36年ぶりに行われた北朝鮮の朝鮮労働党第7回党大会。
5月6日から始まって、最終日の9日に「決定書」が採択され、10日が祝賀行事であったとのこと。金正恩の事業総括報告に対して支持賛同が表明され、これが「偉大な綱領」とされた模様。そして、金正恩が最高位と位置付けられたという。
最高位とは、新設の「党委員長」ポストだとのこと。祖父、故金日成がかつて使っていた「党中央委員長」とは異なるとの説明だが、部外者には何のことだか分からない。どうでもよいことでもある。
韓国統一省関係者の「今回の党大会で最も重要なのが金正恩の偶像化」というコメントがメディアを賑わせた。権力者の偶像化? 個人崇拝? 今の時代に想像を絶する。反知性で知られる安倍晋三も考え及ぶまい。愚かな企てと笑って済まされることではない。他国とはいえ、無視しえない隣国でのこと。暗澹たる思い。
偶像となる権力者は、権力者を偶像として崇拝する衆愚の存在と一対をなす。領袖の演説に長い長い拍手を送るあの衆愚。喜々としてマスゲームのコマとなって、個性を埋没させるあの衆愚の姿だ。
日本における衆愚は、かつて臣民と呼ばれていた。明治政府は、「天子様」を偶像として臣民を教化し、『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』と憲法にまで書き込んだ。天皇こそが「最高位」であり、紛れもない偶像であった。実物とは似ても似つかぬ風貌の肖像画を描かせてこれを写真に撮って、ご真影なる偶像を作り上げ全国の学校に配布した。これに最敬礼する衆愚たる臣民たちがあればこその演出。
偶像と衆愚の一対は、理性を剥ぎ取られた衆愚を意のままに操る装置であり構造である。その完成形において、為政者は衆愚に対して、「天皇のために死ぬことこそが臣民の道徳」、「偶像のために死ね」とまで刷り込んだ。
為政者にとって、権力者の個人崇拝・偶像化はこの上ない調法な道具立てである。民衆の意思にしたがって権力が動こうというのではなく、権力の意向に従って民衆を動かそうとする場合の調法である。
日本における天皇の偶像化は19世紀の後半からおよそ100年続いた。世界の趨勢によほど遅れた事態と言わねばならない。21世紀の北朝鮮における金正恩の偶像化は、もはや世界の常識に反する愚挙である。民衆に対する徹底した服従と忠誠を求めることの愚挙というほかはない。
日本国憲法下では、このような愚挙は許されない。「民主主義」に反するからといってよいのだろうが、実は憲法には「民主主義」という用語が出てこない。
ポツダム宣言には、「民主主義」という言葉がある。
第10項の第2文「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。」という用法。この「民主主義的傾向」の含意はよく分かる。
これに比べて、日本国憲法には、国民主権はあっても「民主主義」はない。前文の第1文には、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」という。この「人類普遍の原理」が民主主義であろう。
民主主義とは、集団の意思決定過程において、成員の意思を最大限尊重する手続的原則と言ってよいと思う。まず、衆愚ではない自己を確立した個人の存在が出発点にある。個人が先にあって、集団を形づくる。家族や小集団から、大規模集団、地域社会、国政に至るまであらゆる集団や組織に、民主主義が要求される。あらゆる集団に、衆愚も偶像も不要ということなのだ。
民主主義が浸透している社会では、自立した理性ある個人間の討議によって、集団の意思形成がはかられる。そのとき、個人は平等の発言権をもつことになる。すべての個人に、情報に接する自由と、表現の自由とが保障されなければならない。
偶像も衆愚も、民主主義の反対概念である。偶像化された個人は唾棄すべき存在である。崇拝される個人を、意識的に軽蔑しよう。そして、けっして衆愚にはならないと心しよう。
(2016年5月15日)
近々ロゴスから、ブックレット「壊憲か、活憲か」を出す予定で、原稿を書いている。
予定では、下記執筆者4人の共著。私一人が脱稿していない。
「〈友愛〉を基軸に活憲を」 村岡到
「憲法を活かす裁判闘争」 澤藤統一郎
「自民党改憲案への批判」 西川伸一
「五日市憲法草案は現憲法の源流」 鈴木富雄
128頁で1100円が予価。
私の、「憲法を活かす裁判闘争」は、岩手靖国違憲訴訟の経験を素材に今の時点で、憲法を活かす裁判運動の経験をまとめてみようというもの。できあがったら、お読みいただくようお願いしたい。
当時の資料に目を通していたら、靖国訴訟の原告のお一人、菊池久三先生(1916-1995. 北上市)が亡くなられたときの追悼文が出てきた。
「どんぐりころころ」という菊池久三先生の遺稿集の片隅に掲載していただいたもの。尊敬する先輩の生き方を書きとめておきたい。
筋を貫く生き方ー菊池久三先生の印象
手許のずいぶんと古ぼけた手帳を繰ってみると、久三先生との初めての出会いは一九八〇年一二月六日である。古い手帳から往事の懐かしい記憶がよみがえる。
その数日前、 懇意の柏朔司さんから紹介の電話をいただいていた。北上に政教分離の運動を進めているグループがあって、君の事務所を訪ねて行くから法律的な相談に乗ってやっていただきたい、という。その中心人物として「菊池久三」という名を初めて知った。岩手靖國違憲訴訟のプロローグである。
初対面の先生は、紛れもない「教師」だった。それも、「教え子を再び戦場にやってはならない」との思いを熱く語り続ける生粋の「教師」だった。この、出会いの日の印象は最後まで変わることはなかった。
法廷における久三先生の思い出の最たるものは、控訴審での本人としての証言だった。尋問は仙台の手島弁護士が主担当、私がサブだった。延べ一〇時間を越えた尋問準備の打ち合わせは、菊池先生には相当の負担であったと思う。
満席の法廷傍聴者は、政教分離運動の支援者が半分、公式参拝推進派の遺族会動員が半分。そのなかでの久三先生の証言は法廷を圧した。青年学校の熱意あふれる教師として子供たちに忠君愛国の教えを説いたこと、教え子の出征に際して「生きて還ると思うなよ、靖國神社で会おう」と送り出したこと、そして、その教え子たちの真新しいいくつもの墓標を見つけたときの悔恨。戦後は、再び教壇に立つ資格はないと思った自分が、「平和教育・民主主義教育を進めることで、贖罪したい」と思い返し決意したその経緯……。
その決意を一筋に貫いた人であればこその迫力に満ちた証言だった。堂々たる証言は、久三先生の堂々たる人生の発露であった。
訴訟が終わって、お目にかかるたびに私の子供のことを話題にされた。この点も教師なのだな、と印象を深くした。平和教育・民主教育を生涯の仕事とされた久三先生にとって、私は戦後初期の教え子の世代、私の子供は先生の最後の教え子よりやや若い世代。悲惨な戦争体験や戦前の不合理な社会の苦い体験が世代から世代にどう承継されているのか。平和や民主主義擁護の熱い思いがそれぞれの世代でどう育まれているか。気になってならなかったのだと思う。若い世代への期待もひとしおだったのだろう。
久三先生にとって、岩手靖國訴訟の提起は自分の生き方の貫徹の結果として、ごく自然なことだった。久三先生は、この訴訟に関わった私たちに、みごとな筋の通った生き方の手本を見せてくれた。やっぱりどこまでも、久三先生は人の師であった。
戦後の民主教育を支えた師を記憶に留めておきたい。
(2016年4月17日)
話題の書「奇妙なナショナリズムの時代ー排外主義に抗して」(岩波書店)に一通り目を通した。
これから、この書を手に取る方には、まず305頁の「おわりに」から読み始めることをお勧めする。この「おわりに」に、編者山?望の問題意識と立場性が鮮明である。何よりも、この部分は平明で分かり易い。編者であり自らも巻頭(序論)と巻末に2論文を執筆している山?が、ヘイトスピーチデモの風景に驚愕した心情を率直に語り、その違和感が本書のナショナリズム論の契機となったことが記されている。
