(2022年1月13日)
言葉は重層的な意味をもっている。しかも、時代や場所や局面によって変化する。なかなかに言葉の選択は難しい。
たとえば「国民」である。国家や権力に対峙する「国民」、主権者としての「国民」、基本的人権の主体としての「国民」と、安定した無難な言葉だと永く思っていた。ところがあるとき、「ことさらに日本国籍を持たない人々を排除した差別用語ではないか」と指摘されて考え込んだ。実は、それ以来ずっと考え込んで結論は出せないままである。
「国民」に代えて「市民」がふさわしい場合もあるが、権力との対峙のニュアンスが弱い。差別臭のない言葉としては「住民」だが地域的に限定される。「大衆」は好きな言葉だが、独特の手垢がついている。個人的には「民衆」や「庶民」を使うことが多いが、どうしても使える局面は限られるし、ニュアンスは軽くなる。
さて、本命は「人民」である。圧制に抗議し蜂起して隊列を組むのは、「人民」でなくてはならない。「人民」こそ、権力や資本や天皇制に対する批判者であり、批判的行動の主体である。さらに、人民こそは、国境や資本のくびきから解放された、人類的な普遍性を持ち、しかも差別とは無関係な人々の「集合」を意味する。
さはさりながら…、「人民」は余りに崇高で神聖な左翼用語として、消化しつくされたのではないか。「人民」という言葉は、いまや重すぎる言葉として、使える局面が極めて狭小になりつつある。「人民」という言葉の責任ではない。闘うべき「人民」が、闘うべき機会を逸して齢を経るうちに、廃用性機能障害を起こしてしまったのだ。状況が劇的に変化して、闘う主体とともに「人民」も復活することを期待したい。
朝日新聞(デジタル・1月9日)に、漢字の本場中国における「人民」の事情についての興味深い説明がある。(社説余滴)「「人民」って一体誰のこと?」という古谷浩一解説員の記事。要約すれば、以下のとおり。
私は1990年代の初めに中国の大学に留学して、中国語を学んだ。先生はとても立派な人だった。新疆出身のウイグル族の女性で、中国語専攻の20代の学者(のタマゴ)。母語と違って中国語を客観的に見つめる視座があったからだろう。漢族の先生が口にしないようなことも丁寧に教えてくれた。
例えば「人民」という単語。中国では反体制以外の人とか、「敵対勢力」ではない人といった意味を持つ。「では、私たちは人民でしょうか」と尋ねると、先生が困った顔をしていたのをよく覚えている。
こんな昔話をするのは、昨今の「中国式の民主」をめぐる議論で、中国が強調するのが国民や公民や市民ではなく、あくまで「人民の民主」という概念なのが気になったからだ。
習近平(シーチンピン)国家主席は昨年10月の演説で、「民主主義は飾り物ではなく、人民が解決を必要としている問題を解決するためのものである」と言っている。この解決すべき「問題」のなかに、新疆で迫害される少数民族の住民や、人権や表現の自由を求めて拘束された人たちが訴える「問題」はたぶん含まれないのだろう。なぜならば彼らは敵対勢力であり、「人民」ではないのだから。
敵と見なされた人々は封殺される。そして、それは「ごく少数をたたくのは大多数を守るため。独裁は民主の実現のため」(白書『中国の民主』)だと正当化されてしまう。
香港では立法会の選挙から民主派が排除された。それでも中国の高官が「民主的だ」と強弁するのは、敵を取り除いた選挙がまさに「人民の民主」の実現だからにほかならない。
なるほど、ところ変われば言葉も変わる。私は「人民」を、体制や権力と闘う志の高い人々を指す言葉と思っていた。しかし、習近平の用語法では「人民とは体制派」なのだ。しかも、「権力が特定の人々を除外し差別する」ために使われる「人民」なのだ。「人民」だけではない。中国共産党のいう、「民主」も「人権」も「自由」も「平和」も、そして「社会主義」も吟味を要する。一見言葉が同じようで、実はその意味が正反対ということもあるのだ。
(2022年1月4日)
暮に所用あって上野に一度、銀座に一度外出の機会があった。驚いたのは、そのときの人混み。どこもかしこもマスクをした人々の、密・密・密である。怖じ気づいて、正月三が日はこもりっきりであった。これから来るであろう第6波が恐ろしい。
それでも、正月である。人並みに、今年の希望や抱負も語らねばならないところだが、さして元気が出ない。弁護士として受任した仕事を、丁寧に誠実にやり遂げること、という当たり前のこと以上にはさしたるものはない。
強いて抱負らしいものを挙げれば、DHCスラップ訴訟の顛末を書物にして刊行したい。スラップというものの害悪と、この害悪をもたらした者の責任を明確にし、スラップを警戒する世論を高めるとともに、スラップ防止の方策までを考えたい。これは、私の責務である。
そして、当ブログを書き続ける。来年の3月末で、このブログは連載開始以来満10年となる。2023年3月31日に「自分で祝する、10年間毎日連続更新達成」の表題で記事を掲載するまで多分書き続ける。これは執念である。
DHC・吉田嘉明以外にも、このブログにはこれまで複数のクレームを経験している。当ブログに市井の庶民からの苦情はあり得ないが、私の批判が目障り耳障りという様々な人はいるのだ。そのためにこそ、このブロクを書き続ける意味はある。
もっとも、毎回長文に過ぎるという批判を頂戴し続けてきた。今年こそは、短く読み易く、分かり易く、鋭い記事を書きたいもの。
今年のブログのテーマは、何よりも国会内外における改憲策動と阻止運動の動きが中心とならざるを得ないが、その次には沖縄に注目したい。復帰50年である。そして知事選。辺野古新基地建設継続の可否も正念場となろう。既に、米軍基地からのコロナ感染が話題となっている。その県民の怒りの中での名護市長選が間近である。今年の沖縄には目が離せない。
そして中国である。2月には北京冬季五輪が開催される。ナチス・ドイツ以来の大々的な国威発揚オリンピックとなることだろう。そして、IOCが商業主義の立場からこれに迎合する醜悪な事態となることが予想される。
今秋には、「中国共産党第20回大会」が開催される。党結成100周年で20回目となる。党規約上5年に1度の党大会だが、文革期には13年も開催されなかったこともあるという。今回の党大会が注目されるのは、習近平独裁体制の確立という点である。
