重慶大爆撃訴訟(現在、東京高裁係属中)を支える「弁護団」と「連帯する会」が発行している『重慶大爆撃 会報』が40号となった。訴訟の進行は困難な局面に差し掛かっているが、この訴訟は大きな問題提起をなし得ている。
戦後日本は、旧日本軍(皇軍)による中国への侵略と加害の歴史に正面から向き合ってこなかった。戦後72年を経てなお加害についての真摯な謝罪と反省はなく、両者の和解は成立していない。この訴訟と、日中両国にまたがるこの訴訟を支える運動とは、究極の和解を目指すものと言えよう。
この会報40号に、「靖国神社と靖国神社参拝の本質について」と題する張剣波さん(早稲田大学講師・政治学博士)の講演録が掲載されている。被害者の側から日中両国民の和解の必要が語られていて、紹介に値するものと思う。
氏は、日中両国民間の和解の必要について、大意こう語っている。(なお、以下の紹介文は、文意を変えない程度に、澤藤が要約したもの)
「和解は不可欠なのです。和解がないと、心のわだかまりは残ります。そもそもそれは、正義に反します。政治的政策的な動機で田中角栄が中国を訪問して、日中国交正常化以降、一時期日中友好の時代もありました。でも結局、それが非常に脆いものだったのです。歴史問題が障害になって日中友好の時代はあっという間に過ぎ去ってしまいました。
和解というプロセスがないと、戦争につながるという懸念が残ります。日本が再び戦争への道を走る。その危険性は、今も全くないとは言えない。多くの人が心配するところです。しかし、私は元侵略者が再び侵略戦争をやるという可能性以上に、侵略された側が強く大きくなって復讐のために何かをやる、その方を私は心配するのです。そんなことのないように、やはり和解という問題は重要なのです。」
その上で、氏は和解の障害としての靖國神社の存在について語っている。靖国を語ることは、日本軍の戦没兵士の功罪を語ることであり、中国での戦争の性格を語ることでもある。当然のことではあるが、被害側の氏の言葉は、私たちにとって重く、しかも鋭い。
「歴史問題を語る時に、日本軍の戦没者の性格は、中国からみると極めて簡単な問題ですけれども、日本の中では、これは非常に難しく微妙な問題になっているのです。私が日本に来たばかりのときに、大学でお世話になった日本人の先生が仰ったことを今でも鮮明に覚えています。『あなたの家族や親戚の人が戦死していたとしたら、それでもあなたは家族の死をもたらしたその戦争を間違った戦争だった、と言えるだろうか』というのです。なるほど、日本の普通の庶民は、やはりそういう風に思うのだ、こんな偉い先生でもそう思うのだ、ずっと頭の中に、その話が残っている。これは、戦死者、戦没者の性格について私が考える一つのきっかけにもなりました。
中国の一般民衆からすれば、日本による戦争の侵略性と犯罪性は明らかで、侵略と犯罪に加担した日本軍の兵士の罪は戦死しても消えない。ところが、侵略戦争と犯罪に加担した日本軍の軍人がその罪を背負ったまま靖国神社に祀られている。神として、英霊として。
重慶空爆を行って中国軍に撃ち落とされた兵も、731部隊で人道に悖る行為をした将兵も、靖国神社に祀られています。彼らは、紛れもなく侵略者であり犯罪者です。これを祀る靖国神社というのは、侵略戦争を支える軍事的な施設であり、侵略の道具でした。
侵略された側から見た場合、日本軍の戦没兵士は侵略者であり犯罪者であって、彼らを多角的に理解しなければならない理由はありません。靖国神社は、このような侵略者、犯罪者を、英霊として、神として祀っている。これは、全く正当性を持だない。反正義であり、反人類である。そのような施設を参拝することは、なおさら正義に反する。参拝してはならない。
このような前提にたって、靖国神社あるいは靖国神社参拝を考えれば、靖国神社の存在がある限り和解は困難です。侵略戦争に加担して死亡した者を美化する施設はあってはならない。まして、そのような施設を参拝するということは、絶対にあってはならない。和解の妨げになります。
保守系の議論の中で靖国神社参拝問題が政治問題になるのはA級戦犯分祀ということが争点になります。A級戦犯を靖国から分祀すればこの問題は終わるから、外国の首脳にも靖国神社を参拝させる、日本の政治家も堂々と参拝しても良いと。そのような主張が結構あるのです。しかしそうあってはならないのです。決してA級戦犯だけの問題ではない。A級戦犯をそこから出したからもう参拝しても良い、ということにはならないのです。」
靖国神社問題の最もやっかいなところは、戦没者遺族の心情を神社側が絡めとっているところにある。靖国の英霊とは、客観的には侵略戦争の尖兵である。被害国から見ての侵略者であり犯罪者である。しかし、「自分の親が戦死していたとしたら、その親を侵略者であり犯罪者と呼べるだろうか」「自分の子の死をもたらしたその戦争を間違った侵略戦争だったと言えるだろうか」という問は、受けとめるのにあまりに重たい。
靖国神社は、家族の死をこの上なく美化し意味あらしめてくれる。戦没者遺族にとって、これ以上ない慰藉の場なのだ。しかし、同時にその慰謝は天皇が唱導した侵略戦争への無批判な賛美につながる。
そうあってはならない。本来遺族は、大切な家族を兵士とし無惨な死へと追いやった、国の責任をこそ追及すべきなのだ。まさしくこれこそが歴史認識の根幹に関わる問題。あまりに重いが、いかに重くとも歴史の真実は真実として受けとめなければならない。被害を受けた側の怒りや嘆きは、比較にならぬほどに大きく深刻なのだから。
(2017年7月17日)
時事や共同の配信記事によると、中国の「人権派弁護士」に対する弾圧がエスカレートして、有罪判決が相次いでいる。かつての天皇制政府による治安維持法による弾圧にも似た理不尽が今も現実に起こっているのだ。隣国の問題として座視するに忍びない。
昨年7月、中国当局は「人権派弁護士」を主とする人権活動家を「拘束・連行」した。その数200人を超す。令状による逮捕ではない「拘束・連行」の法的な根拠はよく分からない。治安維持法の予防拘禁のような制度があるのかも知れない。
いち早く警鐘を鳴らした香港のNPO団体「中国人権弁護士関注組」の当時の発表によれば、2015年7月16日までに拘束・連行された人権派弁護士や活動家は205名。「長期化する当局の摘発に、活動家らからは『弁護士を徹底的に脅して抑え込もうとしている』と懸念の声が上がっている」という。
同団体によると、当局が拘束を継続しているのは「社会秩序を乱す重大犯罪グループ」とみなされた「北京鋒鋭弁護士事務所」の主任弁護士、周世鋒氏や女性弁護士の王宇氏ら11人。一部は自宅に軟禁されている。ほかに15人の行方がつかめていない。179人は「一時拘束」だったようだ。
当局に「拘束」された人権活動家たちへの弁護活動が妨害され、弁護士接見も家族との交流も途絶されたまま、「拘束」が長期化した。治安維持法時代と同様、強要されてやむなく転向した者はその旨を表明して釈放されたが、連行1年を経て、拘束が継続している者23名と報じられている。
