澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「安保法制」という呼称をやめよう。はっきり「戦争法案」と呼ぶことにしよう。

社民党の福島瑞穂議員が、参院予算委員会での安倍首相に対する質問の中で「14?18本の戦争法案」との発言にクレームをつけられている。クレーマーとなっているのは、政権であり、これに追随する院内自民党である。両クレーマーとも明らかにおかしい。この問題は民主主義の本質に関わるといってよく看過し得ない。全面的な福島議員応援の手段として、これからは、「安全保障関係連法案」「安保関連法案」などと言うのをやめよう。躊躇することなく、「戦争法案」と言おうではないか。

法に対するネーミングは重要だ。呼称者がその法律をどう把握しているかを表すものとして、である。正式な法の名称はたいていは長過ぎる。しかも、実態を表わさず明らかに誤解を期待するごときものも少なくない。

「日本国憲法の改正手続に関する法律」を「国民投票法」と呼べば、「主権者・国民の意思を国政に反映させる法律」というイメージだが、「改憲手続法」と言った方が穏やかならざるこの法律の本質がよく分かる。

1985年に、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」が国会に上程され国民的な反対運動の盛り上がりの中で廃案となった。上程者側は、この法案を「スパイ防止法」と略称し、「スパイ天国日本において国益に反するスパイの跳梁を防止する法律」と宣伝した。メディアは、これを「国家秘密法」と呼び、反対の運動体は「国家機密法」と呼んだ。戦前の軍機保護法や国防保安法を連想させる本質を衝いた上手なネーミングであった。

ところで、現行憲法の第2章の標題は「戦争の放棄」である。ご存じのとおり、第9条が1か条あるだけ。自民党改憲草案の第2章は「安全保障」と名称を変更する。「平和主義」の第9条のあとに、「国防軍」を定める第9条の2をおいている。安全保障とは、「戦争の放棄=武力によらない平和」に対立する用語なのだ。

名は体を表す、どのような「体」と見るかは人によってさまざまであるから、呼び「名」も異なることになる。ある立法の真の目的や、役割をどう把握するかは、国民一人ひとりの評価の問題で、これを他からとやかく言われる筋合いはない。国会議員であれば、あるいは政党であればなおさらのことである。しかも、政府与党のいう安全保障法制とは、武力による威嚇あるいは武力の行使によって、わが国の安全を保持しようというスタンスに間違いはない。これを「戦争法」「戦争立法」「戦争準備法」「戦争挑発法」と呼んでいささかの違和感もない。

もし、安倍や自民がこれを気に入らないとすれば、論戦の中で反論すればよいだけのこと。「そのような評価が怪しからん」「そのような法の呼び方をやめろ」「議事録からの抹消を承諾せよ」というのは、思想良心の自由に対する挑戦に等しい。討論拒否体質をむき出しにしたもので、あまりに大人げないし、乱暴極まる。

このことについての最初の報道は4月18日の朝日だったと思う。「社民党の福島瑞穂氏が参院予算委員会で安倍晋三首相に質問した際、政府が提出をめざす安全保障関連法案を『戦争法案だ』などと述べたことについて、自民党の理事は17日、一方的な表現だとして修正を求めた。…政治的な信条に基づく質問の修正を求めるのは異例で、論議を呼びそうだ。」というもの。

今日(4月24日)の赤旗が、志位委員長の発言として、「恥ずべき傲慢 撤回を」「『戦争法案』自民の修正要求」という記事を載せている。注目すべきは、「かつて日本共産党が、周辺事態法(1999年)を『戦争法』と呼び批判の論陣を張ったときには、自民党から同様の要求はなかった」と言っている。

実際にはどのようなやり取りだったか確認してみたいと思っていたら、福島議員が自分のブログ「福島みずほのどきどき日記」(4月2日)に未校正稿を掲載している。
要旨を引用すれば以下のとおり。

○福島みずほ君 安倍内閣は、五月十五日、十四本から十八本以上の戦争法案を出すと言われています。集団的自衛権の行使や、後方支援という名の下に戦場の隣で武器弾薬を提供する、このことを認めようとしています。
 誰が戦争に行かされるのか。奨学金を払えない、仕事がない、資格を取りたい、大学に行きたい、そんな若者が行かされるのではないでしょうか。若者の過酷な労働条件の延長線上に本物の戦場がある、そのことが出てくると思います。格差拡大、貧困と戦争はつながっていると思いますが、総理、いかがですか。

○内閣総理大臣(安倍晋三君) 我々が今進めている安保法制について、戦争法案というのは我々もこれは甘受できないですよ。そういう名前を付けて、レッテルを貼って、議論を矮小化していくということは断じて我々も甘受できないと、こんなように考えているわけでありまして、真面目に福島さんも議論をしていただきたいなと、これは本当にそう思うわけでございます。
 我々が進めている安保法制は、まさに日本人の命と、そして平和な暮らしを守るために何をすべきか、こういう責任感の中から、しっかりと法整備をしていきたいと、こういうものでございます。

○福島みずほ君 問いに答えていないですよ。格差拡大、貧困と戦争がつながるかと質問しました。
戦争法案、これは集団的自衛権の行使を認め、後方支援という名の下にまさに武器弾薬を提供するわけですから、戦争ができることになる、そういうふうに思います。これを戦争法案、戦争ができるようになる法案ですから、そのとおりです。
 今、日本国憲法下の下にそれをやろうとする安倍内閣は退陣すべきだということを申し上げ、私の質問を終わります。

○委員長(岸宏一君) 先ほどの福島みずほさんの御発言中、不適切と認められるような言辞があったように思われますので、後刻理事会において速記録を調査の上、適当な処置をとることといたします。

安倍自民。あまりに狭量ではないか。あまりに余裕がない。安倍晋三の狭量は以前からおなじみだが、岸宏一委員長の政権追随ぶりもいただけない。立法府の矜持と見識はどこに行ったのか。国会は討論の府ではないか。「戦争法案」と主張する質問者にも、「戦争法案ではない」という答弁者にも、それぞれが把握した法の本質を存分に語らせ、議を尽くさせたらよいのだ。

安倍は、「あなたは戦争法というが、それはあたっていない。なぜなら、これは平和を求めた法律なのだ。けっして戦争のため立法ではない」としたうえで、格差・貧困の拡大と戦争とのつながりの有無について答弁すればよい。もちろん、重ねての議論がここから続くことになる。説得力の有無は、国民が判断することだ。それを、質問者の見解を封じ、議論もしようとしないからおかしくなるのだ。

