集団的自衛権行使容認閣議撤回を求める弁護士会の街宣活動で
広島に原爆が投下された8月6日の夕刻。有楽町駅前で関弁連(関東弁士会連合会)の街頭宣伝活動に参加した。連合会の会長や単位会の会長・役員ら多数が、交代でマイクで語り続けた。暑さの中、1時間のチラシ撒きに汗をかいた。
多くの演説者が、広島の原爆のこの上ない悲惨さや非人道性から話を始め、太平洋戦争の国内外の被害と愚かさを語り、その戦争の惨禍を繰り返すことがないよう決意して日本国憲法が制定されたことが語られた。日本国憲法の平和主義堅持の歴史的意味や、現在なお戦争の絶えない世界における9条の精神の重要性も語られた。
また、法律家として「立憲主義をないがしろにしてはならない」ことが強調され、安倍政権の「集団的自衛権行使を容認する7月1日閣議決定」が立憲主義に反して許されるざるものして、その撤回を求める声が各弁護士会の総意であることがくり返し力説された。
そして、いま安倍政権によって憲法9条がないがしろにされ、集団的自衛権行使容認というかたちで、平和が壊されようとしていることに警告がなされ、その自覚のもと平和を守るために力を合わせようと呼び掛けられた。
そう、今、時代のキーワードは「集団的自衛権行使容認」である。「集団的自衛権行使容認派」との熾烈な切り結びこそが最も重要な争点なのだ。
その点、8月6日の広島市主催の平和式典での市長の平和宣言は、ややものたらなかった。「集団的自衛権行使容認派」の首魁である安倍晋三を前に、平和勢力を代表して「集団的自衛権行使容認」の危険を述べる絶好の機会であったのに、その機をとらえようとしなかったのだから。
「怒りの広島」「祈りの長崎」と言い古されてきた。しかし、今年は様相を異にしているようだ。広島では語られなかった「集団的自衛権行使容認」の危険について、長崎市長の宣言では盛り込まれる予定と伝えられている。
そんなことを考えてビラを配っていたら、壮年の男性に声をかけられた。
「誰がどう考えても、7月1日の閣議決定は憲法違反ですよね。憲法をどう読もうとも集団的自衛権を行使して戦争ができるとする解釈が成り立つはずがない。どうすれば、こんな明白な憲法違反をきちんと是正できるのでしょうか。そもそも憲法は、こんな場合に憲法違反を是正する方法を整備していないのでしょうか」
騒音の中で、しばらく話しが続いた。
「違憲の閣議決定を覆すことは、実はなかなか簡単なことではありません」「憲法は81条で違憲審査権を裁判所に与えていますが、その裁判所は憲法裁判所ではなく司法裁判所とされています。具体的な事件を離れて抽象的に閣議決定の違憲性を争うことは許されないのが原則です」「それでも何とか提訴をということなら、『閣議決定によって自分の具体的な権利が侵害された』という構成を考えなければなりません。平和的生存権の侵害はその場合の有力なキーワードになります」
「どうして難しいのでしょうか。憲法とは権力者を縛るものなんでしょう。安倍政権がやっていることはまったくあべこべじゃないですか。憲法には公務員の憲法遵守義務も書いてある。違憲は明らかじゃないですか。それでも難しいというのでは、憲法は無力ではありませんか」
「おっしゃるとおり、無力といえば無力かも知れません。権力に違憲行為があれば、裁判で是正することにはなっていますが、その裁判の提起自体が容易ではない。また、たとえ訴訟の土俵にはうまく乗ったとしても、有名な砂川事件大法廷判決のように、『国民の運命を左右するような重大な問題を判断することは、われわれ裁判官には荷が重すぎます』と、任務放棄する可能性が高いと言わねばなりません」
「じゃあ、結局選挙で自民党を落とすしかないということでしょうか」
「それが王道ですね。閣議決定に基づいて集団的自衛権行使を具体化する多くの立法がなされ、それによって戦時態勢となり、人権侵害が生じる。そのとき裁判はできるでしょうが、迂遠な話し。最終的には国民自身が憲法の在り方も決めることになるのですから、まずは選挙で勝たなければならないと思います。そのために必死の努力をするしかない」
「なんとなく心細いですね」
「どうでしょうか。世論調査では、安倍内閣が集団的自衛権行使容認に踏み切って以来、国民世論が大きく変わっているではありませんか。滋賀の知事選も自民党にはショックな結果でした。今度は福島と沖縄の知事選ですし、来年の統一地方選挙もあります。多くの人への訴えが、少しずつ実を結んでいるように思いますが」
「そうだと良いですけどね。いずれにしても、身近な人を説得する努力を重ねるしかないのでしょうかね」
「このパンフレット、なかなか良くできていますよ。よくお読み下さい。周りの方にも少し配ってください。よろしくお願いします」
(2014年8月7日)