澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「本郷・湯島9条の会」街宣活動の起源は10年前の春。

(2023年2月15日)
 昨日、2月14日の「本郷湯島九条の会」・本郷三丁目交差点「かねやす」前での街頭宣伝。まずは、「米軍事戦略に呑み込まれる日本」と題した、石井彰代表世話人の報告。

 風が冷たい昼休みのひとときでしたが、13人の参加者で大いに意気あがる、賑やかな街宣となりました。開始前にたくさんのプラスターを道に広げていると、二十歳前後の若者たちが通りかかって、「オレ、戦争なんか行かないもん」。また別の若者は、「オレは自転車に乗って逃げちゃうもん」。わたしたちが、「一緒に戦争に反対しようよ」と声をかけましたが、さて、気持ちが通じたかどうか。

 マイクはアメリカの軍事戦略にのって日本が戦争国家になりつつあることを告発しました。岸田首相は昨年末に安全保障3文書を閣儀決定し、今年1月にはバイデン米大統領に会って「敵基地攻撃能力保有」を決めてきたことを告げ、バイデン米大統領に賞賛され、あまつさえ「統合防空ミサイル防衛IAMD」に参加することを約束してしまう始末です。「敵基地攻撃能力」を持たないと「統合防空ミサイル防衛IAMD」に参加できないのです。

 さらに軍拡をおこなうための増税、社会保障の削減が始まっていることを訴え、まさに安全保障3文書は軍需産業の基盤強化、軍事分野の官民学の連携強化、空港・港湾・道路などの軍事利用が狙われていることを訴えました。

 日本は、何よりもロシアのように侵略する国になってはならない。アメリカの戦争戦略のもとで敵を探して先制攻撃を仕掛ける準備など、けっしてしてはならない。そして、ウクライナのように侵略される国になってもならない。抑止力という名で、軍事的な挑発を繰り返すことの危険を理解しなければならない。

 若者を戦争にいかせてはいけない、そのため皆様方とともに戦争させないために力を合わせましょう、そう呼びかけました。4月の統一地方選挙には「戦争する国」にしようとしている政党に投票することを止めましょうと訴えました。

 [プラスター]★自民党さん LGBTQなぜ困る?★浮き足立つな、落ちつこう。★反対しよう戦争への道。★トンデモない、軍拡・大増税。★9条の会、迷わず平和路線。★トマホーク、オスプレイいらない、憲法9条と国連強化。★軍事栄えて、福祉、子育て、医療、年金やせる。 

 最後に私がマイクを取って短く訴えた。
 
 「トルコとシリアの大震災で、多くの人か亡くなっています。人は、互いに殺し合うのではなく、助け合わねばなりません。私たちの国・日本は、戦争国家ではなく、国際協調国家です。人殺しの準備をするのではなく、このようなときこそ命を助ける事業に力を尽くさなければなりません。

 私たちの国は、150年前に近代国家の仲間入りをしました。そして、その歴史の前半は、幾つかの内戦を経て対外戦争を繰り返しました。目標は富国強兵。侵略戦争と植民地支配をこととする精強な軍国主義国家を作りあげて、そして亡びました。

  戦後は軍国主義の戦前ときっぱり縁を切って、9条を持つ平和国家として生まれ変わりました。以来75年余、私たちの国は曲がりなりにも平和を維持し続けています。今後も、この平和を続けていかねばなりません。平和憲法は、人を殺す準備ではなく、世界中の人々の命を救えと教えています。
  
 戦前は、近隣諸国や西欧先進国に負けない国防国家を作ることが国の備えだと考えました。軍備を拡大すれば、国は安全になると盲信したのです。そして、失敗しました。その高くついた反省から、戦後は平和を望むならば徹底して平和の準備をすることとしたのです。軍拡も、核共有も、日米安保も、集団的自衛権も、平和を壊す危ない橋だと知らねばなりません。政府の言うことを鵜呑みにすることなく、平和について、真剣にお考えください。」

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 街宣終了後、主要メンバーが寒さを避けて近所の定食屋「ゆげ」に入って、暖かいカレーうどんなど口にしながら、気分良く話しが弾んだ。いったいいつから、この街宣活動が始まったのかが話題になり、どうやら今年の春で、満10年になるのだと話が落ちついた。

 第2期安倍晋三政権発足が2012年12月末。その危険性を13年春に地元の集会で私が喋った。そして、その集会の席上で街宣活動を呼び掛けたことが発端だという。その後しばらくして、毎月第2火曜日のお昼に定まった。これが、みんなの記憶の一致するところ。以来、台風で中止となったことが一回だけ。ずっと続いているのだから、なかなかのもの。近所の人も、近くの交番の警察官も、よく耳を傾けてくれているというのが、自己満足的な甘い評価。

「安倍家」の凋落に世襲政治の愚を見る。

(2023年2月10日)
 本日の毎日新聞朝刊(1面・3面)に、「消えゆく安倍家」の大型記事。「山口4区に後継者不在」「保守王国山口、政争の果て」「安倍家窮状に岸家葛藤」「親子の決断、世襲批判も」のサブ見出しが付いている。

https://mainichi.jp/articles/20230210/ddp/001/010/001000c

 「22年7月の安倍氏の銃撃事件を受け、政界から「安倍家」の名前が消える。水面下では、同族の岸家から安倍氏後継を迎える案も模索されていた。運命に翻弄された一族の葛藤と決断を追う」というのがリードに当たる記事。「消えゆく安倍家」「安倍家窮状」「安倍系の退潮」と、安倍一族の凋落が語られている。

 先週日曜日の2月5日に下関市議選があった。改選前、市議会の自民系会派は、安倍晋三系の「創世下関」(9人)と、林芳正系の「みらい下関」(11人)に分かれていた。今回市議選で、安倍系「創世」の現職2人が立候補せず、さらに現職2人が落選した。また、安倍系の新人3人が出馬したが、当選したのは1人だけ。一方、林系「みらい」は現職全員が当選。さらに、林系の新顔4人のうち、2人が当選している。「林が太って安倍細る」の趣だが、さしたる意味のあることでもなかろう。

 そんな状況での、「安倍家」と「岸家」の事情が語られている。これに「林家」が絡んだ構図。ほとんど、ヤクザ組織の跡目問題である。時代錯誤の馬鹿馬鹿しい限りだが、保守王国の特殊性というよりは、これが日本の政治の現状なのだ。あらためて、我が国の民主主義の成熟度を考えさせられる読み物になっている。

 関係者の最大関心事は、安倍晋三死去に伴う今年4月の衆院山口4区(下関市、長門市)補選である。ここに、だれを擁立するか。安倍後援会では、安倍・岸一族からの立候補を切望した。が、結局適わなず、「安倍家」の名前が政界から消えることにもなった。政治銘柄「安倍ブランド」の消滅である。

 山口4区補選の安倍後継を巡っては、当初、妻・安倍昭恵が本命視されたが固辞。その後、晋三の母・洋子が「後継者は孫がいい」と語ったといううわさが広まり、安倍後援会は「3人の孫」のうち誰かの出馬を期待した。3人とは、安倍晋三の兄・寛信の長男▽安倍の弟岸信夫氏の長男・信千世▽信夫の次男――だという。