福島議員のいうとおり、若者の命が奪われる事態が現実に起ころうとしているのだ。なんの遠慮がいるものか。さあ、これからは「戦争法」の用語を使って大いに議論をしよう。そして、この危険な違憲の諸法案を廃案に追い込もうではないか。
(2015年4月24日)

平和を望む者は、自・公両党に投票してはならない

統一地方選挙前半戦の投票日(4月12日)が近づいている。各道府県や政令指定都市の個別地域課題が争点となっていることは当然だが、色濃く国政を問う選挙ともなっている。改憲(壊憲)色を強めた安倍政権に対する信任投票という性格を払拭できない。いま、自・公両政党へ投票することは、平和を危うくする方向に国を動かすことだ。あなたが平和を望むのであれば、自・公両党に投票してはならない。

我が国民は、今次の戦争での敗戦を痛苦の悔恨の念をもって省み、「再び戦争の惨禍を繰り返してはならない」「戦争の被害者にも加害者にもけっしてなるまい」と誓いを立てた。その誓いは、自らに対するものでもあり、また侵略戦争や植民地主義の被害者となった近隣諸国の民衆に対するものでもあった。

敗戦の反省の仕方には二通りある。一つは、戦争をしたことではなく負けたことだけを反省の対象とすること。そしてもう一つは、勝敗に関わりなく戦争したこと自体を反省することである。

前者の反省の仕方では、「次の戦争ではけっして負けてはならない」とする軍事大国路線の選択となり、後者の反省は平和主義をもたらす。我が国は、非武装の徹底した平和主義を国是とし、そのような国民の総意を憲法に書き込んだ。こうして戦後の70年間、国民は平和憲法を擁護して戦争をすることなく過ごしてきた。国民自らの不再戦の誓いと、平和憲法の恩恵である。

ところが、それが今危うい。安倍晋三という極右の政治家が首相となって以来、碌なことはない。今や、憲法の平和主義の保持が危ういと心配せざるを得ない。「できれば憲法の条文を変えたい」。「それができなくても、法律を変えてしまえば同じこと」。「法律を変えることができなくとも、行政が憲法の解釈を変えてしまえばこっちのものだ」というのが、安倍晋三一味のやり口なのだ。

憲法9条は、武力の行使を一切禁止している。私たちのこの国は、いかなる場合にも対外紛争を武力による威嚇あるいは武力の行使によって解決することはしない。そのような選択肢を自ら封じているのだ。その智恵と方針の遵守が我が国の平和を70年間保ってきたのだ。その大方針を転換して、「戦争という選択肢をもちたい」と安倍政権は明らかに言っているのだ。

憲法9条の平和主義は傷だらけだと言われる。そのとおりではあろう。しかし、傷は負っていてもけっして致命傷には至ってない。憲法9条はまだ生きている。まだまだ、有効に軍国主義者たちの前に立ちはだかっている。戦争のできるような国にしたい安倍一味にとって、9条はまだまだ手強い不倶戴天の敵であり、打倒の目標なのだ。

戦争という手段を選択肢としてもちうる国にするためには、明文の改憲をおこなって9条を変えることが正攻法である。しかし、これはあまりにハードルが高い。もっと手っ取り早い簡便な方法として、憲法はそのままに、憲法をないがしろにする法律を作ってしまえという乱暴な手法がある。いわゆる「立法改憲」である。

その最たるものが、集団的自衛権の行使を容認する安保法制に関する諸立法である。首相の私的諮問機関という「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)の報告後の自公摺り合わせを経て、昨年7月1日「集団的自衛権行使容認の閣議決定」に至った。そして、今度はその立法化である。3月20日に与党協議が整い、必要な法案は統一地方選終了後に国会に提出の予定とされる。

キーワードは「切れ目のない安全保障」である。安倍政権は、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備」を謳っている。これは、とりもなおさず、いつでも、どこでも、何が起こっても、武力の行使による対処を可能とするということにほかならない。

敗戦の惨禍というあまりに高価な代償をもって購った憲法9条の平和主義を、シームレスに捨て去ろうということなのだ。これまでは、日本は軍隊を持てないというお約束は、タテマエにもせよ大切にされてきた。自衛隊は軍隊ではなく、飽くまで専守防衛に徹した自衛のための実力組織であって、海外で武力行為をすることはまったく想定されてはおらず、専守防衛を超える装備や編成はもたないものとされてきた。これを安倍晋三は、挑戦的に「我が軍」と言ってのけた。驕慢も甚だしい。

集団的自衛権行使容認だけではない。教育の国家管理化、マスコミ統制のための特定秘密保護法の制定。靖国神社参拝、憲法改正草案と憲法改正国民投票法の整備…。

「戦後レジームを打破」して、「日本を取り戻そう」、というのが安倍政権の基本スローガンである。戦後レジームとは、現行の憲法秩序のことにまちがいない。安倍一味は日本国憲法が大嫌いなのだ。もちろん、平和主義も国民主権も人権の尊重も、である。そして、彼が取り戻そうというのは、一君万民・富国強兵の戦前の国内秩序であり、八紘一宇・五族共和・東洋平和の国際秩序としか考えようがない。

安倍自民党への投票は、平和を失う一票となりかねない。あなたが平和を望むのなら、国の内外に大きな不幸をもたらし、自らの首を絞める愚かな投票をしてはならない。

この安倍自民に「どこまでも付いていきます、下駄の雪」となっているのが公明党である。安倍自民の悪業の共犯者となってこれを支えている公明党に投票することも同様なのだ。

権力につるんで甘い汁を吸っている者はいざ知らず、庶民は、自・公両党に投票してはならない。自分の首を絞める愚をおかしてはならない。
(2015年4月9日)

憲法の暗殺を許すなー与党合意の立法を成立させてはならない

70年前に、未曾有の敗戦の惨禍から日本を再生させた国民は、平和を誓ってこの理念を憲法に刻み込んだ。今度は負けない強い軍事国家をつくろうとしたのではない。誰もが平和のうちに生きる権利のあることを確認し、戦争を放棄し戦力の不保持を宣言したのだ。国の方針の選択肢として戦争を除外する、非軍事国家として再出発した。そのことが、日本を平和愛好国家として権威ある存在としてきた。

それが、今大きく揺るぎかねない事態を迎えている。安倍内閣と、自公両党によってである。憲法に刻み込んだはずの誓いが、憲法改正の手続ないままにないがしろにされようとしている。