本年(2016年)7月9日には、今も拘束中の弁護士の家族ら7人が、即時釈放などを求める共同声明を出した。当局はこれに対して翌8日には、支援者の弁護士1人を新たに拘束することで応じ、「抑圧の手を緩める気配はない」(共同)。
その後、7月15日に、中国天津市人民検察院(地検)第2分院は昨年7月から拘束していた人権派弁護士の周世鋒氏や著名な民主活動家の胡石根氏ら計4人を国家政権転覆罪で起訴すると決めた、と報じられた。
周世鋒氏らの国家政権転覆罪刑事公判の進展に注目していたところ、7月30日には、「中国天津市人民検察院(地検)に「国家政権転覆罪」で起訴された中国の人権派弁護士の周世鋒氏ら4人について、家族や家族が依頼した弁護人を締め出した「秘密裁判」が近く開かれる見通しとなった。同罪で有罪の場合、懲役10年以上となるケースが多い。関係者が30日明らかにした。」(共同)との報道があって、その報道のとおりに公判の内容についてはまったく不明のうちに、相次ぐ有罪判決となっている。
周氏は、「著名な女性弁護士の王宇氏=国家政権転覆容疑で逮捕=らと共に弁護士事務所を設立。有害物質が混入した粉ミルクで多くの乳幼児に健康被害が出た事件の訴訟に関わるなど人権擁護に取り組んできた」と紹介される弁護士。
時事通信の伝えるところでは、昨日(8月4日)「中国の天津市第2中級人民法院(地裁)は、『国家政権転覆罪』で起訴された弁護士の周世鋒氏(51)に懲役7年、公民権剥奪5年の判決を言い渡した。周氏は上訴しないと表明した。国営新華社通信が伝えた。
周氏は北京鋒鋭弁護士事務所の主任として、多くの人権侵害事件に取り組んできたが、昨年7月に民主活動家ら300人以上に対して行われた一斉連行で拘束された。このうち4人が今年7月、政権転覆罪で起訴され、有罪判決が出たのは周氏が3人目。」
続いて今日(8月5日)「中国『人権派』裁判、4人目にも有罪判決」の報道。
「中国で今週相次いで行われている人権派弁護士や活動家の裁判で、4人目にも有罪判決が下されました。この間、家族や主な支援者は自宅で軟禁状態となり、裁判の傍聴は許されませんでした。5日、初公判が行われたのは、会社経営者で人権活動家の勾洪国氏(54)で、国家政権転覆罪で懲役3年・執行猶予3年の判決が言い渡されました。」(TBS動画ニュース)
傷ましいのは、同氏が次のように言わされていることだ。「私は西洋のいわゆる『民主思想』にだまされていたと分かりました」(人権活動家 勾洪国氏)
報道では、「国営テレビで流された勾洪国氏の法廷での発言は、今週裁判が行われた他の3人と似たような文言で反省と謝罪が繰り返されました。」とされている。
「勾洪国氏の妻・樊麗麗さんら家族や主な支援者は警察に監視され、自宅軟禁状態となっていました。」「去年7月に一斉拘束された人権派弁護士や活動家のうち残る19人は、依然として家族や弁護士の接見が許されず、裁判の日程も明らかになっていません」とも報じられている。
刑事司法の公正こそは、一国の人権保障水準のバロメータだ。民主化度の試金石と言ってもよい。国民の人権は、権力の恣意的発動から厳格に守られなければならない。政権や党の意向次第で、法に基づかない人身の拘束があってはならない。適正な司法手続を経ずに、刑罰が科せられてはならない。
中国のこの刑事司法の原則無視は、まるで野蛮な天皇制下での日本共産党員やその同調者に対する弾圧の再来ではないか。
改正治安維持法に、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」という罰条が設けられている。「共産党の目的遂行の為に弁護活動をした」という認定で、弁護士が逮捕され有罪となったのだ。
良心的に果敢に人権のために闘った優れた弁護士の多くが、法廷で権力と切り結んだ弁護活動を理由に起訴され有罪になり、弁護士資格を剥奪された。3・15事件、4・16事件などの弾圧で逮捕された多くの共産党員活動家が治安維持法で起訴され、その弁護を担当した良心的な弁護士が熱意をもって弁護活動を行った。この法廷での弁護活動が治安維持法違反の犯罪とされて起訴されたのだ。悪名高い、「目的遂行罪」である。「外見上は弁護活動に見えるが、実は共産党の『国体を変革し私有財制度を否定する』結社の目的遂行のために法廷闘争を行ったもの」と認定されて有罪となった。有罪となった弁護士は司法省(検事局)から資格を剥奪された。
中国の事態の深刻さを憂うる。そこに、権力の本性を見ざるを得ない。我が国の天皇制政府の蛮行を忘れてはならない。戦前回帰などなきよう、心したい。
(2016年8月5日)
宮崎市定は『論語』で説かれる徳目の掲載頻度を数え出しているそうだ。いちばん多いのは、孔子が最も大切にした「仁」で97回。次に多いのは、孔子が職業教育的に教えた「礼」の75回。その次が「信」で38回。そして、その次が「孝」と「忠」が同じく18回だという(片山智行『孔子と魯迅』筑摩選書69頁による)。
かくも「忠」の頻度が少ないのは意外ではないか。「忠」は孔子が重視した徳目の一つではあるが、孔子の教説におけるキーワードではなさそうだ。しかも、孔子のいう「忠」は、忠義・忠節という主君に対する服従を美徳とする意味ではない。片山の解説では、「誠実さ」「誠実に真心を尽くす」という普遍性の高い一般的な対人関係での心得である。
「君は臣を使うに礼を以てし、臣は君に事うるに忠を以てす」という一文があるが、これとて、「臣下が主君に仕えるときにも、『忠=誠実さ』が必要」というだけのこと。「普遍的道徳としての忠を君臣間に当てはめ」たに過ぎないという。孔子自身がひとりの君主への「忠節」を尽くした人ではないとも指摘されている。なるほど、そのとおりだ。
ところが後代、儒学が体制の教学となって、事情が変わる。
このことを痛烈に喝破しているのが、清末の思想家譚嗣同という人物の『仁学』。彼は戊戌の政変に敗れて刑死したが、『仁学』は処刑前に友人に託された覚悟の遺稿だという。片山は「儒教道徳の恐ろしさを痛烈に批判したこの書は、出色の名著」という。
譚嗣同によれば、荀子こそが、「後王(当代の君主)に服従し、君統(君主支配)を尊ぶ」方向に道(孔子の教え)を歪めた憎むべき張本人なのである。すなわち、荀子の考えが李斯(戦国時代の法家。始皇帝のときの丞相)に引き継がれ、秦の始皇帝より連綿と王朝の支配のために利用されて、朱儒(朱子学)に至ってそれがいよいよひどくなった、と言う。
したがって、二千年来の政治は秦の政治であり、みな「大盗」(大泥棒=皇帝のこと)であったと言わなければならない。二千年来の学は旬学であり、すべて郷愿(にせ君子。封建思想の儒者)であったと言わなければならない。大盗が郷愿を利用し、郷愿が大盗にうまく媚びただけである。二者は互いに結託し、すべてを孔子にかこつけてきたのである。かこつけた大盗、郷愿を捉まえて、かこつけられた孔子のことを責めたところで、どうして孔子のことがわかろうか?
