澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「儀式的行事における儀礼的所作の強制」だから、「思想・良心の自由侵害と不可分に結びつくものとはいえない」は明らかな誤謬である。

東京都教育委員会の「10・23通達」とこれに基づく職務命令が、全都の教職員に対して国旗・国歌(日の丸・君が代)への起立斉唱を強制している。しかも、これが毎年繰り返されている。

これを違憲と主張する教員らの多数の訴訟において、最高裁は、違憲の主張を斥けてきた。学校行事において教員に国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制をしても、強制された教師の思想・良心の自由を直接に侵害するものではないというのだ。

その論理の骨格は、「国旗としての日の丸の掲揚及び国歌としての君が代の斉唱が広く行われていたことは周知の事実」という、明らかに誤った事実認識の前提から出発して、以下のように論じている。

「学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作として外部からも認識されるものというべきである」。

だから、起立斉唱を行わせることが「上告人(教員)らの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつくものとはいえない」という。

大要、「儀式的行事における儀礼的所作」の強制は、「歴史観ないし世界観(すなわち、思想・良心)を否定することと不可分に結びつくものではない」という論旨である。

この最高裁判決の説示は、近時の下級審判決が挙って模倣ないし追従するところとなっている。教員たちの憲法19条違反の主張を否定する論拠としているだけでなく、東京「君が代」裁判・第4次訴訟判決では、憲法20条違反を否定する論拠としても明示されている。

同判決は次のように判示する。
「卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為の性質については,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであって,それを超えて宗教的意味合いを持つものではなく,他宗教の信仰の強制などと評価することはできない。

原告らの中には、信仰ゆえに起立できないとする者がいるが、原告らは都立学校の教職員であって,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性等に鑑み,学習指導要領の国旗・国歌条項を含む法令及び校長の職務命令に従うべき立場にあることを踏まえると,同原告らの信仰の自由の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものである。

したがって,卒業式等における起立斉唱行為が,原告らの信仰との関係で著しい精神的苦痛をもたらすものであることなどを理由として,本件職務命令等が憲法20条に違反することをいう原告らの主張を採用することはできない。」

しかし、この説示は、決定的に間違っていると指摘せざるをえない。
ある個人が自発的には行えないとする身体的な行為を権力的に強制することは、原則としてその人の精神の自由を直接に侵害すると考えざるを得ない。当該の個人が「自らの歴史観ないし世界観(すなわち、思想・良心)を否定することになるから従えない」と表明する局面においての強制であれば、その強制は当該の思想・良心を否定することになる。「自らの信仰に抵触するから従えない」と表明する局面においての強制であれば、その強制は当該の信仰を侵害することになる。極めて常識的な論理の帰結である。

これを「儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作」の強制であれば、「思想・良心の否定と不可分に結びつくものではない」と切断する「論理」の根拠は示されておらず、強弁というほかはない。

当該の最高裁判決は、「儀式的行事における儀礼的所作」を、「宗教性のない、もっぱら世俗的な性格に徹したもの」の意味で使っているごとくであるが、本当に世俗的なものに過ぎないのか。そして、宗教性を欠いた世俗的なものであれば「思想・良心の否定と不可分に結びつくものではないのか」が問われなければなない。

実のところ、儀式的行事への参加や儀礼的所作の強制は、最高裁判決の説示にかかわらず、むしろ信教の自由や、思想及び良心の自由を侵害する典型的な類型といわねばならない。また、「儀式的行事における儀礼的所作」が宗教性を持たないものであるにせよ、「儀式的行事における儀礼的所作の強制」は、それ自体が集団への同化強制の圧力となるもので、特定の思想に関連する儀式的行事における、特定の思想に関連する儀礼的所作の強制は、宗教の強制に準じて、これを受け容れがたいとする個人に対して、その思想・良心の自由の侵害をもたらすものとなる。

弁護団は、著名な宗教学者の教示を得て、以下のとおり、控訴理由の主張を準備している。

儀式・儀礼は宗教の不可欠な要素の一つであって、固有の儀式・儀礼をもたない宗教を見出すことは困難である。したがって、「儀式的行事における儀礼的所作」が宗教性と無縁であるとの認識は根本的な誤謬である。「宗教的な儀式や宗教的な行事における宗教儀礼や宗教的的所作」は、至るところに存在する。

しかも、宗教性をまったく捨象した「儀式的行事における儀礼的所作」である場合にも、思想・良心の自由侵害と無縁であることにはならない。儀式・儀礼が政治的機能をもつときに抑圧的機能を果たすことは、宗教学・政治学・社会学で共有されている通説的認識である。特定宗教の枠を超えた世俗国家の儀式・儀礼においても同様である。

とりわけ日本の場合、世俗国家の儀式・儀礼と国家神道由来の儀式・儀礼との境界は分明でなく、この点がしばしば法的争点となる。儀式・儀礼が宗教的あるいは全体主義的な過去を背負っており、そのことが基本的人権を脅かす基礎をなしている。現に日本国憲法を否定し、天皇崇敬や神権的国体論の復活を目指す政治勢力も存在しており、政府や国会で一定の影響力を保持している。

国家が儀式・儀礼を通じて神聖化され、生活の諸方面に及ぶ規制力を発揮することがある。儒教や神道の影響が濃い文化では、このことが起こりやすい。世俗的な儀式・儀礼と、宗教的な儀式・儀礼とが連続的であるのは、儒教の影響を受けた地域には広く見られることである。日本の国家神道、とくにその近代的形態は儒教的な思想の影響を大きく受けている。このような文化的環境と歴史的背景の下で、細かな規定によって身体の画一的統御が課されるとき、精神の自由が著しく脅かされると感じることには相当の理由がある。

以上のとおり、儀式・儀礼は宗教の本質的な要素なのであって、儀式における儀礼的所作だから、その性格がもっぱら世俗的になって宗教性がないなどとというのは明らかな誤りである。しかも、「儀式・儀礼は強い政治的機能をもちうる」のである。儀式・儀礼が宗教の本質的な要素とされるのは、信仰を同じくする者の集団による共通の身体的動作が、相互に信仰と信仰に基づく連帯感の確認行為となるからである。

このことは、世俗的な集団における世俗的な行事においても本質的に変わらない。「起立」「礼」「注目」「斉唱」「唱和」などの身体的行為を集団が同時に画一的に行うことは、その集団の価値観や目的を再確認して、何らかの理念の共有を深化させる機能をもつものである。従って、その集団の価値観に同調しない者にとっては、明らかに思想・良心の侵害とならざるを得ない。

このような、学校行事における宗教的所作の強制は戦前にしばしば起こったことである。憲法第20条の信教の自由の規定は、こうした戦前戦中の経験を踏まえたものであり、『特定の宗教的行為を強制されない自由』だけでなく、『宗教に準ずる信条と関連する行為を強制されない自由』も含まれていると理解しなくてはならない。憲法第19条の『思想・良心の自由』から見れば、特定の信念体系に基づく行為を強制されない自由も含まれるということである。

以上のとおり、「儀式的行事における儀礼的所作」は、典型的な宗教行為そのものであることもあり、宗教的色彩を帯びる宗教に準ずる行為であることもある。「儀式的行事における儀礼的所作」だから、宗教性は払拭されているわけではない。

