5月3日、有明での憲法集会の中央ステージで、東京朝鮮中高級学校合唱部の皆さんが、胸に響く訴えをされ、美しい歌声を聞かせてくれた。
集会後、その生徒たちがコーラスのCDを販売していた。そのうちのお一人にサインをしてもらって、1枚買った。「東京朝鮮中高級学校合唱部『ウリハッキョ ? 私たちの学校、私たちのふるさと』」というタイトル。2018年12月の収録で、1800円。これが素晴らしい。1枚といわず、もっと買っておけばよかった。
「私たちは朝鮮高校にも無償化が適用されるよう、運動を行っています。このCDの売上の一部がその運動資金に充てられます。」という訴えに応えるというだけでなく、「どこまでも澄んだ泉のような美しい歌声、心洗われるハーモニー」という惹句が、そのとおりなのだ。人にも薦めたくなる。
これまでは起床して朝食までの毎朝のBGMは、古きよき時代のアメリカンポップスだった。いま、「ウリハッキョ」がこれに代わった。「米」から「朝」にである。しばらくは、毎朝これを聞き続けることになる。
収録されているのは、下記の10曲。
このうち、「4. 声よ集まれ、歌となれ」「5. アリラン?赤とんぼ」「8. 花」の3曲が、日本語の歌詞で唱われ、その他は朝鮮語で意味は分からない。訳詞を読みながら聞いている。
1. 故郷の春
2. 私の故郷
3. 子どもたちよ、これがウリハッキョだ
4. 声よ集まれ、歌となれ
5. アリラン?赤とんぼ
6. 月夜の星芒
7. アリラン
8. 花
9. あじさい
10. 私たちのふるさと ? ウリハッキョ
題名からも分かるとおり、「故郷」の歌が多い。唱われているのは、しみじみと懐かしい故郷。遠い異国で懐かしむ故郷は、美しい自然の調和に恵まれ、豊かさをもたらす労働の喜びと自由に溢れた平和な里である。隣国からの侵略もなく、南北の分断も克服された、理想郷として追い求める彼らの故郷。それは同時に、人類共通の願いでもある。
なお、東京朝鮮中高級学校のホームページの閲覧をお勧めしたい。そこでの彼らの祖国の旗は、南北統一旗となっている。いうまでもなく、その南北分断には日本が大きな責任があるのだ。
http://www.t-korean.ed.jp/
このアルバムのほとんどが、しみじみとした、あるいはやるせない曲調である中で、日本語で唱われる「4. 声よ集まれ、歌となれ」だけが異色。労働歌の趣き。運動の歌、闘いの歌なのだ。「いますぐその足をどけてくれ。4・24(サ・イサ)の怒りがよみがえる。踏まれてもくりかえし立ち上がる」という歌詞の生々しさに、ギョッとさせられる。もしかして、私も足を履んでいる側にいるのではないだろうか。
声よ集まれ、歌となれ
どれだけ叫べばいいのだろう
奪われ続けた声がある
聞こえるかい? 聞いているかい?
怒りが今また声となる
声よ集まれ 歌となれ
声を合わせよう ともに歌おう
聞こえないふりに傷ついて
?かすれる叫びはあてどなく
?それでも誰かと歌いたいんだ
一人の声では届かない(だから)
ふるえる声でも 歌となる
声を合わせよう ともに歌おう
ただ当たり前に生きたいんだ
ただ当たり前を歌いたいんだ
いますぐその足をどけてくれ
4・24(サ・イサ)の怒りがよみがえる
踏まれてもくりかえし立ち上がる
君といっしょならたたかえる
声よ歌となれ 響きわたれ
声を合わせよう ともに歌おう
この歌詞の中に出て来る「4・24(サ・イサ)の怒り」とは、次のできごとを指す。
「連合軍総司令部(GHQ)の指示により、文部省(当時)は1948年1月24日、各都道府県宛に『朝鮮人設立学校の取り扱いに関する文部省学校教育局長通ちょう』(第1次閉鎖令)を通達。従わない場合は学校を閉鎖するよう指示した。
同胞らは各地で抗議活動を広げ、48年4月24日、兵庫では県知事に閉鎖令を撤回させた。
しかしその夜、GHQが『非常事態宣言』を発令し、いわゆる『朝鮮人狩り』が始まった。大阪の同胞たちは26日、府庁前で3?4万人規模の集会を行い、朝鮮人弾圧と閉鎖令の撤回を訴えた。大阪市警は放水・暴行で取り締まり、射撃まで行った。大勢の同胞らが不正に検挙されただけでなく、警察が発砲した銃弾によって、当時16歳の金太一少年が犠牲となった。
民族教育を守るための同胞たちの闘いは、閉鎖令の撤回を勝ち取った4月24日の兵庫での闘いに象徴的な意味を込め『4・24教育闘争』と呼ばれるようになった」(「朝鮮新報」〈在日本朝鮮人総聯合会機関紙〉記事)
以上は、ブログ「アリの一言」(鬼原悟さん)からの引用だが、同ブログは「GHQ(実質はアメリカ)と日本による暴力的な民族(教育)弾圧に対する朝鮮人の闘いの象徴が『4・24教育闘争』です。それは日本人にとって、戦後の朝鮮人差別・弾圧の象徴的な加害の歴史なのです。しかも、決して70年前の「過去のこと」ではありません。文字通り今日的な問題です。」と続けている。まったくそのとおりなのだ。
「4・24(サ・イサ)の怒りがよみがえる」という、「声よ集まれ、歌となれ」は、2013年に朝鮮大学校生によってつくられ、朝鮮高校への「無償化」適用を訴える文科省前「金曜行動」のテーマソングとなっているという。文字通り、闘いの歌として生まれ、闘いの中で唱い継がれている。私も、毎朝これを聞いて、思いを重ねることにしよう。
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価格: 1,800円 (本体 1,667円)
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(2019年5月7日)
日本民主法律家協会の機関誌・「法と民主主義」4月号【通算537号】は、来週中に発刊となる。特集の総合タイトルが、「日韓関係をめぐる諸問題を検証する」というもの。発刊に先だって、そのリードをご紹介する。
時あたかも「3・1独立運動」から100周年といういま、日韓関係が過去最悪の事態と言われる。保守層の一部では、あろうことか、「日韓断交」の言葉さえ飛びかっているという。
2018年10月30日、韓国大法院は新日鉄住金の上告を棄却して、元徴用工の賠償請求を認容した原判決を確定させた。この大法院判決は、韓国における三権分立が正常に作用していることを示すものである。しかし、それ以来の急激な日韓関係の軋みである。