つまり、論語に表れた孔子の思想と、その後長く封建制度を支えた儒学とは別物というのだ。孔子は権力者とこれに媚びる後代の儒者に利用されたに過ぎないというのが、譚嗣同の立場であり片山の是認するところ。
二千年来、儒者たちは「孔子の名を騙って、孔子の道を敗(やぶ)った」。その際に「支配の道具」として利用され、封建王朝の支配を維持したのが「三綱五倫」である。三綱とは「忠・孝・(貞)節〈君臣・父子・夫婦間の身分的秩序〉」、五倫とは「父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信」をいう。これが、支配者が目下の者を、倫理において服従させるための道具になった。
各王朝の歴代皇帝を「大盗」(大泥棒)という激しさはすさまじい。自らの政治を正当化するために、孔子の学問の真髄を盗み取ったという謂いなのであろう。明治維新以来の日本の天皇は「大盗」のイミテーションというところ。現実に、このようなやり方が敗戦まで通用し、さらにその残滓が今日まで清算されることなく生き残っていることが恐ろしい。
私は知らなかったが、中華民国憲法制定過程で「孔教問題」が論じられたという。
康有為は、儒家でありながら儒教批判の先鞭をつけた大学者だったが、辛亥革命(1911年)後の憲法に「孔教」を国教とするよう提案して論争を巻き起こした。康有為がいう「孔教」は、封建道徳の根拠となった後代の儒教とは異なった、言わば「原始儒教」としての「孔子の教え」だったのだろう。
これに、反対の論陣を張ったのが、のちに共産党創立の立役者の一人となった陳独秀だった。彼の康有為に対する反論は、儒教批判を徹底したもので、「三綱五輪は、単に後代の儒者が偽造したものではなく、孔教の根本教義と見なすべきだ、とさらに批判の度を強めた」(片山)
片山が引用する陳独秀の論が、たいへんに興味深い。
「三綱の根本的意義は、階級制度である。尊卑を分け、貴賤の別をはっきりさせるこの制度を擁護するものである。近代ヨーロッパの道徳と政治は、自由、平等、独立の説をもって大本となし、階級制度とは完全に相反する。これが東西文明の一大分水嶺なのである。」(陳独秀『吾人の最後の覚悟』1916年)
「まず西洋式の社会と国家の基礎、いわゆる平等と人権の新しい信仰(思想)を、輸入しなければならない。この新社会、新国家、新信仰と相容れない孔教に対しては、徹底した覚悟と勇猛な決意を持たなければならない。(陳独秀『憲法と孔教』1916年)
100年前の中国における憲法論争である。日本の現在の憲法状況に通じるものとして、たいへんに興味深い。示唆されるところをいくつか述べておきたい。
康有為対陳独秀の憲法制定に際しての孔教論争は、固有の歴史を憲法に書き込むべきか普遍的原理を貫徹するかの争いである。
康有為には、中華民族の誇るべき精神文化としての孔教が、深く位置づけられていたのだろう。支配の道具としての儒教ではなく、人倫の根本を貫く普遍的な倫理として孔教が間違っているはずはない、という思いが強かったに違いない。これに対する陳独秀は、孔子の教えそのものが人間を差別して怪しまない旧時代の道徳を肯定するものとして排斥の対象とした。個人の「自由・平等」を徹底すべき近代憲法の原則に適合しないと説いたのである。
いま、安倍晋三が「これが具体的改憲案」という、2012年自民党改憲草案は、陳独秀の論だけでなく、康有為のレベルにも及ばない。日本の「歴史・民族・文化」がてんこ盛りなのだ。つまりは、日本民族の固有性をもって、近代憲法の普遍的原理を限りなく薄めてしまおうとの魂胆が見え見えなのである。
しかも、日本民族の固有性の内実とは、「天皇を戴いていること」と「和の精神」以外にはない。いずれも、支配者に都合のよい旧道徳。とうてい、100年前の陳独秀の批判に耐えうるものではなく、康有為にも嗤われる類の代物。
私には、陳独秀が、どのような憲法を作るかを「思想の問題」と捉えていることが印象的である。長い中国の歴史を通じて、学問とは、人格を形成し、生き方の根本を形づくる営みであった。科学や技術の習得を学問とは言わないのだ。その文化の中で育った陳独秀が、「尊卑を分け貴賤の別を前提とする身分制度」を攻撃して、その温存につながる学問思想を否定する断固たる姿勢が小気味よい。この点について、「これが東西文明の一大分水嶺なのである」というのは、学問や思想が身分制度の否定につながることを当然とするという確信に支えられたものであろう。
「神聖なる天皇」を元首とし、「個人よりは家族を重視」し、「承詔必謹の和を以て貴しとなす」憲法を作ろうというのが、安倍晋三の願望。個人の尊厳や、自由・平等という普遍的価値を理解できない反知性というにふさわしい。憲法の理念を学ぶことは、本来的な意味で学問をすることであり、教養を深めることなのだと、あらためて思う。
引用した片山の著書は、昨年(2015年)6月の発刊。主として、孔子の教説をヒューマニズムに通じるものとして肯定的に捉え、魯迅と通底するものがあるとして、魯迅を詳説する。魯迅の儒教批判は痛烈ではあるが、これは後代の支配の道具としての儒教であって、けっして孔子の教えそのものの批判ではないとするのが片山の立場。
もっとも、魯迅の儒教批判は徹底している。『狂人日記』の中では、「狂人」の口を借りて儒教は人食いの教え、とまで言っている。「人食い」とは、体制がつくり出した儒教の倫理が、民衆を徹底して支配していることの比喩である。儒教の倫理に絡めとられて、体制の不合理に反抗しない「中国民衆の無自覚」に対する魯迅の切歯扼腕が詳細に語られている。
他人ごとではない。戦前には、直接的に民衆の精神に侵入して支配の道具となった神権天皇制を唯々諾々と受容した臣民について、そして戦後70年なお、臣民根性を捨てきれない日本の民衆の無自覚に対しても、魯迅と同様に切歯扼腕せざるを得ない。
(2016年2月8日)
12月13日である。世界に「南京アトロシティ」(大虐殺)として知られた恥ずべき事件が勃発した日。笠原十九司「南京事件」(岩波新書)と、石川達三「生きている兵隊」(中公文庫)、そして家永三郎「太平洋戦争」に改めて目を通してみる。累々たる、殺戮・略奪・破壊・強姦の叙述。これが私の父の時代に、日本人が実際にしでかしたことなのだ。陰鬱な冬の雨の日に、まったくやりきれない気分。しかし、歴史に目を背け、過去に盲目であってはならないと自分に言い聞かせる。
同時に思う。今日は、中国の民衆も78年前のこの日の事件を、怒りと怨嗟の入りまじった沈痛な気持で想い起こしていることだろう。昨年からは、今日が「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」となった。足を踏まれた側の心情の理解なくして、友好は生まれない。不再戦の固い誓いもなしえない。
笠原十九司の次の指摘が重要だと思う。
「中国では、南京事件は新聞報道だけでなく口コミを通じてやがて中国人全体に知られた。中国国民政府軍事委員会は写真集『日寇暴行実録』を発行(38年7月)して、南京における日本軍の残虐行為をビジュアルに告発した。とくに日本軍の中国女性にたいする凌辱行為は、中国国民の対日敵愾心をわきたたせ、大多数の民衆を抗日の側にまわらせ、対日抵抗戦力を形成する源泉となった。当時の日本人が軽視ないし蔑視していた中国民衆の民族意識と抗戦意志は、さらに発揚され、高められていくことになった。南京攻略戦の結果、日本軍がひきおこした暴虐事件は、中国を屈伏させるどころか、逆に抗日勢力を強化・結束させる役割をはたしたのである。