ここで山?は、現在の政治状勢に触れて、こう言っている。
「安倍政権は『奇妙なナショナリズム』の時代に生まれた政権であり、また『奇妙なナショナリズム』を促進する政権でもある。」
「安倍政権は『日本固有』とする道徳・伝統・文化・歴史認識を国民に浸透させる意図を持つが、それは戦後の日本という国民共同体が醸成してきた道徳・伝統・文化・歴史認識とは異なる。その断絶性は「戦後レジームからの脱却」や「日本を取り戻す」といったキャッチフレーズに集約されている。被害者意識を背景にした歴史修正主義(侵略、戦争責任、敗戦の軽視もしくは否定)、排外主義やレイシズムを組み込んだ文化、国家主義的な伝統・道徳の復権は、戦後に形成されてきた国民共同体を堀り崩す。時代の区切りをめぐる意見の相違はあるにしても、安倍政権は戦後日本における従来の政権とは異質であり、「奇妙なナショナリズム」に完全に符合している政権であることは確認しておきたい。」
戦後民主主義を「戦後に形成されてきた国民共同体」とほぼ同義なものとして評価し、安倍政権と安倍政権を支えるものをそれとは断絶した異質なものとして警戒する立場を鮮明にしている。その「異質」が、「奇妙なナショナリズムの奇妙さ」となるものだが、ここでは、「歴史修正主義、排外主義やレイシズム」とされている。この基調が、この書の全編を貫いている。
以上の文章にも明らかなとおり、山?はけっして「革新」の側に立つ論者ではない。ナショナリズムを否定的で清算すべきものとは見ていない。「戦後に形成されてきた国民共同体」に親和感をもち、「奇妙ではない・ナショナリズム」には肯定的な論調である。その山?にして、安倍政権下のナショナリズム模様の奇妙さ・異様さは看過できないのだ。そのことは、次の結びの言葉にいっそう鮮明である。
「従来のナショナリズムと密接に結びついてきた立憲民主主義、自由主義、平和主義、国民主権が危機にさらされている情況において、われわれは、ナショナリズムの在り方を考えることなくして、現状に対峙することはできない。戦後日本のナショナリズムヘの郷愁や全面肯定を警戒しつつも、人々が自らのものとしてきた立憲民主主義、自由主義、平和主義、国民主権をナショナリズムとの関係で、いかに「保守」もしくは発展させていくべきか。本書がこうした問いを考え、行動するための一助となれば幸いである。」
この一文は、山崎の「日本国憲法の憲法価値を、従来のナショナリズムが支えてきた」という構図を鮮明にしている。この書の全体を通じて、「保守」や「従来のナショナリズム」は肯定的に語られている。私は、「普遍性をもった日本国憲法の憲法価値に、戦前を引きずるナショナリズムが敵対してきた」という認識をもっている。ずいぶん違うようにも思われるが、いま「奇妙なナショナリズム」が跋扈して安倍政権を生み、安倍政権がこれまでの保守政権や国民意識からは断絶して、「突出した反憲法的ナショナリズム」に依拠していることにおいては異論がない。言わば、邪悪な敵出現によって、「戦後民主主義を支えた保守」も「そのイデオロギーとしての従来のナショナリズム」も、論争の相手方ではなくなった。むしろ、頼もしい味方のうちなのだ。
では、「従来のナショナリズム」とは異なる「奇妙なナショナリズム」の、奇妙さとは何か。従前には、安定的な「国民国家」が存在し、これを支えるものとして従来のナショナリズムがあった。いま「国民国家」に揺れが生じ、これまで「国民国家」を支えてきたナショナリズムも大きく揺れて変容している。
その出発点は、「グローバル化」(情報と金融の分野を中心に国境を越えて人々を結びつけるもの)と「新自由主義」(国家や共同体から人々を解放し、人間を等価な市場的存在とするもの)だという。国民国家の境界も内実も曖昧・不安定になって、再定義が求められている。これに伴ってナショナリズムも変容しつつある。山崎は、「国民国家は先進諸国を中心に、他国との境界線で明確に区切られた安全保障、社会保障、国民共同体、民主主義の四つの層(レイヤー)の結合によって形成されてきた。」と立論し、いま、その4層のすべてでこれまでの国民国家では自明であったものが掘り崩されている、とする。
だから、「(かつては)国民国家システム形成の原動力となったナショナリズムが、(いま)グローバル化と新自由主義の中で、どのように境界線を引き直し、「われわれ」を模索しているのか、多層的な単位(政治的決定の単位、安全保障の単位、社会保障の単位、経済的な単位、文化的な単位)の間にいかなる関係を構築しようとしているのか。いかなる境界線についての正当化の論理を掲げているのか。」その問いかけが必然化しているのだという。
山崎は、これまでのナショナリズムと比較して、グローバル化と新自由主義という背景を持つナショナリズムの「奇妙さ」をいくつか挙げているが、その内の興味を惹くものを要約して紹介したい。
■「被害者としてのマジョリティ」という「奇妙さ」
少数派ではなく、マジョリティこそがむしろ様々な層における「被害者」(もしくは潜在的な被害者)であり、マジョリティが「力のない者」へ、さらには「マイノリティ」化しつつある、という自己定義をしている点に、このナショナリズムの「奇妙さ」がある。
ナショナリズムが自らの集団の危機を訴えること自体はたびたび観察されるものであるが、マジョリティでありつつも「想像された強者であるマイノリティ」によって被害を受けているという「被害者意識」を強く特つ点に特徴がある。この背景には、グローバル化による国民国家の融解が、既存の「力のあるマジョリティ」と「力のないマイノリティ」という図式が不明確になっているという認識がある。
マジョリティの側がその要因を外部に求めるとき、「われわれ」の権利を侵害し「権利を得ている(と想像する)マイノリティ」や「マジョリティと同等の権利を持つ(と想像する)マイノリティ」を立ち上げ、彼らが「われわれマジョリティの権利を奪っている」という感情を高めることになる。
■レイシズムに重点を置く奇妙さ
人々の同化による拡大ではなく、排除による国民の範囲の縮小を志向する点において、ナショナリズムの観点からは「奇妙さ」がある。従来のナショナリズムにおいても、レイシズムや排外主義の要素は存在していた。しかし既存の制度化されたナショナリズムによる国民像を逸脱して、それを解体する強度のレイシズムや排外主義が前面化し、普遍化の契機に乏しい歴史修正主義を強調する点において「奇妙さ」がある。レイシズムに基づく純化、排除や浄化を志向し、同化や統合もしくは拡張の思想ではないナショナリズムは、国民統合や国家建設を重視するナショナリズムや帝国主義的なナショナリズムの観点からは「奇妙さ」を醸し出す。その結果としてナショナリズムの特徴とも言うべき両義性が失われ、片方の要素(特殊性、排除、自然の強調)のみが重視されている点において「奇妙さ」が際立つことになる。
■「敵」とする外部の安定性の欠如という「奇妙さ」
「敵」という外部の設定によって定義すべき「友であるわれわれ」の輪郭と内容が定まるとするならば、「敵」の不安定さは、「友であるわれわれ」の不安定さを招いてしまう。とりわけ領域主権国家システムからなる国際関係のナショナリズムにおいては「敵」とされる「外部」は一定の継続性を特つことが多いが、現代のナショナリズムにおける「敵」は「変易性」が高く多岐にわたる。とりわけ日本における事例では、外国人労働者や観光客、少数民族、近隣諸国のみならず国際機関、政府、政党、マスメディア、官僚、警察、女性、若者、生活保護受給者、原爆被災者、東日本大震災の被災者、脱原発運動、フェミニスト、他のナショナリスト、学校関係者、地域住民、障害者、反レイシストなど「敵」は多岐にわたり、その変易性も高い。その点において従来のナショナリズムとは異なる「奇妙さ」を持っている。
なるほど、安倍内閣の支持勢力も、その持って生まれた歴史修正主義も、ヘイトスピーチの蔓延も、橋下徹の政治手法の一定の「成功」も、そして米大統領予備選挙におけるトランプ現象も、このような説明枠組みで思い当たることが多い。注目すべきは、「奇妙なナショナリズム」の敵としては、多国籍企業もアメリカも政権も意識されないことだ。本当の奇妙さは、このあたりにあるのではないか。
