澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

自民党議員には教育勅語ウイルスが根強く感染し続けている。

(2021年1月27日)
昨日のNHK(Web)報道に我が目を疑った。「日本の国旗損壊 刑法改正し処罰規定検討 自民 下村政調会長」というのだ。このコロナ禍の緊急事態に、不要不急極まる右翼の蠢動。もしや、本気で火事場泥棒を狙っているのだろうか。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210126/k10012834121000.html

「日本の国旗を壊したり汚したりした場合の対応として、自民党の下村政務調査会長は、刑法を改正して処罰規定を設けることを検討する考えを示しました。
 自民党の高市・前総務大臣らの議員グループは26日、下村政務調査会長と会談し、刑法には外国の国旗を壊したり汚したりした場合の処罰規定はあるものの、日本の国旗については規定がないとして法改正を訴えました。これに対し下村氏は「必要な法改正だ」と応じ、法改正を検討する考えを示しました。
 このあと高市氏は記者団に対し「日本の名誉を守るのは究極の使命の1つで、外国の国旗損壊と日本の国旗損壊を同等の刑罰でしっかりと対応することが重要だ。改正案を今の国会に提出したい」と述べました。」

いかにも唐突な「国旗損壊罪」創設という刑法改正の提案。誰が見ても不要不急の極みだが、「改正案を今国会に提出したい」とは穏やかでない。読売は、法案の内容にまで踏み込んで、こう報じている。

 「自民党は26日、日本を侮辱する目的で日の丸を傷つけたり汚したりする行為を処罰できる「国旗損壊罪」を新設する刑法改正案を今国会に議員立法で提出する方針を固めた。下村政調会長が、党の保守系有志議員でつくる「保守団結の会」による提出要請を了承した。
 改正案は刑罰として「2年以下の懲役か20万円以下の罰金」を科すとしている。自民党は、野党時代の2012年にも同様の改正案を国会提出し、廃案となっている。」

 閣法としての取り扱いではなく、法制審議会への諮問もない。連立与党間の摺り合わせもないようだ。何よりも、こんな立法を必要とする立法事実は皆無であり、世論の盛り上がりもない。自民党が本気になって、こんな法案成立の意気込みをもっているとは、とうてい考え難い。にもかかわらず、右翼議員パフォーマンスの材料として、「国旗」がもてあそばれているのだ。

はて? 「保守団結の会」? ようやく思い出した。昨年(2020年)6月自民党内右翼が選択的夫婦別姓制度への賛否で割れてスピンオフした、あの最右派集団であったか。何しろ、稲田朋美の右派姿勢の不徹底に失望したと批判して、それよりも右の議員43名が再結集したという報道だった。 昨年暮れに、新たに顧問として、安倍晋三、古屋圭司、高市早苗などという札付き右翼を入会させているという。

この「団結の会」の信条は、何よりも《伝統的家族観》。そして《皇室の尊崇と皇統の護持》だという。《伝統的家族観》と《皇室の尊崇と皇統の護持》、そして《国旗の尊厳》とが彼らの頭の中では直結している。かつての教育勅語ウィルスが絶滅を免れて、こういう宿主の脳髄中に生存を続け、この三者を強固に結びつけているのだ。このウイルスの発現症状は、発熱でも咳嗽でもない。思考能力が侵され、「忠君愛国」「富国強兵」「万世一系」「民族差別」「皇国弥栄」等々の根拠のない空っぽのスローガンのマインドコントロール下に制圧されることになる。

端的に言えば《伝統的家族観》とは【男尊女卑】【家父長制】と同義である。《皇室の尊崇と皇統の護持》とは【人間の差別の肯定と固定化】を意味する。こういう人間観・社会観をもったグループが、男尊女卑と差別を基調とする国家の象徴としての国旗を大事としてもてあそんでいるのだ。