のみならず、「儀式的行事における儀礼的所作」が純粋に世俗的なものであったとしても、これを強制する場合には、その集団に特有の思想や価値観を個人に押しつけるものとして、「思想・良心の否定と不可分に結びつく」ものとならざるを得ない。

したがって、「10・23通達」関連の最高裁判決の論理は、「憲法が宗教に準ずる一定の思想に基づく儀式等への参加強制を禁じている」ことを看過したものであって、これに無批判に追随した下級審判決も、憲法19条および20条についての憲法の解釈を誤ったものである。
(2017年12月10日)

東京「君が代」裁判(第4次訴訟)、控訴理由書作成中。

「10・23通達」関連訴訟の中核に位置づけられる東京「君が代」裁判(第4次訴訟)。9月15日に東京地裁民事第11部(佐々木宗啓裁判長)の判決があり、今12月18日を提出期限と定められた控訴理由書を鋭意作成中である。

同判決は、減給以上の全処分(原告6名についての7件)を取り消した。この点については評価しうるのだが、戒告処分(9名についての12件)については取り消し請求を棄却した。不当であり無念というほかない。

原告団・弁護団は、何よりも違憲論を重視している。
《「10・23通達」⇒起立斉唱を命じる校長の職務命令⇒職務命令違反を理由とする懲戒処分》という、行政の一連の行為が違憲だという主張。違憲の根拠を、「客観違憲論」と「主観違憲論」に大別した。

立憲主義に基づく憲法の構造上、そもそも公権力が国民に対して、「国に敬意を表明せよ」などと命令できるはずはない。また、憲法26条や23条は教育の場での価値多様性を重視しており、公権力が過剰に教育の内容に介入することは許容されず、本件はその教育に対する公権力の過剰介入の典型事例である。というのが、客観違憲論。誰に対する関係でも都教委の一連の行為は違憲で、違法となる。

憲法で規定され保障された、思想・良心の自由(憲法19条)、信仰の自由(20条)、教育者の自由(23条)などを根拠に、各原告の基本権が侵害されたことを理由とする違憲の主張が主観的違憲論。特定の思想・良心・信仰を持つ人との関係でのみ違憲となる。

また、必ずしも違憲判断に踏み込まずとも、戒告処分を含む全処分を処分権の逸脱濫用として取り消すことが可能である。これが6年前の1次訴訟控訴審の東京高裁『大橋判決』だ。しかも、これまでの最高裁判決は、「戒告はノミナルな処分に過ぎず、被戒告者に実質的な不利益をもたらすものではない」ことを前提としていた。しかし、実は戒告といえども、過大な経済的不利益、実質的な種々の不利益をともなうようになってきた。とりわけ、最近になって都教委は意識的に不利益を増大させている。しかし、この不利益も同判決が採用するにはいたらなかった。

事案の全体像のとらえ方を示している同判決の一部をご紹介しておきたい。      *******************************************************************

☆ 事案の要旨
(1) 被告(東京都)の設置する高等学校又は特別支援学校の教職員である原告らが,その所属校において行われた卒業式又は入学式において,国歌斉唱時には指定された席で国旗に向かって起立し,国歌を斉唱することを求める校長の職務命令に違反して起立しなかったところ,東京都教育委員会は,かかる不起立は地方公務員法32条及び33条に違反するものであるとしたうえ,同法29条1項1号ないし3号に基づき,原告らに対し,戒告,減給又は停職の懲戒処分を行った。
(2) 本件は,原告らが,起立斉唱命令,その前提とな’った都教委の通達ないしそれらによる原告らに対する起立斉唱の義務付けは,原告らの思想・良心の自由,信教の自由,教育の自由を保障した憲法及び国際条約の規定に違反し,公権力行使の権限を踰越するものであり,「不当な支配」を禁じた教育基本法の規定にも抵触するから,原告らに対する起立斉唱命令は重大かつ明白な瑕疵を帯びるものとして無効であり,その違反を理由とする懲戒処分も違法であることに帰するし,仮に起立斉唱命令が有効であるとしても,その違反に対して戒告,減給又は停職の処分を科したことについては手続的瑕疵及び裁量権の逸脱・濫用があるから違法であるなどと主張して,被告に対し,各処分の取消しを求めるとともに,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償(懲戒処分1件につき55万円)及びこれに対する訴状送達日(平成26年4月14日)の翌日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

☆ 争点
(1)原告Xに対する起立斉唱命令(本件職務命令)の有無
(2)本件職務命令等の憲法19条違反(思想・良心の自由の侵害)の有無
(3)本件職務命令等の憲法20条違反(信教の自由の侵害)の有無
(4)本件職務命令等の憲法26条,13条及び23条違反(教師の教育の自由の侵害)の有無
(5)本件職務命令等の国際条約違反の有無
(6)本件職務命令等の公権力行使の権限踰越ゆえの違憲・違法の有無
(7)本件職務命令等の教基法16条1項(不当な支配の禁止)違反の有無
(8)本件処分の手続的瑕疵の有無
(9)本件職務命令違反を理由として少なくとも戒告処分を科することの裁量権の逸脱・濫用の有無
(10)本件職務命令違反を理由として減給又は停職の処分を科することの裁量権の逸脱・濫用の有無
(11)国賠法1条1項に基づく損害賠償請求の当否

今進めている作業は、上記の(1)?(11)までの原判決の判断に対する反論である。
上記(10)に関する裁判所の判断だけが納得しうるもので、その余の判断は全て納得しがたい。

憲法は、国家と国民の関係を規律する。国家象徴(国旗・国歌)と国民個人の価値的な優劣の関係は、憲法の最大関心事のはず。主権者国民の僕に過ぎない国家が、その主人である主権者国民に向かって、「吾に敬意を表明せよ」と命じることなどできるはずがない。これは憲法価値の序列における倒錯であり、背理でもある。真っ当な憲法判断を獲得すべく弁護団・原告団は努力を重ねている。
(2017年12月6日)

天皇代替わりに、国民意識操作への警戒を

昨日(12月1日)開催の皇室会議なるもので、天皇代替わりの日程がほぼ決まったようだ。2019年4月30日に現職が退任し、同年5月1日に後任が就任することになる模様。

2019年4月30日から5月1日へ日付が変って…、なにが起こるわけでもない。当事者の父子や、その家族には大きなできごとではあろうが、国政に関する権能を有しない公務員職の交代が、政治にも行政にも何の意味も持つはずはない。というよりは、意味をもってはならないのだ。せいぜいのところ、国民にとって切実に意味を持つのは、皇室予算がどれだけ増えるかである。このことには、大いに関心をもたざるを得ない。

天皇の代替わり自体に格別の意味はない。御名御璽の、ギョメイが、「明仁」から「徳仁」に変更されるだけ。これを大事件と騒ぎたてて国民意識を操作し、代替わりを意味あるものとしたい。それが、伝統右翼の目論むところであり保守政権の立場でもある。自立した主権者の側としては、この大騒ぎを警戒しなければならない。ところが、メディアが、右翼のお先棒かつぎに一役買っているのが気になるところ。

代替わりに際して、幾つかの留意点ないし警戒すべき点がある。
☆祝意の強制を許してはならない。
☆厳格に政教分離の原則を貫かなければならない。
☆「平成」の終焉を機に日常生活から元号使用をなくしたい。
☆「日の丸・君が代」、元号、祝日などの小道具を使っての天皇制刷り込みに注意。
☆これを好機とした天皇制ナショナリズム鼓吹を警戒しよう。

