澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

中国国歌と「香港準国歌」仁川で対決

(2022年11月24日)
 昨日に続いての、国歌の話題。香港を押さえ込んだ中国は香港の民衆に中国国歌(「義勇行進曲」)を強制した。中国への国家忠誠(即ち、習近平共産党への忠誠)を刑罰をもって強制したのだ。これが、中国の人権弾圧体質を物語っている。その中国国歌が、いま韓国でのできごとで話題となっている。

 昨日の当ブログ記事同様、こちらも国際スポーツ大会を舞台にした国歌の扱い。会場に中国国歌(「義勇行進曲」)が流れるべき時に、「香港民主化デモの歌」(「香港に栄光あれ」)が、「誤って」流されたという椿事である。

 11月13日韓国・仁川でのこと。7人制ラグビー国際大会「2022 アジアラグビーセブンズシリーズ」で、香港と韓国が対戦した。その試合前セレモニーでの国歌斉唱時に、中国国歌の伴奏が流されるはずのところで、「誤って」「香港に栄光あれ」が流されたのだ。香港当局や中国にとっては仰天動地のハプニング。香港の民衆や韓国の民主派は、内心ほくそ笑んだに違いない。

 この曲「香港に栄光あれ(Glory to Hong Kong)」は、「2019年の香港での逃亡犯条例改正案をめぐるデモをきっかけに制作された楽曲で、デモ参加者らの間で非公式の国歌のような位置づけにされている一方、香港当局や中国当局などは香港独立をあおるなどとして批判している」(Record China による)という曰く付きのもの。民主化運動の賛歌だったが、香港国家安全維持法が施行された現在は、演奏は事実上禁止されているという。それでも中国に帰属意識のない香港の民主派には、「国歌」に準ずるものだという。

 この事態に、香港政府は過剰に反応した。そうせざるを得ないのだろう。14日、韓国政府に厳重抗議した。「中国国歌の代わりに、暴力的な抗議活動や『独立』運動と密接に関連する曲が演奏されたことに強い遺憾の意を表し、抗議する」というもの。

 アジアラグビーと大韓ラグビー協会は、香港ラグビー総会および香港政府、中国政府に「心からの謝罪」を表明しているというが、問題の余波は広がっており、まだ収束していない。

 興味深いのは、「たかが国歌」についての、関係者のこの大仰な反応である。中国派で固められた香港立法会の某議員は「主催機関は直ちに謝罪したが十分ではない。これは取り返しのつかないミスだ」「国歌演奏と国旗掲揚は厳粛かつ神聖であり、いかなる場合でもミスは許されない。問題の曲は香港人に動乱の傷を負わせたものだ」などと指摘。駐香港大韓民国総領事館に手紙を送り、韓国政府に対し、主催者が過失を厳正に検討するよう促すと同時に、中国人民に謝罪するよう要請するとした。

 香港警察は、国歌条例や香港国家安全維持法(国安法)に違反しないか調査に乗り出す方針だという。香港特別行政区行政長官の李家超は、「現場でこの曲が流されたことに政治的な意図があることは誰もが知っている」「本件が香港国家安全維持法や国歌法に違反するかどうか徹底的に調査を行う」「警察は十分に経験を積んでおり、調査の進展に応じて適切に対処する」と述べている。

 また、政府報道官は、「国歌はわが国の象徴だ。大会主催者は、国歌に正当な敬意が払われるよう保証する義務がある」と述べたという。もっと正確には、こう言いたいのだ。

 「国歌はわが国の象徴だ。我が国の国歌を疎かにすることは絶対に許さない。大会主催者は、我が国の国歌を疎かに扱ったことに、もっと恐縮して見せなければならない。中国国歌には大国中国にふさわしい、特別の敬意が払われてしかるべきなのだから」

 国旗や国歌には常に、こういう七面倒臭さと胡散臭さがつきまとう。

果たして、中国にジャーナリズムは存在するか。

(2022年11月18日)
 昨日、タイのバンコックで、3年ぶりとなる日中首脳会談が実現した。「両首脳は、今後の日中関係の発展に向けて、首脳間も含めあらゆるレベルで緊密に意思疎通することで一致した」と報道されている。結構なことだ。習近平とも、プーチンとも、金正恩とも、機会があればではなく、機会を作って旺盛な対話を重ねることが大切だ。笑顔で握手できればもっとよい。懸案解決の合意ができなくても、合意の形成に向けて協議を継続すること自体が重要な意味をもつ。外交は、とにもかくにも対話から始まるのだから。

 もちろん、昨日の会談が両国間の懸案を解決するものではない。穏健なNHKニュースも、「尖閣諸島をめぐる問題などの懸案が残る中、今後、関係改善を具体的に進められるかが課題となります」「岸田首相は、中国が日本のEEZ=排他的経済水域を含む日本の近海に弾道ミサイルを発射したことなど日本周辺の軍事的活動に深刻な懸念を伝えるとともに、台湾海峡の平和と安定の重要性を強調しました。」と報道している。笑顔での対話の舞台に、懸案事項解決の糸口を探らねばならない。

 本日の毎日新聞朝刊トップは、もう少し突っ込んで、「首相は沖縄県・尖閣諸島を含む東シナ海情勢や、中国による弾道ミサイル発射など軍事的な活動に『深刻な懸念』を表明し『台湾海峡の平和と安定の重要性』を強調した」「岸田首相は中国での人権問題や邦人拘束事案などについて日本の立場に基づき、申し入れをした。日本産食品に対する輸入規制の早期撤廃を強く求めた。」などと報じている。日本側が中国との関係で抱える、懸案事項はいくつもあるのだ。

 この会談が中国側では、どう報じられているか。中国事情に詳しい知人が「習近平・岸田文雄日中首脳会談の新華社報道」を送信してくれた。次のような添え書きがある。「今回はマイクロソフトのワードにある翻訳ソフトを利用しました。原文が先で日本語訳は後になっております。以前よりかなり進歩した翻訳結果が出ている気がします。」

