制はコストであり、規制は業務の拡大への桎梏である。規制を緩和すれば利益の拡大につながる。だから、行政規制に服する立場にある企業は、なんとかして規制緩和を実現したいと画策する。これはきわめて常識的な見解である。私は、長年消費者問題に携わって、この常識を我が身の血肉としてきた。
吉田の手記が発表された当時、機能性表示食品制度導入の可否が具体的な検討課題となっていた。これは、アベノミクスの第3の矢の目玉として位置づけられたものである。経済を活性化するには、規制を緩和して企業が活動しやすくする環境を整えることが必要だという発想である。緩和の対象となる規制とは、不合理な経済規制だけでなく、国民の健康を守るための社会的規制までも含まれることになる。謂わば、「経済活性が最優先。国民の安全は犠牲になってもやむを得ない」という基本路線である。業界は大いに喜び、国民の安全を最優先と考える側からは当然に反発の声があがった。
そのような時期に、私は機能性表示食品制度導入問題に触れて、「DHC吉田が8億円出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての『規制緩和という政治』を買い取りたいからなのだと合点がいく」とブログに表現をした。まことに適切な指摘ではないか。
なお、その機能性表示食品制度は、本年4月1日からの導入となった。安倍政権の悪政の一つと数えなければならない。安倍登場以前から規制緩和を求める業者の声に応えたのだ。以下は、制度導入を目前とした、3月26日付の日弁連声明である。全文は下記URLを参照いただきたいが、日弁連がこれまで重ねてこの制度導入に反対してきたこととその理由が手際よくまとめられている。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2015/150326_2.html
法廷での主張の応酬は、表現の自由一般の問題から、政治とカネの問題をめぐる政治的言論の自由という具体的な問題となり、さらに規制緩和を求める立場にある企業の政治資金拠出に対する批判の言論の自由の問題に及んでいる。
本件スラップ訴訟は、まずは表現の自由封殺の是非をめぐる問題であるが、具体的には政治資金規正法をめぐる問題でもあり、さらには規制緩和と消費者の利益をめぐる問題でもある。消費者の利益擁護のためにも、きっちりと勝訴しなければならない。
(2015年4月19日)
昨日(3月12日)は、維新と一体の中原徹大阪府教育長の失態を取り上げた。続いて今日(3月13日)は、安倍政権と一体の下村博文文科相の醜態を取り上げたい。
人格未熟なる者が企業の幹部になったり市長になったりすると、自分がえらくなったと勘違いする。権力行使に伴う快感は麻薬だ。その魔力がパワーハラスメント事件をひき起こす。ナッツ姫によるナッツ・リターン事件に類することは日常的にありふれている。なかなか表面化しないだけ。中原は、なまじ校長や教育長になったのが不幸のもと。大いに傍迷惑ではあるが、こちらは個人的な人格の未熟をさらけ出しただけの事件。
これに較べて文科相の問題は根が深い。構造的な「業界と政界の癒着」「政治とカネ」の問題につながっているからだ。民主党がこの問題をよく追求している。やればできるじゃないか、民主党よガンバレ。
本日配達の赤旗日曜版(3月15日号)トップに、「教育行政利権」「徹底追求」「下村文科相 塾業界と癒着」の大見出し。
「閣僚の「政治とカネ」疑惑が続出する安倍政権。なかでも首相の”盟友”、下村博文文部科学相の疑惑は底無しです。教育行政を動かす力を背景に、塾業界に自分の名前をかぶせた後援組織「博友会」を広げ、票や「会費」などと称する政治資金を集める?。まさに教育分野の”利権あさり”の構図です」とのリード。
法務省や文科省は利権との関わりが小さいような印象だが、どこにだって癒着の対象となる関連業界はある。下村自身が学習塾経営者出身であって、「塾業界」なるものからカネも票ももらっている。世の中、道義を忘れてはならない。とりわけ道徳教育を教科にしようという文科相だ。もらったカネに報いること、「浄財を寄進してくれた篤志の方に真心込めて恩返し」をし、末永く仲良くお付き合いすべきが人としての道、その心得がよく身についているようだ。さすがに立派な教育族。
カネの見返りとしての業界への恩返しの具体的内容が「教育の規制緩和で、ビジネスチャンスを」というもの。カネを媒介にした政治と業界との、持ちつ持たれつのみにくい癒着。折も折、アベノミクスの「第3の矢」である規制緩和策に「学校の公設民営」が盛り込まれている。
指摘されて初めて気が付いた。下村にとっては、また安倍政権にとっても、教育とは何よりもビジネスチャンスなのだ。だから、下村が文科相なのだ。
どの分野でも同じことだが、規制緩和とは業界の要求である。事業者にとってのビジネスチャンス拡大と同義なのだ。だから、下村のような政治家は「教育のビジネスチャンスを」と業者に呼びかけてカネにありつこうとし、また、業者の側は、自分たちに利益をもたらす規制緩和策を実現するために、目星をつけた政治家にカネを提供する。こうして、結局は金ある者のための政治が横行する。