ところで、本日の各紙が社説に天皇代替わり問題を取り上げている(朝日の社説は、この話題に触れていない)。概してお先棒担ぎの提灯社説。とりわけ、案の定というべきではあろうが産経がひどい。読むだに恥ずかしくなる。

見出しだけ並べてみよう。
産経 「譲位日程固まる 国民はこぞって寿ぎたい」
読売 「天皇退位日 代替わりへ遺漏のない準備を」
日経 「退位・改元の準備を滞りなく進めよう」
毎日 「天皇陛下の退位日決まる 国民本位を貫く姿勢こそ」
東京 「天皇の退位と即位 国民の理解とともに」

リベラルなはずの毎日や東京も、天皇を論じるとなるとまことに歯切れが悪くなる。歯の浮くようなお追従もあちこちに見える。それだけ、社会的な圧力が強いということなのだ。読売が本文はともかく見出しでは「天皇退位」と「陛下」を抜きにしているのに、毎日が「天皇陛下の退位日」とは情けない。

産経は、見出しで「国民はこぞって寿ぎたい」という。おかしな日本語ではあるが、意味の忖度は可能だ。しかし、私は「寿ぎたくない」し、「けっして寿がない」。そして、今どき「国民こぞって」なんてこの上なく薄気味悪い。祝意の強制はまっぴらご免だ。

私は、北朝鮮指導者の事実上の世襲体制を唾棄すべき遅れた社会のあり方と思う。その代替わりのイベントも、祝意を国民に押しつけるものとして醜悪な印象をもった。しかし、あれは、天皇制の亜流なのだ。ルーツは明らかに日本にある。戦前の天皇制が、植民地に押しつけたものなのだ。宮城遙拝、ご真影への敬礼、教育勅語奉戴などによって叩き込まれた天皇への敬意や祝意の強制の残滓が、いま北朝鮮では金正恩への讃辞となり、日本では産経の社説におどっているのだ。

産経社説はいう。「立憲君主である天皇の譲位は、日本にとっての重要事である。一連の日程が固まったことを喜びたい。いよいよ譲位や即位、大嘗祭、改元の準備が本格化する。」「安倍晋三首相が「国民の皆さまの祝福の中でつつがなく行われるよう全力を尽くしてまいります」と表明したことは重い。」「譲位の日取りは、…200年ぶりとなる、譲位による御代替わりを、国民こぞって寿ぐことにもふさわしい。」「国の始まりから日本の君主であり、国民統合の象徴である天皇にふさわしい代替わりを実現することが大切である。」

ムチャクチャだが、いったい、なぜ、何が、寿ぐべきことなののだろうか。時代錯誤も甚だしい産経のことだ。もしかしたら、「金甌無欠なる我が國體が連綿として天壌無窮なること」などと言い出しかねない。

産経社説の一節が別な意味で興味を惹く。
「陛下は平成31年4月30日に皇位を退かれる。5月1日に皇太子殿下が第126代の天皇に即位され、改元が行われる。」

ここでの、「5月1日」は、もはや平成ではない。だから、「同年5月1日」とは言えないことになる。平成31年4月30日の次の日である5月1日は、新元号を冠した日付の初日になるはずだが、新元号は未定であるから、日付の表記ができない。

だから、産経を除く他の全ての社説が、元号が替わる予定の年を「2019年」と西暦で表記している。たとえば、読売でさえ次のように。

「2019年4月30日に天皇陛下が退位される。5月1日に皇太子さまが天皇に即位され、この日から新元号となる。」

この読売調なら論理的に不自然さはない。産経のように元号使用にこだわるから、滑稽なことになる。いや、はからずも、産経社説は元号使用にこだわることによって、将来の歴年を表記できない元号の致命的欠陥を露わにしているのだ。

日経の社説は、締まりのないおざなりなものだが、看過しがたい一文がある。
「政府や企業は今後、退位と改元に向けたさまざまな準備を遅滞なく進める必要がある。」というのだ。唐突に出てきた「企業」の2文字。代替わりイベントで儲けようというのなら資本主義的合理性に支えられた健全さかも知れない。ここでは、官民一体となった、祝賀ムード作りが「企業」に求められているのだ。そのような役割が企業に求められ、企業を介して、国民全体に社会的同調圧力が及ぶことになるのだ。

天皇制とは、面従腹背の文化にほかならない。腹の中ではどう思っていようとも、天皇を語るときは、「国民をいたわってくださるありがたい存在」「常に、国の平安を祈っておられる立派な方」と言わなければならない。皇室の話題は、常に「おめでたい」「心が明るくなります」なのだ。弔事には、「おいたわしい」「国民全体の不幸」が決まり文句。この点、戦前とも北朝鮮とも同様なのだ。

そのような社会的同調圧力の空気を醸成しているのが、毎日や東京も含むメディアであることを強く意識せざるを得ない。厳格な政教分離の要請など、出てこないではないか。各社・各紙、これでよいのか。猛省を促したい。
(2017年12月2日)

共産党都議団、いやがらせ都教委に「日の丸・君が代強制」反対の申し入れ

都内の公立校では、卒業式や入学式の直前に、全教職員の一人ひとりに対して「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」よう、文書による職務命令が発せられる。2003年の「10・23通達」以来繰り返されている異様な風景だ。

「職務命令があろうとなかろうと、起立できない」とする教員がいる。「命令なければ起立も斉唱もするが、教育の場にあってはならない命令には従えない」という教員もいる。こうして、毎年起立できないとする教員に、懲戒処分が繰り返され、処分取消の訴訟も繰り返されている。

9月15日の「東京君が代裁判・第4次訴訟判決」では、原告6名についての7件の減給・停職処分が違法な処分として取り消された。都教委は、その内5名・5件の処分については控訴を断念し処分取り消しは確定した。ところが、これで話しは終わらない。なにしろ相手は、執念深い都教委だ。裁判に負けて、司法から「都教委の処分は違法。だから取り消す」と言われても、恥ずかしいとはおもわない。絶対に謝罪も反省もしない。できるいやがらせは最大限やろうという根性。その具体化が、まだ退職せずに在籍している教員にたいする「再処分」である。

再処分とは、減給が重すぎるとして取り消されたから、もう一度同じ「職務命令違反」に対して戒告の処分をし直そうということなのだ。せっかく裁判に勝った教員は、もう一度フルコースで、行政手続と訴訟手続をやり直すことになる。

その行政手続の最初が、バカバカしい2度目の事情聴取となる。本日(11月30日)午前、一人の教員に対する、再処分・事情聴取が行われたが、これに先立ち、日本共産党東京都議会議員団(18名)は、都教委(中井教育長)に対して「『日の丸・君が代』にかかわる再処分を行わず自由闊達な教育を求める申し入れ」を行った。都教委側は江藤人事部長が対応し申し入れ書を受け取ったという。

本日夕刻、たまたま文京区出身の都議を永く務め、このほど勇退された小竹紘子さんの「ご苦労様パーティー」があった。小竹さんは、今回都議改選まで都議会文教委員会委員長を務めた方。今は、小竹さんに代わって、やはり共産党の里吉ゆみさんが文教委員長となっている。

