澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

いびつな言論空間のなかで、「真っ当な言論」の自由を守るために

一昨日(11月16日)、むさしの憲法市民フォーラムが主催する、「シンポジウム 今、言論、表現の自由のために」に聴衆の一人として参加した。会場は、武蔵境のスイングホール。パネラーが、植村隆、醍醐聰、神原元の3名であるからには、どうしても行かねばならない。

参加者の熱気がパネラーの熱意を呼び、充実した集会となった。事前の集会のコンセプトが練られた集会ではなかった。ところが、却ってその未整理の混沌が、力強い問題提起となった。今日の言論状況を、浮き彫りにする結果となって、考えさせられる素材の提供を受けたと思う。

植村さんは、「言論弾圧・歴史修正主義と闘うジャーナリスト」として、「植村バッシング」の経過を報告した。植村バッシングのえげつなさについての被害者本人ならではの説明のあと、一連のバッシングの目的を、「改憲をたくらむ歴史修正主義者たちによる『リベラル朝日』を萎縮させ、慰安婦問題をタブー化させる攻撃」とまとめた。それゆえ、絶対に屈することができないとも。

醍醐さんは、「メディア(NHK)の自由・自立と使命をめぐる論点」として、NHKの政権翼賛メディアに堕している実態を告発した。本来権力に対する監視の役割をレーゾンデートルとするはずのメディアが、「準」国策報道機関の域を超えて、「純」国策報道機関となっている。政権浮揚に手を貸して国民(視聴者)を裏切っている実態を、民放報道と比較した幾つもの具体例を挙げた。

また、神原さんは、「なぜ、いまヘイトスピーチなのか」として、その禍々しい実態をレポートした。安倍政権の成立とともにヘイトスピーチ、ヘイトクライムが跋扈してきたことの報告が印象的だった。

集会のメインタイトルが、「今、言論、表現の自由のために」である。通常、公権力の規制に抗しての「言論、表現の自由」は、民衆にとって、あるいは国民大多数にとって価値ある望ましいものである。だから、「言論・表現の現状」の問題性は、「言論・表現の自由の寡少」として語られる。

しかし、東京地裁・札幌地裁に係属している2件の「植村訴訟」では、櫻井よしこや西岡力ら被告右翼側が、憲法21条の表現の自由を援用している。また、ヘイトスピーチ・ヘイトデモをもっぱらにしている在特会すらも、自らの行動の正当性を「表現の自由」で粉飾している。NHKの対政権擦り寄り姿勢も、「報道の自由」「編集権の裁量」の美名で糊塗されかねない。

植村バッシングの言論も、民族差別の表現も、政権と一体になったNHKの報道等々についての問題性は、「言論・表現の自由の寡少」が問題ではなく、「言論・表現の自由の濫用」状況にいかに歯止めをかけ得るかとして問われなければならない。

この点を醍醐さんは、「従来言論の自由は、『公権力』対『メディア・市民』という対抗関係でとらえられ、メディアの国家の干渉からの自由が、市民の利益にかなうものと受けとめられてきた。しかし、メディアと市民は必ずしも、利害を同一にするとは限らない。また、市民対市民の中傷誹謗の言論の問題も無視し得ない。それぞれに様相が複雑化している」とした上で、「言論の自由は、それ自体が目的ではなく、真理に近づく熟議を可能とする前提として価値がある」「言論の自由は権力者によってだけではなく、偏狭な排他主義、『世間』『組織』の同調圧力によっても、脅かされる」と発言した。これは、真理に近づく熟議を可能とする前提としての言論でなくてはその自由を擁護すべき価値はないとの含意であろうし、公権力に対する警戒だけでなく、偏狭な排他主義からなる身近な世間の同調圧力となっている言論をも警戒せよ、との警鐘でもある。

また、神原さんは、1930年代ドイツにおけるケルゼンやラートブルフの論説を引いて、民主主義や自由を否定する言論に対しては、寛容を以て遇するのではなく、果敢に闘わざるを得ない、と述べた。

渦中にいる人たちの焦慮が伝わってくる。ヴォルテールの名言と伝えられる「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけても守る」などと言っておられる事態ではないということだ。

好例がヘイトデモであり、植村バッシングである。ヘイトデモの暴力性は、ようやく社会の共通認識となってきたが、これが言論の域にとどまるものとしても、差別の表現に寛容であれなどと言ってはおられない。人間の尊厳を攻撃し貶める言論には果敢に闘わざるを得ない。

植村バッシングも基本は同じ。こちらはもっと手が込んでいて、悪質と言えよう。産経や文春、西岡、桜井らの言論は、それぞれの役割を補完しつつ一体をなしている。実は、産経や文春、西岡、桜井らは氷山の一角の頂点をなす存在で、その下部には水面下深く、巨大な匿名集団が存在している。産経や文春、西岡、桜井ら頂点の存在は、暗い水面下に沈潜する氷塊の司令塔であり、煽動部隊である。産経や文春、西岡、桜井らの煽動によって、百鬼夜行の如く、匿名に隠れたネトウヨたちが蠢動する。攻撃されたのは、植村ひとりではない。勤務先の北星大学をターゲットにして、抗議の電話やファクスが集中した。複数の脅迫状も送られてきた。家族をネットに晒して、卑劣な攻撃をされた。産経や文春、西岡、桜井らは、自分たちの「言論」が及ぼす、暴力や脅迫や、威力による業務への支障や、それによる当事者の恐怖の効果を計算しつつ発言できるのだ。少なくとも、自分の言論において名指しした人物に及ぼす具体的影響について予見可能だし、予見義務もある。

実は、このようないびつな言論空間の中で、非対称の言論・表現が交換されている。この現実を捨象して、抽象的に表現の自由一般を語って、敵対する表現にも寛容であれ、などと述べることは、粗暴な強者の側に屈服することにほかならない。

植村さんが、あの時点で敢然と提訴したことは、たたかう姿勢を見せたことだ。裁判を基軸に、朝日バッシングと歴史修正主義に対抗する運動が盛り上がりを見せて、確実に成果をあげている。

今日(11月18日)、たまたまご近所の集会所で植村さんを招いての「メディアバッシングと報道の自由を考える集い」があった。出席の多くはジャーナリストの皆さん。

植村さんの講演のあと、「植村さんの姿勢に励まされた」「植村さんを支えて最後まで闘いたい」とのジャーナリストの発言が続いた。

闘う相手は、産経や文春、西岡、桜井だけではない。政権も含む巨大なもの。もしかしたら時代の潮流そのものというべきものなのかも知れない。そして、闘いは、訴訟の場における法的問題にとどまらない。歴史修正主義や差別の言論への批判に、躊躇があってはならない。メディアバッシングを許し、反権力・反多数派の報道の自由を形骸化させてしまっては、取り返しのつかないことになる。それこそ、真理に近づく熟議が、不可逆的に不可能となりかねないのだから。
(2016年11月18日)

国会議員は批判を甘受しなければならない

辺野古・高江の、基地反対運動からは目を離せない。厳しいせめぎあいの中では、いろいろと驚くべきことが生じる。目取真俊の身柄拘束にも、本土機動隊員の「土人」「シナ人」発言にも、そして松井知事の差別容認姿勢にも驚いたが、これと並んで島袋文子さんへの出頭命令にも驚ろかざるを得ない。87歳・車椅子の身で、今や現地の運動のシンボルとなっているこの人に、警察からの呼出である。被疑罪名が暴行か傷害かは明らかにされていない。告訴状が出ているのか、被害届だけなのかも定かでない。ともかく、名護署が、文子さんを呼び出して取り調べを始めたのだ。

被疑事実は、今年5月9日辺野古でのことのようだ。被害を受けたと主張しているのは、「日本のこころ」の和田政宗参議院議員とその「同行者」ないしは「スタッフ」である。

和田議員は自身のツイッターで次のように繰り返してきた。
「沖縄辺野古で、不法占拠のテントを撤去し合法的な抗議活動をするよう訴えたが、我々の演説を活動家達は暴力を振るい妨害。私は小突かれ腕をひっかかれ、スタッフは頬を叩かれたり、プラカードの尖った部分で顔面を突かれ転倒。警察と相談し対処する」

「5月に沖縄辺野古キャンプシュワブ前で道路用地にテントを張り不法占拠する活動家達に、不法占拠をやめるよう呼びかけた。その際、私と我が党スタッフが活動家達に暴行を受けたが、先日、警察に相談し被害届を提出した。憲法で保障される政治活動や表現の自由を力で阻止するというもの。戦わねばならぬ」

このような和田議員の発信をフォローしたネットニュースのIWJが、文子さん取り調べに関して和田議員を批判する記事を書き、同議員がこれを「捏造記事」だと反批判している。この点に、私は関心を向けたいと思う。和田議員もジャーナリスト(NHK)出身である。報道の自由に理解はあろうと思う。