 3人の孫のうち、まず浮上したのは安倍姓を持つ寛信の長男だった。だが、本人に立候補の意思がなく、安倍後援会は擁立を断念した。後援会は次に岸信千世に打診したが、岸家は「2区の人たちへの仁義がある」などとして断った。岸家としては信夫の体調不良もあり、長男の信千世を4区補選に出す考えはなかった。信夫の次男も「(興味が)ない」とのこと。

 その後4区補選の候補者擁立作業は難航した。前田晋太郎・下関市長、江島潔参院議員、杉田水脈衆院議員の名前などが次々と浮上しては消えた。「やはり信千世さんを招きたい」として、安倍家の血を引く信千世への期待が高まったが、信千世は父の跡目を継いで2区の補選に出馬する。こうして、4区補選に、安倍・岸一族は出ないことになった。

 安倍晋三も、岸信介の血を引く3代目の世襲政治家である。その跡目をさらに、「安倍・岸」一族につなげようというアナクロニズム。

 岸信夫は、2月7日に議員辞職した。その補選に長男の信千世が出馬することが確実視されている。当然に、世襲批判に曝されることになる。

 しかし、岸信千世は、世襲について7日の出馬記者会見で問われ、こう答えたという。
 「こういう(世襲政治家の)家庭環境にあったからこそ、政治の課題、地域の課題について真剣に考える機会が昔からあった」

 どっぷりと世襲政治家の家風に浸った苦労知らずの人物の言う「政治の課題」「地域の課題」とは、いったい何だろうか。いかにして地盤・票田を固めるか、どうしたら先代から受け次いだ支持者の利益を擁護できるか、その利益擁護を票につなげるにはどうするか、この地盤をそのまま次に承継するにはどうすればよいのだろうか。真剣に考えていたというのは、そんなことのみに違いない。 

「オロカモノ」と叫べば、我が身に返ってくる。こだまでしょうか、いいえ丸川珠代。

(2023年2月5日)
 ある言葉が、ある人やその人生と緊密に結びついてる例はいくつもある。「それでも地球は回っている」「地球は青かった」「賽は投げられた」「二十にして已に朽ちたり」「不可能という言葉はない」「自由は死なず」「予は危険人物なり」「難波のことは夢のまた夢」「ケーキを食べれば」「見るべきものは見つ」「寸鉄人を刺す」「薄氷を踏む」「待ちかねたー」「もっと光を」「母は来ました今日もまた」「バカヤロー」「天罰」「ガチョーン」「アイーン」「シェー」…等々。

 こういう特定の人と結びついた言葉の豊穣の中に、もう一つ新しい言葉が加わった。「愚か者」である。今や、丸川珠代の専売特許。この人の性格や人生と深く結びついたものとなってしまった。正確には、「この愚か者めがー!」「このくだらん選択をしたバカ者どもを絶対忘れん!」というフレーズ。一度、彼女の口から放たれたこの言葉が、13年を経て彼女のもとに回帰してきた。無数の人の口からの「おまえこそ、愚か者だ!」という矢になって。「エラそうにくだらん言葉を発したバカ者を絶対忘れん!」という、重量級の返し矢もあったようだ。

 我が身を省みれば、人を愚か者と謗ることは憚られる。が、敢えて言わざるを得ない。この人にはまったく知性というものが感じられない。丸川は議場でのヤジで注目を集めた軽薄な政治家の典型である。数々の知性欠如のエピソードでも知られる。「オロカモノー」の批判を浴びて当然、その批判が生涯つきまとう宿命なのだ。この宿命は、安倍晋三との出会いから始まっている。人生、どこに不幸な躓きがあるか、予測しがたい。

 安倍晋三も「政治の私物化」「嘘とゴマカシ」「アンダー・コントロール」などの言葉と緊密に結びついて後世の人々の記憶に残ることになる政治家である。丸川珠代の「愚か者」とともに、それぞれの刻印が後世にまで消えることはない。

 丸川の「この愚か者めが!」は、2010年3月、参院厚生労働委員会で子ども手当法案採決の際の絶叫である。丸川に「愚か」と言われた法案は、民主党政権による所得制限なしの子ども手当導入だった。のち、自民党政権復活後に結局所得制限が導入されたが、この度、自民党が民主党政権時の政策を復活する方針を出して、丸川の「愚か者」発言をブーメランにすることとなった。

 ここで、丸川が「自民党執行部がなんと言おうとも、『所得制限なし法案』は愚か極まる」とがんばれば首尾一貫する。この人にも知性はあったのだと納得することにもなったはず。だが、しおらしく自らの過去の醜態を反省する弁を述べることで、みっともなさの極みとなった。そして、知性に欠けることの再確認ともなったのだ。

 自民党は、丸川珠代の「この愚か者めが」という野次はお気に入りだったようで、「この愚か者めが」とプリントしたTシャツを作成して1500円で販売。民主党バッシングの小道具に使っていた。丸川だけでなく、自民党の知性と品性の欠如も問われなければならない。

 武闘派・丸川は、「愚か者」に続いく同年5月の参院本会議では、当時の鳩山由紀夫首相に対し「ルーピー」と野次を飛ばした。「ルーピー」とは、ワシントンポストが鳩山首相を酷評する際に使用した蔑称だった。通常は、品のない言葉を発することを恥ずかしいと思うところだが、丸川はこんな品性のない野次を売り物にした政治家だった。そして、安倍自民党も、これに悪乗りしていた。

 2013年の参院選の公示日、安倍晋三は、再選を目指して立候補した丸川を応援して、「『この愚か者めが!』『ルーピー!』発言で注目を浴びた丸川珠代さん、出陣です」とツイートしている。安倍晋三と丸川珠代、そして「愚か者」のお似合い三者。仲良きことは美しきかな。

 しかし、物事にも人にも、功罪両面がある。丸川珠代、けっして「罪」ばかりではない。社会的には、それなりの「功」も記さねば公平ではない。この人、学歴は東大経済学部卒業だという。「しかし」と逆接の接続詞を用いるべきか、「だからこそ」と順接でいうべきか、あるいは「だからと言って」「それでいて」というべきか、よく分からないが、知性に欠けるのだ。

 これまでのこの人の看板は、東大卒・自民党・安倍晋三の3枚だった。実は、この3枚とも、大した看板ではないことを丸川が身をもって実証してくれた。東大卒で、自民党公認で、安倍晋三のオトモダチだから…?、それがどうした? 何の恐れ入ることがあろうか。むしろ、東大卒・自民党・安倍晋三の3枚とも、「愚か者」とよくお似合いなのだ。これは、大きな「功績」ではないか。

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 以下は、「愚か者」丸川珠代の愚行の一端である。あらためて申し上げるが、こんな人物を東京都民は、当選させた。しかも、3回にわたって。本当の「愚か者」とはいったい誰なのだろうか。

?「えっ? 私の選挙権がない」事件
 丸川の初当選は、2007年7月の参院選。安倍晋三の要請を受けた形で、東京都選挙区に立候補した。7月16日、新宿区役所に期日前投票に行ったところ、丸川は選挙人名簿に登録されておらず、同区における選挙権を有していなかった。そのため、投票できずに、真っ青になったことが大きな話題となった。さらに、2004年にアメリカ合衆国から帰国して以来、6回の国政・地方選挙でまったく投票に行っていなかったことも明らかとなった。それでも、被選挙権は認められ、こんな候補者を都の有権者は国会議員に選出した。