このグループの「筆頭発起人」を名乗っているのが高鳥修一(新潟6区)。稲田朋美同様安倍晋三側近と言われた議員。彼はこう発言している。

「日本では、国家を侮辱する目的で他国の国旗を損壊すると罪になりますが、自国の国旗を踏みにじることは自由となっています。」「自国の国旗を侮辱することに対して各国で禁止する規定があるのは自然なことだと思いますが、日本ではそれも表現の自由という意見があり、他国の国旗は尊重しても自国の国旗は踏みにじって構わないことになっています。」

「いかにもアンバランスな状況を是正する為に、…今国会に法案を提出することになりました。既に平成24(2012)年に一度党内手続きを終え国会に提出されているので、下村政調会長からは、自民党として了解した(再度の党内手続きは不要)。委員長提案は難しくても各党に説明するようにとの指示がありました。早速、関係者に説明にかかっています。」

何という安直さ。何という軽薄さ。こんなに軽々しく刑法をいじられてはたまらない。しかも、ことは国民の人権と国家の権力との関係の根本に関わる。我が国の憲法体系の根幹にも関わる議論が必要な問題なのだ。

自民党は、2012年発表の改憲草案で、「第3条(国旗及び国歌)」の条文を作ろうとしている。
第1項 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
第2項 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。

この国旗国歌尊重義務こそが、旧大日本帝国で猖獗を極めた教育勅語ウィルスの所産にほかならない。後遺障害というよりは、今の世の変異株というべきであろう。

なお、現行憲法の外国国章損壊罪は次のとおりの条文で、その保護法益は「我が国(日本)の円滑な外交作用」と考えられる。当該国旗が象徴する国家の尊厳というものではない。

第92条 第1項 外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。
同2項 前項の罪は、外国政府の請求がなければ公訴を提起することができない。

「君が代」不起立の教職員こそが、『身をていして教育を守ろうとする先生』なのだ。

(2021年1月25日)
本日の東京新聞「こちら特報部」が、都教委の「日の丸・君が代」強制問題を取りあげている。新たなニュースは以下のとおり。

 「新型コロナウイルスの感染拡大を受け東京都教育委員会は、今春の都立学校の卒業式で参加者に君が代を歌うよう求めない。「日の丸・君が代」について定めた「10・23通達」を2003年10月に出して以降、教職員に「歌え」という職務命令が出ない卒業式は初めて。ただ、歌唱入りのCDを流し、起立は求めるといい、通達にこだわる都教委のかたくなな姿勢が浮かび上がった。」

 2004年春以来、「10・23通達」に基づいて、都下の公立校の卒業式・入学式には、校長から全教職員に対して式中の国歌斉唱の際には、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること」という職務命令を発し続けてきた。「(国旗)起立」と「(国歌)斉唱」の命令である。

コロナ禍の今年は、「(国歌)斉唱」は命令しない。「(国旗)起立」だけの命令を求めるというが、これがむしろ、「都教委のかたくなな姿勢を浮かび上がらせている」という報道。

ところで、常に東京に対するライバル意識を絶やさないのが大阪。大阪の府教委も、その権威主義的で権力的な姿勢において東京に負けじと、競争心を燃やしている。両教育委員会、その非教育的姿勢において、また人権尊重の後進性において、兄たりがたく弟たりがたし。いや、目くそと鼻くそ、タヌキとムジナの関係。

その大阪府教育委員会は、1月21日付の通達で、「国歌静聴」という珍妙な命令を発した。その通達の全文が下記のとおり。

関係府立学校 教職員 様

教  育  長

令和2年度卒業式における国歌清聴について(通達)

 国旗掲揚及び国歌斉唱は、児童・生徒に国際社会に生きる日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てるとともに、国旗及び国歌を尊重する態度を育てる観点から学習指導要領に規定されているものである。
 また、平成23年6月13日、大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例が公布・施行された。本条例では、府立学校の行事において行われる国歌の斉唱の際に、教職員は起立により斉唱を行うことが定められている。
 令和2年度卒業式については、新型コロナウイルス感染症対策を徹底する観点から、平成24年1月17日付け教委高第3869号教育長通達にかかわらず、式場内のすべての教職員は、国歌は起立して清聴すること。