パーティーで里吉さんと言葉を交わした。「君が代裁判の原告団も弁護団も、決してあきらめません。闘い抜く覚悟ですからご支援を」と言ったところ、里吉さんも、「私たちも決してあきらめません。本日もその問題で都教委に党の議員団として申し入れを行いました。明日の赤旗をご覧ください」。打てば響くような、力強いご返答。

その申入書は、日本共産党東京都議会議員団HPで見ることができる。

「日の丸・君が代」にかかわる再処分を行わず自由闊達な教育を求める申し入れ
https://www.jcptogidan.gr.jp/category01/2017/1130_784

その全文が以下のとおり。
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2017年11月30日
東京都教育長 中井 敬三 殿
日本共産党東京都議会議員団
「日の丸・君が代」にかかわる再処分を行わず自由闊達な教育を求める申し入れ
東京地方裁判所は9月15日、教職員が入学式や卒業式で「君が代」斉唱時の起立斉唱を命じた職務命令の拒否を理由とする、懲戒処分の取り消しを求めた裁判の判決を出しました。6名、7件の減給・停職は相当性を基礎づける具体的事情がなく、社会通念上著しく妥当性を欠き、懲戒権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとの判断を示すと同時に、不起立の回数のみを理由とする加重処分を断罪しています。
この間の訴訟では63名、73件にのぼる処分を違法とする判決が出ています。今、教育委員会としてなすべきは、教職員への謝罪と名誉回復・権利回復です。
ところが教育委員会は、5名については控訴を断念し処分取り消しは確定しましたが、1名については控訴しました。処分取り消しが確定した原告からは、中井教育長あてに謝罪を求める申し入れもされていますが、何の回答もしていません。
さらに、処分取り消しが確定した原告のうち、現職の都立高校教員2名について、減額分の給料も支払わないまま事情聴取を行おうとしており、新たに戒告処分という「再処分」をする意図があると推測せざるを得ません。
教育委員会の対応は、国旗に向かって起立し斉唱することなどを命じた職務命令が、思想および良心の自由について間接的な制約となり得ることを認め、自由で闊達な教育のために、すべての関係者の真摯で速やかな努力を求めた最高裁判決にも反し、教育行政としてもふさわしくありません。
よって日本共産党都議団は、以下の4点について申し入れます。

1、今回の東京地裁判決で処分が取り消された教職員に対し、再処分のための事情聴取および再処分を行わないこと。1名の控訴を取り下げること。

2、処分取り消しが確定した5名の原告に謝罪し、直ちに名誉回復・権利回復措置を行うこと。処分が取り消された旨を、都教育委員会ホームページで公表すること。

3、原告らが強く求めている話し合いに応じるとともに、学校現場で自由闊達な教育が実施できるよう、教育行政のあり方を改善すること。

4、10・23通達を撤回し、校長の職務命令、累積加重処分、再発防止研修などの「日の丸・君が代」を強制するための一連のやり方を抜本的に改めること。
以上

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「国旗・国歌(日の丸・君が代)」強制問題は、多面性をもっている。立憲主義にも関わる、国家観・歴史観にも関わる。ナショナリズムの問題でもあり、人権の問題でもある。そして、教育の本質に関わる問題でもある。なによりも、国民の価値感の多様性の保障に関わる問題と思う。別の言い方をすれば、社会の寛容度に関わる問題なのだ。日本共産党が、社会の寛容度を最大限化することにもっとも、熱心であることが興味深い。

今日も、「第4次訴訟」控訴理由書作成のための弁護団会議だった。その中で、一人の弁護士が呟いた。「結局は外的な圧力で集団的な統制を徹底したいというのが、都教委や保守派のホンネなんだ。その統制徹底の姿が、北朝鮮や中国の議会や集会じゃないか。あれを理想だとするのが、都教委であり10・23通達の思想なんだ」。

石原慎太郎や小池百合子、そして自民党も、実は北朝鮮流の一糸乱れぬ集団的統制が大好きで憧れているのではないだろうか。私は、人間をコマと扱うああいう集団統制は、虫酸が走るほど大きらいだ。天皇制日本やその亜流である北朝鮮の集団的統制を許容する世の風潮はまっぴらごめん。だから闘い続けようと思い定めている。
(2017年11月30日・連日更新第1705回)

どう考えても、「国旗・国歌(日の丸・君が代)」強制は違憲だ

東京「君が代」裁判(第4次訴訟)の控訴理由書提出期限が12月18日とされて、俄然忙しくなっている。

課題として獲得すべき判決は二つ。「日の丸・君が代」強制が違憲であることの判決。あるいは、停職・減給だけでなく戒告も裁量権濫用に当たるとして処分を取消す判決。いずれもけっして低いハードルではないが、原告団も弁護団も元気だ。

違憲論の組み立ても幾つか試みられているが、「国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、憲法19条が保障した思想・良心の自由を侵害する」という構成が本命だと思う。どうして、司法はこのシンプルな常識的論理を認めようとしないのだろうか。

私たちの主張は、どんな内容の思想もどんな良心も、19条の効果として国家の権力作用を拒否できると考えているわけではない。国民個人に対する国家の権力発動を「思想良心を侵害するものとして拒否できる」のは、個人の人格の中核にあって、その尊厳を支えている思想や良心を侵害する場合に限定されるものではあろう。

歴史的には、近世のキリシタン弾圧や近代の天皇崇拝の強制、あるいは特高警察による思想弾圧の対象となった信仰や思想。今の世では、まさしく、「日の丸・君が代」強制を拒否する思想こそが、個人の人格の中核にある思想として国家権力の発動による侵害から守られなければならない。

いうまでもなく、憲法とは権力を統制する手段である。国家と国民個人の関係を規律して、権力の恣意的発動から個人の人権を擁護するためにある。したがって、憲法が最も関心を寄せる課題は、国家権力と国民個人の関係である。

国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する起立斉唱の命令とは、国旗・国歌が象徴する国家と個人が対峙する局面において、権力の発動によって個人に国家の優越を認めるよう強制するということなのだ。憲法の最大関心テーマであって、これを措いて思想良心侵害の場面を想定しがたい。

この強制を合憲だという最高裁の論理はかなり複雑である。シンプルには、合憲と言えないことを物語っている。
最高裁判決の論理は以下のとおり
(1) 「日の丸・君が代」への敬意表明という外部行為の強制は、個人の思想・良心を直接侵害するするものではない。
(2) しかし、間接的な制約となる面があることは否定し得ない。
(3) その制約態様が間接的なものに過ぎないから、合理性・必要性があれば間接制約は許容される。
(4) 合理性・必要性を認めるキーワードとして、国旗・国歌(日の丸・君が代)に起立して斉唱するのは、「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」に過ぎないことが強調されている。

ここで、「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」は、「起立や斉唱という身体的(外部的)行為」と「思想良心(内心)」との不可分一体性を否定するために使われている。しかし、果たして本当にそう言えるのだろうか。

「儀式」も「儀礼」も宗教で重んじられる。信仰という精神の内奥にあるものの表出としての「儀式」「儀礼」という身体的外部行為は、内心の信仰そのものと切り離すことができない不可分一体のものではないか。

いかなる宗教も、その宗教特有の儀式においてそれぞれの宗教儀礼を行う。信仰を同じくする多数人が、同一の場に集合して、同じ行動をし、同じ聖なる歌を唱う。声を合わせて信じる神を称える。そのことによって、お互いに信仰を確認し、信仰を深め合う。そのように意味づけられた行為である「儀式」「儀礼」は宗教に欠かせない本質的な要素である。