人に上下はないが、法形式には厳然たる上下の階層秩序がある。上位の法が下位の法を生み、その妥当性の根拠を提供するのだから、法の下克上は許されようはずもない。

法の階層秩序の最高位に憲法がある。憲法を根拠に、憲法が定める手続で、法律が生まれる。法律が憲法に反することはできない。このできないことをやってのけようというのが、「安全保障法制整備に関する与党合意」にほかならない。しかも、法律ですらない閣議決定を引用し、これに基づいて違憲の立法をしようというのだ。

憲法を改正するには、憲法自身が定める第96条の手続によらなければならない。内閣や国会が憲法の内容に不満でも、主権者が憲法を改正するまではこれに従わなければならない。むしろ、立憲主義は、憲法の内容をこころよしとしない為政者に対峙する局面でその存在意義が発揮されるというべきである。

改憲手続きを経ることなく、閣議決定で許容される範囲を超えて憲法解釈を変更することは、憲法に従わねばならない立場にある内閣が憲法をないがしろにする行為であって、言わば反逆の罪に当たる。憲法の範囲内で行使されるべき立法権が、敢えて違憲の立法をすることは、主権者の関与を抜きにした立法による改憲にほかならない。

解釈改憲や立法改憲が憲法の核心部分を破壊するものであるときは、違法に憲法に致命傷を与えるものとして、憲法の暗殺と言わねばならい。

閣議決定による集団的自衛権行使容認と、その違憲の閣議決定にもとづく安保法制の立法化のたくらみは、まさしく平和憲法の暗殺計画ではないか。立憲主義、平和主義、そして民主主義を擁護する立場からは、この憲法の暗殺を許してはならない。

昨日公表された与党合意、正確には「安全保障法制整備の具体的な方向性について」に関して、本日の各紙が問題の重要性に相応しく大きく取り上げている。報道、解説、社説がいずれも充実している。なかでも、東京新聞の全力投球ぶりが目を惹く。朝日も、さすがと思わせる。

朝日の社説は「安保法制の与党合意―際限なき拡大に反対する」という見出しで、「米軍の負担を自衛隊が肩代わりする際限のない拡大志向」に懸念を表明している。また、「抑止力の強化」の限界を指摘して、「抑止力への傾斜が過ぎれば反作用も出る。脅威自体を減らし紛争を回避する努力が先になされなければならない。」とも主張している。結論は、「戦後日本が培ってきた平和国家のブランドを失いかねない道に踏み込むことが、ほんとうに日本の平和を守ることになるのか。考え直すべきだ。」というもの。異論のあろうはずはない。

しかし、気になる一節がある。
「肝要なのは、憲法と日米安保条約を両立させながら、近隣諸国との安定した関係構築をはかることだ。」という。日米安保条約を「憲法と両立させるべきもの」と位置づけている点。かつて、好戦的なアメリカとの軍事同盟は、我が国を戦争に巻き込む恐れの強いものとして、「アンポ、ハンタイ」の声は津々浦々に満ちた。いま、安倍政権と自公両党がやってのけようという乱暴な企図に較べると日米安保などはおとなしいものということなのだ。

本日の東京新聞の見出しを拾えば、「戦争参加の懸念増す」「事実上の海外武力行使法」「国民不在の『密室安保』」「戦える国作り 加速」「海外派遣 どこへでも」「政府判断でいつでも」などというもの。東京新聞の姿勢が歴然である。

その東京新聞の社説の標題は、「『専守』変質を憂う」となっている。与党合意の内容が、これまでの政府の方針であった「専守防衛路線」から大きく逸脱するものと考えざるをえないと批判するトーンである。「『専守防衛』は、日本国民だけで310万人の犠牲を出した先の大戦の反省に基づく国際的な宣言であり、戦後日本の生き方そのものでもある」とまで言っている。

米の軍事力で我が国の安全を守ろうというコンセプトの日米安保条約も、自衛権の発動以上の戦力を持つことのない専守防衛の自衛隊も、かつては違憲とする有力な論陣があって、政府が専守防衛は違憲にあらずとする防戦に務めていた。ところがいま、安倍政権と自公の与党は、自衛隊を専守防衛のくびきから解放して、世界のどこででも戦うことができる軍事組織に衣替えしようというのだ。

今、自衛隊違憲論者と専守防衛合憲論者とは、力を合わせスクラムを組まねばならない。安倍政権と自公両党による、憲法暗殺計画を共通の敵とし、憲法を暗殺から救出するために。
(2015年3月21日)

70年の平和をさらに続けようー今年初めての街頭宣伝行動

ここ、本郷三丁目の交差点で、お昼休みのひとときに、今年はじめての訴えをさせていただきます。少しの間、耳をお貸しください。

私たちは、「本郷・湯島九条の会」の会員です。この近所に住んでいる者が、憲法九条を大切にしよう、憲法九条に盛り込まれている平和の理念を守り抜こうと寄り集まって作っている小さな会です。私も近所の本郷五丁目に住んでいる弁護士で、憲法と平和を何よりも大切にしようとしている者のひとりです。

今年は、「戦後70周年」をもって語られる年です。70年前と比較すれば、今年のお正月は平和に明けました。戦争のないお正月。空襲警報は鳴りません。敵機の来襲もなく、特高警察も憲兵もありません。徴兵も徴用も、宮城遙拝の強制もなく、治安維持法や軍機保護法で痛めつけられることもありません。ラジオの臨時ニュースが大本営発表をしているでもありません。

70年前の正月、私たちの国は激しい戦争をしていました。戦争のために、国民生活のすべてが統制され、一人ひとりの自由はありませんでした。空襲は日増しに激しさを増し、3月10日には都内の10万人が焼け死んだ東京大空襲の悲劇が起こります。6月には沖縄の地上戦が陰惨を極め、8月には広島・長崎に原爆が投下されて、15日の敗戦の日を迎えます。その日までに、日本国民310万人が戦争で尊い命を落としました。また、日本軍が近隣諸国に攻め込んだことによる犠牲者は2000万人にのぼるとされています。

戦争は日本の国民に、被害と加害の両面において、このうえない惨禍をもたらしました。どんなことがあっても、再び戦争を繰り返してはならない。これが、生き残った国民の心からの思いでした。どうして戦争が起こったのか、どうして戦争を防ぐことができなかったのか。そして、どうすればこのような悲惨な戦争を繰り返さないようにすることができるのだろうか。

真剣な議論の答の一つは、民主主義の欠如ということだったと思います。戦争で最も悲惨な立場に立つことになる庶民の声が反映されない政治の仕組みこそが問題ではないのか。国民が大切な情報から切り離されて、政治に参加できないうちに一握りの財閥や軍人や政治家たちの思惑に操られて戦争に協力させられてしまった。国民一人ひとりが、自分の運命に責任を持つことができるように、国民自身の手に政治を取り戻さねばならない。それができれば、国民を不幸にする戦争を、国民自身が始めることはないだろう。民主主義の発展こそが、平和の保障だという考えです。

