昨日(2月7日)の毎日・「経済観測」という小さな連載コラムに、宮本太郎中央大教授が「『ピケティ・ブーム』に求められる視点」と題して寄稿している。
「最後のカリスマ」宮本顕治の息子は政治学者だが、さすがに経済学にも詳しい。短い文章だが、教えられるし考えさせられる。
「各国の格差拡大を歴史的かつ理論的に論じたピケティ・パリ経済学校教授の『21世紀の資本』が世界的ベストセラーとなり、先ごろ来日した教授は、あちこちでひっぱりだこだったようである。輸出企業などの高収益が、格差や貧困の是正につながらない日本の現実が背景にある。」というのが前置きでもあり、現状認識と現状批判でもある。
続けて、ピケティの提言がこう簡潔にまとめられている。
「資本課税を含めた累進的税制による再分配強化、これがピケティ教授の処方箋である。」
ここからが本論で、ピケティとは別の角度からのものの見方と、格差是正の対応策に言及している。
「ただし忘れてはならないのは、日本がこれまで格差を相対的に抑えてきた仕組みは、再分配による福祉給付ではなかった、ということである。終身雇用や公共事業、業界保護などで、皆が仕事に就いて一定の所得を得ることができたことが、この国の安定を支えてきた。だがこうした仕組みは、成長を阻害する既得権益として、否定的に評価され解体されてきた。」
宮本の指摘は、かつて日本が「格差を相対的に抑えてきた仕組み」は、資産や所得の再分配ではなく、再分配以前の所得獲得における相対的平等性だったという。この平等性確保の中核にあった雇用創出と雇用安定の仕組みが、新自由主義的潮流の席巻とともに「否定的に評価され解体されてきた」のは周知のとおり。
ここで指摘されていることは、格差や貧困を抑える仕組みは2種類あるということ。資産や所得の事後的再分配による格差是正だけでなく、その前段の不平等の源泉である所得格差そのものの是正への留意が語られている。前者は、政治あるいは行政のレベルでおこなわれるが、後者は企業の労働現場が舞台となる。
宮本は、次のように紹介している。
「米エール大のハッカー教授は、こうした仕組みを『当初分配』(プレ・ディストリビューション)と呼び、格差の拡大を防ぐ上では、むしろ再分配より重要と主張する。皆が働ける条件が確保されず、社会が二極分解しているなら、再分配への合意も生まれないと言う。」
私は、ハッカー教授をまったく知らない。「当初分配」(プレ・ディストリビューション)という用語も初めて教えられた。だが、取り立てて目新しい考え方ではあるまい。むしろ、「社会をさまざまに解釈するだけなく、大切なのは社会を変革すること」という立場に魅力を感じてマルクス経済学を(表面なりとも)学んだ立場からは、資本と労働との「当初分配」の現場こそが格差や貧困を生み出す根源である。ここで格差が是正できるなら、それこそが本筋。
「当初分配」における不平等こそが格差や貧困の根源である。ここで、労働者の所得を増やし、しかも労働者全体の雇用創出を目指すことは、むしろ古典的な課題で、当初配分を所与のものとして、所得や資産の「再分配」という事後的弥縫策の方が、「目新しい」施策ということではないか。
宮本は日本の「当初分配」のあり方として、以下のように言う。
「もちろん、日本の旧来の仕組みでよいということではない。これからの当初分配は、男性稼ぎ主だけではなく老若男女が対象でなければならない。政治家による保護ではなく、地域で真に必要な公共事業や介護・医療での雇用などが確保される必要がある。こうした雇用機会を広げることを一定のコストがかかる『分配』ととらえるところが、当初分配論の特徴だ。地方創生とも直接に関わる提起である。」
ここらあたりは宮顕の息子の言ではない。経済合理性では生まれない雇用を政策的にコストをかけても創出することが「当初分配」のごとくである。「当初」といいつつも、実はそのコストは、事後の「再分配」としてのものなのだ。
宮本の結論はこうだ。
「ピケティ教授とハッカー教授の主張は対立するものではなく、日本に再分配の拡充は必要だ。けれども、まず当初分配をという提起は傾聴に値する。」
「まず当初分配における格差是正と公平を」という主張に異論のあろうはずはない。この点の強調のないピケティ批判には賛成だ。
だが、「当初分配」の概念を「政策的な雇用創出や安定」に閉じ込めてはならない。何よりも、労働者自身の闘いによる労働所得の増額が必要である。労働組合運動の昂揚による賃金の増額が何よりも重要であり、これを支える諸制度の充実や運用の適正も必要だ。