グローバル化と新自由主義⇒国民国家の揺らぎ⇒ナショナリズムの変容
という構図自体は分かるものの、一般論と具体論との連結はよく見えてこない。何が、どのように、ネトウヨに代表されるような奇妙なナショナリズム変容をもたらしたのか、このあたりの丁寧な説明が欲しいと思う。そのような診断があってこそ、安倍や橋下やヘイトスピーチを克服するにはどうすればよいのか、処方も書けることになるだろう。次を期待したい。
なお、山?望論文の紹介で手一杯だが、この書の全体の構成(目次)は以下のとおりである。山?の問題意識で下記の9論文が並んでいる。
序 論 奇妙なナショナリズム? 山崎 望
第1章 ネット右翼とは何か 伊藤 昌亮
第2章 歴史修正主義の台頭と排外主義の連接 清原 悠
―読売新聞における「歴史認識」言説の検討
第3章 社会運動の変容と新たな「戦略」 富永 京子
―カウンター運動の可能性
第4章 欧州における右翼ポピュリスト政党の台頭 古賀 光生
第5章 制度化されたナショナリズム 塩原 良和
―オーストラリア多文化主義の新自由主義的転回
第6章 ナショナリズム批判と立場性ポジショナリティ 明戸 隆浩
―「マジョリティとして」と「日本人として」の狭間で
第7章 日本の保守主義 五野井 郁夫
―その思想と系譜
第8章 「奇妙なナショナリズム」と民主主義 山崎 望
―「政治的なもの」の変容
おわりに
著者のほとんどが、1970年代・80年代生まれ。若い気鋭の研究者(政治学・社会学・社会運動論・比較政治学など)らの意欲を頼もしいと思う。
(2016年3月20日)
朝日が、2月8日から12日まで5回のシリーズで「自治会は今 フォーラム面の現場から」という特集を連載した。各回のタイトルは以下のとおり。
1 断れない「寄付」って変 2月8日
2 神社維持、全員で負担? 2月9日
3 選挙協力、まるで後援会 2月10日
4 退会者に「ごみ出すな」 2月11日
5 「地域の要望」誰の声? 2月12日
自治会・町内会は日本全国に遍く組織されている。多くの人にとって、最も身近な組織と言えよう。自治会・町内会との付き合いにおいて、プリミティブに組織と個人の関わりの基本問題が表れる。したがって、自治会・町内会の運用のあり方は、日本社会全体の構造の縮図として深く関心を寄せざるを得ない。民主主義や個人の自立の問題が見えてくるはずなのだ。いま、その切り口となるキーワードは「社会的同調圧力の組織化」ではないか。
「寄付」や「神社維持」への協力の強制、「選挙」や「地域の要望」への動員は、典型的な社会的同調圧力といえよう。「退会者に『ごみ出すな』」はその強制の手段としての深刻な問題。全体的傾向として、個人の自立が社会的同調圧力に組み敷かれている構図が描かれている。地方行政の末端組織として組み入れられた自治会・町内会のあり方の再考が求められてもいる。
言うまでもなく、自治会・町内会に入会するもしないも自由。なんの理由も不要でいつだって退会可能だ。とは言うものの、ひとり入会せずに非協力を貫くことには相当のプレッシャーがかかってくる。敢えて、退会するのはなおさらのことだ。これが、社会的同調圧力。
非権力的組織であるから、住民の合意だけで組織され運営される。親睦のみならず、地域の環境保全や治安や災害対策に有用であることは言うまでもない。地域と行政とのパイプ役としても、その存在意義は否定し得ない。しかし、現実には民主的な運営の確保が難しく、社会的同調圧力を合理化し実行する組織になる危険を常にはらんでいる。
連載第1回に掲載の、佐倉市の自治会の例が示唆に富む。14年前、役員会での討議を経て、日本赤十字社などへの寄付という事実上の強制をやめたという。もちろん、建前としては寄付は強制ではない。しかし、衆人環視の中で寄付を断ることは難しい。これが、社会的同調圧力のなせる業。そこで、任意制が徹底するよう集め方を変えた。「大判の封筒を使う方法だ。誰がいくら入れたか分からないように封筒のお金を入れるところだけ開けておき、隣の家に回す。封筒の表には寄付するかどうかも、金額も自由と書いた。」
任意のはずの寄付が事実上の強制となる不合理を不合理として確認し、任意制を徹底する具体的な方法まで考えて実行した、最も身近な場における民主主義の実践に、敬意を表せざるを得ない。
朝日の記事は、次の点でさらに示唆に富む。
当時自治会長だった内野光子さんは、封筒方式を実現できたのは当時、役員10人のうち女性が6、7人を占めていたからだと思っている。「リタイア男性中心の『オヤジ自治会』や、同じ人が長く居座る『ボス自治会』では改革が難しい。役員に主婦がもっと入らないと変わらない。
なるほど、言われてみればそのとおり。男性中心の『オヤジ自治会』や『ボス自治会』の問題性は、ひろがりを持っている。自治会が日本社会の構造の一部であり縮図である以上は、地方政界の『オヤジ議会』や『ボス自治体』の問題でもあり、さらには『オヤジ国会』や『ボス内閣』という日本の政治構造にもつながっている。
オヤジやボスは、今この社会の多数派を取り仕切っている。オヤジやボスの常識は、「地域共同体の日常の懇親や親睦による出る杭のない、穏やかな秩序が何より」「行政に貸しを作り、いざというときには行政に口利きのパイプをつなげておくことが肝要」「みんなが文句を言わずに労力と経済的負担をして自治会を支えるべきが常識」「地域の結束のためではないか。自治会が神社への奉賛をすることになんの問題があろうか」「役員は多大な労力を費やしているのだから、会費で多少の飲み食いしたくらいで、細かいことをうるさく言うな」というもの。
このオヤジ感覚ボス体質が保守政党の末端組織とつながる。自治会・町内会を通じて、オヤジやボスの体制派的常識が組織化され保守勢力に吸い上げられる。平時は、天皇制と結びついた神社を支え、行政や警察機構の末端として働き、また保守政党を地域で支える。そして、一旦緩急あらば、大政翼賛会か国防婦人会の末端組織に、あるいは関東大震災後の自警団に早変わりしかねない危うさを持っている。
朝日記事の第2回が、神社の費用負担問題を取り上げている。
この中に、ある自治会長(男性・72)の「神社は地域の守り神、文化のようなもの。特定の宗教という感覚はない」との見解が紹介されている。おそらくホンネなのだろうし、これが社会の多数派の意見なのかも知れない。しかし、少数派のなかには、潔癖な信仰者もいようし、無神論者として特定宗教への寄金に抵抗感をもつ者もいる。このような少数者の意見が無視されてよかろうはずはない。
もっとも、なかなかに少数者の発言は難しい。黙っていれば、多数派の横暴がまかりとおる。自治会・町内会の意見が、地域全体の意見にすり替えられる。かくて、自治会・町内会は、保守政権支配の末端組織として機能することになる。
地元の自治会・町内会の活動に積極的に関わって、原則を曲げずに辛抱強く民主的な運営を実践している方を尊敬する。マンションの管理組合もPTAも同様だ。私には、上手にやり遂げる自信がない。ならば、次善の策として自治会に加入しないのも一つの意思表示。
これまで、居を構えてから幾十年、地域自治会や町内会に加入したことがない。回覧板も寄付の要請も、私の家だけは通り過ぎる。
ずいぶん以前のことだが、ある町会長さんに呼ばれて、親切に加入を勧められたことがある。そのとき、町内会の規約や会計報告、そして立派な会の歴史をまとめた冊子を見せていただいた。ずいぶん整った自治会だと一面好感をもったが、ご多分にもれない問題が2点。自動的に近くの著名な神社の氏子となって自治会からの奉納金の支出が行われていた。そして、もう1点、私の大嫌いな自民党の有力政治家との友好関係が見えていた。自治会の大きな行事はその政治家の「会館」で行われ、会史にその政治家が登場してくる。これは、生理的に受け容れがたい。
