澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

王毅外相の記者会見の記録 ー 中国は、虐げられた人民の味方であろうとする姿勢を捨てたのか。

(2021年3月10日)
中国の全人代の様子について胸ふたがれる気持で報道に目を凝らしている。中国のかくまで強権的な政治姿勢がにわかに信じがたい。取材記者の思い込みが過ぎて、報道が不正確なのではないかとの思いを捨てきれない。

ところに、中国語に堪能で中国政治の内情に詳しい友人が、中国・王毅外相の3月7日記者会見の全文を送ってくれた。「翻訳は『小牛』(翻訳ソフト)に働いてもらいました。」ということだが、正確なものだと思う。

翻訳の和文は、A4・26頁にも及ぶ長大なものだが、そのうち、香港・台湾・ミャンマーに関する記者の質問に対する回答だけを引用して紹介する。

感想を一言に集約すれば、「この体制は恐ろしい」というしかない。冒頭の王毅コメントの中に、「われわれは歴史の流れに順応し、新型国際関係の構築を積極的に推進し、平和、発展、公平、正義、民主、自由という全人類共通の価値を発揚し、各国と手を携えて人類運命共同体を構築していく」とある。 しかし、香港・台湾・ミャンマーに関する質疑応答を読む限り、「全人類共通の価値を発揚し」が何とも虚しい。

香港中評社記者
 国際社会は全人代が香港特区の選挙制度の改善について決定を下すことに高い関心を寄せており、一部の国政府は中国側の関連行動が「一国二制度」に違反し、香港の民主的発展を損なうと批判しているが、中国側はこれについてどのようにコメントするのか。

王毅
 まず強調したいのは、香港特区の選挙制度を充実させ、「愛国者による香港統治」を実行に移すことは、「一国二制度」事業を推進し、香港の長期安定を保つための実際の必要であるだけでなく、憲法が全人代に与えた権力と責任でもあり、完全に合憲合法であり、正当かつ合理的であるということである。
 世界に目を向ければ、どの国でも祖国に忠誠を尽くすことは、公職者や公職に立候補する人が守らなければならない基本的な政治倫理だ。香港でも同じです。香港は中国の特別行政区であり、中華人民共和国の一部である。国を愛さなければ、港を愛することはできない。香港愛と愛国は完全に一致している。
 香港は植民地支配時代に民主主義を持っていませんでした。復帰24年来、中央政府ほど香港民主の発展に関心を持ち、香港の繁栄と安定を望んでいる人はいない。香港は乱から治へと変化し、各方面の利益に完全に合致し、香港住民の各種権利と外国投資家の合法的利益を守るためにより堅固な保障を提供する。われわれには引き続き「一国二制度」、「香港人による香港管理」、高度な自治を堅持する決意があり、香港の明日をますます良くする自信もある。

古代ギリシャの市民は、他民族をバルバロイ《訳のわからない言葉を話す者という意》と呼んだという。強大なペルシャは恐るべき国であり民族だが、「理念も言葉も通じない、訳のわからない人々》であったろう。王毅外相の強弁を聞かされると、古代ギリシャ人の気持ちがよく分かる。

フェニックステレビ記者
われわれはこれまでトランプ米政権が米台交際制限を解除したことに注目している。台湾問題における中米の危機勃発を世界最高の潜在的衝突とするシンクタンクもある。中国側はアメリカの対台湾政策をどのように見ていますか。

王毅
 台湾問題については、次の3点を強調したいと思います
まず、世界には中国は一つしかなく、台湾は中国領土の不可分の一部である。これは歴史的・法理的事実であり、国際社会の普遍的共通認識でもある。
 第二に、海峡両岸は必ず統一しなければならず、必然的に統一しなければならない。これは大勢の赴くところであり、中華民族の集団意志であり、変えることはできないし、変えることもできない。国家主権と領土保全を守る中国政府の決意は揺るぎなく、われわれにはいかなる形の「台湾独立」分裂行為をも挫折させる能力がある。
 第三に、一つの中国原則は中米関係の政治的基礎であり、越えてはならないレッドラインである。中国政府は台湾問題で妥協の余地はなく、譲歩の余地もない。われわれは米国の新政府が台湾問題の高い敏感性を十分に認識し、一つの中国の原則と中米の三つの共同コミュニケを確実に厳守し、前回政府の「線を越える」、「火遊び」の危険なやり方を徹底的に改め、台湾にかかわる問題を慎重かつ適切に処理するよう促す。

この回答は分かり易い。要するに、問答無用というのだ。問題解決には力だけが有用であり、自分たちにはその力がある、というアピール。そして、中台問題などは存在しない。あるのは、中米問題だけだ。アメリカよ、心せよ、というわけだ。

澎湃新聞記者
中国はかつて、ミャンマーの現在の情勢はミャンマーの内政であると表明した。現在、ミャンマー軍が政権を接収して国の非常事態を宣言してから1ヶ月余りが経ちましたが、中国側の立場は変わっているのでしょうか。また、中国側はASEAN諸国とともにミャンマーの緊張緩和のために建設的な役割を果たす用意があると表明していますが、中国側は次の段階でこの問題についてどのような措置をとるのでしょうか。

王毅
 ミャンマー情勢について、私は中国側の3つの主張を提起したい。
 第一に、平和と安定は国の発展の前提である。ミャンマーの各方面が冷静自制を保ち、ミャンマー人民の根本的利益から出発し、対話と協議を通じて、憲法と法律の枠組みの下で矛盾と意見の相違を解決することを堅持し、国内民主のモデルチェンジのプロセスを引き続き推進することを希望する。当面の急務は新たな流血衝突の発生を防ぎ、情勢の緩和と冷え込みを早急に実現することである。
 第二に、ミャンマーはASEANの大家族の構成員であり、中国側はASEANが内政不干渉と協議一致の原則を堅持し、「ASEAN方式」でその中から仲裁し、共通認識を求めることを支持する。中国側もミャンマーの主権と人民の意思を尊重した上で、各方面と接触・意思疎通し、緊張緩和のために建設的な役割を果たすことを願っている。
 第三に、ミャンマーと中国は山水が連なる「胞波」兄弟であり、苦楽を共にする運命共同体である。中国の対ミャンマー友好政策は全ミャンマー人民に向けられている。中国側は民盟を含むミャンマー各党各派と長期にわたる友好交流を持っており、対中友好も終始ミャンマー各界の共通認識である。ミャンマー情勢がどのように変化しても、中国が中国とミャンマー関係を推進する決意は揺るがず、中国が中国とミャンマーの友好協力を促進する方向も変わらない。