整備されるべきは、まともな最低賃金制度の創設であり、不当労働行為制度の厳格な活用であり、労働基本行政の厳格な実践であり、行政だけでなくマスメディアや教育機関も連携したブラック企業の追放であり、労働基本権についての実践的教育の徹底であり、フェアトレード運動の実践等々である。
そのような「初期分配」の不公正是正の実践の上に、ピケティのいう所得や資産の再分配が実施されるべきだろう。いずれにせよ、このような格差や貧困是正の論議を巻き起こしたことにおいて、ピケティの業績は極めて大きいと思う。
(2015年2月8日)
ピケティ「21世紀の資本」をパラパラめくっている。文京区立図書館への借入申込み予約順位は、現在357人中の72番である。この浩瀚な書物の予約の順番を待っていたのでは、今年中に読むことは絶対に無理。来年中も危うい。
手許にあるこの本は、知人が貸してくれたもの。とても読んだなどとはいえないが、ページをめくって、なんとなく「まあ、こんなものか」とつぶやいている。
この本を手にとると袴に「r>g」と大書されている。rとは資本の収益率、gとは所得の成長率を表す。一握りの者の私的所有となっている「資本」の増加と、社会全体の「所得」の増加との比較がテーマだ。だから、「r>gという法則がある」というのなら、分かり易い。資本の所有者が社会全体の成長に抜きん出て富を増やしていくことになり、格差は拡がることになる。
ところが、この不等式の下に、「資本収益率が産出と所得の成長率を上回るとき、資本主義は自動的に、恣意的で持続可能な格差を生み出す」と書かれている。ピケティの頭が悪いのか翻訳が下手なのか、この命題は意味をとりにくい。というか、こんな不完全な日本語では読み手が理解できるはずはない。「r>g」は、結論ではなく仮定条件とされている。この仮定が真ならば、「資本主義は格差を生み出す」というのが結論のようだ。しかし、「自動的に」も、「恣意的で持続可能な格差」も何を言っているのか、さっぱりわからない。
本文28ページに次の記載がある。
「もし資本収益率が長期的に成長率を大きく上回っていれば、富の分配で格差が増大するリスクは大いに高まる」
「この根本的な不等式をr>gと書こう(rは資本の平均年間収益率で、利潤、配当、利子、賃料などの資本からの収入を、その資本の総価値で割ったものだ。gはその経済の成長率、つまり所得や産出の年間増加率だ)。…この不等式が私の結論全体の論理を総括しているのだ」
こうして、この書物はこの命題の証明のためのものという体裁なのだ。
わかりにくいのは、r>gを、資本主義が固有に持つ法則とはしていないことだ。
「私が提案するモデルでは、格差拡大は永続的ではないし、富の配分の将来の方向性としてあり得るいくつかの可能性のひとつでしかない」と言っているのだから。
r>gは、資本主義生成以来今日までのありとあらゆる時代と地域の「現象」として語られる。r>gは、統計的に語られ、その差は大きくも小さくもなってきたが、歴史的には常になり立つものであったという。しかし、その必然性や法則性が語られることはない。
マルクスが、資本主義の「本質」として剰余価値を語り、これを資本主義社会における格差・貧困の源泉とした鮮やかさはない。ピケティ流を実証主義あるいは統計学的手法というのだろうか。天体運航の観察からニュートンが到達したごとき、原理や法則の提示はない。「傾向」が語られるだけなのだ。
脚気の原因についての陸海軍論争を彷彿とさせる。吉村昭が「白い航跡」で描くところの海軍軍医高木兼寛は、英国留学中にヨーロッパに脚気がないことを見聞する。そのことをヒントに、日本海軍将兵の脚気対策ととして、強い反対を押し切って艦内の兵食を白米から麦飯に切り替えて脚気を撲滅した。機序や学理についてはわからないままに、「現象」を「統計的に」把握しての対処に成功したのだ。一方、当時世界に冠たるドイツ医学を修めた陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)は、海軍の方策を「学理の伴わない謬論」と斥け、結局日露戦争の陸戦では脚気の兵の大量死をもたらす。
おそらくピケティ流は、海軍高木兼寛派に親和的なのだ。マルクスやニュートンの切れ味はなくとも、陸軍森林太郎派の間違いは犯していないのだろう。パラパラとめくった限りでのピケティ論である。