同年11月21日には、日韓「慰安婦」合意(2015年12月28日)によって設立された「和解・癒し財団」の解散が発表されて、同合意は事実上崩壊した。同月29日には、三菱重工に対しても、新日鉄住金と同内容の徴用工事件判決の言い渡しがあった。さらに、同年12月20日には、韓国海軍の広開土国王艦から自衛隊機に対する「レーダー照射」問題が生じ、これが外交問題となって日韓関係の悪化に拍車がかかった。
その上、今年の2月7日には、韓国議会(一審制)の文喜相議長が、天皇に対する元慰安婦への謝罪要求発言があったとして物議を醸すに至っている。
保守の朴槿恵大統領時代には、比較的「円満・良好」だった安倍政権との関係が、市民の「キャンドル革命」によって樹立された文在寅政権とは基本的に反りが合わないというべきか、軋轢が噴出している。
その軋轢が、日本国民のナショナリズムの古層を刺激し、韓国に対する排外・差別感情を醸成している点で、看過しがたい。冷静に、問題を歴史の根本から見つめなければならない。
問題の根源は、旧天皇制日本による朝鮮植民地化の歴史にある。そして、韓国の軍事独裁政権と日本の保守政権とで合意された、日韓の戦後処理の杜撰さにも大きな問題がある。また、現在進行しつつある、南北関係や米朝関係の大きな変化の反映という側面も見なければならない。
現在の日本国内の事態は、政府に煽られた形で、メディアや世論が韓国批判の論調一色に染められていると言って過言でない。対韓世論悪化の元凶は、明らかに日本政府である。
本特集は、法律家の任務として、かつて日本の植民地支配時代に侵害され蹂躙された朝鮮・韓国の人権回復の法理を再確認するとともに、これまでの日中・日韓の各戦後補償訴訟の到達点を踏まえて、政権のデマゴギーを許さない運動に役立てようとするものである。
本特集の構成は以下のとおりである。
◆巻頭論文として、和田春樹氏の「日・韓・朝 関係の戦後史」(仮題)を掲載する。植民地支配を脱した韓国朝鮮が、東西対立の最前線として、朝鮮戦争を余儀なくされたところからの現代史を通覧して、軋んだ現状の原因となった日韓、日朝の戦後補償問題の経過と、米国を含む現状の国際関係までを把握するためである。
◆次に、植民支配の残滓を清算すべきでありながら不十分に終わった、「日韓の戦後処理の全体像と問題点」を、この点に精通している山本晴太弁護士の寄稿が明らかにする。
◆日韓の請求権問題は、中国の戦後補償訴訟との共通点をもつ。その訴訟実務を担当した森田大三弁護士が、「中国人強制連行・強制労働事件の解決事例」を踏まえて、韓国徴用工問題解決への展望を語っている。
◆また、「韓国徴用工裁判の経緯、判決の概要と今後の取り組みについて」は、専門実務家の立場から、川上詩朗弁護士が全体像を明確にしている。
◆梓澤和幸弁護士の「徴用工判決と金景錫事件」は、訴訟において和解による被害救済を実現した、貴重な実例の報告である。
◆大森典子弁護士「日韓合意の破綻──『慰安婦』問題と日韓関係」は、日本の朝鮮植民地支配時代の人権侵害を象徴する「慰安婦」問題における、2015年合意の脆弱な弱点を指摘するものである。
◆最後に、韓国側の事情を中心に、「文政権と南北宥和 ― その対日政策への影響」について、東京都市大学・李洪千准教授に解説をお願いした。
以上のとおり、求めるところは人権尊重の原理が国境を越えた普遍性を有していることの再確認であり、日韓市民間の友誼と連帯を通じての北東アジアの平和の構築である。本特集が、その理解と運動に寄与することを強く願う。
(担当編集委員 弁護士 澤藤統一郎)
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「法と民主主義」は、毎月編集委員会を開き、全て会員の手で作っています。憲法、原発、司法、天皇制など、情勢に即応したテーマで、法理論と法律家運動の実践を結合した内容を発信し、法律家だけでなく、広くジャーナリストや市民の方々からもご好評をいただいています。定期購読も、1冊からのご購入も可能です(1冊1000円)。
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(2019年4月21日)
韓国の旅の報告をしなければならない。もちろん、わずか5日間の旅では群盲象を撫でたに過ぎない。それでも、私が撫でた部分では、韓国の市民運動の強さ、民主主義の根深さに手応えがあった。学ぶべきところ多大との印象だった。中でも、革新ソウル市のあり方に驚いた。もちろん、東京都と比較してのことである。
2月19日(火)、韓国ピースツアー2日目の早朝は寒かった。しかも、相当に激しい雪だった。宿泊先のコリアナホテル22階から間近に見えるはずのソウル市庁舎が、雪に煙ってまったく見えない。寒さに震えて訪ねたソウル市庁舎で、温かい歓迎を受けた。
ソウル特別市の人口は約1000万人。24行政区を抱えて、東京都に相当する。革新市政だと聞いてはいたが、これほど緻密に理念を尊重しながら行政を行っていることは知らなかった。
市長は、朴元淳(パク・ウォンスン)。文在寅と同期の弁護士である。市長選では、野党統一候補として与党候補を破っての当選で、現在3期目。文在寅大統領の後継者だと、あちこちで聞かされた。
至るところにあったソウル市のロゴマークが、「I・SEOUL・U」。よく見ると、文字列の中央にある「O」の字の上に、小さいヒゲがついている。これが、何か意味あるものなのか、単なる視覚的デザインなのかは分からない。2015年以来のものだとのこと。「SEOUL」を動詞として読むのであれば、使う人のイメージ次第でどうとでも解することができる。市政が優しく暖かいイメージを持ってもらおうとしての、このロゴの採用なのだろう。市庁舎全体が暖かく、「どなたもおいでなさい」「どんなご意見にも耳を傾けます」という雰囲気だった。
