澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「新3要件」は、全ての人権を否定する論理となる

有楽町をご通行中の皆様、本日は日弁連の弁護士が、安倍内閣の集団的自衛権行使容認の閣議決定に抗議して銀座パレードを行います。それに先立っての街頭宣伝活動です。ぜひ、すこし足を止めて耳をお貸しください。

7月1日の閣議決定は、大きな問題を抱えるものとなっています。もしかしたら、あの日が新しい戦前の始まりだったかという、ターニングポイントとして歴史に刻まれる日になりかねません。安倍内閣の暴走に歯止めをかけなければ、本当にそうなってしまいます。大きな抗議の輪をつくらなければなりません。

この閣議決定の問題点はいくつも指摘されています。私は、解釈壊憲という手法による憲法の破壊について、固い言葉でいえば安倍政権の「立憲主義の否定」の恐ろしさについて焦点をあてて訴えます。

本来、公権力とは主権者国民からの委託によって形成されたもの。国民がその便宜のためにこしらえたものです。その委託された権限の範囲や内容、あるいは委託の手続を明確にしたものが憲法です。当然のこととして憲法は、権力を預かる者に対する憲法遵守義務を定めています。つまり、権力の行使を担当する者は、国民が制定した憲法を守らなければならないのです。

内閣総理大臣こそが憲法を守らねばならない立ち場の筆頭にあります。憲法が禁止していることをやってはいけない。これが憲法を制定する趣旨であり、立憲主義の「キホンのキ」にほかなりません。

ところが、安倍晋三という人物は、自分の考えと違う憲法には従えないというのです。憲法に命令される立ち場にある者が、憲法は気に食わないから、邪魔だから、変えてしまおうと言いだしたのです。

彼は、「戦後レジームからの脱却」を叫び、「日本を取り戻す」と言っています。恐るべきスローガンではないでしょうか。「戦後レジーム」とは日本国憲法に基づく、平和・民主主義・人権を基本とした政治体制のこと。その日本国憲法から脱却して、「日本国憲法のなかった時代の日本」を取りもどそうというのです。

もちろん、憲法は不磨の大典などではありません。慎重な手続で、国民が自身の手によって改正することは可能です。しかし、彼には国民を説得して憲法改正を実現する自信がない。しかし、憲法を変えたい。

そこで、編み出された手法が解釈改憲です。憲法の条文には一字一句手を付けないで、解釈を変えてしまうことで、事実上憲法改正を実現しようというのです。

憲法9条2項には、「陸海空軍その他の権力はこれを保持しない」と書いてある。では、自衛隊は憲法違反の存在ではないのか。これを歴代の自民党政権は、「憲法は自衛力までを否定していないはず」「自衛隊は専守防衛に徹する自衛組織として、絶対に海外で戦争はしないのだから『戦力』ではない」と言ってきました。だから、専守防衛に徹している限りにおいて、自衛隊の違憲性はギリギリのところで、セーフだと言うわけです。

今回、「集団的自衛権を行使して、海外で戦争することも自衛権の範囲」「だから決して違憲ではない」と言い出して、与党の限りで合意し、閣議決定に踏み切りました。こんなアクロバットな解釈を許していたのでは憲法は死んでしまいます。

私が、恐ろしいと思うのは、いわゆる「新3要件」冒頭の一文です。
「我が国の存立が脅かされ」とあります。「国家の存立が危うくなる」、これがキーワードです。国家の存立が危うくなれば、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があることになると読めます。そのような場合には、「他に適当な手段」がなければ、自国が攻撃されていなくても、海外のどこででも、戦争に参加することができるというのです。

7月1日閣議決定が採用したこんな理屈が通って、解釈改憲が可能というのなら、内閣の限りで憲法の全ての条文を思うように変えてしまうことができます。

たとえば、18条。
「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」「その意に反する苦役に服させられない」とあります。この条文は、徴兵制を禁止したものと理解されています。

しかし、「我が国の存立が脅かされた場合は、別だよ」という声が聞こえます。その場合には、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があるのだから、「これを排除するために他に適当な手段がなければ」、憲法が徴兵を許さないはずはないじゃないか。そうされてしまいます。

たとえば、21条。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」とあります。

しかし、「我が国の存立が脅かされ」る場合には、表現の自由なんて言ってられない。「国民を守るため」なら、検閲だって許される。となってしまうでしょう。

「我が国の存立が脅かされる」は魔法の言葉です。学問の自由も、職業選択の自由も、居住の自由も、信仰の自由も、全て同じように制限されかねません。

かつての大日本帝国憲法には、31条というものがあり、臣民の権利について、「戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」とされていました。つまり、「大日本帝国憲法は曲がりなりにもせよ臣民の権利を認める。しかし、それは平時に限ってのこと。戦時になれば人権などない。国家が万能だよ」と宣言していたのです。

現行憲法は、戦時の例外を認めない徹底した平和・人権・民主主義擁護の憲法であったはずなのです。7月1日閣議決定の論理は、9条と平和の理念を壊すだけのものではなく、旧憲法31条と同様に、人権や民主主義の基礎をも突き崩す危険なものと指摘せざるを得ません。

ぜひとも、7月1日閣議決定撤回の大きな輪に加わっていただくよう訴えます。そして、今後の閣議決定に基づいて具体的に戦争を準備する諸立法に反対する運動にもご参加いただくよう、心から訴えます。
(2014年7月17日)

安倍「壊憲」内閣を打倒するために

昨7月5日に、日本民主法律家協会第53回定時総会が開催された。
同総会で退任の渡辺治理事長と、新たに就任する森英樹新理事長との両「トップオピニオンリーダー」が、並んで憲法情勢に見解を述べた。はからずも、7月1日閣議決定直後のこの時期にである。

渡辺治さんは、短いスピーチで、鮮やかに語った。以下は私が理解した限りでの要約。
「安倍政権は、かつてない全面的な軍事大国化と新自由主義改革の政権として特徴付けられる。まずは、解釈改憲によって海外での武力行使容認に踏み切った。それにとどまらず、明らかに明文改憲までを狙っている。改憲手続き法の整備によって、その舞台は整っている。さらに、政権がやろうとしている、消費増税、TPP、医療・介護の制度改革、労働法制の改変等々は、強い国を作るための強い経済を作ろうとするもの。そして、新自由主義の経済を支える人材の養成にふさわしい教育政策が企図されている。

しかし、安倍政権の強引な手法が、決して思惑のとおりに進行しているわけではない。一強多弱という国会情勢にあっても、大きなスケジュールの遅滞を来しているだけでなく、その内容においても譲歩を余儀なくされている。

その最も大きな要因は、9条の会に典型的に見られるような、従来の護憲派の枠を踏み出た社会的なレベルでの共同行動の進展である。また、特定秘密保護法反対運動のなかで盛り上がった反安倍の声は、広範なジャーナリズムにも、保守の一部にも浸透した。それが、いま、集団的自衛権問題でも声を大きく声を上げ続けている。