なお、既に旧聞に属するが、ピケティはフランス政府からの叙勲を辞退した。私には、それだけで好感をもつに十分である。
仏政府は勲章レジオン・ドヌールの授章を今月1日付の官報で発表した。しかし、ピケティは受章辞退を表明して、フランスで大きな話題となった。「だれが名誉に値するかを決めるのは政府の役割ではない」というのが辞退の弁。オランド政権の経済政策への批判も込められているという。
我が国では、天皇制の残滓として、国事行為・公的行為・皇室外交・宮中祭祀などが重要であるが、国民生活への浸透においては、「日の丸・君が代」、元号、休日、国体などとならんで、叙勲や褒賞が大きな意味を持つ。どういうわけか、勲章を欲しい人たちはたくさんいるのだ。そのさもしさが、天皇制の付け入る隙となる。
富の格差の拡大を語るピケティが喜んで勲章を受けていたのでは、学者としての姿勢のホンモノ度が疑われることになるだろう。皇帝や国王のいない共和国でのことだが、批判の対象とする政府からの叙勲を辞退したとは小気味がよい。もう少し時間の余裕ができたら読み通して、ピケティの姿勢も学んでみたいものと思う。
(2015年1月24日)
最新の世論調査結果を報じた、本日(1月19日)「毎日」朝刊2面の見出しは、大きな衝撃である。
「アベノミクス地方に浸透 6%」「格差拡大 70%」というもの。
アベノミクスこそは、安倍政権の唯一の看板である。「看板」は、不正確なのかも知れない。「撒き餌」「誘蛾灯」「漁り火」というべきであろうか。いずれにせよ、これが有権者に対する唯一のアピール・ポイントである。
安倍内閣はアベノミクス以外に、アピールポイントをもたない。憲法改悪志向、立憲主義に反する集団的自衛権行使容認、強引な特定秘密保護法の制定、民意無視の原発再稼働、近隣諸国のみならずアメリカをも失望させた靖国神社参拝、福祉の切り捨て、労働法制の改悪、庶民大増税と財界への優遇税制、教科書問題に象徴される後ろ向き教育、TPP、NHK人事、格差の拡大、貧困の蔓延‥‥。安倍政権の不人気政策は、枚挙に暇がない。
それでも、安倍内閣がここまでもってきたのは、ひとえにアベノミクスの「成果」なのだ。ところが、世論調査が、アベノミクスに見切りをつけ始めたとなれば、安倍内閣の末路が見えてきたというもの。
記事の概要は以下のとおりである。
「毎日新聞の17、18日の世論調査で、安倍政権の経済政策「アベノミクス」の効果が地方に十分「浸透している」との回答は6%にとどまり、「浸透していない」が86%に上った。内閣不支持層では96%が「浸透していない」と答え、支持層でも79%が「浸透していない」とみている。」
「安倍晋三首相は5日の年頭記者会見で「全国津々浦々、一人でも多くアベノミクスの果実を味わっていただきたい」と強調した。アベノミクスの地方への波及が課題であることは政権も認めており、統一地方選を控え、地方の不満にどう応えていくかが問われる。」
「これに関連して、日本社会の格差は広がっていると感じるかとの問いには70%が「感じる」と答え、「感じない」は23%だった。」
同調査では、「戦後70年の談話の内容」「集団的自衛権の行使の是非」「川内原発再稼働の可否」「改憲への賛否」等々の具体的な質問項目において、何一つ安倍内閣の方針は国民に支持されていない。明らかに安倍反対の声のほうが大きいのだ。
唯一、アベノミクスだけが、安倍内閣に対する国民の期待をつないできた。「今は、我慢をしても、だんだんよくなるのではないか」「ほかの道は見えていない以上、この道で仕方がない」とのつなぎ方だった。それが、「地方に浸透6%」「格差拡大70%」とは、そろそろ「我慢をしたところでちっともよくならないのではないか」「ほかの道に早めに切り替えた方かよいのではないか」と変わりつつあるのではないか。ようやくにして、アベマジックの呪文が解けつつあるように見える。
毎日だけではない。朝日の世論調査も同様の結果となっている。
「朝日新聞社は17、18日、全国世論調査(電話)を行った。安倍晋三首相の経済政策が、地方の景気回復に「つながる」と答えた人は25%にとどまり、「つながらない」は53%にのぼった。首相は今年の年頭の記者会見で「全国津々浦々、アベノミクスの果実を味わっていただきたい」と述べたが、有権者の期待感は高まっていないことが浮き彫りになった」
テレビ朝日の調査結果は、次のとおり。
「あなたは、安倍総理が進めている経済政策によって、景気回復を実際に感じていますか、感じていませんか?