ツアーの主催者からは事前に格別の要望はしていなかったようだが、市側は、我がツアー参加者35名のはいる部屋を用意してくれた。3名の職員が、行き届いた資料を準備して、2時間余りの時間を割いて、市政の一端をレクチャーしてくれた。市が用意したテーマは二つ。「ソウル特別市における非正規職の正規職化」と、「訪問する住民センター ?公共と住民がともに作る革新?」というもの。それぞれ、担当者が日本語パワポを駆使しての説明。これがおざなりなものではない。そして、みごとな日本語通訳。正直のところ驚いた。その生真面目さと、その熱意に、である。
最初のレクチャーは、「労働民生政策官室」の担当者によるものだった。ソウルは、自らを『労働尊重特別市』と宣言して、まず自らが勤労者の利益を守る実例を示すことで、市内の企業を「模範的な使用者に導く」方針を持っているという。このことを「公共部門が模範例となり、民間部門に拡散させる」とスローガン化している。
こうして、「自治体として初めて、市政全般において労働問題を政策化した」と胸を張る。その成果として、最も顕著なものが、「非正規職の正規職化」であるという。
正規職化の取り組みは、2012年から始まった。その理念は、「社会的・経済的二極化の是正、持続可能な発展に向け、非正規職問題に市が他に先駆けて取り組む」というものだった。
市は、緻密なプロセスを策定し、業務委託の「間接雇用労働者」を、直接雇用の「期間制・準公務員」に切り替え、さらに正規職の公務員労働者に切り替えたという。2019年2月までの正規職化が実現した人数は、10,209人に上るという。
この間、平均賃金は年間180万円上昇し、休日、有給休暇、福利厚生も拡大した。今、取り組みの中心は、「所属感や自尊感情の低下など、不合理な処遇における差別」の払拭だという。
何より感心させられたのは、労働条件と福利の向上だけを問題にするのではなく、「労働尊重文化の政策化」だという。この取り組みの成果は、中央政府新政権の非正規職解決のモデルにもなり、光州市など他の自治体にも波及しているという。
資本の要請をどこまでも追認して非正規化容認の日本の労働行政とは、まさしく正反対の方向。自治体が先頭を切って正規職化し、これを民間に拡げていこうという政策に、度肝を抜かれた思い。
報告が終わるや、矢継ぎ早に質問の手が上がった。予算はどれだけ増えたのか。その財源は。労働組合はどんな役割を果たしたのか。議会の意見はどうだったか。何よりも、ソウル市の住民は納得しているのか。予算を切り詰めよ、そのために、職員の給与を抑えよ、という声をどう説得したのか…。とても、時間か足りない。
「訪問する洞住民センター ?公共と住民がともに作る革新?」は、市の「訪問する洞住民センター」推進支援団長のレクチャーだった。「洞」とは、最小単位の行政機関として、洞ごとにある「住民センター」が、住民と密着しながら福祉行政を進めている。「訪問する洞住民センター」とは、待ちの姿勢ではなく、自ら福祉を必要とする現場に出向く姿勢を強調したネーミング。
しかも、住民福祉を公務員だけが担うというのではなく、「公共」と「市民」との緊密な連携のもとに、民間の力を引き出して、住民自治を基本に総合的な政策を行うという。
ここでも驚くべきは、貧困・疾病・社会的孤立などを解決するために、福祉の人手が不足として、2015年から2018年までに、福祉関係職員を2,802人増員したという。
こうして、福祉国家的理念からは「人間としての尊厳を維持するに足りる生活を権利として享受できる制度的な保障」を、市民社会的観点からは「自分の暮らしと社会環境に対する自己決定権の獲得と実行」を、目指すものだという。
この報告の最後に、パク市長の記者会見の言葉が引用されている。「『訪問する洞住民センター』の人々は、行政の効率より人間を最優先する『人権公務員』になります」というのだ。
熱く語る担当者に気圧された感があった。「どうして、そんなに熱心になれるの?」という質問に、こんな答が印象的だった。
「自分の場合は、セウォル号事件の影響が大きい。あのときの国民の問いかけが、『これが国家なの?』というものでした。この問いかけは、地方公務員である私にも向けられたものだと思いました。セウォル号事件を批判する大きな国民の声と行動に私も真剣に応えなければならない。その思いが、自分を変えたはずです」
私たちには野田市の児童虐待死事件が生々しい記憶としてあった。児童相談所の消極的な姿勢を歯がゆく思う気持ちが強く、「積極的に福祉に必要なところに訪問する人権公務員」には、大きな拍手を惜しまなかった。
この日ソウルは寒い雪の空だったが、市庁舎の中での報告には熱気がこもっていたた。今、韓国はどこも熱い。そう思わせるソウル市庁舎訪問。それにしても、嗚呼、彼我の差かくも大なる小池百合子都政を何とかしなくては。
(2019年3月6日)
昨日(3月1日)、石川逸子さんをご自宅に訪ねた。石川さんは知られた詩人であるが、花鳥風月や雪月花を詠む人ではない。被爆者・戦争犠牲者・日本軍「慰安婦」・徴用工など、常に虐げられた人・苦しい境遇の人、そしてひっそりと忘れられた人々に思いを寄せての詩作をされる。3月1日にお目にかかるに、まことにふさわしい方。そのインタビュー記事は、間もなく「法と民主主義」に掲載となる。
石川さんから、「最近はこんなとをしています」と、小冊子をいただいた。「風のたより」と題する不定期刊行物で第16号とある。32頁の縦書きパンフだが、帰宅後に目を通してその内容の充実ぶりに驚いた。
南京事件の証言、台湾人「慰安婦」の証言、中国人強制連行事件、朝鮮人強制連行犠牲者への追悼。戦場の父からの手紙、翁長知事への追悼・日米地位協定、三井三池炭坑炭塵爆発事故、フクシマの事故、核兵器禁止条約…。書き下ろしと、詩と証言と手紙と運動体の通信からの転載など、いずれも読むに値するものばかり。石川さんのところに、読むに値するものが集まってくるのだ。
なかで、興味を引く一文を紹介させていただく。関東大震災後の朝鮮人虐殺事例は数多く報告されているが、このようなかたちで虐殺から救った日本人がいたことは知らなかった。特筆に値する事例だと思う。
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大きな愛
関東大震災時朝鮮人虐殺に抗して
京都在住の詩人、片桐ユズル氏から、お手紙をいただいた。