中にはいって改革すべきなのだが、私にできそうもない。私にできることは、自治会に加入しない選択肢もあるのだと身をもって示す程度のこと。私は未熟であり、この先も成熟の可能性はない。もしかしたら、この程度のことも都会だから出来ることなのかも知れない。
佐倉市内の住民自治会で、果敢に民主主義を実践してこられた内野光子さんのブログを参照していただきたい。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/cat7752986/index.html
(2016年2月15日)
本日は、日民協憲法委員会の学習会。末浪靖司さんを講師に、「『機密解禁文書にみる日米同盟』から読み解く日米安保体制と私たちのたたかい」というテーマ。
末浪さんは精力的にアメリカの公開された機密公文書を渉猟して、日本側が隠している安保関係の密約文書を世に紹介していることで知られるジャーナリスト。『機密解禁文書にみる日米同盟』は、その成果をまとめた近著である。
最初に、アメリカの文書開示制度と国立公文書館についての解説があった。
1789年フランス人権宣言15条には、「社会は、その行政のすべての公の職員に報告を求める権利を有する」と明記されている。フランス革命に先立って、独立革命をなし遂げたアメリカ合衆国第2代大統領アダムズ(独立宣言起草に参加)は、「政府が何をしているかを知るのは国民の義務」とまで述べ、これが公文書公開制度のモットーとなって、1967年制定の「情報の自由法」FOIA(The Freedom of Information Act)に生きている。その充実ぶりは、日本の外務省の外交文書公開の扱いとは雲泥の差。この10年アメリカ公文書館その他に通って、大要下記のことを確認した。
※アメリカ政府の憲法9条改憲の内的衝動と米軍の駐留
☆アメリカ政府内で最も早い時期に改憲要求を明確化したのは、ジョン・B・ハワード国務長官特別補佐官(国際法学者)である。
アメリカの核独占体制がソ連の核実験によって破られ中華人民共和国が成立するという状況下の1949年11月4日、機密文書「日本軍隊の復活に関する覚書」の中で、「日本再軍備の決定は、憲法の『戦争と軍隊の放棄』をどうするかという決定と無関係ではない」とし、同月10日には、国務長官宛の機密覚書で、「日本軍復活に関して国務省のとるべき態度」との表題をつけて「米の援助と日本の資金・労力は米軍の駐留と強力な警察部隊の維持にあてられるべき」と述べている。
ハワードは、国務長官をはじめ国務省、国防総省などに論文、報告書をばらまいて自分の考えを売り込んだ。彼は、9条改憲を望みながらも、改憲が実現する前に米軍駐留を合憲とする理屈を考えた。50年3月3日付の極秘報告「軍事制裁に対する日本の戦争放棄の影響」には、「外国軍隊は日本国憲法9条が禁止する戦力ではない」「外国軍事基地は憲法の範囲内の存在」という、その後の安保そして砂川判決の論理が明記されている。
☆日本の再軍備と改憲要求は米軍司令部から出てきている
1950年8月22日ブラッドレー統合参謀本部長から国防長官宛の機密覚書「主題:対日平和条約」には、「アメリカは非武装・中立の日本に生じる軍事的空白を容認し続ける立場にはない。それ(軍事的空白の解消)は、万一世界戦争が起きた際に、アメリカの戦略と世界戦争に良い結果をもたらすだろう」
また、同年12月28日付統合参謀本部への機密文書「アメリカの対日政策に関する共同戦略調査委員会報告」では、「米国の軍事的利益は日本の能力向上により得られる。そのために憲法変更は避けがたい」と9条改憲の意向が明確化されている。
さらに、51年3月14日統合参謀本部宛の海軍作戦部長の機密覚書には、「日本が合法的に軍隊を作れるようになる前に、憲法の改定が必要になる」とされている。
☆1951年8月8日 統合参謀本部から国防長官へ、極秘覚書、主題:対日平和条約に関する文書 「行政協定により、ダレス訪日団が準備した集団防衛に参加する」。12月18日統合参謀本部から国防長官宛の機密覚書には、「統合参謀本部は、戦時には、極東米軍司令官が日本のすべての軍を指揮する計画である」。52年2月6日文書には、「行政協定交渉で米側提案:軍事的能力を有する他のすべての日本国の組織は、米国政府が指名する最高司令官の統合的指揮の下に置かれる」とされている。
こうして、旧安保条約が成立した。
※安保改定秘密交渉で改憲問題はいかに議論されたか
1958年8月1日 マッカーサー?(ダグラスマッカーサーの甥。)大使から国防長官へ、秘密公電は「適切な措置をとることが、安保条約を改定し、日本の軍隊を海外に送り出すことを可能にする憲法改定の時間をわれわれに与えてくれるだろう」としている。
8月26日 マッカーサーから国務長官への極秘公電には、「岸は自分が考えていることを大統領に知ってもらいたいと言って、友人としての最初のフランクな会話をしめくくった。——私は個人的には、岸が好む線で日本との安保関係を調整することが、われわれ自身の利益になると考える。」とある。
その岸は、同年10月15日に、NBC放送のインタビューで「日本が自由世界の防衛に十分な役割を果たすために、憲法から戦争放棄条項を除去すべき時がきた」と述べている。
☆58年10月4日帝国ホテルで藤山愛一郎とマッカーサーの秘密交渉が開始され、安保改定の原案が固まった。藤山は東京商工会議所会頭で、海軍省の顧問であり、東条内閣の終末を決めた岸とは親友の間柄。
折り合わなかったのは、藤山が安保条約第3,5,8条を「憲法の枠内」「憲法の制約の範囲内で」と提案。アメリカ側は「憲法の規定に従うことを条件として」という対案。結局アメリカ案で決着するが、この間の文書が興味深い。たとえば、59年6月18日マッカーサーからディロン国務長官への機密公電「われわれが提案した(「憲法の規定に従うことを条件として」などの)文言を[日本側が]受け入れることが難しいのは、憲法に自衛力に関するいかなる規定もないことからきている。反対に、憲法第9条では、陸海空軍を、その他の戦力とともに、日本が維持することを絶対的に禁止している。日本国憲法は、固有の自衛権を、したがって自衛隊の必要性を否定していないと解釈されている一方で、そうした能力が「憲法の規定に従うことを条件として」維持され発展させられるということは、法的に不可能である。なぜなら、憲法にはそうした規定がないからである。」
☆マッカーサー大使の情勢観
ダグラス・マッカーサー?(駐日大使)は、沖縄をはじめ、九十九里浜、内灘、妙義山、砂川、北富士、横田、立川、新潟、小牧、伊丹、木更津などの基地反対闘争、原水爆禁止と核持ち込み阻止を求める日本国民の運動に手を焼いたジョン・フォスター・ダレスにより日本に送り込まれた。マッカーサーが57年2月に東京に着任した時、日本はジラード事件や米兵犯罪で米軍に対する怒りが渦巻いていた。
危機感をもったマッカーサーは、4月10日岸信介と長時間にわたり密談し、「このままでは、米軍は日本から追い出される」と長文の秘密公電で日本の情勢を報告している。
報告はもっと多岐にわたるが、上記のことからだけでも、以下の事情がよく分かる。
1947年に施行となった日本国憲法は、その直後の冷戦開始以来、日米両政府から疎まれ改憲が目論まれる事態となっている。そのイニシャチブは常にアメリカ側にあり、改憲論を裏でリードし続けたのがアメリカ政府の意向であった。旧安保条約、改定安保条約が基本的にそのようなものであり、そしてガイドライン、新ガイドライン、さらには新新ガイドラインも同様である。
憲法を侵蝕する安保条約、ないしは安保体制の実質的内容は、アメリカの意向と日本の国民の闘いとの力関係で形づくられてきた。これが、末浪報告の核心だと思う。アメリカの意向とは、アメリカの軍事的世界戦略が日本に要求するところだが、実は軍産複合体の際限の無い戦争政策である。そして、これに対峙するのが、核を拒否し米軍基地のない平和を願う日本国民の戦後の平和運動である。
アメリカにおもねりつつ、9条改憲をねらっていた岸政権を倒した60年安保闘争が、あの時期の改憲を阻止した。そしていま、また安倍政権が、9条改憲をねらっており、その背後にはこれまでのようにアメリカがある。