「胞波」「民盟」など理解できない用語もあるが、文意はつかめる。明らかなのは、民主的に成立した政府を武力で転覆した国軍の軍事クーデターに対する批判がないことだ。民政を支持して国軍の横暴に抗議する人民の切実な叫びに耳を傾けようとはしないのだ。

中国共産党は、世界の虐げられた人民の味方であろうとする姿勢を捨てたのだろうか。それでなお、共産党を名乗り続けているのはなぜなのだろうか。残念なことだが、中国が「平和、発展、公平、正義、民主、自由という全人類共通の価値」を尊重しているようには、とうてい見えない。

鵜飼哲「五輪ファシズム」論に賛同の拍手を送る

(2021年2月14日)
コロナ蔓延の終熄はまだ遠い。原発事故処理もできぬ間に新たな地震も重なった。財政は逼迫している。国民生活は弱者ほど疲弊が厳しい。とうていオリンピックどころではない。アベ晋三の大ウソとワイロとで誘致した東京五輪が、いま主催組織幹部の女性差別と旧態依然たる体質暴露で世界に恥を晒している。いったい、どこに開催の意義があるというのだ。もともとが、為政者の統治の具に堕した国威発揚の舞台。しかも、意図的に小さな予算から出発して、途方もない金食い虫に変異したこのイベント。行政とつるんだ企業に食い物にされた、カネまみれの商業主義の化け物。こんなものは、さっさとやめてしまえ。その予算を、コロナ対策と震災からの復興にまわすべきが当然ではないか。

これが、これまで私が語ってきたこと。私は、この程度にしか東京オリンピックを批判してこなかった。今、その不徹底な姿勢を反省しなければならない。「五輪ファシズム」論に接してのことだ。

2月11日、毎日新聞デジタルが、「女性蔑視発言の根底に潜む『五輪ファシズム』の危険性」という記事を掲載した。かなり長文の鵜飼哲(一橋大名誉教)インタビューである。まことに時宜を得た適切な論説。
https://mainichi.jp/articles/20210210/k00/00m/040/185000c

鵜飼によれば、「オリンピックには、その根底に市民の生活を脅かす危険な『五輪ファシズム』がある」という。私はこれまで、「オリンピックは素晴らしい」という言説を懸命に否定してきた。しかし、鵜飼はオリンピックの積極的な害悪を主張する。「五輪ファシズム」という切り口で。

クーベルタンは、女性蔑視で優生思想の持ち主だった。ブランテージも、サラマンチもファシズムに親和性を持っていた。IOCは今も王族や貴族のサロンで、そこに元オリンピアンが「新貴族」として入るという愚にもつかない忌むべき構造がある。JOCの評議員63人中女性はたった2人…。さて、「五輪ファシズム」とは何か。

オリンピックは最初から全体主義的なイベントになりがちな傾向を強く持っていました。1936年にナチス・ドイツが挙行したベルリン大会を、IOCは今も最も成功した大会と評価しています。
 68年のメキシコ大会では開催に反対した学生が開会式直前に何百人も殺されました。2016年のリオデジャネイロ大会の開催中も、警官による民間人の射殺が激増するなど人権侵害が多発したことを、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルが報告しています。しかし、IOCは全て主催国の問題にして責任を引き受けることはありません。21世紀に入ってテロ対策が強化され、ロンドン大会(12年)、リオ大会では地対空ミサイルが配備されました。当然、日本も開催されれば同じことになります。憲法が改正された後の状態を先取するような形で五輪期間中の警備が構想されているのです。顔認証システムも初めて導入予定で、日本在住者にはマイナンバーカードの提示が求められる。監視テクノロジーのこのような浸透が五輪を通じてグローバルに展開するところに現代のファシズムの特徴があります。

 クーベルタンが考えていた「平和」とは、弱体化したフランスにイギリスやドイツのような体育教育を導入し、民衆にもスポーツを教えて軍隊を再建し、欧州にバランスを回復することでした。日本国憲法が理想としている第二次大戦後の世界平和とはまったく意味が違います。

 安倍さんはあわよくば五輪を使って改憲まで持っていくつもりだったと思います。福島のことを忘れさせ、開催予算を自民党の支持基盤に流し、祝祭の勢いで改憲まで持っていく。このシナリオはコロナによって崩れましたが、五輪の歴史の中でも最悪の政治利用計画の一つでしょう。

最後は、次のように締めくくられている。まったく同感である。

 黙っていたら「わきまえている国民」にされてしまいます。さまざまな表現方法を工夫して異論を発し続けることが大事です。

なお、以下の重要な指摘もある。

 次の五輪開催地は来年冬季大会が予定される北京ですが、北京は欧米諸国のボイコットの可能性もありIOCは大変警戒しています。東京、北京とも開催できないのは避けたいでしょうから、IOCは東京開催に固執するでしょう。私の見通しでは、ぎりぎりまで開催強行を狙うでしょう。
 しかし、森発言以来、ボランティアの辞退が増えています。今後は選手たちから抗議の声が上がることが、主催者側には最も手痛いはずです。

明確に「東京五輪を中止せよ」と声をあげたい。さらに、中国の人権政策に変化ない限りは、「北京冬季五輪も中止を」とも。

中国「核心的利益」論の理不尽。

(2021年2月13日)
「森喜朗・川淵三郎」迷走劇の根は深く、あぶり出されたものは女性差別問題だけではない。我々の社会が抱える構造的な病理を照らし出した貴重な経過から学ぶべきことは多い。わけても、「沈黙は理不尽への同意であり加担ともなる」ことを胸に刻みつつ、「声を上げれば状況を変えられる」ことに希望をつなぎたい。