お手紙によると、日中戦争がはじまる前は、大人が集まると話題は関東大震災のことだったという。そのとき、幼いユズル少年がチラと耳にはさんだのは、白分のひいばあちゃん、片桐けいが、朝鮮人を肋けて警視庁から表彰されたとのこと。それ以上、知らないままでいたところ、当時18歳だった父、片桐大一氏が、そのことをのちに英文で記していたのである。
そして、大一氏(享年90)の葬儀のとき、ユズル氏の弟、中尾ハジメ氏が日本語訳し、コピーして会葬者に配ったのだという。
以下、その文章を載せさせていただく。
25万5000の家屋を倒壊させ、さらに44万7000棟を焼失させた関東大震災で、首都東京は平地と化してしまった。一週間ほどで私たちは、めちゃめちゃにひっくり返ってしまったものをもう一度たてなおそうと、気を取りなおし始めていた。私たちのつぶれかけた家は、引きたおし、建てなおさねばならなかった。その日の午後、荻窪駅の近くで建築業者と材木商との打ちあわせを終えて、私は家へ帰るところだった。
未曾有の破壊は東京周辺のいくつかの地域でどうにも手のつけがたい無秩序をもたらしていた。大異変が人びとの理性の平衡を失わせたのだ。最も野蛮な不法行為まで起こっていた。
もっともらしく歪められ拡大された恐ろしい噂が、またたくまに、広く走り、朝鮮人たちが反乱を企んでいる、あちこちの井戸に毒を役げこんだ、そして何人かはその場で捕えられ殺されたというのだ。家にむかいつつあった私は、近所の大地主の一人飯田さんの畑で一人を斬首刑にすると、通りがかりの人たちが話しているのを耳にした。好奇心で私はその私刑の場へと急いだ。
数分で私はそこにいた。たくさんの人が集まっている。異常に張りつめた空気を感じとることができる。たぶん何も悪いことをしていない一人の朝鮮人に行われようとしている非法な斬首刑をはっきり見ようと、私は厚い人垣をかきわけて、最前列にまで無理やり進んだ。この男が捕らわれたのは、ただ彼が朝鮮人だったからだ。
この白昼、これほど多くの目撃者のまえで一人の人間が殺されるのを見る。なんという衝撃か。どうして、これほど多くの者がこの光景を傍観できるのか。法治社会でこんな刑罰が許されるのか。
犠牲者は地面にはだしで坐らされている。若く見える。が、私には、その背中しか見えない。彼は動かず、じっと静かにしている。逃げることは不可能だ。逃げようとはしていない。運命をあきらめているのか。取りかこんで立つ男たちの手にする、にぶく光る刀が触れる瞬間、血がほとばしるのを知っているのか。やがて永遠の瞬間がきて、刀がひらめき、無抵抗の肉と骨に落ちていくのを知っているのか。私の心臓は、のどにまで上がり、息がつまる。周りのだれも動かなかった。この逃れがたい死の場面はいつ終わるのか。何という瞬間だ!
反対がわに立っている群集のなかにざわめきがあがった。何だろう。厚い人垣をかきかけて一人の女が出てきて、自警団の輪のまんなかに身を投げだした。大地に自分をたたきつけるようにして、その朝鮮人のまぢかに、その背中によりかからんばかりに坐った。
何と! なぜ! どうして! この新た闖入者は私白身の祖母に他ならなかった。私のおばあちゃん、年老いてひ弱な。おばあちゃんは、何をしようというのか。
「さあ、まず私を殺しなさい。先にこの老いぼれた私を殺しなさい。この罪もない若者を殺すまえに、私を殺しなさい。」わめいたのではなかったがその声はみんなに聞こえた。だれもしゃべらず、だれも動かなかった。おばあちゃんは同じ言葉を数回くりかえし、くりかえすごとに、ますます毅然と決意が見えてきた。あの威厳はどこからくるのか。
ほっとしたことに、この危機的な瞬間は長くはつづかなかった。引き抜かれた刀は、血を流すことなく元の鞘に収められた。死刑執行者たちは、この二人の坐ったままの老人と若者に背をむけると、一人また一人と去っていった。何という変わりようだ、ほんのわずかの間にこんなに従順でおとなしくなってしまうとは。ほっとした様子を見せたものさえいたし、負け犬のように立ち去ったものもいた。
群集は去り、私はおばあちゃんを連れて家に帰った、というか、おばあちゃんが帰ろうといったのだろうか? 彼女は、もはや決意も威厳も見えず、普通の年寄りになっていて、私のわきをとぼとぼと歩くのだった。
その若い朝鮮人は、後で大工だということがわかった。私たちの近所を回り修理仕事をしていたのだ。彼の名はダル・ホヨンで、日本名をサカイといった。
何日も何週間もたち、私たちはあの事件には何も触れずにいた。というのも、あの恐ろしい私刑の場面を思い出すのが怖かったからだ。何か月かたって、おばあちゃんは警視庁に出頭せよといわれた。彼女はそこで人命救助により「警視総監賞」を受けた。
友のために自分の命をあたえるばど人きな愛はない。…それにしても、なんと大きな勇気をもち、断固として、非道な行為に、武器をかざした一団に立ち向かわれたことであろうか。(以下略)
(2019年3月2日)
本日、韓国は「三一節」。「3・1独立運動」を記念する日として祝日になっている。100年前の今日、1919年3月1日ソウルのパゴダ公園(現タプコル公園)で、独立宣言文が読み上げられ、「独立万歳」を叫ぶ大きなデモ隊がここから出発した。これを端緒に「独立万歳」の声が、全国にとどろいて日本の支配を揺るがせた。1910年の日韓併合から9年目の大事件であった。
日本の総督府は、苛酷な武力の行使をもってこれを弾圧した。この運動に参加し、官憲に殺害された人の数は、7500名余に及ぶとされている。
一週間前の金曜日(2月22日)、私たち韓国ピースツアーの一行は、タプコル公園を訪れた。おそらく3月1日には、ここでも記念式典が予定されているのだろう。公園はよく清掃されていた。1762文字でつづられた独立宣言全文を彫った大きな銘板が足場を組んで、拭われていた。独立宣言文の署名者は、33名の「朝鮮民族代表」とされているが、その筆頭が天道教(元・東学)のソン・ビョンヒ。その立像が建立されている。
そして、朝鮮全土に展開された「3・1独立運動」の模様を描いた銅板のレリーフが多数並んでいた。その中の1枚が、「韓国のジャンヌダルク」といわれる柳寛順(ユ・グァンスン)の姿を描いたもの。さながら、群衆を率いる「自由の女神」のごときポーズ。官憲に恐れず立ち向かう彼女が手にしているのは太極旗なのだろう。