今後はこの社会的共同を、政治的な共闘に結集して行動に結実することが課題となる。その萌芽はすでに見え始めている。

その中で弁護士・研究者ら法律家の役割は大きい。どこの地域でも改憲阻止・生活を守る運動を支えている。日民協は他の法律家諸団体ともに、理論面でも実践面でも、全面的な憲法擁護の運動の先頭に立とう」

森英樹さんは、「改憲阻止の国民的共同を求めて」とする理事長就任の記念講演を行った。いつものことながら、聴衆に対するサービス満点。洒脱な語り口ながら、安倍「壊憲」路線に対する批判は容赦ない。その講演の全文は、次号の「法と民主主義」に掲載される。

注目したのは運動論の部分。今、安倍内閣の集団的自衛権行使容認を批判する多様な意見のグループがあるとして、その国民的共同の必要性を説いたところ。以下は、私の理解の限りでの紹介。もっとも、私の紹介では森さんらしさが生きてこないのだが。

森さんは、渡辺治さんの用語を借りたとして「重層的共同」が必要だと表現した。
重層の基底に、?憲法9条の原点である「軍事によらない平和」を主張する立ち場からの批判がある。このグループは、自衛隊の存在自体を違憲とし、日米安保も違憲とする。
別の層として、?自衛隊の存在を合憲とし個別的自衛権としての武力の行使を認め日米安保も容認するが、集団的自衛権行使容認には反対の見地からの批判がある。いわば専守防衛に徹すべしとして、これまでの政府見解を変えてはならないとする立場。
また、?憲法改定の手続を回避した解釈改憲には反対という意見のグループもある。この立場は、仮に集団的自衛権行使容認の改憲手続きが進行した場合、改憲案に賛成なのか反対なのか態度は分からない。
さらに、?今回の閣議決定手続が、拙速に過ぎ、国民的同意を欠如しているなどという批判や反対の意見もある。これも、「丁寧に閣議決定がされた」時は賛成するのか反対なのか分からない。

大切なのは、これらのさまざまな意見のグループ間の自由な意見交換を可能とする「熟議のフォーラム」を作りあげること。それぞれの意見について、十分な相互検証を行うことによって、初めて国民的共同の基盤をつくることができるだろう。そのとき、沖縄の『命どぅ宝』というスローガンを各グループに共通する基底の思想とした国民共同が成り立ちうる。」

なお、フロアーからの発言で、新井章さんが、印象に残る次の趣旨の発言をされた。
「我々は、9条の美しさだけを語って、民意を説得するに足りる平和構築の戦略を語ってこなかったのではないか。今回の、中国や朝鮮・韓国との軋轢を梃子にした安倍内閣のやり口を見ていると、その虚を突かれた感がある」

なるほど、言われてみればそのとおりなのかも知れない。「9条に基づく平和構築の戦略」を、「民意を説得するに足りる」レベルに練りあげることは、容易なことではなかろうと思う。

そのためには、まずは「熟議のフォーラム」で上記各グループの違った立ち場の人々との真摯な意見交換から出発するしかないのだろう。共同・共闘とは難しいものだが、安倍政権を打倒する国民運動の力量はそこからしか生まれてこない。
(2014年7月6日)

200人の「怒りのメッセージ」から

数日前、「『6・1怒りの大集会』プログラム・メッセージ集」と標題した、B4・25ページほどの小冊子の郵送を受けた。

6月1日(日)に、「集団的自衛権行使の合憲化を許すな!」「憲法改悪反対! 安保強化・原発再稼動を許すな!」というメインスローガンの「大集会」に寄せられた200名ほどのメッセージを掲載したもの。主催者のアイデアと手間を惜しまない姿勢に敬意を表したい。

これだけの数の手書きのメッセージが並べばなかなかの壮観。個性にあふれたメッセージから、それぞれの人の熱気が伝わってくる。

多くの著名人の名も連ねられている。
「安倍政権の傍若無人の悪政に対し、腹の底から怒っています。この政権の早期の打倒のために力を合わせましょう」(池内了)
「敗戦の時小学二年生。つくづく戦争はいやだなと思いました。日本の政治は年々と悪くなっていくようです」(石川文洋)
「人生は名詞ではなく動詞であると、誰かが言っています。動きましょう。わたしたちも。」(落合惠子)
「憲法9条があったからこそ日本は六九年間、どこの争いにも捲き込まれず来たのです。だから、守っていかねば時代に申訳ありません」(小山内美江子)
「日本は暴走を繰り返して危ない。市民が結束して食い止めねば取り返しがきかなくなる。」(大田昌秀)
「次に来るもの、それは、徴兵制の復活」(小林亜星)
「武器を持たないのは 勇気があるからだ」(ジェームス三木)
「国民の声を無視し、安倍政権はあらゆる手を使って私たちを戦争の道へ引きずりこもうとしています。このすべてに絶対反対します」(高畑勲)
「まだ戦争やりたいんだって? 戦争を知らない人間は困ったもんだ。もう一度日本が壊滅し、日本列島が住めなくなるのを見たいんならやってみろ」(田中克彦)
「安倍内閣の一連の政策が国民多数の意思に反していることを具体的なかたちで示さなければなりません。6・1大集会の成功を期待します」(西谷敏)
「安倍政権は『特定秘密保護法』『集団的自衛権行使』など平和憲法の実質的な改変を求めています。巧みな手法による改憲に大きな不安を感じ、安倍政権には絶対反対です。」(羽田澄子)
「安倍政権の暴走。なんとかストップさせたい」(堀尾輝久)
「9条を守ることは、人間性を守ることです。安倍さんは、まぎれもなく権力を私物化しています。」(森村誠一)
「あきらめずに、声を出していきます。市民運動がもっと大同団結できますように祈りながら‥」(湯川礼子)

また、読む人の心に染みいるメッセージ、心に突き刺さるメッセージが並んでいる。
「罪のない捕虜でも直ちに殺せと命令されれば、それに従わないと陸軍刑法で死刑になるとという状況に悩まされた軍隊経験をもつものとして、海外での武力行使を認める解釈改憲に絶対反対です」(石田雄)
「本年九〇才になる私は、かつての戦争への道を歩んでいた一〇代後半期と現代の政情とがたいへん似ていることに危機を感じております。あくまで民衆の意識と力でこの動きを阻止しなければと痛感しています」(塩沢美代子)
「特定秘密保護法も原発稼働も強行し、改憲が困難だと閣議決定で『集団的自衛権』を認めるなら、憲法も裁判所も要らない『独裁政権』である。民の声を武器にメディアはなぜ闘わないのか。朝日は『東京』を見習え」(芹沢昇雄)
「憲法第九条は、野蛮の極致たるあの戦争の廃墟から生まれた理性の真珠です。それは人類の国家への分割を否定する未来志向宣言です。絶対守り抜きましょう」(澤田洋)
「忌まわしいあの時代へ戻るのか。若者のスニーカーを、軍靴に履き替えさせるのか。一触即発の火種がここそこでちらちらしている現実に引き摺り込まれ、せっかくの憲法9条を葬るのか。いや、毅然と平和国家の先頭に立とうではないか」(島田文彦)
「日本は戦争ができません。原発の二、三カ所も攻撃されれば瞬時にお手上げ状態になるからだ。安倍首相は危機を事前に回避するという思想がない。ひたすら緊張を高めるしか能がない」(野里征彦)
「中国や北朝鮮が脅威だから集団的自衛権行使が必須だというのが現政権の考えなら、以前に『米英が脅威だから決然と立つ』として太平洋戦争に突入したのが大失敗だったことへの反省がない。今こそ、近代史への配慮による平和指向が必要だ」(日野資純)