しかも、そのことは、実は宗教儀式と非宗教的な儀式において、本質的差異はないのではないか。ナチの演出による聖火行事。あるいは、国家主義的な演出としてのマスゲームなど。最高裁がいう「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」が思想や信仰と無縁であるということではない。

戦前の国家神道の時代。臣民に神道的な儀式や儀礼が強制された。身体的な動作の強制を以て、望ましい臣民の精神形成がはかられたのだ。その伝統はなくなったのか。まさしく国旗・国歌(日の丸・君が代)への起立・斉唱の強制として、今も生きているというべきだろう。

かつてはご真影と教育勅語を中心とした学校儀式が、今は国旗・国歌(日の丸・君が代)に置き換えられている。天皇を「玉」と呼んで、その権威利用を試みた明治政府は、国家神道を発明して、国民精神を統一する道具に使って成功を見た。

戦後の保守政権も、便利な国民統合の道具として国旗・国歌(日の丸・君が代)を使い続けているのだ。国民統合とは、部分的には企業の統合であり、各官庁や公的組織の一体感獲得の方法でもある。国旗・国歌(日の丸・君が代)に従順な国民精神の形成はこの国の支配層の要求に合致しているのだ。だから、「10・23通達」は国民世論に大きな反発を受けなかったのだ。

しかし、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制は、明らかに。国家を個人のうえに置くものとして反憲法的といわざるを得ないし、そのような強制が拒絶する人格に向けられたときには思想良心の侵害となることは明らかではないか。

さて、12月18日までに、裁判所に受けいれられるような文体で、文章にしなければならない。
(2017年11月21日・連日更新第1696回)

学校儀式における「日の丸・君が代」の呪縛

本日(11月8日)の赤旗「学問文化」欄に、有本真紀立教大学教授の「学校儀式」に関する論文が掲載されている。連載企画「統制された文化」の一論稿。タイトルは、「権力を追認させ批判くじく」とつけられている。簡潔に学校儀式の歴史をまとめて述べた後、「集団化徹底の卓越した技術」との小見出しで次のようにまとめられている。

「儀式は、参加者に様式化された身体行為を課し、批判的な思考をくじく方法である。人びとが儀式に参集し、同じ対象に向かって一緒に同じ所作を行い、同じ言葉を発する。それ自体が権力を成立させ、追認させるのだ。さらに、儀式にはタブーが伴い、その徹底が聖性を生み出す。

人びとは、価値観や信念など共有していなくても、儀式でともに行為し、タブーを守ることによって、連帯する集団の一員と化してしまう。『一同礼』『斉唱』と声がかかれば、それに応じないという行為が、その人の人間性や能力、主義主張の現れだとみなされる。日本の学校は、儀式という卓越した集団化、国民統合の技術を駆使してきた。

儀式の時空において、ともに同じ行為をくり返すことで、子どもの身体は『ぼくたち/私たち』の身体へと束ねられた。
祝日大祭日儀式や教育勅語が廃止されて70年余り。しかし、学校は儀式の呪縛から解かれたのだろうか。人間社会から儀式が消滅することはないが、改めて現代の学校儀式を問い直す必要があるだろう。」

まったく同感であり、優れた論稿だと思う。論者の専門は、「歴史社会学」だという。論稿には、戦後の学校儀式の中心に位置している「国旗・国歌」あるいは「日の丸・君が代」への言及がない。しかし、まさしく国旗・国歌(日の丸・君が代)斉唱の強制こそが、問い直されなければならない。
私なりに再構成させてもらえば、次のようなことになろう。
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「日の丸に正対して起立し君が代を斉唱するという儀式的行為は、参加者に様式化された身体行為を課し、批判的な思考をくじく方法として有効であればこそ、全国で採用され、強制されている。人びとが卒業式という学校儀式に参集し、号令のもと一斉に起立して国家の象徴である国旗(「日の丸」)に正対し、威儀を正して一緒に声を揃えて国家の象徴である国歌を唱う。同一の集団に属する者が、同じ所作を行い同じ言葉を発すること、それ自体がその集団に属する者に対する権力を成立させ、あるいは国家主義的権力を追認させるのだ。
さらに、儀式にはタブーが伴う。仰ぎ見ることを強制される国旗(「日の丸」)は、大日本帝国の国旗でもあった。帝国が国是とした侵略戦争の象徴でもある。この旗の真紅は、戦争に倒れた無数の人々の犠牲の血を連想させるが、これを口にしてはならない。国歌(「日の丸」)は天皇への讃歌だ。神の子孫であり、自らも現人神と称したその天皇を讃える聖歌。かつての臣民が天皇を貴しとして唱った歌が、国民主権の今の世にふさわしからぬことは自明なのだが、それを口にしてはならない。そのタブーを共有し徹底することが儀式の聖性を生み出す。

生徒も父母も、校長も教員も、そして来賓も、つまりは学校を取り巻く社会が、一人ひとりは価値観や信念など共有していなくても、卒業式で、起立して一緒に君が代を唱うという行動を通じ、国家や天皇や現行社会秩序への抵抗をもたないと宣誓することによって、連帯する集団の一員と化してしまうのだ。『一同起立』『国歌斉唱』と声がかかれば、それに応じないという行為が、その人の人間性や能力、そして、国家や社会に従順ではない主義主張の現れだとみなされる。

世界に冠たる「踏み絵」という内心あぶり出しの技法を編み出した日本の権力者の末裔は、学校という場において、学校儀式という卓越した集団化、国民統合の技術を開発し駆使してきた。その儀式の時空において、ともに同じ行為をくり返すことで、子どもの身体は個性主体性を削ぎ落とされて、『ぼくたち/私たち』の身体へと束ねられた。かつては臣民の一人として。今は従順なる国家権力の僕として。
(2017年11月8日)

「中華人民共和国国歌法」性急な制定と改正の事情

人に「笑え」と強制はできない。人に「怒れ」と強制することもできない。人間の感情は、強制になじまないものなのだから。人に「人を愛するよう」強制はできない。人に「人を尊敬するよう」強制もできない。愛も尊敬も、本来的に強制し得ない。強制による愛は愛ではなく、強制による尊敬もそもそも自己矛盾なのだから。

愛国を強制することもできるはずがない。強制された愛国など論理的に成り立ち得ない。国旗国歌に対する敬意表明の強制に至っては、強制されたとたんにニセモノの敬意となり、薄汚れた面従腹背とならざるを得ない。

愛国心とは民衆の心から湧き出る性質のもので、他から植えつけられるものではない。国旗国歌に対する敬意とは、民衆の国家との一体感ある限りのもので、強制されるものではありえない。国家による愛国心の鼓吹とは、国家権力が民衆に対して、「我を愛せよ」と命じるグロテスクな押しつけ以外のなにものでもない。

多くの国民が敬意を表するに値しない国家と思うに至ったとき、慌てた国家が、愛国を強要し、国旗国歌に対する敬意表明を強制する。あるいは、国旗国歌に対する侮辱行為を犯罪として禁止する。

思えば、大逆罪、不敬罪、国防保安法、治安維持法などの治安立法によって国民をがんじがらめに縛りつけておかねばならない強権国家とは、実は面従腹背の国民を抱えた脆弱な国家だった。