?丸川政務官問責決議事件
 厚生労働大臣政務官だった丸川は、2013年2月、人材派遣会社ヒューマントラストの新聞広告に登場して「日雇い派遣の原則禁止は見直すべき」と発言し、さらに3月15日の衆議院厚生労働委員会で「見直しは省の見解」と答弁した。
 その誤りを野党に追及されて、撤回し陳謝した。この問題を受け、厚生労働委員会は理事会で、丸川に答弁をさせない「謹慎扱い」を全会一致で決定、さらに全会一致(もっとも、自民・公明は欠席)により可決された。

?福島第一原発事故失言事件
 自民党が政権に復帰し、丸川が環境相を務めていた2016年2月、政府が除染の長期目標に掲げた「年間1ミリシーベルト以下」の基準をめぐって、以前の民主党政権を批判する文脈で「何の科学的根拠もなく時の環境大臣が決めた」などと長野県松本市内の講演で発言した。「年間1mSv以下」の数値は、人工放射線による一般人の年間追加被曝限度を「1mSv/年」とした国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に基づいて定められたもの。この発言は大騒ぎを引き起こした末に、丸川は「福島をはじめ被災者の皆様に誠に申し訳なく、心からおわび申し上げたい」「(講演での発言は)事実と異なっていた。当日の福島に関する発言を、すべて撤回する」と表明した。

?「カフェスタ」事件
 2015年7月13日放映の自民党のネット番組「カフェスタ」に丸川珠代は安倍晋三とともに出演。丸川は「世界一周の旅行のピースボート。あのピースボートに乗っていたのは、民主党の辻元清美議員でございますが、海賊が出る海域を通るときにたしか、自衛隊に護衛してくれって頼んで、自衛隊に守ってもらったんですよね」と発言。安倍も「海賊対処のための法案を出したときも、民主党は反対でした。しかし実際にいざ危なくなると、助けてくれと、こういうことなんだろうなと思いますね」と調子を合わせた。これが実は、事実無根。辻本は丸川の発言に抗議。7月14日、丸川は辻元を訪ね、直接謝罪した。自民党も詫び状を提出。画像も削除された。

政治家井上義行曰く ― 「私は全く同情しません」「大根1本で1週間暮らせる」「甘ったれるな」

(2023年1月15日)
 参議院議員・井上義行と言えば、安倍晋三側近として知られた政治家。昨年7月10日の参院選で、安倍晋三がとりまとめた統一教会信者票によって当選した国会議員である。

 井上義行当選後に、世論は統一教会批判一色となった。当然に、統一教会との癒着の深かった自民党・清和会への風当たりも強い。その渦中の井上が、朝日新聞の単独インタビューに応じた。思惑あってのことではあろうが、安倍後継勢力の心情を吐露して興味深い。

インタビュー報道の標題は、「旧統一教会の支援受けた自民・井上氏 山上容疑者へ『甘ったれるな』」というもの。朝日新聞デジタル1月11日19時の記事である。

 「事件の一報をどう知りましたか」という問で始まる前半部分は、紹介にも批判にも値しない。後半をご紹介して、私の感想を添えておきたい。

 ――容疑者は犯行動機として、旧統一教会への恨みから「深い関わりがあった安倍氏を狙った」と供述したとされます

 最初は、政治信条が合わないアンチ安倍さんの人物の犯行なのかと思いました。宗教団体とか、ましてや旧統一教会の存在が犯行動機になっているとは、みじんも考えませんでした。ただ、どんな理由でも人を殺すことは許されません。私の認識ではテロ行為だと思っています。
 容疑者は絶対的加害者で、安倍さんは被害者なのになぜ安倍さんが統一教会と近かったと報道され、容疑者が気の毒だったみたいな風潮になるのか。そこに腹立たしさを感じています。
(「容疑者は絶対的加害者で、安倍さんは被害者」との認識が、社会とズレている。「山上は安倍晋三殺害に関しては加害者だが、その生育歴においては統一教会による虐待被害者であり、安倍晋三と自民党もこのこの虐待に加担している。また、「なぜ安倍さんが統一教会と近かったと報道され、容疑者が気の毒だったみたいな風潮になるのか」と言えば、「安倍さんが統一教会と近かった」ことも、「山上が気の毒だった」ことも、安倍陣営には如何に「腹立たしさを感じた」としても、真実だからである)

 ――母親による教団への高額献金で苦しんだと供述したとされることについてはどう思われますか

 容疑者が言ったことをうのみにするって、テロリストの思うつぼじゃないでしょうか。まだ容疑者の供述は報道ベースで一部分に過ぎません。そもそも、教団を憎んでいたのに安倍さんを狙う動機にも矛盾を感じています。捜査当局が意図的に都合の良い情報を流している可能性さえあると思っています。
 その上で、報道ベースの供述を信用していません。別の勢力によるテロの可能性だって十分にあり得るはずです。まずは裁判で本人の口から語られる動機を聞きたいと思います。
(なるほど、人は自分に不都合なことを信じない。あるいは、自分の信じたいようにしかものごとを理解しない。山上の報道ベースの供述は、陰謀論の類いだというのだ。さすがに、安倍晋三側近である)

 ――事件が起きてから、教団から選挙支援を受けていたことはまずいと思いませんでしたか

 特に何も思いませんでした。選挙中に関わった教団側の人たちは皆優しかったです。必ず集合時間の30分前に集まり、まじめでもありました。容疑者が語る教団像と私が目の当たりにした教団像は違って見えました。
(この人には、まったく何の反省も悔恨もない。そして、今なお、統一教会と立場が同じなのだ。今に至ってなお、統一教会と手を切ろうという意思は毫もない。岸田自民党執行部はこれを放置しておいてよいのか)

 ――安倍氏が教団票を差配し、参院選ではあなたへの支援を指示したという指摘もあります
 
 教団票について、私から安倍さんにお願いしたことも、安倍さんから聞いたこともありません。安倍さんが教団票を巡って、どのような動きをしていたのか、教団との関係がどうだったのかはわかりません。
(これを発言の通りに信用する人はまずあるまい。保守の政治家が、自分のボスの票のまとめ方に無関心であるはずはない。井上君、ウソをついてはいけない。キミの7代先に祟ることになる)

 ――安倍氏が亡くなった背景に、あなたが参院選で支援を受けた教団があった可能性を考えたことはありませんか

 その質問自体が容疑者の供述を元にしていると思います。
(その回答自体が問題に向き合わない逃げの姿勢を意味している。警察が、安倍晋三を擁護する方向でのリークをすることはあり得ても、敢えて安倍批判につながる捏造リークをすることはあり得ない。このことは、井上の知悉するところであるはず) 

 たとえ、容疑者がそう言っていたとしても、私は全く同情しません。私は大根1本で1週間暮らしてきた経験があります。40歳にもなって、親の財産のことで苦しむなんて、甘ったれるなと思います。
(「私は全く同情しません」は、政治家として失格ではないか。せめて、「だからと言って、人を殺してはなりません」と言うべきだろう。その上で、山上の不幸を繰り返さない手立てについて語らねばならない。なお、「40歳にもなって、親の財産のことで苦しむなんて、甘ったれるな」は、加害者側を擁護したい一心でのトンチンカン。この人、貧しい人、弱い人、苦しんでいる人、差別されている人に、常にこう言っているのだろう。「私は全く同情しません」「大根1本で1週間暮らしていける」「甘ったれるな」と)