ところで刑法は、第25章を「汚職の罪」とする。その中心に、贈収賄罪が位置している。
「第197条(収賄) 公務員が、その職務に関し、賄賂を収受し、又はその要求若しくは約束をしたときは、5年以下の懲役に処する。
第198条(贈賄) 第197条‥に規定する賄賂を供与し、又はその申込み若しくは約束をした者は、3年以下の懲役又は250万円以下の罰金に処する。」
いうまでもなく「公務員」は議員を含む。賄賂とは、金品に限らず「人の欲望を満たす一切」を意味する。そして、贈収賄罪の保護法益は、「公務員の職務の公正とこれに対する社会一般の信頼」とするのが、大審院以来の判例の立場である。
つまりは、職務の公正を守るためだけに贈収賄が犯罪となっているのではない。職務の公正に対する社会の疑惑を払拭して、職務の公正に対する社会の信頼を確保しようというのだ。政治資金規正法も同様の趣旨でできている。
もちろん、犯罪の構成要件は厳格にできているから、職務関連性認定のハードルは高く、政治家が事業者からカネを受けとれば、すべてが贈収賄となるわけではない。しかし、政治や職務の公平性に対する社会の信頼を保護しようとする立法の趣旨には反することにはなる。
赤旗の記事の表現を借りよう。
「もともと、下村氏自身が塾を経営。東京都議を経て国会議員になり、塾業界に『ビジネスチャンス』をもたらす、と叫んできました。『ビジネスチャンス』とは?。公教育のさまざまな規制を緩和して、営利企業である株式会社の学校経営参入を広げ、利益をあげられるような仕組みにすること。下村氏は、今国会で、公立学校の運営を民間にゆだねる『公設民営』の法案提出も目ざしています。その裏で、表とカネが動くのです」
資本主義経済における野放しの企業行動の自由は、社会に害悪をもたらす。その経験から、企業活動には種々の規制が設けられている。教育においても然りである。儲けのためにはこの規制を邪魔とする勢力が規制を緩和しようとする。その手段が、政治家にカネと票とを提供することである。これによって、政治を儲けの手段の方向に誘導しようというのだ。仮に、そのような目的がなくても、あるいはその誘導に成功しなくても、カネで政治が歪められているのではないかという社会の疑惑はいっそう深まることになる。
だから、政治の公正や公務員の職務の公正に対する社会の信頼を擁護するために、上限規制を厳格にした個人献金以外の、企業・団体献金は一切禁止すべきなのだ。
(2015年3月13日)
「天網恢々疎にして漏らさず」という。天の網は一見疎のようであって誰の悪事をも見逃すことはない、というのだ。しかし、人の作った法の網は疎にしてダダ漏れのザルになっていることが少なくない。政治資金規正法はどうやらその典型らしい。
「脱法行為」とは、本来は民事法の分野の法律用語だが、外形や形式においては違法と言えないものの明らかに法の趣旨を僣脱する行為をいう一般語彙として定着している。政治家諸君、そしてその政治家に群がる企業の幹部諸君。大いにザルの目の粗さと、ザルに開いた穴を利用しておられる。
現内閣はザル政権の様相。安倍晋三を筆頭に、西川公也、望月義夫、上川陽子、林芳正、甘利明と続いた。これを、「法に抵触しない」「違法性はない」「知らなかったのだから問題がない」と言い逃れしようとするからタチが悪い。このような言い逃れに耳を貸したのでは主権者の名が廃る。脱法や言い逃れができないようにするにはどうすればよいか。ここが智恵の働かせどころ。
まずは、法の趣旨を正確に把握することが第一歩である。その、法のコンセプトの抜け穴を塞がなくてはならない。結論から言えば、法の趣旨は企業・団体の政治家個人への献金の一切禁止である。政治献金には、当然に見返り期待がつきまとう。魚心あれば水心と心得ての、献金する側される側。阿吽の呼吸で成りたっている。
営利を目的とする企業が、政権与党や規制緩和推進を掲げる政党に献金するのは、自らの利潤追求に裨益するからにほかならない。それが社会の常識というものだ。少なくとも、企業献金は政治が一部の企業の金で動かされているのではないかという、政治の中立公正性に対する社会の信頼を損なうことになる。そのような世論に押されて、法は形作りをしたのだ。
ところが、法はザルに大穴を開けた。安倍晋三以下、多くの政治家がこの穴を大いに活用している。企業から政治家に献金することは一切禁止となっているが、企業と政治家の間に「政党」を入れれば話はまったく変わってくる。企業から、「政党」への献金は最高額年間1億円までは可能で、「政党」から政治家個人への資金提供は青天井の無制限なのだ。