気が利いていて耳を傾けさせるもの、寸言にして説得力に富むものも多い。
「主権者は私たち国民です。主権者は戦争しない国を望んでいます。」(平和元)
「権力に戦争という選択肢を与えてはなりません」(河田創)
「政府には「人」が見えていない。傷つき、悩み、苦しむ、一人の「人」が。「人」の集まりが国家であるのに」(小野順子)
「大事なことは、叫び続けることだと思います」(伊藤幹郎)
「原発がりにあ走らせ国壊す
 集団自衛を親分に乞う小判ザメ
 戦争を「平和」と唱え替えるバカ
 武器を売り死の商人に仲間入り」(極楽とんぼ)
「(琉歌)戦世も知らん 人の道知らん 安倍の言説は 和製ヒトラー」(石川元平)
「怒っています。怒りを表に出しアピールしましょう」(宮川泰彦)

最後にこの人も。
「集団的自衛権行使容認とは憲法九条を死文化させてしまうこと。平和憲法を守り抜くことは私たちの世代の責務だと思います」(澤藤統一郎)
いや、面白くも可笑しくもない。気の利いたところが何もない。人間がおもしろくないにちがいない。
(2014年7月4日)

集団的自衛権行使容認閣議決定の読み方

一昨日(7月1日)の臨時閣議で成立した、「集団的自衛権の行使を容認する閣議決定」。正式には、「国の存立を全うし,国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」というタイトル。結構な長文であるだけでなく、本音を隠すための無意味な修飾語が多用されているために、読みにくい。読み通す意欲を減殺させる文書だが、私なりに全体の構造を明確にしておきたい。正確に読み通すために。

全体の構成は、長い前文のあとに本文4項目で成りたっている。第4項目はさしたる意味がない。次の1?3項が、いずれも戦争と平和に大きく関わり、立憲主義と平和主義に反するものとなっている。

1 武力攻撃に至らない侵害への対処
2 国際社会の平和と安定への一層の貢献
 (1)いわゆる後方支援と「武力の行使との一体化」
 (2)国際的な平和協力活動に伴う武器使用
3 憲法第9条の下で許容される自衛の措置

以上のタイトルは分かりにくい。修飾語を省き、これまでのマスコミ用語に置き換えれば、こうなる。
1 クレーゾーンにおける自衛隊対応の迅速化と武器使用拡大
2(1)戦闘地域での他国軍支援活動を可能に
 (2)駆けつけ警護における武器使用容認
3 集団的自衛権行使容認

まずは、第1項。クレーゾーン問題。もちろん尖閣を念頭においての議論である。軍隊ではない武装集団が離島を占拠した場合に自衛隊がどう対応すべきか。
閣議決定は、こう言っている。
「離島の周辺地域等において外部から武力攻撃に至らない侵害が発生し、近傍に警察力が存在しない場合や警察機関が直ちに対応できない場合(武装集団の所持する武器等のために対応できない場合を含む。)の対応において、治安出動や海上における警備行動を発令するための関連規定の適用関係についてあらかじめ十分に検討し、関係機関において共通の認識を確立しておくとともに、手続を経ている間に、不法行為による被害が拡大することがないよう、状況に応じた早期の下令や手続の迅速化のための方策について具体的に検討することとする。」

まさしく一触即発事態の具体的想定である。一定の場合の武器使用を認めるための法整備も明言されている。国内警備の問題として、海上保安庁や警察の問題に留めようとはせず、敢えて自衛隊の出番を拵えようというのだ。わが国が軍事力で対応すれば、相手国も「自国民の生命の安全を擁護するために」軍事力で応じることとなろう。相互の武力による威嚇のエスカレーションは、偶発的な要因によって暴発する危険を伴う。万全な備えをしての威嚇が日本の国民に安全をもたらすとは限らない。外交の努力を放棄しての武力の威嚇の危険は明白である。

次に、第2項(1)。これまではできないとされてきた「戦闘地域」での他国の軍隊への支援活動の容認である。面倒な話しだが、これまでは、「後方地域」あるいは「非戦闘地域」でなくては支援活動はできないとされてきた。自衛隊が戦闘に巻き込まれる危険を避けてのことでもあり、理屈の上からは「後方支援活動が支援対象の国の武力行使と一体化することになる」からでもある。これを「現に戦闘行為を行っている現場」でなければ、「戦闘地域」においても、「補給、輸送などの我が国の支援活動については、当該他国の『武力の行使と一体化』するものではないと割り切ろうというのである。そのような考え方に立って、「他国軍隊に対して、必要な支援活動を実施できるようにするための法整備を進める」という。自衛隊員に危険を背負わせることである。

次いで、第2項(2)。「駆けつけ警護における武器使用容認」。
閣議決定のポイントは、「多くの日本人が海外で活躍し、テロなどの緊急事態に巻き込まれる可能性がある中で、当該領域国の受入れ同意がある場合には、武器使用を伴う在外邦人の救出についても対応できるようにする必要がある」とするところ。

民間NGOや他国のPKO要員の危機を、「自衛隊が駆けつけて武器を使用して救助できるようにしてあげます」というものだ。この点は、憲法との整合性の欠落よりは、救出されるはずの海外NGOがこぞって反対していることに注目すべきである。彼らは、「平和の国日本に対する現地の信頼に守られてきた」「謂わば、憲法9条によって現地の反発から免れてきた」という。自衛隊が出てくる事態が、最悪であり、最も危険だと言っているのだ。今回の閣議決定に落胆し怒りを燃やしてもいる。もう、活動を続けられなくなるのではないかという声さえある。このことを噛みしめてみるべきだろう。

そして最後が、集団的自衛権行使容認である。分かりやすくこう表現せずに、回りくどく「憲法第9条の下で許容される自衛の措置」などと言うのは、底意が見えている。個別的自衛権も、集団的自衛権も、実は「基本的な論理」において同じなんでですよ、とアピールしたいのだ。このことについての批判は、くり返さない。

一応、全体構造を以上のように押さえれば、あの閣議決定を批判的に読み通すことができるのではないだろうか。「立憲主義」と「恒久平和主義」違反の2点が浮かびあがって来るはずと思うのだが、いかがだろうか。

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             グリーン外交と花合戦
それほど外交的でも社交的でもない我が家に、ご近所やご通行中の皆様からお声がかかる。道路に面した幅1メートルほどの小さな花壇と、とっかえひっかえ出して並べる鉢植えやプランターに対するお褒めの言葉だ。特別たいして珍しいものがあるわけではない。ただ、自分でもきれいだなあと思うものを人にもお見せしたいという気持ちはある。