もう一つの答が、憲法9条に盛り込まれた平和主義であったと思います。人類は、身を守るために長く暴力に頼ってきました。でも、次第に暴力を野蛮なものとし、暴力ではなく他と相互に信頼関係を築くことで安全を守ることに切り替えてきたのではありませんか。これが文明の進歩というものではないでしょうか。国家という集団でも同じことです。国の平和を守るためには軍事力が必要だというのが長らくの常識でした。しかし、武力の行使や戦争を違法なものとする考え方が次第に成熟し、国連憲章を経て、日本国憲法にこのことが銘記されることになったのです。

日本国憲法9条第1項は、「戦争を永久に放棄する」としています。そして、同第2項は、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と、軍隊をもたないことを宣言したのです。戦争はしないと宣言し、軍隊をもたないという謂わば捨て身の覚悟で、日本は平和を獲得しようとしたのです。

放棄されたものは、明らかに侵略戦争だけでなく自衛戦争までを含むものでした。当時政権を担っていた吉田茂や幣原喜重郎などの保守政治家が、「古来すべての戦争が自衛の名のもとに行われてきた。日本国憲法の平和主義は自衛の名による戦争を許さないものである」「文明と戦争とは両立し得ない。文明が戦争を駆逐しなければ、戦争によって文明が駆逐されしまうだろう」と述べています。

ところが、これが冷戦の中で、変化してきます。厳密な自衛のための武力行使や戦争は憲法が禁じているところではない、とする説明が出てきたのです。これが集団的自衛権行使は認められないとした上で、個別的自衛権なら認められるという理屈です。専守防衛に徹する限りにおいて自衛隊は合憲なのだというのです。

この考え方で60年が過ぎました。ところが、安倍政権は昨年これをも覆して、集団的自衛権行使容認の閣議決定をしてしまいました。これは恐るべき事態。憲法の条文を変えないで、解釈を変えることで憲法の根幹を骨抜きにしてしまおうというのです。

もっとも、閣議決定だけでは自衛隊をうごかすことができません。今年の国会では、安倍内閣は、集団的自衛権を現実に行使できるようにするためのたくさんの法律案を提案し、その多くが対決法案となることでしょう。

戦争を始めるためには、それだけでは足りません。教育とマスコミの掌握は不可欠なものです。煽られた戦争の相手国の一人ひとりと仲良くしていたのでは戦争はできません。我が日本民族が優れて他は劣っているとし、近隣諸国への排外主義を煽るには、教育とメデイアの役割が欠かせないのです。

そのような目で安倍内閣を見直すと、憲法改正、集団的自衛権行使容認、特定秘密保護法の制定、村山談話や河野談話の見直し、武器輸出三原則の撤廃、侵略戦争の否定、靖国神社参拝、教育再生、NHKのお友だち人事、国家安全保障会議の設置、、日米ガイドライン改訂…等々の動きは、明らかに70年前の敗戦時に日本の国民が共通の認識としたところとは大きくへだったものになってきています。

そのほか、安倍政権がやろうとしていることは、原発再稼働であり、原発輸出であり、派遣労働を恒久化する労働法制の大改悪であり、福祉の切り捨てであり、大企業減税と庶民大増税ではありませんか。そして、このような状況で民族差別を公然と口にするヘイトスピーチデモが横行しています。従軍慰安婦報道に比較的熱心だった朝日新聞に対する嵐の如きバッシングが行われています。

庶民の生活にとっても、民主主義の良識に照らしても良いことは何にもなく、危険な事態が進行しています。このようなことを見せつけられた近隣諸国の人々は、日本は本当に先の戦争の反省をしているのだろうか。平和を大切にしようとする意思があるのだろうか。そう疑念を持たざるを得ないのではないでしょうか。安倍政権は、緊張関係を煽っているのではないでしょうか。

皆さん、戦後70年の平和をこれからも続けようではありませんか。安倍政権による危うい政治を正して、戦争ではなく平和をと声を上げていこうではありませんか。
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寒さの中で、声を枯らしたが、「くどい」「長すぎる」「工夫が足りない」「もっと短いフレーズで」と悪評サクサクだった。が、めげてはならない。がんぱらなくちゃ。
(2015年1月13日)

「憲法9条は現実主義」ー伊東光晴が語る安倍右翼政権批判

日曜(10月9日)の赤旗一面「2014 黙ってはいられない」に、伊藤光晴が登場。よくぞ赤旗に、である。いまや、この人こそ日本の知性。日本の良心。

私は、1962年4月に東京外国語大学に入学している。一年間だけの在籍だったが、そこで新進気鋭の伊藤光晴助教授の流麗な講義を聴いている。もっとも、当時の若者の気風は、「社会を根底から変える思想を持たない経済学は真剣に学ぶに値しない」などというもの。私もそんなポーズを装ってはいたが、本当のところ、社会科学の素養に欠けて、十分な理解ができなかった。今にして、何ともったいないことと残念に思う。もっと真剣に学んでおくべきだった。

いまや経済学の泰斗となった伊東光晴翁からの赤旗記者の聞き書きは、実に分かり易い内容。タイトルは、「いま政権を批判するわけ」。安倍政権に対する仮借ない批判として3点が語られている。まずは憲法、そして経済と雇用についてである。

彼の安倍内閣批判は鋭い。政治について発言しないとする主義を撤回して、都留重人さんなきあと「同じ立場で発言する人がいないから、政治的発言をする」と宣言してのこと。87歳の迫力である。

「特にいま批判しなければならないのが、アペノミクスに隠された『四本目の矢』、安倍晋三首相の『政治変革』です。安倍政権は保守政権ではありません。右翼政権です」と、まず自らの立場を鮮明にする。

その上で、憲法9条の解釈問題に言及する。
「集団的自衛権を認めることは憲法9条に完全に違反します。集団的自衛権は国家間の紛争を武力で解決できるという考えの上に立っています。憲法9条は理想主義ではなく、現実主義だと思います。国家間の紛争は武力以外で解決するしかないというのが2度の世界大戦の教訓です。戦後アメリカが中東その他に何度も武力介入しましたが、国際紛争は一度も解決されませんでした。武力以外で解決するのが現実主義なのです」
そのとおりだ。心してこの言に耳を傾けねばならない。