柳寛順は17歳の学生で、デモを組織し指揮し、両親は日本憲兵の発砲で殺され、自身は逮捕される。デモでの受傷と拷問で獄死するが、死の直前まで「独立万歳」と叫び続けたという。このレリーフと彼女の写真が、学び舎の中学歴史教科書「ともに学ぶ人間の歴史」212頁に掲載されている。
それから100年目の3月1日。光化門広場(東京なら、さしずめ皇居前広場に当たる)に、1万人余の参加者を得ての政府主催の記念式典が行われた。文在寅(ムン・ジェイン)大統領の格調高い演説は、最後に柳寛順(ユ・グァンスン)に触れた。その長文の演説(全文ではない)を引用しておきたい。3・1独立運動が今日に持つ意義をみごとに描いている。
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尊敬する国民の皆さん、海外同胞の皆さん。100年前のきょう、われわれはひとつでした。3月1日正午、学生たちは独立宣言書を配布しました。午後2時、民族代表たちは泰和館で独立宣言式を行い、タプコル公園では約5000人が一緒に独立宣言書を朗読しました。
たばこをやめて貯蓄し、かんざしと指輪を差し出し、さらには切った髪を売って国債報償運動に加わっていた労働者や農民、婦女子、軍人、車夫、妓生、と畜業者、作男、零細商人、学生、僧侶など平凡な人々が三・一独立運動の主役でした。
その日、われわれは王朝と植民地の百姓から、共和国の国民へと生まれ変わりました。独立と(植民地支配からの)解放を超え、民主共和国のための偉大な旅路を歩み始めました。
100年前のきょう、南も北もありませんでした。ソウルと平壌、鎮南浦と安州、宣川と義州、元山まで、同じ日に万歳の声がわき上がり、全国あちこちに野火のように広がっていきました。
3月1日から2カ月間、南北韓を分かたず全国220の市・郡のうち211の市・郡で万歳デモが起こりました。万歳の声は5月まで続きました。当時、朝鮮半島の人口の10%にもなる約202万人が万歳デモに参加しました。約7500人の朝鮮人が殺害され、約1万6000人が負傷しました。逮捕・拘禁された人は実に4万6000人ほどに達しました。
最大の惨劇は平安南道の孟山で起きました。3月10日、逮捕・拘禁された教師の釈放を要求しに行った住民54人を日帝は憲兵分遣所内で虐殺しました。
京畿道・華城の提岩里でも教会に住民を閉じ込めて火を放ち、幼い子どもも含めて29人を虐殺するという蛮行が起きました。
しかし、それとは対照的に朝鮮人の攻撃で死亡した日本の民間人はただの一人もいませんでした。
民族の一員として誰でもデモを組織し、参加しました。われわれはともに独立を熱望し、国民主権を夢見ていました。三・一独立運動の声を胸に収めた人々は、自分と同じ平凡な人々が独立運動の主体であり、国の主人だという事実に気付き始めました。そのことが、より多くの人の参加を呼び込み、毎日のように万歳を叫ぶ力になりました。
歴史を正しくすることこそが、子孫が堂々とできる道です。親日残滓の清算も、外交も未来志向的に行われなければなりません。「親日残滓の清算」とは、親日は反省すべき、独立運動は礼遇を受けるべきという最も単純な価値を立て直すことです。この単純な真実が正義であり、正義がまっすぐあることが公正な国の始まりです。
日帝は独立軍を「匪賊」、独立運動家を「思想犯」と見なして弾圧しました。このときに「アカ」という言葉もできました。思想犯とアカは本当の共産主義者だけに使われたのではありません。民族主義者からアナーキストまで、全ての独立運動家にレッテルを張る言葉でした。左右の敵対、理念の烙印(らくいん)は日帝が民族を引き裂くために用いた手段でした。解放後も親日清算を阻む道具になりました。
良民虐殺、スパイでっち上げ、学生たちの民主化運動にも、国民を敵と追い込む烙印として使用されました。解放された祖国で日帝警察の出身者が独立運動家をアカとして追及し、拷問することもありました。多くの人々が「アカ」と規定されて犠牲になり、家族と遺族は社会的烙印の中で不幸な人生を送らねばなりませんでした。
今もわれわれの社会で政治的な闘争勢力をそしり、攻撃する道具としてアカという言葉が使われており、変形した「イデオロギー論」が猛威をふるっています。われわれが一日も早く清算すべき代表的な親日残滓です。
われわれの心に引かれた「38度線」は、われわれを引き裂いた理念の敵対をなくすとき、一緒に消えるでしょう。互いに対する嫌悪と憎悪を捨てるとき、われわれ内面の光復(植民地支配からの解放)は完成するでしょう。新たな100年はその時になって初めて本当に始まります。
尊敬する国民の皆さん、過去100年、われわれは公正で正義のある国、人類全ての平和と自由を夢見る国に向けて歩んできました。植民地と戦争、貧しさと独裁を乗り越え、奇跡のような経済成長を遂げました。
四・一九革命と釜馬民主抗争、五・一八民主化運動、六・一〇民主抗争、そしてろうそく革命を通じ、平凡な人々が各自の力と方法でわれわれ皆の民主共和国を築いてきました。三・一独立運動の精神が民主主義の危機のたびによみがえりました。
新たな100年は真の国民の国を完成させる100年です。過去の理念に引きずられることなく、新たな思いと気持ちで統合していく100年です。われわれは平和の朝鮮半島という勇気ある挑戦に乗り出しました。変化を恐れず、新たな道に踏み込みました。
2017年7月、ドイツ・ベルリンで「朝鮮半島平和構想」を発表した時、平和はとても遠くにあり、手に入れることができないように思えました。しかし私たちはチャンスが訪れた時に飛び出し、平和をつかみました。
平昌の寒さの中、ついに平和の春は訪れました。昨年、金正恩委員長と板門店で初めて会い、8000万の民族の心を一つに、朝鮮半島に平和の時代が開かれたことを世界の前で宣言しました。9月には綾羅島競技場で15万の平壌市民の前に立ちました。大韓民国の大統領として平壌市民に朝鮮半島の完全な非核化と平和、繁栄を約束しました。
朝鮮半島の空と地、海から銃声が消えました。非武装地帯で13柱の遺骨と共に、和解の心も発掘しました。南北の鉄道と道路、民族の血脈がつながっています。黄海5島の漁場が広がり、漁民たちの満船の夢が膨らみました。