末浪報告で、戦後の歴史の骨格が見えてきたように思える。詳細は、「機密解禁文書にみる日米同盟?アメリカ国立公文書館からの報告」(末浪靖司・高文研)を参照されたい。
(2016年2月5日)
1945年が「忘れることのできないあの年」であり、「新しい時代の始まりの年」でもあった。2015年は、あの年から70年目。「戦後70年」の「節目」とされた今年には、70年目の記念日が目白押しとなった。
70年目の3月10日。
沖縄地上戦戦開始から70年。
ドイツ降伏70周年。
沖縄地上戦終了の日から70年。
広島原爆投下70周年。
長崎の悲劇から70年。
ポツダム宣言受諾70年。
70年目の敗戦記念の日‥‥。
それぞれの「節目」の日々には、思い起こすべきこと、語り合うべきこと、そして語り継ぐべきことが山積していた。もしかしたら、そのラストチャンスとして。
一年を振り返って、歴史は十分に思い起こされ、論議され、教訓として噛みしめられただろうか。戦争の悲惨な体験や、平和の貴重さ脆弱さは、若い世代に語り継がれただろうか。70年前に国民が共有した国の再生の初心は忘却の淵から救われただろうか。
とりわけ大事なこととして、70年前絶望的な戦況であることを十分に認識しながら、つまらぬ「國體の護持」にこだわり続けて、この上なく貴重な国民の生命を犠牲にして恥じないこの国の指導者たちの責任について、十分に語り合えただろうか。戦争の終結をもっと早く決断すべきであったのにこれを怠り、数百万の命を無駄死に追い込み、無数の悲劇をもたらした者たちの責任追求を忘れ去ってはいないだろうか。
國體の護持のために国民の命が犠牲にされた愚かな時代。国民個人よりも国家や天皇が貴重な価値とされた倒錯の時代ゆえの悲劇。今は、個人が国家や社会に優越する根源的価値であるという当たり前の常識が危うい。「日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」はこの時代への再逆転を指向するものではないか。
なんとも心許ない。2015年は、憲法の危機の年として明け、9月19日参議院での戦争法「成立」の日がこの1年を象徴する日となった。アベ政権の罪科であり、これを許した国民の責任でもある。
思い起こせば、今年のキーワードは次のような、なくもがなのものが目につく。
「戦争法」「日米ガイドライン」「沖縄・辺野古」、そして「反知性主義」「反立憲主義」「安倍一強」「慰安婦問題」‥。
しかし、パンドラの箱が開いても希望は残る。戦争法反対デモの群衆こそ希望ではないか。それだけではない。「アベ政治を許さない」「シールズ(SEALDs)」「民主主義って何だ」「安保関連法に反対するママの会」「自民党、感じ悪いよね」と口にした多くの人々。そして、沖縄へのこぞっての世論の支援は、来年に通じる希望である。
不安と希望とが入り交じって、2015年が暮れていく。
(2015年12月31日)
昨日(12月4日)、東京「君が代」裁判・第3次訴訟での控訴審判決があった。
この控訴事件は、本年(15年)1月16日東京地裁判決(佐々木宗啓裁判長)を不服として、原告教員側と被告都教委側の双方が控訴していたもの。東京高裁第21民事部(中西茂裁判長)は、一審原告一審被告双方の控訴を棄却した。つまりは一審判決のとおりとしたのだ。その内容と、獲得した成果・問題点を確認しておきたい。
石原慎太郎都政第2期の2003年、悪名高い「10・23通達」が発令された。以来、都内の都立校・区立校では、卒業式・入学式などの学校儀式において、起立しての「君が代」斉唱職務命令が発せられ、これに違反すると懲戒処分となる。既に、その処分件数は474件に達している。
懲戒処分を受けた都立高校・都立特別支援学校の教職員が、東京都教育委員会を被告として処分の取り消しを求めた一連の訴訟が、東京「君が代」裁判。その第3次訴訟は、2007?09年の処分取り消しを求めて10年3月に提訴。都立校教職員50人の集団訴訟で、処分の取り消しと精神的苦痛に対する慰謝料(各55万円)の支払いを求めたもの。
一審判決は、最も軽い戒告処分については取消請求を棄却したが、26人31件の減給(29件)・停職(2件)の処分をいずれも重きに失するとして懲戒権を逸脱・濫用した違法を認め、これを取り消した。但し、慰謝料請求はすべて棄却となっている。
26人31件の処分取消という被告都教委の敗訴は大失態であるが、都教委が控訴したのは敗訴した29件の敗訴処分の内の5件についてのみ。残る24件の処分については控訴しても勝ち目ないとして一審の取消判決を確定させた。都教委は、都教委の目から見て特に職務命令違反の態様が悪いとする5件について未練がましく控訴をしてみたということなのだ。
昨日の判決は、その5件全部について控訴の理由なしとして一蹴した。この都教委の控訴がすべて棄却されたことの意味は大きい。都教委は足掻いて恥の上塗りをしたのだ。都教委よ、大いに反省をせよ。そして、責任の所在を明確にせよ。敗訴について謝罪せよ。同様の誤りを繰り返さぬよう再発防止策を講じよ。
一方、一審原告教職員側は戒告処分も違憲・違法だと控訴をしたのだが、これは斥けられた。国家賠償法に基づく慰謝料の請求棄却を不服とした控訴も棄却された。
3次訴訟では、一審判決と控訴審判決ともに、結論は1次訴訟(12年1月)、2次訴訟(13年9月)の最高裁判決を踏襲する形となった。建前として経済的不利益を伴わない(現実には不利益が伴う)戒告の限度で懲戒を合法とし、経済的不利益を伴う減給以上の処分は原則として違法という線引き。予想されたところではあるが、大いに不満が残る。
まずは、合違憲の判断についてである。原告側は、本件では憲法19条、20条、23条、26条を根拠とした違憲論、教育基本法違反を主とする違法論を展開したが、判決の容れるところとはならなかった。最高裁判決の枠組みに忠実であろうとするに性急で、違憲論の主張に真摯に耳を傾ける姿勢に乏しいと言わざるを得ない。
次いで、裁量権濫用と慰謝料の問題。
東京「君が代」裁判・第1次訴訟の控訴審判決(11年3月10日)は、裁判長の名をとって「大橋寛明判決」と呼ばれている。この判決は、戒告処分を含めて173人全員の処分を懲戒権の逸脱濫用として取り消したのだ。
この判決は、教職員の不起立・不斉唱の動機を、自己の思想と教員としての良心に忠実であろうとした真摯なものと認め、やむにやまれずの行為と評価した。ところが、3次訴訟の、佐々木判決も中西判決も、「不起立行為が軽微な非違行為とは言えない」との立場をとっている。これでは、最高裁の判断を乗り越えようがない。憲法が想定する裁判官像に照らして、頼りないこと甚だしい。
裁判官は公権力の立場から意識的に離れ、社会の多数派の常識からも自由に、憲法の理念に忠実でなくてはならない。何よりも、真摯に苦悶し憲法に期待した原告に共感する資質を持ってもらいたい。少なくとも、原告ら教員の苦悩や煩悶を理解しようとする姿勢をもたねばならない。
本日の赤旗に、原告団事務局長の近藤徹さんのコメントが載っている。「都教委は思想・良心の自由を生徒に説明したなどと減給・停職を(正当化する理由として)主張したが、それが間違っていたことがはっきりした」というもの。裁判で勝ち取った成果は、着実に教育現場に生きることになるだろう。
国旗・国歌、「日の丸・君が代」に不服従を貫く人の思いはさまざまである。もちろん、弁護団員も思想はさまざまだ。統一する必要などさらさらない。私個人は、ナショナリズムを正当化する教育の統制が、再びの軍国主義や戦時の時代を準備することを恐れる気持ちが強い。集団的自衛権行使容認決議に続く、戦争法の成立は、私の危惧を杞憂ではないものとしているのではないか。
ことあるごとに、想い起こしたい。戦後教育を担った教師集団の原点は、「再び教え子を戦場には送らない」という決意だった。
逝いて還らぬ教え子よ
私のこの手は血まみれだ
君を縊ったその綱の
端を私も持っていた
しかも人の子の師の名において
嗚呼!