冬が終われば、スノードロップ、続いて水仙、賑やかなチューリップ、モミジの柔らかな芽生えが春を告げる。そうこうしているうちに二階の屋根より高いハナミズキが白い花をいっぱいつける。5月になるとニオイバンマツリがむせかえるような香りを放って、紫色の蕾と白い花をつける。早咲きのユリの蕾も色づいてくる。梅雨の時期にはピンクとブルーのガクアジサイが咲くし、ハンゲショウの葉先も真っ白に浮かび上がってくる。鉢植えのバラも咲いた。ギボウシの薄紫の花も並んで茎を立てている。オニユリのオレンジ色の蕾がえばって他を睥睨している。涼しげなスカイブルーのアガパンサスも今年は成績がいい。小さな水鉢の蓮もスイレンももうすぐ蕾を付けるだろう。

そして今はクチナシ。八重の大きな花が満開で、狭い通りじゅうが香りでいっぱい。野放図に伸びて、道路にはみ出しているが、もったいなくて切る勇気が出ない。そこで、我が儘ついでに、「花が終わったらカットします。しばらくご容赦を」と書いた短冊をつるした。そうしたらなかなか雰囲気がいい。今日見たら、「良い香り、嬉しいです」とメッセージが書き加えてあった。「きれいでいいわねえ」とお声もかかる。ほんとうに嬉しくってしょうがないけれど、花が終わったら約束どおりカットしなければなるまい。クチナシやニオイバンマツリは、かなり強剪定しても、毎年花を咲かせてくれるから本当は心配いらないのだが。

この横町の花好きは我が家だけではない。まず、町会長が色とりどりの菊をプランターに作って、秋になると道の両側に飾ってくれる。各家のブロック塀には季節ごとに釣り鉢に花があふれかえる。こちらが大きく目立つ花を飾れば、お隣は見たこともないシックな花を咲かせるという具合だ。うちのクチナシに並んでお隣のナツツバキの可憐な白い花が咲いている。グリーン外交と花合戦だ。

私たちはこんな風に毎日のささやかな楽しみを大切にして生きている。それなのに、これがいつまで続くのだろうかと不安を感じざるを得ない。

2005年3月、島本慈子のインタビューに答える、むのたけじの言葉をたくさんの人に知ってもらいたい。(岩波新書「戦争で死ぬ、ということ」)

「国会で有事に備えて国民保護法を作るといっているけれどね、1945年3月11日の朝、私は大空襲を受けた東京の下町を歩き回りました。死体が道路にいっぱいだった。戦争って一晩で十万人死ぬんですよ、あんた。誰がどうしてそれを助けるの。要するに、戦争が起こってしまえば助けようがない。本当に国民の安全を守ろうと思ったら、戦争をやっちゃだめなんだよ。やってしまってから助けるなんてことはできないということを、3月10日(東京大空襲の日)は教えている」

「恨みをかうからだめ、恨みをかわないようにやればいい。よそから攻められないような日本をつくればいい。原因を取り除くことが安全対策なんだと、あの戦争が教えたはず」

甘い花の香りを圧するように、きな臭さが漂ってくる。これを押し返して、花の美しさと、花を愛でる平和を守りたいと思う。
(2014年7月3日)

「抑止力は 戦争の出発点」

昨日の当ブログを、「立憲主義と平和主義がないがしろにされた日に」というタイトルとした。集団的自衛権行使容認の閣議決定は、「立憲主義」と「平和主義」とに反するもの、という論旨だ。

昨夕(7月1日)日弁連が「集団的自衛権の行使等を容認する閣議決定に抗議し撤回を求める会長声明」を発していることを、今日になって知った。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2014/140701.html

非常に明快で、分かりやすい論旨。極めてオーソドックスな憲法論をベースとするものだ。

その会長声明の一節に、「集団的自衛権の行使等を容認する本閣議決定は、立憲主義と恒久平和主義に反し、違憲である。かかる閣議決定に基づいた自衛隊法等の法改正も許されるものではない」とある。期せずして、当ブログと基本論旨を同じくしている。
同声明は、次のような語り口で立憲主義違反を説いている。
「このような憲法の基本原理に関わる重大な変更、すなわち憲法第9条の実質的な改変を、国民の中で十分に議論することすらなく、憲法に拘束されるはずの政府が閣議決定で行うということは背理であり、立憲主義に根本から違反している」

そして、恒久平和主義の理念堅持の必要を次のように論じている。
「日本が過去の侵略戦争への反省の下に徹底した恒久平和主義を堅持することは、日本の侵略により悲惨な体験を受けたアジア諸国の人々との信頼関係を構築し、武力によらずに紛争を解決し、平和な社会を創り上げる礎になるものである」

さて、注目すべきは、同声明が閣議決定の平和への危険について次のとおり述べていることである。
「日本が集団的自衛権を行使すると、日本が他国間の戦争において中立国から交戦国になるとともに、国際法上、日本国内全ての自衛隊の基地や施設が軍事目標となり、軍事目標に対する攻撃に伴う民間への被害も生じうる。」
集団的自衛権行使はそのリアクションとして「国内全ての自衛隊の基地や施設が軍事目標とされる」事態をもたらし、その結果として「民間への被害も生じうる」という危険がもたらされるというのだ。国際法的には常識的な見解ではあっても、おちついた語り口での具体的なリスクの指摘に敬意を表したい。

昨日の安倍首相の記者会見では、このようなリスクについて触れるところはなかった。それどころか、反対に「国民の安全」が強調された。そのキーワードが、安倍会見の中で6回繰り返されたという「抑止力」である。

本日の朝日が掲載した「会見要旨」に拠れば、安倍は「万全の備えをすること自体が、抑止力だ。今回の閣議決定で、日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなる」と言っている。毎日では、「万全の備えが、日本に戦争を仕掛けようというたくらみをくじく大きな力を持つ。それが抑止力だ。今回の閣議決定で、日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなっていく」となっている。

安倍は、「集団的自衛権の行使容認を宣言することによって抑止力がはたらき、日本に戦争を仕掛けようというたくらみをくじいて国民の安全に寄与する」と言う。これに対して、日弁連声明は「集団的自衛権行使とは、日本が交戦国になることであり、国内全ての自衛隊の基地や施設が軍事目標化し、攻撃されれば民間への被害も生じうる」という大変な危険がもたらされると言う。

はたして、集団的自衛権の行使容認による「抑止力」が国民の安全に寄与するものとして期待しうるだろうか。大きな論点として浮かびあがってきた。安倍は、抑止力の強調で国民世論を(ミス)リードできると考えたのだろうが、安倍と同等の「右翼の軍国主義者」以外に納得する者はないだろう。

多くの論者が抑止力について発言を始めた。私なりの見解は昨日記事にしたので繰り返さない。本日の朝刊で目についたのは、朝日では「最大の抑止 非戦のはず(加藤陽子)」「抑止力 逆に低下する恐れ(植木知可子)」など。そして、毎日の「抑止力 戦争の出発点」という大見出し。作家・半藤一利さんの談話である。さすがに的確な指摘と思う。要点を抜粋すれば以下のとおり。