 ――事件後に明るみに出た教団が抱える献金問題や2世問題についてはどう感じていますか

 2世問題や献金問題というのは教団だけの話ではなくて宗教全般に関わる話なので、私としてはコメントを差し控えたい。
(逃げてはいけない。「教団が抱える献金問題や2世問題について」、あなたは逃げられない立場にある。あなたに投票したすべての人に対する責任という見地からも、安倍政権を支えてきた保守陣営に対する責任としても、あなたは明確に述べなくてはならない。たとえ、その回答が「私は、統一教会と同意見です」「信教の自由を尊重すべきであって、信仰による高額献金規制はあってはならない」「2世だって、自分自身の意思で信仰を選び取っているはず」でもよい。その回答を是とするか否とするかは、有権者に任せればよい。何も言わずに、黙り込むのは卑怯千万、民主主義社会における政治家の態度ではない)

少なくとも、私は教団の教義についてどのように教えられ、どのように運用されてきたかは知らずに、家族の問題や反共産主義など共通のところで共闘していたので、教団そのものに着目している報道とは大きく認識が違っていると思います。
(こう言う弁解をするようでは政治家失格だ。「私は教団の教義についてどのように教えられ、どのように運用されてきたかは知ら(なかった)」ことが本当なら、無責任極まる。訳の分からぬ怪しげな団体から票をとりまとめてもらって当選したその不明を恥じなければならない。即刻、議員を辞職すべきではないか)

人を不幸にする宗教が、信教の自由の美名のもとに被害を拡大し続けて行くことを許容してよいのか。

(2023年1月8日)
 もっぱら統一教会の主張を代弁している「世界日報」。その本日付の【社説】が、「安倍氏暗殺半年 揺らぐ民主主義の根幹」というタイトル。「軽視される信教の自由」「テロは決して許されぬ」という二つの小見出しが付いている。統一教会の言う「民主主義の根幹」とはいったい何のことだろうか、それが今どう「揺らい」でいるというのか。若干の興味をもって目を通したのだが、何とも説得力のある論考にはなっていない。

 あるべきタイトルは、「安倍氏暗殺半年 揺らぐ自民党政治への信頼」あるいは、「暴かれつつある安倍政治と反社会的宗教との癒着」というべきであろう。小見出しは、「軽視される信教の自由の限界」「明らかとなったマインドコントロールの恐怖」「信者家庭の子にもたらされた苛酷な人生」あたりが適当か。「テロは決して許されぬ」だけは当然の事理。同種事件の連鎖を許してはならない。しかし、これをテロと言ってよいものか、必ずしも明らかではない。

 統一教会・勝共連合・世界日報側が、銃撃された安倍晋三を悼めば悼むほど、惜しめば惜しむほど、自民党、とりわけその最右派である安倍派には迷惑なことになる。「統一教会とは大して親密な関係ではありません」と、何とか世論の批判をかわしたいのが安倍後継勢力。その心情に構うことなく擦り寄って来られるのだから。

 しかし、統一教会側からすれば黙ってはおられまい。手のひらを返したような自民党や清和会の連れない態度には憮然たる思いがあって当然であろう。その面白くないという心情の吐露を汲み取る以外に、この社説の読むべきところはない。

 それでもせっかくの論考。以下に赤字で引用して、黒字で私の感想を記しておきたい。

「安倍晋三元首相が奈良市で凶弾に倒れてから半年が経過した。史上最長政権を担った元首相が、選挙の遊説中に銃撃され死亡するという民主主義の根幹を揺るがす前代未聞の事件であったにもかかわらず、その本質が忘れられつつある。
そればかりか、テロリストが意図した通りの展開となっているのは憂慮すべき事態だ。」

 この書き出しの文章は、安倍国葬提案理由の二番煎じでインパクトに欠ける。そもそも安倍晋三と民主主義が不釣り合いだった。そして何よりも、犯人自身が捜査機関に語った銃撃の動機は、統一教会への恨みであって、安倍晋三は韓鶴子の言わば身代わりなのだ。その意味では、本件は政治的テロ行為ではない。この事件の本質は、反社会的な宗教に洗脳された信者家族の悲惨さにある。そして、《多くの人を不幸にする宗教が、信教の自由の美名のもとに、被害を拡大し続けて行くことを許容してよいのか》が問われている。それが、今進行している事態の「本質」ではないか。これを「民主主義の根幹を揺るがす」とは、無内容も甚だしい。

「奈良市は銃撃現場を車道にし、慰霊碑などの構造物は造らない方針という。かつて同様にテロによって暗殺された原敬、浜口雄幸両元首相の東京駅の遭難現場には、それを示す印が床に嵌め込まれ、近くに説明板が置かれている。世界の平和と秩序維持に貢献し、国葬儀の際には多くの国民が献花の長い列を作って死を悼んだ安倍氏の遭難現場に、その痕跡すら残さないというのは理解に苦しむ。安倍氏のレガシーを認めたくない人々への迎合としか思われない。事件は民主主義への重大な挑戦であった。それを何事もなかったかのようにするのは、民主主義を守ろうという意思の欠如を示すものに他ならない。」

 奈良市の措置に賛否の意見あるのは結構だが、大上段に「民主主義を守ろうという意思の欠如を示すものに他ならない」という断定はトンチンカンも甚だしい。この一文は、統一教会が安倍政治をかくも全面的に肯定し、安倍の死をかくも惜しむことによって、その政治的立場の一体性を示す貴重な資料として意味がある。
 安倍晋三を、政治テロによって暗殺された原敬、浜口雄幸、あるいは犬養毅、高橋是清らと同列に置くことはできない。安倍は政敵に暗殺されたのでも、彼の政治信条を理由に暗殺されたのでもない。反社会的カルトとの癒着を嫌われて銃撃の義性となった。そのことをも考慮に入れての奈良市の対応である。にもかかわらず、「安倍氏のレガシーを認めたくない人々への迎合としか思われない」は、噴飯物と言うしかない。

「殺人容疑で送検された山上徹也容疑者が、母親が入信している世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への恨みから、同教団と関わりのあった安倍氏を襲撃したとの供述内容が報じられたことで、人々の関心は旧統一教会問題に向かった。
その後のメディアの魔女狩り的報道で、岸田文雄首相は事件の全容や旧統一教会の実態が明らかにされる前に、早々と自民党と教団との絶縁を宣言した。これによって、政治が宗教の影響を受けることは悪であるかのような、戦後の日本に潜在してきた政教分離の誤った解釈を蔓延(まんえん)させてしまった。メディアに引きずられ、問題の本質を見誤った判断と言わざるを得ない。」

 この前段はそのとおりだが、後段には看過できないいくつもの言い回しがある。統一教会への批判を「魔女狩り的報道」とレッテルを貼ることの意図は明らかで、こんなことで批判の言論に萎縮があってはならない。「政治が宗教の影響を受けることは悪であるかのような」は、あたかも「政治が宗教の影響を受けることは悪ではないような」主張である。議論を拡散せずに絞れば、「少なくとも、政治が統一教会のごとき反社会的なカルトから影響を受けることはけっして放置してはならない」と言うべきである。これに続く、「戦後の日本に潜在してきた政教分離の誤った解釈を蔓延させてしまった」は、だれにも意味不明、理解できない。おそらくは、社説を起案した本人にも何を言っているのか分からないだろう。