和田政宗議員がIWJの報道を批判しているのは、10月18日の以下のブログである。抜粋では不正確となりかねないので、全文を引用する。
「岩上安身氏率いるIWJ ジャーナリズムにあるまじき捏造記事
ジャーナリスト出身者として、岩上安身氏率いるIWJが明かに嘘をついた記事をネット上にアップしたので反論するとともに、ジャーナリズムとしてやってはならないこと(右であろうと左であろうと)をしているので糾弾します。
まず当該記事を書いた佐々木氏の取材申し込み(2回)に対して、私と我が事務所は「お会いして取材をお受けします」と明確に回答しています。
言った言わないになるといけないので、私は電話取材でなく原則面会で取材を受けています。
悪意のある記者の「取材拒否された」を防ぐため、私も我が事務所も明確に「取材は受けます」と答えていますが、佐々木記者は「取材に応じず」と言っています。明確な虚偽にあたります。
ジャーナリズムとしてやってはならないねつ造です。
そして、私は島袋氏を訴えていません。
沖縄・辺野古において我々の正当な政治活動を活動家達が妨害しました。
私は、私に暴行した2人の男について被害届を出しましたが、島袋氏には被害届を出しておりません。
島袋氏は我々に暴行を繰り返したので、やめて、やめなさいと言いましたが、非暴力の我々を繰り返し叩き続け、同行者がかなり強い平手打ちを受け、同行者が被害届を出したものです。
記事を書いた佐々木氏は動画に暴行の現場が写っていないと言いますが、すべての動画が公開されているわけではありません。
公開されていない証拠映像は警察に提出済みです。

佐々木氏が「どこの世界に、87歳のおばあちゃんに対して暴行の被害届を出す「国会議員」がいるだろうか。健康で強壮な大の男のやることか。男として恥ずかしくないのか。」というのは、明らかに事実に反する誹謗中傷であり、謝罪と訂正がなければしかるべき措置を取ります。
事実に基づいて批判をするなら批判は甘んじて受けますが、取材を受けると言っているのに「取材に応じず」いうねつ造、岩上氏本人も事実を確認しないまま事実に反するツイッターをリツイートしています。

ジャーナリズムにあるまじき行為については、ジャーナリズム出身者として断固たる措置を取ります。」

この記事に、批判の対象としたIWJの記事(以下IWJ記事)のURLが付されている。内容は以下のとおり。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/339597

「高江で座り込みを続ける87歳の「文子おばあ」こと島袋文子さんから「暴行を受けた」と被害届を出した「日本のこころ」和田政宗議員!42歳!!IWJは再三取材を試みるも応じず!

たとえ「自称」であっても、日本の「保守」はここまで墜ちてしまったのだろうか。2016年5月、ある国会議員が沖縄・辺野古のキャンプ・シュワブゲート前で、基地反対派の市民から「暴力行為を受けた」として被害届を出した。

被害を訴えたのは、まがりなりにも「保守政党」を自称する、「日本のこころを大切にする党」参議院議員の和田政宗氏。42歳の男盛りである。訴えられたのはなんと、車イスで歩くのもままならない87歳のおばあちゃん、島袋文子さん(通称「文子おばあ」)である。」

さあ、これが国会議員の名誉を毀損する「捏造記事」だろうか。
整理してみよう。
和田議員が、「捏造」というのは、次の2点である。
(1)「IWJは再三取材を試みるも応じず!」
この記事は、和田議員側からは、「IWJは、(和田議員に、裏をとるために)再三取材を申し込んだが拒否された」と読めるが、真実は「2回の取材申込みはあったが、取材を拒否していない。取材は受けると告げている」。だから、記事は捏造。
(2)「参議院議員の和田政宗氏が「暴力行為を受けた」として島袋文子さんを被疑者とする被害届を出した。」
 和田議員は、議員に暴行した2人の男性については被害届を出しているが、島袋氏には被害届を出していない。島袋氏に被害届を出したのは同議員ではなく、同行者である。だから、この記事は捏造。

IWJの批判記事が、国会議員である和田議員の名誉を毀損する違法なものと言えるかの高いハードルは幾つもあり、これを乗り越えることは難しい。このことは、ジャーナリストでもある和田議員自身がよく分かっていることと思う。

最初のハードルは、IWJ記事が、普通の読者の普通の読み方で、客観的に議員の社会的評価をおとしめて、名誉を毀損するものと言えるか、という点。

「IWJは再三取材を試みるも応じず!」が、メディアからの取材申し出を無視する民主主義社会の議員にあるまじき事実の指摘として和田議員の社会的評価をおとしめるものと言えるだろうか。IWJ記事は議員の涜職や政治資金規正法違反や人権侵害やスキャンダルをあげつらうものではない。「IWJは再三取材を試みるも応じず!」程度の事実の摘示で、国会議員の社会的評価が揺らぐとは到底考えられない。それが常識的な健全な判断と言うべきではないか。

もうひとつは、「参議院議員の和田政宗氏が「暴力行為を受けた」として島袋文子さんを被疑者とする被害届を出した。」という点である。
これも、暴力を受けたとするものが被害届を提出した、という事実摘示。言われた者の社会的な評価をおとしめる事実摘示とは考えられない。

IWJ側は、記事が不正確だという和田議員の指摘には真摯に対応すべきが当然である。しかし、それは飽くまでジャーナリストとしての倫理の問題で、IWJ記事が違法ということとは次元の異なる問題である。

仮に、和田議員がこの第1のハードルを越したとしても、IWJ記事が公共の事項に関わるもので、公益目的で書かれていることには疑問の余地がない。

すると、第2のハードルは、摘示の事実が主要な点において真実ではないと言えるかである。事実摘示の真実性は、必ずしも完璧なものである必要はない。主要な点において真実であればよい。
(1)については、「取材を試みるも応じず!」の主要な点における真実性はかなり高いものと思われる。「少なくとも2度の要請があって取材に応じなかった」ことは和田議員の認めるところである。この点の(少なくとも主要な点の)真実性が認定される可能性は限りなく高い。

(2)については、和田議員は、「議員に暴行した2人の男性については被害届を出したが、島袋氏には被害届を出していない。島袋氏に被害届を出したのは同議員ではなく、同行者である。」という。これが本当だったとして、確かにIWJ記事(2)は正確性を欠いている。しかし、和田議員と同行者の「被害者グループ」が被害届を出しているのだ。主要な点において真実と言える可能性は残されている。

そして最後に、真実と信じるについて相当な理由があったのではないかという、相当性のハードルである。以上の諸事情から、これは問題ない。軍配はIWJ側に上がることになるだろう。

要は、表現の自由と、批判対象の名誉権との調整との問題である。批判対象者の属性によってこの調整の原理は大きく異なることになる。この程度の記事が、一々国会議員の名誉毀損と言われたのでは、ジャーナリズムの萎縮は免れない。公権力の側にいる者は批判の言論を甘受しなければなない、と言うことなのだ。それは、意見や論評についてだけのことではない。事実摘示の問題に関しても同様なのだ。

米連邦最高裁の判例に定着した「現実的悪意の法理」と言うものがある。これは、公的立場にある者に対する批判は、誤った言論といえども保護に値する有益性をもつという理解から、表現者に「現実的悪意」があったことの立証に成功しない限りは名誉毀損が成立しないとする法理である。連邦最高裁の用語を引用すれば、「現実的悪意」とは、真実でない表現について表現者が「虚偽であることを知っていた」か「虚偽であるか否かを不遜にも無視した」ことを指す。

公的人物に限ってのことだが、これは批判の言論の自由を尊重するもの。多少は間違っていてもよいのだということなのだ。単に論評の領域だけではなく、事実摘示の分野についても同様なのだ。我が国の訴訟実務では、「相当性の理論」の限度ではあるが、国会議員は事実摘示を誤った報道についても、批判の言論を甘受しなければならない。この程度の批判の記事に「捏造」「しかるべき措置を取る」というのでは、国会議員としての大度に欠けるというほかはない。
(2016年10月25日)

2020年「パンとサーカス」に喜々とする市民になるなかれ。

ようやく、リオ・オリンピックの狂騒が終わった。ところがメディアは、「さあ、次はいよいよ東京オリンピック」「この感動を東京につなげよう」という。この狂騒が、そっくり東京に来るのかと思うとやりきれない。2020年8月には、本気で東京疎開を考えなければならない。

もっとも、私はオリンピック全否定論者ではない。どんなテーマであれ、国際交流が相互理解と平和のために望ましいのは当然であるから。情報と資本と商品の流通だけでなく、人と人とが国境を越えて直接に行き来して、言葉を交わし、気持を通わせることは平和の礎である。

観光も、留学も、文化や学術の交流も、ますます盛んになればよい。それぞれが外国と外国の人や生き方を見ることが友好の第一歩だ。国際結婚ももっと増えて人種や民族の混交が進めば、差別意識もなくなってくるだろう。友情の絆や親族関係が国境を越えて張り巡らされれば、やがては国境そのものが不合理な存在となり、国際紛争も戦争の火種もなくなってゆくに違いない。

国籍や人種や民族、宗教の異なる人びとの大規模な交流の場として、オリンピックの意義がある。「堅固な平和の礎を築くことを目的とした交流の祭典」としての意義である。リオでの難民チームの結成は快挙というべきだ。自国の旗を背負うことを拒否するアスリートを束ねたチームの結成はできないものだろうか。国ごとのチーム編成を払拭できれば、さらに素晴らしい。

ところが、為政者もメデイアも、オリンピックをナショナリズム高揚の絶好の機会と捉え、あるいは国威発揚の場として利用しようとしている。これが、鬱陶しくてうんざりなのだ。メダルの数や色など、選手には関心事だろうが、はたが騒ぐほどのことではない。