「(安倍は)中国の圧力に耐えきれず、胸の内で『すごい抑止力を手にしたい』と考えてきたのではないか。『集団的自衛権を通さないと抑止力にならない』と。だが、それは妄想だ。
 戦前、そっくりの状況があった。1940年の日独伊三国軍事同盟だ。当時の仮想敵国は米国で、日本の指導者は、同盟が米国との戦争を防ぐ抑止力になると考えた。結果が示す通り、それは妄想でしかなく、戦争の出発点となった。抑止力を強めれば、同時にリスクも高まる。これは本当に危険なのだ」

「日本人が平和のために尽力することで築いた信頼感は大きな国益だ。集団的自衛権とは、他人のけんかを買って出る権利である。けんかを買って平和国家を投げ捨て、国益を踏みにじる必要はない」

なるほど、集団的自衛権とは、現代版・日独伊三国軍事同盟なのだ。かつての三国同盟は米国との戦争を防ぐ抑止力になると期待されたが、結局は妄想に過ぎず、戦争への出発点となった。今、抑止力を期待しての集団的自衛権行使容認への方針転換は、結局は戦争のリスクを高めることにつながる。これは戦争の出発点となりかねない危険な企てなのだ。戦前の歴史に精通するこの人の警鐘に耳を傾けなければならない。そして、日本の良識を代表する日弁連の声明にも耳を貸していただきたい。
(2014年7月2日)

立憲主義と平和主義がないがしろにされた日に

集団的自衛権行使を容認する閣議決定が成立した。このことで、安倍晋三は歴史に大きな汚点を刻した。憲法をないがしろにした自・公両党の責任はあまりに重い。

大きな問題点は二つある。一つは、手続における決定的な瑕疵である。安倍内閣は、安定していた憲法解釈を閣議決定によって強引に変更した。憲法によって縛られる立ち場にある内閣が、憲法の縛りを甘受しがたいとして、解釈の名目で憲法の禁止命令を敢えて無視したのである。驕慢な権力者による法の支配への野蛮な挑戦というほかはない。

これまでの「自衛のための最小限度の実力は、憲法9条2項が禁ずる戦力に当たらない」という政府解釈も果たして可能なものか大いに異論のあるところ。可能な解釈としても、拡大解釈として許容される限界ギリギリのものであった。それは、国外における武力行使を絶対に容認しないことの強調において成り立っている解釈である。集団的自衛権行使容認は、解釈許容の限界を明らかに超えるものと指摘せざるを得ない。

これまで自衛隊は、専守防衛に徹するものであればこそ憲法適合性を獲得してきた。集団的自衛権行使を容認するとなれば、自衛隊そのものの基本性格が質的に転換することになる。外国で戦争のできる自衛隊を日本国憲法の平和主義が容認するとは到底考えがたい。

本来、憲法の存在意義は、立法・行政・司法の三権に越えてはならない一線を示し、この矩を越えることのないよう、厳重な縛りをかけることにある。この縛りを不当と考える者があれば、96条の改憲手続きを踏むしかない。各議院の総議員の3分の2以上の賛成で国会がこれを発議し、国民に提案して国民投票における過半数の賛成を得なければならない。国民の信任を得る自信がないからといって、この手続を省略することは許されない。解釈改憲という手法は、立憲主義否定の暴挙である。

もう一つの大きな問題は、ねじ曲げた憲法解釈の内容にある。憲法の平和主義に真っ向から挑戦する危険な安全保障政策の大転換といわざるを得ない。

集団的自衛権とは、本来の意味の「自衛」の権利ではない。どんなに限定を付したところで、自国が攻撃された場合でなくても武力行使を正当化する権利である。集団的自衛権行使容認とは、「日本を攻撃していない他国への武力行使を容認する」ということにほかならない。これは、他国の紛争に加担する権利である。「戦争を仕掛ける権利」であり、「先制攻撃をする権利」でもある。戦争を自衛戦争と侵略戦争に2分するとすれば、自衛戦争ではなく、侵略の戦争をする権利なのだ。

「限定的な武力の行使だから」、「歯止めが利いているから」などということは、武力攻撃を受けた国の側に通じる議論ではない。武力攻撃を受けた側の立場に立てば、自国に外国(日本)の武力攻撃が現在する事態となったのである。当然に、自衛権を行使して日本と交戦することになる。日本は全面的に攻撃されるリスクを引き受けざるを得ない。本当にそれでよいのか。

安倍首相の記者会見は、驚くべき無内容のものだった。まったく説得力がない。彼は集団的自衛権行使容認に踏み切るリスクについて率直に語るべきであったのに、一切触れなかった。歴代の内閣が、集団的自衛権行使容認の危険な側面を意識しておればこそこれを認めなかったことの説明を省いた。原発事故を過小に評価する説明、再稼動を安全という説明とよく似ている。恐るべき傲岸、あるいは無神経といわざるを得ない。

安倍は、徹頭徹尾「抑止力論」を語った。「集団的自衛権行使容認とは、万全の備えをすることであり、それ自体が抑止力となる。だから、今回の閣議決定で、日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなる」とのみいう。寒気がする。こんなあさはかな男が日本と国民を引き回しているのだ。

安倍流抑止論では、「武力の備えをすればするほど抑止力がはたらき、戦争に巻き込まれるおそれはなくなる」ということになる。先の大戦で反省したのは、このような考え方ではなかったか。「備えあれば憂いなし」とは自然災害についてあてはまること。軍備に関しては、「備えることが憂いを呼び込む」ことにもなるのだ。備えが十分であるか否かは、相手国との関係で相対的に決まること。「相手国より優越した備えがなければ憂いなしとはならない」のが必定だが、お互いが「相手国よりも優越した備え」を望めば、際限のない負のスパイラルに陥ることになる。これが、抑止論の行きつくところではないか。

これまでの専守防衛の路線を敢えて集団的自衛権行使容認に転換することは、当然のことながら、近隣諸国への敵対的メッセージを発することである。近隣諸国は、これに刺激されて、対抗上自らの国の抑止力を高める算段をしなければならないと思うだろう。負のスパイラルの始まりとなりかねない。集団的自衛権行使容認は、国の平和と国民の平和に生きる権利を侵害するものとなろう。日本国憲法の平和主義への逆行である。

本日の閣議決定を具体化するために、防衛関係諸法の改正案が国会上程となってくる。新規の立法提案もあるだろう。一つ一つの法案審議の中で、立憲主義と平和主義を擁護する国民世論を形成していこう。そして、今日閣議決定の暴挙を敢えてした安倍政権と自公両党の衰退を見届けよう。
(2014年7月1日)

明日(7月1日)は、官邸に駆けつけよう。

「政府は、明日(7月1日)集団的自衛権行使を可能とする憲法解釈変更の閣議決定に踏み切る方針」と、各紙が一斉に報道している。公明党が今日(30日)、行使容認に向けて党内の意見をとりまとめ、明日(1日)自民・公明両党の与党協議が成立して、即日政府が閣議決定するという段取り。さらにその後に、安倍首相が記者会見し、集団的自衛権の行使容認に踏み切る理由について説明するというスケジュール。