松井岩根や武藤章(いずれも、東京裁判で絞首刑)は、「中国一撃論」の立場をとった。
「支那は統一不可能な分裂的弱国であって、日本が強い態度を示せばただちに屈従する。この際、支那を屈服させて北支五省を日本の勢力下に入れ、満州と相まって対ソ戦略態勢を強化する…願ってもない好機の到来」「首都南京さえ攻略すれば支那はまいる」というもの。
現地の高級軍人の功名心が戦線不拡大方針だった大本営の意向を無視した。11月19日上海派遣軍は独断で上海から南京へ300キロ余の進軍を開始し、さらに上海にとどまるよう命令を受けていた中支那方面軍もこれに続く。首都への一撃で、日中戦争は終わる、との甘い見通しに基づいてのことである。日本のメディアも、南京が日中戦争のゴールであるかの如く喧伝し、国民もその煽動に乗った。そして12月1日、大本営も方針を転換して南京攻略を是認した。
南京は陥落した。国内は提灯行列で沸き返った。しかし、そのとき、国民政府の首都は既に長江を遡った武漢に移っていた。その後首都はさらに奥地の重慶に移ることになる。何よりも、南京攻略の一撃で、中国の戦意を挫くことはできなかった。
「一撃論」は空論に終わった。大失敗の空振りに終わった、というにとどまらない。取り返しようのない誤りを犯したのだ。内地の日本人が知らぬうちに南京大虐殺が起こり、そのニュースが世界に日本軍の残虐性・野蛮性を深く印象づけていた。やがて日本は世界からその報復を受けることになる。
「一撃論」は、「抑止論」と連続した思考である。「抑止論」が「強大な軍事力を持つことで敵国の攻撃意欲を失わしめて自国の安全を保持する」と発想するのと同様に、「一撃論」は「強大な軍事力行使によって敵国の戦闘持続の意欲を失わしめて早期に戦争を終結させる」という理屈なのだ。軍事力の積極的有効性を説く立論として同根のものではないか。どちらも、自国の強大な軍事力が、相手国を制圧することによって自国の安全が保持されるという考え方。だがどちらも、相手国の敵愾心を煽りたて、却って自国の安全を害することになる危険な側面を忘れてはいないだろうか。
南京攻略の「一撃論」は、強大な軍事力の集中行使で中国の戦意を挫くことができると考えたが、現実の結果は正反対のものとなった。
「それ(南京大虐殺)はまさに、日本の歴史にとって一大汚点であるとともに、中国民衆の心のなかに、永久に消すことのできぬ怒りと恨みを残していることを、日本人はけっして忘れてはならない。」「この南京大虐殺、特に中国女性に対する陵辱行為は、中国民衆の対日敵愾心をわきたたせ、中国の対日抵抗戦力の源泉ともなった。」(藤原彰)
との指摘のとおりである。
平和を維持するための教訓として、一撃論・抑止論の思想を克服しなければならないと思う。
なお、この事件の報道についての内外格差に慄然とせざるを得ない。
「南京アトロシティ」は、当時現地にいた欧米のジャーナリストや民間外国人から発信されて世界を震撼させた。しかし、情報管理下にあったわが国の国民がこれを知ったのは、戦後東京裁判においてのことである。」
「当時の日本社会はきびしい報道管制と言論統制下におかれ、日本の大新聞社があれほどの従軍記者団を送って報道合戦を繰りひろげ、しかも新聞記者の中には虐殺現場を目撃した者がいたにもかかわらず、南京事件の事実を報道することはしなかった。また、南京攻略戦に参加した兵士の手紙や日記類もきびしく検閲され、帰還した兵土にたいしても厳格な箝口令がしかれ、一般国民に残虐事件を知らせないようにされていた。さらに南京事件を報道した海外の新聞や雑誌は、内務省警保局が発禁処分にして、日本国民の眼にはいっさい触れることがないようにしていた。」
「南京事件は連合国側に広く知られた事実となり、日本ファシズムの本質である侵略性・残虐性・野蛮性を露呈したものと見なされた。東京裁判で、日中戦争における日本軍の残虐行為の中で南京事件だけが重大視して裁かれたのは、連合国側の政府と国民が、リアルタイムで事件を知っており、その非人道的な内容に衝撃を受けていたからであった。」(以上、笠原)
まことに、戦争は秘密を必要とするのだ。また、秘密は汚い戦争をも可能とする。今日はいつにもまして、戦争法と特定秘密保護法とが、また再びの凶事招来の元凶になるのではないかと、暗澹たる気持にならざるを得ない。冬の冷雨の所為だけではない。
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DHCスラップ訴訟12月24日控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田嘉明が私を訴え、6000万円の慰謝料支払いを求めている「DHCスラップ訴訟」。本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は全面敗訴となった。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、事件は東京高裁第2民事部(柴田寛之総括裁判官)に係属している。
その第1回口頭弁論期日は、
クリスマスイブの12月24日(木)午後2時から。
法廷は、東京高裁庁舎8階の822号法廷。
ぜひ傍聴にお越し願いたい。被控訴人(私)側の弁護団は、現在136名。弁護団長か被控訴人本人の私が、意見陳述(控訴答弁書の要旨の陳述)を行う。
また、恒例になっている閉廷後の報告集会は、
午後3時から
東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・Bで。
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちたい。
表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加を歓迎する。
(2015年12月13日・連続第987回)
同窓の村田忠禧さん(元横浜国大教授)から、「データに基づく『中国脅威論』批判」という興味深い未発表論文をメールでいただいた。小さな文字でA4・10頁びっしりというかなり長文のもの。ごく一部を摘出して概要をご紹介したい。
安倍政権は、最後まで戦争法案の立法事実を示すことができないまま、「採決を強行」した。が、この間「安全保障環境の変化」「日本を取り巻く国際環境の変化」は、再三強調された。そして最終盤に至って中国脅威論を公言するようになった。そこでは、近年の中国の国防費の伸長が語られた。村田論文は、この「国防費の伸長を根拠とする中国脅威論」に対する批判である。時宜を得た重要なものだと思う。どこかの雑誌に掲載してもらいたいと思う。
この論文の基本的立場は、小見出しを拾い出して、「事実に基づく判断の必要性」「中国の軍事費の増大は異常なのか」「経済発展と並行して考察すべき」「『防衛白書 2015』の恣意的な分析」「これから中国は軍事大国の道を歩むのか」「平和と発展こそ時代の潮流」とつなげると、ほぼご理解いただけるものと思う。