「18年の憲法改正で、2期10年までとされていた国家主席の任期制限を撤廃。総書記に任期制限はないため、不文律の「68歳定年」さえ破れば、習氏は来年以降も最高指導者の地位を保つことができる。(時事)」というのが、メディアの解説。習はこの大会で、異例の総書記三選を果たすことになるだろうというのが、報じられているところ。この独裁、ブレーキの利かないものになりはしまいか。
中国共産党政治理論誌「求是」が新年に、昨年11月の習近平演説の内容を明らかにした。習は、1989年の天安門事件について「深刻な政治的動乱に対する断固たる措置で党と国家の生死と存亡がかかる戦いに勝利した」と評価し、天安門事件を朝鮮戦争と同じ国家の危機だったとして事態を収拾できなければ「中華民族の偉大な復興の過程も絶たれていた」とまで述べたという。
この演説は天安門上から、広場の群衆を見下ろす形で行われた。30年前に、民主化を求める多くの人々が犠牲になった場所である。そこで、習は民主主義を求める民衆への弾圧を「戦いに勝利」と言ったのだ。「戦い」の相手は丸腰だ。武器を持たない、市民と学生。これに銃を向け発砲したことを、「やむを得なかった」「忸怩たる思い」「胸が痛む」と言わずに、「戦いの偉大な成果」としてあらためて誇った。
偉大な党の統制に服さない市民には同様に銃を向けるという宣言以外のなにものでもない。恐るべき大国の恐るべき指導者による、恐るべき姿勢。これが、当分続くことになるのだ。
(2021年12月25日)
クリスマスである。キリスト教徒にとっては神の子生誕の聖なる日であり、キリスト教文化圏では社会全体が習俗としての安息日となる。香港は長くイギリスの統治下にあって、クリスマスは祝日なのだそうだ。その安息の時期を狙ってコソドロ同然に、各大学の天安門事件関係のモニュメントが撤去された。罰当たりと言うべきだろう。
正確に言えば、直接に撤去したのは各大学当局である。しかし、この時期一斉に各大学が自分の意志で行ったはずはない。香港政庁の差し金と見るべきが当然の判断。そして、香港政庁が北京の指示のままに動いていることは天下周知の事実。つまりは、中国共産党が天安門事件批判の痕跡を、香港から消し去ろうとしてのことなのだ。歴史修正主義は、いまや日本政府の専売特許ではなくなった。中国よ、お前もか。そう嘆かざるを得ない。
AFPやロイターが伝えるところでは、昨24日香港の2大学が天安門事件を象徴する像とレリーフを撤去した。一昨日23日には、香港大学(HKU)が天安門事件で殺害された民主化運動参加者を追悼する記念像「国恥の柱」を構内から撤去している。
香港中文大学(CUHK)当局は、24日未明「民主の女神像(Goddess of Democracy)」像を構内から撤去した。天安門広場に建てられたオリジナルを模して作成されたもので、高さ6.4メートル。香港民主化運動の象徴となっていた。また、嶺南大学(Lingnan University of Hong Kong)も、ほぼ同時刻に天安門事件を象徴するレリーフを撤去した。いずれも、陳維明(Chen Weiming)氏が制作したものだという。
注目すべきは、嶺南大学の撤去理由。「本学に法的、安全面のリスクをもたらす恐れがある構内の物品」として撤去という。権力側の意図を語って分かりやすい。
クリスマスイブのため、両大学とも構内に学生はほとんどいなかった。
ロイターは、元学生の「ショックだ。民主の女神像は大学の自由な雰囲気を象徴していた」とのコメントを紹介している。今さらの「ショック」か、という思いも拭えないが、民主の女神像の撤去は、権力の弾圧が大学の中にまで及び、「大学の自由な雰囲気喪失の象徴」となったと言うことなのだろう。
昨日撤去されたレリーフと民主の女神像の両者を制作した陳維明氏はロイターに対し、「作品に傷が付けば大学を訴える」「残忍な弾圧の歴史を葬り去りたいのだろう。香港に今後もさまざまな見方が存在することを認めないのだろう」と語っている。
香港はかつて、「中国」で唯一天安門事件を語ることができる場であった。毎年6月4日には大規模追悼集会が行われ、天安門事件の資料を集めた「六四記念館」も開かれていた。しかし、香港の自由が北京の専制に飲み込まれる過程で、集会もできなくなり、今年6月「六四記念館」も閉鎖を余儀なくされた。そして、追い打ちをかけての大学構内からのモニュメント撤去なのだ。
北京在住で、香港を現地取材したジャーナリスト宮崎紀秀の今年6月2日付レポートの一部を紹介させていただく。
中国で民主化を求める学生らが武力鎮圧された天安門事件。6月4日で、32周年となるのを前に、事件の資料を集めて公開していた香港の「六四記念館」が、2日、閉鎖を決めた。
六四記念館は、1989年6月4日に、中国の民主化を求める学生らを人民解放軍が武力鎮圧した天安門事件に関する写真や遺品などの資料を集め、公開していた。その目的は事件を記録し、風化させないためだ。
中国本土では、天安門事件についてはいまだにタブー。中でも事件で子供を失った親たちは、事件の真相究明と、公式な謝罪や補償を求めているが、中国政府は、「事件は解決済み」として、その声を無きものとしている。事件を公に語ることが許されない中国で、若い世代は事件の詳細をほとんど知らない。
一方、一国二制度の下で一定の言論の自由が保たれてきた香港では、これまで事件の検証なども比較的自由だった。六四記念館もその1つだが、中国が香港への統制を強め、「香港国家安全維持法」を施行するなど、そうした環境が変わりつつある。
六四記念館は、香港へ観光にくる中国本土の若者らが、天安門事件に触れることのできる数少ない場でもあった。
死亡した19歳学生の(弾痕の)ヘルメット。
事件で、当時19歳の息子を失った張先玲さんは、息子の被っていたヘルメットを記念館に寄贈した。北京に住む張さんは、自由に香港に行けるわけではない。しかし、息子の形見である、(額から左後ろに弾が貫通した)弾丸の跡が残るヘルメットを記念館に寄贈した理由について、こう話していた。
「博物館にあれば、多くの人に見てもらえます。銃を撃って人を殺したのは事実であるという証拠になりますから」
一連の出来事は、殺された事実の証拠を残したいとする犠牲者の側と、殺した証拠を消したいとする権力者の側の争いなのだ。歴史をありのままに見てくれという権力に弾圧された人々と、歴史を修正しなければならないとする権力に連なる人々とのせめぎ合い。民主主義は、歴史の修正を許さないことを原則とする。「中国的民主」はいかに?
