澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

学校儀式における「日の丸・君が代」の呪縛

本日(11月8日)の赤旗「学問文化」欄に、有本真紀立教大学教授の「学校儀式」に関する論文が掲載されている。連載企画「統制された文化」の一論稿。タイトルは、「権力を追認させ批判くじく」とつけられている。簡潔に学校儀式の歴史をまとめて述べた後、「集団化徹底の卓越した技術」との小見出しで次のようにまとめられている。

「儀式は、参加者に様式化された身体行為を課し、批判的な思考をくじく方法である。人びとが儀式に参集し、同じ対象に向かって一緒に同じ所作を行い、同じ言葉を発する。それ自体が権力を成立させ、追認させるのだ。さらに、儀式にはタブーが伴い、その徹底が聖性を生み出す。

人びとは、価値観や信念など共有していなくても、儀式でともに行為し、タブーを守ることによって、連帯する集団の一員と化してしまう。『一同礼』『斉唱』と声がかかれば、それに応じないという行為が、その人の人間性や能力、主義主張の現れだとみなされる。日本の学校は、儀式という卓越した集団化、国民統合の技術を駆使してきた。

儀式の時空において、ともに同じ行為をくり返すことで、子どもの身体は『ぼくたち/私たち』の身体へと束ねられた。
祝日大祭日儀式や教育勅語が廃止されて70年余り。しかし、学校は儀式の呪縛から解かれたのだろうか。人間社会から儀式が消滅することはないが、改めて現代の学校儀式を問い直す必要があるだろう。」

まったく同感であり、優れた論稿だと思う。論者の専門は、「歴史社会学」だという。論稿には、戦後の学校儀式の中心に位置している「国旗・国歌」あるいは「日の丸・君が代」への言及がない。しかし、まさしく国旗・国歌(日の丸・君が代)斉唱の強制こそが、問い直されなければならない。
私なりに再構成させてもらえば、次のようなことになろう。
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「日の丸に正対して起立し君が代を斉唱するという儀式的行為は、参加者に様式化された身体行為を課し、批判的な思考をくじく方法として有効であればこそ、全国で採用され、強制されている。人びとが卒業式という学校儀式に参集し、号令のもと一斉に起立して国家の象徴である国旗(「日の丸」)に正対し、威儀を正して一緒に声を揃えて国家の象徴である国歌を唱う。同一の集団に属する者が、同じ所作を行い同じ言葉を発すること、それ自体がその集団に属する者に対する権力を成立させ、あるいは国家主義的権力を追認させるのだ。
さらに、儀式にはタブーが伴う。仰ぎ見ることを強制される国旗(「日の丸」)は、大日本帝国の国旗でもあった。帝国が国是とした侵略戦争の象徴でもある。この旗の真紅は、戦争に倒れた無数の人々の犠牲の血を連想させるが、これを口にしてはならない。国歌(「日の丸」)は天皇への讃歌だ。神の子孫であり、自らも現人神と称したその天皇を讃える聖歌。かつての臣民が天皇を貴しとして唱った歌が、国民主権の今の世にふさわしからぬことは自明なのだが、それを口にしてはならない。そのタブーを共有し徹底することが儀式の聖性を生み出す。

生徒も父母も、校長も教員も、そして来賓も、つまりは学校を取り巻く社会が、一人ひとりは価値観や信念など共有していなくても、卒業式で、起立して一緒に君が代を唱うという行動を通じ、国家や天皇や現行社会秩序への抵抗をもたないと宣誓することによって、連帯する集団の一員と化してしまうのだ。『一同起立』『国歌斉唱』と声がかかれば、それに応じないという行為が、その人の人間性や能力、そして、国家や社会に従順ではない主義主張の現れだとみなされる。

世界に冠たる「踏み絵」という内心あぶり出しの技法を編み出した日本の権力者の末裔は、学校という場において、学校儀式という卓越した集団化、国民統合の技術を開発し駆使してきた。その儀式の時空において、ともに同じ行為をくり返すことで、子どもの身体は個性主体性を削ぎ落とされて、『ぼくたち/私たち』の身体へと束ねられた。かつては臣民の一人として。今は従順なる国家権力の僕として。
(2017年11月8日)

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