オリンピックを取り巻く現実は、理想にほど遠い。日刊ゲンダイは「五輪メリットは『国威発揚』 NHKが憲章と真逆の仰天解説」と報じている。
「ビックリ仰天した視聴者も多かっただろう。21日のNHKの番組『おはよう日本』。オリンピックを扱ったコーナーで、『五輪開催5つのメリット』としてナント! 『国威発揚』を挙げていたからだ。
 『リオ五輪 成果と課題』と題し、刈谷富士雄解説委員が登場。…驚いたのは次の場面だ。
『何のためにオリンピックを開くのか。その国、都市にとって何のメリットがあるのか』と投げ掛けると、五輪のメリットとして真っ先に『国威発揚』を示したのだ。」

戦時には、「日本勝った」「強いぞ我が軍」という記事こそが、新聞の部数を伸ばした。だから、各紙が挙って従軍記者を戦地に送った。無名のむのたけじだけでない。文名赫々たる岡本綺堂や石川達三も戦地に行って記事を書いた。あれと同じ構造。メディアはオリンピックで、ナショナリステックな感動を大売り出しして、シェアの拡大をねらう。そんな画策に乗せられてはならない。

リオ大会の閉会式には、アベと小池の醜悪コンビが顔を揃えた。それだけで、もううんざりだ。

ところで、閉会式では信じがたい演出がなされた。画像に、ドラえもんが用意した不思議な「土管」が映し出される。この土管が、東京から垂直に下りて地球の裏側リオにまでつながる。マリオがこの土管を伝わって、東京からリオに移動するという設定。これは悪い冗談だ。見る人誰にも原発事故でのメルトダウンからチャイナシンドロームを想い起こさせる。しかも、閉会式会場に設置された土管から出たマリオの帽子と服を脱ぐとアベが現れるという仕掛け。2013年9月に、ブェノスアイレスでのIOC総会で、「福島第1原発の放射線は完全にブロック」「アンダーコントロール」と言ったそのアベが、チャイナシンドロームで開いた穴から出て来るというのだ。ブラックジョークのつもりか、あるいは悪意の当てこすりなのだろうか。アベは、どうしてこんな演出に喜々としていられるのだろう。

オリンピックのうさんくささは、ナショナリズムだけが原因ではない。「パンとサーカス」という言葉を思いださせるからだ。

かつてのローマ帝国における愚民化政策の代名詞が、「パンとサーカス」だ。権力者は市民を愚民に貶めておく手立てとして「パンとサーカス」を提供した。食料の配給は公衆の面前で物乞い行為に対する施しとして行われたという。そして、娯楽を求める市民の要求に応えて提供された見世物が「サーカス」。中でも剣闘士同士の闘いや、剣闘士と猛獣との闘いが人気を呼んだ。民衆はこのよう娯楽を十分に与える権力者を支持し従順となった。現代のオリンピックも恰好の見世物。ヒトラーは1936年ベルリンオリンピックを最大限利用した。アベも小池も、このことを十分に意識しているに違いないのだ。

戦後占領軍は日本の統治に意識的に3S政策を組み込んだといわれる。スポーツ、スクリーン、セックス(またはスピード)。これも、民衆の社会的な自覚や、政治への関心から目を逸らせるための愚民策。オリンピックはこれと重なる。

繰り返すが、私はオリンピックを全面否定はしない。しかし、アベや小池の愚民化政策に乗せられて、政権批判を忘れて「パンとサーカス」に喜々とする市民になるのは、まっぴらご免だ。
(2016年8月23日)

むのたけじ逝くー「おれなんか70より80と、ますます頭良くなってきた」

昨日(8月21日)、むのたけじが亡くなった。享年101。
戦争に加担した自分の責任を厳しく問い、再びの戦争の惨禍を招くことのないよう社会に発信を続けた、憲法の理念を体現するごとき人生。その良心の灯がひとつ消えた。この人の姿に励まされ希望を感じてきた多くの人々に惜しまれつつ。

東京外国語学校スペイン語科を卒業し、報知新聞記者を経て1940年朝日新聞社に入社、中国、東南アジア特派員となった。若い従軍記者として、つぶさに戦争の実相を見つめたのだ。そして、1945年8月15日敗戦の日に、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」として朝日を退社したという。戦後は、故郷の秋田県横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊、一貫して反戦の立場から言論活動を続けた。

今年(2016年)5月3日、東京有明防災公園での「憲法集会」に車椅子で参加している。そのときの元気なスピーチが、名演説として記憶に新しい。これが公の場での最後の姿となったという。朝日による当日の演説要旨は以下の通り。これがむのたけじの遺言となった。

「私はジャーナリストとして、戦争を国内でも海外でも経験した。相手を殺さなければ、こちらが死んでしまう。本能に導かれるように道徳観が崩れる。だから戦争があると、女性に乱暴したり物を盗んだり、証拠を消すために火を付けたりする。これが戦場で戦う兵士の姿だ。こういう戦争によって社会の正義が実現できるか。人間の幸福は実現できるか。戦争は決して許されない。それを私たち古い世代は許してしまった。新聞の仕事に携わって真実を国民に伝えて、道を正すべき人間が何百人いても何もできなかった。戦争を始めてしまったら止めようがない。

 ぶざまな戦争をやって残ったのが憲法九条。九条こそが人類に希望をもたらすと受け止めた。そして七十年間、国民の誰も戦死させず、他国民の誰も戦死させなかった。これが古い世代にできた精いっぱいのことだ。道は間違っていない。

 国連に加盟しているどこの国の憲法にも憲法九条と同じ条文はない。日本だけが故事のようにあの文章を掲げている。必ず実現する。この会場の光景をご覧なさい。若いエネルギーが燃え上がっている。至る所に女性たちが立ち上がっている。新しい歴史が大地から動き始めた。戦争を殺さなければ、現代の人類は死ぬ資格がない。この覚悟を持ってとことん頑張りましょう。」

しかし、憲法9条はけっして安泰ではない。その後の参院選で、両院とも改憲勢力が3分の2の議席を占める危険事態となった。101歳の叛骨のジャーナリストは、壊憲に突き進むアベ政治に、さぞかし心残りだったろう。

朝日の秋田版に掲載された、「むのたけじの伝言板」というシリーズのインタビュー記事がある。92歳から94歳の当時のもののようだ。その一部を抜粋して紹介したい。

─むのさんは「高齢者」「老後」という言葉は使いませんね。
 高齢なんてのは、官僚の年寄りだましのお世辞だよ。老人は老人、年寄りは年寄り。それだけでいい。老後とは何だ。老いはあるけど、老いた後とは何なんだ。よけい者だというのでしょ。高齢も老後も、老人を侮った言葉。「敬老」じゃなく「侮老」だ。

─敬老会に誘われませんか。
 10年位前に3回行ったけど、本当に小馬鹿にしているよ。安っぽい折り詰めに2合瓶1本つけて、幼稚園の子供のダンス見せて、選挙に出る連中が挨拶して、それでおしまいだもの。年々予算削られるから、ごっつおうもない。なんも面白くね。

─でも喜んでいる人もいるでしょ。
 いるでしょね。それはそれでいい。喜んでいない人もいるということを理解してもらわないと。しかも相当の人数いるんじゃないの。もっと心を込めた、年寄りが長く生きていて良かったと思う行事、何かあるんじゃない。

─年金はもらってますか?
 初めから拒否しているから、ないんです。61年に制度ができたとき、「集めた銭を軍備強化に使う恐れがあるから入らない」と。
 そういう立場だけど、「若者3人が高齢者1人を支えている」というような言い方はおかしいよ。本当の社会福祉、社会保障から見れば、我々を支えているのは、個人じゃなく国家なのだから、みんなでみんなを守るの。社会保障とはそういうもの。
今は、年取ったら介護保険だ、施設だ、と老いることが人間のゴミ捨て場みたいじゃないの。それは間違いだ。おれなんか70歳より80歳と、ますます頭良くなってきた。変なことに惑わされない。頼るのは、自分の常識だよ。

─戦後すぐに平和運動は起きたのですか。
 すぐは、食うのに懸命だった。憲法9条なんて当たり前だから放っておいた。それがよくなかった。この戦争は何だったのか。だれが何のために計画したのか。自衛権まで否定していいのか。そういう勉強をやらなければならなかったのだが、開放感が先に立った。
そして60年安保闘争。国会を70万人が取り囲んだ。政党や労働組合が「平和な世の中を」と叫び、古い政権を倒して新しい政権を作ろうとした。が、これが三文の値打もなかった。

─平和運動の始まりとおもっていましたが。
 平和だ、戦争反対だというけど、スローガンだけになった。本気になって命をかけてなかった。平和運動で何が残ったかというと、「良心にしたがって平和運動に参加した」という自己満足だけ。実の詰まった平和運動ではない。

─むのさんは「地域社会が喜びと希望を持って、どんどん働く力が出てくるような平和運動」を提唱しています。どういうものですか。
 戦争は、国の経済、金もうけとつながっている。みんなが、ほどほどのところで満足していけば、戦争はいらない、やらないに変わっていく。平和運動はこれまで、自分の体の外だけでの運動だったの。デモ行進とか抗議文とか。威勢よくみえるけど、戦争を計画している人には痛くもかゆくもない。スローガンではなくて、生活そのものを変えないと。
戦争反対ならば、自分自身も暮らしぶりを変える。夫婦喧嘩しながら平和を学びたくもないでしょ。隣近所と朝の挨拶もしないで平和国家もないものだ。夫婦の関係、親子の関係をどうするか。そういうことから始めればいい。
 非常にまだるっこいように見えるけど、戦争をたくらむ人たちに決して動かされないような、そういう生活態度につながれば、予算を一つも使わずにできるじゃないの、平和な世界というものが。