 ややたどたどしい日本語だが、新華社の報道の内容はほぼ分かる。驚いたのは、「習氏は」で始まる部分が圧倒的な分量で、「岸田文雄氏は」の部分は、4分の1もなさそうである。その全文(訳文のママ)が次のとおり。

「岸田文雄氏は、昨年 10 月に電話に成功し、新時代の要求に合致した日中関係の構築に合意したと述べた。現在、様々な分野での交流と協力が徐々に回復しています。 日中は隣国として、互いに脅威をもたらさず、平和に共存する必要がある。
 日本の発展と繁栄は中国と不可分であり、その逆も同様である。
 日本は、中国が自らの発展を通じて世界に積極的に貢献することを歓迎する。 日中協力は大きな可能性を秘めており、両国は地域及び世界の平和と繁栄に重要な責任を負っており、日本側は日中関係の健全かつ安定的な発展を達成するために中国と協力する用意がある。」

 これに、主語不明の次の文章が続いて終わる。

 「台湾問題については、日中共同声明で日本側が行った約束に変化はなかった。 中国との対話とコミュニケーションを強化し、日中関係の正しい方向を共にリードしたいと思います。」

 これでは、日中間の懸案事項はまったく存在しないがごとくではないか。日本側の安全保障や人権問題、とりわけ台湾海峡や尖閣の問題についての切迫した問題意識は中国国民に伝わるはずもない。

 一昔前のことだが、シンガポールの新聞記者で、日本語が上手な陸培春(ルー・ペイ・チュン)さんからアジア各紙のジャーナリズム事情について話を伺ったことがある。韓国・台湾・香港・タイ・インドネシアなどの話を聞いた後、「中国のジャーナリズムはどうなんでしょうか?」と聞いた。彼は怪訝そうな顔をして、「中国にジャーナリズムは存在しません」との記憶に残る一言。フーム。なるほど。

 新華社の記事は党が、国民に知らせたいことだけを伝えているのだ。情報の統制によるマインドコントロールではないか。

 念のために、習近平発言報道部分も、掲載しておく。これが中国流のメディアのあり方なのだ。

 「習近平国家主席は現地時間 11 月 17 日午後、タイのバンコクで日本の岸田文雄首相と会談した。
 習氏は、今年、中国と日本は国交正常化 50 周年を記念すると述べた。
 過去 50 年間、双方は 4 つの政治文書と一連の重要な合意に達し、様々な分野での交流と協力が実りある成果を挙げ、両国の国民に重要な幸福をもたらし、地域の平和、発展、繁栄を促進した。 中国と日本は隣国であり、アジアと世界の重要な国であり、共通の利益と協力のための多くのスペースを持っています。 日中関係の重要性は変わらない。
 中国は、戦略的観点から二国間関係の方向性を把握し、新時代の要求に合致した日中関係を構築するために、日本側と協力する用意がある。
 習氏は、双方が誠実に接し、信頼を交わし、中国と日本の 4 つの政治文書の原則を堅持し、歴史的経験を総括し、互いの発展を客観的かつ合理的に捉え、「パートナーとして、互いに脅威を与えない」という政治的コンセンサスを政策に反映すべきであると強調した。歴史、台湾、その他の主要な原則の問題は、二国間関係の政治的基盤と基本的な信義に関係しており、その約束を堅持し、適切に対処しなければならない。
 中国は他国の内政に干渉せず、いかなる口実で中国の内政に干渉も受け入れない。

 習氏は、中国と日本の社会システムや国情は異なっており、双方は互いに尊重し、疑念を払拭すべきであると強調した。
 海洋・領土紛争については、合意された原則的な合意を堅持し、政治的知恵を示し、相違を適切に管理するための責任を担うべきである。双方は、地理的近接性、人的交流、政府、政党、議会、地方、その他のチャネル間の交流と交流、特に長期的な視点で青少年交流を積極的に行い、相互の客観的かつ前向きな認識を醸成し、人々の心と心の共通性を促進するべきである。
 習氏は、両国の経済相互依存は高く、デジタル経済、グリーン開発、金融・金融、医療、年金、産業チェーンの安定的かつ円滑な運営の維持など、対話と協力を強化し、相互利益とウィンウィンの状況を実現する必要があると指摘した。
 両国は、それぞれの長期的な利益と地域共通の利益に焦点を当て、戦略的自律性、良好な隣人関係、紛争との対立に抵抗し、真の多国間主義を実践し、地域統合プロセスを促進し、アジアを発展させ、構築し、地球規模の課題に共同で取り組むべきである。」

これが、非文明国家・中国の刑事司法だ。

(2022年10月30日)
 文明とは、権力統御の達成度をいう。野蛮とは、統御されない権力が猛威を振るう時代状況の別名である。文明は、権力の横暴を防止して人権を擁護するために、権力統御の制度を整えてきた。法の支配、立憲主義、そして権力の分立、司法の独立…等々。

 人権が、最も厳しく権力とせめぎ合うのは、国家が刑罰権を発動する局面においてのことである。権力は、国民を逮捕し勾留し起訴し刑罰を科すことができる。場合によっては、生命さえ奪う。その手続は厳格に抑制的に定められなければならない。そのようなハンディを権力に課すことで、脆弱な人権はかろうじて守られる。適正手続の保障、弁護権の確立、黙秘権、裁判の公開、推定無罪の原則…、等々が文明社会の基本ルールである。文明は、このような制度を整え適切に運用して権力の暴走を抑制する。人権という究極の価値を守ろうとしてのことである。

 我が国の刑事司法制度やその運用が、十分に成熟した文明の域に達しているわけではない。「人質司法」、「調書裁判」と批判もされ揶揄もされる実態を嘆かざるを得ない。しかし、中国刑事司法と比較する限りにおいては、格段に「文明的」であると評し得よう。我が国の司法制度をあのようにしてはならないという反面教師として、中国の刑事司法をよく知ることが有益である。

 野蛮ないしは非文明国家の反人権的刑事司法制度とその運用による危険の典型を中国に見ることができるが、このほど、その渦中にあって苛酷な実体験をした日本人の詳細な報告が話題となっている。