感じている14% 感じていない77% わからない答えない9%」
読売の調査結果も同様である。
「安倍内閣の経済政策については、「評価する」43%、「評価しない」46%が拮抗きっこうした。安倍内閣が景気の回復を実現できるかどうかについては、「実現できる」は38%で、「そうは思わない」の47%を下回った。また、景気の回復を「実感している」は14%で、「実感していない」は81%に達している。アベノミクスの成果を実感している人は少ないようだ」
いったい、どうしてこれで安倍自民は暮れの総選挙に勝てたのだろうか。明らかに、その答は、小選挙区制のマジックにある。50%の投票率で、自民党はようやくその半分の得票を得た。絶対得票率4分の1で290議席の絶対多数がとれたのは、ひとえに小選挙区制のおかげなのだ。虚構の絶対多数。上げ底の議席数である。
しかし、どの調査でも、安倍内閣の支持率はまだ高い。これはどうしてなのだろうか。おそらくは、ライバル不在の状況の反映なのだろう。
自民党支持率は長期低落の過程を経て2009年総選挙で大敗北に至った。民意は自民を離れて民主党に移行し、劇的な民主党政権誕生を実現させた。民意は民主党に夢と希望を託した。しかしわずか3年で夢はしぼんだ。いったんは民主党政権を誕生させた民意が、今必ずしも自民に復帰したわけではない。しかし、民主党を支持して手ひどく裏切られた思いが、「安倍政権を積極支持はしないが、民主や第三極よりはマシではないか」となってあらわれているのではないだろうか。ライバル不在故の消極的支持の継続であろう。
しかし、それもアベノミクスこそが安倍内閣の命の綱。アホノミクスの正体見たりと、民意がアベノミクスを見限れば、それまでのこと。世論調査の結果は、民意がアベマジックの呪文を解いて覚醒しつつあることを示しているように思える。呪文が解け、覚醒した目で見つめれば、「アベノミクス」は「アホノミクス」に過ぎないのだ。
(2015年1月19日)
今年は、戦後70年。ということは、広島・長崎の被爆から70周年の節目の年でもある。被爆体験を風化させることなく、核廃絶の運動を大きくしていきたいものと思う。
昨年暮れの共同配信記事が、新しい形の核廃絶運動を紹介している。オランダの国際平和団体「PAX」(「平和」)は、核兵器の開発や製造に携わる「核兵器関連企業」28社を抽出し、これと取引のある企業を調べあげて、411社のリストを公表した。核兵器が「絶対悪」である以上は、「核兵器関連企業」28社は、「絶対悪」を業務とする「絶対悪企業」である。核爆弾とその運搬手段の開発・製造・管理に直接携わる企業である。ロッキード・マーチン、バブコック&ウィルコックス、ボーイング、ベクテル…など名だたる軍産複合体の中核企業の名がならぶ。死の産業の死の商人たち。これは分かり易い。
しかし、この核兵器関連企業に融資をしたり、関連企業の株式を保有する形で、これを支えている企業となると外からは見えにくい。PAXの調査による提携411社のリスト公表はこれを見える形にしたものとしてインパクトが大きい。
この公開されたリスト411社の中に、日本企業が6社ある。
三菱UFJフィナンシャル・グループ
三井住友フィナンシャル・グループ
みずほフィナンシャル・グループ
オリックス
三井住友トラスト・ホールディングス
千葉銀行
これは、貴重な情報だ。市民は直接の接触の可能性あるこの6社に対して、何らかの形で、核廃絶のメッセージを送りうるからだ。核廃絶運動が、消費者運動や市場を通じてのSRI(社会的責任投資)運動と交錯する分野が生まれた。
核廃絶運動と消費者運動との交錯とはこんなイメージだ。
あなたが、この6社のどこかに預金口座をもっていたとする。その預金の運用先としてロッキード社があるということは、あなたの預金が、銀行口座を通じて核ミサイル製造に使われているということなのだ。あなたの預金先がこの6社のどこかに限られる理由がなければ、このような銀行との取引は避けるに越したことはない。住宅ローンやら消費者ローンなど融資を受けるのも似たようなもの。利息を支払ってこのような銀行を太らせれば、核兵器企業に回す金が増えることになるだろう。
賢い消費者行動とは、安価に商品やサービスの提供を受けることだけを求めるものではない。環境やフェアトレードや労働基準や、種々のコンプライアンスに配慮した企業との取引を意識的に選択することによって、企業活動を適切にコントロールし、社会の健全化をはかることなのだ。核兵器関連企業と提携する企業6社との取引をボイコットすることは、消費者としての積極行動を通じての核廃絶運動へ寄与することになる。