(2021年12月15日)
1931年12月10日、国際連盟理事会は「日支紛争調査委員会」の設置を決議し、次いでリットン以下5委員を任命した。世に言う「リットン調査団」の結成である。同調査団は精力的に、東京を皮切りに、上海、南京、漢口、北平(北京)を視察のあと、満洲地域を1か月間現地調査し、再び東京を訪問。その後北京で報告書を作成している。連盟理事会に完成した報告書を提出したのが32年10月1日である。
1933年3月24日連盟総会は42対1(反対は日本)で同報告書を採択し、同日日本は国際連盟を脱退する。この調査団報告に対する歴史的な評価は種々あろうが、日本が国際連盟の調査に協力したことは特筆されてよい。費用の半額を負担してもいる。
「中国の人権状況」をめぐって、これを指弾する勢力と批判を拒否する中国に追随する勢力とに、世界が分断の色を濃くしているいま、90年前の故事に倣って「国際連合中国人権状況調査委員会」を設置すべきではないか。そのような国際世論を盛り上げたい。
現代版「リットン調査団」は、「バチェレ調査団」になる。中国政府は、「バチェレ調査団」のウイグルと香港の調査に無条件に協力しなければならない。
国連人権高等弁務官ベロニカ・ミチェル・バチェレ・ヘリア(1951年9月29日生)は、女性初のチリ大統領を2期務めた政治家だが、外科医であり小児科医でもあるという。その父は、アジェンデ政権の協力者として独裁者ピノチェットに殺害された人、自身も拷問を受けた経験があるという。
中国の人権弾圧が問題となって国連も腰をあげ、バチェレ人権高等弁務官が現地を訪問しての調査を申し出た。中国政府も、さすがに「NO」とは言えない。しかし、何をどのように調査するのか、調査の条件にこだわって、「協議」は続いているというが、調査は実現していない。
この間、メディアには、主としてウィグル人亡命者からの生々しい人権侵害被害の報告が重ねられ、その都度、中国当局の「事実無根」「捏造」「うそにあふれ、中国をたたくための政治的なたくらみ」というお決まりの反論が繰り返されてきた。
しかし、米バイデン政権の本気度は高く、新疆産製品を強制労働によるものとしてボイコットを呼びかけ、さらには綿製品に限らないすべての新疆産製品の輸入を禁止し、新疆産の原材料を使用する製品でないことの証明を求めるというところまで来ている。
影響の大きい例では、太陽光パネルの材料であるシリコンがある。その生産量は世界の8割を中国が占め、その半分ほどがウイグルで採掘されているという。これをアメリカは、原料としての輸入をしないだけでなく、製品としてもウィグル産シリコン不使用を証明できない限り輸入は認めないという。
この動きは、おそらく世界に広まるだろう。中国にとっての打撃となる。中国はその先手を打って、「バチェレ調査団」を受け入れると宣言すべきではないか。
「バチェレ調査団」は、各国の政府関係者だけでなく、ジャーナリストと人権NGOの活動家を加えるべきだ。そして、被害を訴えた亡命者を帯同しなければならない。調査は2班に分けて、ウィグル各地と香港を対象とする。期間は最低2年はかかるだろう。中国当局が見せたくないところを見なければならないし、しゃべらせたくない現地の人の声を聞く工夫がなくてはならない。
ところで、中国当局の公式見解は、「人民網日本語版」で手軽に確認できる。
http://j.people.com.cn/
その12月10日欄に、記者の質問に答える形で、汪文斌・外交部報道官がこう語っているのが、興味深い。
「新疆関連の問題は人権問題などでは全くなく、テロ対策、脱過激化、反分離主義の問題だ。中国政府が法に基づき暴力テロに打撃を与えるのは、まさしく新疆各民族人民の人権を最もよく守っていることになる。
香港地区は中国の香港地区であり、香港地区の事は完全に中国の内政だ。中国政府が国家の主権と安全、発展上の利益を守る決意は確固不動たるものであり、「一国二制度」の方針を貫徹する決意は確固不動たるものであり、香港地区内部の事へのいかなる外部勢力による干渉にも反対する決意は確固不動たるものだ。」
要するに、「新疆と香港の問題は、アンタッチャブルだ。他国に余計なことは言わせない」という、居丈高な姿勢。なんという余裕のない、なんという批判拒否体質。これでは、世界の良識からの理解を得られない。水掛け論を繰り返すのではなく、「バチェレ調査団」の調査を受け入れれば、中国政府側の利益にもなるのではないか。
(2021年12月13日)
アメリカのバイデン政権が、「価値観を共有する」友好国を招いて「民主主義サミット」を開催し、これに中・露など「価値観を共有せざる」諸国が反発している。連合国対枢軸諸国の対立を再現するようなことがあってはならないが、人権や民主主義の蹂躙に対する必要な批判を遠慮してはならない。