 毎日新聞が、その当事者を取材して、本日まで3日連続の報告記事を掲載した。「邦人収監」というタイトルのルポ。意義のある貴重な記録である。

上 北京空港、白昼の拘束 高官との雑談「スパイ容疑」
https://mainichi.jp/articles/20221028/ddm/007/030/095000c

中 友好の現場まで監視 取調官「中国研究は不要」
https://mainichi.jp/articles/20221029/ddm/007/030/090000c

下 繰り返される「洗脳」 共産党礼賛の歌唱、歩行訓練も
https://mainichi.jp/articles/20221030/ddm/007/030/111000c

 ルポの対象となったのは、鈴木英司氏。「日中青年交流協会」という団体の理事長という立場の方だという。同氏は中国をたびたび訪れ植林活動に取り組み、中国側から表彰されたこともあり、共産党の対外交流部門、中央対外連絡部とも交流していたという。

 その彼が「スパイ活動」の嫌疑で拘束され「収監」されて苛酷な取り調べで自白を強要されて、起訴された。形式だけの裁判で有罪とされ、懲役6年の実刑判決を受けて収監された。今月11日刑期を終えて出所し日本に帰国している。彼が語る詳細で貴重な体験は、戦慄すべき内容である。

 時系列を整理すると、概略以下のようである。氏は、「居住監視」という名目の苛酷な監禁生活を7か月間強いられている。24時間、6時間交替の二人の見張り役から同室で監視されるという苛酷な状況。カーテンは閉ざされ、太陽光を見ることが許されたのは、この7か月の間に、15分間だけだったという。正式の逮捕と起訴は、この監禁のあとに行われている。

2016年7月15日 身柄拘束・「居住監視」での苛酷な取り調べ
2017年2月16日 逮捕手続
2017年5月   起訴
2017年7月   公判開始(非公開)
2019年5月   一審判決・懲役6年の実刑
2020年     控訴審判決・懲役6年の実刑確定 下獄
2022年10月11日 出所、帰国

以下、幾つかの苛酷な人権侵害の実態を抜き書きする。

「居住監視」という監禁の苛酷さ

 氏は、帰国直前、北京空港近くで屈強な男6名に取り押さえられ、目隠しをされたまま某所に強制連行される。
 そこは、「内装は古びたビジネスホテルのよう。洗面所、トイレ、シャワーがある。部屋の四方で監視カメラがレンズを光らせている。

 弁護人を依頼することは禁じられた。日本大使館に連絡を取るよう再三にわたり要請し、鈴木氏の記憶では7月27日になってようやく大使館員が訪ねてきた。だが、用意された面会室に向かうと、例の取調室の3人組がいるではないか。映像を撮影され、鈴木氏が拘束された容疑について少しでも触れると注意された。大使館員の話では、現在の身柄拘束は「居住監視」と呼ばれる中国の法に基づいた手続きだという。実態は監禁だ。大使館員はこう告げた。「長期戦になります」

 取り調べは続いた。調べが終わっても、本は読めず、テレビもない。紙やペンの使用も禁止。話し相手はおらず、食事とシャワーの時間以外は暗闇でただ、じっと座っているだけ。頭がおかしくなりそうだった。拘束された日にうっとうしいくらいだった太陽が、ひたすら恋しい。一度でいいから見たい。拘束から約1カ月たったある日、その思いを老師(取調官の中心人物)に伝えると、「協議するから待て」と言われた。

 翌朝、老師が「15分だけならいい」と許可した。窓から約1メートル離れた場所に、椅子がぽつんと置かれていた。座ると太陽が視界に入った。「これが太陽かあ」。涙が出てきた。もっと近くで見たい。窓際に近寄ろうとすると、「ダメだ」と叱られた。窓の近くからは建物の周囲が見えるからだろう。すべてが秘密に包まれた場所だった。「終わり」。15分後、男の無情な声が廊下に響いた。

 監禁は長期にわたり続いた。室内にカレンダーや時計はなく、ペンや紙の使用も許可されなかったため日記をつけることもできない。だんだんと今日の日付さえ分からなくなってきた。室内は冷暖房がきいているため、季節を感じる機会もない。

抵抗しきれず署名

 新たな建物の地下にある取調室に入れられると、前日に取り調べをした制服の男とたばこの女がいた。スパイ容疑で正式に逮捕され、この日が17年2月16日だと知らされた。還暦の誕生日は既に数日前に過ぎていた。

 同室者はおおむね2、3人いた。久々の話し相手に心がおどった。ありがたいことに、窓にカーテンはかかっていない。空には冬の太陽が雲の隙間(すきま)から遠慮がちに顔をのぞかせていた。半年前に15分だけ太陽を見せてもらって以来の「再会」だ。

 スパイ容疑を認める内容の供述調書を見せられ、制服の男にこう要求された。「署名しなさい。拒否してはならない」。「基本的な人権もないのか」と抵抗したが無駄だった。しぶしぶ署名した。鈴木氏は17年5月、起訴された。

弁護をしない弁護人

1審の公判は17年8月に始まった。鈴木氏は無罪を主張したが、公選弁護人は「初犯で重い事件ではないので軽い刑にしてほしい」と述べた以外、ほとんど何もしてくれない。同室だった最高裁の元判事はこう言った。「中国の弁護士なんて皆、そんなもんだ」

 私選の弁護人を雇うことも考えたが、40万元(約820万円)を支払っても意味が無かった人がいるとの話を聞き、あきらめた。証人申請はすべて却下され、裁判はすべて非公開。19年5月に1審で懲役6年の実刑判決を言い渡された。

 中国は2審制だ。鈴木氏は上訴したが20年11月、懲役6年の実刑が確定した。判決は、鈴木氏が「中国の国家の安全に危害をもたらした」と指摘した。

刑務所では、洗脳教育

 鈴木氏は日本で言う刑務所に当たる「北京市第2監獄」に収容された。中には外国人用の施設があった。スパイ罪だけでなく、他の事件の囚人も収監されている。まず始まったのが「新人教育」だ。

 ♪没有共産党就没有新中国(共産党がなければ新しい中国はない) 共産党辛労為民族(共産党は民族のため懸命に働く)