沈黙してはならない理不尽は世に満ちているが、今や強大国となった中国の「核心的利益」論を批判しなければならない。自国が「核心的利益」と名付けた数々を絶対に譲れないとするその姿勢の頑迷と傲慢の危険についての批判である。

自国の主張を絶対に譲らないという中国の頑なさは、戦前の天皇制日本を彷彿とさせる。天皇の神聖性や、天皇の神聖性の上に成り立つ「國體」は、指一本触れてはならない不可侵の「核心的利益」とされた。のみならず、「満蒙は日本の生命線」も「絶対的国防線」も「核心的利益を譲らない」とする同様の批判拒否体質の姿勢の表れである。

印象に新しいのは、昨年(2020年)「断固として、国家安全法を立法し香港に適用する」と言い出した当時、併せて中国が香港の民主化運動を支援する国際勢力に対して、「香港は中国の核心的利益、必ず守らなくてはならない重要な原則だ」「外部からの干渉は許さない」と牽制したことである。孤立した香港の民主化運動に、中国と対峙する実力はなく、いま野蛮な中国の実力が香港の民主主義を蹂躙している。

香港の民衆にとっての自由と民主主義は、それこそ彼らの「核心的利益」ではないか。香港にとどまらない。台湾の自立も、新疆ウイグル人の人権も、チベットの独立も、それぞれの民衆の「核心的利益」である。なにゆえ、中国がこれを毀損する名分を主張できるというのだろうか。ここにあるのは、強大国の野蛮な実力の誇示に過ぎない。

「領土と主権に関わる核心的利益」という呪文を絶対とし万能とする主張の愚かさが省みられねばならない。「利益」は、常に具体的な誰かのものである。国家の利益とは、実は「国家を僭称する誰か」の利益であると考えざるを得ない。国家の中の被支配階級、被征服民族、被抑圧階層の利益は僭称されている。のみならず、「中国の核心的利益」は、香港の利益ではありえない。核心的利益の主体から、台湾も除かねばならない。チベットも、新疆ウイグル自治区も、東トルキスタンも除いた「中国」とは、「国家」という名に値するものだろうか。

中国は、「核心的利益」の外延を拡大してきている。「国家主権と領土保全(国家主権和領土完整)」だけでなく、「国家の基本制度と安全の維持(維護基本制度和国家安全)」「経済社会の持続的で安定した発展(経済社会的持続穏定発展)」などという曖昧な概念も持ちだしている。結局は、中国全土の人民の利益ではなく、中国共産党とその支持勢力の利益をいうものと理解するほかはない。

また、「核心的利益」が国家のものであったとしても、それゆえに人権に優越する価値たりうるものではない。中国の「核心的利益」論は、人権の価値を顧みることのない、超国家主義以外の何者でもない。文明が到達した普遍的価値を蹂躙して恥じない、野蛮の主張と評するしかない。

この問題に関して、「声を上げれば状況を変えられる」望みは乏しい。それでも、「沈黙は理不尽への同意であり加担ともなる」ことを胸に刻みつつ、決して沈黙はしないことを決意したいと思う。中国に対してだけでなく、超大国アメリカにも、そして当然のことながら、日本の権力にも。

民主主義が試練に曝されている。強権国家への誘惑に絡めとられてはならない。

(2021年2月1日)
2度目の緊急事態宣言のさなかに1月が過ぎて、今日からは2月。例年春を待ち望むころだが、今年はまた格別。1月8日発出の緊急事態宣言の明けはどうやら3月以降にずれ込む模様。重苦しい日が続く。

ダイヤモンド・プリンセス号が『初春の東南アジア大航海16日間』周航の終盤に那覇に寄港したのが、昨年(2020年)の今日。このとき、1月25日に香港で同船から下船した香港人男性(80才)の船内感染が確認されている。2月3日、同船が横浜港に着いてから騒然たる事態となった。あれから1年なのだ。

この1年、コロナ・パンデミックは世界の民主主義に試練を与え続けてきた。コロナと闘うためには民主主義という手続は非効率で余りに無力ではないか、という攻撃に今も曝されている。権力を集中した権威主義的な政権こそが、コロナ禍と有効に闘う能力をもち成果をあげているとの主張と、民主主義擁護の主張とがせめぎあいを続けている。

このことは、人類史的な課題というべきであろう。歴史の本流は、滔々たる専制から民主制への大河を形成しているが、時折の逆流の存在も否定し得ない。近くは1930年代に、少なからぬ国が民主主義を投げ捨てて全体主義に走った。国家間の緊張関係が高まる中、個人の人権や自由などと生温いことを言ってはおられない。この非常時には、民族の団結、権力の集中こそが最重要事である、という主張が幅を利かせた。戦争に勝てる強力な国家あっての個人ではないか、というわけだ。我が国のスローガンでは、「富国強兵」「滅私奉公」である。

民主主義とは、国民の政治参加を公理として、政治権力の正統性の根拠を国民の意思におく思想であるが、これにとどまらない。人権擁護を目的とする政治過程の理念でもある。民主主義の政治は、国民一人ひとりの人権、即ち国民の人格の尊厳を至高の価値としてこれを擁護しようとする。人権を損なってはならないのだから、強大な権力は危険視され、権力も権限も分散しなければならない。権力の国民に対する支配の徹底を是とせず、国民に対する過度な支配の徹底を避けなければならないと指向する。

国民に対する過度な支配の徹底を避けるためには、国民の政治参加と政権批判の言論の保障が不可欠である。結局民主主義とは、国民の政治参加によって形成された権力を分立・分散させ、国民からの政治批判を保障して、強力な権力を抑制する制度であり運用である。ジェファーソンが定式化したとおり、「政府に対する信頼は常に専制の源泉である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる」。

ところが、コロナ禍の中、国民が民主主義を投げ捨てて、強権政治を待望する時代が既に始まっているのではないかという見解がある。もちろん、主としては中国を念頭においてのことではあるが、必ずしも中国に限らない。各国に、そのような誘惑が満ちている。権力者にはもちろん、国民の側にも。