さすがに、これでは穴が大きすぎると、ほんの少しだけ穴の一部を塞ごうとしたのが、「寄附の質的制限」である。「国から補助金を受けた会社その他の法人は、政治活動に関する寄附をしてはならない(法23条の3)」というもの。補助金とは、税金が出所。税金をもらっている企業からの政治献金とは、税金の一部が迂回し還流して政治家の懐に入るということ。当たり前だが、そのようなことを許しては、世間の政治の廉潔性に対する信頼は地に落ちる、と考えてのこと。
もっとも、この規制にもいくつもの小穴が開けられている。「試験研究、調査又は災害復旧に係るものその他性質上利益を伴わないもの」をもらっている企業は。献金禁止からは除かれる。企業献金禁止期間は1年だけだし、政治家の側は「知らなかった」といえば処罰は免れる。「天網恢々」とは大違いの、ザルであり穴だらけの法網なのだ。
安倍はしきりに、「補助金を受けた企業だとは知らなかった」ことを強調し「だから問題ない」を繰り返している。お粗末な話だ。
法は政治家が作った。献金を受けた政治家の側は献金元企業が補助金を受領していたことを知らなければ処罰されないとしたのは、「政治家の側は調査が困難だから」とでも言いたいのだろう。しかし、それはおかしい。政治家たるもの、自分に献金する企業の動向くらいは把握していなければならない。
本日の朝日川柳欄に、次の句。
補助金の多さにむしろ眩暈(めまい)がし(朝広三猫子)
同感である。政治家の側は、献金企業は補助金をもらっている可能性が高いとして注意しなければならないのだ。
ばれなければもらい得、ばれたら知らなかったで済ませられる。これこそ究極のザル法というべきではないか。
報道によれば、安倍晋三は、
2012年には
宇部興産から50万円
協和発酵キリンから6万円
富士フイルムから100万円(パーティ券購入)
2013年には
宇部興産から50万円
電通から10万円
東西化学産業から12万円
などの違法献金を受領している。
宴席で、安倍と宇部との、こんなやり取りが想像される。
「お代官様、今年も山吹色のをお納めしておきました。あの一件よしなに願います」
「ういやつよのう。しかし、越後屋そちも悪よのう」
「いえいえ、お代官様ほどでは」
「ふふふふふ」
このような会話が現実にあるわけではなかろうが、補助金交付の可否について首相や閣僚が、陰に陽に影響を及ぼし得る以上、世間の疑惑は避けがたく、公正な政治への信頼は大きく損なわれることになる。
もっとも、政治の廉潔性にたいする信頼毀損は、何にも補助金受療企業の政治献金に限ったことではない。およそ、企業による政治家への献金がそのような性格を帯びたものにならざるを得ない。だから、政治資金規正法の大穴を全部塞ぐにしくはない。
今朝の各紙の社説が明確にその方向である。
東京新聞は「企業団体献金 全廃含め抜本見直しを」と標題して、
「そろそろ与野党は、企業・団体献金の全面禁止に向けて重い腰を上げるべきだ。企業・団体献金を残したまま、いくら規制を強化しても、抜け道が出てくるだけだ。直ちに全面禁止が難しいなら、当面は政党支部への献金を禁止して党本部に一本化し、段階的に全面禁止したらどうか。まずは決断することが重要だ。」
と明解である。
また、朝日も、「政治とカネ―企業献金のもとを断て」との見出しで、「そもそも企業・団体献金には、見返りを求めれば賄賂性を帯び、求めなければその目的を株主らから問われるという矛盾がある。こうした性格から生じる様々な問題を解消する根本的な対策は、やはり企業・団体献金を禁じることだ」と同旨。
毎日も、「補助金と献金 国会は規制強化に動け」と題して、「首相をはじめ、献金を受けた側が説明を尽くすのは当然だ。企業・団体献金そのものの是非の議論とともに、補助金交付企業の献金に早急に規制強化を講じる必要がある」と言っている。
これを機に、政治資金規正法は企業・団体献金の全面禁止を明確にする改正に踏み切るべきだ。そして、その際には、政治献金だけではなく、政治資金の融資についても、届出義務と上限規制を明確にすべきである。
言うまでもなく、昨春明らかになった、DHC吉田嘉明から渡辺喜美に対する巨額政治資金拠出の事実が問題を語っている。渡された金が全額「貸金」「融資」であったとしても、これを野放しにしてはならない。
政治資金規正法では、個人が政治家個人に金銭による寄付をすることは禁じられている。献金するなら政党に出せという趣旨なのだ。但し、金銭・有価証券以外の物品等による寄付であれば、年間150万円を限度として可能となっている。DHC吉田嘉明から渡辺喜美へ渡ったカネは明らかに政治資金である。しかも、ケタが違う8億円である。「これは融資だから禁止されてない。だから問題ない」というのは、明らかな脱法である。世間は、カネで政治が左右されると思うからである。政治の廉潔性に対する世人の信頼を損なうことにおいて献金と選ぶところがないからである。
この脱法を封じる法改正も不可欠である。
法網の目を密にし、脱法を許さず、政治がカネで歪められることのないようにするだけでなく、疑惑を断って政治の清潔さに対する信頼を確保すべき徹底した法改正の実現を期待したい。
(2015年3月4日)