「事件が旧統一教会の献金に絡むものであったことから、法人などによる悪質な寄付などの勧誘行為を禁じる被害者救済新法が拙速に成立し、施行された。被害者の救済に一定の効果は期待できるが、憲法で保障された信教や内心の自由を軽視する傾向が強まったことは今後に問題を残した。この動きは地方議会にも波及し、憲法違反の疑いの濃い決議が採択されている。」

 以上から汲みとることができるのは、「宗教批判はけしからん、だから、統一教会批判をしてはならない」という、単純で無邪気だが、乱暴な非「論理」。宗教を批判することはタブーではない。ましてや、具体的な事実に基づく統一教会批判や、それと癒着した安倍政治の批判に躊躇があってはならない。

「さらに社会的に問題があるとの理由で、政府は同教団の解散命令請求を視野に入れ、宗教法人法に基づいた質問権を初めて行使した。正当な理由なしに解散命令を請求するのは、宗教弾圧につながる深刻な問題だ。」

 「正当な理由なしに解散命令請求することが深刻な問題」であることは当然のこと。しかし、統一教会による甚大な被害は、民事・刑事の多数の判決に明らかとなっている。霊感商法も、多額の寄付勧誘も、合同結婚式も、養子斡旋も、すべてはこれ以上の被害拡大防止のために「解散を命ずべき正当な理由の存在」を明らかにしていると言うべきではないか。「宗教弾圧」という言葉の陰に隠れ通すことはもはやできない。

「何よりこれらの流れは、安倍氏を殺害し教団への恨みを晴らそうとした容疑者の狙い通りの展開である。メディアは容疑者の行為を『もちろん非難されるべきだが』
と断りながら、旧統一教会叩きを繰り返した。そこからは『いかなる理由があってもテロは許さない』という強いメッセージが伝わってこない。」

 これは、論点外しである。詭弁と言ってもよい。被疑者の刑事罰を免責してよいはずはない。弁護権を確保しつつも、刑事訴訟手続は厳正に行われなければならない。その刑事手続の進行とは別に、事件をきっかけにあらためて世に問われているのが、カルトと政治の癒着の実態である。【社説】には、この問題の議論を封殺し、論点をずらして世論の批判を避けようとの姑息な詭弁が透けて見える。

「山上容疑者の鑑定留置が10日で終わることを機に、奈良地検は殺人罪で起訴するとみられるが、テロ殺人であることを忘れるべきではない。信教、内心の自由、そして暴力の否定は民主主義の根幹である。それをこれ以上揺るがせてはならない。」

 この結論もよく分からない。「暴力の否定」に異論あろうはずはないが、そのことを「統一教会批判阻止」と結びつけようという論旨が、この社説の全体を訳の分からぬものとしているのだ。

年の瀬に、旧年を振り返る。

(2022年12月30日)
 2022年が間もなく暮れてゆく。この年を振り返って、世界を揺るがした最大の出来事は、疑いもなく「プーチン・ロシア」によるウクライナ侵略である。事前には、まさかそんなことが現実にはなるまいと楽観していただけに、衝撃は大きかった。

 2月24日の開戦以来、無数の人が無惨にも殺され傷付けられた。戦闘員も非戦闘員も、男も女も老人も子供も。多くの家が焼かれ、街が焼失し、家族が引き裂かれた。故郷を追われて逃げざるを得ない人が難民となって世界に散らばった。どこの国でも、殺人・傷害・放火・略奪の犯罪となる行為が、戦争の名で大規模に実行された。悲惨な歴史が繰り返されている。人類は、少しも賢くなっていないのだ。

 この戦争の勃発が、我が国の安全保障に関する世論や政策に与えた影響も衝撃だった。右派勢力は大声で叫んでいる。「9条が前提とする国際環境は崩壊した」「9条の理念では国を守ることができない」「国民自身が、自らの国を守る覚悟をもたねばならない」「軍備の充実なくして国家の安泰はない」「防衛費を倍増せよ」

 さらには、具体的にこうも言う。「今日のロシアは、明日の中国であり北朝鮮である」「中国・北朝鮮からの攻撃に備えよ」「防衛力の整備こそが、敵の攻撃の意図を思いとどまらせる」「古来言われているとおり、『平和を欲せば戦争の準備が必要』なのだ」。

 だから、「専守防衛論は、今や誤りである」「敵基地攻撃能力の保有こそが不可避の安全保障政策である」「敵基地とは、ミサイル発射基地のみを意味するものではない。戦略的指揮系統の中枢を含むものでなくては意味がない」「自衛力を最小限度の実力に限定してはならない」「敵の攻撃が確認された後にのみ反撃できるとするのでは遅く実効性に欠ける」「敵が攻撃に着手することが明確になれば、躊躇のない反撃ができなくてはならない」

 かくて、攻撃的な武器の取得を自制してきた防衛政策は大転換されようとしている。スタンドオフミサイルを備えようというのだ。1機2億とも3億とも言われるトマホークを500機も購入するという。

 この道は、いつか来た道だ。暴支膺懲、鬼畜米英…。いつも我が国のみが正しい。我が国の軍備は自衛のためのやむを得ないもので、邪悪な諸国が我が国を狙っている。自衛のための装備の充実、自衛のための攻撃能力、そして、自衛のための先制攻撃。

 こうして、相互が軍事優越を求めての悪循環に陥る。安全保障のジレンマこそが、悪魔のささやき、唆しである。こうなってはならないとするのが、9条の理念である。今、その実効性が試されてる時を迎えている。

 そして、今年の国内ニュース最大の衝撃は、7月8日の安部晋三銃撃事件である。第一報での背筋の寒い思いは、テロの時代の到来かという恐怖感だった。幸い、この銃撃は、政治的な主張貫徹のための殺人ではなかった。その後に続く報復的なテロは起きていない。宮台真司襲撃事件の未解決が気がかりではあるが。

 この事件の影響はまったく思いがけないものとなった。銃撃事件の被害者が悲劇の殉教者に仕立て上げられるのではと一瞬は考えた。保守政権は、当然にそのような思惑で動いた。改憲を悲願とした国家主義政治家安倍晋三をテロの殉教者とすれば、改憲に国民意識を動員できるだろう。おそらくはこのような思惑からの政治利用が安倍国葬強行の動機であったろう。

 しかし、この政治利用は成功しなかった。世論は銃撃犯の動機に同情し、安倍晋三は銃撃犯に象徴される多くの統一教会信者の悲劇への加害者と捉えられた。しかも、岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三の3代にわたるカルトとの深い結びつきが国民の目に晒されることとなった。

 安倍晋三だけではなく、自民党そのものの加害責任を問う声が高まる中で歳を越すことになる。年明け、銃撃犯山上徹也が起訴されてその刑事訴訟が始まる。統一教会と安倍晋三との関係が、さらに深く暴かれることになるだろう。統一教会への解散命令請求も避けて通ることのできない事態に立ち至っている。そして、統一教会が起こしたスラップ訴訟には、私も関与している。

 気候変動問題に展望は開けない。コロナもおさまらない。日本の経済力は長期低落の中で危機的な状況だという。国民生活の低迷と格差の開きは厳しい。原発再稼働のみならず造設問題には腹が立つばかり。政治とカネの醜悪な関わりは、いっこうに改善されない。日本学術会議問題や大学の自治も心配でならない。国家主義の傾向進展も危うい。ヘイトや差別の問題も解消にはほど遠い…。