次いで、専門の経済分野においてではアベノミクスを「経済効果なし」と徹底批判である。
「安倍首相は株価の上昇を得意がっていますが、株価が上がったのは『外国人買い』のためです。欧米市場で株価がリーマン・ショック前を回復し、投資先を探していた外国人投資家が、安倍政権誕生前に日本市場に入ってきて株を買ったのです。政権交代を期待して日本の投資家が買ったのではありません。日銀は年間50兆円もの国債を買い入れてきました。しかし、各銀行は融資先がないので、資金は銀行が日銀に持っている当座預金勘定に積み上がっています。経済的効果を及ぼすはずがありません」「財政では税収がぐんと落ち、支出が増えました。アメリカのような『フラットな税』にすると言って所得税や法人税を減税したからです。税収減と支出の増加を折れ線グラフにすると「ワニの口」のような形です。安倍政権はこの状態で法人税を減税するというから、まさに開いた口がふさがりません」
第一人者の経済政策批判は、心強いことこのうえない。

最後に、雇用政策についての「労働憲法崩す」との批判。  
「そして小泉政権以来の労働市場改革です。戦前、中間搾取を許した教訓から、戦後、営利をもった職業あっせんを禁止しました。これを労働憲法と呼びました。それを崩して派遣労働を認めてしまった。とんでもないことです。有能な女性が正社員になれず、派遣社員をしている。そんな状況をつくりながら安倍首相は『女性が活躍する社会』などとよくも言えたものです」

赤旗記事の中では、この3点だけに絞っての批判。しかし、安倍右翼政権の罪は深い。批判すべき点は数え切れないほど。

特定秘密保護法、河野談話批判、朝日バッシング加担、靖国参拝、近隣外交失敗、日米ガイドライン、辺野古新基地建設、オスプレイ配備、原発再稼働、原発輸出、TPP、消費再増税、カジノ解禁、NHKお友だち人事、国営放送化、教育「再生」、右派閣僚人事、格差拡大、弱者切り捨て、地方無視、そして小選挙区に固執しての憲法改正への執念‥‥。

早期に退陣していただかねばならない。平和と民主主義のためにも、庶民の暮らしのためにも。(2014年11月11日)

「本郷・湯島九条の会」の街宣活動

本郷三丁目交差点をご通行中の皆様。素晴らしい秋晴れの昼休みのひとときに、やや不粋な街頭宣伝ですが、少しだけ耳をお貸しください。

私たちは、「本郷・湯島九条の会」の者です。この近所に住んでいる者が、憲法九条を大切にしよう、憲法九条に盛り込まれている平和の理念を守り抜こうと寄り集まって作っている小さな会です。

ご存じのとおり、「九条の会」は全国組織です。ちょうど10年前2004年の7月に、大江健三郎さんや井上ひさしさんなど九人によって結成されました。「九条の会」は、全国の地域、職場、学園、あらゆる場に無数の「九条の会」の結成を呼び掛けました。私たちの会もこれに呼応して、作られた全国7500もの「九条の会」のひとつです。「本郷・湯島九条の会」は、「ご近所九条の会」です。会長は、私が住んでいる町の町会長さんが務めています。

「九条の会」はこの10月を行動月間とすることを申し合わせました。「集団的自衛権行使容認の閣議決定に抗議し、いまこそ主権者の声を全国の草の根から」というスローガンで、10月を集団的自衛権行使容認に反対する行動をおこす「月間」としたのです。

「本郷湯島九条の会」はこの申し合わせに応じて、10月は毎週の火曜日に街頭宣伝活動を重ねてまいりました。今日は、その最後の日となります。来月からは、毎月第2火曜日だけの街宣活動を予定しています。

10月を行動月間と申し合わせたのは、7月1日に「集団的自衛権行使容認の閣議決定」があり、秋の臨時国会において閣議決定に基づく多くの諸法案が提案される危険を考えてのことです。いまのところ、日本を海外で戦争のできる国にするための具体的な法案の提出は行われていません。しかし、事態が好転したわけではありません。安倍政権は、世論の動向を見ながら法案提出を先送りしているだけのことです。来年の通常国会が本格的な決戦の場となるものと考えられます。

戦後69年。私たちは戦争のない世の中を当たり前のものと考えて過ごしてきました。しかし、安倍政権成立以来事態は大きく動いています。安倍政権ができてからろくなことはありません。武器輸出3原則の撤廃、河野談話見直しの動き、特定秘密保護法、靖国参拝、NHK人事、国家安全保障会議の設置、そして集団的自衛権行使容認の閣議決定です。さらに日米ガイドラインを改訂し、道徳教育にまで手を付けようとしています。危なっかしいことこのうえないといわねばなりません。

そのほか、安倍政権がやろうとしていることは、原発再稼働であり、原発輸出であり、派遣労働を恒久化する労働法制の大改悪であり、福祉の切り捨てであり、大企業減税と庶民大増税ではありませんか。庶民にとって良いことは何にもない。これまでは、「アベノミクスの効果は、今のところは大企業と株屋だけに利益をもたらしていますが、いずれ地方にも家計にもおこぼれがまわってきます。それまで我慢してくだい」と言われてきました。それが嘘だということにようやくみんなが気付き始めました。「放射能は完全にブロックされています」という嘘と同様に、この男は自信ありげに嘘を言うのです。最近の世論調査では、軒並み安倍内閣の支持率の低下が報道されています。とりわけ、経済政策の破綻が世論調査に表れています。

憲法九条は、武力による平和を否定する思想に基づくものです。右手に銃を構えながら、左手で握手をしようということではないのです。平和は、何よりも近隣諸国との信頼関係の醸成によって打ち立てられ維持されるべきものです。双方お互いに信頼関係を形成する努力を求められているのですが、私たちは、まずは自分たちの国から、平和のサインを発信すべきものと考えます。

鎌倉時代の元寇を最後に、日本が近隣諸国から侵略される危機を感じた経験は絶えてありません。この500年間の近隣諸国との戦争は、2度にわたる朝鮮侵略、明治維新後の台湾出兵、朝鮮や満蒙を支配するための日清・日露戦争、第一次大戦における山東出兵、シベリア出兵、そして、朝鮮の植民地化、日中15年戦争、そして太平洋戦争‥。私たちの国が、近隣諸国の民衆の足を踏み続けてきたことは覆い隠すことのできない歴史の真実ではありませんか。

近隣諸国との平和のためには、私たちこそが、侵略戦争や植民地支配を真摯に反省していることを近隣諸国の民衆によく分かってもらう努力が必要なのだと思います。まず、足を踏んだ側が、平和・友好の態度を示さねばならないことは当然のことです。