虹のように思われた構想が、われわれの目の前で一つ一つ実現しつつあります。もうすぐ非武装地帯は国民のものになるでしょう。世界で最もよく保存された自然がわれわれへの祝福となります。
朝鮮半島の恒久的な平和は、多くの峠を越えることで確固たるものとなります。ベトナム・ハノイでの2回目朝米(米朝)首脳会談も、長時間の対話を交わし相互理解と信頼を高めただけでも意味ある進展でした。とりわけ両首脳の間で連絡事務所の設置まで議論がなされたことは、両国関係の正常化に向けた重要な成果でした。トランプ大統領が示した持続的な対話の意志と楽観的な展望を高く評価します。より高い合意へ進む過程だと考えます。
ここで、われわれの役割が重要になってきました。わが政府は米国、北と緊密に意思疎通しながら協力し、両国間の対話の完全な妥結を必ず実現させてみせます。
これからの新たな100年は、過去とは質的に異なる100年になるでしょう。「新朝鮮半島体制」へと大胆に転換し、統一を準備していきます。「新朝鮮半島体制」はわれわれが主導する100年の秩序です。国民と共に、南北が共に、新たな平和協力の秩序を生み出していくのです。
朝鮮半島の「平和経済」時代を開いてまいります。
金剛山観光と開城工業団地の再開案も米国と協議します。南北は昨年、軍事的な敵対行為の終息を宣言し、「軍事共同委員会」の運営に合意しました。非核化が進展すれば、南北間で「経済共同委員会」を構成し、南北双方が恩恵を享受する経済的な成果を生み出すことができるでしょう。
南北関係の発展が朝米関係の正常化と朝日(日朝)関係の正常化につながり、北東アジアの新たな平和安保秩序も拡張されます。三・一独立運動の精神と国民統合を礎に、「新朝鮮半島体制」を築いていきます。どうか全国民が力を合わせてください。
朝鮮半島の平和は南と北を超え、北東アジアと東南アジア、ユーラシアを包括する新たな経済成長の原動力となるでしょう。100年前、植民地になったか植民地転落の危機に直面したアジアの民族と国々は、三・一独立運動を積極的に支持してくれました。
当時、北京大学の教授として新文化運動を導いた陳独秀は「朝鮮の独立運動は偉大で悲壮であると同時に明瞭で、民意をもってしながらも武力を用いなかったことで世界の革命史に新紀元を開いた」と語りました。
朝鮮半島の縦断鉄道が完成すれば、昨年の光復節(日本による植民地支配からの解放記念日)に提案した「東アジア鉄道共同体」の実現が早まるでしょう。それはエネルギー共同体と経済共同体に発展し、米国を含め多国間平和安保体制を固めることになります。
朝鮮半島平和のために日本との協力も強化します。「己未(三・一)独立宣言書」は三・一独立運動が排他的感情ではなく全人類の共存共生のためのものであり、東洋平和と世界平和に向かう道であることを明確に宣言しました。
過去は変えられませんが、未来は変えることができます。
歴史を鑑として韓国と日本が固く手を握る時、平和の時代がわれわれに近付くでしょう。力を合わせて被害者の苦痛を実質的に癒やす時、韓国と日本は心が通じ合う真の友人になるでしょう。
尊敬する国民の皆さん、海外同胞の皆さん、過去の100年、われわれが共に大韓民国を耕してきたように、新しい100年、われわれは共に豊かに暮らさなければなりません。
世界は今、両極化と経済不平等、差別と排除、国家間の格差と気候変動という地球レベルの問題解決のために新たな道を模索しています。われわれは変化を恐れず、むしろ能動的に利用する国民です。
われわれは最も平和で文化的な方法で世界民主主義の歴史に美しい花を咲かせます。
われわれの新たな100年は平和が包容の力につながり、包容が共に豊かに暮らす国を作り出す100年になるでしょう。包容国家としての変化をわれわれが先導することができ、われわれが成し遂げた包容国家が世界包容国家のモデルになり得ると信じています。
三・一独立運動は今もわれわれを未来に向かって進ませてくれています。われわれが今日(三・一運動の象徴である独立運動家)柳寛順(ユ・グァンスン)烈士の功績を見直し、独立有功者の勲格を高めて新たに褒賞するのも、三・一独立運動が現在進行形だからです。
柳寛順烈士は(忠清南道・天安の)アウネ市場で万歳デモを主導しました。
(ソウルの)西大門刑務所に閉じ込められても死を恐れず、三・一独立運動1周年万歳運動を行いました。しかし、何より大きな功績は「柳寛順」という名前だけで三・一独立運動を忘れられないようにしたことです。
過去100年の歴史はわれわれが向かい合う現実がどれだけ困難でも、希望を諦めなければ変化と革新を成し遂げることができると証明しました。今後の100年は、国民の成長がすなわち国家の成長になるでしょう。
国内では理念の対立を越えて統合を成し遂げ、国外では平和と繁栄を成し遂げる時、独立は真に完成されるでしょう。
ありがとうございました。
(2019年3月1日)
昨日(2月22日)の夜、韓国から帰国。日本平和委員会が企画した「韓国ピースツアー・2019」に参加して、4泊5日の旅程が有意義に終了した。
この企画に初参加した昨年は、大きなカルチャーショックを禁じえなかった。韓国はすごい。韓国民衆の意識の高さと、市民運動のパワーに圧倒される思いだった。そして、市民運動に携わる人々の若さと明るさを羨ましいと思った。学ぶべき点が数多くある。今年の企画に参加した個人的な問題意識は、その市民のパワーの源流を確認したいということ。
「3・1独立運動」から100年である。日本の側から見れば、侵略と植民地支配の負の歴史をどう総括するのか。朝鮮(韓国)の人々は、植民地支配への抵抗の歴史が今にどうつながっていると見ているのか。そして今、両国の民衆はどのような共通認識のもと、連帯の行動が可能なのだろうか。
「3・1独立運動」は、華々しく独立を勝ち得た運動ではない。大規模な非武装の平和的民衆蜂起ではあったが、苛酷に弾圧され、押さえ込まれた民衆運動だった。果敢に運動の先頭に立った良心と勇気を兼ね備えた多くの人々が殺害されている。独立宣言文に署名した「民族代表」33名のほとんどが有罪とされてもいる。この抵抗と弾圧の記憶と怨念が、どのように継承され持続されたのであろうか。