色をなした体で中国が反論を試みていることが興味深い。さすがに、批判は身にこたえるのだ。「民主主義なんぞ何の価値があるものか」と開き直ることはできない。「偉大な習近平の指導に従うことこそが、人民の利益に適うのだ」と言いたいところだが、そのような言葉は呑み込まざるを得ない。そして、おっしゃることは、「結党以来100年、中国共産党は民主を貫いてきた」である。へ?え、そうだったんですか。ちっとも知りませんでした。
思い起こせば、孫文「三民主義」に「民権主義」があり、毛沢東に「新民主主義論」(1940年)がある。民主主義をないがしろにするとは言えないのだ。とは言え、革命中国においても、党の支配を制約する「民権」「民主」を貫いてきたとは、意外も意外。
中国に民主主義があるのか、固唾を飲んで見守ったのは1989年6月天安門事件のときだった。その後、中国に民主主義の片鱗でも残されていないか、固唾を飲んで見守ったのは2020年香港の事態である。1989年に絶望し、2020年には、その絶望を確認するしかなかった。
にもかかわらず、中国はこう言っている。「中国にも民主主義はある。但し、それは英米流のものではない」「中国の近代化では、西洋の民主主義モデルをそのまま模倣するのではなく中国式民主主義を創造した」「中国は独自に質の高い民主主義を実践してきた」。
要するにに、「民主主義」に「中国式の」という修飾を付加すると、別物になってしまうのだ。
昨年(2020年)6月、国連の人権理事会でカナダなど40か国余が共同して、「中国に対して、国連高等弁務官の新疆入りの容認を求める共同声明」を発表した。その共同声明は新疆での人権弾圧問題でけでなく、「国家安全維持法(国安法)下での香港の基本的自由悪化とチベットでの人権状況を引き続き深く懸念している」とも指摘していた。
これに対して、ジュネーブの中国国連代表部の上級外交官Jiang Yingfengは、共同声明が指摘した問題の存在を否定して「政治的な動機」に基づいた干渉だと非難し、香港問題については、「国安法制定以降、香港では混乱から法の支配への変化が見られている」と述べた。(ロイター)
https://jp.reuters.com/article/china-rights-un-idJPKCN2DY137
香港では、権力が市民の言論の自由を奪い、出版の自由を妨害し、権力を批判する新聞を廃刊に追い込み、中国共産党の統制に服さない結社を解散させ、デモさえ許さず、恣に活動家を逮捕し起訴し有罪判決を言い渡している。この事態を中国共産党は、「混乱から法の支配への変化」というのだ。
中国共産党にとっては、民主主義とは「望ましからざる混乱」に過ぎない。民主主義が必然とする市民の自由な諸活動を徹底して弾圧し、押さえ込むことこそが「あるべき法の支配」だというのだ。中国共産党の恐るべき本心、そして恐るべき詭弁である。
最近中国の民主主義に関する論説を読んでいると、なんとなく既視感を禁じえない。戦前の神権天皇制政府を持ち上げた、あの恐るべき無内容ながらも、延々たる美文によく似ているのだ。
あのバカげた神権天皇制の権威主義的政治体制についてさえ、「五箇条のご誓文を淵源とする民主主義の精神で貫かれている」と持ち上げる倒錯した論説もある。また、万世一系の天皇は「臣民を赤子としてこの上なくお慈しみあそばされた」という愚論もある。これが、中国共産党の民主主義論によく似ているのだ。
万世一系を中国共産党の無謬性に置き換え、天皇を習近平に、臣民を人民に読み替えれば、実はたいして変わらない。両体制とも、これこそが臣民(人民)の利益を擁護するための最高の政治体制であることを疑っていない。民主主義なんぞは非効率であるばかりでなく間違ってばかり。そう言えば、八紘一宇の思想は一帯一路に似ているではないか。
民主主義が、画一化され定型化された政治理念でないことは当然である。しかし、「文化は多様」「文明は多様」「それぞれの国や民族の歴史や伝統は多様」というレベルで「民主主義も多様」と言えば、明らかに民主主義否定の詭弁でしかない。重要なことは、民主主義を支えている具体的な諸制度や自由の検証である。「中国的民主主義」は、とうていそのような検証に耐え得る代物ではない。
(2021年10月27日)
「法と民主主義」の今月号(21年10月号【通算562号】)が、本日発行となった。
特集の表題は、「アジアの各地で闘う民衆ーそれぞれの課題と法律家の役割」というもの。本号の編集専任者は私である。
下記のURLをご覧いただきたい。
https://www.jdla.jp/houmin/index.html
そして、お申し込みは下記URLから。
https://www.jdla.jp/houmin/form.html
香港・中国・ミャンマー・タイ・フィリピン・アフガンなどの緊迫した情勢を、それぞれの国に深く関わっている方にご報告いただいた。総選挙を間近にしての今この各国の深刻な報告に目を通すと、不満だらけの日本ではあるが、それでも不十分ながらもこの日本に根付いている民主主義を貴重なものと思わざるを得ない。