まことに見識に欠け、「非教育的な」両教育委員会の姿勢に比して、「こちら特報部」の報道は見識が高く、充実している。そのうちの2点を引用しておきたい。

都教委の発想は、国際的な基準から逸脱している。国際労働機関(ILO)と国連教育科学文化機関(ユネスコ)は19年、「起立斉唱の強制は、個人の価値観や意見を侵害する」などと都教委を批判。起立斉唱したくない教員も対応できる式典のルール作りのほか、懲戒処分を回避するため教員側と対話するよう求める勧告を出している。これに対し、都教委に加え文部科学省も一切、取り合わず、耳を傾けるそぶりがない。

「日の丸・君が代」問題に詳しい東京大の高橋哲哉教授(哲学)は「都教委は自己矛盾に陥っている」と指摘する。都教委が起立斉唱を求める根拠として持ち出す「高等学校学習指導要領解説・特別活動編」には、その目的として「(生徒が将来)国際社会において尊敬され、信頼される日本人」に成長するためとうたわれている。高橋氏は「労働と教育、両国際機関の勧告を無視し、生徒の目の前で強制を繰り広げることは、国際社会から尊敬される人への成長につながらない。自ら構築した論理と相反している」と指摘し、こう続ける。「世界のあちこちで台頭している『命令にはとにかく従え』という権威主義が、戦後日本にも根強く残る。不起立で抵抗してきた教職員を懲らしめようと、コロナで歌えなくても起立を強制する都教委の手法に『権威主義の地金』がくっきり見える。昨年来、批判が続く日本学術会議の任命拒否問題とも通底している」。

まったくそのとおりと言うほかはない。そして、もう一点。

「何があっても、(日の丸・君が代)強制をやめようとしない。都教委の粘着気質は病的と感じる。起立強制問題は、今の教育現場を重苦しくしている元凶と言っても過言ではない」。08年以降、不起立で懲戒処分を受けた教職員にインタビューするなど、「日の丸・君が代」問題を取材してきたルポライターの永尾俊彦氏は、今回の都教委の方針を批判する。永尾氏は教職員らが起こした複数の訴訟の記録を読み込み、たくさんの原告に会って話を聞いた。「教師というのは生徒の心を聞く仕事だ」との元校長の言葉が印象深く記憶に残る。命令と服従は、子どもがそれぞれ備えている唯一無二の個性を伸ばす教育になじまない。

それなのに、「日の丸・君が代」の強制は教育現場に上意下達の思想を植え付ける。「教職員に命令し、服従を強い、『上には何を言っても変わらない』という雰囲気をつくる。教職員も『子どもも命令に従って当然』という意識を形成する。権力側に都合のいい人間を育てる戦前の教育と似ている」

懲戒処分を受けると、人事や昇給で不利になる。過酷な研修も科される。定年後の再任用も他の人より早く打ち切られる。「それでも何度も職務命令に従わない教職員がいるのは、子どもを上意下達型の人間にしたくないからだ」と永尾氏は語る。不起立に対し「歌わないのはけしからん」「政治的に偏っている」といった批判があるのも事実。永尾氏は、ある弁護士が語った「やりたくないことをやらなかったのではなく、子どものためにやってはならないことをやれと言われて悩み苦しみ、できなかった人たち」との言葉に共感するという。永尾氏はこれまでの取材の成果を新著「ルポ『日の丸・君が代』強制」にまとめた。取材に応じてくれた教職員は、子どもと誠実に向き合ってきた人ばかりだった。「自分もそういう先生に教えてもらいたかった。もし今度の卒業式で不起立の教職員を見かけたら、『身をていして教育を守ろうとする先生だ』という目で見てほしい」

山口香さん。国旗・国歌(日の丸・君が代)強制についても、議論を避けないで。

(2021年1月20日)
1月13日、ほかならぬNHKが世論調査の結果をこう報道した。

ことし(2021年)に延期された東京オリンピック・パラリンピックについて、NHKの世論調査では、「開催すべき」は16%で先月より11ポイント減りました。一方、「中止すべき」と「さらに延期すべき」をあわせるとおよそ80%になりました。