 問題山積の年の瀬である。嘆いてばかりはいられない。力を合わせて何とかしなければならない。微力な者どうしで。 

国葬検証であらためて浮き彫りになる安倍政治の罪

(2022年12月26日)
 年の瀬に、今年亡くなった人物を思い起こせば、まずは安倍晋三の名を上げねばなるまい。その亡くなり方が衝撃的だったからだ。「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」という。はたして彼は、どのような名を残しただろうか。

 「棺を蓋いて事定まる」ともいう。しかし、安倍晋三については、容易に「事定まる」様子がない。「棺の蓋」を動かして噴き出てきたものが、統一教会との癒着だった。岸・安倍の3代にわたって、カルトと保守政治の接着役を果たしてきたその一端が明らかとなった。「反共」という黒い糸で結ばれた、統一教会と安倍晋三。その実態は、まだ十分には解明されてなく、十分な批判にも至っていない。

 生前の政治家としての所業にも資質にも批判の大きかった安倍晋三である。加えて、その死後に統一教会との癒着が明らかとなったのだ。にもかかわらず、岸田文雄は、安倍国葬を強行した。独断専行したと言ってよい。この頃から、岸田の特技は「国民の声を聞かずに物事を決めること」として知られるようになった。

 果たして、国葬は国論を二分した。世論調査では、およそ6割の国民が安倍国葬反対の意を表明した。独裁国家ではいざ知らず、民主主義を標榜する国家において、国民の過半が反対する国葬の強行はあり得ない。

 9月の国会審議で国葬強行の追及を受けた岸田首相は、「国葬についての検証をしっかり行う」と約束せざるを得なかった。しかし、10月召集の臨時国会で議論するはずだった論点整理は、会期終了まで出てこなかった。「しっかり」は口癖だが、やる気がないのだ。

 本来、安倍国葬の検証とは、だれのどのような思惑から、なにゆえにかくも奇妙な国葬が構想され強行されたかを解明しなければならない。そして、国葬がもつ、権力によるイデオロギー操作としての罪業と効果を徹底して暴くことでなくてはならない。安倍国葬は、安倍政治を美化する役割を果たすためのもので、安倍後継の保守政権をも美化することにつながるものであったのだから。

 政府は12月22日、安倍国葬を検証する有識者ヒアリングに基づく「論点整理」を公表した。A4約200ページにわたる大部なものだが、検証の実はあがっていない。集約の方向も見えてこない。国葬に関する7つの論点について大学教授やメディアの論説担当者ら21人から対面聴取した意見が羅列されただけのものだという。

 『法的根拠の必要性』『国葬実施の意義』『国葬の対象者の決定』などのヒアリングでは、「賛否が分かれた」という。当然であろう。安倍政治が国論を大きく、深く二分するものだった。安倍国葬の評価も、安倍政治への評価の分裂をそのまま反映するものとなったのだ。

 このヒアリングでは、「国葬でどのようなレガシーが残ったか」という設問もあったという。こんな調子で、真っ当な検証ができるはずもない。結果の誘導を試みたが、成功に至らず、「21論」併記の羅列的「論点整理」となったものと思われる。

 また、国葬を巡っては、衆院も議院運営委員の6会派6人による協議会の報告をまとめた。こちらの報告は、わずか3ページ。が、中身はけっしておかしなものにはなっていない。その全文を下記に掲載しておきたい。安倍晋三、どうやら葬儀のあり方までを含めて、民主主義社会の反省材料として「名を残した」ようである。

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◆衆院各会派協議会がまとめた検証結果(全文)

 議院運営委員会は、国葬儀の検証等を行うため、各会派の代表者からなる協議会を設置し、令和4年11月1日から12月2日にかけて、計5回協議会を開会し、政府からの説明聴取・質疑、2回にわたる有識者からの意見聴取・質疑も含め、各会派の代表者間で協議を行った。その議論の概要を以下のとおり報告する。

 1、国葬儀の検証に当たっての基本的な認識
 今般の国葬儀は、戦後において慣例の積み重ねがなく、またその在り方等について一般的な議論がなされていないことから、国民の間で国葬儀についての共通認識が醸成されていない状況にあった。結果、国葬儀の実施に当たって、世論の分断が招かれた。
 
 2、国民、国会への説明
 今般の国葬儀は、7月8日の故安倍晋三元総理大臣の逝去の後、同月14日に岸田総理大臣が国葬儀を行うことを表明し、同月22日に閣議決定が行われた。その後、9月8日に岸田総理大臣と松野官房長官が議院運営委員会に出席し、説明を行った後、同月27日に国葬儀が執り行われたが、この実施に至るまでのプロセスについて様々な意見・批判が示された。
 すなわち、決定に際して国会への事前報告等がなされるべきである、閣議決定後1カ月以上経過してから国会へ説明を行ったのは遅きに失したなど様々な具体的意見が述べられた。

 3、国葬儀の法的根拠及び国葬儀を行う理由についての政府の説明
 政府は、今般の国葬儀を内閣府設置法上の国の儀式として、閣議決定を経て実施したものである。この点について、意見を聴取した有識者からは、国葬儀を行政権の裁量として行うことが直ちに違憲・違法であるとは言えないという見解、政府による法的根拠、理由の説明が国民の理解を十分に得られていないとの見解、内閣府設置法自体が、国葬儀を行うことを内閣限りで決定できることの根拠になるものではないとの見解が示された。さらに、国葬儀の実施に関する制度上の問題は解決していないとの見解もあった。
 各会派の代表者からは、閣議決定自体には問題はなかったとの意見、示された法的根拠、実施理由に対して国民の理解が十分に得られておらず、国権の最高機関である国会の審議を十分に経ず国葬儀を実施したことはいわば行政府の独断であり適切でないとの意見、憲法の保障する国民主権、法の下の平等、思想及び良心の自由や政教分離原則との関係で違憲であるといった意見も示された。

 4、国葬儀の対象者についてのルール化
 国葬儀の対象とすべき者に一定の基準・ルールを設けることについては意見が分かれた。
 各会派の代表者からは、法的根拠や基準を設けることで国民の理解に資するといった積極的な意見がある一方で、在職期間や功績等様々に考慮すべき事項があり、事前に基準を設けることは難しく、時の内閣が責任をもって判断すべきとの消極的な意見も示された。
 意見を聴取した有識者からも、あらかじめ定められた基準があればここまで政治問題化されることはなかったのではないかという意見がある一方で、民主主義国家である以上、特に政治家の場合は国民による功績の評価は様々であることから合意形成は容易ではなく、一定の基準を設けることは非常に困難であるとの意見、国葬儀についての慣例のない中で改めてルールを作ろうとすると、ルールの在り方自体が論争の種になりかねないとの意見など、消極的な意見も多く示された。

 5、国会の関与の在り方
 今般の国葬儀の実施により、結果として世論の分断が招かれたとの共通認識の下、国民の幅広い理解を得られるよう国会による何らかの適切な関与が必要であることについては、大方の意見が一致した。一方、政治家の国葬の実施は認められないとの意見も出された。
 国会の関与の具体的な方法としては、国葬儀の実施に国会の承認を要するものとすべきという意見も示される一方、国会の行政監視活動を通じて政府に説明責任を果たさせることによって対応すべきものであるといった意見、また、国会での承認に際して行われる審議が故人の評価に関する議論を招き、政治問題化が避けられず、故人及び遺族にとっても望ましくない事態になりかねないとの懸念も示された。
 このように国会の承認を得るには合意形成に困難を伴うとの議論を踏まえ、代替案として、例えば、国会内のしかるべき委員会等における政府からの報告のような形にとどめる、両院議長への報告や相談を経るという方法もあり得るとの見解も示された。また、あえて国葬儀という形にこだわらず、他の形式で故人を偲(しの)ぶ方法もあるのではないかとの見解もあった。
 いずれにせよ、国会が国葬儀に関し的確な行政監視を行う機会が確保されることが望ましく、政府は、適時・適切な情報提供を行うべきである。