各国の闘いが問うている課題はこの上なく重い。人権や自由を獲得するための権力との苦闘の歴史は、アジアの各地で今まさに進行中なのだ。そして、各国の状況の報告のあとに、各国個別の枠を越えた民衆の闘いの連帯や法律家の課題についての論稿を寄稿いただいた。特集全体で、「法と民主主義」らしい構成になったと思う。
「法と民主主義」・10月号の特集企画 リード
いま、アジアの各地で、多様な「民衆の闘い」が展開されている。闘いの背景も要因もその態様も一様ではないが、それぞれの人権課題・民主主義課題が、どの国にあっても凶暴な権力との深刻な対立によって、熾烈な民衆の闘いを余儀なくされている。そして、一国での闘いはいずれも困難な局面にあって、国際的な連帯と支援を求めている。
また、それぞれの闘いに法律家が関わり、一定の役割を果たしながらも、法律家自身も苦境の現状にある。現実は苛酷であり、人権や民主主義を獲得するための歴史の苦悩は、今なお進行中であることを実感せざるを得ない。
本特集は、この各国の実状をご紹介するとともに、国際法の課題や、国境を越えた法律家の連帯や支援の可能性についての問題提起とし、われわれが何をなしうるかを考える契機としたい。
今号の特集は、各論からの順序となる。まず、読者に関心の深い香港の民主主義の苦境と、その背後にある中国の立憲主義についての2論稿。併せて読むことで、顕在化した現実の厳しさと、さらにその奥にある厳しさの源泉を理解することになろう。
◆死にゆく「一国二制度」──香港で何が起きているか………鈴木 賢
◆「憲法あって憲政なし」の国で………石塚 迅
以下は、さらに苛酷で深刻な各国の民衆の闘いの現状の報告である。ミャンマー、タイ、フィリピン、アフガニスタン、それぞれの歴史的な背景事情の中での闘いの厳しさと、解決の難しさにたじろがざるを得ない。が、その困難な状況下で闘っている人々の崇高さに打たれる。
◆ミャンマー軍事政権との闘いの現状と日本における連帯・支援の課題………渡 辺彰悟
◆岐路に立つ「タイ式民主主義」………今泉慎也
◆フィリピンの超法規的殺人EJK(Extrajudicial Killing)………井上 啓
◆アフガン女性の闘う〈勇気〉を生み出したもの──長期的視野で築いてきた闘争 の歴史………清末愛砂
そして、以下の論稿が、各国の具体的な現状を考察するための総論となる。稲論文はアジアにおける人権課題を網羅的に俯瞰し、申論稿は国際法の枠組みを提供するもの、新倉論文は闘う民衆の国際連帯の可能性について論じ、笹本論文は、朝鮮半島の平和を素材に法律家の国際連帯の実践を報告する。それぞれ、有益なものとなっている。
◆アジア各地における「民衆の闘い」の現状と課題………稲 正樹
◆人権と民主主義を求める民衆の危機と国際社会─大国のエゴを超えて………申惠丰
◆アジア各地での民衆の闘いと国際連帯………新倉 修
◆朝鮮半島の平和プロセス実現のための、法律家の国際連帯………笹本 潤
ミャンマーの軍事政権との闘いについての、渡辺彰悟弁護士の報告の最後に、こうある。「ミャンマーの詩人KT氏は「彼ら(権力)は頭を打つが、革命は心にあることを分かっていない」と詠んだ(彼は拘束され尋問され死亡した)。この詩に込められた思いに連帯し、私達は日本がなすべきことを積み重ねたい。」
この一文を重く受けとめたい。
(編集委員・澤藤統一郎)
法と民主主義2021年10月号【562号】(目次と記事)
特集●アジアの各地で闘う民衆 ―― それぞれの課題と法律家の役割
◆特集にあたって … 編集委員会・澤藤統一郎
◆死にゆく「一国二制度」 ── 香港で何が起きているか … 鈴木 賢
◆「憲法あって憲政なし」の国で … 石塚 迅
◆ミャンマー軍事政権との闘いの現状と
日本における連帯・支援の課題 … 渡邉彰悟
◆岐路に立つ「タイ式民主主義」 … 今泉慎也
◆フィリピンの超法規的殺人EJK(Extrajudicial Killing) … 井上 啓
◆アフガン女性の闘う〈勇気〉を生み出したもの
── 長期的視野で築いてきた闘争の歴史 … 清末愛砂
◆アジア各地における「民衆の闘い」の現状と課題 … 稲 正樹
◆人権と民主主義を求める民衆の危機と国際社会
── 大国のエゴを超えて … 申 惠丰
◆アジア各地での民衆の闘いと国際連帯 … 新倉 修
◆朝鮮半島の平和プロセス実現のための、法律家の国際連帯 … 笹本 潤
◆特別寄稿 フランスにおける衛生パス … 植野妙実子
◆連続企画・学術会議問題を考える〈3〉
学術会議任命拒否情報不開示決定に対する審査請求のゆくえ … 三宅 弘
◆司法をめぐる動き〈69〉
・岡口判事に対する弾劾裁判について … 野間 啓
・9月の動き … 司法制度委員会
◆メディアウオッチ2021●《政権選択選挙》
選挙で問われる変節と政治姿勢 問われる「メディアの主体性」
ウソで情報操作する会社、政党? … 丸山重威
◆とっておきの一枚 ─シリーズ?─〈№8〉
人が裁かれる時 … 村井敏邦先生×佐藤むつみ
◆改憲動向レポート〈№35〉
本質は何も変わらない岸田自公政権 … 飯島滋明
◆インフォメーション
自公政権に終止符をうち、命と平和を守る憲法に基づく政治への転換を!