政権や右翼が喧伝する中国脅威論は、「9月1日付け『朝日新聞』に「安倍晋三首相が安全保障関連法案を審議する参院特別委員会で『中国は急速な軍拡を進めている。27年間で41倍に軍事費を増やしている』と述べた」(同論文からの引用)という如くのものである。この安倍答弁の数値の出所は「防衛白書2015」であるが、村田論文は、その数値操作のからくりを明らかにして、「客観的姿勢に欠けた、きわめて恣意的な情報操作であり、中国脅威論を煽る安倍政権の体質をよく表現している。」と言う。
この安倍答弁の対極に次のような見解があるという。
自衛隊陸上幕僚長を務めた経験のある冨澤暉氏は近著『逆説の軍事論』(バジリコ出版、2015年6月刊)において日本で盛んに喧伝されている「中国脅威論」の誤りを次のように指摘している。
「第一に、中国の軍事力を総合的に捉えずに、断片的な情報で判断していることです。例えば、中国の軍事費は20年近く10%以上の伸びを続けているという情報だけで動揺し、冷静な判断力を失ってしまう。私が自衛隊に入隊した1960年から1978年まで、わが国の防衛費も10%以上の伸び率で増加していました。(1968年だけは9.6%ですが四捨五入で10%とします)。私はまさに、その最中にいた者ですが、我が自衛隊が軍拡しているという実感を味わったことは一度もありませんでした。また、外国から『日本は軍拡しており、けしからん』と非難された記憶もありません。『自衛隊の予算も少しはよくなったものだ』と感じるようになったのは、1982年頃からの数年でしたが、当時の防衛費の伸び率は5?7%程度だったと思います。経済の高度成長期には、どんな数字も伸びるものです。その数字の背景や中身がどのようなものかを確かめてから議論しなければ何もわかりません。」(126?7頁)
安倍首相をはじめ、多くの「中国脅威論」を喧伝する面々は、この軍事専門家の意見に耳を傾けるべきではなかろうか。
軍事費の増大=軍備拡張、海外進出と短絡的に捉えると大きな判断ミスを犯す…判断ミスを犯さないようにするには、客観的な判断ができるよう、可能な限り多角的、重層的、客観的、総合的な分析を加える努力が必要である。
この基本姿勢に立って、同論文は、米・中・日・独4カ国の国防費の推移を、多角的、重層的、客観的に検証している。ストックホルム国際平和研究所が発表する各国軍事費のデータによれば、1990年を基準として2014年における国防費の伸びは、下記のとおりであるという。
米 1.99倍
中 21.12倍
日 2.11倍
世銀のPPPレート(購買力平価)に引き直すと、以下のとおりだという。
米 1.99倍
中 12.97倍
日 2.41倍
この間の、各国のGDPの伸びには次のように、著しい差異がある。
米 2.91倍
中 32.95倍
日 2.21倍
日本だけが、GDPの伸びを上まわる国防費の伸びを示していることになる。
その結果、GDPに占める軍事費の割合が、注目すべき数値となっている。
90年 00年 10年 14年
米 5.12% 米 2.93% 米 4.57% 米 3.50%
中 2.53% 中 1.86% 中 2.07% 中 2.08%
日 0.80% 日 0.97% 日 0.98% 日 0.99%
中国には、経済発展とそれによる国力の伸張に相応した以上の軍事力の拡大は見られないことになる。
なお、GDPに占める軍事費の割合の90年?14年の平均値は、
米 3.86%
中 2.02%
日 0.96%
独 1.15%
であるという。アメリカが突出した軍事国家であることが明瞭であり、このことは国民一人あたりの軍事費負担(14年)が、次のとおりであるという。
米 1891ドル
中 155ドル
日 360ドル
独 560ドル
14年の一人当たり軍事費を、中国を1とした場合、米国は12.2、日本は2.3、ドイツは3.6となる。もし日本の一人当たり軍事費を「正常」である、と仮定するなら、中国の軍事費は14年の値の2.3倍になっても「正常」の範囲内にあり、大騒ぎすることはないことになる。
軍事費は国土面積の大きさにも関係する。14年の軍事費をそれぞれの国の面積で除した値(1000ha当たり)は次の通りとなる。
米国62、 中国23、 日本121、 ドイツ130。
中国を1とすると米国2.7、日本5.3、ドイツ5.7となる。
中国は国土面積では米国とほぼ同じだが、一人当たり軍事費では米国の37%に過ぎない。むしろ中国の国土面積の25分の1ほどしかない日本の軍事費の多さが目につく。もちろん領海をも含めれば得られる値は変わってくるが、大幅な違いにはならないであろう。
同論文は、中国の軍事力の質の問題には触れるところがないが、安倍流無責任中国軍拡脅威論には、十分な反論になっているものと思う。
中国は、既に世界第二の大国になった。アメリカをも追い越すときがくる。その軍事力が規模において日本を凌駕するものとなることは、当然のことと受容せざるを得ない。その中国を「脅威」とする視点だけでは、日本の進路の安定は望めない。村田論文は、最後を次のように結んでいる。
「人民解放軍の30万人削減宣言は中国が『平和大国』として発展する方向を示したものと捉えことができる。ただし軍事費の削減は一方的に実現できるものではない。関係する国々が同一歩調を採らないと目標は実現できない。この機会に日本も積極的姿勢を示し、日中の相互信頼関係の回復に役立つ具体的措置を打ち出すべきである。」
「中国の発展は改革開放政策のたまものである。おりしも科学技術革命の進展と経済のグローバル化が全世界的規模で展開される時代と重なった。中国はこの時代の潮流に積極的に対応し、今では世界経済の重要な牽引力、エンジンになっている。隣国である日本は大国となった中国の変化、発展の影響を大いに受ける。中国の発展を日本の発展にとって『脅威』と見るのか、それとも『好機』と見るのか。安易な『軍事脅威論』に惑わされず、時代の潮流をしっかり見据え、事実に即した冷静、客観的は判断をすべきである。」
中国を礼賛するつもりはない。その人権状況には批判の目を向けたいと思う。また、いかなる国に対しても、軍拡に反対する国際世論を形成しなければならないと思う。
しかし、安倍流の中国脅威論の煽動や、これをさらに煽り立てる右翼潮流には、具体的な反論が必要であり、その点で村田論文は貴重なものになっていると思う。
(2015年9月27日・連続910回)
昨年(2014年)2月の選挙で舛添要一都政が発足して1年が経過し、今初めての舛添予算案が都議会に上程されて審議を受けている。メディアからの評判はなかなかのものとなっている。産経の記事が「共産党も高評価」と見出しを打った。酷すぎた石原慎太郎・猪瀬直樹都政に較べれば多少はマシになった、というレベルを超えた積極評価がなされている。
自・公の推薦を受けた候補者ではあったが、都議会内各派とはそれぞれに折れ合いは良いようだ。何よりも、不必要に居丈高で威圧的だった石原・猪瀬に較べて、人と接する姿勢のソフトさに好感が持てる。
着任早々の定例記者会見で、記者に対して次のように呼びかけたことが話題となった。