にもかかわらず、日本国内では、民族差別を公然と口にするヘイトスピーチデモが横行し、河野談話見直しの尖兵だった危険な政治家が首相になって靖国神社参拝まで強行し、さらには従軍慰安婦報道に熱心だった朝日新聞に対する嵐の如きバッシングが行われています。このようなことを見せつけられた近隣諸国の民衆は、日本は本当に先の戦争の反省をしているのだろうか。戦争を繰り返さず、平和を大切にしようとする意思があるのだろうか。そう疑念を持たざるを得ないのではないでしょうか。

一点の疑念が、疑念拡大の悪循環の出発点となり得ます。相互の不信の交換は、不信を増幅させ不信に基づく武力拡大のエスカレートを呼ぶことになりかねません。そのような緊張関係が、偶発的に戦争の勃発につながることを危惧せざるを得ません。

安倍政権の動向は、近隣諸国をいたずらに刺激し重大な事態にいたる危うさに満ちていると言わざるを得ません。この暴走内閣を辞めさせ、もう少しマシな、戦争への危険を感じさせないまっとうな政権に取って替わらせるよう、力を合わせようではありませんか。取り返しのつかなくなる前に。
(2014年10月28日)

「憲法は閣議ひとつで変えられる だから7月1日は壊憲記念日」

本日は、日弁連主催の「閣議決定撤回!憲法違反の集団的自衛権行使に反対する10・8日比谷野音大集会&パレード」。日比谷野音が人で埋まった盛況に見えたが、「参加者は3000人を超えた」という発表だった。

民主・共産・社民・生活の各党から合計16名の国会議員の参加を得て、午後6時に開会。村越進日弁連会長の開会挨拶は、なかなか聞かせる内容だった。その要旨は以下のとおり。

「日弁連は、政治団体でも社会運動団体でもありません。当然のこととして、会員の思想信条はまちまちであり、立場の違いもあります。強制加入団体である日弁連が、集団的自衛権行使容認反対の運動をすべきではないと批判の声もあります。

しかし、私たちの使命は人権の擁護にあります。人権の擁護に徹するとすれば、憲法を擁護し、憲法が定める平和主義を擁護する立場に立たざるを得ません。戦争こそが最大の人権侵害であり、人権は平和の中でしか花開くことができないからです。従って、憲法の前文と9条に描かれた恒久平和主義を擁護することは弁護士会の責務であります。

また、集団的自衛権行使を容認した7月1日閣議決定が、立憲主義に反することは明らかで、日弁連はこの点からも、閣議決定の撤回を求めています。

今こそ、多くの人々が人権と平和と民主々義のために力を合わせるべきときです。閣議決定の撤回を求めるとともに、関連諸法の成立を許さぬよう、ご一緒にがんばりましょう」

また、山岸良太・憲法問題対策本部長代行から、日弁連だけでなく全国の52単位会の全部が集団的自衛権行使容認に反対する声明や意見を出していると報告された。また、7月1日閣議決定は、憲法の平和主義に反し立憲主義に反し、ひいては国民主権に反すると説明された。

次いで、6名の発言者によるリレートークが本日のメイン。
出色だったのは、やはり上野千鶴子さん。正確には再現できないが、大意は以下のとおり。
「集団的自衛権を行使する、とは日本がアメリカの戦争の共犯者となること。そのようなことを憲法は許していないはず。にもかかわらず、閣議決定は時の政府の一存でその容認に踏み切った。
   憲法は閣議ひとつで変えられる だから7月1日は壊憲記念日
本来、法は時々の政治の要求で踏みにじられてはならない。今、法律家には、失われた法に対する信頼を取り戻すべき責任がある。

若い頃大人に対して『こんな世の中に誰がした』と詰め寄った憶えがある。私たちは、今の若者から同じように詰め寄られてなんと返答できるだろうか。戦後のはずの今を、戦前にしてはならない」

青井未帆学習院大学教授の発言も危機感にあふれたものだった。
「2014年は、あとから振り返って、戦後平和主義の転換点とされる年になるかも知れない。過去に目を閉ざしてはならない。戦争体験を学び次代に伝え、平和の尊さを伝える努力をしていかねばならない。
政治は憲法に従わなくてはならず、超えてはならない矩がある。明治憲法は、権力の統制に失敗したが、日本国憲法はこれまではそれなりに真摯に取り扱われてきた。ところが今、憲法はなきに等しくなってはいまいか、あるいはきわめて軽んじられてしまってはいないか。憲法の最高法規制を見失えば、特定秘密保護法・日本版NSC設置法・集団的自衛権行使容認などの深刻な事態となる」

宮?礼壹・元内閣法制局長官も、中野晃一上智大学教授の発言も、耳を傾けるに値する内容だった。

閉会の挨拶で、?中正彦東京弁護士会会長が、「法律家の常識として、どのように考えても集団的自衛権を容認する憲法解釈は出てくる余地はない」と締めくくった。

会場に各単位会の旗が林立した。自由法曹団や日民協の旗も建てられた。弁護士会はなかなかに立派なものだ。いや、日弁連は現行憲法の理念に忠実という意味において、きわめて保守的な姿勢を貫いているに過ぎない。法律家の宿命というべきであろう。この保守的姿勢が、いま、右翼政権からは邪魔なリベラル派に映るというだけのことなのだろうと思う。
(2014年10月8日)

世界中わが憲法と同じなら

毎日新聞「万能川柳」の先月(7月)の投句は、葉書の数で1万2000通を超えているという。葉書1枚に5句の投句が可能だから、句数を計算すれば4?5万になるのだろう。その中で、たった一句の月間大賞受賞作が本日の朝刊に発表されている。それが、17日に秀逸句として掲載された次の句。

   世界中わが憲法と同じなら(水戸拷問)

「短詩故の豊かな余韻が味わいふかい」と言われてしまえば反論のしようもないが、この曖昧な5・7・5のあと、どう続くのか気になってしかたがない。作者に聞いてみたいところ。

A「世界中の国の憲法がわが日本国憲法と同じなら、どこの国の軍隊もなくなる。世界に軍隊がなくなればどこにも戦争は起こらない。平和な世界が実現する」
おそらく作者はそう言いたいにちがいない。そのような立ち場から、「世界に憲法9条を」「憲法9条を輸出しよう」「世界遺産として9条を登録しよう」などというという運動が広まりつつある。

しかし、句の読み方が一つだけとは限らない。安倍首相なら、こう解釈するだろう。

B「世界中の国の憲法がわが日本国憲法と同じなら平和な世界が実現するでしょう。でも現実にはちがうのだからしょうがない。どこの国にも軍隊はある。だから日本だけが軍隊をもたないわけにはいかない」と。