立憲野党は共同し、市民連合との合意を踏まえ、
政権交代に向けて全力を尽くすことを求める法律家団体のアピール
◆時評●大企業、軽すぎる税負担 ── 巨額増益の一方で優遇税制拡大 … 菅 隆徳
◆ひろば●今日の危機の内容と、打開する力としての民主主義 … 豊川義明
(2021年10月25日)
今は昔のこと。中国司法制度調査団などというツァーに参加して、何度か彼の地の法律家と交流したことがある。
そのとき、裁判官の独立も、弁護士の在野性も、検察官の罪刑法定主義もほとんど感じることはできなかった。日本の司法には大いに不満をもっていたが、彼の地の司法はとうていその比ではなかった。
改革開放政策に踏み切った中国が経済発展を遂げるには、近代的な法制度をつくり、その法制度を運用する厖大な法律家の創出が必要になるという時期。みごとな通訳を介して、私は遠慮なくものを言った。
「中国共産党の専横を抑制するには、法の支配を徹底するしかない。厖大な数の法律家が育てばその役割を果たしてくれるのではないか」「とりわけ、人権意識の鋭い弁護士が多数輩出することが中国の社会を民主化するきっかけになるのではないか」「権力の横暴が被害者を生み、その被害者が弁護士を頼らざるを得ないのだから、反権力の弁護士が育たないはずがない」「そのような弁護士の輩出による中国共産党の一党独裁の弊害への歯止めを期待したい」
私の言葉は、ほとんど無視された。せいぜいが、「あなたは中国共産党のなんたるかを知らない」「そんな甘いものじゃない」「まったくの部外者だから、勝手なことを言える」という言葉が返ってきた程度。
今、中国の人権派弁護士が孤立して、中国共産党の暴虐に蹂躙されている模様が報道されている。「中国で人権派弁護士は、権力の監視役として一定の役割を果たしてきた。習近平指導部は、党の一党独裁体制を脅かす存在として抑圧を続けている」と共同記事。昔中国で聞かされた「中国共産党はそんな甘いものではない」という言葉を思い出す。なるほど、これが現実なのだ。
かつての天皇制権力の暴虐も、弁護士の人権活動を蹂躙した。はなはだしきは、国賊共産党員の弁護活動従事を治安維持法違反に当たるとして検挙した。当時司法の独立はなく、当然の如く有罪が宣告され、弁護士資格は剥奪された。当時弁護士の自治はなく、弁護士会も天皇制権力に毅然とした姿勢をとることはできなかった。同じことが、いま中国で起こっているのだ。
2015年7月9日、約300人の弁護士・人権活動家が一斉拘束された。「709事件」としてよく知られている。しかも、拘束された人権派弁護士たちは苛酷な拷問を受けたとされる。多くの弁護士が、この弾圧で投獄され資格を失った。それだけではなく、この事件で起訴された弁護士の弁護を務めた弁護士が弾圧されている。
「709事件」の被害者として著名な人権派弁護士王全璋は、服役して刑期を終えた。ところが、王全璋の弁護を担当した余文生弁護士は18年1月からの拘束が続いているという。その余弁護士の弁護を引き受けたのが、盧思位弁護士。余弁護士は苛酷な拷問のうえ有罪判決を受けて下獄し、廬弁護士は香港の事件受任で資格剥奪の通告を受けているという。
余弁護士の妻、許艶氏は夫の拷問を告発するとともに、「(一斉拘束事件では)弁護士の弁護士の弁護士まで圧力を受けた」と憤っていると報じられている。ああ、中国には人権はなく、刑事司法もない。あるのは、お白州レベルの糾問手続だけなのだ。
これは、社会主義とも共産主義とも無縁な現象。野蛮な権力の容認は、未開社会の文化度・文明度を物語るものである。
(2021年8月30日)
香港の事態にこだわり続けざるを得ない。1989年に天安門で起きたことが、今形を変えて香港で進行しつつあるのだ。民主主義崩壊の現実は、とうてい他人ごとではない。目をそらしてはならないと思う。
伝えられているとおり、8月24日、香港弁護士会(ソリシター(事務弁護士)の団体)は年次総会を開催して、新理事を選任した。理事会は20人で構成されており、今回はそのうち5人が改選となった。
この小さな選挙が注目されたのは、香港政府の露骨な介入があったからである。もちろん、香港政府の背後には中国共産党の存在がある。中国共産党の恫喝に屈しない「リベラル派」が、どれだけ健在で勢力を維持できるかに関心が集まった。
林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は、香港弁護士会に対して「政治に関与すれば関係を絶つ可能性がある」と警告していた。「関係を絶つ」の具体的な内容は理解し難いが、これが脅し文句になるのだ。「弁護士会は政治に関与せぬのが利口だ」と脅されたのだ。この局面で「政治に関与」と言えば、中国共産党の支配に対する批判の言動意外にはあり得ない。
本来、弁護士とは反権力・在野の存在、こんな脅しに屈するはずもない、という見方は甘い。「リベラル派」の中心と目されていた現職の候補者ジョナサン・ロスは、「自身や家族の安全を守るため」として立候補を辞退した。「リベラル派」を堅持することは、「自身や家族の安全への危害をも覚悟せざるを得ない」ほどに、厳しいことなのだ。こうして、理事改選は、「親中派」が5議席全部を獲得する結果になった。
しかし、香港弁護士会、決して抵抗の姿勢を失ったわけではない。同じ総会で、法曹界の大物・馬道立氏(香港最高裁判所の前首席判事)を招聘して記念講演をさせている。
この人、2010年から21年1月まで最高裁首席判事を務めた人だという。日本で言えば、最高裁長官を10年続けたという稀有な経歴の人。かつての田中耕太郎並みなのだ。これまで、「司法の独立」こそが香港の法制度の肝で、香港の「一国二制度」の核心は「司法の独立」にあると説いてきたのだという。この人の講演が素晴らしい。