「お互いにだまされていた」の言訳が
なんでできよう
慚愧、悔恨、懺悔を重ねても
それがなんの償いになろう
逝った君はもう還らない
今ぞ私は汚濁の手をすすぎ
涙をはらって君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」
「東京『日の丸・君が代』処分取消訴訟(3次訴訟)原告団・弁護団」の声明の末尾は次のとおりとなっている。
「私たちは、今後も「国旗・国歌」の強制を許さず、学校現場での思想統制や教育支配を撤廃させて、児童・生徒のために真に自由闊達で自主的な教育を取り戻すための取組を続ける決意であることを改めてここに宣言する」
「学校現場での思想統制や教育支配」それ自身も恐ろしいが、その先にあるものこそが真に恐ろしい。「日の丸・君が代」強制はその象徴である。これに抗して闘っている教員集団は、実は歴史的な大事業を担っているのかも知れない。
(2015年12月5日・978回)
例年になく熱い8月が終わった。その熱気はまだ冷めやらない。安保法案の成否の決着はこれからだ。情勢に切れ目はないが、暦の変わり目に戦後70年の夏を振り返ってみたい。
70年前の敗戦を契機に、日本は国家の成り立ちの原理を根本的に変えた。この原理の転換は日本国憲法に成文化され、大日本帝国憲法との対比において、明確にされている。
私の理解では、個人の尊厳を最高の憲法価値としたことが根本原理の転換である。国家の存立以前に個人がある。国家とは、個人の福利を増進して国民個人に奉仕するために、便宜的に拵えられたものに過ぎない。国家は国民がその存在を認める限りにおいて存続し、国民の合意によって形が決められる。国民の総意に基づく限り、どのようにも作り直すことができるし、なくしたってかまわない。その程度のものだ。
国民の生活を豊かにするためには、国家の存立が有用であり便利であることが認められている。だからその限りにおいて、国民の合意が成立して国家が存立し、運用されている。それ以上でも以下でもない。
こうしてできた国家だが、与えられた権力が必ず国民の利益のために正常に運営されるとは限らない。個人の自由や権利は、何よりも国家とその機関の権力行使から擁護されなければならない。個人の自由は、国家と対峙するものとして権力の作用から自由でなければならないとするのが自由主義である。この個人の尊厳と自由とを、国家権力の恣意的発動から擁護するために、憲法で権力に厳格な枠をはめて暴走を許さない歯止めをかける。これが立憲主義である。
戦前は、個人主義も自由主義もなかった。個人を超えて国家が貴しとされ、天皇の御稜威のために個人の犠牲が強いられた。天皇への忠死を称え、戦没兵士を神としてる祀る靖国神社さえ作られた。そして、国家運営の目標が、臆面も無く「富国強兵」であり、軍事的経済的大国化だった。侵略も植民地支配も、国を富ませ強くし、万邦無比の国体を世界に輝かす素晴らしいことだった。20世紀中葉まで、日本はこのようなおよそ世界の趨勢とはかけ離れた特異なあり方の国家だった。
70年前の敗戦は、大日本帝国を崩壊せしめた。そして新しい原理で日本は再生したのだ。普遍性を獲得して、国民個人を価値の基本とし、国家への信頼ではなく警戒が大切だとする自由主義の国家にとなった。軍国主義でも対外膨張主義でもない平和と国際協調の国になった。日本は、戦前とは違った別の国として誕生したのだ。かつて6500万年前の太古の世界で、恐竜が滅び哺乳類がこれに代わって地上を支配したごとくに、である。
敗戦とは、戦前と戦後との間にある溝のようなものではない。飛び越えたり橋を渡して後戻りできる類のものではない。戦前と戦後とはまったく別の地層でできており、敗戦はその境界の越えがたい断層とイメージすべきなのだ。この戦前とは異なった新しい国の原理として日本国憲法に顕現されたその体系が、「戦後レジーム」にほかならない。
日本国憲法に込められた、近代民主主義国家としての普遍性と近隣諸国に対する植民地支配や侵略戦争を反省するところから出発したという特殊性と。その両者の総合が、「戦後レジーム」である。
安倍晋三が憎々しげにいう「戦後レジーム」とは、個人主義を根底にこれを手厚く保護するために整序されたシステムであり、実は日本国憲法の体系そのもののなのだ。個人の尊厳、精神的自由、拘束や苦役からの自由等々の基本的人権こそが、国家の統合や社会の秩序に優先して尊重されるべきことの確認。これこそが、「戦後レジーム」の真髄である。
今年は新しい日本が誕生してから70周年。しかし、この夏、建国の理念に揺るぎが見える。いま、なんと「戦後レジームからの脱却」を叫ぶ、歴史修正主義者が首相となり、立憲主義を突き崩そうとしている。しかも、日本国憲法が自らのアイデンティティとする平和主義を壊し、日本を再び戦争のできる国にしようとしているのだ。この夏は、日本国憲法の理念を攻撃し改憲をたくらむ勢力と、70年前の建国の理念を擁護しようとする勢力との熾烈な戦いである。
70年前の国民的な共通体験は、「再び戦争の惨禍を繰り返してはならない」ことを国是とした。しかし、その国民意識は、自覚的な継承作業なくしては長くもたない。とりわけ加害体験については、「いつまで謝れというのか」という開き直り派が勢を得つつある。
安倍晋三を代表として憲法体系を桎梏と感じる勢力が勢いを増しつつある。しかし、これと拮抗して憲法の理念に賛同して、これを擁護しようとする勢力も確実に勢力を増しつつある。
2015年の夏、その決着はまだ付かない。秋へと持ちこされている。
(2015年9月1日)
下記のURLが、シンポジウムのチラシになっています。
ぜひとも拡散をお願いいたします。
http://article9.jp/documents/symposium70th.pdf
企画の総合タイトル
シンポジウム「国民の70年談話」ー日本国憲法の視座から
過去と向き合い未来を語る・安全保障関連法案の廃案をめざして
日時■2015年8月13日(木)午前11時?午後1時20分
会場■弁護士会館 2階講堂「クレオ」ABC
・東京メトロ丸ノ内線、日比谷線、千代田線「霞ヶ関駅」B1-b出口より直通
・東京メトロ有楽町線「桜田門駅」5番出口より徒歩8分
■参加費無料 (カンパは歓迎)
戦後70周年を迎える今年の夏、憲法の理念を乱暴に蹂躙しようとする政権と、あくまで憲法を擁護し、その理念実現を求める国民との対立が緊迫し深刻化しています。
この事態において、政権の側の「戦後70年談話」が発表されようとしていますが、私たちは、安倍政権の談話に対峙する「国民の70年談話」が必要だと考えます。
そのような場としてふさわしいシンポジウムを企画しました。憲法が前提とした歴史認識を正確に踏まえるとともに、戦後日本再出発時の憲法に込められた理念を再確認して、平和・民主主義・人権・教育・生活・憲法運動等々の諸分野での「戦後」をトータルに検証のうえ、「国民の70年談話」を採択しようというものです。