「右翼の軍国主義者」も、「戦争が好き」「平和は嫌い」とは言わない。「平和を守るために敵に備えよ」「平和が大切だから戦争の準備を怠るな」「より望ましい平和のための戦争を恐れるな」というのだ。国境を接する両国がこのような姿勢でいる限り、お互いを刺激し合い、戦争の危険を増大し合うことになる。そして、ある日危険水域を越えて戦争が始まるのだ。

Aは、世界を説得しても軍隊をなくして平和を築こうとする立ち場。
Bは、世界を説得するなど夢物語。軍事力をもたねば不安とする立ち場。

最近、7月1日以後は、もっと別の読み方もできよう。
C「世界中の国の憲法がわが日本国憲法と同じであろうとなかろうと、どこの国の軍隊もなくならない。もちろん戦争もなくならない。だって、憲法に指一本触れずに政府が解釈を変えてしまえば、どんな軍隊も持てるし、世界中どんなところでも戦争ができるのだから」

7月1日閣議決定を受けて7月17日に、選者がこの句をその日の秀逸句とし、さらに月間大賞を与えたとしたら、辛口にCのような解釈をとっているのかも知れない。これはブラックユーモアの世界。

集団的自衛権行使容認の閣議決定は、憲法の存在感を著しく稀薄化した。憲法になんと書いてあろうとも、「最高責任者である私の解釈次第でどうにでもなる」と言われたのだ。「9条にどう書かれていようとも、日本は自衛を超えて戦争ができるようになりました」ということなのだ。

立憲主義を貫徹し平和主義を確立してはじめて、「世界中わが憲法と同じなら」は平和を希求する句(Aの読み方)となる。古典的安倍流(B)でも、ニューバージョン安倍流(C)でも、平和の句とは無縁なのだ。
(2014年8月12日)

集団的自衛権行使容認閣議撤回を求める弁護士会の街宣活動で

広島に原爆が投下された8月6日の夕刻。有楽町駅前で関弁連(関東弁士会連合会)の街頭宣伝活動に参加した。連合会の会長や単位会の会長・役員ら多数が、交代でマイクで語り続けた。暑さの中、1時間のチラシ撒きに汗をかいた。

多くの演説者が、広島の原爆のこの上ない悲惨さや非人道性から話を始め、太平洋戦争の国内外の被害と愚かさを語り、その戦争の惨禍を繰り返すことがないよう決意して日本国憲法が制定されたことが語られた。日本国憲法の平和主義堅持の歴史的意味や、現在なお戦争の絶えない世界における9条の精神の重要性も語られた。

また、法律家として「立憲主義をないがしろにしてはならない」ことが強調され、安倍政権の「集団的自衛権行使を容認する7月1日閣議決定」が立憲主義に反して許されるざるものして、その撤回を求める声が各弁護士会の総意であることがくり返し力説された。

そして、いま安倍政権によって憲法9条がないがしろにされ、集団的自衛権行使容認というかたちで、平和が壊されようとしていることに警告がなされ、その自覚のもと平和を守るために力を合わせようと呼び掛けられた。

そう、今、時代のキーワードは「集団的自衛権行使容認」である。「集団的自衛権行使容認派」との熾烈な切り結びこそが最も重要な争点なのだ。

その点、8月6日の広島市主催の平和式典での市長の平和宣言は、ややものたらなかった。「集団的自衛権行使容認派」の首魁である安倍晋三を前に、平和勢力を代表して「集団的自衛権行使容認」の危険を述べる絶好の機会であったのに、その機をとらえようとしなかったのだから。

「怒りの広島」「祈りの長崎」と言い古されてきた。しかし、今年は様相を異にしているようだ。広島では語られなかった「集団的自衛権行使容認」の危険について、長崎市長の宣言では盛り込まれる予定と伝えられている。

そんなことを考えてビラを配っていたら、壮年の男性に声をかけられた。
「誰がどう考えても、7月1日の閣議決定は憲法違反ですよね。憲法をどう読もうとも集団的自衛権を行使して戦争ができるとする解釈が成り立つはずがない。どうすれば、こんな明白な憲法違反をきちんと是正できるのでしょうか。そもそも憲法は、こんな場合に憲法違反を是正する方法を整備していないのでしょうか」

騒音の中で、しばらく話しが続いた。
「違憲の閣議決定を覆すことは、実はなかなか簡単なことではありません」「憲法は81条で違憲審査権を裁判所に与えていますが、その裁判所は憲法裁判所ではなく司法裁判所とされています。具体的な事件を離れて抽象的に閣議決定の違憲性を争うことは許されないのが原則です」「それでも何とか提訴をということなら、『閣議決定によって自分の具体的な権利が侵害された』という構成を考えなければなりません。平和的生存権の侵害はその場合の有力なキーワードになります」

「どうして難しいのでしょうか。憲法とは権力者を縛るものなんでしょう。安倍政権がやっていることはまったくあべこべじゃないですか。憲法には公務員の憲法遵守義務も書いてある。違憲は明らかじゃないですか。それでも難しいというのでは、憲法は無力ではありませんか」
「おっしゃるとおり、無力といえば無力かも知れません。権力に違憲行為があれば、裁判で是正することにはなっていますが、その裁判の提起自体が容易ではない。また、たとえ訴訟の土俵にはうまく乗ったとしても、有名な砂川事件大法廷判決のように、『国民の運命を左右するような重大な問題を判断することは、われわれ裁判官には荷が重すぎます』と、任務放棄する可能性が高いと言わねばなりません」

「じゃあ、結局選挙で自民党を落とすしかないということでしょうか」
「それが王道ですね。閣議決定に基づいて集団的自衛権行使を具体化する多くの立法がなされ、それによって戦時態勢となり、人権侵害が生じる。そのとき裁判はできるでしょうが、迂遠な話し。最終的には国民自身が憲法の在り方も決めることになるのですから、まずは選挙で勝たなければならないと思います。そのために必死の努力をするしかない」

「なんとなく心細いですね」
「どうでしょうか。世論調査では、安倍内閣が集団的自衛権行使容認に踏み切って以来、国民世論が大きく変わっているではありませんか。滋賀の知事選も自民党にはショックな結果でした。今度は福島と沖縄の知事選ですし、来年の統一地方選挙もあります。多くの人への訴えが、少しずつ実を結んでいるように思いますが」

「そうだと良いですけどね。いずれにしても、身近な人を説得する努力を重ねるしかないのでしょうかね」
「このパンフレット、なかなか良くできていますよ。よくお読み下さい。周りの方にも少し配ってください。よろしくお願いします」
(2014年8月7日)