現行大韓民国憲法(第六共和国憲法・1987年採択)の前文冒頭に、「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して、正義・人道と同胞愛で民族の団結を強固にし」と書かれているという。「3・1独立運動」こそが、「正義人道と同胞愛で民族の団結を強固にする」という国民運動の源流であり、87年民主化にもつながる「祖国の民主改革」の原点という国民的確認ということなのだろう。
ツアー最終日の昨日(2月22日)、安重根記念館とタプコル公園を見学した。安重根は1909年に初代韓国統監伊藤博文を射殺した民族的英雄。そして、タプコル公園は1919年の「3・1独立運動」の発火点となった場所。この2事件は、日本の植民地支配への抵抗の形として、武力闘争と非武力の平和的大衆闘争の典型例。結局は両者とも、独立を勝ち取ることには成功せず、抵抗を示すことで終わった。しかし、その両者の精神が、朝鮮民族の中に脈々と流れてきたということになる。
自分の確信として、「安重根の伊藤射殺と韓国の現代」「『3・1独立運動』とキャンドル革命」とがしっくりと重ね合わされたわけではない。ツアーの続きのノリで、本日(2月23日)東新宿の高麗博物館を訪ねてみた。
同博物館のホームページによれば、高麗博物館とは、「市民がつくる日本とコリア交流の歴史博物館」だとある。「高麗」とは世界の共通語「コリア」の意味、つまり韓国と朝鮮をひとつにとらえた言葉。日本とコリアとの関係はこう語られている。
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有史以前から、朝鮮半島と日本列島の人々は豊かな交流があり、先進文化は朝鮮半島を通じて日本に伝えられ、日本は発展してきました。ところが日本は近代以降コリアを侵略し植民地にしました。しかし戦後、私たちの国はこの事実にしっかり向き合ってはきませんでした。在日コリアンが日本にいるということ、今も差別が続いているということは、過酷な植民地支配の歴史を象徴しています。日本人の多くは、このような歴史も、コリアンの心の内も、ほとんど理解しないで過ごしてきました。
私たちはこのような歴史の事実に向き合い、学び理解することを心がけたいと思います。これは日本とコリアの信頼関係の土台になり、東アジアの平和につながるものです。そして在日コリアの人たちと共に良き隣人となる道を歩んで行きたいと思います。
高麗博物館の目的
1、高麗博物館は、日本とコリア(韓国・朝鮮)の間の長い豊かな交流の歴史を、見える形であらわし、相互の歴史・文化を 学び、理解して、友好を深めることを目指します。
2、高麗博物館は、秀吉の2度の侵略と近代の植民地支配の罪責を反省し、歴史の事実に真向かい、日本とコリアの和解を目指します。
3、高麗博物館は、在日韓国朝鮮人の生活と権利の確立を願いながら、在日韓国朝鮮人の固有の歴史と文化を伝え、民族差別のない共生社会の実現を目指します。
その高麗博物館の2019年企画展「3・1独立運動100年?東アジアの平和と私たち?」が開催中なので訪ねてみた。企画展は以下のとおり。
2019年2月6日(水)?6月23日(日)
開館時間: 12:00 ?17:00
会場:高麗博物館展示室
休館日:月曜・火曜
入館料 400円????
この企画展の趣旨が次のように語られている。
1919年3月1日、日本の植民地支配に抗し、朝鮮で大規模な独立運動が起きました。各地で「独立宣言書」を読み上げ、「独立万歳」をさけび、あらゆる階層の人たちが参加して、運動は全国各地に広がっていきました。
日本の憲兵警察はこの 「3・1独立運動」を弾圧し、日本は敗戦まで植民地支配を続け、ほとんどの日本人は政府を支持しました。
100年が経過した今日、多くの人が「3・1独立運動」ばかりか、かつて日本が朝鮮半島を植民地にしていたことを知りません。
朝鮮半島の情勢は今大きく変化し、非核化と朝鮮戦争の終結へと向かっています。「3・1独立運動」100周年に当たり、高麗博物館では韓国の独立記念館、堤岩里の教会などを訪ね、3・1運動について学んできました。当時の報道や女性の活動、堤岩里の虐殺事件、在朝日本人の動き、そしてこの運動が今日の民主化運動、キャンドル革命へ連動していくことなどを展示して東アジアの平和について考えたいと思います。
韓国では、歴史を学ぶ場に若者が多い。どの運動体も、若者とりわけ女性に支えられているという印象が強い。比較して、日本の原状を嘆くのがパターンなのだが、今日はちょっぴり嬉しかった。たまたまなのかも知れないが、この博物館で高校生のグループと一緒に説明員の解説に耳を傾けた。その生徒たちの熱心さが好もしかった。ソウルの日本大使館前で「少女像」を囲んでの水曜集会に高校生や中学生がたくさん集まっているという話を、興味深そうに聞いてくれた。
日本の若者もけっして捨てたものではない。ただ、事実を知る機会がない。考える材料に接する機会がないだけなのだ。
(2019年2月23日)
午前:*3.1独立運動ゆかりの地を見学
*植民地歴史博物館の見学
植民地歴史博物館は、「植民地主義の清算と東アジアの平和をめざす」として昨年8月に開館したばかり。3階に入居しているNGOの民族問題研究所が事業主体となっている。
展覧は、下記の4ゾーンからなっているという。
第1ゾーン 日帝はなぜ朝鮮を侵略したのか
第2ゾーン 日帝の侵略戦争、朝鮮人に何が起こったか
第3ゾーン 同じ時代、違う人生ー親日と抗日
第4ゾーン 過去を乗り越える力、いま、私たちは何をするべきか
なるほど。良くできている。これも楽しみだ。
維新以来今日まで150年間。その半分の期間は、日本は朝鮮への侵略を一貫して続けた。朝鮮を足場にロシアと闘い、さらに満州を手にして、中国にまで侵略した。なぜ? 非人道的な侵略行為と差別・排外主義は国に満ちた。なぜ? その侵略は朝鮮人に何をもたらしたのか。そして今、私たち日本人は、過去にどのように向き合い、過去を乗り越えるために、何をするべきか。考えなければならない。
韓国ピースツアーを終えるに当たって、昨年と同じことを書き付けるしかない。