 共産党の革命歌をいやというほど歌わされる。中国語が読めない人にはアルファベットで記した歌詞が配られた。

 約5週間の新人教育が終わった後も「洗脳」は続いた。毎日、中国国営中央テレビが制作する英語ニュースを見せられる。共産党史、日中戦争、朝鮮戦争などを描いた番組や映画では、共産党がいかに中国人民を救ったかが描かれていた。

 10月11日、出所の日が来た。早朝、身支度を整え、北京市第2監獄に別れを告げた。当局が用意した車で空港まで送られ、6年3カ月ぶりに北京を離れた。

 成田空港に着き、電車を乗り継いで住み慣れた実家までたどり着いた。拘束前は96キロあった体重。量ると、68キロまで落ちていた。

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 この貴重な記録。剥き出しの権力とはいかなるものであるかを教えるだけではない。勾留期間の制限、弁護人選任権、裁判の公開、裁判官の独立、調書裁判の排除…等々の手続の重要性を噛みしめなければならない。

経済大国中国の、度しがたい人権後進国性。

(2022年10月22日)
 本日、第20回中国共産党大会が閉幕。胡錦濤強制退去の一幕も含めて、面白くもおかしくもないシラケたセレモニー。要するに習近平一強独裁体制を追認し、さらに習近平個人崇拝路線確認の儀式。一党独裁にも辟易だが、個人崇拝となるとカルト並みの不愉快さ。

 かつて、毛沢東の権力集中と個人崇拝に鄧小平が異を唱えたとき、私は事情よく分からぬまま「社会主義の正統に修正主義派の横槍」と解した。今となっては、不明を恥じるばかり。だが、その開明派・鄧小平も、天安門事件では民衆に銃口を向けることをためらわず、人権と民主主義の芽を摘んだ。以来中国は、社会主義の理想も民主主義の理念もない、専制と拝金主義社会に堕したまま今日に至っている。

 改革開放政策が始まった当時には確かな希望を感じた。中国が外部世界に開かれ、人と物と情報の流通が繁くなれば、水が高きより低きに流れて落ちつくように、自ずから中国の民主化も進展するだろうと楽観しのだ。が、この期待は見事に外れた。

 中国は経済的には興隆し発展した。しかし、政治的自由は育たなかった。そもそも民意を反映する選挙制度がなく、相も変わぬ一党独裁。国内少数民族の弾圧が続いている。人権は無視され、言論の自由も、信教の自由も、三権分立も、裁判の公開原則すらない。経済大国ではあっても人権後進国と言わざるを得ない。

 鄧小平の言葉として知られる「黒い猫でも白い猫でもネズミを捕るのが良い猫だ」論。改革開放政策の合理性の説明として耳にした。目的さえ見失わなければ手段にこだわる必要はないの比喩だが、目的と手段の内容の理解次第で、どのようにも解釈ができる。

 「資本主義でも社会主義でも、役に立つならどちらでもよい」「私的利潤追求活動が貧富の差を拡げるとしても、社会の富を増すのだから肯定してよい」として、「先富論」を肯定したと理解した。

 大事なことは、けっしてこれを政治原則の理解としてはならないことである。「民主主義だろうと専制だろうと、人民を喰わせることができればどちらでもよい」「究極の目標は国家の富の蓄積である。そのために民主制が有用であればこれを採用し、独裁がより合理的であればそちらを採用する」「人民の自由の獲得という条件が成熟するまでは、一党独裁でも個人崇拝でも『良い猫』である」などと言ってはならない。
 
 人権・民主主義は、手段的価値ではない。それ自体が目的的価値なのだ。他のどんな究極的目標をもってしても、人権・民主主義をないがしろにしてはならない。「人権・民主主義にはバリエーションがある。中国では中国式の人権・民主主義を実践する」などと詭弁を弄する姿勢は醜悪というほかない。
 
 好意的な報道では、高度成長に成功した鄧小平時代が終わり、中国の伝統とマルクス主義をミックスした「中国式現代化」を目指す「習近平時代」が本格的に幕を開けた、という。
 
 鄧は経済が遅れた中国では資本主義的手法が許される初級段階が少なくとも100年は必要だと考えた。これが、社会主義の旗を降ろさずに資本主義経済を進めることの方便となり、不均等発展を容認する「先富論」をもなった。
 今大会での習の報告は、「なお初級段階にある」と触れただけで「長期」は消えた。代わりに「中国式現代化」「時代に適合したマルクス主義の中国化」という言葉が登場した。こうして、「先富論」は、「共同富裕」というスローガンに置き換えられることになろう。

 だが、こうも報道されている。「鄧は、毛沢東に権力が集中し個人崇拝を生んだことを反省して、『任期制』を採用し、『集団指導体制』を強めた。そのどちらも、習近平によって破られた」。こうして、習近平に権力が集中し、習欣平個人崇拝が生まれることになる」

 なんとも憂鬱な中国状況である。

日中国交「正常化」から50年。様変わりの中国とどう付き合うべきか。

(2022年9月29日)
 日中国交「正常化」から50年である。1972年の9月29日、北京で日中両国の首脳が共同声明に署名した。日本は「過去の戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感し深く反省する」とし、中国は「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄」した。これでようやく、「戦争状態の終結と日中国交の正常化」が実現した。20代だった私は、歴史が真っ当な方向に動いたと素直に感動したことを覚えている。

 私は学生時代から中国に人類の希望を見ていた。中国共産党の道義性を高く評価してもいた。50年前の時点で、その気持ちはなお健在だった。日本が、「反動・国民党政権」の台湾と手を切って、唯一の合法政権である北京政府と国交を樹立すべきは当然のことと考えてもいた。田中角栄・大平正芳がそこまで踏み切ったことが嬉しかった。確実に新しい時代が始まる、しかも両国にとっての明るい時代が。屈託なくそう思った。私だけではなく、60年代に学生生活を送った世代の多くが同じ思いではなかったか。