これも朝日に掲載された、むのの意見。高市総務相の停波発言への批判だが、むのが戦時の経験から、今を見つめて危機感を持って警告を発していることがよく分かる。

「太平洋戦争が1941年12月に始まりましたね。それからまもなく、私は従軍のために日本を発ち、翌年3月1日にジャワに上陸した。途中で立ち寄った台湾で、日本軍が作った「ジャワ軍政要綱」という一冊の本を見ました。日本がジャワをどのように統治するかというタイムスケジュールが細かく書かれていた。私がいたそれから半年間、ほぼその通りに事態は進んだ。

 その要綱の奥付に「昭和15年5月印刷」の文字があった。ジャワ上陸より2年近く、太平洋戦争開戦より約1年半も前だったんです。つまり、国民が知らないうちに戦争は準備されていたということです。

 もしもこの事実を開戦前に知って報道したら、国民は大騒ぎをして戦争はしなかったかも知れない。そうなれば何百万人も死なせる悲劇を止めることができた。その代わりに新聞社は潰され、報道関係者は全員、国家に対する反逆者として銃殺されたでしょう。

 国民を守った報道が国家からは大罪人とされる矛盾です。そこをどう捉えればいいのか。それが根本の問題でしょう。高市早苗総務相の「公平な放送」がされない場合は、電波を止めるという発言を聞いてそう思ったのです。公平とは何か。要綱を書くことは偏った報道になるのか。それをだれが決めるのか。

 報道は、国家のためにあるわけではなく、生きている人間のためにあるんです。つまり、国民の知る権利に応え、真実はこうだぞと伝えるわけだ。公平か否かを判断するのは、それを読んだり見たりした国民です。ひどい報道があったら抗議をすればよい。総務大臣が決めることじゃないんだ。そんなのは言論弾圧なんだ。

 報道機関は、自分たちの後ろに国民がいることをもう一度認識することです。戦時中はそのことを忘れておったな。いい新聞を作り、いい放送をすれば国民は応援してくれる。それを忘れて萎縮していた。

 戦争中、憲兵隊などが直接報道機関に来て、目に見えるような圧迫を加えたわけではないんです。報道機関自らが検閲部門を作り、ちょっとした軍部の動きをみて自己規制したんだ。今のニュースキャスター交代騒動を見ていて、私はそんなことを思い出した。報道機関側がここで屈しては国民への裏切りになります。

 「国境なき記者団」による報道の自由度ランキングが、安倍政権になってから世界61位まで下がった。誠に恥ずかしいことで、憂うべきことです。報道機関の踏ん張りどころです。」

心からご冥福をお祈りする。そして、私もその良心の灯を受け継ぐ一人でありたいと思う。
(2016年8月22日)

次期NHK会長選考に関する要望署名運動へのご協力のお願い

下記の、各地17の視聴者団体が、今日(8月11日)から連名で、NHK経営委員会長宛先にした、署名運動を始めた。

この署名運動への賛同と拡散への協力要請の通知を受けた。
私も署名をして、多くの方への賛同と拡散への協力を要請します。

☆呼びかけ団体は以下のとおり。
 アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)
 NHKとメディアを語ろう・福島
 NHK問題大阪連絡会
 NHK問題京都連絡会
 NHK問題とメディアを考える茨城の会
 NHK問題を考える岡山の会
 NHK問題を考える会・兵庫
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 時を見つめる会
 放送を語る会
 籾井さん!NHK会長やめはったら受信料払います京都の会

☆要望書のタイトルは、
「次期NHK会長選考にあたり、籾井現会長の再任に絶対反対し、推薦・公募制の採用を求める」
というもの。

☆署名による経営委員会長宛の要望事項
1. 公共放送のトップとして不適格な籾井現会長を絶対に再任しないこと
2. 放送法とそれに基づくNHKの存在意義を深く理解し、それを実現できる能力・見識のある人物を会長に選考すること
3. 会長選考過程に視聴者・市民の意思を広く反映させるよう、会長候補の推薦・公募制を採用すること。そのための受付窓口を貴委員会内に設置すること

☆署名用紙の全文(呼びかけ団体、署名運動の趣旨、要望事項、署名欄、署名用紙の郵送先などを記載)は下記URLを参照してください。
  http://bit.ly/2aVfpfH

☆ネット署名も受け付けています。
  https://goo.gl/forms/G43HP83SSgPIcFyO2
 署名に添えられたメッセージを、個人情報を省いて、ネット上で公開しています。
  https://goo.gl/GWGnYc

☆署名の第一次集約とその提出予定
  第一次集約日 9月10日(土)
  第一次分提出予定日 9月12日(月)
  (9月13日(火)が経営委員会長定例会長となります)

☆ 要望事項に添えられた要請文は下記のとおり。
 来年1月に籾井現会長の任期が満了するのに伴い、貴委員は目下、次期NHK会長の選考を進めておられます。
 私たちは、放送法の精神に即して、NHKのジャーナリズム機能と文化的役割について高い見識を持ち、政治権力からの自主・自立を貫ける人物がNHK会長に選任されることを強く望んでいます。
 籾井現会長は、就任以来、「国際放送については政府が右ということを左とは言えない」、「慰安婦問題は政府の方針を見極めないとNHKのスタンスは決まらない」、「原発報道はむやみに不安をあおらないよう、公式発表をベースに」など、NHKをまるで政府の広報機関とみなすかのような暴言を繰り返し、視聴者の厳しい批判を浴びてきました。このような考えを持つ人物は、政府から自立し、不偏不党の精神を貫くべき公共放送のトップにはまったくふさわしくありません。
 次期会長選考にあたっては、視聴者の意思を反映させる、透明な手続きの下で、ジャーナリズム精神を備え、政治権力に毅然と対峙できる人物が選任されるよう、貴委員会に対し、以下のことを強く要望いたします。

皆さま、ご協力のほど、よろしくお願いします。
  ********************************************************************
ジャーナリズムの本領は、国民の知る権利に応えることにあります。
国民の知る権利の対象は、時の政権が国民に知らせたいことではなく、国民に知らせたくないことにほかなりません。 国民の知りたいこと、知るに値することは、時の政権に不都合なこと。これを国民に知らせることが、NHKの使命ではありませんか。

権力から独立してこそのジャーナリズムです。
政府が右と言おうと左と言おうと、これに左右されるようなことでは、ジャーナリズム失格というほかはありません。

ジャーナリズムの公正とは、権力からの独立と同義にほかなりません。
NHKの公正の度合いは、官邸からの距離ではかられます。官邸の思惑を忖度などけっしてしてはなりません。

NHKの信頼を完全に失った籾井勝人会長は失格というほかありません。
NHKの使命を全うするにふさわしい、識見を持った会長の選考を求めます

(2016年8月11日)

公開討論「テレビ報道と放送法―何が争点なのか」を聴いて

本日(6月16日)、日本記者クラブを会場とした、公開討論「テレビ報道と放送法―何が争点なのか」を会場の片隅で聴いた。この公開討論は、「放送法遵守を求める視聴者の会」なるものの主張をめぐって、同会と「放送メディアの自由と自律を考える研究者有志」との討論という形のもの。

「視聴者の会」は、一見明らかにアベ政治の応援団。もっと端的に言えば、政権の手先の役割を担っている。これまで3度この会の名で、「私たちは違法な報道を見逃しません」という「監視の目」を大写しにした例の新聞広告を出した。昨年(2015年)11月、読売と産経に各1度。そして、今年(2016年)2月13日に再び産経に。この3度目の広告には、呼びかけ人だけでなく、賛同者の名が掲載された。変わり映えのしない狭い右派人脈の名が連ねられている。

このような団体との公開討論に意味があるのか疑問なしとしないところだが、「研究者有志」側の醍醐聰さんの事前の呼びかけは、「高市総務大臣の『電波停止発言』や報道の自由、自律、放送メディアの影響力(権力性)などをめぐってさまざま議論が交わされている。これらの点について異なる意見を持つ言論人が公開で討論をする企画が以下のとおり実現することになった。」というもの。

仲間内の議論だけで済ませるのではなく、「異なる意見を持つ者との議論こそが重要」「そのような議論を通じてこそ自分の見解が検証され」「議論が深まる」と言われてみればそのとおりだが、「あまりにも異なる意見をもつ者との議論」が成り立つのだろうか、実りある議論となるのだろうか。

パネラーは、3人対3人。
<放送メディアの自由と自律を考える研究者有志>側は、
 砂川 浩慶(立教大学教授/メディア総合研究所所長)
 岩崎 貞明(放送レポート編集長)
 醍醐 聰(東京大学名誉教授)
<放送法遵守を求める視聴者の会>
 ケント・ギルバート(米カルフォルニア州 弁護士、タレント)
 上念 司(経済評論家)
 小川 榮太郎(文芸評論家、視聴者の会事務局長)

視聴者の会側が求める「放送法遵守」とは、同法4条1項の以下の各号のこと。
第4条1項 放送事業者は、国内放送…の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