 この調査結果は、市民の感覚に合っている。NHK以外の他の調査の結果も大同小異。常識的には、どう考えても今年の7月に東京五輪などできっこない。日本が無理なだけでなく、世界全体がオリンピックどころではない。この調査に何らかの意味があるとすれば、できっこないことを承知で何が何でも東京五輪をやらねばならぬと思い込んでいる恐るべき硬直化した人々が16%もいるということ。

そのような雰囲気の中で、JOC理事である山口香が毎日新聞のインビューに応じて一石を投じた。昨年も同じようなことがあったが、おそらくはこの人の個人的見解ではなかろう。個人的見解であったとしても、主催者側の相当な賛同を確認しての発言と思われる。

昨日(1月19日)の毎日インタビューは、「五輪意義、議論避けるな 山口香JOC理事、一問一答」とのタイトル。その山口香発言を抜き書きしてみる。

◆五輪は…いつできるようになるかも見通せない。できるのかというと難しいと、客観的に見て思う。

◆今回は中止か延期かの議論でなく、やるかやらないか。どういうプロセスで誰がいつまでに判断するのか、早く示すべきだと思う。

◆(五輪で)世界の人が入ってくることが、(感染状況の)逆戻りにつながる不安がある。国の説明が足りない。五輪が勇気を与えるというのは簡単だが、経済状況がどん底の人がたくさんいる中で、「五輪をやってくれれば、ご飯を食べなくても元気になれる」とは思えない。

◆日本の組織の体質がある。議論すること自体が「負け」であり、弱気と受け止められるので避ける雰囲気がある。…この国難の中で実施する五輪とは社会にとってどんな意義があるのか。オープンな議論が求められる。

取り立てて、格別の見識が示されたわけではない。誰が考えてもできっこない東京五輪だが、主催者側は、やるかやらないかその常識的な議論さえ始まっていないと嘆いているのだ。

東京五輪、その実行は無理だと世論は結論を出している。可及的速やかに中止の結論を出した方がよい。くずぐずしていると、敗戦時の二の舞となる。敗戦の決断が遅れたことによって、どれだけの命を犠牲とし、国土を焼き、戦費を費やすことになったか。

今は、オリンピックを断念して、コロナ対策に専念すべきだ。さしあたり、空いているオリンピック選手村は、軽症患者の収容施設として活用すべきである。

山口の最後の質問と回答の全文を掲記しておきたい。

問 ――大会関係者は「開催する」としか公式には言わない。

答 ◆日本の組織の体質がある。議論すること自体が「負け」であり、弱気と受け止められるので避ける雰囲気がある。
 国民はスポーツ自体を否定しているのではない。昨年12月の柔道男子66キロ級五輪代表決定戦の阿部一二三選手対丸山城志郎選手、今月の卓球全日本選手権女子シングルス決勝の石川佳純選手と伊藤美誠選手の試合はコロナ禍だからこそ、胸を打たれた。この国難の中で実施する五輪とは社会にとってどんな意義があるのか。オープンな議論が求められる。

 よく読むと何を言っているのか分からぬところもあるが、「早急にオープンな議論が求められる」という趣旨には異論がなかろう。

ところで、山口香は、東京都教育委員6名の一人である。周知のとおり、東京都教育委員会は、悪名高い「10・23通達」を発して、君が代に不起立の教職員を懲戒処分にし続けてきた。その懲戒処分の量定が重きに過ぎるといくつも裁判で敗訴もしている。処分を違憲とした下級審判決もあり、最も軽い戒告処分も懲戒権の濫用として違法とした東京高裁判決もある。多くの最高裁裁判官が、教育現場での処分強行を憂いて、教育現場にふさわしく十分に話し合うべきだという意見を述べている。しかし、その話し合いは、何度申し込んでも実現しない。東京都教育委員会の問答無用の頑なな姿勢は、石原都政時代以来まったく変わらない。山口香も、その責任を一端を担っている。