林鄭月娥行政長官とその背後の中国共産党は、「香港弁護士会の政治への関与」を牽制し、「弁護士会は、政治的行動をするな」と恫喝した。馬講演は、これを意識して、《法治や司法の独立は「政治的概念ではない」》という内容だったという。
赤旗(北京=小林拓也)によれば、講演の要旨は以下のとおりである。
「馬氏は「法治は政治的概念ではない。司法の独立も法治の一つに含まれ、これも政治的概念ではない」と強調。また、「法治の側面として、法律の前では公平と平等が求められる」と訴えました。その上で、「香港の法治を支持する発言をすることは、正しいことであり、公共の利益にかなう」と指摘。弁護士会や法律に携わる者は「公共の利益のために活動すべきだ」と述べ、法治や司法の独立のために発言するよう呼びかけました。」
これを、私流に解釈してみたい。
「法治」(法の支配)は、合理的な法に従って権力の行使が行われなければならないという大原則である。国家も、党も、党幹部も、法を逸脱することも法を恣意的に枉げることも許されない。司法は、その「法治」の最後の砦である。権力の横暴に毅然として対処しうる「独立した司法部」あればこそ、法治は貫徹される。
権力にあるものが、「法治」や「司法の独立」を嫌うことは当然である。が、司法の職責にある者の使命は、権力に疎まれることを覚悟して、「法治」や「司法の独立」を全うすることにある。司法が、権力の横暴を許してはならない。弁護士会も司法の一翼を担っている。自らの使命を自覚していただきたい。
司法の崇高な使命を快く思わぬ権力者は、「法治」や「司法の独立」を、「政治的」として攻撃する。しかし、「法治」や「司法の独立」の原則を敢えて放棄することこそ、まさしく「政治的偏向」なのだ。権力者の言に一歩譲歩すれば、際限なく権力の横暴を許し、人民の権利や自由の抑圧を看過することになる。「法治」も「司法の独立」も、断じて「政治的概念」ではない。権力者の詭弁を許してはならない。
また当然のことながら、「法治」は、法律の前での公平と平等を求める。権力をもつ者にももたざる者にも同じように法を適用することを形式的平等という。権力をもつ者には厳格に、もたざる者には寛容に法を適用することを実質的平等と言い、公正という。権力者に寛容に、非権力者に厳格に法を適用することは、権力者には望ましいことではあろうが、法律家としては恥ずべきことである。
あらためて確認しよう。法とは正義である。正義の本質は、多数人民の権利と自由と尊厳を擁護することにあり、その正義は権力の横暴を抑制することによって貫徹される。
今、世界が注視する中で香港の「法治(法の支配)」や「司法の独立」の原則を守ることは、歴史的な課題となっている。崇高な法律家の使命として、今こそ勇気をもって声を上げよう。「法治」も「司法の独立」も揺るがせにしてはならない。
(2021年8月12日)
アヘン戦争で中国から割譲された香港は、1997年7月1日再び強引に中国に編入された。2047年まで50年間の「一国二制度」による高度の自治を約束されてのことである。イギリス統治の時代に、香港に根付いた民主的な諸制度は、50年間は安泰である…はずだった。
当時はこう思われていただろう。50年も経てば、中国も変わっているに違いない、21世紀中葉には中国にも香港並みの民主主義が育って円満な香港統合が実現することになるだろう。つまりは、「中国が香港化する」ことを期待されての「一国二制度」だった。しかし、現実はそうなっていない。野蛮な強権支配の中国が、民主的な香港を呑み込む形で、「一国二制度」は既に事実上崩壊している。香港の自治は潰え、中国の強権支配が香港の民主主義を蹂躙しているのだ。嘆かわしいと言うほかはない。
さらに、追い打ちをかけるようなニュースが続いている。「香港 教員組合解散 中国政府の圧力受け」「香港の教員組合解散 国安法のもと『巨大な圧力』」「香港民主派の教員組合が解散 デモ扇動と中国側が批判」という報道。
野蛮な強権中国は、香港の教育に介入を強めてきたが、とうとう教育労組の弾圧に乗り出した。香港最大の教員組合(「香港教育専業人員協会」)が、中国の圧力に抗えず、一昨日(8月10日)解散に追い込まれたというのだ。教員組合弾圧は、労働運動の弾圧というにとどまらず、教育の自由への権力介入として強く批判されなければならない。
民主主義社会では教育の自由が当然視される。真理の伝達が権力の統制を受けてはならない、という自明の大原則が尊重される。国家は教育条件の整備に責任をもつが、教育の内容に介入してはならないのだ。これに対して、専制国家ほど教育に介入し、教育を統制して国家の僕とする。
戦前の天皇制日本が、典型的な教育統制国家であった。何しろ、非科学的な神話と信仰を国家の成り立ちの基礎としている。教育の制度も教育の内容も、強権的なデマゴギーを国民に吹き込む手段とする以外に、国家の権威を保つ術がなかったのだ。この戦前日本の神聖な天皇制神話を、現代中国の神聖共産党無謬神話に置き換えると、やってることの共通性が理解可能となる。どちらも、「愛国教育」にことさらに熱心である。愛国の名で、天皇の名による統治や、中国共産党による支配を貫徹しようというのだ。
香港の教育界は、医療や法律界とともに民主派が圧倒的な基盤を持っていた。「香港教育専業人員協会」(略称は「教協」)は1973年に設立され、約9万5千人の教員を擁する最大の教職員組合。有力民主派団体として、香港や中国本土の民主化運動を支援してきた。当然に権力側には嫌われる存在。同組合は国安法(「香港国家安全維持法」)が求める「愛国教育」に関連して、警察が摘発を示唆していたという。