会に言わせると、既存テレビ局の放送は、この二号と四号に反して、特定のバイアスをもった政治的なプロパガンダとなっているという。常識的にとても首肯できる主張ではないが、その根拠として持ち出されているのが、特定秘密保護法や安保法制の法案審議段階での各番組の「両論(賛成・反対)放送時間比較」。
 秒単位で測ってみたら、圧倒的に反対論の時間が多かった。これを総合すると、
 特定秘密保護法案の審議に関する報道では、[賛成 26%][反対74%]
 安保法制の審議に関する報道では、[賛成 11%][反対89%]
 ほら、こんなに偏っているでしょう、というわけである。今日の討論会でも、「1対9はおかしいでしょう」と、執拗に繰り返された。

この検証をしたのは、「一般社団法人日本平和学研究所」という組織。社団法人で、「平和学」を専門とする研究機関なら権威があろうかと思わせるが、ネットを検索するとこの組織は、
 登記年月日:平成27年10月15日
 役員:代表理事 小川榮太郎
    理事   長谷川三千子
というもの。なお、いうまでもなく一般社団法人の設立は届出だけで可能である。

視聴者の会の事務局長を務める小川榮太郎とは何者か。そのことについて、「リテラ」というネットニュース記者の会場発言が印象的だった。私は初めて知ったことだが、「リテラ」の記事を引用する。
 http://lite-ra.com/2015/12/post-1827.html

「同団体(視聴者の会)と安倍首相との関係。鍵を握っているのは「視聴者の会」の事務局長を務める小川榮太郎氏だ。『視聴者の会』を立ち上げ、実質的に仕切っている人物で、同会がテレビの報道内容の調査を委託した『一般社団法人日本平和学研究所』の代表も小川氏が務めている。
 その小川氏は、自民党総裁選直前の2012年9月、『約束の日 安倍晋三試論』(幻冬舎)という“安倍礼賛本”を出版、デビューしており、この本がベストセラーになったことが、安倍首相復権の第一歩につながったとされている。
 ところが、この「視聴者の会」の首謀者の著書を、安倍首相の資金管理団体である晋和会が“爆買い”していたことがわかったのだ。
 この事実を報じたのは、「しんぶん赤旗」日曜版(12月13日号)。同紙によると2012年10月に丸善書店丸の内本店で900冊、11月に紀伊国屋書店でも900冊購入していたという。
〈「晋和会」の12年分の政治資金収支報告書には、書籍代として支出先に大手書店の名前がずらり。収支報告書に添付された領収書を見ると、小川氏の『約束の日』を少なくとも2380冊、計374万8500円購入していることが分かりました。〉(同紙より)
 本サイト(「リテラ」)でも晋和会の収支報告書を検証したところ、赤旗が報じたよりももっと大量に小川氏の『約束の日』を購入している可能性があることがわかった。同書が発売された2012年9月から12月にかけての収支報告書にはこんな巨額の書籍購入記録がずらりと並んでいた。(中略)
 その総額は実に700万円以上! しかも、興味深いのは安倍首相が版元の幻冬舎だけでなく、紀伊国屋書店はじめ複数書店で大量購入していることだ。
 支持者に配るためというなら、版元から直接購入すればいいだけの話。それをわざわざ都内の各書店を回って、買い漁っているのは、ようするに、買い占めによって同書をベストセラーにするという作戦だったのだろう。(以下略)」

この事実を念頭に、視聴者の会の主張を聞くとその評価はがらりと変わることになる。つまりは、表向きの主張(知る権利の擁護)とホンネ(アベ応援目的)との乖離が見えてくる。ホンネはマスメディアの安倍批判を牽制しようということとみれば、表向きの主張はご都合主義のきれいごとに過ぎないのだ。

しかし、醍醐さんは、視聴者の会の表向きの主張に真っ向から丁寧に付き合う。主張の背景にあるもので相手を攻撃しない。こんな相手でも、その人格を認めて意見交換を行うことに価値ありという立場なのだ。多分天性のものもあろうし、学生を教えてきた職業的な真摯さが板についていることもあるのだろう。まずは、相手の言い分にじっくり耳を傾けようという姿勢。真似ができない。

政権の応援団として、政権批判の言論を牽制しようという彼らも、民主主義や自由主義、表現の自由を否定しない。むしろ、自分たちこそ、その理念の体現者だという。だから、危ういながらも、議論の出発点としての共通の土台はある。醍醐さんが設定したのは「知る権利」だった。

メデイアの表現の自由とは、国民の知る権利に奉仕するためにある。国民は、メディアが伝える事実やその事実に付随する見解・評価を咀嚼して自らが判断し、主権者としての自らの意見を形成する。

特定秘密保護法や戦争法の法案など、国や国民の命運に関わる重要法案の審議において、メデイアが国民に伝達すべきは、圧倒的に優勢な権力側が提供する情報ではない。これに賛成する意見の垂れ流しでも形式的な賛否の平等でもない。メディア本来の役割は、政府提案の内容や根拠や背景を徹底して吟味しその問題点や、政府案の欠陥をえぐり出して国民に提示することである。そうして初めて、国民は自己の判断に資する情報や評価に接しえたことになる。断じて賛否の時間的なバランスが大切なのではない。どだい、「視聴者の会」がいう賛否の色分けも曖昧なもので、納得できるものではない。

時間で測定した形式的平等に固執し、「賛否の時間比が、1対9」と繰り返す視聴者の会側の3人は、私には政権擁護派の愚論としか聞こえない。メデイアの現状を知る国民に影響力あるとは思えないのだ。しかし、もしかしたら、彼らは俗耳に入りやすいことを計算した巧妙な議論を展開しているのかもしれない。とすれば、愚論と切って捨てることでは問題の解決にならない。その場合には、丁寧に学生と交流し学生を諭す醍醐さん流の正攻法が唯一の有効策なのかも知れない。
(2016年6月16日)

安心して叩ける「水に落ちた舛添」をどこまで打つべきか

政治資金収支報告書虚偽記載問題についての舛添要一都知事による釈明記者会見は、火に油を注ぐ結果となった。まずは、世論の反応の健全さを肯定評価したい。

都庁ホームページの「知事の部屋」で、動画として繰りかえし見ることができるし、発言の全文が文字に起こされてもいる。知事には相当に辛い内容だが、早期にアップしたことにはそれなりの敬意を表さねばなるまい。
  http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2016/160513.htm

舛添バッシング一色ともいうべき、この世論の反応は、政治資金公開制度が正常に作動した結果といってよい。これが、政治資金の動きを公開することによって、政治や政治家を「国民の不断の監視と批判の下に晒す」ことの効果だ。彼は、既にレイムダックであり、水に落ちた犬となっている。もはや彼のいうことに、何の説得力もない。リーダーとしての仕事はできない。

政治資金規正法には、世論の監視に期待するだけではなく、「政治資金の授受の規正その他の措置を講ずる」こいう側面もある。規正によって、「政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与する」ということ。

こちらは、知事が主宰する政治団体の政治資金収支報告書虚偽記載を犯罪として処罰することを想定している。私は、水に落ちた犬を寄ってたかってむち打つ仲間に加わろうという趣味はないが、いくつか、やや不正確なコメントが見られるので、次のことだけを記しておきたい。

※「政治資金規正法の虚偽記載罪は、政治団体の会計責任者(あるいは会計責任者の職務を補佐する者)の身分犯で、政治団体の代表者(舛添)の犯罪ではない」
第一次的にはそのとおりである。しかし、舛添の私的なホテルの宿泊費支出を「会議費用」として収支報告書に記載したことに、舛添が絡んでいないはずはない。結局は、共同正犯(刑法60条)が成立し、同法65条1項(身分犯の共犯規定)により、舛添についても虚偽記載罪(政治資金規正法25条1項)が成立する。

※「報告書への虚偽記載罪は故意犯なので、『間違いだった』で済まされてしまう。」
これも間違い。政治資金規正法27条2項は、「重大な過失により、…第25条第1項の罪(虚偽記載)を犯した者も、これを処罰するものとする。」となっている。

※「報告書を事後に訂正すれば、虚偽記載罪は結局不可罰となる」
とんでもない大間違いである。虚偽を記載した報告書の提出によって、犯罪は完成する。その後の訂正は、犯罪の成否に何の関わりも持たない。「訂正すれば問題がないだろう」とは、いかな軽率者も口にしてはならない。むしろ、事後の訂正は、犯罪の自認にほかならない。

※「有罪になつても必ずしも公民権停止とはならない。執行猶予がつけば、あるいは罰金刑の場合は公民権停止を免れる」
これも不正確な言なので、条文を掲記しておく。
政治資金規正法第28条1項 (第25条・虚偽記載)の罪を犯し罰金の刑に処せられた者は、その裁判が確定した日から五年間公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権を有しない。
 また、(刑の執行猶予の言渡しを受けた者については、その裁判が確定した日から刑の執行を受けることがなくなるまでの間)選挙権及び被選挙権を有しない。

同条2項は、禁錮刑実刑に処せられた者については、「その裁判が確定した日から刑の執行を終わるまでの間+5年間」が、執行猶予の場合は、「その裁判が確定した日から刑の執行を受けることがなくなるまでの間」が公民権停止期間としている。

もっとも、以上の「5年」は原則で、裁判所は判決で、これを短縮することもゼロとすることも、情状によっては可能である。

選挙で選出された地位にある現職者は、公民権停止の効果としてその職を失う。

※なお、舛添に「会計責任者の選任・監督に過失(重過失である必要はない)があれば」、最高50万円の罰金に処せられる(25条2項)。これにも、原則5年の公民権停止がつくことになる。