典型的にはこんなことだ。権威ある無謬の領袖あるいは政党という権力を信頼し、その指示に任せて従うことが最も効果的にコロナと闘う方法だ。この権力を批判したり貶めたりすることは「利敵」行為として非難されねばならない。権力は、強く大きいほど有効な闘いが可能だ。ならば、できるだけの武器を与えるべきである。国民のプライバシー擁護など贅沢なことを言ってはおられない。中国に限らず、西欧の各国も強制力を伴うコロナ対策の徹底を打ち出しているではないか。

日本の権力も国民も、強制力使用の誘惑にかられている。闘う相手は、いま「鬼畜米英」や「暴支膺懲」に代わって、コロナ・パンデミックとなった。闘う相手は変われども闘い方の基本構造にはさしたる変わりはない。コロナとの戦いには勝たねばならない。そのために責任を負う政府には武器が必要だ。その武器を与えよ。この要求が、昨年の「新型インフルエンザ特措法」の改正であり、今国会に上程されている、「新型インフルエンザ特措法」「感染症法」の改正案である。

自民党と立憲民主党との協議の結果法案修正の合意が成立し、2月3日には、この修正合意で法案は成立の予定だと報じられている。最も問題とされた、刑事罰(懲役・罰金)条項は削除され、幾つかの評価すべき修正点はある。しかし、過料(行政罰)は残されている。緊急事態宣言前に実施する「まん延防止等重点措置」の問題も解消していない。これで、一件落着としてはならない。不必要な強制措置は、断固として拒絶しなければならない。ことは、民主主義の本質に関わる問題である。

ところで、「改憲問題対策法律家6団体連絡会」は、2021年1月20日「新型インフルエンザ等対策特措法等の一部を改正する法律案に反対する声明」を発表した。そして、本日刑事罰解消で問題解決としてはならないという趣旨で、「特措法等改正案の罰則規定の削除を求める法律家団体の緊急声明」を追加的に発表した。

「改憲問題対策法律家6団体」とは、社会文化法律センター(共同代表理事 宮里邦雄)、自由法曹団(団長 吉田健一)、青年法律家協会弁護士学者合同部会(議長 上野格)、日本国際法律家協会(会長 大熊政一)、日本反核法律家協会(会長 大久保賢一)、日本民主法律家協会(理事長 新倉修)。その全文は、日民協の下記URLを開いてご覧いただきたい。
https://jdla.jp/shiryou/seimei/210120-2.pdf

https://jdla.jp/shiryou/seimei/210201.pdf

両声明の「結語」だけを、引用しておきたい。

2021年1月20日 声明 「結語」
これらの多くの疑問を置き去りにしたまま、刑罰や過料(行政罰)によって国民を威嚇し、新型コロナウイルス感染症を抑え込もうとする本改正案は、上記のとおり、そもそも立法事実としてのエビデンスを欠き、目的と手段の合理的関連性も疑わしく、重大な人権侵害を招く危険があり、結局、国民との間に新型コロナウイルス感染症についての理解を深め、政府と国民の間に強固な信頼関係を構築することで当面する危機を乗り越えようという民主主義・立憲主義の理念に反するというべきである。
政府のこれまでの新型コロナウイルス感染症対策の失政の責任もうやむやにし、また、昨年の緊急事態宣言の検証も反省もないまま、感染拡大の責任を国民に転嫁して、刑罰や過料を科すような政府発表の改正案については、断固として反対であることを、ここに表明する。

2021年2月1日 声明 「結語」
以上のとおり、罰則による強権的な手段を用いて私権を制限することは、そもそも立法事実を欠き違憲の疑いがあるうえ、行政権力の市民生活への過度の介入をもたらすなど、憲法上重大な問題をはらむ。行政罰(過料)にしても、過料の金額を修正しても、問題の本質は変わらない。
以上より、罰則規定はすべて削除することを強く求める。
なお、改正法案は、罰則規定の問題のほかにも、「まん延防止等重点措置」の発動要件を政令で定めるとしていること、国会による統制が規定されていないことなど問題が多く、十分な審議と修正が必要であって、附帯決議等で拙速に法案を成立させることは絶対にあってはならないことを付言する。

アメリカはむちゃくちゃだ。中国はもっとひどい。なんという世界だ。

(2021年1月7日)
かつて、アメリカは、日本にとっての民主主義の師であった。そのアメリカが、今尋常ではない。民意が選挙を通じて議会と政府を作る、という民主主義の最低限の基本ルールが、この国では当たり前ではなくなった。

1月6日、バイデン勝利の大統領選結果を公式に集計する連邦議会の上下両院合同会議に、トランプの勝利を高唱する暴徒が乱入して、議事を妨害した。議事堂が大規模な侵入被害に遭うのは、米英戦争時に英国軍により建物が放火された1814年以来のこと。アメリカ合衆国の歴史の汚点というべきだろう。その汚点を作り出した、恥ずべき人物をドナルド・トランプという。彼が、暴徒を煽動したのだ。この汚名は、歴史に語り継がれることになるだろう。

バイデンは同日夕、テレビ演説で「これは米国の姿ではない。今、私たちの民主主義はかつてない攻撃にさらされている」と非難したという。だが、悲しいかな。「これが米国の姿なのだ。」

このトランプをツイッター社が叱った。同社は、投稿ルールに抵触したとして、トランプのアカウントを凍結したという。たいしたものだ、というべきか。恐るべき出来事というべきか。

一方中国では事情大いに異なる。中国電子商取引最大手アリババ集団の創業者、馬雲(ジャック・マー)が「姿を消した」と話題となっている。同人の政権批判に反応した当局が拘束したとの報道もある。

かつて中国は、世界の人民解放運動の先頭に立っていた。その輝ける中国が今輝いていない。尋常ではない。民意が選挙を通じて議会と政府を作る、という民主主義の最低限のルールが、この国では長く当たり前ではなくなっている。法の支配という考え方もない。剥き出しの権力が闊歩しているのだ。恐るべき野蛮というほかはない。

香港は一国二制度のはずだった。二制度とは、「野蛮と文明」を意味する。つまり、中国本土は野蛮でも、香港には文明の存在を許容するという約束。昨年来の一国二制度の崩壊とは、香港の文明が中国の野蛮に蹂躙されるということなのだ。