 その後半世紀を経て、なんと事態は様変わりしてしまったことだろうか。私の対中国の思い入れも確実に変わらざるを得ない。とりわけ衝撃的だったのは天安門事件、そしてそれに続く中国共産党の「断固たる民主化運動に対する弾圧」の姿勢である。さらに、チベット、新疆ウイグル、そして香港などに典型的に見られる強権的な剥き出しの人権弾圧。人権や自由や民主主義を否定する、この党とこの政権。文明世界にありうべからざる非文明の異物が世界を大きく侵蝕しつつある。50年前の不敏を恥じ入るばかりである。

 それでも、中国の地理的な位置は変わらない。隣人として交流せざるを得ない。どうすれば、上手な付き合いができるだろうか。

 一昨日(9月27日)の毎日新聞朝刊1面に、「日中 対話を重ねる以外にない」という河野洋平(元衆院議長)の見解が紹介されている。「対話を重ねる以外にない」という、その姿勢に賛意を表明して、要点を引用したい。

 「1972年の日中双方の人的往来は約1万人。それがコロナ禍前の2019年には1200万人になった。両国の関係は緊密になっている。にもかかわらず現在の両国関係が厳しいのは、政治の責任だ。

 香港や新疆ウイグル自治区での人権問題は看過できない。だからといって力で中国に言うことを聞かせることは難しい。なにができるかと言えば、やはり対話をする以外にない。今、一番欠けているのが政治的な対話だ。

 習近平国家主席発言に、米国をはじめ世界中の国が警戒感を持った。多民族国家をまとめるために旗印をあげただけだと主張する中国人もいる。実際に話し合ってみないとわからない。会って、話をして、『本当はどうなんだ』と言うべきだ。

 日中は国交正常化の際の共同声明で「お互いに覇権を求めない」と約束した。日本はそうした話をできる立場にある。それをせずに米国と一緒にどこまでも行く、米国のお使いのようなことをやっていれば、対話の雰囲気を自分で壊しているようなものだ。

 「自由で開かれたインド太平洋」という構想がある。中国包囲網と言ってはいないが、そういう意味があるのだろう。しかし、中国を包囲すれば対抗意識が出てきて、本当の秩序維持はできない。中国をサークルに入れて話し合わなければ真の平和は維持できない。包囲するのではなく対話をする。力で押さえつけるのではなく、問題は平和的に解決するというのが日本の国是のはずだ。戦争をしないために命がけで努力するのが政治家の務めだ。

 殴った方は忘れても、殴られた方は覚えている。国交正常化の際に中国は戦争賠償請求を放棄した。先の大戦で日本がどれほど大きな被害を中国の人たちに与えたかということは忘れてはいけない。

 正常化で問題がすべて解決したわけではない。日本ではよく「小異を捨てて」と言うが、捨ててはいけない。小異は残っている。小異については爆発しないように手当てをしながら、解決に向けていつまでも努力を続けることが大事だ。」

 さすがに立派な発言だと思う。中国共産党の人権弾圧の姿勢には批判をしつつも、中国を敵視することなく、粘り強く対話を重ねるほかに道はないというのだ。同感するほかはない。

 私が、再び中国に人類の希望を見たり、中国共産党を見直して高く評価することはないだろう。しかしまた、中国の人々や文物を嫌ったり憎んだりすることもありえない。日中両国は、意識的に対話を継続しなければならない。国家も、国民も。 

人権侵害の指摘は内政干渉ではない ー 国連ウイグル報告書への中国反発に思う。

(2022年9月2日)
 「鳥のまさに死なんとするや、その鳴くや哀し。人のまさに死なんとするや、その言うや善し」という。名言の一つだろう。人の引き際の言葉は、真実を語るものという意味だが、引き際にならなければ語りにくい真実もある、ということにもなる。

 私は何度か、定年間際の裁判官から思い切ったよい判決をもらった経験がある。裁判官が有形無形の圧力に抗してその良心を貫くのは、なかなかの難事なのだ。そしてこのことは、どうやら日本の裁判官に限った特別の事情ということでもなさそうだ。

 国連人権高等弁務官バチェレの5年の任期が一昨日8月31日までのことであった。正確にはその任期切れは、ジュネーブ現地時間深夜12時。その10数分前に、バチェレは中国の新疆ウイグル自治区における人権侵害疑惑に関する報告書を公表した。中国の有形の圧力に抗してのこと。事態は、幾重にも深刻といわねばならない。

 バチェレは今年5月23?28日に訪中し、滞在中に新疆の刑務所や職業技能教育訓練センターだった施設を視察し、任期中に報告書を発表する方針を示していた。その言は、かろうじて守られた。

 報告書は46ページ。中国政府の公式文書や統計、それに衛生画像やウイグル族・カザフ族らの男女40人へのインタビューなどを元に作られているとのこと。

 同報告書は、中国政府がテロ対策や「過激派」対策として、新疆ウイグル自治区で深刻な人権侵害を行っていると指摘した。中国政府には「恣意的に自由を奪われた人は直ちに釈放されるべきだ」「深刻な人権侵害の継続、または再発を防止するために迅速な対応が必要」として、13項目にわたる勧告がなされている。

 翌9月1日、国連のグテレス事務総長の報道官は定例記者会見で、この国連人権高等弁務官事務所の報告書で示された勧告を「中国政府が受け入れるよう事務総長は強く望んでいる」と明らかにしている。

 報告書は、多数のウイグル族らを収容した同自治区の「職業技能教育訓練センター」について、「(収容経験者への調査の結果)自由に退所できたり、一時帰宅できた人は一人もいなかった」と指摘した。ウイグル族らは「恣意(しい)的かつ差別的に拘束されている」とした上で、同センターへの収容は「自由の?奪だ」と批判。「人道に対する罪に相当する可能性がある」との見解を示した。

 報告書では、収容を経験した人たちのインタビューが紹介されている。2ヶ月から2年間に及ぶ期間の間、施設から出ることを禁じられたほか、手足を椅子に縛りつけられて通電した警棒で殴られたり顔に水をかけられながら尋問されたりしたという。さらに共産党を賛美する歌を「毎日、できるだけ大きな声で、顔が真っ赤になり血管が浮き出るまで」歌うよう強要されたという証言もあった。
 レイプを含む性的暴行があったと話す人もいた。何が起きたかの説明もないままに集団の前で「婦人科検診」が実施され、「年配の女性は恥じ、若い女子は泣いた」こともあったという。