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ところで、舛添バッシングに関して、傾聴すべきブログの記事を目にした。
以下は、宮島みつやという論者による筆の冴えである。タイトルは、「舛添より酷かった石原慎太郎都知事時代の贅沢三昧、登庁も週3日!それでも石原が批判されなかった理由」というもの。
  http://lite-ra.com/2016/05/post-2228.html

…この問題では、舛添都知事をフクロ叩きにしているマスコミがなぜか一切ふれない事実がある。それは、東京都知事の豪遊、税金での贅沢三昧が、石原慎太郎・都知事の時代から始まっていたということだ。いや、それどころか、1999年から2012年まで続いた石原都政での知事の“公私混同”は舛添都知事を遥かに上回っていた。たとえば、04年、「サンデー毎日」(毎日新聞出版)が「『知事交際費』の闇」と題した追及キャンペーンを展開したことがある。「サン毎」が情報開示請求を通じて明らかにしたのは、高級料亭などを使って一回に数十万単位が費やされていた「接遇」の実態だった。これは、他の知事と比べても突出したもので、しかも相手の顔ぶれを見ると、徳洲会理事長の徳田虎雄氏や文芸評論家の福田和也氏など、ほとんどが石原氏の友人やブレーン。ようするに石原氏は“お友達”とのメシ代に税金を湯水のごとくぶっ込んでいたのだ。

 さらに、海外視察も豪華すぎるものだった。石原氏は01年6月、ガラパゴス諸島を視察しているが、公文書によれば、その往復の航空運賃は143万8000円、もちろんファーストクラスを利用していたとみられる。しかも、この視察で石原氏は4泊5日の高級宿泊船クルーズを行なっており、本人の船賃だけで支出が約52万円。この金額は2人部屋のマスタースイートを1人で使った場合に相当するという。なお、随行した秘書などを含む“石原サマ御一行”の総費用は約1590万円だった。

 訪問国や為替レートを考えると、これは、今問題になっている舛添都知事と同じ、あるいは、それ以上の豪遊を税金を使って行っていたといっていいだろう。ところが、当時、この「サンデー毎日」のキャンペーン記事を後追いするメディアは皆無。世論の反応も怒りにはならず、追及は尻すぼみに終わった。

 ご存知のとおり、石原氏は芥川賞選考委員まで務めた大作家であり、国会議員引退後、都知事になるまでは、保守論客として活躍していたため、マスコミ各社との関係が非常に深い。読売、産経、日本テレビ、フジテレビは幹部が石原べったり、「週刊文春」「週刊新潮」「週刊ポスト」「週刊現代」も作家タブーで批判はご法度。テレビ朝日も石原プロモーションとの関係が深いため手が出せない。

 批判できるのは、せいぜい、朝日新聞、毎日新聞、共同通信、TBSくらいなのだが、こうしたメディアも橋下徹前大阪市長をめぐって起きた構図と同じで、少しでも批判しようものなら、会見で吊るし上げられ、取材から排除されるため、どんどん沈黙するようになっていった。

 その結果、石原都知事はどんな贅沢三昧、公私混同をしても、ほとんど追及を受けることなく、むしろそれが前例となって、豪華な外遊が舛添都知事に引き継がれてしまったのである。

 にもかかわらず、舛添都知事だけが、マスコミから徹底批判されているのは、今の都知事にタブーになる要素がまったくないからだ。それどころか、安倍政権の顔色を伺っているマスコミからしてみれば、舛添都知事は叩きやすい相手なのだという。

「安倍首相が舛添都知事のことを相当嫌っているからね。舛添氏は第一次安倍政権で自民党が参院選で惨敗した際、『辞職が当然』『王様は裸だと言ってやれ』と発言するなど、安倍降ろしの急先鋒的存在だった。安倍首相はそんな舛添氏の口を塞ごうと内閣改造で厚労相にまで起用したが、内心ではかなり舛添に腹を立てていた。都知事になってからも、五輪問題で安倍の側近の下村(博文・前文科相)を批判したり、憲法問題で『復古的な自民党改憲草案のままなら自分は受け入れられない』などと発言をする舛添都知事のことを、安倍首相はむしろ目障りだと感じていたはず。だから、今回の件についても、舛添が勝手にこけるなら、むしろいいチャンスだから自分の息のかかった都知事をたてればいい、くらいのことを考えているかもしれない。いずれにしても、官邸の反舛添の空気が安倍応援団のマスコミに伝わっているんだと思うよ」(政治評論家)

 実際、普段は露骨な安倍擁護を繰り返している安倍政権広報部長というべき田崎“スシロー”史郎・時事通信社解説委員なども、舛添に対してはうってかわって、「外遊なんてほとんど遊びだ」と激しい批判を加えている。

 一方で、石原元都知事にその贅沢三昧のルーツがあることについては、今もマスコミはタブーに縛られ、ふれることさえできないでいる。

 舛添都知事の不正を暴くのは意味のあることだが、「マスコミもやる時はやるじゃないか」などと騙されてはいけない。強大な権力やコワモテ政治家には萎縮して何も言えず、お墨付きをもらった“ザコ”は血祭りにする。情けないことに、これが日本のメディアの現状なのである。(宮島みつや)

**************************************************************************
なるほど、舛添バッシングの構造は、こんなものかも知れない。少なくとも、こんな側面がある。私は、舛添擁護論に与しないし、告発も躊躇しないが、以上の指摘は心しておきたいと思う。
(2016年5月14日)

スラップ訴訟をどう定義し、どう対応すべきか ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第78弾

私自身が突然に提訴されて被告となったDHCスラップ訴訟。一審勝訴したが控訴されて被控訴人となり、さらに控訴審でも勝訴したが上告受理申立をされて、いまは「相手方」となっている。その上告受理申立事件は最高裁第三小法廷に係属し、事件番号は平成28年(受)第834号である。

さて、訴訟活動として何をすべきだろうか。実は、この事件なら、常識的には何もしないのが一番なのだ。何もせずに待っていれば、ある日第三小法廷から「上告受理申立の不受理通知」が届くことになる。これでDHC・吉田の敗訴が確定して、私は被告の座から解放される。上告受理申立理由に一々の反論をしていると、不受理決定の時期は遅滞することにならざるをえない。何もしないのが一番という常識に反しても、敢えて反論はきちんとすべきか否か。ここが思案のしどころである。

ところで、スラップ訴訟へのメディアの関心が高くなっている。最近、ある大手メディアの記者から取材を受けた。そのあと記者から、丁寧な質問をメールでいただいた。

要約すれば、関心は大きくは次の2点だという。
? 「憲法21条(言論の自由)と32条(裁判を受ける権利)の整合性をどう考えるべきだろうか」
? 「アメリカでは、スラップ訴訟を規制して、原告の権利侵害という議論が起こらないのだろうか」

通底するものは、特定の訴訟をスラップと刻印することで、侵害された権利救済のための提訴の権利が侵されることにはならないのだろうか、という疑問である。

以下は、私のメールでの回答の要約。

具体的な内容や背景事情を捨象すれば、DHCスラップ訴訟の構造は、次のようなことになります。

(1) 私が吉田を批判する言論を展開し、
(2) 吉田が私の言論によって名誉を毀損されたとして、損害賠償請求訴訟を提起した。
(3) その訴訟において、
 原告・吉田は、憲法13条にもとづく自分の人格権(名誉)が違法に侵害されたと主張し、
 被告・私は、憲法21条を根拠に自分の言論を違法ではないと正当性を主張した。
(4) 審理を尽くして、裁判所は被告に軍配をあげて請求を棄却した。
(5) 吉田は結果として敗訴したが、憲法32条で保障された裁判を受ける権利を行使した。

つまり、誰でも、主観的に自分の権利が侵害されたと考えれば、その権利侵害を回復するために訴訟を提起することができる。結果的に敗訴するような訴えについても、提訴の権利が保障されているということになります。

以上は、具体的な諸事情を捨象すれば…の話しで、普通はこれで話が終わります。しかし、次のような具体的諸事情を視野に入れると、景色は変わって見えてきます。この景色の変わり方をどう考えるべきかが問われています。

(1) 違法とされ提訴の対象となった私の言論が典型的な政治的批判の言論であること。
(2) 提訴者が経済的な強者で、訴訟費用や弁護士費用のハードルを感じないこと。
(3) 提訴されれば、私の応訴の負担は極めて大きいこと。
(4) 原告の勝訴の見通しは限りなく小さいこと。
(5) 原告の請求は明らかに過大であること。
(6) 原告は提訴によって、侵害された権利の回復よりは、提訴自体の持つ威嚇効果を狙っていると考えられること。
(7) 現実に提訴はDHC・吉田批判の言論に萎縮効果をもたらしていること。

もっとも、原告の勝訴確率が客観的にゼロに等しいと言える場合には、問題が単純になるでしょう。そのような提訴は嫌がらせ目的の訴訟であることが明白で、民事訴訟制度が想定している訴えではないとして、提訴自体が違法とならざるをえません。しかし、そのような厳密な意味での「違法訴訟」は現実にはきわめて稀少例でしかないでしょう。

このような「明らかな違法訴訟」とまでは言えないが、強者による言論への萎縮効果を狙った違法ないし不当な提訴は類型的に数多く存在します。これをスラップ訴訟と言ってよいと思います。