防衛政策の大転換も、原発回帰への大転換も、どうして国民置き去りで決めてしまうのか。

(2022年12月23日)
 岸田文雄内閣成立以来、この内閣は正体を見極めにくい厄介な代物、と思い続けてきた。当然のことながら、安倍晋三内閣の分かりやすさに比較してのことである。

 安倍晋三は、極右陣営の取り巻きに担がれた存在で、立憲主義をないがしろにした改憲論者で、歴史修正主義者で、古典的ナショナリストで、復古的伝統論者で、極端な新自由主義者で、かつ人事を壟断した権力の亡者で、政治を私物化し、官僚に忖度させ、質問議員に意味不明の野次を飛ばす品位に欠けた人物。自分でも、「私を右翼の軍国主義者と呼びたいのなら、そう呼んでいただきたい」とも言っていた、その危険性の分かりやすさにおいてこの上ない貴重な政治家だった。だから、「ゆ党」までふくむ野党の面々が、「危険な安倍が唱導する改憲には反対」でまとまっていた。

 ところが岸田には、多少の人の良さの幻影があり、本当のところは危険人物ではないのではと思わせる雰囲気がある。もともとが宏池会の出身、ハト派の面影が消せない。総裁選に打って出たときの印象も悪くなかった。「成長よりは分配重視の『新しい資本主義』」だの、「国民の言葉に耳を傾けるのが特技」だの、なかなかのもの。その後の豹変ぶりも、あのときの言葉こそが彼の本音で、いずれ本音を言えるときが来るのではないか、と思わせられる。岸田は本性を出せずに、自民党の安倍・麻生・茂木・二階派などに面従腹背せざるを得ないのだろうとも思わせる憎めないキャラクターなのだ。

 ところが、次第にこの政権どうもおかしいと思わざるを得ない事態が進展している。参院選挙あたりからだろうか。国葬を言い出したのが決定的だった。そして何よりも、臨時国会閉幕直後の「安保3文書の閣議決定」(12月16日)である。戦後の安全保障政策の大転換、とうていハト派のやれることではない。内心がどうであろうとも、これだけのことをやってのける岸田政権。タカ派と評せざるを得ない。

 さらにもう一つの大転換、「原発回帰」である。岸田が議長を務める「グリーントランスフォーメーション(GX)実行会議」は、昨日(12月22日)新たな基本方針を決定した。政府自身の「原発依存度を低減する」としてきた、これまでの立場から、原発再稼働の加速、老朽原発の運転期間延長、そして新規原発建設という原発推進への大転換である。福島第1原発事故の悪夢消えやらぬ今、核のゴミの処理方針もないままにである。何よりも、政策決定の手続がおかしい。事前に民意を聞こうという姿勢がない。今や口癖になっているのが、「ていねいに説明する」。民意に反する決定をしておいて、「丁寧に説得して、反論を封じたい」ならまだマシ。じつは、できない説明を先送りしているだけ。

 民主主義とは、政策決定のプロセスにおける理念である。政策決定に実質的な意味で、どれだけの国民が参加するかが民主主義成熟度のバロメータなのだ。国民にとって、決定された政策が、どれだけ自分が決めたものという実感をもつことができるか。それが問われている。

 「人の話を聞くのが特技」言った岸田政権に期待した国民が、いまや国民の声も、国会の声も聞かない政権を見離しつつある。12月18日の毎日新聞世論調査結果、岸田内閣を支持する25%、支持しない69%は、このことを物語っている。

 下記は、私も所属する自由法曹団東京支部の「安保3文書の閣議決定に対する抗議文」である。この第4項にも、民意を顧みない岸田政権の非民主的な姿勢が批判されている。

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安保3文書の閣議決定により敵基地攻撃能力(反撃能力)を保有することは許されない

1 2022年12月16日、岸田内閣は、反撃能力という名目で敵基地攻撃能力の保有を明記した国家安全保障戦略、国家防衛、防衛力整備計画の3文書(以下「安保3文書」という。)を閣議決定した。
  しかし、閣議決定により敵基地攻撃能力を保有することは日本国憲法に反し許されない。

2 日本国憲法は、二度に亘る世界大戦の悲惨な戦争体験を踏まえた深い反省に基づき平和主義を基本原理として採用し、第9条において、一切の戦争と武力の行使及び武力による威嚇を放棄し、戦力の不保持を宣言するとともに、国の交戦権を否認している。
  これら日本国憲法が採用した平和主義は、世界史的に見て比類のない徹底した戦争否定の原理を打ち出したものと評価されてきた。
この徹底した平和主義原理に基づく日本国憲法の枠組みの中で、歴代内閣は、日本が保持できる自衛力は、専守防衛の理念の下での最小限のものでなくてはならないとの立場をとり、敵基地攻撃能力の保有は否定してきた。閣議決定で採用された安保3文書は、歴代内閣が堅持してきた従来の専守防衛の理念の立場をかなぐり捨てるものである。

3 今般、閣議決定された安保3文書には、敵基地攻撃能力を保有するために外国製のスタンド・オフ・ミサイルを導入することが明記されている。同ミサイルの導入は、専守防衛の理念の下での最小限の自衛力保持の限界を超えてしまうものであり、到底認められない。
  射程距離の長いスタンド・オフ・ミサイルを導入することは、近隣諸国との軍事的緊張を一層高め、際限のない軍拡競争に日本を巻き込む事になり、かえって国民の生命・財産を危険にさらしかねない。

4 安保3文書には、敵基地攻撃能力を保有するための防衛費として、今後5年間で総額43兆円もの税金を投入することが明記された。
  ロシアによるウクライナ侵略等の影響に基づくエネルギー価格の上昇や、新型コロナウィルスによる経済的打撃等により国民が苦しむ中で、多額の税金を投入することに対し国民の納得は得られていない。

  5兆円の国庫資金は年間の医療費自己負担分を無料にできる、3兆円あれば大学の学費を無償化できること等も報道されており、今般政府が費やそうとしている莫大な防衛費を医療・教育・福祉等に投入すれば、国民の生活を豊かにする実効的な政策を実施することができる。
  国民の代表者で構成される国会での議論を経ずに閣議決定のみにより、従来の憲法解釈を覆し多額の税金の投入を決定することは、国民主権、国会中心主義、及び、財政民主主義にも反するものである。そのことによる国民の不信は、岸田内閣の不支持率が7割にも迫っているという世論調査結果によく表れている。

5 以上のとおり、岸田内閣による安保3文書の閣議決定は、立憲主義および平和主義を破壊する重大な暴挙であり、歴史に禍根を残すものと言わざるをえない。
  自由法曹団東京支部は、岸田内閣による敵基地攻撃能力の保有を認める安保3文書の閣議決定を即刻撤回するよう求める。
   2022年12月21日