権力に従順な親中派メディアは、教協を「反中で香港を乱す」組織とレッテルを貼って、連日大々的な批判キャンペーンを続け、警察幹部も「確実に捜査する」と述べていた旨報じられている。
権力支配貫徹を目論む中国政府や党から見れば、教協はその邪魔者。「学生らを洗脳して反政府活動に駆り立てた」ということになる。7月31日、中国の国営新華社通信や中国共産党機関紙・人民日報は「教協というがんを取り除かなければならない」と題する論評を発表。「反中と香港の混乱とを助長」し、「香港に災いをもたらす震源地」などと批判したという。同論評を受け、香港政府教育局は教協との関係を停止すると発表、香港当局の独立性などはまったく存在しないことを示した。
どうして、中国国内に、香港の民主派と連帯する勢力が育たないのだろうか。どうして中国国内から、香港の民主主義弾圧に抗議する声が上がらないのだろうか。暗澹たる気分になるばかりである。
(2021年3月14日)
全人代が終わった。中国当局は、もっぱらコロナを抑え込んだ実績を強調し、引き続いての経済発展の喧伝にこれ努めているが、日本の各紙は香港問題に関心を寄せて報道している。
この全人代が採択した「決定」は、賛成2895票、反対0票、棄権1票であった。恐るべき、中国共産党の中央集権体制である。この国に異論の存在は許されない。ということは民主主義は存在しないのだ。
朝日は、北京からの特派員記事に、「香港の選挙制度改変採択して閉幕 民主派排除へ」と見出しを打っている。リードは、「中国の全国人民代表大会(全人代、国会に相当)は11日、香港の選挙制度改変に関する決定などを採択し閉幕した。「愛国者による香港統治」の名の下、香港民主化の柱だった選挙から民主派が排除されることで「一国二制度」の形骸化は一層深まることになる。」としている。
また、読売の報道は、「香港の選挙制度見直し採択、中国全人代閉幕…李首相「愛国者による香港統治を堅持するため」と題して、「中国の国会にあたる全国人民代表大会(全人代)は11日、香港の選挙制度の見直しなどを採択して閉幕した。習近平シージンピン政権が掲げる「愛国者による香港統治」に基づき、中国共産党・政府に批判的な民主派を香港政界から排除するのが狙いだ。香港に高度な自治を認めた「一国二制度」は空文化する。」と報じている。他紙も大同小異。
新制度では、立法会(議会)選挙など各種選挙の立候補者を「愛国者」かどうかで事前に選別する「資格審査委員会」を新たに設けるという。それだけではなく、大多数が親中派で構成されるとみられる「選挙委員会」に立法会選の立候補者指名の職権を与えるともいう。
一昨年(19年)の香港区議会(地方議会)選挙では民主派が議席の8割超を獲得して圧勝した。これを香港の民意と見るべきが常識的な態度。しかし、中央政府に不都合な民意は認められないのだ。だから「愛国者」排除となる。共産党の指導に従う者だけが「愛国者」と認められて立候補可能となり、共産党の指導に従うことに疑念を持たれれば、「非愛国者」として立候補はできないのだ。我が国敗戦前の「非国民」という言葉を思い出させる。
全人代閉幕直後、李克強首相が記者会見をした。これが、「愛国者による香港統治を堅持する」方針を語っている。以下が、その該当部分。但し、On-lineアプリを使っての翻訳で、日本語の出来は悪い。
われわれは、引き続き「一国二制度」、「香港人による香港管理」、高度な自治方針を全面的かつ正確に貫徹し、憲法と基本法に厳格に基づいて事を運び、特別行政区が国家の安全を守る法律制度と執行メカニズムをしっかりと実行し、特区政府と行政長官が法に基づいて施政することを全力で支持することを明確に提起した。
先ほど、全人代が香港の選挙制度の充実について決定を下したとお聞きになりましたが、決定は非常に明確で、「一国二制度」の制度体系を堅持し、充実させ、終始「愛国者による香港統治」を堅持することであり、「一国二制度」の長期的な安定を確保するためでもあります。
昨年、香港は多くの衝撃を受けましたが、香港各界が手を携えてできるだけ早く疫病の発生状況に打ち勝ち、経済の回復的成長を実現し、民生を改善し、香港の長期的な繁栄と安定を保つことを希望します。中央政府は引き続き全力で支援していきます。
愛国とは、おぞましくも危険な言葉だ。とりわけ、権力者が使う「愛国」は国民欺罔の手段として警戒しなければならない。李克強がいう「愛国」とは、中国共産党の指導に従順であることに過ぎない。「愛国者による香港統治」とは、「中国共産党の指導が貫徹した香港統治」というだけのことであって、民主主義とは縁もゆかりもない。
民主主義の政治過程では、国民が国家を作るのであって、その反対ではない。国民が国を作る手段が選挙であって、《全ての国民が選挙に参加して国を作る》のである。国家が国民に選挙参加の資格を選別することはあり得ない。
だから、「愛国者による香港統治を堅持する」とは、香港の民主主義を根絶やしにするという宣言なのである。《「一国二制度」、「香港人による香港管理」、高度な自治方針を全面的かつ正確に貫徹し、憲法と基本法に厳格に基づいて事を運び》とは、《「一国二制度」は形だけのものにする、「党中央による香港管理」を徹底する、「北京が支配する香港の自治」方針を全面的かつ正確に貫徹し、厳格に中華人民共和国憲法をに基づいて事を運ぶ結果として香港基本法を空文とする》ということなのだ。