核廃絶運動とSRI(社会的責任投資:Socially responsible investment)との交錯とはこんなことだ。
どの上場企業も、証券市場から資金を集めるために株主の意向を尊重しなければならない。大衆投資家やその資金を束ねたファンドが、株式の収益性だけでなく、企業倫理や企業の社会的責任のあり方を基準に投資活動をするようになれば…、企業は環境や資源保護や福祉や人権や平和などに配慮の姿勢を採らざるを得なくなる。SRIとは投資を通じて企業倫理(CE)や企業の社会的責任(SCR)を追求する運動である。投票行動とは別次元での市民による社会参加であり、企業統制でもある。
核兵器に関与する会社の株などは買うまい、買っていたら引き上げよう。あるいは株主として会社に、核兵器企業とは縁を切るよう働きかけよう、というのがSRI活用の核兵器廃絶運動形態である。(もう少し用語を整理して、使いやすくならないものか)
ところで、共同通信は、国内6社に直接取材をしているようだ。どの社も、けっして開き直りの態度はない。核兵器関連企業と取引あることの公開を好ましからざることと受け止めてはいるようだ。
三井住友トラストは報告書について「個別取引については答えられない」としている。千葉銀は「核兵器関連企業と認識しての融資ではない。いまは融資していない」という。また、オリックスは「当社が90%の株式を保有するオランダの資産運用会社の金融商品に、指摘された会社が入っていると思われる」(広報担当者)と説明。資金を直接提供しているわけではないと話している、などの反応だ。このような社会的雰囲気がある限り、「核兵器廃絶を目指す消費者運動とSRI」は成功しうる土壌をもっている。
また、共同はSRIの実践者として筑紫みずえ氏のコメントを紹介している。
「大変意義がある情報だ。マララ・ユスフザイさんがノーベル平和賞受賞のスピーチで『戦車を造るのは易しいのに、なぜ学校を建てるのは難しいのか』と問いかけたが、それは私たちのお金が学校より戦車や核兵器に使われているからだ。企業も個人もこうした情報を生かして、それぞれの価値観に沿った投資をするべきだろう。」
このコメントは舌足らずで、どうしても補っておかなければならない。
問題は、「なぜ、私たちのお金が学校より戦車や核兵器に使われているか」であり、「企業も個人も、それぞれの価値観に沿った投資をするべきだ」が当たり前のことととされる資本主義社会で、投資の方向をどうしたら「核兵器から、学校へ」切り替えることができるだろうか、ということにある。
「なぜ、私たちのお金が学校より戦車や核兵器に使われているか」
その問に対する答は簡単である。その方が儲かるからなのだ。資本の論理が貫徹する社会では、集積された資金は最大利潤を求めてうごめくのだ。
だから、「企業も個人も、それぞれの価値観に沿った投資をするべきだ」と傍観していたのでは、けっして問題解決には至らない。どうすれば「核兵器から学校へ」と投資のトレンドを変えていくことができるのか、と問題を立てなければならない。個人もファンドも、そして企業も、利潤追求の価値観が支配する資本主義原則とは別の次元で、投資先を選択する文化を創っていかねばならない。どんなに効率よく儲けることができても、兵器や麻薬への投資は社会の恐怖や病理として結実することにしかならない。
消費者運動もSRIも資本主義の枠内での運動である。しかも、民主主義的政治過程を利用しての権力的規制ではなく、市場原理に基づいた取引ルールを使っての企業統制の試みである。いまは、消費者運動もSRIも、経済社会のメイントレンドではなく、核兵器を廃絶する力をもたない。しかし、将来は未知数である。三菱や三井の企業グループが、「これまでは兵器産業は儲けが大きいと考えていたが、グループ内に軍事企業を抱えているとイメージが極端に悪くなる。消費者は商品を買ってくれないし、個人投資家やファンドは株も社債も買ってくれない。核関連産業と手を切らないと、商品は売れないし株は下がりっぱなしだし…。結局儲からない」と思わせられるところまで社会の成熟があれば、企業を核兵器関連事業から離脱させることができることになる。欧米では、これを夢物語とは言わせない運動があるという。