菅義偉官房長官の本日(6月30日)の記者会見では、「与党で調整ができれば、明日閣議決定を行いたい」と表明。自民、公明両党は、1日の閣議決定を目指し、正式合意前の意見集約を続行と報じられている。なお、官房長官は同じ改憲で、「政府として国民の生命・財産、国の安全を守るとの立場から、法制度の不備があるなら切れ目なくしっかり対応する」と強調し、憲法解釈変更の必要性を訴えた、という。

まだ、公明党の党内調整が完了したという報道には接してない。しかし、各紙が「公明党は本日(30日)午後に安全保障に関する合同会議を国会内で開催し、対応について幹部一任を取り付けたい考え」と報じている。また、「公明党は30日午後、外交安全保障・憲法両調査会合同会議を国会内で開き、行使を容認する方向で意見集約する。閣議決定に盛り込まれる武力行使の『歯止め』が厳格で、容認できると判断した」という報道もある。おそらくは、もう結論は出ている。問題として残されているのは、どのようにすれば「自民党から押し切られ陥落したのではない」という言い訳の形づくりができるか、それだけなのだ。

明日・2014年7月1日は、日本国憲法の歴史における恥辱の日となろう。立憲主義に大きな傷がつき、国民主権がないがしろにされ、恒久平和の理念に砂がかけられる。その罪を犯すグループの中心に位置するのが安倍晋三。それを囲んで右翼の徒党と化した自民党があり、自民党と心中を決めこんだ公明党がある。さらに右翼メディアと財界があり、そして、決して多数ではないが、積極消極に安倍を支持する国民がいる。

しかし、「立憲主義を尊重せよ」、「安倍政権による改憲クーデターを許すな」、「平和を守れ」、という世論は決して小さいものではない。政権にとっても、必ずしも成算があるわけではない危険な賭けに踏み切ったのだ。安倍よ、自公よ、右翼メディアよ、国民の良識を侮ってはならない。平和憲法を守れ、立憲主義を尊重せよという世論の厚みを見誤ってたことを思い知らねばならない。

明日は官邸に行こう。官邸の中にははいれなくとも、石の塀と鉄の扉の外から、抗議の声を届けよう。明日は、9時半?10時半(実行委員会と戦争をさせない1000人委員会)、12時15分?12時45分(憲法共同センター)、17時?18時半(実行委員会と1000人委員会)の官邸前集会が予定されている。時間の許す限り参加しよう。参加して、憲法をないがしろにすることについての抗議の意思を表明しよう。

また、内閣に、閣議の出席者に、自民党と公明党に、ファクスで電話で郵便で、抗議の意思を伝えよう。

明日は重要な日となるが、それでも解釈改憲は明日一日で完成するわけではない。新規立法や多くの関連法の改正が必要となる。国家安全保障基本法の上程もあるかも知れない。一つ一つの法案審議の過程が新たなせめぎ合いの舞台となる。集団的自衛権行使容認反対の運動は、特定秘密保護法反対運動の成果を引き継いでいる。この反対世論をさらに大きく強固なものとして行くことが王道だ。国民は、決して投票日だけの主権者ではない。

デモも、署名運動も、街頭宣伝も、パンフレットの配布も、ファクスも、電話も、投書も、ブログも、地方選挙も、床屋談義もコンパの議論も、世論調査も、そして一つ一つの集会も、一人ひとりの声を確実に社会に積み上げていく手段だ。平和のためではないか。億劫などと言ってはおられない。今なら、まだ声を上げることができる。手遅れにならないうちに、大きく声を揃えよう。「立憲主義を壊すな」「解釈改憲を許さない」「9条を守れ」「日本を戦争のできる国にしてならない」、そして「安倍内閣打倒」と。
(2014年6月30日)

閣議決定による解釈改憲許さずー「毎日」が熱い

解釈改憲の閣議決定を目前にして、ここ数日各紙が熱い。なかでも、毎日の熱さが群を抜いている。権力が暴走する今こそ、ジャーナリズムの本領を発揮すべき時ではないか。そのような気迫が伝わってくる。各界からの意見集約が質・量ともに充実しており、閣議決定案文や想定問題集などの資料の掲載も充実している。何よりも、立憲主義堅持の立場から集団的自衛権行使容認の閣議決定は認めがたいとする「社是」が紙面の隅々にまで感じられる。今、人に購読をお勧めするのは毎日新聞だ。

昨日(6月28日)の毎日社説はこの問題で2本。「集団的自衛権行使容認問題にかかる公明党の転換 『平和の党』どこへ行った」、そして「閣議決定案 9条改憲にほかならぬ」。
  http://mainichi.jp/opinion/news/20140628k0000m070117000c.html
  http://mainichi.jp/opinion/news/20140628k0000m070118000c.html
いずれもオーソドックスな姿勢で説得力ある明快な論旨。

続いて今日のトップは、世論調査の「集団的自衛権『反対』58%」「『説明不十分』8割」である。
「毎日新聞は27、28両日、全国世論調査を実施した。政府が近く集団的自衛権の行使を容認する方針となったことについて賛否を聞いたところ、『反対』が58%で、『賛成』の32%を上回った。政府・与党の説明が『不十分だ』とする人は81%で、『十分だ』とする人の11%を大きく上回った。安倍内閣の支持率は前回の5月調査より4ポイント低い45%。第2次安倍内閣発足以来、最低となった。不支持率は35%で前回調査より2ポイント増え、これまでで最も高くなった」という。

もう少し詳しく見てみると、「集団的自衛権の行使を容認『賛成』の32%」のなかで、「全面的に行使すべき」の意見は20%に過ぎないのに対して、「限定した内容にとどめるべき」の意見が74%である。

「また、安倍晋三首相が、行使を可能にすれば、他国が日本を攻撃することを思いとどまらせる『抑止力』になると説明していることについて尋ねたところ、抑止力になると『思う』と答えた人は27%にとどまり、『思わない』は62%だった。行使に反対する人のうちでは86%が抑止力になると『思わない』と答えた。首相は5月15日の記者会見で、行使容認で『あらゆる事態に対処できるからこそ、抑止力が高まり、紛争が回避される』と述べるなど、抑止力強化につながるとの考えを繰り返し説明しているが、国民への理解は十分には広がっていない」

「日本が集団的自衛権を行使できるようにした場合、他国の戦争に巻き込まれる恐れがあると思うか聞いたところ、『思う』が71%で、『思わない』の19%を大きく上回った。政府は行使を限定すると説明しているが、範囲が拡大して戦争につながることへの危機感が強いことがうかがえる」

そして何よりも、今回の憲法解釈の変更に、「賛成」は27%、反対が60%である。前回調査より、「賛成」は10ポイント減り、「反対」は6ポイント増えた。勝負あったというべきだろう。