昨日(1月6日)朝の香港で、立法会の民主派の前議員や区議会議員など50人余が逮捕された。被疑事実は、香港国家安全維持法上の「政権転覆罪だという。これは、おどろおどろしい。

去年6月末に施行された「香港国家安全維持法」は、
(1) 国の分裂
(2) 政権の転覆
(3) テロ活動
(4) 外国勢力と結託して、国家の安全に危害を加える行為
の4つを取締りの対象としているという。今回は、初めて「政権の転覆」条項での取締りだという。

昨年7月、民主派が共倒れを防ぐために候補者絞り込みの予備選を実施した。これが政権の転覆を狙った犯罪だというのだ。さすがに野蛮国というしかない。戦前、治安維持法をふりかざした天皇制政府もひどかったが、中国当局も決して引けは取らない。

バイデン次期政権の国務長官に指名されているブリンケンは、ツイッターに投稿し「香港民主派の大がかりな逮捕は、普遍的な権利を主張する勇敢な人たちへの攻撃だ」と批判したという。そのうえで「バイデン・ハリス政権は香港の人たちを支持し、中国政府による民主主義の取締りに反対する」と書き込み、中国政府に強い姿勢で臨む立場を示したと報道されている。

米国内でも対中関係でも、アメリカのデモクラシーは蘇生するだろうか。中国の野蛮はどこまで続くことになるのだろうか。日本もひどいが、アメリカもひどい。中国はもっともっとひどい。

暗澹たる気持ちにならざるを得ないが、香港にも、中国国内にも、最も厳しい場で苛酷な弾圧にめげずに、自由や人権を求めて闘い続けている人たちがいる。その心意気を学ばねばならないと思う。

中国問題に言及した、菅首相仕事始めの年頭記者会見

(2021年1月4日)
正月三が日の明けには、三余という言葉を思い出す。冬(年の余り)と、夜(日の余り)と、陰雨(時の余)を指して、このときにこそ書を読み思索して学問をせよということらしい。「余」という語感が面白い。原義とは離れるかも知れないが、はみ出した自由なひととき、というニュアンスがある。ならば、昨日までの正月三が日が、まさしく「三余」であった。その三が日がなすこともなく終わって、せわしい日常が戻ってきた。しかも今日は月曜日。

事情は下々だけでなく首相も同様のごとくである。本日の年頭の記者会見が、彼の仕事始め。予め用意された原稿をまずは読み上げた。下記は、その後半の一節(官邸ホームページから)。

 コロナ危機は、国際社会の連帯の必要性を想起させました。我が国は、多国間主義を重視しながら、「団結した世界」の実現を目指し、ポストコロナの秩序づくりを主導してまいります。

 そして、今年の夏、世界の団結の象徴となる東京オリンピック・パラリンピック競技大会を開催いたします。安全・安心な大会を実現すべく、しっかりと準備を進めてまいります。

 本年も、国民の皆様にとって何が「当たり前のこと」なのかをしっかりと見極め、「国民のために働く内閣」として、全力を尽くしてまいります。国民の皆様の御理解と御協力を賜りますよう、お願い申し上げます。

 客観的に見て、頗る出来の悪い文章というほかない。何を言いたいのか、言っているのか、皆目分からない。言質を取られないように、ことさら何を言っているのか分からない、具体性のない言葉を連ねているだけなのだろう。聴く人の心に響くところがない。訴える力もない。

伝わってきたのは、「東京オリパラはやりたい」という願望のみ。それも「やれたらいいな」という程度のもの。コロナ対策とどう折り合いを付けるのかという、具体策は語られない。何よりも、情熱に欠ける。

わずか15分間だが、記者からの質問に答弁した。幹事社からの質問には答弁の原稿が準備されているものの、それ以外の記者との質疑は首相にとっての恐るべき試練であり、避くべき鬼門である。

その鬼門に待ち構えていたのが、フリーランスの江川紹子。質問が聴かせた。

 「外交関係になるんですが、中国の問題です。リンゴ日報の創業者の人が勾留されたり、あるいは周庭さんが重大犯罪を収容する刑務所に移送されたというような報道がありました。天安門事件の時の日本政府の融和的な方針も明らかになって、議論も招いているところであります。菅首相はこの一連の問題についてどのように考えるのかお聞かせください」

 これに対する菅答弁は以下のとおり。

 「中国問題については、多くの日本国民が同じ思いだと思っています。民主国家であって欲しい。そうしたことについて日本政府としても折あるところに、しっかり発信をしていきたいと思ってます」

 率直で、悪くない答弁ではないか。スガ君、原稿見ないでもしゃべれるじゃないか。おっしゃるとおりだよ。中国に民主主義が根付くことは、日本国民圧倒的多数の共通の願いだ。世界の良識が「当たり前のこと」とする、人権尊重も中国に望みたいところ。

まずは、このことを口に出したことについて評価したい。その上で、今後はその言葉のとおり、「そうしたことについて、日本政府としては折あるごとに、しっかりと明瞭に発信をしていくよう」期待したい。

香港に「平和」はあるだろうか。中国にはどうだろうか。

(2021年1月3日)
昨日の毎日新聞デジタルに、「『へいわって…?』 激動の香港で日本の絵本が読まれている理由」という記事がある。

https://mainichi.jp/articles/20210101/k00/00m/030/175000c

「中国政府による締めつけが続く香港で、日本の絵本『へいわって どんなこと?』が読まれ続けている。日中韓の3カ国で出版された後、2019年12月に新たに「香港版」が刊行され、現地の出版賞も受賞した。」という内容。

浜田桂子さんが執筆した、この絵本には「へいわって どんなこと?」の問いかけに、考え抜かれたこんな答が連ねられている。
「きっとね、へいわってこんなこと。
 せんそうをしない。
 ばくだんなんかおとさない。
 いえやまちをはかいしない。