「みなさん(記者)も、都民、国民の代表として、外からごらんになっていただいているんで、いつも申し上げるように、どんな質問でも全く構わないんで、自由に、この会見の場で意見をいただくということが、都民の声を反映することになると思いますので、ぜひ、そのことをお願いしたいと思います」
知事本人による、「私は、石原・猪瀬とは違う」という意識的アピールとみるべきだろう。
また、次のような発言も各紙が話題にした。
「初登庁して一日仕事をしただけで、この役所は大丈夫か、とんでもないことになっているのではないかと、心配が先立ってきた。
都庁では、職員が恐る恐る知事に説明に伺ってもよいかと、私に不安げに尋ねてきた。これは驚きで、知事に対する説明などは当然行うべきである。‥これまでの知事たちが、どういう職務姿勢であったのかが、よく分かる。週に2?3回しか職場に来ないのなら、職員からレクを受ける機会も少なくなるであろうし、重要な来客とのアポも入れられないであろう。まともな仕事もせずに、権威主義的に怒鳴り散らしていたのではないかと想像してしまう。これでは、部下の士気も減退するであろう。」
(「現代ビジネス 舛添レポート」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38397?page=2)
言うまでもなく、「まともな仕事もせずに権威主義的に怒鳴り散らして、この役所をトンデモナイものにしてしまった」のは、石原・猪瀬の前任者である。舛添はこれをまともな役所にする、と宣言したわけだ。
その後も、「ぬるま湯につかった過去3代の知事の20年間は忘れていただきたい。トップがサボっていると職員に感染しますね」(昨年5月9日)や、「終わった人のことをいろいろ言う暇があったら都民のために一歩でも都政を前に進める、そういう思いでいる」(12月16日、引退を表明した石原元知事について)などの記者会見発言が続いた。
こうして舛添都政1年。公平な目で、功罪の「功」が優るというべきだろう。
2020年オリンピック準備では、「招致段階から施設整備費が大幅に膨らむことが分かり、舛添知事は『都民の理解が得られない』と競技会場計画の見直しに着手。三施設の新設を中止して既存施設の活用などを決めた。一時は4584億円に上った試算から「2千億円を削減した」と話す。」(東京)と報じられている。これは都民に好意的に迎えられている。
産経の記事を紹介しておきたい。
「舛添知事が熱心に取り組み、独自色が鮮明になったものの一つとして『都市外交』が挙げられる。これまで6回の海外出張をこなし、計5カ国に訪問。五輪への協力要請などに取り組んだ。
ただ、就任直後から続いた外遊の連続に、昨年9月の都議会本会議で、自民党の村上英子幹事長は『知事の海外出張が、それほど優先順位が高いとは思えない』と苦言を呈した。北京、ソウルの訪問では歴史認識に関する発言への対応をめぐり、『なぜ地方自治体が外交をやるのか』と都に2万件を超える意見が寄せられ、その大半が批判的となるなど、独自色がむしろ“裏目”に出る事態を招いた。
舛添知事が初めて編成を手がけた来年度の当初予算案についても、共産党が重視する非正規雇用の正社員転換や保育・介護分野の拡充に向けた予算付けがされたことから、共産は大型開発などを一部批判しつつも、『都民の要求を反映した施策の拡充が図られている』とするコメントを出した。『共産からこれほど前向きなコメントが出るのは異例だ』と、議会事務局のベテラン職員も驚くほどの内容という。」
右派メディアが右からの批判をおこなっている。最も気になるのは、知事の北京・ソウルへの訪問を、安倍政権の外交失策を補う自治体外交としての輝かしい成果と評価せず、「裏目に出た事態」としていることだ。「2万件を超える意見」の殆どは、嫌韓・嫌中を掲げる排外主義右派の組織的な運動によるものであったろうが、これを口実に自らの見解としては言いにくいことを記事にしているのだ。この点、リベラル側からの都知事応援のメッセージがもっとあってしかるべきだったと思う。わたしも都政に関心を持つ者の一人として反省しなければならない。
このところ、護憲勢力は、野中広務(国旗国歌法制定の立役者)、古賀誠(元・みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会会長、天皇の靖国参拝推進論者)、山崎拓(元自民党副総裁)、小林節(「憲法守って国亡ぶ」の著者)など保守派との共闘に熱心である。自民党改憲草案を明確に批判している舛添だって十分に改憲反対の共闘者として考慮の余地がありそうではないか。賛否いずれにせよ、誰か真剣に論じてみてはいかがか。
さて、私が最も関心を持つのは、東京都の教育行政である。とりわけ、都立校の教科書採択問題と「日の丸・君が代」強制について。明らかに、石原慎太郎という極右の政治家が知事になって東京都の教育を変えてしまった。舛添知事に交替して、正常な事態に戻る兆しがあるか。残念ながら、今のところ良くも悪くもこの点についての知事の積極的発言はなく、教育現場に目に見える変化はない。
2月24日都議会本会議の共産党代表質問で、松村友昭都議が「日の丸・君が代」強制問題を取り上げた。10・23通達に基づく教職員の大量処分についての最高裁判決が、「起立・斉唱を強制する職務命令が間接的にではあれ思想良心の制約となっていることを認め、減給と停職処分を取り消す判決を言い渡している。また、異例のこととして多くの裁判官の補足意見が都教委に対して、自由で闊達な教育現場を取り戻すよう要望を述べている」と指摘したうえ、「この最高裁判決と補足意見をどう受け止めるか」と舛添知事に見解をただした。
これに対して、知事は答弁しなかった。逃げたと言ってよい。比留間英人教育長が知事に代わって答弁し、「最高裁判決で職務命令は違憲とは言えないとされた。国旗・国歌の指導は教職員の責務だ」と強弁した。いかにも噛み合わない無理な答弁。都教委は少しも変わっていないことを印象づけた。松村都議はこの答弁に納得せず、再質問で再び知事の答弁を求めたが、またもや比留間教育長が同じ答弁を繰り返すだけで終わった。
傍聴者の報告によると、居眠りしていた保守派の都議が、教育長答弁の時だけ、にわかに活気づいて大きな拍手を送っていたという。この点について継続的に都政をウォッチしている元教員らの意見だと、舛添知事自身には「日の丸・君が代」強制の意図はなさそうだが、敢えて自民党都議団との衝突を覚悟しての「10・23通達」体制見直しの意図はなさそうだという。知事の最関心事はオリンピックの成功にあって、そのためには自民党都議団との摩擦を招く政策はとり得ないのだという解説。なるほど、そんなものか。
結局は都民の責任なのだ。石原に308万票を投じて驕らせたことが「10・23通達」を発出させた。今は、保守派の自民党都議に票を投じて、教育現場の自由闊達はなくてもよいとしているようだ。地道に世論を変えていく試みを継続する以外に、王道も抜け道もなさそうである。そうすれば、次の教育委員人事や教育長人事では、少しはマシな人物に交替できるかも知れない。あるいは、その次の次にでも‥。
石原教育行政が「10・23通達」を発したのは、初当選から4年半経ってのことだった。舛添都政における教育行政の変化ももう少し長い目で見るべきだろう。それを見極めて、私の舛添都政に対する最終評価をしたい。