山口さん、二枚舌ではなかろうか。せめてこう言ってもらえないだろうか。

◆東京都教育委員会の体質の問題がある。議論するとか、話し合いの場をもつこと自体が「負け」であり、弱気と受け止められるので避ける雰囲気がある。
 君が代に不起立の教員が、真面目な教育を否定しているわけではない。むしろ、真面目な教員ほど、国旗・国歌(日の丸・君が代)に関わる歴史や教育効果を真剣に考え、あるべき教育像や教師像を持っているからこそ、その信念に基づいて敢えて起立することができないということは私にもよく分かっている。それでも、教育現場においてなぜ国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意の表明が必要なのか、社会にとって、民主主義国家においてどんな意義があるのか。また、教員や生徒一人ひとりの思想・良心の保障とどう折り合いを付けるべきか、訴訟の場とは別に、教育あるいは教育行政の場におけるオープンな議論が早急に求められる。

仏教者としての信念から、死刑執行をしなかった法務大臣がいた。

(2021年1月12日)
左藤恵さんが亡くなった。享年96と報じられている。保守の政治家ではあったが、私にとっては気になる人だった。

この人、もとは郵政官僚だったが、1969年に中選挙区時代の旧大阪6区から自民党公認で立候補して当選。以来10期連続して当選を続けた。地盤が、私に土地勘のある天王寺・阿倍野・住吉という大阪市南部であったことから、手強い保守陣営の敵という思い込みだった。が、この人が法務大臣となって印象が変わった。

周知のとおり法務大臣は死刑執行を命じる。法務大臣の執行命令なしには、死刑執行はない。ところが、この人は真宗大谷派の僧侶でもあった。仏の戒め給ふ殺生戒という戒律を守るべき宗教者なのだ。山川草木悉皆仏性、この世に生を受けたもの全ての命は尊ばれるべきが当然で、その命を奪ってはならない。ましてや死刑という名の殺人は、仏教者としての戒律に反する。

言わば、ここに義務の衝突が生じた。法務大臣としての職務上の死刑執行義務と、自らが信じる宗教的信念が命じる不殺生の戒律との葛藤である。

この人が、第2次海部改造内閣で法相を務めたのが、1990年12月?91年11月のおよそ1年間。その在任期間中に死刑執行命令書への署名をせず、この間死刑は行われなかった。「人が人の命を絶つことは許されない」との宗教的信念によるものと報じられていた。

「そのような信念を持つ者に、法務大臣の任はふさわしくない。辞令を受けるべきではなかった」という意見は、当然にあるだろう。しかし、この人は死刑制度存続の是非を問いたいと、問題提起の意図をもって敢えて法務大臣職を拝命したのだ。そして、自らの宗教的信念を貫いた。

この人の信仰を理由とする死刑不執行は、神戸高専剣道実技拒否事件を想起させる。エホバの証人信者であった高専生は、宗教上の信念から剣道実技の授業を拒否し、遂には退学処分となった。最高裁は、真摯な宗教的動機による剣道実技授業の拒否を理由とする退学処分を違法と判断した。一定の条件あることは当然として、信仰の自由という人格的利益を擁護した。

また、この法務大臣の信仰を理由とする死刑不執行は、ピアノ伴奏命令拒否事件を想起させる。戦前の歴史において、軍国主義教育に「日の丸・君が代」が果たした役割に鑑み、自分の思想と良心に懸けて「君が代」伴奏はできないとした音楽科教員がいた。この思想・良心に基づいた君が代斉唱の伴奏命令拒否を理由とする戒告処分の違憲・違法が争われた事件で、この教員は敗訴している。これは、大きな憲法課題である。

思想・良心・信仰を理由とする義務不履行の制裁を甘受せざるを得ない立場の者には、かつて、宗教上の信念からその期間中死刑不執行を貫いた法務大臣がいたことを心に留めておきたい。