 おなかがすいたら だれでもごはんがたべられる
 おもいっきり あそべる
 あさまで ぐっすり ねむれる」

それだけでなく、
 「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる。」

そしておしまいが、
「へいわって ぼくがうまれて よかったっていうこと
 きみがうまれて よかったっていうこと
 そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」
と結ばれているという。

浜田さんは「平和絵本は戦争の悲惨さを伝えるものが中心で、これが平和だよと伝えるような作品がないと感じていました。自分にとって平和とは何かを考えられるようなものを作りたいという思いが、ずっとありました」と語っている。

この絵本の制作は中国・韓国・日本の3カ国12人の作家によるプロジェクトによって生まれた。「悲惨な戦争ない状態の平和」にとどまらず、積極的に平和とその価値を語ろうという試み。その結論は、「ぼくがうまれて よかったっていうこと。きみがうまれて よかったっていうこと。そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」と収斂する。なるほど、と頷かざるを得ない。

今、香港に、せんそうはない。ばくだんなんかおとされていない。いえやまちがはかいされているわけでもない。しかし、明らかに「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる」状況にはない。「ぼくがうまれて よかったっていうこと。きみがうまれて よかったっていうこと。そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」とは、ほど遠いものと言わざるを得ない。

だから今、「香港にはこの絵本が必要」とされているのだという。香港で絵本は増刷され、2020年末までの1年間で6000部発行された。2020年7月には、この絵本が公共放送局「香港電台(RTHK)」が主催する出版賞「香港書奨」(Hong Kong Bookprize)の9作品に選ばれた。30年以上続く伝統ある賞で、作品は「子どもの視点から、平和とは何かを伝えている。人間性の真善美を示している」と評されたと、毎日は伝えている。

この記事の示唆するとおり、香港は「平和」ではない。そのとおりだと思う。だとすれば、中国本土にも「平和」はない。香港以上に、「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる」状況にはないからだ。言論が抑圧され、平和なデモ参加者が逮捕され有罪とされる社会は「平和」とは言えない。その地に、「ぼくがうまれてよかったって。きみがうまれてよかった」という安心が得られないからだ。

日本国憲法は、人権と民主主義と平和を3本の柱として成り立っており、それぞれの柱は互いに緊密に支えあっている。日本国憲法だけではない。いずれの国や社会においても、人権と民主主義を欠いた、「平和」はあり得ない。専制が人権を蹂躙するところ、たとえ隣国との交戦はなくとも「平和」ではない。

中国では、いまだに密室での刑事裁判が行われている。

(2020年12月28日)
私は元々、嫌中でも反中でもない。むしろ、学生時代から中国の文物に親しみ、偉大な中国革命をなし遂げた中国の人民と中国共産党には畏敬の念を持ち続けてきた。

その畏敬の念が天安門事件を機に崩壊を始め、いま香港の事態の報道を通じて雲散霧消の寸前である。中国の人権と民主主義のありかたには絶望するしかない。どうしてこうなってしまったのだろうか。残念でならない。

私のような思いをもつ者は日本中に少なくないはずである。いや、世界中に無数にいるはずだ。延安からの苦難の長征を経て1949年の革命に至ったあの、輝ける理想に満ち満ちた中国人民と共産党は、今どこへ行ったのか。中国当局は、このような国際世論を歯牙にも掛けないというのだろうか。

私の無念の気持ちを、さらに鞭打つ中国の人権状況の記事は、毎日続いている。昨日と本日の記事3件を引用しておこう。法廷の公開さえ行われない人権を無視した中国刑事訴訟の実態の記事、中国に司法の独立などないことを示す香港司法の記事、そして武漢における報道の自由抑圧の記事である。

経済がうまくまわっている外観あれば、このような野蛮の横行が放任されるということなのであろうか。事態は深刻である。いや、深刻な事態に、私がようやく気付いただけなのか。

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「香港活動家を秘密裁判 中国・深センで拘束4カ月」「あす初公判 家族抗議『人権無視』」(昨日(12月27日)付赤旗)

中国広東省深セン市で4カ月にわたり拘束され、16日に起訴された香港人活動家10人の初公判が28日に同市の裁判所で開かれることが25日にわかりました。活動家の家族が中国当局指定の弁護士から得た情報を香港メディアが報じました。

香港メディアによると、裁判は非公開の「秘密裁判」で開かれ、傍聴やインターネット中継もなし。判決文も公開されず、結果は弁護士から家族に知らされるだけだといいます。家族らは25日に声明を発表し、「基本的人権を無視し、中国が対外的に宣伝する『陽光の司法(公開された司法)』原則に反している」と中国当局を強く非難。その上で、
 (1)裁判をネットで中継する
 (2)家族の代表や家族が委託した弁護士、内外メディアや各国外交官らの傍聴のもと、公開の裁判を行う
 (3)判決文を公開する
 (4)判決後、家族が活動家に面会できるようにする
―ことなどを求めました。

香港人活動家らは8月下旬、計12人で香港から台湾へ密航する途中、海上で中国当局に拘束されました。この中には、8月に国家安全維持法(国安法)違反容疑で逮捕され保釈中だった李宇軒氏も含まれています。10人のうち李氏ら8人は違法な国外渡航を企てた罪で、2人は違法な国外渡航を組織した罪で起訴されました。違法な国外渡航の罪の最高刑は禁錮1年で、違法な国外渡航を組織した罪は2?7年の禁錮刑だといいます。

16日に起訴されなかった2人の状況は判明しておらず、家族は情報を公開するよう中国当局に求めています。

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「中国共産党機関紙、黎智英氏の保釈決定非難−本土で裁判可能と警告」(Bloomberg2020年12月28日12時20分)

中国共産党機関紙の人民日報は週末の論説で、香港高等法院(高裁)がメディア企業のネクスト・デジタル(壱伝媒)創業者、黎智英(ジミー・ライ)氏の保釈を23日に認めたことを激しく批判し、裁判を本土に移して行う法的根拠があると警告した。

人民日報は黎氏(73)を「悪名高い極めて危険」な人物だとし、同氏が保有する資産と外国勢力の「動機」を考えると、保釈金が没収されても問題なく、逃亡は難しくないと指摘した。黎氏は今月、外国勢力と結託したとして香港国家安全維持法(国安法)違反の罪で起訴されていた。