消費者運動とSRI。市民による資本主義的経済合理性を逆手にとっての企業統制の手法である。体制内運動として、その限界を論じることはたやすい。しかし、その可能性を追求すること、その可能性を核廃絶に結びつけること、すこぶるロマンに満ちているではないか。
(2015年1月8日)
毎日新聞が本日の社説で「ピケティ現象」を論じている。ピケティが説く「21世紀の資本」の内容よりも、「ピケティ現象」に刮目せざるをえない。毎日の社説の内容よりも、大新聞が社説として「ピケティ現象」を取り上げていることに注目し歓迎したい。時代の関心は、格差・貧困という社会病理を凝視するだけでなく、その病理の根源としての資本主義への懐疑にまで進展しているのだ。
社説は、先月8日発売の「21世紀の資本」日本語版の人気に触れて、「東京都文京区立図書館は所蔵3冊に予約が200人以上」と言っている。実はその200人の中には、わが家のリクエストもはいっている。書物の中身は、膨大な統計資料だというではないか。内容の理解にはいくつかの解説記事を読み較べたほうが賢そうだ。何よりも6000円と高価な書物。購入しようとまでは思わない。そこで図書館への予約だが、同じ考えの人がご近所で200人だ。今年中には順番が回ってきそうにない。
毎日社説の内容を要約すれば以下のとおり。
「英仏米、日本など20カ国の過去100年以上にわたる経済統計を解析。土地や株などの資産を活用して得られる利益の伸びは、人々が労働で手にする所得の伸びや国の成長率を常に上回ることを明らかにした。『資本主義のもとでは、資産を持つ人がますます富み、持たない人々との格差が広がり続ける。富も貧困も世襲されていく』と分析している。『資本主義の疲労』とも言うべき現状と今後への警告だ。」
700頁を費やして、「資本主義のもとでは、格差と貧困が拡大する」ことを実証的に述べているのだという。
これが世界のベストセラーとなっている。各地で論争を呼び起こし、体制側の人物からの賛意表明もある。この世界的関心はまさしく「ピケティ現象」である。
しかし、そんなことがこの書物の内容なら、50年前の学生や青年たちの誰もが論じていたことではないか。貧困とはマルクス主義のいう「絶対的窮乏化」であり、格差とは「相対的窮乏化」であろう。もっとも、マルクスは演繹的に論理で語っていた。ピケティは統計で語っているという差はある。
半世紀前の一冊の書物を思い出す。ジョン・ストレイチーの「現代の資本主義」。学説史的な位置づけは知らない。が、教養学部時代に相原茂教授の経済学の授業でのテキストとして使用されたこの書に大きく影響を受けた。
私が理解した限りでのことだが、大意はこんなものだったと思う。
「資本主義は、それ自体としては不合理で矛盾を抱えた体制である。発達した現代の資本主義は寡占体制と国家との癒着を特徴とするが、絶対的・相対的窮乏化を必然とし、やがて誰の目にもその不合理が受け入れがたいものとなる。
しかし、この資本主義に対する民主主義的な統制は可能で、現にそれが実現しつつある。普通選挙や法治主義、あるいは表現の自由や労働組合活動の自由などに支えられて民主的な議会が成立する。その議会によって構成される権力は、所得の再分配や社会福祉を実行して、資本主義の病理を延命可能な程度にまで解決しうる。そのことなくしては資本主義の存続はない。謂わば、政治的な民主主義が、下部構造としての資本主義の延命を可能とするのだ」
ここでは、生産手段の社会化というマルクス主義理論の根幹には触れることなく、人民の政治参加という民主主義が語られている。民主的な権力が、ケインズ的な経済政策や社会福祉政策を実現することによって、よりマシな社会を漸進的に作りうるというメッセージである。
当時、「これは典型的な修正主義的立場ではないか」「資本主義の本質に切り込んでいないことにおいて限界がある」などと言ってはみたが、資本主義の矛盾を「修正」することが悪かろうはずはない。私は、ストレイチーのような立場は、もしかしたら反革命の反動的立場かも知れないなどと恐れつつ、長い目ではそれに説得されたことになる。
資本主義の矛盾・不合理を大前提として、これをいかに「修正」するか。資本の非人間性を押さえ込み、権力を民衆の立場で行使させる。このことを意識的に目指すこと、そんな運動なら自分にも参加が可能でないか。今ある矛盾を少しでも解決できるなら、改良主義といわれても修正主義といわれても、有意義なことではないか。民主主義や人権思想、そして立憲主義がそのような、資本主義の矛盾減殺の方向にに有益と考えての憲法擁護運動への積極的賛同である。