左藤恵は、法務大臣退任後は「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長を務めるなどして、死刑廃止を訴えた。政界引退後は、大阪弁護士会に登録した弁護士だったが、年が明けた1月9日、慢性心不全のため逝去。合掌。

永尾俊彦『ルポ「日の丸・君が代」強制』(緑風出版)をお薦めする

(2020年12月13日)
本日、永尾俊彦さんから、その著書『ルポ「日の丸・君が代」強制』の献本を受けた。12年間にわたる法廷闘争と教育現場の取材をまとめた詳細なルポで、400ページに近い大著になっている。さすがに記者による読みやすい文章で、東京編だけでなく大阪編もあり、私も知らないことがたくさんある。何よりも、問題の全体像把握のための記録として貴重なものである。

あらためて、このルポに登場してくる多くの人々の真摯さに打たれざるを得ない。ぜひとも多くの人に、この著作をお読みいただきたいと思う。「籠池泰典元理事長インタビュー?「天皇国日本」というモノサシをつくる学校」なども、たいへん面白い。

http://www.ryokufu.com/isbn978-4-8461-2022-1n.html
永尾俊彦[著]ルポ「日の丸・君が代」強制(緑風出版)
四六判上製/392頁/2700円

■内容構成
まえがき?「口パク」すればいいのだろうか
第一部 少国民たちの道徳
第一章 東の少国民「うんこするのも天皇のため」?山中恒さんインタビュー
第二章 西の少国民「上があるから下ができる」?黒田伊彦さんの語り
第三章 「君が代」の道徳 「生と性の賛歌」から天皇の讃美歌へ?川口和也さんの研究
第二部 東京篇
第一章 東京の「狂妄派」?教職員の牙を折りたい狂おしい欲望
第二章 東京の教師、子どもたちと「日の丸・君が代」強制
一 「君が代」は誇り高く歌いたい?近藤光男さん(体育)の場合
二 「お前のこと、用いるから」?岡田明さん(日本史/現代社会)の場合
三 音楽が息づく学校を?竹内修さん(音楽)の場合
四 「自分の可能性をあきらめないで」?大能清子さん(国語)の場合
五 子どもたちの「障がい」が消えた日?渡辺厚子さん(特別支援学校)の場合
六 「俺は先生の生徒でよかった」?加藤良雄さん(英語)の場合
七 表現を行動として生きる?田中聡史さん(特別支援学校/美術・図工など)の場合
第三章 「生徒の心を聞く仕事」であるために
第三部 大阪編
第一章 大阪の「狂妄派」?ビシッと「モノサシ一本」の快感
一 法的にも復活した「非国民」
二 「教育事件」としての森友問題
籠池泰典元理事長インタビュー?「天皇国日本」というモノサシをつくる学校
第二章 大阪の教師、子どもたちと「日の丸・君が代」強制
一 「歴史が歴史をたしかめる」?増田俊道さん(社会)の場合
二 「真の愛国者は自由を保障することで育つ」?梅原聡さん(理科)の場合
三 「先生に何ができるの」への答えを探して?井前弘幸さん(数学)の場合
四 「事実さえ教えられれば」?松田幹雄さん(中学・理科)の場合
五 「背骨」は曲げられない?志水博子さん(国語)の場合
性的少数者と思想的少数者?南和行弁護士インタビュー
六 子どもたちを「無我の人」にするな?奥野泰孝さん(美術)の場合
「陽気な地獄破り」を?遠藤比呂通弁護士インタビュー
第三章 「自己を持つ」子どもたちを育てるために
あとがき?ニッポンの良心
引用文献
資料 国旗国歌に係る懲戒処分等の状況(文部科学省調査)
「日の丸・君が代」強制問題関連年表

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本日は、たまたま国旗・国歌(日の丸・君が代)強制問題での原稿を書いていた。その草稿の一部を掲載しておきたい。