ときあたかも、平和憲法をめぐるせめぎ合いの象徴的事件として安全保障関連法案阻止運動が昂揚しています。併せて、この法案の問題点を歴史的に確認する集会ともしたいと思います。
ぜひ、多くの皆さまのご参加をお願いいたします。
スケジュール
《第一部》過去と向き合う
■戦後70年日本が戦争をせず、平和であり続けることが出来たことの意義
高橋哲哉(東京大学教授)
■戦後改革における民主主義の理念と現状
堀尾輝久(元日本教育学会・教育法学会会長)
■人間らしい暮らしと働き方のできる持続可能な社会の実現に向けて
暉峻淑子(埼玉大学名誉教授)
■日本国憲法を内実化するための闘い─砂川・長沼訴訟の経験から
新井 章(弁護士)
■安全保障関連法案は憲法違反である
杉原泰雄(一橋大学名誉教授)
《第二部》未来を語る
◆若者・高校生・大学生・女性・母親・ジャーナリスト・教員…
多くの人がそれぞれに語る未来の展望
《第三部》「70年談話」
◆「国民の70年談話」の発表と参加者による採択
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政権と国民とが、憲法をめぐって鋭く対峙している。戦後70年の今日、平和憲法が最大の危機にある。その憲法を蹂躙しつつある政権の側が公表しようとしている「戦後70年談話」に対決する、国民の側からの「70年談話」が必要と考える。
政権の談話に対峙する「国民の側の談話」は、政権の歴史認識を批判し、平和な未来への展望を語るものとなるだろう。
たまたま、本日(8月4日)の朝日新聞朝刊15面に、あの「敗北を抱きしめて」の著者であるジョン・ダワーのインタビュー記事が掲載されている。表題は「日本の誇るべき力」だが、内容を紹介する冒頭の見出しが「国民が守り育てた反軍事の精神 それこそが独自性」というもの。
ダワーは、政府と国民を明確に区別し、「日本の誇るべき力(ソフトパワー)」を「国民が守り育てた反軍事の精神」と高く評価している。多くの国民が同じ思いであろう。
「国民の70年談話」に参考となると思われる部分を抜粋しておきたい。
「世界中が知っている日本の本当の力(ソフトパワー)は、現憲法下で反軍事的な政策を守り続けてきたことです」
「1946年に日本国憲法の草案を作ったのは米国です。しかし、現在まで憲法が変えられなかったのは、日本人が反軍事の理念を尊重してきたからであり、決して米国の意向ではなかった。これは称賛に値するソフトパワーです。変えたいというのなら変えられたのだから、米国に押しつけられたと考えるのは間違っている。憲法は、日本をどんな国とも違う国にしました」
「このソフトパワー、反軍事の精神は、政府の主導ではなく、国民の側から生まれ育ったものです。敗戦直後は極めて苦しい時代でしたが、多くの理想主義と根源的な問いがありました。平和と民主主義という言葉は、疲れ果て、困窮した多くの日本人にとって、とても大きな意味を持った。これは、戦争に勝った米国が持ち得なかった経験です」
「幅広い民衆による平和と民主主義への共感は、高度成長を経ても続きました。敗戦直後に加えて、もう一つの重要な時期は、60年代の市民運動の盛り上がりでしょう。反公害運動やベトナム反戦、沖縄返還など、この時期、日本国民は民主主義を自らの手につかみとり、声を上げなければならないと考えました。女性たちも発言を始め、戦後の歴史で大切な役割を果たしていきます」
「繰り返しますが、戦後日本で私が最も称賛したいのは、下から沸き上がった動きです。国民は70年の長きにわたって、平和と民主主義の理念を守り続けてきた。このことこそ、日本人は誇るべきでしょう。一部の人たちは戦前や戦時の日本の誇りを重視し、歴史認識を変えようとしていますが、それは間違っている」
この観点、この視座において、「国民の70年談話」をまとめたいものと思う。
(2015年8月4日)
東京都(教育委員会)を被告とする、一連の「日の丸・君が代」強制拒否訴訟は、一定の歯止めとなる判決を得ながらも所期の成果をあげるまでには至っていない。最高裁での違憲判決を求めて、法廷闘争はまだまだ先が長い。
弁護団は知恵を絞って、新しい主張を開拓して裁判所を説得したいものと努力をしているが、一方、これまで積み上げてきた基本となる教育の本質論や、憲法を頂点とする教育法体系の理念や、その立法事実の主張にも手を抜いてはならないと思う。天皇制教育を清算して戦後に確立した現行教育法体系は、「戦後レジーム」(戦後民主主義体制)の象徴というべき存在として、訴訟を離れても、今その確認と評価とは、ことのほか重要なテーマとなっている。
具体的には、教育の本質とは何か。教育条理は法にどう反映しているか、法の解釈にどう活かされるべきか。また、戦前のレジームを象徴する天皇制教育とはいかなる考え方で、いかなる実態をもち、国の命運にいかなる結果をもたらしたのか。戦後教育改革とは、戦前教育のどこをどう反省し、どのように根本転換して、戦後教育法システムを作り上げたのか。さらにそのことが、新憲法の理念とどう関わっているのか。
本日(5月22日)が、東京「君が代」裁判第4次(処分取消)訴訟の第5回口頭弁論期日である。ここで陳述される原告準備書面(4)が、以上の問題意識に触れる主張を盛り込んだものとなっている。この訴訟を担当している限り、歴史修正主義に毒されることはありえない。
準備書面は目次だけで6ページに及ぶ大部なものだが、そのごく一部を紹介しておきたい。以下、教育基本法制定の経過と基本理念、そして完成した教育基本法の普遍性、真理性についての要約である。
※戦前教育への反省と戦後教育改革の基本理念
教育基本法は、戦後教育改革の結実点である。その立案にあたったのが、「教育刷新委員会(南原繁委員長)」であった。同委員会は内閣に直接建議を行う機関として位置づけられ、重要な役割を果たした。その委員会審議の冒頭に、吉田茂首相の代理として、幣原喜重郎国務大臣(前首相)が次のように挨拶している。
「今回の敗戦を招いた原因は、煎じつめますならば、要するに教育の誤りに因るものと申さなければなりませぬ。従来の形式的な教育、帝国主義、極端な愛国主義の形式というものは、将来の日本を負担する若い人、これを養成する所以ではありませぬ・・・・我々は、過去の誤った理念を一擲し、真理と人格と平和とを尊重すべき教育を、教育本来の面目を、発揮しなければならぬと考えます。」
ここには、戦前の教育に対する深い反省が表れている。戦前教育の誤りをもって戦争の原因と認め、天皇制教育を一擲して「真理と人格と平和とを尊重すべき教育」を教育本来の面目としている。この短い言葉に、戦後教育改革の理念が凝縮されている。
※憲法改正論議における「教育根本法」構想
憲法改正審議の中で、憲法中に教育関係の一章を設けて、教育の自主性・教育の自由・教育の独立性など、新しい民主主義教育の理念を明らかにすべきことが、大島多蔵(新光倶楽部)らの議員から提案された。
これに対し、田中耕太郎文相(後の最高裁長官)は、「教育根本法というべきものの構想をねっている」ことを明らかにし、さらに次のように発言している。