 これに対する中国の反応が凄まじい。「でっちあげ」と「内政干渉」が反発の柱である。中国の張軍・国連大使は「政治的な目的を持って作られた嘘だ。人権高等弁務官は西側諸国の政治圧力に屈するべきではない」などと述べている。

 中国外務省の汪文斌副報道局長は1日の定例記者会見で「報告は偽情報のごった煮であり、違法かつ無効だ。OHCHRが一部の国外反中勢力の政治陰謀に基づいてずさんな報告をまとめたことは、改めてOHCHRが発展途上国を圧迫し、虐げる米国や西側勢力の共犯者となっていることを示す」と批判。報告書について「60カ国以上の国家が公表に反対した」と指摘し、「不法で無効」「海外の一部反中勢力の政治的なたくらみに基づくでっち上げの報告」「国連を代表するものではない」と主張した。国連側も、約40カ国から公表に反対する書簡を受け取ったとしている。

 なお、中国では同日、報告書について報じたNHK海外放送のニュース番組の放映が中断されたと報じられている。中国メディアはこの件について報道を行っておらず、国内では報告自体を抹殺する構えだという。

 中国が人権侵害の指摘に反発することは興味深い、やはり恥ずべきこととは思っているわけだ。だから、反論は「事実無根のデッチ上げ」だということになる。ならば、事実を全て公開すればよいではないか。あの天皇制帝国も、リットン調査団の調査を妨害することはしなかった。バチェレ報告に疑義があるなら、再度の国連調査を積極的に受け入れるべきだろう。

 そして、お決まりの「内政干渉批判」だ。国連加盟国である中国が、国連の人権活動に内政干渉というのは恥ずべき発言である。そもそも、人権とは国境を越えた普遍性に支えられた法的価値である。むしろ、国家と対峙し、常に国家による侵害に瀕している。その人権侵害国家が、人権擁護を使命とする国際機関に、介入するなという図式は克服されなければならない。

 国際法上は、1993年国連世界人権会議における「ウィーン宣言」が人権の普遍性を確認している。中国の国連に対する「内政干渉批判」は、臆面もなく人権後進国であることを曝け出しているに等しい。中国が世界から、大国にふさわしい敬意を求めたいとするなら、自国民への人権侵害は根絶しなければならない。少なくとも、「内政干渉批判」をあらため、他国のジャーナリストの取材も自由にさせるべきであろう。

「邪教」はとうてい許せない。しかし、「サタン」はもっと怖い。

(2022年7月31日)
 安倍晋三の銃撃事件以来、旧統一教会の反社会性がクローズアップされ、自民党とりわけ安倍派の政治家とこの反社会的組織との癒着が大きく問題視されている。

 私も、統一教会を徹底して批判しなければならないと思ってはいる。しかし、これを権力によって弾圧してしまえ、法人格を取り消せということにはいささかの躊躇を感じる。戦前の天皇制政府による宗教弾圧を連想し、権力の暴走を懸念するからだ。そう、私は何ごとによらず優柔不断なのだ。

 一方で、果断極まりないのが中国当局である。昨日(7月30日)配信の共同通信記事によれば、中国は「旧統一教会は『違法な邪教』」とし、「安倍氏銃撃で一掃の正当性強調」なのだそうだ。これだけの見出しでは少々分かりにくいが、「中国共産党はとっくの昔に、統一教会を邪教として一掃済みである。今回の安倍銃撃事件で、党の正しさが証明された」ということ。

 中国当局が統一教会を、非合法の「邪教」(カルト)と認定したのは1997年のことだという。そのことによって、日米と違って、中国は統一教会の自国への浸透を防ぎ得た。この当局の対応は正しかったと宣伝しているわけだ。ゼロコロナ政策を思い起こさせるこのやり方に、強権的な宗教政策がより強まると懸念する声も出ているという。

 中国には、「中国反邪教ネット」というサイトがある。もちろん、事実上公安当局が運営している。安倍銃撃事件以来、そのサイトでは、代表的な邪教として扱われる気功集団「法輪功」と並んで、旧統一教会を批判する記事が多くなっているという。

 共産党系の環球時報(英語版)は14日付紙面で「安倍氏暗殺は中国のカルト一掃の正しさを示した」と強調。「(山上徹也容疑者が)もし中国で暮らしていれば、政府は彼が正義を追求するのを助け、この宗教団体を撲滅しただろう」とし、日米などは「中国の(カルト排除の)努力を『宗教上の自由への迫害』だとゆがめている」と反発した。

 これは注目に値する記事ではないか。中国政府(共産党)は、宗教団体に悪徳商法や高額献金授受の事実あれば、躊躇なく『この宗教団体を撲滅した」というのだ。中国政府(共産党)は、そうすることが「正義」と信じて疑わない。「中国の(カルト排除の)努力を『宗教上の自由への迫害』だとゆがめて」はならない、という立場なのだ。

 だから、共同配信記事は、示して示してこう締めくくっている。

 「中国では一党支配の下、憲法が記す信教の自由は『ゼロに近いのが実態』(中国人カトリック専門家)との指摘もある。非合法化された法輪功や新興宗教だけでなく、プロテスタント系家庭教会なども抑圧されてきた。弾圧を受けた法輪功メンバーを支援してきた弁護士は『日本の旧統一教会の問題は、非公認の宗教活動を一層弾圧する良い口実を政府に与えた』と分析した。」(共同)

 以上のとおり、中国(共産党)は統一教会を「邪教」として、弾圧も撲滅も躊躇しない。一方、統一教会の側は、反共(反共産主義)を教義としており、その教義によると、中国共産党は「サタン」とされている。