権力が国民に愛国心を説き、国旗・国歌を尊重せよと義務付けることは、既に権力の敗北である。愛国心を説き、国旗・国歌を尊重せよと義務付ける国家は、論理矛盾を抱えつつもこれを強制せざるを得ない弱点を抱えた国家なのだ。

以上の点を、これまではもっぱら日本やアメリカについて論じてきたが、中国でも事情が同じであることが話題となっている。愛国心涵養の教育政策、国歌の冒涜禁止の法律…。経済発展著しい中国のこの自信のなさはどうしたことか。とりわけ、民主化の水準が高い香港において、問題が大きくなりそうなのだ。

これまで、中国には「国旗法」があって、「国歌法」はなかった。
1949年建国とともに五星紅旗が国旗として指定され、現行の「中華人民共和国国旗法」は1990年6月の制定で全20か条。法の目的を、愛国主義精神の高揚等と明記したうえ、国旗のデザインを五星紅旗と定め、その取り扱いの詳細を規定して、第19条で「公共の場で、故意に国旗を燃やし、毀損し、汚し、踏みつけるなどの侮辱行為に及んだ場合は刑事責任を追及し、情状軽微なときは15日以内の拘留処分を科す」と定めている。

今年の10月1日に、全人代で、これまでなかった全16か条の「国歌法」が成立した。その第15条が、「公共の場で悪意に満ちた替え歌を歌ったり、歌のイメージを傷つけるような演奏をした場合に15日以内の拘留処分を科す」となっている。一見微罪であるが、犯罪であるからには、逮捕も未決勾留も可能となる。背後関係を洗うとした広範な捜索・差押えも可能となる。

この法律制定の必要性は、香港にあったようだ。民主化を求める若者が中心部を占拠した2014年のデモ「雨傘運動」以降、香港では若者が国歌斉唱の際にブーイングをしたり起立を拒否したり、あるいは替え歌を歌ったり、「嘘だ」と叫んだりして問題になるケースが相次いでいたという。香港サッカー協会は2015年、国際サッカー連盟(FIFA)から責任を問われて罰金を科されたとも報じられている。国民が、敬意を表することのできない自国への抗議として、国旗や国歌への敬意表明を拒否するのは普遍的な思想表現手段。未成熟な国家は、これを弾圧しようということになる。

国歌法は中国本土では本年10月1日に施行されたが、香港は「一国二制度」によって高度な自治が保障されている。そのため、香港政府は今後、立法会(議会)に罰則規定などを盛り込んだ関連法案を提出し、成立後に適用される予定とされていた。当然のことながら、民主派からは表現の自由が後退するとの懸念の声が高まっていた。

そのような事態で、全人代常務委員会は、11月4日香港の「憲法」にあたる香港基本法を改正し、中国の国歌に対する侮辱行為を禁止する国歌法を付属文書に盛り込んだ。国営新華社通信が伝えるところである。サッカーの試合前の国歌斉唱などの際に、ブーイングを浴びせる若者らを取り締まる狙いがあるとも報道されている。

国歌法では罰則として15日以内の拘留を定めているが、同委員会は同日、中国の刑法改正案も可決し、国歌侮辱行為への罰則を最高禁錮3年に厳罰化した。

強権国家中国ならではの立法である。人心掌握への自信のなさを表白しているに等しい。国旗国歌を刑罰をもって国民に押しつけ、見せかけの愛国心と、面従腹背の多くの国民をつくり出そうというのだ。
「人民共和国」の名が泣いているではないか。反面、「強権的国家主義」の本質が笑っている。
(2017年11月6日)

東京都教育委員諸君、そして小池百合子知事、原告教員の怒りの声に耳を傾けよ。

「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱せよ」との強制には従えないという国民はけっして少なくない。強制でなければ起立してもよいが、強制となければ立てないという人もいる。自分は起立するが強制には賛成しがたいとするのが、ごく普通の考え方のようだ。

東京の公立校では、卒業式や入学式において式に参加する教職員には「起立・斉唱」を命じる職務命令が発せられる。それでも従うことができないとする教員が、あとを断たない。

この強制の発端となったのが、悪名高い「10・23通達」である。かつて、都立高は「都立の自由」を誇っていた。その象徴が、日の丸・君が代の強制とは無縁なことだった。自由とは、権力からの束縛を受けないこと。日の丸・君が代は、国家権力の象徴なのだから、日の丸・君が代強制の受容は、自由の放棄にほかならない。

2003年10月23日。右翼石原慎太郎が都知事2期目のこの時期に、トンデモ知事のお友だちが教育委員を乗っ取り、トンデモ教育委員会が日の丸・君が代の強制を始めた。以来、職務命令違反として懲戒処分を受けた教員は延べ480名に上る。そして、知事が交代しても、強制は続けられている。

起立できないとする教員の理由は千差万別であって一括りにはできない。それぞれの歴史観・国家観・戦争観などの思想・信条による場合もあれば、自分の信仰が日の丸・君が代への敬意表明を許さないという方もあり、教育者としての信念から教育に国家主義的統制を持ち込ませてはならないとする方もある。また、外国籍の生徒との触れあいからその生徒の民族的アイデンティティーを尊重しなければならないという立場からの不起立の例も少なくない。

懲戒処分を受けた者の多くが、処分取消の訴訟を提起して争う。今のところ、判決の趨勢は、「処分量定が戒告にとどまる限り、行政裁量の範囲内として違法とは言えない」「しかし、処分対象の教員に具体的な法的不利益が及ぶ減給・停職となれば量定過酷に過ぎて、裁量権の逸脱濫用に当たり違法となる」というもの。つまり、裁判所は減給以上は取り消すが、戒告は取り消さないのだ。

我々は、違憲判断をしない司法を強く批判している。憲法の砦としてのその職責を放棄した情けない裁判所、裁判官なのだから。しかし、その裁判所でさえ、減給・停職処分は違法として取り消していることを重視しなければならない。

東京都教育委員会は、裁判所から「違法だから取り消す」と判決されるような処分をしたことを恥じなければならない。責任を感じなければならない。なによりも違法な処分をして迷惑をかけた教員に真摯な謝罪をしなければならない。

さて、東京「君が代」4次訴訟原告団14名のうち6名が、減給・停職の処分を受けた者。その6名が求めた処分取消請求に対して、9月15日東京地裁判決は、予想されたとおり6名全員の処分取消を認容した。そして、そのうちの5名について、都教委は敗訴を認めて控訴を諦めた。残る1名についてだけ都教委は争いを続けるというが、これで5名の原告については処分取消が確定した。遡って処分はなかったものとなり、給与は再計算されてカットされた分は、年5%の遅延損害金を付して返還されることになる。

その5名が、本日(10月9日)早朝、東京都教育委員会に対して、「謝罪を求める申入書」を配達証明付きの郵便で発送した。その全文を下記に紹介する。怒りがほとばしる謝罪要求となっている。