にもかかわらず、安倍自民よ、何故こうまで無理を通そうとするのか。公明党よ、何故こうまで安倍政権に追随しなければならないのか。

ところで、本日の毎日朝刊は、小泉敬太論説委員顕名の社説を掲載している。「視点・集団的自衛権 司法の審査」というもの。

論旨は、「安倍政権の解釈改憲は司法審査に耐えられるはずがない」ということ。そして、「違憲判決の影響の深刻さは計り知れない」という警告である。

「集団的自衛権に基づき自衛隊が派遣されるような事態を迎え訴訟が起こされれば、司法判断が出ることになる。解釈変更が憲法上「適正」かどうかを最終判断する権限(違憲審査権)は最高裁にある。その時、違憲判決が出ないとは言い切れない」「政府・与党には、三権の一角を占める司法の場で、いずれ事後チェックを受けることを見据えた慎重で冷静な論議が欠けているのではないか」と問いかけている。

同論説は「今の裁判所に違憲判決を出せるはずがないと、政府・与党は高をくくってはいないか」という問いかけ。これがキーフレーズだ。政府・与党は明らかに「高をくくっている」。「最高裁が、集団的自衛権公使は違憲などという判決を出せるはずはない」と思い込んでいる。そう思い込ませた最高裁の罪は重い。権力多数派の憲法からの逸脱にブレーキをかけねばならない立場の最高裁が、あらかじめブレーキ役を放棄していると見くびられているのだ。

言うまでもなく、砂川事件最高裁大法廷判決(1959年)以来の「統治行為論」である。「高度の政治性を有しているテーマについては、一見極めて明白に違憲無効と認められない限り、司法審査権の範囲外」という司法の権限と責務を放棄する立場。

しかし、毎日論説は、「もし『統治行為論』が再び持ち出され、審査の対象とされないようでは司法の消極姿勢が問われるだろう」と批判する。その上で憲法学者の意見を借りて「違憲判決が出た場合の影響は計り知れない。自衛隊活動の正当性に疑念が深まり、賠償責任を負うなど政府が抱え込む訴訟リスクはあまりに大きい」と警告している。

そうだ。もし、集団的自衛権行使容認が閣議決定から各立法に進展し、現実に国民誰かの権利や法的利益の侵害の恐れが明らかになった時点では、遠慮なく提訴をしよう。弁護団だけでなく、多くの学者や元官僚の皆さんの力を借り、圧倒的多数の国民の声をバックに無数の違憲訴訟で、最高裁を動かそう。

法律家として、集団的自衛権行使を合憲という者はよもやあるまい。必要なのは、違憲判断に踏み切る裁判官の勇気だけなのだから。
(2014年6月29日)

公明党さん、筋を貫きますか。それとも、下駄の雪に甘んじるのですか。

本日(6月27日)の東京新聞のトップは、「集団的自衛権 公明代表が行使容認」である。とても分かりやすい記事となっている。公明党代表発言の変遷の経過と、その理不尽さ、そしてその影響の重大性が要領よくまとめられている。

公明党の山口那津男代表は、昨夜(26日)のNHK番組に出演して、「憲法解釈を変更し、他国を武力で守る集団的自衛権の行使を限定的に認める考えを表明した」。「山口氏が容認に言及したのは初めて」で、これで、自民公明両党の与党協議は近く合意する方向になった。政府は速やかに解釈改憲を閣議決定する方針で、「専守防衛に徹してきた日本の平和主義は大きな転換点を迎える」。

彼は番組で、「政府が国民の権利を守ろうとする場合には(自国を守る)個別的自衛権に近い形の集団的自衛権であれば、一部限定的に容認して国民を守り、国の存立を全うすることは許される余地があるのではないかと考えるようになった」と明言。「安全保障環境が大きく変わってきている」と理由を述べた。

また、与党協議で議論している「国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」など、武力行使を認めるための新たな三要件については「『明白な危険』は客観的な概念だ。歯止めが利いている」と強調。閣議決定案概要の修正案が「自衛の措置」と位置づけたことも指摘し「二重三重の歯止めが利き、拡大解釈の恐れはないと思っている」と述べたそうだ。

これで、ムードはすっかり解釈改憲閣議決定が既定事実化したごとくである。各紙の夕刊は、「7月1日 与党合意」「同日にも閣議決定」と報じている。

ところで、さすがは東京新聞と思わせるのは、「集団的自衛権をめぐる公明党・山口代表の発言」の変遷の経過を目立つ囲みで明らかにしていること。

「4月23日 政府解釈の変更は、国民に何も聞かないで一方的にやることになるから、憲法の精神にもとる。」
「5月24日 国民や外国が受けとめてきた平和主義を方向転換するわけだから、憲法改正の手続を取るべきだ。」
いずれも正論である。まったくそのとおりだ。

おっしゃるとおり、「政府解釈の変更は、国民に何も聞かないで一方的にやること」だ。誰もがそう考える至極真っ当な認識。しかも、ことは憲法の根幹に関わる問題。解釈の変更に名を借りた実質的改憲というべき暴挙。これを国民の意見をまったく聞くことなく、一方的に時の政権限りでやってしまおうというのは掟破りにほかならない。憲法に縛られる立ち場にある内閣てはないか。その縛りが邪魔だとして実質において憲法を変えてしまおうというのだ。骨太のルール違反であり、96条の改正手続をパスしての姑息な邪道以外のなにものでもない。「憲法の精神にもとる」こと極まれり、というほかはない。政府の解釈改憲の意図をこのように論難すべきことに関して、4月23日以後今日まで何の事情の変化もない。

また、解釈改憲は「国民や外国が受けとめてきた平和主義を方向転換する」ことになる、というのもおっしゃるとおり。「平和主義の方向転換」とは、専守防衛路線を放擲して実質的な9条改憲に踏み切るということ。だから、「憲法改正の手続を取るべきだ」という山口意見はまっとうな感覚。96条に定められた改正の手続を経ずしてできるわけがない。ところが、今になって、この「憲法改正の手続ないままの平和主義の方向転換」に加担しようと言い出したのだ。

だから、公明党には、抗議が殺到しているという報道だ。東京新聞3面に、「反対貫いて・9条壊さないで」という内容で、「議員にファクス1日100通超も」と報じられている。
「与党協議メンバーのある議員の事務所には連日50通ほど、日によっては100通を超えるファクスが届く。厳しい言葉で(集団的自衛権行使容認)賛成に回らないように求める内容が多いという。衆院の中堅議員の事務所では、500通に上るファクスが山積みになっている」

「『個別的自衛権に近い形の集団的自衛権』であれば、一部限定的に容認」というのが山口発言の骨格。「これでは歯止めになってない」という批判の仕方もあろうが、問題の本質は、「歯止め」の成否ではない。専守防衛路線を放擲して、自国が攻撃を受けた場合の自衛権の行使に限定することなく武力の行使を可能とする質的な原則の転換にある。専守防衛に徹することで、自衛隊を「自衛のための最小限度の実力」として、9条2項にいう戦力ではないとしてきたロジックは破綻する。