もっとも、ストレイチーには資本主義の終焉あるいは克服の視点があった。しかし、ピケティにはそのような視点はなさそうである。「放置すれば貧富の格差は拡大する」との法則性の指摘と、これを民主的に押さえ込むべきことの指摘とにとどまるようだ。それでも、格差や貧困が資本主義が必然化するものであることの指摘は重い。今の世に、その指摘がピケティ現象となる必然性があるのだ。
毎日社説は、やや遠慮がちに書いている。
「日本では、どうだろう。…現在進行中の経済政策は『持てる者に向けた政策こそが、すべての問題を解消する』といった考えに基づいている」
新自由主義、あるいは規制緩和論とは、資本主義の矛盾や不合理を認めない基本思想である。資本の活動の自由や市場原理に対するいかなる統制ももってのほか、という考え方である。「先ず富者をしてより富ましめよ。さればやがて貧者にもひとしずくほどは恩恵もあらん」というトリクルダウン理論が、小泉政権以来の、そして安倍政権で極端化した『持てる者だけに向けた優遇政策こそが、すべての問題を解消する』政策の根拠である。ピケティ現象は、このような政権のトレンドに、多くの人々が疑問を感じていることの証左である。そして、その疑問は資本主義体制そのものにまで向けられつつあるということなのだ。
毎日社説は、末尾で「ピケティ氏は、格差を解消するため、国際協調による『富裕税』の創設を唱えている。専門家は『非現実的だ』とそっけない。」と述べている。
さて、先ほどのストレイチーである。彼は、民主主義は資本の意を抑えて累進課税や富裕税の類の創設も社会福祉の充実も当然に可能と考えた。そうでなければ資本主義はもたないとしたのだ。ピケティのいう「富裕税」を非現実的とする人々は、資本主義の終焉を望んでいる、不逞の輩に違いない。
(2015年1月3日)
トリクル(trickle)という英単語は、「トリクルダウン」という「はやりの経済用語」に接するまで知らなかった。「水滴」、「しずく」、「細流」くらいの意味のようだ。富裕者階層と貧困者階層から成る格差社会では、「富裕者層がより富めば、やがては貧困者層にも、「水滴」程度のおこぼれがしたたってくる」というのが、「トリクルダウン理論」。なにも理論というほどの大層なものではない。富裕者層とこれを代弁する者たちの願望であり、自己弁護でもある論法。その金持ちの自己弁護論法が事実に基づいてようやく否定されようとしている。
以下は東京新聞12月13日「筆洗」欄の記事。みごとなまでの明晰な解説となっている。
「『金持ちをより豊かにすれば、貧しき人々も潤う』。サッチャーさんや米国のレーガン大統領は1980年代、そういう考えで市場原理主義に沿った規制緩和や富裕層への減税などを進めた。いわゆる「トリクルダウン(したたりおちる)」効果を信じてのことだ▼その結果どうなったか。経済協力開発機構(OECD)は今週の火曜日、『多くの国で過去30年間で所得格差が最大となった。格差拡大は各国の経済成長を損なっている』との最新の分析を発表した▼推計によれば、格差拡大のために成長率はここ20年間で米国で6%、日本で5・6%押し下げられた。つまり金持ちはより豊かになったはずなのに、貧しき人は貧しいままで、経済全体の活力もそがれてきたというのだ。欧米有力紙はこの分析を大きく伝え、英紙ガーディアンは一面トップでこう断じた。<OECDはきょう、トリクルダウンという考え方を捨て去った>…」
「ガーディアンが一面トップで『OECDはトリクルダウンという考え方を捨て去った』」といったのだから、大ニュースではないか。その割りには日本のメディアでは大きく扱われていない。そのなかで、毎日新聞12月17日(水曜日)の「水説」において、中村秀明(論説副委員長)がOECD報告を引用して「逆トリクルダウン効果」を論じている。
本来しずくは上から下へ自然にこぼれ落ちるもの。しかし、現実の経済現象としては、そのようなおこぼれは30年待っても結局起こらなかった。ならば、政治や行政の力で所得の再配分機能を発揮させ、トリクルダウンを強制的に実現させてしまおう。実は、そうすることによって、富者の富が確保され、さらに増加することにもなるという解説。この「貧しい層への配慮が富裕層にも見返りとなってもたらされる」ことが、「逆トリクルダウン効果」として語られている。