人民日報は、国安法55条を中国が発動する十分な根拠があると主張。55条は外国の関与などで複雑な事案となる場合、もしくは香港政府が事実上法執行できない深刻な状況が生じた場合に中国は「国家安全を脅かす犯罪に関する事案に管轄権を行使」できると定めている。

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「武漢の実態『虚偽情報伝えた』として起訴 裁判開始」(ANN ニュース(国際) 2020年12月28日 12:29)

新型コロナウイルスの感染が最初に拡大した中国・武漢の惨状を伝えたことで起訴された中国人ジャーナリストの裁判が開かれています。
元弁護士の張さんは市民ジャーナリストとして武漢の病院の実態や遺族への当局の圧力などをSNSで発信しました。5月に突然、滞在中のホテルで拘束されて「悪意を持って嘘の情報を伝えた」などの理由で起訴されました。最長5年の禁錮刑になる可能性があります。張さんは留置施設で「当局批判に対する仕打ちで裁判自体が違法だ」として抗議のための絶食、ハンガーストライキを続けていて、健康状態が悪化しているということです。

「武漢コロナ情報で懲役4年 SNS発信で市民記者有罪 上海」(共同)

新型コロナウイルス感染症に関する「虚偽」情報を中国・武漢からネット上に発信したとして、公共秩序騒乱の罪に問われた市民記者、張展氏(37)に対し、上海の裁判所は28日、懲役4年の判決を言い渡した。この日が初公判で、即日判決となった。新型コロナを巡る情報発信で有罪となったケースは初めてとみられる。

 起訴状などによると、張氏は今年2月以降に武漢から医療現場の混乱ぶりを伝え、遺族が当局に抑圧されている問題も発信。6月に逮捕され、9月に起訴された。

司法の独立を確立するために、最高裁裁判官人事の透明化を。

(2020年12月9日)
「トランプ氏、ペンシルベニア州で敗北確定 米最高裁が訴えを棄却」という記事が踊っている。今回の大統領選挙では天王山となった激戦州ペンシルベニア(選挙人数20人、全米5番目)での選挙争訟に決着が付けられたということだ。

悪あがきというほかはない、ここまでのトランプの醜態。大統領選挙の敗北を認めがたく、あきらめの悪い訴訟を濫発してきた。その数30件に及ぶというが、連戦連敗で疾っくに勝ち目のないことは明らかになっている。それでも、連邦最高裁に持ち込めば、自分が任命した保守派の判事が逆転の判決を書いてくれるのではないか…、という一縷の望みもここに来て断ちきられた。往生際の悪いトランプも、自らが選任した保守派の判事に引導を渡されたかたち。もうお終いなのだ。

アメリカは連邦制の合衆国、訴訟の審級制は分かりにくい。ペンシルベニア州の最高裁での判決を不服として、トランプ陣営が連邦最高裁に申し立てた上訴が、12月8日あっけなく棄却となった。上訴の申し立て手続が完了した直後の棄却決定だったとほうじられている。反対意見のない9裁判官全員一致の判断。そして、この決定は理由の説示もない三くだり半。トランプの悪あがきに対するトドメに、いかにもふさわしい。

この訴えは、「大統領選をめぐってペンシルベニア州の共和党議員らが、開票集計結果の認定差し止めを求めた」もの(CNN)だったようだ。所定の期日までに、各州が開票集計結果を認定する。認定されれば確定して、それ以後は争うことができなくなるという制度なのだという。そのデッドラインが12月8日。それまでに、差し止めの判決を得なければトランプの選挙の敗北が確定することになる。結局、トランプの訴訟戦術は失敗したことになる。

この訴訟で、トラプ陣営が差し止めの根拠としたものは、選挙の不正ではなく、「郵便投票は無効」という手続の定めを争うものだった。ペンシルベニア州の地裁から、同州の最高裁まで争い、さらに連邦最高裁にまで上訴したもの。

この訴訟とは別に、最初から連邦地裁に訴えた訴訟もあったようだ。トランプ陣営は、「バイデン側に詐欺があって私たちが勝っていた」「バイデンが8000万票も獲得するはずはない」などと訴えた。が、ペンシルベニアの連邦地裁は11月21日、不正を訴える陣営の主張を「法的根拠のない推測」と一蹴。「『フランケンシュタインの怪物』のように場当たり的に縫い合わされたもの」とまで非難したという。陣営は控訴したが、連邦高裁もトランプ政権で任命された判事らがわずか数日で棄却した。

さて、問題は連邦最高裁裁判官の人事にある。トランプ劣勢とみられていた大統領選の直前、たまたまリベラル派の最高裁判事ギンズバーグが死亡した。トランプは、その後任に保守派のバレットを押し込んだのだ。露骨にジコチュウ剥き出しの大統領選対策である。これで、全9人の判事のうち保守派6人とし、選挙後に法廷闘争に持ち込んだ際に有利な最高裁を作ったのだ。

このとき、営々と築かれてきた米国の司法の権威は、国民の信頼を失って大きく傷ついた。連邦最高裁は、公正でも中立でも政治勢力から独立してもいない。司法の姿勢は政治的な思惑で左右されることを、国民は知ってしまった。今回の選挙争訟で、仮にも連邦最高裁がトランプの意向を忖度するようなことをしていたら、司法の権威についた傷が致命傷となるところだった。連邦最高裁の威信は、大きく傷つきながらも、かろうじて最悪の事態は免れたと言えよう。

一方、香港である。裁判所に毅然としたところがない。香港の高等法院(高裁)は9日、無許可のデモを組織して扇動した罪に問われ一審で禁錮10月の実刑判決を受けた民主活動家、周庭(アグネス・チョウ)の控訴にともなう保釈申請を却下した。その理由として、裁判官は「警察本部を包囲した行為は重大だ」と判断したという。これは信じがたい。犯罪行為の違法性の大小や、重大性は判決の量定において考えるべきこと。今問題となるのは、証拠隠滅と逃亡の恐れの有無ではないか。要するに、裁判所は中国の威光を恐れ、中国におもねって、周庭に判決確定前に制裁を科しているのだ。