(2015年3月9日)
12月13日、世界に「南京アトロシティ」(大虐殺)として知られた事件が勃発した日。そして、今年は明日に第47回総選挙の投票日を控えた日となった。
77年前の1937年7月に北京郊外盧溝橋での日中軍の衝突は、たちまち中国全土への戦線拡大となった。同年11月19日、日本軍は占領地の上海から当時の首都南京を目指して進軍を開始した。
この南京攻略作戦は、中支那方面軍司令官の松井石根(陸軍大将・東京裁判でA級戦犯として死刑)が参謀本部の統制に従わずにしたものとされ、無理な作戦計画が糧秣の現地調達方針となって、進軍の途中での略奪や暴行などが頻発したとされる。
その進軍の到達地首都南京開城が12月13日。城内外が、その後3か月にわたるアトロシティの舞台となった。日本軍は、逃げ遅れた中国兵や子ども・女性を含む一般市民を虐殺し、強姦、略奪、放火などを行った。加害・被害の規模や詳細は推定するしかないが、死者数「十数万以上、それも20万人近いかあるいはそれ以上」(笠原十九司著『南京事件』岩波新書)と推測されている。
「南京アトロシティ」は、当時現地にいたジャーナリストや民間外国人から発信されて世界を震撼させた。しかし、情報管理下にあったわが国の国民がこれを知ったのは、戦後東京裁判においてのことである。その東京裁判では、老幼婦女子を含む非戦闘員・捕虜11万5000人が殺害されたとし、南京軍事法廷(1946年に国民党政府によって開かれた戦犯裁判)は30万人が殺されたとしている。
小学館「昭和の歴史・日中全面戦争」(藤原彰)に、次の記述がある。
「当時の外務省東亜局長石射猪太郎の回想録には、『南京アトロシティ』という節を設け、現地の日本人外交官からの報告にもとづき、局長自身、陸軍省軍務局長にたいして、また広田外相から杉山陸将にたいして、日本軍の残虐行為について警告したと書かれている。実数は不明だが、膨大な件数の日本軍による残虐行為が行われ、世界の世論をわきたたせたことは、明らかな事実なのである。」
「それはまさに、日本の歴史にとって一大汚点であるとともに、中国民衆の心のなかに、永久に消すことのできぬ怒りと恨みを残していることを、日本人はけっして忘れてはならない。」「この南京大虐殺、特に中国女性に対する陵辱行為は、中国民衆の対日敵愾心をわきたたせ、中国の対日抵抗戦力の源泉ともなった。」
もって、肝に銘すべきである。
日本国憲法は、過ぐる大戦における戦争の惨禍への深刻な反省から生まれた。戦争の惨禍とは、自国民の被害だけを指すものではなく、近隣諸国民衆の被害をも含むものと解さなければならない。日本国民は、決して戦争に負けたことを反省したのではない。無謀な戦争を反省して、この次は国力を増強して用意周到な準備の下、頼りになる同盟国と組んでの戦勝を決意したのでもない。戦争そのものを非人道的なものとしてなくす決意をしたのだ。だから、日本国民の戦争被害だけではなく、加害の事実にも真摯に向き合わねばならない。
日本人にとって、戦争被害の典型が広島・長崎の原爆であり、沖縄の地上戦であり、東京大空襲であろう。加害の典型が、占領地での南京アトロシティであり、731部隊・平頂山事件・捕虜虐待であり、また従軍慰安婦であろう。
幸いに、日本の戦争被害について、これを「でっち上げだ」という声は聞かない。にもかかわらず、安倍政権誕生以来、戦争における加害の事実を否定しようとする歴史修正主義者の跋扈が目に余る。自国に不都合なものであっても歴史的真実から目を背けてはならない。
歴史修正主義は、必然的に日本国憲法への敵対的な姿勢となる。あの戦争についての反省を拒否することは、憲法の成り立ちを否定し、とりわけ国際協調と平和主義を否定することになるのだ。
安倍政権がまさしくその立場である。これに鼓舞され追随して、ヘイトスピーチの横行があり、朝日バッシングがある。北星学園への卑劣な脅迫や一連のいやがらせもこれにつながるものである。
ことは、保守か革新かのレベルではないように見える。歴史に真摯に向き合うか否かは、保革の分水嶺ではない。加害の戦争責任を認める立場は、むしろ保守本流の立場であったはずではないか。
明日の投票日に、是非とも危険な安倍自民とこれへの追随勢力に、国民のノーの審判をしていただきたいものと思う。「この道しかない」と、あの忌まわしい「いつかきた道」に再び連れ込まれることのないように。
(2014年12月13日)
本日は、久しぶりの大学時代の同窓会。東大教養学部で第2外国語に中国語履修を選択した「Eクラス」の先輩後輩がちょうど50人参集して和気あいあいのうちに歓談した。
最古参は、1951(昭和26)年入学組。49年が学制改革だから、旧制高校の雰囲気が色濃いなかでの学生生活を送った世代。その中の一人に、高名な石川忠久さんがいて、お元気に15分間のミニ講演「漢詩の面白味?その味わい方」を語っていただいた。
素材は、まず李白の「静夜思」。日本では明代の李攀竜が編纂したとされる「唐詩選」掲載のテキストが流布しているが、本場の中国では「唐詩選」の普及はないとのこと。もっぱら清代の孫洙が成した「唐詩三百首」が普及し、一般の中国人はそこからのテキストしか知らない。両テキストには、二文字の違いがあるという。
(唐詩選版)
床前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷
(唐詩三百首版)
床前明月光
疑是地上霜
挙頭望明月
低頭思故郷
両詩を比較しての「味わい方」解説のポイントは概ね次のとおり。
「唐詩三百首版を推す意見もある。『明月光』『望明月』と意識的に言葉を重ねたところに面白みがあるというもの。しかし、私は、この詩の眼目は『山月』にあると思う。山の端から出る月に目が行き、昇る月に見とれて自ずと頭を上げたものの、昇る月を見るうちに故郷を思うところとなって頭を低(た)れるというのがこの詩の趣。頭を上げるには山の端から昇る月が重要で、転句は『名月』ではなく『山月』でなくてはならない」
何しろ、斯界の権威の解説である。しかも大先輩の言。賛嘆して傾聴あるのみである。そのほかに、孟浩然、王維、杜甫の詩を一首ずつ。何ともぜいたくな15分間であった。
次いで、現役の教養学部教授の任にある後輩から、中国語クラスの現状を聞いた。
教養学部のクラス編成は第2外国語の選択で編成されている。私が在籍した当時、文系の第2外国語は独・仏・中の3語だけ。ドイツ語の既修クラスがA、未習がB。フランス語既修がC、未習がD。そして、中国語が未習のみでEクラスを作っていた。なお、理系には中国語はなく、ロシア語のFクラスがあった。1963年入学者のEクラス総勢は27名。ほぼ3000名の入学者の内、中国語を学ぼうという者は1%に満たなかったということになる。当時中国語を学ぼうという学生の多くは中国革命に大きな関心をもつ者であった。かなりの部分がその思想や実践を肯定的にとらえていたと思う。
ところが、現状の報告ではまったくの様変わりだという。理系の学生も第2外国語で中国語を選択できる。その数は今年の入学生のうちの651名と聞いて驚いたが、実はこの数は大きく減ったものだという。