つまり、単に勝訴の見込みが薄い訴えというだけでなく、これに前記の(1)?(7)などの事情が加わることによって、提訴自体が濫訴として強い可非難性を帯びることになります。

アメリカのスラップ訴訟規制は各州で制度の差があるようですが、報告例を耳にする限りでは、原告の提訴の権利を侵害すると問題にされてはいないようです。

スラップ規制のあり方として、2段階審査の方式を学ぶべきだと思います。
審理の初期に、被告からスラップの抗弁があれば、裁判所はこれを取り上げ、スラップとして取り扱うか否かを審理して暫定の結論を出します。

原告が、裁判所を納得させられるだけの勝訴の蓋然性について疎明ができなければ、以後はスラップ訴訟として審理が進行することになります。その大きな効果としては、原告の側に挙証責任が課せられること、そして原告敗訴の場合には、被告側の弁護士費用をも負担させられることです。これでは、スラップの提起はやりにくくなるでしょう。でも、訴訟ができなくはなりません。

一般論ですが、複数の憲法価値が衝突する場合、正確にその価値を衡量して調整することが立法にも、司法にも求められます。

一方の側だけから見た法的正義は、けっして決定的なものではありません。別の側から見れば、別の景色が見えることになります。

スラップ訴訟もそんな問題のうちの一つです。私は、政治的言論の自由が攻撃されて、権力や社会的強者を批判する言論が萎縮することが憲法の根幹を揺るがす大問題と考える立場ですから、飽くまで憲法21条の価値をを主としてとらえ、DHC・吉田の憲法32条を根拠とする名誉毀損を理由として訴訟を提起する権利は従でしかないと考えます。

私が掲げる憲法21条に支えられた言論の自由の旗こそが最重要の優越する価値であって、DHC・吉田の名誉の価値はこの旗の輝きの前に光を失わざるをえないという考えです。のみならず、そのような価値の衡量が予想される事態において、DHC・吉田が敢えて高額の損害賠償請求訴訟を提起することをスラップとして、非難しなければならないとするのです。

さらに、言論の萎縮効果をもたらすスラップには法的な制裁が必要であり、スラップを提起されて被告となる者には救済の制度が必要だと、実体験から考え訴えているのです。DHC・吉田がしたごときスラップの横行を許すことは、メディアにとっては死活に関わる問題ではありませんか。

よろしくご理解をお願いいたします。
(2016年5月9日)

これが国際社会の良識から見た「日本の言論・表現の自由の惨状」だーデービッド・ケイの暫定調査結果を読む

安倍内閣発足以来、日本の言論・表現の自由は、惨憺たるありさまとなっている。
ほかならぬNHK(NEWS WEB)が、「報道の自由度 日本をはじめ世界で『大きく後退』」と報じている。本日(4月20日)の以下の記事だ。

「パリに本部を置く「国境なき記者団」は、世界各国の「報道の自由度」について、毎年、報道機関の独立性や法規制、透明性などを基に分析した報告をまとめランキングにして発表しています。4月20日発表されたランキングで日本は、対象となった180の国と地域のうち72位と、前の年の61位から順位を下げました。これについて「国境なき記者団」は、おととし特定秘密保護法が施行されたことなどを念頭に、「漠然とした範囲の『国家の秘密』が非常に厳しい法律によって守られ、記者の取材を妨げている」と指摘しました。」

日本は180国の中の72位だという。朝日は、「日本は2010年には11位だったが、年々順位を下げ、14年は59位、15年は61位だった。今年の報告書では、『東洋の民主主義が後退している』としたうえで日本に言及した。」と報じた。アベ政権成立のビフォアーとアフターでこれだけの差なのだ。

ところで、72位? 昨年から順位を下げたとはいえ、まだ中位よりは上にある? 果たして本当だろうか。この順位設定の理由は、「特定秘密保護法が施行されたこと」としか具体的理由を挙げていない。しかし、実はもっともっと深刻なのではあるまいか。

昨日(4月19日)、日本における言論・表現の自由の現状を調べるため来日した国連のデービッド・ケイ特別報告者(米国)が、記者会見して暫定の調査結果を発表した。英文だけでなく、日本語訳も発表されている。その指摘の広範さに一驚を禁じ得ない。この指摘の内容は、到底「言論・表現の自由度順位72位」の国の調査結果とは思えない。

最も関心を寄せたテーマが、放送メディアに対する政府の「脅し」とジャーナリストの萎縮問題。次いで、特定秘密保護法による国民の知る権利の侵害。さらに、慰安婦をめぐる元朝日記者植村隆さんへの卑劣なバッシング。教科書からの慰安婦問題のが削除。差別とヘイトスピーチの野放し。沖縄での抗議行動に対する弾圧。選挙の自由…等々。

ケイ報告についての各メディアの紹介は、「特定秘密の定義があいまいと指摘」「特定秘密保護法で報道は萎縮しているとの見方を示し」「メディアの独立が深刻な脅威に直面していると警告」「ジャーナリストを罰しないことを明文化すべきだと提言」「政府が放送法を盾にテレビ局に圧力をかけているとも批判」「政府に批判的な記事掲載の延期や取り消しがあつた」「記者クラブ制度は廃止すべき」「ヘイトスピーチに関連して反差別法の制定も求めた」などとされている。また、「(当事者である)高市早苗総務相には何度も面会を申し入れたが会えなかった」という。政府が招聘した国連の担当官の求めがあったのに、担当大臣は拒否したのだ。

今回が初めてという国連特別報告者の日本調査。あらためて、日本のジャーナリズムの歪んだあり方を照らし出した。これから大きな波紋を起こすことになるだろう。

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国連報告者メディア調査 詳報に若干のコメントを試みたい。()内の小見出しは、澤藤が適宜付けたもの。

【メディアの独立】
(停波問題)
「放送法三条は、放送メディアの独立を強調している。だが、私の会ったジャーナリストの多くは、政府の強い圧力を感じていた。
 政治的に公平であることなど、放送法四条の原則は適正なものだ。しかし、何が公平であるかについて、いかなる政府も判断するべきではないと信じる。
 政府の考え方は、対照的だ。総務相は、放送法四条違反と判断すれば、放送業務の停止を命じる可能性もあると述べた。政府は脅しではないと言うが、メディア規制の脅しと受け止められている。
 ほかにも、自民党は二〇一四年十一月、選挙中の中立、公平な報道を求める文書を放送局に送った。一五年二月には菅義偉官房長官がオフレコ会合で、あるテレビ番組が放送法に反していると繰り返し批判した。
 政府は放送法四条を廃止し、メディア規制の業務から手を引くことを勧める。」

事態をよく把握していることに感心せざるを得ない。放送メデイアのジャーナリストとの面談によって、政府の恫喝が効いていることを実感したのだろう。また、安倍政権の権力的な性格を的確にとらえている。権力的な横暴が、放送メデイアの「自由侵害のリスクある」というレベルではなく、「自由の侵害が現実化」しているという認識が示されている。危険な安倍政権の存在を前提にしての「放送法四条廃止」の具体的な勧告となっている。

(「記者クラブ」「会食」問題)
「日本の記者が、独立した職業的な組織を持っていれば政府の影響力に抵抗できるが、そうはならない。「記者クラブ」と呼ばれるシステムは、アクセスと排他性を重んじる。規制側の政府と、規制される側のメディア幹部が会食し、密接な関係を築いている。」

権力と一部メディアや記者との癒着が問題視されている。癒着の原因となり得る「記者クラブ」制度が批判され、「規制側の政府と、規制される側のメディア幹部が会食し密接な関係を築いている」ことが奇妙な図と映っているのだ。これを見れば、72位のレベルではなかろう。二ケタではなく三ケタの順位が正当なところ。

(自民党改憲案批判)
「こうした懸念に加え、見落とされがちなのが、(表現の自由を保障する)憲法二一条について、自民党が「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」との憲法改正草案を出していること。これは国連の「市民的及び政治的権力に関する国際規約」一九条に矛盾し、表現の自由への不安を示唆する。メディアの人たちは、これが自分たちに向けられているものと思っている。」

この指摘は鋭い。自民党・安倍政権のホンネがこの改憲草案に凝縮している。政権は、こんなものを公表して恥じない感覚が批判されていることを知らねばならない。

【歴史教育と報道の妨害】
(植村氏バッシング問題)
「慰安婦をめぐる最初の問題は、元慰安婦にインタビューした最初の記者の一人、植村隆氏への嫌がらせだ。勤め先の大学は、植村氏を退職させるよう求める圧力に直面し、植村氏の娘に対し命の危険をにおわすような脅迫が加えられた。」

植村さんを退職させるよう求める圧力は、まさしく言論の自由への大きな侵害なのだ。この圧力は、安倍政権を誕生させた勢力が総がかりで行ったものだ。植村さんや娘さんへの卑劣な犯罪行為を行った者だけの責任ではない。このことが取り上げられたことの意味は大きい。

(教科書検定問題)
「中学校の必修科目である日本史の教科書から、慰安婦の記載が削除されつつあると聞いた。第二次世界大戦中の犯罪をどう扱うかに政府が干渉するのは、民衆の知る権利を侵害する。政府は、歴史的な出来事の解釈に介入することを慎むだけでなく、こうした深刻な犯罪を市民に伝える努力を怠るべきではない。」