米国の司法の独立は、露骨な裁判官の任命人事で揺れている。香港の場合は、裁判所全体が中国の意向に逆らえない。質もレベルも格段の差はあるが、両者とも司法の独立は不十分と言わざるを得ない。その両者の中間当たりに、日本の司法の基本性格があり、最高裁裁判官任命問題があろうか。現在の最高裁裁判官15名の全員が、嘘と誤魔化しで国政を私物化してきた安倍晋三の政権の任命によるものとなっている。それ自体で、最高裁の権威は薄弱となっている。最高裁裁判官任命手続、とりわけ推薦手続を、納得できる合理的なものとし透明化しなければならない。それこそ、法の支配、立憲主義、民主主義と人権擁護の第一歩である。

あらためて、中国の蛮行を批判する。

(2020年12月4日)
かつては漠然と信じていた。歴史とは、野蛮から文明への進歩の過程である、と。野蛮を克服して文明が興り、曲折はあるにせよ文明が野蛮を感化し、野蛮は文明によって淘汰されていく。これが歴史の大道であり、野蛮と文明が接すれば、やがて野蛮は文明に教化され包摂されていくに違いない…。その信念が揺るぎそうな昨今の状況である。とりわけ香港の事態が目立って深刻である。

香港では、専政から民主制へと進歩すべき歴史が逆流している。法の支配は暴力による支配に置き換えられ、権力の恣意によって自由や人権が抑圧されている。野蛮が横行して、文明を逼塞させているのだ。

権力の恣意的な発動を抑制して人権を擁護する装置として、文明は権力分立という理念と制度を普遍的な原則として採用した。香港市民は、公教育で「三権分立」を近代以後の世界の常識と学んで育った。教科書にも当然の原理として書き込まれていた。ところが、香港行政庁の林鄭月娥長官は「香港に三権分立はない」と明言した。「中国本土と同様に、香港の三権はおしなべて中国共産党の支配下にある」との意であろう。教科書も書き換えられつつあるという。

突然に香港の市民から奪われた「三権分立原則」の中で、とりわけ重要なのが人権の砦としての司法権であり、その独立である。裁判官は本来、中国共産党の顔色を窺うことなく、法と良心に従った判決を言い渡さねばならないが、それは期待すべくもない事態。

林鄭月娥は、「11月の施政方針演説では、裁判官が就任時に政府への『忠誠』を宣誓しない場合の規定を盛り込んだ条例改正をすると述べた」(時事)という。法と良心に対する忠誠を求めるというのではない、政府への忠誠である。いうまでもなく、「政府」を通じての「中国共産党」への忠誠が強要されているのだ。

中国本土では、中国共産党が当然のごとく司法部門を「指導」し、「司法権の独立」を観念する余地はないとされる。これに対し香港基本法(香港での憲法に相当する)は「司法の独立」を明記している。中国政府側は香港に「司法改革」が必要だと主張しており、行政が司法を主導する仕組みを指示していると報道されている。明らかに、ここでは文明が野蛮に侵蝕され、席巻されているのだ。

その事態の中で、一昨日(12月2日)注目されていた黄之鋒・周庭・林朗彦3氏に対する判決言い渡しがあり、その量刑はそれぞれ13月半・10月・7月の禁錮となった。いずれも執行猶予の付かない実刑である。罪状は、昨年(2019年)6月に警察本部を包囲したデモを「扇動・組織し、参加した」罪だという。

暴力的なデモではない。破壊的なデモでもない。政治的な要求を掲げた表現の自由行使に対する刑事罰。文字どおり野蛮な政治的弾圧にほかならない。文明が、野蛮に組み敷かれているのだ。

黄氏は判決後、支持者に向かい「つらいが耐え抜こう」と大声で呼びかけ、林氏も「後悔はしない」と叫んだという。これに、支持者らは「がんばれ、出てくるのを待っているぞ」と応えたと報じられている。

しかし、周氏については少し違う光景となった。同氏は下獄の経験はない。香港メディアによると、判決言い渡しの際に法廷で泣き崩れたという。私は、この報道に胸を打たれる。判決日の翌日(12月3日)に24歳の誕生日を迎えるという彼女は、判決前に自分の誕生日を自宅で過ごすことができるだろうかとの心配を隠さず、ネットに配信していた。

泣き崩れたところを見せた彼女は、決して絵に描いたような闘士ではない。自分を励ましつつ、良心に従って運動に参加してきた「普通の市民」の一人なのだ。歴史には、強靱な意思をもった多くの闘士が登場するが、その闘士像は後の世の伝説が作りあげた虚像なのではないか。むしろ、特別の人ではない、投獄は恐いと自分の弱さを隠さない普通の市民の活動こそが、多くの人の共感を呼び、運動につながる人々を励ますことになるのだと思う。

民主派支持の論調で知られる香港紙「蘋果(りんご)日報」の創業者、黎智英(ジミー・ライ)氏も2日に詐欺罪で身柄を拘束され、起訴された。そして裁判所は3日、黎氏の保釈申請を却下。黎氏は来年4月16日の次回公判まで勾留される見通し。香港では起訴後に保釈されることが多く、異例の長期身柄拘束と言える(毎日からの引用)という。

黎氏に対する起訴罪名が詐欺であることが一驚である。一見して、でっち上げ以外の何ものでもない内容。何でもありなのだ。しかも、詐欺事件にもかかわらず国安法事件を担当する裁判官(蘇恵徳)が保釈を不許可とした。今後、政府の意向に従わない裁判官の解任が心配されている。既に、民主派に無罪判決を出した裁判官が、中国系香港紙に紙面で批判されるケースも出ていると報じられている。あらためて、法の支配を貫徹する独立した司法の役割の重要性を痛感する。

中国の野蛮が、香港市民の文明を蹂躙している。人権の擁護は国際的に共通の課題である。中国の蛮行は、国際法違反である。世界人権宣言や国際人権規約、あるいはウィーン宣言など国際成文法にも反すると言わなければならない。

微力でも「中国の野蛮を許さない」「香港の民主派を支持する」という声を上げ続けたいと思う。

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