 自民党と癒着し信者からは財産と真っ当な人生を奪った「邪教」と、人権と民主主義の弾圧をこととしてきた「サタン」と。どちらも唾棄すべき存在だが、暴力装置を駆使しうる「サタン」の方がより怖いというべきだろう。たまたま、本日の毎日新聞朝刊のトップ記事は、「数千枚の顔写真が語る、ウイグル族抑圧 新疆公安ファイルを追う」「当局、宗教色を問題視」である。その内容は、中国当局のイスラム教徒に対する弾圧。とても、近代国家のやることではない。 

「独裁の中国共産党」とはまったく別物の、「民主主義を守る日本共産党」へのご支持を

(2022年7月1日)
 「猛暑日」が1週間続いて7月になった。参院選はいつも暑さの中だが、今回は経験したことのない連日の酷暑の中での選挙である。候補者や運動員のご苦労は並大抵ではない。しかし、酷暑の中でも極寒の中でも、選挙は大切だ。苛政は虎よりも猛し。選挙のない社会は酷暑よりもはるかに危険である。

 きょう7月1日は「香港返還25周年」の記念日だという。記憶すべき日ではあるが、とうてい祝賀すべき日ではない。現地では、習近平も出席しての「香港民主勢力弾圧成功記念式典」が挙行された。つくづくと思う。歴史は真っ直ぐには進まない。いや、もしかしたら歴史に進歩など期待すべきではないのだろうか。

 1997年7月1日、香港が中国に返還された際には、「一国二制度」が50年間保証された。「二制度」とは、「独裁と民主主義」の共存ということであり、「言論の自由のない社会制度と、言論の自由が保障された社会制度」のことであり、「選挙のない社会と、選挙が機能している社会」ということでもある。

 当時はこう考えられていた。何にしろ長い々いこれからの50年である。半世紀も経てば、中国の社会も民主化するだろう。そうすれば、中国が香港化することになって、無理なく「一国一制度」が実現するに違いない。ところが、この見通しは見事にはずれた。世界は中国共産党を見誤った。中国共産党そんな甘い存在ではなかったのだ。

 勝負は50年をまつことなく、25年で決着した。独裁の側が、民主主義を飲み込んだのである。香港の政治的自由も言論の自由も徹底して弾圧され、香港は政治的自由・言論の自由のない中国本土並みの社会になった。香港の自由な教育も蹂躙され、愛国・愛党を強制される教育制度に変えられた。そして、香港は中国本土と同様の実質的に選挙のない社会となった。

 本日の「香港民主主義弾圧完遂祝賀式典」で、習近平は「香港の民主主義は中国返還後に花開いた」とスピーチしたという。耳を疑う。言葉が通じないのだ。同じ「民主主義」がまったく別の意味で使われている。正確にはこう言うべきであろう。

 「中国は、返還後の香港の民主主義には、ほとほと手を焼いたが、ようやくこれを叩き潰すことに成功した。中国は常に香港市民に対して、党と政府への忠誠を要求してきたが、香港市民はようやくにして自分たちが住む街の主人が、党と政府であることを受け入れるに至った。一国二制度は、長期にわたり維持されなければならない。それが、中国の主権、安全保障、発展という利益に奉仕するものである限りではあるが」

 「民主主義も大切だが、愛国はもっと大切だ。愛国者であるかの審査を通過しないと選挙に立候補できないというのは当然のことで文句をいう筋合いはない。政治的自由も、言論の自由も、デモの自由も、教育も、全ては愛国の枠をはずれたらアウトだ。もちろん、『愛国』とは、国を指導する立場の中国共産党に対する態度も含むことを忘れてはならない」

 こういう野蛮極まりない中国共産党と名称が似ていることで、迷惑を蒙っているのが、日本共産党である。名称は似ているが、中身はまったく異なる。「独裁と民主主義弾圧の中国共産党」に対して、「自由・民主主義・人権 花開く社会めざす日本共産党」なのだ。中国共産党の非民主的体質を最も鋭く批判しているのが、日本共産党にほかならない。

 分かり易いのは、天安門事件に対する日本共産党の態度だ。事件翌日の1989年6月5日付「赤旗」の一面トップは、「中国党・政府指導部の暴挙を断固糾弾する」という日本共産党中央委員会声明を掲載している。以来、この姿勢が揺らぐことはない。

 また、昨年1月の日本共産党は綱領を改定して、中国の大国主義、覇権主義に対する批判を明確にしている。中国については、核兵器禁止条約への反対など核兵器問題での変質、東シナ海と南シナ海での覇権主義的行動、香港や新疆ウイグル自治区などでの重大な人権抑圧の深刻化などを厳しく批判している。

 日本共産党のめざす社会主義・共産主義は、資本主義のもとでの自由・民主主義・人権の成果を全面的に受け継ぎ、花開かせる社会です。日本では、今の中国のような一党制、自由な言論による体制批判を禁じるような抑圧は、断固として排することを明確にしています。

 意図的に中国共産党の反民主反人権の体質に対する批判を、日本共産党に重ねるごとき、悪宣伝に惑わされてはならない。日本共産党は、自由・人権・平和・民主主義・法の支配という普遍的価値を重んじる、最も徹底した民主主義政党である。

 参院選での投票は、ぜひ、その日本共産党に。

スマホのアプリが突然「赤」となって、デモ参加者は隔離され追い払われた。

(2022年6月17日)
 これは恐ろしい話である。今のところは中国のエピソードだが、もしかしたら明日の人類全体の様子を物語っているのかも知れない。

 ジョージ・オーウェルのデストピア小説「1984年」は、1948年に書かれたものだという。まだその頃は、権力が個人を完全に掌握する技術がなかった。今や、現実は「1984年」をはるかに追い越している。ウィグルだけでなく、中国全体がデストピア化していると言って過言でない。中国共産党の権力が人民一人ひとりの動静を把握し統制しているのだ。その一端を見せつける事件が生じた。

 複数の報道を総合するとこんなことである。
 中国には「健康コード」というスマホのアプリがあって、事実上全国民にその所持が強制されているという。名目上の目的はコロナ対策で、このアプリにはPCR検査の結果や感染拡大地域への滞在歴などが記録され、その分析結果から各自の感染リスクが《緑、黄、赤》の3段階で表示される。商業施設、レストラン、公共交通機関の出入りの際に提示を求められ、これが「赤」になると強制的に隔離措置となる。