中国が改革開放路線に転じて以来、大学での中国語履修者の数が飛躍的に増加した。「日中貿易の拡大に相関して中国語履修希望者が増加した」という。1994年に641名となったのが画期で、95年以後はほぼ800人台をキープ。2011年には928人になった。この年がピーク。もちろん、他の外国語履修者数を圧して中国語クラスの学生数がトップとなった。一学年の学生のほぼ30%が中国語履修を選択したことになる。かつての1%弱とは天と地の開き。
ところが、尖閣問題を契機とする日中間の軋轢と友好の冷え込みで、12年は833名、13年721名、そして今年(14年)が651名なのだという。中国語に代わって、今履修者数トップはスペイン語なのだそうだ。
学生たちの機を見るに敏なことに驚く。こんなにも、日中間の政治経済情勢が履修者数に反映するものなのだ。かつては、履修語学が教養の核を形成したとまで言われた。昔の語りぐさでしかない。日中関係の冷え込みがこんなところにまで影響しているのを残念と思わずにはおられない。
また、「東大北京事務所長」の任にある後輩から「最近の北京事情」と題しての報告もあった。これにも驚いた。中国の大学生が、いかに大規模に世界に進出しているか。うすうす感じてはいたことを、数字を上げて突きつけられた。
「最近の北京事情」の第4項目が「中国の大学生・留学生」というテーマ。レジメにこのテーマの副題として「青年層の動向は国の将来を示唆」と付されている。これは聞き捨てならない。
2013年の統計で、海外留学中の中国人留学生は110万人。日本人全留学生数の20倍の人数だという。中国学生の最大の留学先はアメリカ。最新統計で在米中国人留学生は27万人余、他国を圧してダントツの人数。在米全留学生のうち、中国人は31%を占めている。これに比較して日本はわずか0.2%。彼我の格差は62倍である。しかも、中国はなお増加傾向にあり、日本は2002年の4.7%から絶対数も割合も低落し続けている。
一方、アメリカから中国への留学生の数は、日本への留学生に比較して12.2倍。フランスから中国への留学生の数も、日本への留学生に比較してちょうど12.2倍。これがアフリカからだと28倍の差になるという。
これら国外への留学生や、外国からの留学生に接した若者たちが、将来は各国との太いパイプになるだろう。私は、現在の中国の政治体制には大いに不満であり、言いたいことは山ほどある。しかし、批判はあるにせよ。この圧倒的な存在感は否定しようがない。日本の中国敵視や中国無視は非現実的な愚策ではないか。
来年は、同窓会有志で北京に行こう、と盛りあがった。幸いに、北京大学や北京外国語大学などに有力な伝手があるというのがありがたい。彼の地で日本語を学ぶ大学生や院生と日本語で交流ができるという。政治的思惑やビジネスと離れた忌憚のない意見交換は両国の民間外交として貴重なものではないだろうか。
久しぶりに、中国の文化と、日中問題に触れたひとときであった。
(2014年11月30日)
本日は日本民主法律家協会の第52回定時総会。かつてない改憲の危機の存在を共通認識として、国民的な改憲阻止運動の必要と、その運動における法律家の役割、日民協の担うべき任務を確認した。そのうえで、この大切な時期の理事長として渡辺治さんの留任が決まった。
総会記念のシンポジウム「東アジアの平和と日本国憲法の可能性」が、有益だった。パネラーは、中国事情報告の王雲海さん(一橋大学教授)と、韓国の事情を語った李京柱さん(仁荷大学教授)。お二人とも、達者な日本語で余人では語り得ない貴重な発言だった。その詳細は、「法と民主主義」に掲載になるが、印象に残ったことを摘記する。
王さんは、中国人の歴史観からお話を始めた。「近代中国の歴史はアヘン戦争に始まる」というのが共通認識。以来、帝国主義的な外国の侵略からの独立が至上命題であり続けている。だから、中国における「平和」とは、侵略を防いで独立を擁護することを意味している。改革開放路線も、「外国に立ち後れたらまた撃たれる」という認識を基礎とした、中国なりの「平和主義」のあらわれ。
1972年の国交回復後しばらくは、「日中蜜月」の時代だった。9条を持つ日本の平和主義への疑いはなく、日本の非平和主義の側面は米国の強要によるものという理解だった。それが、90年代半ばから、日本自身の非平和主義的側面を意識せざるをえなくなり、「尖閣国有化」以後は、「核武装して再び中国を侵略する国となるのではないか」という懐疑が蔓延している。一方、日本は予想を遙かに超えた経済発展の中国に対して、「中華帝国化」「海洋覇権」と非難している。
今、日中相互不信の危険な悪循環を断たねばならない。民主々義は衆愚政治に陥りやすい。ナショナリズムを煽る政治家やそれに煽動される民衆の意思の尊重ではなく、憲法原則としての平和主義が良薬となる。民主主義の尊重よりは、立憲主義を基礎とした平和主義の構築こそが重要な局面。「市民」ではなく、法律家や良識人の出番であり、その発言と民意の啓蒙が必要だと思う。
李さんは、「たまたま本日(7月27日)が朝鮮戦争停戦協定締結60周年にあたる」ことから話を始めた。朝鮮戦争当時南北合計の人口はおよそ3000万人。朝鮮戦争での戦争犠牲者は、南北の兵士・非戦闘員・国連軍・中国軍のすべて含んで630万余名。産業も民生も徹底して破壊された。当時マッカーサーは、「回復には100年以上かかるだろう」と言っている。朝鮮半島の平和の構築は、このような現実から出発しなければならなかった。
それでも、南北の平和への努力は営々と積みかさねられ、貴重な成果の結実もある。南北間には、1991年の「南北基本合意書」の締結があり、南北の和解の進展や不可侵、交流協力について合意形成ができている。92年には「韓半島非核化に関する共同宣言」もせいりつしている。そして、国際的な合意としては、2005年第4次6者会談における「9月19日共同声明」がある。ここでは、非核化と平和協定締結に向けての並行推進が合意されている。一時は、この合意に基づいた具体的な行動プログラムの実行もあった。
しかし、今、南北の関係は冷え切ったどん底にある。平和への道は、9・19共同声明と南北基本合意書の精神に戻ることだが、それは日本国憲法の平和主義を基軸とする「東アジアにおける平和的な国際関係構築の実践過程」である。その観点からは、日本における9条改憲と集団的自衛権容認の動きは、朝鮮半島の平和に悪影響を及ぼす。
王さんも李さんも、日本国憲法9条の平和主義にもとづく外交の重要性を語った。平和主義外交とは、相互不信ではなく、相互の信頼に基づく外交と言い換えてもよいだろう。会場から、浦田賢治さん(早稲田大学名誉教授)の発言があり、「日本外交の基本路線は、アメリカ追随の路線ではなく、独自の軍事力増強路線でもなく、憲法9条を基軸とした平和主義に徹した第3の路線であるべき」と指摘された。
中・南・北・日のすべての関係国が、「他国からの加害によって自国が被害を受けるおそれがある」と思い込む状況が進展している。ここから負のスパイラルが始まる。これを断ち切る「信頼関係の醸成」が不可欠なのだ。憲法9条墨守は、そのための貴重な役割を果たすことになるだろう。9条の明文改憲も、国家安全保障基本法による立法改憲も、そして集団的自衛権行使を認める解釈改憲も、東アジアの国際平和に逆行する極めて危険な行為であることを実感できたシンポジウムであった。
(2013年7月27日)