自由法曹団東京支部幹事会

国葬という愚行は一切不必要だ。けっして繰り返してはならない。

(2022年11月17日)
 安倍晋三元首相の「国葬」を検証する衆院各派代表者による協議会が、14日、会合を開き、参考人の意見を聴取した。
 川上和久麗澤大教授、西田亮介東工大リベラルアーツ研究教育院准教授、そして、宮間純一中央大教授が意見陳述をした。

 その席で、宮間教授は、今後の国葬実施の「基準づくり」ではなく、「国葬自体の是非が議論されてしかるべきだ」「一人の人間の死を国家が権威付けする理由や目的が不明瞭だ。現代の自由な思想、価値観、多様性を重んじる日本社会の中で、特に価値の是非が分かれる政治家の国葬が必要なのか根本的に疑問だ」と述べたという。

 さらに、「戦前の国葬は大日本帝国憲法下で天皇から下賜され、民衆の思想・言論を抑圧する装置として機能し、「植民地支配や戦争へ国民を動員することに利用された儀式だ」と指摘し、「日本国憲法下ではそのまま使い回すことはできない」「戦前とどう違うのか国会で本格的に議論されることなく吉田茂元首相の国葬が強行され、『安倍国葬儀』も国葬と何が違うのか不明確なまま実施され、混乱を招いている」とも主張。(以上、主として赤旗による)まったくそのとおりだ。

 そもそも「国葬」なんて、国家主義時代の遺物。安倍国葬で終わりにしなければならない。国葬は、本質的な矛盾をはらんでいる。国家・国民の総意としての弔意表明なくしては、「国葬」も「国葬儀」も成立し得ない。さりとて、国民個人には、思想・良心の自由が保障されている。弔意の強制は憲法上許されない。

 結局は、「形式上強制は避けつつも、自主的な弔意の表明を要請する」という形で、事実上の弔意の強制が行われることになる。社会的同調圧力という権力のもつ武器が有効に働いて、「事実上の強制」がまかり通ることになる。

 なお、常識的に「国葬」といえば、国民の圧倒的な多数が敬愛する人物を対象とする。国民的な敬意と弔意を確認することによって、全国民の一体感を高揚させるに足りる人物。多くの場合には、国葬を通じて偉大な被葬者の意思に沿った国家運営の正当性を確認し、国民を鼓舞することを目指すことにもなる。

 安倍晋三は、そのような国葬対象者像とは対極にある。遠慮した物言いでも、毀誉褒貶定まらない人物。そして、人格的な問題を指摘されこそすれ、けっして尊敬される人格者ではない。しかも、政治家稼業三代目のボンボン。庶民の苦労とは無縁でもある。とうてい国民の圧倒的な多数が敬愛する人物ではない。この人物の葬儀を通じて、国民の一体感を確認し高揚することなど、夢想だにしえない。

 安倍晋三に限らず、「自由な思想、価値観、多様性を重んじる日本社会」に、国葬にふさわしい人物がいるとは考え難い。国家が特定の個人を、国を挙げて弔意を表するという必要がどこにあるだろうか。

 天皇や皇族も含めて、一切の国葬を廃絶しよう。弔意の強制なぞまっぴらご免だ。

「統一教会」と「安倍派」 醜悪な相寄る魂

(2022年11月13日)
 先週日曜日(11月6日)の毎日新聞朝刊トップに、「旧統一教会教祖の発言録が流出 『安倍派を中心に』浮かぶ政界工作」という大見出し。

 統一教会(現名称は「世界平和統一家庭連合」)は、意識的に「安倍派」を手掛かりに「政界工作」を行うという構想を持っていたという記事。今や、常識に属することだが、教団側の資料が生々しくそのことを物語っている。

 教祖・文鮮明の厖大な韓国語説教録が残されているという。「文鮮明先生マルスム(御言)選集」と題されたもので、各巻300?400ページ、実に615巻に及ぶ。毎日新聞は、その全部がネットに「流出」していることを把握し、内容の信憑性を確認して、日本語に翻訳した。

 その中で、毎日が注目したのは、この「選集」に記された統一教会と日本政界との関わりである。文が1989年に韓国で行った説教では、「自民党の安倍晋太郎(元外相)が当時会長を務めていた保守系派閥「安倍派」(清和会)を中心に国会議員との関係強化を図るよう信者に語っていた」という。

 選集468巻264ページによると、文は04年9月16日の説教の中で「岸首相(の時)から私が(日本の政界に)手を出した」と振り返り、自ら岸氏に接近したことを示唆している。
 以下、毎日記事記事の、要約引用である。

 「これに続けて『中曽根の時に130人の国会議員を当選させた』とも語った。教団系政治団体「国際勝共連合」が発行する「思想新聞」は、中曽根政権下で行われた86年7月の衆参同日選で、当選した638人のうち130人について『勝共推進議員』と報じており、文氏は教団の支援によって多くの当選者を輩出したと強調したとみられる。

 思想新聞によれば、晋太郎氏は88年2月の勝共連合の懇親会で『皆さんには我が党同志をはじめ大変お世話になっている』とあいさつしたといい、晋太郎氏ら自民党の保守系議員と教団との関係が深まっていたことがうかがわれる。この後、文氏は安倍派を中心とした更なる関係強化を口にする。

『国会議員の秘書を輩出する』
 192巻250?251ページの記述によると、文氏は89年7月4日、日本の政治をテーマに韓国で行った説教の中で「国会議員との関係強化」に言及し「そのようにして、国会内で教会をつくる」「そこで原理を教育することなどで、全てのことが可能になる」と語った。

 加えて「国会議員の秘書を輩出する」「体制の形成を国会内を中心としてやる。そのような組織体制を整えなければならないだろう」「そして、自民党の安倍派などを中心にして、クボキを中心に超党派的にそうした議員たちを結成し、その数を徐々に増やしていかないといけない。分かるよな?」と語った。

 クボキは、日本の教団本体と勝共連合で初代会長を務めた久保木修己氏を指すとみられる。

 さらに「行動結束と挙国だ。挙国とは国を挙げて一致団結することだ」「日本の中央の国会議員たちだけではなく、地方もそうだ。地方には皆さんがいるよね? 分かるだろ?」と地方政界にも言及した。」

 岸氏、晋太郎氏と「親子2代」の関係を築いた文氏は、岸派を源流とする安倍派との関係を強化することで、日本政界への影響力を高めようとしたとみられる。実際、晋三氏が率いていた現在の安倍派を中心とした議員に教団との接点が次々と明らかになっており、清和会との関係強化を訴えた文氏の発言が今につながっているとみることもできる。」

 また、毎日は、元信者で教団関連の「世界日報」記者だった金沢大の仲正昌樹教授(政治思想史)の次の言葉を紹介している。
 「教団はいろんな議員にアプローチする中で結果的に『反共』の議員が集まる清和会との関係強化に狙いを絞ったのではないか。」

 なるほど、「統一教会」と「安倍派」、似た者同士。反共という赤い糸で結ばれた切っても切れない間柄。お互いに、利用価値があったに違いない。「安倍派」は「統一教会」に選挙協力を求めた。「統一教会」が、「安倍派」に求めた見返りとは、文のいう「国会議員との関係強化」⇒「そのようにして、国会内で教会をつくる」⇒「そこで原理を教育することなどで、全てのことが可能になる」という構想の実現のごとくである。

 この文脈の中では、「安倍派」の「統一教会」への見返りの提供のなかに、霊感商法取締りへの手心が含まれていたとしても不思議ではない。このことについての今後の徹底解明が望まれる。

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