「教育権の独立と云うようなこと、詰り教育が或は行政なり、詰り官僚的の干渉なり或は政党政府の干渉と云うものから独立しなければならないと云う精神は、これは法令の何処かに現したいと云うことは、当局と致しまして念願して居る所でありまして、これは計画致して居りまする教育根本法に、若し法律的のテクニックとして許しますならば、考慮してみたい」
と述べ、教育にかかる憲法的条項を、新たに制定する「教育根本法」にゆずる方針を明らかにした。
※教育刷新委員会における教育基本法構想
1946年9月20日、教育刷新委員会の第3回総会にて、田中耕太郎文相は、教育基本法の全体構想を掲げ、同委員会の審議を求めた。
この中で、田中文相は、
「文部省なり地方の行政官庁なりが終戦まで執って居った態度は我々の考から言ってはなはだ遠いものでありまして、文部省にしろ、あるいは地方の行政官庁にしろ、教育界に対して外部から加えられるべき障碍を排除するという点に意味があるのであります」
と、教育の独立を主張し、さらに、
「要するに学校行政はどういう風にしてやって行かなければならないものであるかということ、あるいは学問の自由、教育の自主性を強調しなければならないということ、・・・・・・そういう建前をもって教育の目的遂行に必要な色々の条件の整備確立をやって行かなければならぬ」
と、47年教育基本法10条の「条件整備」の考え方、すなわち、教育行政の主眼は教育に関する施設・設備・予算等の確保に置かれるべきであり、教育内容についての官僚的な統制は排除され、学問の自由・教育の自主性が尊重されなければならないといった考え方を既に明らかにしていた。
※高橋誠一郎文相の教育基本法案上程理由説明
「民主的で平和的な国家再建の基礎を確立いたしまするがために、さきに憲法の画期的な改正が行われたのでありまして、これによりまして、ひとまず民主主義、平和主義の政治的、法律的な基礎が作られたのであります。しかしながらこの基礎の上に立って、真に民主的で文化的な国家の建設を完成いたしまするとともに、世界の平和に寄与いたしますこと、すなわち立派な内容を充実させますることは、国民の今後の不断の努力にまたねばなりません。そしてこのことは、一にかかって教育の力にあると申しましても、あえて過言ではないと考えるのであります。かくの如き目的の達成のためには、この際教育の根本的刷新を断行いたしまするとともにその普及徹底を期することが何より肝要であります。
…さらに新憲法に定められておりまする諸条文の精神を一層敷衍具体化いたしまして、教育上の諸原則を明示いたす必要を認めたのであります。」
「この法案は、教育の理念を宣言する意味で、教育宣言であるとも見られましょうし、また今後制定せらるべき各種の教育上の諸法令の準則を規定するという意味におきまして、実質的には、教育に関する根本法たる性格をもつものであると申し上げ得るかと存じます。従って本法案には、普通の法律には異例でありますところの前文を附した次第であります。」
教育基本法は、教育勅語に代わる教育理念を示すいわば教育宣言であると同時に、その他の教育法を導く、「教育法の中の根本法即ち、教育憲法」(田中二郎)だといってよい。前文の文言が、そして文相の提案理由が示しているように、教育基本法は、なによりも教育が日本国憲法の精神に則り、その理想の実現を担うものであるべきこと、そのために教育の目的をさらに具体的に明示して、新しい日本の教育の基本を定め、教育実践と教育行政のあり方を方向づけるためのものであった。
※教育行政の理念
以上のような教育の目的を実現するためには、教育行政は、時の政治的権力から自律し、教育独自の価値と論理を尊重する教育行政の仕組みがつくられることがとりわけ重要であった。その理念は「教権の独立」として表現された。
文部省(田中二郎・辻田力)の『教育基本法の解説』(1947年)も、戦前の中央集権的教育行政制度をつぎのようにとらえていた。同解説は、
「(戦前の)精神及び制度は、教育行政が教育内容の面にまで立ち入った干渉をなすことを可能にし、遂には時代の政治力に服して、極端な国家主義的又は軍事的イデオロギーによる教育・思想・学問の統制さえ容易に行われるに至らしめた制度であった。更に、地方教育行政は、一般内務行政の一部として、教育に関して十分な経験と理解のない内務系統の官吏によって指導せられてきた」
「このような教育行政が行われるところに、はつらつたる生命をもつ、自由自主的な教育が生れることは極めて困難であった」
と述べて、教育基本法10条を根幹とする教育行政の新たな転換の意味が、教育の自主性・自律性の尊重にあることを強調した。戦後教育行政の理念は、戦前の中央集権的官僚統制主義の反省に立って、教育行政の任務を条件整備に限定し、教育内容への介入をさけて、政治に対する教育の自律性を確保し、さらに地方の実情に応じた個性的教育を創り出すことを援助することにおかれたのである。
※教育基本法理念の普遍性
新憲法と教育基本法は、教育のあり方についての戦前的思惟への反省に立って、教育を国民の義務ではなく権利として規定するとともに、平和と民主主義を根本に据え、真理と正義を希求する人間の育成を新しい教育の目標とし、人間の尊厳に基づく個性の発現をめざすものとなった。
また、国家と教育の関係も大きく変わり、教育においても学問の自由が尊重され、真理と真実こそが教えられねばならないこと、そして、このような教育の目的を実現させるためには、教育は「不当な支配」に服することなく、「国民に対して直接に責任を負う」べきものとしてとらえられ、教育の自主性と自律性が尊重されて、教師は不断の研修を通して子どもの学習権の充足につとめ、国民の信頼に応えるために努力すること、そして、教育行政は、教育の目的が達せられるための条件を整備することにその任務を限定すべきことが定められた。
こうして、戦後教育改革は、教育勅語を中軸とする教育のあり方(帝国憲法・教育勅語体制)から、憲法・教育基本法を中心とする教育のあり方(憲法・教育基本法体制)へと大きく転換した。
教育の依拠すべき根本のものが教育勅語から教育基本法に代わったということは、教育目的が天皇制イデオロギーの注入による国民形成から、真理と正義を希求する人間の育成へと変わったということにとどまらず、それまで勅語が占めていた次元そのものを否定して、いわば教育の全構造をかえるということを意味した。
教育刷新委員会の委員長として教育基本法制定作業の中心に位置していた南原繁は、成立した教育基本法についてこう語っている。
「新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい」
この南原の言のとおり、憲法26条(教育を受ける権利)、同13条(それを支える生徒の人間としての尊厳)、そして23条(学問の自由→生徒の権利を十全に発揮させるための教員の独立)という、高次の規範に揺るぎがない以上、2006年教育基本法改正を経てなお、教育基本法の基本理念に変更はないと見るべきである。
(2015年5月22日)