役立たずの都教委諸君。まずは、この謝罪要求に真摯に耳を傾けたまえ。そして、あなた自身の責任だということを自覚したまえ。この教員たちは、自分の職責から逃げずに、自分の良心をつらぬいた尊敬すべき人々だ。その真剣な謝罪要求を、保身のために無視するのは、卑怯きわまる。恥を知る人間として、ものを考えたまえ。そのためには、最低限、原告らが都教委を訴えた訴訟の判決書きを読みたまえ。もし、判決内容がよく理解しかねるということなら、あなたが依頼した被告側の弁護士に解説を求めたまえ。仮に原告側弁護士の意見や解説を聞きたいということなら、いつでも応じることを約束する。

そのうえで、原告らに謝罪するかしないか、君たちの良心に従った回答をしたまえ。

もう一度委員5人全員の名を挙げておく。あなた方は飽くまで教育行政の主体なのだ。組織に隠れて逃げる無責任を決めこむことができない立場にある。にもかかわらずお飾りに過ぎないと言われることを甘受されるのか。当事者意識ゼロ。職責意識ゼロ。憲法感覚ゼロ。教育に関する見識ゼロ。それでいて、報酬だけは受け取ろうという根性を恥ずかしいとは思わないか。そう言われ続けてよいと思っているのか。
 中井敬三
 遠藤勝裕
 山口 香
 宮崎 緑
 秋山千枝

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2017年10月8日
東京都教育委員会委員長 中井敬三 殿
東京「君が代」4次訴訟原告団

               A
               B
               C
               D
               E
  東京「君が代」第4次訴訟勝訴確定にともなう謝罪を求める申し入れ書

 私たちは、2014年3月17日に東京地方裁判所に提訴してから3年を闘い、9月15日佐々木判決により、減給・停職処分を取り消された原告である。
都教委は敗訴したが、原告らを控訴することができなかった。それにより、A-減給10分の1・1ケ月、B-減給10分の1・6月、C-減給10分の1・1ケ月、D-減給10分の1・6月、E-停職6ヶ月、の各処分取り消しが確定した。
2003年10月23日に発令されたいわゆる「10・23通達」により、卒・入学式で「日の丸・君が代」を強制され、不当な懲戒処分を受けた結果、私たち原告は多大な精神的・肉体的苦痛を味わった。
都教委は、減給・停職処分は「裁量権の逸脱・濫用で違法」であると判断が下ったことを真摯に反省し、原告らに心からの謝罪をせよ。
都教委は、懲戒処分の通知の時には、原告らの自宅まで来たのであるから、原告の自宅へきて謝罪せよ。その上で、返金せよ。

都教委は、君が代1次訴訟以降、不起立行為に対する減給及び停職処分は「違法である」と断罪され続け、最高裁から、処分行政の見直しを諭されてきた。
にもかかわらず、今回処分を取り消された中で1名だけ控訴した。司法をも無視する暴挙である。即刻控訴を取り下げよ。
9月15日判決で処分を取り消され、都教委が控訴を断念せざるを得なかった2名の現職原告に対して、再処分をするな。
以上申し入れる。10月13日までに下記へ回答を求める。
〈連絡先〉東京「君が代」裁判弁護団 事務局

(2017年10月9日)

東京都の教育委員諸君、5人の教員に真摯に謝罪しなさい。

教育行政の主体は、各自治体の教育委員会だ。東京都の場合は、下記の5人が構成する東京都教育委員会。実は、これがまったくのお飾りなのだ。当事者意識ゼロ。職責意識ゼロ。憲法感覚ゼロ。報酬を受けていることを恥ずかしいと思わないのだろうか。
 中井敬三
 遠藤勝裕
 山口 香
 宮崎 緑
 秋山千枝

その諸君に申しあげる。君たちがした間違った懲戒処分が行政訴訟で争われて、処分取消の判決が確定した。君たちが間違った処分で迷惑をかけた教員に対して、真摯に謝罪しなさい。それが最低の社会道徳なのだから。

9月15日に東京地裁民事11部(佐々木宗啓裁判長)で言い渡しがあった東京「君が代」裁判・第4次訴訟判決。その一部が確定し、一部が控訴審に移行した。

地方公務員法上の懲戒処分は、重い方から、《解雇》《停職》《減給》《戒告》の4種がある。今回の原告らは、卒業式や入学式において、国歌斉唱時に起立しなかったことを理由に《停職》《減給》《戒告》の懲戒処分を科せられた教員。14名の原告らが取消を求めた19件の処分の内訳は、以下のとおりである。

《停職6月》       1名  1件
《減給10分の1・6月》 2名  2件
《減給10分の1・1月》 3名  4件
《戒告処分》       9名 12件
計          14名 19件

既報のとおり、判決は減給以上の全処分(6名についての7件)を取り消した。被告都教委は、このうちの1人・2件の減給《10分の1・1月》処分についてだけ判決を不服として控訴したが、その余の5人に対する5件の処分(停職・減給)取消については控訴しなかった。こうして各懲戒処分の取消が確定し、いま、判決確定後の処理が問題となっている。

処分取消の確定判決を得た5人の教員が都教委に求めているものは、なによりもまず真摯な謝罪である。各教育委員は、他人ごとではなく自分の責任問題として受けとめなければならない。間違って過酷な量定の処分をしたことで各教員に大きな精神的負担をかけ、名誉も毀損した、経済的負担も大きい。それだけではない、目に見えない事実上の不利益がいくつもある。このことについて、まずは一言の謝罪があってしかるべきだ。事務処理の協議は謝罪のあとに始まらねばならない。

原告ら教員の抗議を聞き入れずして都教委が強行した各処分が、司法の審査によって取り消され、確定したのだ。東京都も都教委も、このことを恥ずべき重大な汚点と受けとめて、道義的な責任を自覚しなければならない。その自覚のもと、当該の教員らに対して謝罪があってしかるべきではないか。

都教委の処分が、司法によって違法とされたのだ。周知のとおり、司法は行政に大甘である。たいていのことは行政の裁量の範囲内のこととして目をつぶる。その甘い裁判所も、本件については、とても大目に見過ごすことはできないとして、都教委の行為に違法があったと確認されたのだ。

行政が違法すれすれのことをして、司法からの違法の烙印を免れたことをもって安堵しているようでは情けない。戒告処分だって問題なしとはされていないことを肝に銘じるべきなのだ。減給以上の過酷な処分を判決手続によって取り消されたことを恥とし、きちんと反省しなくてはならない。

間違ったことをして人に迷惑をかけたらまずは心から謝らなければならない。これは、社会における最低の道徳ではないか。都教委とは、苟も教育に関わる行政機関である。各教育委員諸君、最低限の道徳の実行に頬被りしようというのか。それは余りに卑怯な態度ではないか。子どもたちに、言い訳できまい。判決確定の効果として、差額賃金分を渋々支払って済ませようというのは、権力の傲慢というほかはない。

一方、原告14名のうち13名が控訴した。高裁・最高裁で、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制ないし処分を違憲とする判決を求め、その決意をかためてのことである。

2003年秋に「10・23通達」が発出されたとき、私は、極右の知事のトンデモ通達だととらえた。いずれこんなトンデモ知事さえ交代すれば、こんなバカげた教育行政は元に戻る、そう思い込んでいた。

しかし、石原退任後も石原教育行政は続いた。石原後継を標榜しない舛添知事時代になっても、「10・23通達」体制に変化はなかった。そして、舛添失脚のあと、またまた石原並みの右翼都知事を迎えてしまった。