この9条解釈のロジックの破綻は、直ちにわが国のイメージの変化に直結する。疑いもなく、日本国憲法9条は、わが国の平和国家としてのイメージシンボルである。これがあればこそ、わが国は戦後国際社会に仲間入りを許され、その中でのしかるべき位置を占めることを可能とした。近隣諸国や旧植民地国との友好関係を結ぶこともできた。いま、それが壊され、打ち捨てられようとしている。「9条をもつ平和国家・日本」ではなく、「9条をねじ曲げて国外での戦争を辞さない」非平和国家日本のイメージを自ら作出しようというのだ。「首相が軍国神社に参拝し、武器輸出を認め、歴史を歪曲して戦争を反省しない教科書を容認し、学校では日の丸・君が代を強制し、軍事秘密法制を整備する、好戦国家・日本」の印象に加えてのことである。

しかも、である。毎日のトップは、「政府が集団安全保障容認」の大見出し。「想定問答に明記」「集団的自衛権『限定』方針逸脱」と続いている。政府が用意している閣議決定後の想定問答集によれば、公明との協議も合意も、政府・自民党が望んでいる集団的自衛権の行使にも、また集団安全保障における武器使用にも、何の障害にもならないのだという。

政府・自民党の立ち場では、新3要件とは魔法の呪文のごとくである。新3要件に基づけば、なんでもできる。たとえば、「集団安保については、▽他国への武力攻撃の直後▽日本が自衛権を行使中−−に国連安保理の決議が出た後でも、『国際法上は決議が根拠(集団安保)だが、憲法上、我が国の自衛の措置として許容される』のだから、武力行使できる」と明記されている。

その記事の締めくくりで、毎日はこう明言している。
「政府・与党は閣議決定に集団安保を明記しない方針だが、想定問答は、逆に日本政府が集団安保による武力行使に踏み出す可能性を明確に示し、新3要件が歯止めにならない実態を浮き彫りにした」

こうまで、与党合意の「新3要件」は歯止めにならないと言われているのだ。それでも、下駄の雪であり続けることを選択しますか。公明党さん。
(2014年6月27日)

公明党・北側発言「自民党に迷惑をかけた」とは何ごとか

集団的自衛権行使容認に向けて、与党間協議の決着がつきそうな危ない雲行き。昨日(6月24日)の第9回協議会で、政府・自民党が「自衛権発動の新3要件・修正案」を提示し、公明党執行部は大筋で了承する方針と報道されている(毎日)。

一見すると、「平和の党・公明」が「好戦集団・安倍自民」にズルズルと押し切られ値切り倒された形での決着となりそうな事態のように見える。しかし、本当にそうなのだろうか。このような形づくりが必要なだけだったのではないだろうか。ショーとしてのプロレスと同様、予め練られたシナリオのとおりにことが運んだものではないだろうか。

そういう根拠の一つが、この協議会の席で、公明党の北側氏が「我が党の議論で(自民党に)迷惑をかけているが、いつまでも引きずる考えはない。そう遠くなく結論を得たい」と語った(毎日)こと。「金目」発言も、「いじめ」発言も、失言ではない。本音がこぼれるのだ。北側氏の「迷惑をかけている」発言も本音である。本音だからこそ、問題が大きい。「できれば、安倍自民のご言い分を直ぐにでも呑んで、ご迷惑をお掛けするようなことはしたくない」と本心を語っているのだから。

北側発言は、国民の立ち場でものを考えていないことの表れである。彼の頭の中には、国民がなく、安倍政権と自民党だけがあることをものがたっている。また、憲法の理念を守れるか壊さざるを得ないのかの重大な議論をしていることについての自覚がない。慎重に審議をすることを「いつまでも引きずる」「迷惑をかけている」と本気になって考えているのだ。

国民の集団的自衛権行使への危惧の念は日々増している。だから、いつまでも引きずることなく、世論の盛り上がりのないうちに、抵抗したという格好だけはつけて決着しようということではないか。当然に、与党に残るメリットを考えての党利党略。

当てにできない者を当てにし、もしかしたらと幻想を抱いた国民が愚かだったというほかはない。国民的議論は皆無、国会での議論もろくろくないままに、憲法9条をなし崩しに壊そうという恐るべき合意を、自公2党はしつつあるのだ。

公明党は、開き直って「武力行使3要件」の細部の手直しをさせたと虚勢を張ってみせるのだろうか。一緒に戦争する「他国」に「わが国と密接な関係にある」という修飾詞をつけたのが手柄だとでも言う気だろうか。もし、本気でそんなことを言いだしたとしたら、それこそ噴飯もの。当たり前だろう。密接な関係にもない他国に味方して戦争をするなどあり得ないこと、「わが国と密接な関係にある他国」と言い換えることに何の意味もない。一緒に戦争をしようという国が、「わが国と密接な関係にある他国」でないはずはない。

「おそれ」を「明白な危険」に変えさせたって、限定が厳しくなったとはとうてい言えない。ある曖昧な言葉を、別の曖昧な言葉に置き換えてみただけのことではないか。3要件はダダ漏れのザルだ。日本国憲法の解釈において、集団的自衛権行使はいかなる場合も容認し得ないという大原則を崩してはならないのだ。

集団安保への参加についても、「自民党の高村正彦副総裁は24日の与党協議後、記者団から『集団安保はできないのか』と問われると『そうではない。できないならできないと(閣議決定案で)触れるのだから』と主張。政府関係者も『(閣議決定案に)明記しなくても集団安保に参加できる』と語った」と報じられている(朝日)。

曖昧な言葉使いが納得し得ないことに輪をかけて、「できないと明白に書かれていないのだから、できる」という論法が持ち出されている。あきれて怒り心頭だ。

これが許されるならば、日本は憲法9条を持ったまま、政府と与党の解釈次第で際限もなく「自衛の措置」としての武力行使をする国に落ちていってしまう。

公明党の井上幹事長は24日「安倍晋三首相に『何と言っても国民の関心は経済。ぜひ経済中心でお願いします』と述べた」という(朝日)。集団的自衛権問題の与党協議が始まる前でのことなら、「憲法問題よりは経済の協議を」ということに意味があろう。いま、この時点での「経済中心」への論及は、安倍自民の壊憲から国民の目を逸らそうという発言としての意味しかない。平和の問題を経済の問題にすりかえて、「最後は金目でしょ」と言って総スカンを食った石原環境相と同質のの批判を受けなければならない。

日本の進む道をねじ曲げる密談をこらした与党の政治家には、元陸将・元カンボジアPKO施設大隊長渡辺隆さんの言葉を届けたい。
「正直なところ、私は今、制服を脱いでいて、つまり退官していて、ありがたかった。もし制服を着ていたら、自分が指揮官として集団的自衛権をどう隊員に説明するか、夜も眠れないぐらい悩むだろうと思うからです」(朝日)

共産党、社民党だけではなく、民主党も結いの党も、集団的自衛権行使容認には批判的な姿勢を固めつつある。かつての保守本流と言われた人々も憂慮を深めている。自治体の首長にも慎重論が広がっている。地方議会の反対決議も100の大台を超えて増えつつある。岐阜県のごとく自民党組織の足下の一角が崩れてもいる。世論は日々好転している。いくつかの世論調査がそのことを明瞭に示している。まだ遅くはない。まだ、蟻の一穴をふさぐことは可能だ。公明党に、「自民に擦り寄ることは、結局墓穴を掘ること」と判断させる世論の形成まで、もう一歩ではないか。
(2014年6月25日)

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