安倍晋三自身が、極端な歴史修正主義者である。「自虐史観」や「反日史観」は受容しがたいのだ。ケイ報告は、政府に対して、「歴史的な出来事の解釈に介入することを慎む」よう戒めているだけでない。慰安婦のような「深刻な犯罪を市民に伝える努力を怠るべきではない」とまで言っているのだ。

【特定秘密保護法】
(法の危険性)
「すべての政府は、国家の安全保障にとって致命的な情報を守りつつ、情報にアクセスする権利を保障する仕組みを提供しなくてはならない。しかし、特定秘密保護法は、必要以上に情報を隠し、原子力や安全保障、災害への備えなど、市民の関心が高い分野についての知る権利を危険にさらす。」

特定秘密保護法は、情報を隠し、原子力や安全保障、災害への備えなど、市民の関心が高い分野についての知る権利を危険にさらす、との指摘はもっともなこと。「市民の関心が高い分野」だけではなく、「国民の命運に関わる分野」についても同様なのだ。

(具体的勧告)
「懸念として、まず、秘密の指定基準に非常にあいまいな部分が残っている。次に、記者と情報源が罰則を受ける恐れがある。記者を処分しないことを明文化すべきで、法改正を提案する。内部告発者の保護が弱いようにも映る。」
「最後に、秘密の指定が適切だったかを判断する情報へのアクセスが保障されていない。説明責任を高めるため、同法の適用を監視する専門家を入れた独立機関の設置も必要だ。」

もちろん、法律を廃止できれば、それに越したことはない。しかし、最低限の報道の自由・知る権利の確保をという観点からは、「取材する記者」と「材料を提供する内部告発者」の保護を万全とすべきとし、秘密指定を適切にする制度を整えよという勧告には耳を傾けなくてはならない。

【差別とヘイトスピーチ】
「近年、日本は少数派に対する憎悪表現の急増に直面している。日本は差別と戦うための包括的な法整備を行っていない。ヘイトスピーチに対する最初の回答は、差別行為を禁止する法律の制定である。」

これが、国際社会から緊急に日本に求められていることなのだ。

【市民デモを通じた表現の自由】
「日本には力強く、尊敬すべき市民デモの文化がある。国会前で数万人が抗議することも知られている。それにもかかわらず、参加者の中には、必要のない規制への懸念を持つ人たちもいる。
 沖縄での市民の抗議活動について、懸念がある。過剰な力の行使や多数の逮捕があると聞いている。特に心配しているのは、抗議活動を撮影するジャーナリストへの力の行使だ。」

政府批判の市民のデモは規制され、右翼のデモは守られる。安倍政権下で常態となっていると市民が実感していることだ。とりわけ、沖縄の辺野古基地建設反対デモとヘイトスピーチデモに対する規制の落差だ。デモに対する規制のあり方は、表現の自由に関して重大な問題である。

【選挙の規制】 (略)
【デジタルの権利】 (略)

さて、グローバルスタンダードから見た日本の実情を、よくぞここまで踏み込んで批判的に見、提言したものと敬意を表する。指摘された問題点凝視して、日本の民主運動の力量で解決していきたいと思う。

但し、残念ながら、二つの重要テーマが欠けている。一つは、学校儀式での「日の丸・君が代」敬意強制問題。そして、もう一つがスラップ訴訟である。さらに大きく訴えを続けること以外にない。

国境なき記者団もこの報告書を読むだろう。さらには、来年(17年)国連人権理事会に正式提出される予定の最終報告書にも目を通すだろう。そうすれば、72位の順位設定が大甘だったと判断せざるを得ないのではないか。来年まで安倍政権が続いていれば、中位点である90位をキープするのは難しいこととなるだろう。いや、市民社会の民主主義バネを働かせて、安倍政権を追い落とし、72位からかつての11位までの復帰を果たすことを目標としなければならない。
(2016年4月20日)

本日は「東京新聞」の宣伝。

私は、東京新聞とも中日新聞社とも、なんの縁故もない。が、この新聞の読者が増えて欲しいと思う。そのリベラルな論調が、社会に浸透して欲しいと思う。その思いから、本日の紙面を紹介して宣伝に努めたい。

まずは、毎号一面の左肩に定位置を占めている「平和の俳句」。戦後70年企画として始まったヒット連載。

今日の一句は、
  昼下り妻に勝てない指相撲 (村松武徳(73)静岡県袋井市)

いとうせいこうが、「病によって半身マヒの作者。動かない方の手でなく、きっと動く手のことだろう。それでも指相撲に負けてしまい、笑いの出る平穏。」と解説している。このコーナーは、闘いとるべき厳しい平和よりは、のどかな平和のたたずまいが好もしい。

一面の記事では、「舛添都知事、海外出張費計2億円超 就任後2年で8回 共産都議団批判」の見出しが目を引く。
「舛添要一東京都知事が二〇一四年二月の就任後に行った八回の海外出張の経費が、合計で二億一千三百万円に上ることが分かった。共産党都議団が七日、一回当たりの費用は平均二千六百万円余で、石原慎太郎元知事の平均額を一千万円上回っていることを明らかにし、随行職員が多いためだと指摘。「『大名視察』との批判もある。都民の税金で賄われており、必要性を精査して経費節減の徹底を」と改善を求めた。」という都民への注意喚起の内容。

あの傲慢石原慎太郎を上回る金額というのだから、舛添要一恐るべしである。共産党都議団の資料を記事にすることに躊躇しない東京新聞の姿勢を買いたい。

「TPP 首相『丁寧に説明』と矛盾 衆院特別委 民進『隠蔽』と反発」という解説記事も充実している。「七日の衆院環太平洋連携協定(TPP)特別委員会で、TPP担当の石原伸晃経済再生担当相は交渉経過について、約二十回も『コメントを差し控える』などと繰り返した。安倍晋三首相はTPPについて『影響や対策を国民に丁寧に説明していく』と理解を求めたが、民進党は『隠蔽内閣だ』と反発、情報開示に関する追及を強める構え」という内容。論点の解説が分かり易い。

「茨城の元首長ら『安保法廃止を』 参院選へ市民連合」という記事もある。錚々たる呼びかけ人が、参院選だけでなく、次期衆院選での野党統一候補擁立を働きかける動きを報じている。

実は、最も感心したのは、第5面。社説と投書の欄である。
社説は2本。「年金運用損失 なぜ公表を遅らせる」と、「TPP本格審議 透明度を上げ、丁寧に」。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016040802000133.html
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016040802000132.html

どちらも、落ちついた論調で説得力に富む。そして、どちらも鋭い政権批判となっている。とりわけ、「年金運用損失」の社説を読むと、安倍内閣の姑息な姿勢にあらためて憤らずにはおられない。

投書欄は、「発言」の表題。いつも、政府批判の論調というわけではないが、本日の投書は優れている。

「表現自由侵す広告は拒否を」 例の「右派論客らが名を連ねる「視聴者の会」の意見広告について述べたもの。「言論の自由圧殺に肩入れすれば、いつかメディア全体を縛ることになる」という警告。

「伊勢神宮での歓迎行事憂慮」 伊勢志摩サミットでの歓迎行事を伊勢神宮で行うとすれば、明らかな政教分離違反。もってのほかではないか、という盲点の指摘。

そして、「衆参同日選挙の混乱懸念」 同日選の複雑さとそれ故の混乱を懸念して、「そこまでして同日選を行う大義名分があるか」を問うている。 

さらに、「容疑者の卒業取消疑問」の意見。「在学中のデモ参加などでの逮捕歴でも卒業取消ともなりかねない」という指摘に、なるほどと思う。

名物「こちら特報部」今日の記事の一つは、「警官に首を絞められた」《ヘイトスピーチ過剰警備》河野国家公安委員長が謝罪」である。「与党法案、実効性ゼロ」「警察への人権教育を」という小見出しも付いている。

歴史修正主義者・安倍晋三がヘイトスピーチと深く結びついていることは誰もが知ってはいるが、なかなか決定的な証拠は出てこない。今日の記事は、「ヘイトスピーチ問題をめぐっては、レイシストらのデモや街宣を護衛する一方、カウンター側を徹底して規制する警察の対応が非難を浴び続けてきた」という認識を基調に、警備の警察官がカウンター側の女性の首を絞めている写真を掲載して、問題提起したもの。これはインパクトが大きい。今後の追加報道を期待させる。

最後に、コラム「筆洗」も紹介しておきたい。
「世界で一番貧しい大統領」と呼ばれた南米ウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカについて。次の個所がこの新聞らしい。
「自由。この人が語るこの言葉には特別な重みがある。彼は反政府勢力の幹部として捕らえられ、十数年間も獄中で過ごした。地面に穴を掘った独房に入れられ、一年余も体を洗えなかったこともあるという。それは狂気と闘う日々だったという。ムヒカさんは口に石を含み、叫び出す衝動を抑えた。穴に入り込んでくるカエルやネズミとパンくずを分け合い、彼らを友とすることで孤独を癒やした。そんな極限の生活を体験したからこそ、地球の資源を食い尽くすような大量生産・大量消費の虚構が見えたのだろう。」

タックスヘイブンで蓄財している政治指導者に読ませたい。海外出張に都民の税金を惜しげもなく2億円も使い込む都知事にも。

全体に紙面が伸びやかで萎縮を感じさせない雰囲気がよい。そして、分かり易く面白い。東京新聞が、この姿勢を続けて多くの読者を得ることができるよう願っている。
(2016年4月8日)

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