経済協力開発機構(OECD)による報告書「所得格差と経済成長」を引用しての「水説」の要点を抜粋しておこう。
「1980年代に上位1割の金持ち層は最下層1割の人々の平均7倍の所得を得ていたが、2011年には9・5倍に拡大した。国別では、北欧などは低くデンマークは5・3倍。一方で英国は9・6倍で米国は16・5倍だった。最もひどいのはメキシコの30倍である。日本は10年の数値で10・7倍となっている。
格差の拡大は、経済成長にどう作用したのだろう。報告書は、90?10年の成長率について、米国では格差が拡大しなかった場合に比べると累積6・7%落ち込み、英国は9%近く、メキシコは10%低下したと推計した。日本では成長率を6%押し下げたとみている。格差が成長の足かせになる。発展途上の国だけでなく、成熟した国にも言えることだという。
日本や欧米では『自由な競争こそが経済に活力を生み成長をもたらす』という考えが強い。だが、報告書が言いたいのは違う。『不平等の解消を目指す政策は社会をより豊かにする可能性を持つ』という発想の転換である。
その政策に必要な財源は金持ち層への税率引き上げでまかなえばいい、と単純明快だ。『富裕層の税負担能力は以前より高まっている』と分析する。成長の果実はいずれ金持ち層にも及び、課税強化も成長の妨げにはならない。貧しい層への配慮が富裕層にも見返りとなってもたらされる「逆トリクルダウン」効果である。」
さらに、本日(12月20日)の毎日に浜矩子が、中村「水説」を受けた記事を書いている。「危機の真相:『くだりと のぼりと さかのぼり』 トリクルはいずこに?」というもの。経済論文という臭みを感じさせずに、さすがに上手な読み物となっている。
浜の解説でのキーワードは、自身の造語である「トリクルアップ」だ。「格差社会における下から上への富の吸い上げ」という現象のことではない。格差を放置しておくと、結局は富の集積の条件が破壊されて富者へのツケが回ってくる。この富者へのマイナス効果に着目して「トリクルアップの経済学」と言っている。
要点は下記のごとし。
「中村さんの『逆トリクルダウン効果』と筆者の『トリクルアップの経済学』は、少々違う。筆者が『トリクルアップの経済学』を思いついたのは、貧乏人をないがしろにしていると、やがてそのツケが金持ちにも回っていくぞ、という感覚から。弱い者いじめばかりしていると、巡り巡って強き者にも、その先細り効果がジワジワと及んでいく。そういうことがあるのではないか。
プラス効果の逆トリクルダウンに着目するのか。マイナス効果のトリクルアップを問題視するのか。この辺には、性格の違いが影響しているだろうと思う。明らかに、筆者の発想の方がクソ意地が悪い。弱い者いじめには天罰が下るぞ。そんな具合に脅しにかかっている。中村さんは、弱者に優しくすると、強者にも恩恵がありますよと言っている。
マイナス効果のトリクルアップは重大問題だと思う。一将功成って万骨枯ることは、許し難いことだ。だが、実をいえば、万骨枯れてしまえば、結局のところ、一将もまた功成り難しだ。」
以下のような上手な説明もなされている。
「底辺の弱さは、ジワジワとてっぺんの方にも浸透してゆく。足腰をないがしろにする経済は、足腰の弱さによって滅びる。いかほど大きな者といえども、小さき者たちの支えと需要が無ければ生きていけない。土台のもろさは、着実に頂上にトリクルアップする。ところが、頂上のにぎわいが土台までトリクルダウンする保証はどこにもない。」
「トリクルダウン」すると期待されてきたものは、おこぼれの「富」である。浜の説明による「トリクルアップ」するものは、富ではなく「ツケ」であり、「土台の脆さ」である。要するに、格差を生み出し維持してきた構造そのものが、富者の地位を脅かし攻撃することになるということなのだ。
一昔前なら、これを弁証法的唯物論適用の好例として説明することになるのだろう。あるいは資本主義の根本的矛盾の表れとして、また窮乏化理論の具体例として。中村の「水説」も浜の「危機の真相」も、資本主義の危機を回避する弥縫策を語っていることになる。しかし、どちらかといえば、中村は富者にやさしく説教を垂れ、浜は富者に向かって「悔い改めざる限り地獄に落ちるぞ」と威嚇している趣がある。もう一歩進めて、貧者の側への語りかけが欲しい。その地位を改善する方策についてでも、あるいは経済構造そのものの変革についてでも。
(2014年12月20日)