キーワードは平和的生存権?松阪市長の「閣議決定違憲確認訴訟」を応援する

集団的自衛権の行使を容認した7月1日閣議決定への批判の嵐は収まりそうにない。
「政府が右と言えば左とは言えない」NHKは特殊な例外として、あらゆる方面から、これまでにない規模とかたちの批判が噴出している。なかでも、三重県松坂市の若い市長による閣議決定の無効確認集団提訴運動の呼び掛けはとりわけ異彩を放っている。

7月1日の閣議決定を受けて、松阪市の山中光茂市長は、同月17日には提訴のための市民団体「ピースウイング」を設立し、自らその代表者となった。今後、全国の自治体首長や議員、一般市民に参加を呼び掛け、集団的自衛権をめぐる問題に関する勉強会やシンポジウムを開くなど提訴に向けた準備を進める予定と報じられている。大きな成果を期待したい。

伝えられている記者会見での市長発言が素晴らしい。「愚かな為政者が戦争できる論理を打ち出したことで幸せが壊される。国民全体で幸せを守っていかなければならない」というのだ。素晴らしいとは、安倍首相を「愚かな為政者」と評した点ではない。そんなことは国民誰もが知っている。「国民の幸せを壊されないように守って行かなければならない」と呼び掛けていることが素晴らしいのだ。

言葉を補えば、「集団的自衛権行使容認の閣議決定によって、このままでは国民の幸せが壊されることになりかねない。そうさせないように、国民全体で国民一人一人の幸せを守っていかなければならない。そのために提訴をしよう」という認識が語られ、具体的な行動提起がなされている。

おっしゃるとおりなのだ。国民は幸せに暮らす憲法上の権利を有している。とりわけ戦争のない平和のうちに生きる権利を持っている。

このことを憲法前文は、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と宣言している。しかも、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…この憲法を確定する」とも言っている。この2文をつなげて理解すれば、「為政者によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意してこの憲法はできている。だから、安倍のごとき愚かな為政者が憲法をないがしろにしようとするときは、一人一人の国民が平和のうちに生存する権利を行使することができる」ことになる。これが、平和的生存権という思想である。

憲法は、人権を中心に組み立てられている。憲法上の制度は、人権を擁護するためのツールと言ってよい。信仰の自由という人権を擁護するために政教分離という制度がある。学問・教育の自由という人権を擁護するために大学の自治という制度がある。言論の自由に奉仕する制度として検閲の禁止が定められている。

これと軌を一にして、平和的生存権を全うするために憲法9条がある。戦争を放棄し戦力を保持しないことで国民一人一人の平和に生きる権利を保障しているのだ。憲法9条の存在が平和的生存権を導いたのではなく、平和的生存権まずありきで、平和的生存権を全うするための憲法9条と考えるべきなのである。

平和的生存権を単なる学問上の概念に留めおいてはならない。これを、一人前の訴訟上の具体的な権利として育てて行かなくてはならない。その権利の主体(国民個人)、客体(国)、内実(具体的権利内容)を、度重ねての提訴によって、少しずつ堅固なものとしていかなければならない。

私は、平和的生存権の効果として、具体的な予防・差止請求、侵害排除請求、被害回復請求をなしうるものと考えている。そして、そのことは裁判所の実効力ある判決を求めうる権利でなくてはならない。

この平和的生存権は、松坂市長が提唱する閣議決定違憲確認訴訟(いわば「9条裁判」)成立の鍵である。これなくして、抽象的に「閣議決定の違憲確認請求訴訟」は成立し得ない。

最も古い前例を思い起こそう。1950年警察予備隊ができたときのこと、多くの人がこの違憲の「戦力」を司法に訴えて断罪することを考えた。この人たちを代表するかたちで、当時の社会党党首であった鈴木茂三郎が原告になって、最高裁に直接違憲判断を求めた。有名な、警察予備隊違憲訴訟である。

その請求の趣旨は、「昭和26(1951)年4月1日以降被告がなした警察予備隊の設置並びに維持に関する一切の行為の無効であることを確認する」というもの。これが、違憲確認訴訟の元祖である。

最高裁は前例のないこの訴訟を大法廷で審理して、全員一致で訴えを不適法と判断して却下した。ここで確立した考え方は、次のようなもの。「日本の司法権の構造は、具体的な権利侵害をはなれて抽象的に法令の違憲性を求めることはできない。具体的な権利侵害があったときに、権利侵害を受けた者だけが、権利侵害の回復に必要な限りで裁判を申し立てる権利がある」ということ。

この確定した判例の立ち場からは、「7月1日閣議決定が憲法9条に違反する内容をもつ」と言うだけでは違憲確認の判決を求める訴訟は適法になしえない。誰が裁判を起こしても、「不適法・却下」となる。

そこで、平和的生存権の出番となる。国民一人一人が平和的生存権を持っている。誰もが、愚かな政府の戦争政策を拒絶して、平和のうちに生きる権利を持っている。この権利あればこそ、人を殺すことを強制されることもなければ、殺される恐怖を味わうこともないのだ。

父と母とは、わが子を徴兵させない権利を持っている。教育者は、再び生徒を戦場に送らせない権利を持つ。宗教者は、一切の戦争加担行為を忌避する権利を持つ。医師は、平和のうちに患者を治療する権利を持つ。農漁民も労働者も、平和のうちに働く権利を持ち、戦争のために働くことを拒否する権利を持つ。自衛隊員だって、戦争で人を殺し、あるいは殺されることの強制から免れる権利を持っているのだ。

その権利が侵害されれば、その侵害された権利回復のための裁判が可能となる。侵害の態様に応じて、請求の内容もバリエーションを持つ。戦争を招くような国の一切の行為を予防し、国の戦争政策を差し止め、戦争推進政策として実施された施策を原状に復する。つまりは、国に対して具体的な作為不作為を求める訴訟上の権利となる。その侵害に、精神的慰謝料も請求できることになる。これあればこその違憲確認請求訴訟であり国家賠償請求訴訟なのだ。

もとより、裁判所のハードルが高いことは覚悟の上、それでもチャレンジすることに大きな意味がある。訴訟に多くの原告の参加を得ること、とりわけ首長や議員や保守系良識派の人々を結集することの運動上のメリットは極めて大きい。そうなれば、裁判所での論戦において、裁判所は真剣に耳を傾けてくれるだろう。平和的生存権の訴訟上の権利としての確立に、一歩、あるいは半歩の前進がなかろうはずはない。

困難な訴訟だと訳け知り顔に批判するだけでは何も生まれない。若い市長の挑戦に拍手を送って暖かく見守りたい。
(2014年8月5日)

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