 事件は、河南省で起きた。省都・鄭州市の投資会社「河南新財富集団」傘下の複数の地方銀行がデフォルトの状態に陥り、およそ8000億円規模の預金が焦げ付いて取り付け騒ぎが起こっているという。6月11日以後、抗議のデモに参加するため各地から河南省に到着した預金者の「健康コード」に異変が起きた。この預金者たちのアプリが突如隔離措置が必要な「赤色」となり、彼らは次々とホテルや学校に閉じ込められ、あるいは省外に追い返されてしまった。

 メディアは、「河南省の地元当局が抗議活動を止めるため、預金者のコードの表示を意図的に変えた疑い」を指摘し、SNSには「地元政府は法律も無視するのか」「国全体を牢屋にする気か」などという怒りの声があふれたと報道されている。

 中国共産党機関紙・人民日報系の環球時報は15日付で「健康コードの科学性、厳粛性を絶対に守らなければならない」と題した論評を掲載。この中で「濫用された可能性があるかどうかは、決して小さな問題ではない」とし、地元当局に早急な調査を求めたという。

 しかし、である。このアプリの管理者は、河南省内の人物のみならず省外の人物の行動を把握できる立場にあった。そして、預金引出を主張する人々を拘束する権限を行使できるのだ。さらに、銀行のデフォルトに抗議する人々を蹴散らそうとする意図をもっている。こんなことができるのは、共産党以外にはない。しかも、限りなく中央に近い党組織。

 どれだけの人が、どのようなタイミングで、どのように強制隔離されたか。党が事件の張本人であるかぎり、全体像はつかみようがない。天安門事件がよく物語っている。

 中国では全ての人の行動経路がビッグデータとして管理されていると言われてきた。全ての人の経済活動歴、交友歴、政治的思想的な行動歴も把握されているということである。当該銀行に対する債権者を把握し、その中の河南省来訪者を選択して、そのアプリを「赤色」にする。その上で嫌も応もなく強制隔離してしまう。権力が国民を管理している社会では雑作もないことなのだ。

 反党・反体制の傾向をもつ、党の覚えめでたくない人物を365日・24時間監視することは、今やいとたやすいこと。どんな本を読み、誰と会い、どんな集会に出て、 どんな発言をしてきたか、その情報を蓄積するだけではない。場合によっては、特定のターゲットをあぶり出して、監禁することも追い払うこともできるのだ。瞬時にデモ参加者を特定し、これに警告を発し、あるいは強制隔離もできる。今回の事件は、そのことを明らかにした。

 人類の未来は明るいだろうか。はたして、地球環境はどこまでもつだろうか。また、戦争が人類を滅亡させることはないだろうか。そして、強大な権力とIT技術の発達は、徹底して人民の自由を剥奪してしまうのではないだろうか。私には、鄭州市でのデモ参加者のアプリの「赤」は、人類の未来に対する赤信号のように見える。心底、恐ろしい。
  

中国に「天安門の母」、ロシアに「ロシア兵士の母」。そして、わが国に「九段の母」。

(2022年6月4日)
 1989年6月4日早朝、北京天安門広場とその周辺に集まった無防備・無抵抗の群衆に人民解放軍が襲いかかった。「人民からは針一本、糸一筋も盗まない」ことで、人民からの信頼を得てきた中国共産党の人民解放軍であった。人民から生まれ、人民とともにあるはずの人民解放軍。その人民解放軍が人民に銃を向け発砲したのだ。何のためらいも、容赦もなく。

 天安門広場に集まった大群衆は、党と国家の民主化を求めていた。この人たちが銃撃され、夥しい死傷者を出した。殺戮されたのは広場に集まった学生や市民ばかりではない。民主主義や人権という文明の普遍的価値も虐殺された。以後、中国は民主主義や人権とは無縁の野蛮国となる。そして人民解放軍は、人民の軍ではなく、党幹部の私兵となった。

 この日、私の中での重要な何かが崩壊した。だんだんとそれが、明確になってきたように思う。私は楽観主義者だった。人類の歴史は、人権の尊重・民主主義・平和を軸に、進歩し発展するに違いない。長い目で見れば、中国も人権・民主主義の社会になるだろう。しかし、天安門事件の衝撃は、私の楽観論を打ち砕いた。永く、中国に理想の未来を期待していただけに、落胆は大きかった。

 この衝撃の「事件」だけでなく、事後の対応にも許しがたいものがある。我々が、日本の保守勢力を「歴史修正主義」と非難していることを、中国共産党もやったのだ。事件そのものがあたかもなかったごとくに、事実を語る言論は統制され、歴史は塗り替えられようとしている。これが天安門以後の中国共産党の実像である。

 中国には「天安門の母」というグループがある。天安門事件で子供を殺害された親らの会。1日、この「母の会」がネットに声明を発表した。平和的なデモに軍を出動させ「自国民を虐殺した」と非難し、改めて真相や責任所在の解明を共産党・政府に求めた。

 中国共産党は、民主化を求めた人々の運動を『反革命暴乱』とし、「党と政府は旗幟鮮明に動乱に反対して社会主義国家の政権を守った」と言っている。中国共産党にとって、人民の民主化運動は『反革命暴乱』なのだ。これが、権力の本質なのだ。

 ところで、中国には「天安門の母」があるように、ロシアには「ロシア兵士の母」という会があって政府にもの言うことで知られている。かつて、日本には「靖国の母」「九段の母」があった。いずれも、流行歌としても歌われている。下記は、歌謡曲「九段の母」の2番の歌詞である(作詞・石松秋二)。発表は1939年、太平洋戦争開戦の2年前である。

 空をつくよな 大鳥居
 こんな立派な おやしろに
 神とまつられ もったいなさよ
 母は泣けます うれしさに

 「天安門の母」は息子の死に憤り、「ロシア兵士の母」も軍の横暴にものを言う。ところが、「九段の母」は息子の死を「母は泣けます うれしさに」というのだ。恐るべし、天皇制のマインドコントロール。

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