都民世論の力で、知事を変え、議会を変えて、教育の本質と憲法理念に理解ある教育委員会とその事務局としての教育行政機構を作ることが王道だが、その道はなかなかに遠い。しばらくは、都政と比べればよりマシな、司法に期待するしかない。

その司法が、行政の行為を違法としたのだ。あらためて、恥を知りたまえ。お飾りの教育委員諸君。
(2017年10月4日)

「日の丸・君が代」強制は違憲ー予防訴訟難波判決から11年

9月21日。あの日の感激と興奮から11年となった。2006年の9月21日。私たちは、東京地裁で、公権力による「日の丸・君が代」強制は憲法19条(思想・良心の自由の保障)に反して違憲無効、との判決を得た。

その主文第1項は、次のとおり。

「原告らが、被告都教委に対し、『入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)』(「以下本件通達」)に基づく校長の職務命令に基づき、上記原告らが勤務する学校の入学式、卒業式等の式典会場において、会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務のないことを確認する」

いわゆる「日の丸君が代強制予防訴訟」での難波孝一裁判長判決である。

原告団・弁護団とも、手の舞い足の踏む所を知らずの歓喜の判決だった。裁判官が行政の判断を違憲とする判決を書くことは駱駝が針の穴を通るほどの難事。その実情を知る者にとって、この日の判決の意義は格別のものという思いが深かった。裁判長には、深甚の敬意を惜しむものではない。

しかし、素直に考えれてみれば、「日の丸・君が代」強制が強制される者の思想良心を侵害することは、理の当然ではないか。公務員だから、教員だから、思想良心の侵害を受忍しなければならないという筋合いはない。国旗・国歌(日の丸・君が代)に服することが教員としての資質の条件ではない。むしろ、国家の意思に従属することのない主権者を育てる任務の教員が、唯々諾々と国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に屈してよいものだろうか。

これは、理論の問題であるよりは憲法感覚の問題といってよい。理屈はどうにでもつけられるが、結局は個人の尊厳の尊重を貫くか、それとも公権力が設定した秩序維持を優先するか。私には、秩序派の憲法感覚の鈍麻は唾棄すべきものとしか考えられない。

難波判決は、「10・23通達」関連事件の最初の判決だった。そのトップの判決が優れた裁判官らによる勇気と知性にあふれたものとなった。これこそ、日本国憲法本来の人権原理を顕現するもの。私たちは、この判決がこれから重ねられる「10・23通達」関連判決の先例となるだろうと確信した。

しかし、あれから11年。残念ながら、あのとき思い描いたようにはなっていない。難波判決直後の、いわゆるピアノ伴奏拒否事件(「10・23通達」発出以前の事件)の最高裁判決が、難波判決を否定する判断となった。以来、最高裁判決の少数意見を例外として、違憲判決は姿を消した。私たちは、懲戒権の逸脱濫用論でかろうじて、減給以上の重きに失する処分を取り消して、都教委の横暴に歯止めを掛けているにとどまっている。

しかし、この11年間、判決内容が固定されてきたのではない。最高裁判決の判断枠組みも、下級審の裁量権論も微妙に動いてきている。けっして、「国旗・国歌(日の丸・君が代)強制が合憲」と確定したものとはなっていない。

9月21日、あらためて難波判決を思い起こし、「国旗・国歌(日の丸・君が代)強制は違憲」との判決獲得への努力を決意する日としたい。

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予防訴訟の?波判決を紹介するために、岩波ブックレット「『日の丸・君が代』を強制してはならないー都教委通達違憲判決の意義」を書いた頃が懐かしい。

岩波のホームページに、次の記載がある。
「東京都教育委員会による教職員への『日の丸・君が代』強制を違憲とした東京地裁判決は,いかに書かれたか。弁護団副団長が提訴前から判決までの全過程を踏まえて,とりわけ憲法19条,教育基本法10条との関連で難波判決の意義と特質をどう見るのか,なぜ原告達の訴えが結実したかについて解明した注目の一冊。」

そして、「著者からのメッセージ」がこう書かれている。
「時代を映す訴訟があり判決がある.『日の丸・君が代強制反対・予防訴訟』と『9・21判決』は,まさしくそのようなものである.
 この事件が映す時代相はけっして明るいものではない.日本国憲法と教育基本法への悪意に満ちた勢力が支配している時代.敗戦の悲惨な反省からようやく手にした教育の自由と,思想・良心の自由とが蹂躙されつつある時代.
 歴史上,思想・良心圧殺の象徴として私たちが思い描く事件は,江戸幕府の踏み絵と明治期の内村鑑三・教育勅語拝礼拒否である.暴走する東京都教育行政は,幕府や天皇制政府の役人とまったく同じ発想で,学校行事での日の丸・君が代強制を踏み絵として,教員の良心を奪い,良心を枉げない教員を排除しようとしている.行き着く先は教育の国家統制にほかならない.
 予防訴訟は,自らの思想・良心を堅持し,生徒・子どもらの学ぶ権利を擁護するために立ちあがった教師群によって担われた.必死の思いの原告教師たちと,支援者,弁護団,研究者の総力をあげた活動によって,一審段階ではすばらしい勝利の判決に到達した.
明るい時代ではない.しかし判決は,この時代の希望を映している.

また、私のパソコンのメモリーに、当時の草稿の次の一文が残っている。
◆国家ではなく、生徒こそが主人公。◆
教育をめぐる論議の中心課題は、国家による国家のための教育か、国民による国民のための教育か、に尽きる。国民とは学校現場では、生徒であり子どもである。学校現場の主人公を国家とするのか、生徒にするのか。
生徒の卒業制作の展示を禁止して、壇上正面に国旗を掲揚する。これが、東京都教育行政のイデオロギーをあまりにもみごとに視覚的に表象している。
本件予防訴訟では、原告が教職員に限られているという事情から、すべてを教職員の権利侵害に収斂させなければならない法技術的制約があった。しかし、原告となった教員たちの共通の思いは、教え子のために自分は何ができるか、何をすべきか、ということであった。
生徒の前で、今こそ自分の職責が問われている。原告401人は、そのように自覚した教師集団である。
 教え子よ、国家に身を委ねてはならない。国家に思想を吹き込まれてはならない。自分自身でものを考える姿勢を堅持せよ。批判する力を持て。必要なときには抵抗の姿勢を示さねばならない。
 自分も教師として、悩みながらも、ささやかな抵抗の姿勢を示そう。教え子よ、その姿を見てくれ。主権者として真っ当な国を社会を作る力量を育ててくれ。
これが、401人の自覚した教師集団に通底するメッセージだと思う。
淡々と「教育という営みは、教師と生徒との人格の触れあいを本質とするものですから、生徒に恥ずかしい行動はけっして取ることができません」こういう教育者が集団として存在することに、この国の光明を見る思いがする。
その教師集団を中心として、多くの研究者、弁護士、支援者、世論。そして、これまでの多くの教育訴訟における諸活動の歴史。その総合力の結集によって得られた本判決である。
訴訟はこれから控訴審。さらに多くの支援の力を得て、本判決を守り抜きたいと思う。そのことが、教育本来の姿を学校現場に取り戻すことになるだろう。そのことの意義は、私たちの未来にとって限りなく大きい。「憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」のだから。

 原告だった人々も、いま闘っている人々も、支援者も、そして私たち弁護団も、初心を思い返すべき日。それが、今日9月21日である。
(2017年9月21日)

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