いま、韓国の自立した市民運動には、学ぶべきところが多々ある。この5日間で、多くのことを吸収しようと思ってソウルまでやってきた。
その旅も、今日で終わる。さて、5日間で少しは見聞を広め得ているだろうか。少しは賢くなっているだろうか。足を踏まれた側の人々の気持ちをより深く分かるようになっているだろうか。
夕刻仁川空港を発って成田に到着の予定。明日からは、仕事が待っている。リアルタイムでのブログの掲載も再開しよう。
(2019年2月22日)
?終日:南北朝鮮の軍事境界線「板門店」の見学予定である。
※しかし、南北会談以降、「板門店」への訪問規制があるため、出発の時点まで「板門店」へ行けるかは未定。行けない場合は、北朝鮮を展望できる「統一展望台」に行くことになる。私は、「板門店」には行ったことがない。統一展望台は見学している。「板門店」見学が実現できるか。運試し。
ツアーのリーフレットには、南北を分断している軍事境界線(見学予定先:板門店あるいは統一展望台)について、次のように記載されている。
●2018年4月27日、板門店で南北首脳会談が聞かれ、終戦をめざす「板門店宣言」が発表された。
第二次大戦後、35年に及ぶ日本の植民地支配から解放され、「朝鮮人民共和国」を予定したが、米ソの対立が朝鮮に持ち込まれ、民族分断国家が成立してしまった。ソ連が満州から越境、アメリカが仁川に上陸、1945年の米英ソ外相会議で5年間の「信託統治」合意が成立したが、これを大国の横暴と民衆が反発?済州島4.3事件を経て、1948年8月15日に「大韓民国」が成立。北が対抗して9月9日に朝鮮民主主義人民共和国成立となった。
その後、1950年6月に朝鮮戦争が勃発して3年にも及び朝鮮半島全土を戦場とした。1953年7月27日に休戦協定がなされ、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認定?南北2国に分断される。
※注意 南北会談以降、板門店への規制が厳しくなっていることから見学・訪問先として「板門店」には行けないこともあります。そのときは、「統―展望台」に。
第2次大戦後の終戦処理が終わっていないのが南北朝鮮の分断。これに伴って、日朝関係も同様となっている。今日、国境に立てば、陽は暖かく射すだろうか。風はさわやかに吹くだろうか。
(2019年2月21日)
午前:日本軍「慰安婦問題」の解決に向けての交流
*歴史認識と慰安婦の問題について
韓国挺身隊問題対策協議会を訪問
昼頃:日本領事館前での「水曜集会」に参加
午後:平沢米軍基地近辺で、平沢米軍基地反対行動の市民団体と交流
在韓米軍基地の現状について懇談
夕刻:現地団体との懇談・交流
●日本軍「慰安婦」問題の解決へ向けての交流
交流予定先:韓国挺身隊問題対策協議会
女性と人権博物館の見学とともに、日本軍「慰安婦」問題の解決へ向けて交流。1990年11月に37の女性団体と個人が集まり結成。日本軍「慰安婦」犯罪の認定・真相究明・国会決議による謝罪と法的賠償、そして歴史教科書への記録など7大要求を掲げて活動。1992年1月に在韓日本領事館前での抗議行動「水曜集会」を開始してから、毎週実施している。抗議行動には多くの団体・人が参加し、特に若い層の参加が目立つ。
●在韓米軍基地の現状と問題について交流
交流予定先:平沢米軍基地拡張阻止対策委員会
ソウル都心にあった龍山米軍基地の移転等にともない平沢市郊外の農村地帯ペンソン邑テチュ里の農地が強制収用された。2018年6月29日に在韓米軍は、司令部をソウ南方の京畿道平沢市にある米軍基地キャンプ・ハンフリーズに移転した。1957年7月にソウル市内の龍山基地に創設されて以来、在韓米軍司令部の移転は初めて。それによる防衛態勢強化の取り組みなどが問題となっている。
いや、盛り沢山。午前中からお昼までが、日本軍「慰安婦」問題。午後が、在韓米軍問題。日本領事館前の「少女像」は以前にも見学したことはあるが、水曜行動参加は初めて。若い層の参加が目立つという、その運動の雰囲気を感じ取りたい。
(2019年2月20日)
午前:南北分断の克服と平和・繁栄の新しい動きに関する交流
・キョレハナ平和研究センター(イ・ジュンキュ氏)訪問
・史上初となる「南北共同連絡事務所」訪問
・「板門店宣言」の履行について関係各所を訪問・交流
午後:ソウル市市民民主主義とキャンドル革命について交流
・参与連帯を訪問
・ソウル市長との懇談(あるいは市長のブレーンや学者)
・ソウル市の市民民主主義について
・キャンドル市民革命がもたらした変化について
●米朝・南北会談と今後についてのレクチャー
担当講師は、イ・ジュンキュ氏
長年対立してきた米国と北朝鮮が歴史上初めての首脳会談を行い「新しい米朝関係の確立」を約束。平和体制の構築と完全な非核化で合意。また、南北首脳会談では「朝鮮戦争の終結と平和協定締結をめざす」ことに合意。今後の展望を活動家イ・ジュンキュ氏より説明。
●南北分断の克服と平和非核化の新しい勤き
交流予定先キョレハナ平和研究センター
2004年に発足した「キョレハナ」は、韓国に8箇所の支部を持ち、北朝鮮への人道支援などを中心に活勤している。「キョレ=民族・同胞」、「ハナ=1つ」という韓国語であり、「民族・同胞は1つ」という意味の団体。支援事業だけでも11の事業本部を持っている。南北首脳会談の『板門店宣言』にもとづく南北間の緊張緩和一相互交流の進展状況などについて懇談・交流を予定。
●ソウル市民民主主義とキャンドル革命
交流予定先:参与連帯平和軍縮センター
「市民が主役であり、その市民の力を引き出させるのが『中央』『地方』政府だという朴元淳ソウル市長(元参与連帯役員)。韓国社会を大きく変化させた「キャンドル革命」について、参与連帯を訪問します。当団体は、原水爆禁止世界大会や平和大会にも参加する韓国の中心的市民運動団体。民主主義の基盤を固め、人間らしく生きられる社会実現をめざし、朝鮮半島と北東アジアの平和実現でも積極的に提言している。
予定は、飽くまで予定。本日(19日・火)の現実の行動がどうなったか、今日米朝会談や南北融和の動きについて、現地の意見や空気はどうであったか、帰国後に追々ご報告いたしたい。
(2019年2月19日)