第1次懲戒処分取消訴訟の控訴審判決は、2011年3月10日に言い渡され、東京高裁第2民事部(大橋寛明裁判長)は、戒告(166名)・減給(1名)の全員について、懲戒権の逸脱濫用を認めて違法とし全処分を取り消した。

戒告といえども懲戒権の濫用に当たるとした大橋寛明判事は、元最高裁上席調査官である。教員の不起立・不斉唱を、「やむにやまれぬ真摯な動機に基づくもの」とした「実質違憲判決」には、大きな励ましを受けた。

この大橋判決に対する上告審では、最高裁で弁論が開かれた。以下は、「教員の良心を鞭打ってはならない」とする、澤藤が担当した法廷弁論の一部である。

 「本件各懲戒処分の特質は、各被上告人(教員)の思想・良心・信仰の発露としての行為を制裁対象としていることにある。各人の内面における思想・良心・信仰と、その発露たる不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており、公権力による起立・斉唱の強制も、その強制手段としての懲戒権の行使も各教員の思想・良心・信仰を非情に鞭打っている。司法が、このような良心への鞭打ちを容認し、結果としてこれに手を貸すようなことがあってはならない。」

 「被上告人らは、内なる良心に従うことによって公権力の制裁を甘受するか、あるいは心ならずも保身のために良心を捨て去る痛みを甘受するか、その二律背反の苦汁の選択を迫られることとなった。思想・良心・信仰の自由の保障とは、こういうジレンマに人を陥れてはならないということではなかったか。人としての尊厳を掛けて、自ら信ずるところにしたがう真摯な選択は許容されなければならない。」

 「教育者が教え子に対して自らの思想や良心を語ることなくして、教育という営みは成立し得ない。また、教育者が語る思想や良心を身をもって実践しない限り教育の成果は期待しがたい。『面従腹背』こそが教育者の最も忌むべき背徳である。本件において各教員が身をもって語った思想・良心は、教員としての矜持において譲ることのできない、「やむにやまれぬ」思想・良心の発露なのである。」

 「不行跡や怠慢に基づく懲戒事例とは決定的に異なり、上告人(都教委)が非違行為と難じる行為について、被上告人らがこれを反省することはあり得ない。したがって、職務命令違反は当然に反復することになる。反復の都度、処分は累積して加重される。その過程は、心ならずも不当な要求に屈して教員としての良心を放棄し、思想においては「転向」、信仰においては「改宗」「棄教」に至らない限り終わることはない。」

 「本件は、精神的自由権の根幹をなす思想・良心の自由侵害を許容するのか、これに歯止めをかけるのかを真正面から問う事案である。憲法の根幹に関わる判断において、最高裁の存在意義が問われてもいる。人間の尊厳を擁護すべきことも、教育という営みに公権力が謙抑的であるべきことも、多数決支配とは異なった事件の憲法価値として、人類の叡智が確認したところである。」

 「これを顕現するものは、憲法の砦としての最高裁であり、最高裁裁判官諸氏である。歴史の審判に耐え得る貴裁判所の判決を求める。」

ドイツ語クラスの学生が唱った「国歌」

(2020年11月1日)
私は時代の子である。戦後民主主義という時代の嫡子であったと思う。特定の誰かから思想的な影響を受けた覚えはなく、ごく自然に、自由や平等、反権力・反権威の姿勢を身につけた。そういう自分を意識したのは学生時代、昔々の駒場のキャンパスにおいてのことだった。

1963年に私は東京大学に入学した。1・2年生は、全員が駒場の教養学部キャンパスで授業を受ける。文科は?(法学部進学コース)類・?(経済学部)類・?(文学部・教育学部)類に分かれ、さらに第2外国語の科目でクラス編成をされた。

語学のクラスは、A(ドイツ語既習)、B(ドイツ語未習)、C(フランス語既修)、D(フランス語未修)、E(中国語)に分類されていた。当時、スペイン語もロシア語もなかった。当然のことながら、圧倒的にBとDのクラスか多人数で各類毎に複数のクラスが編成された。これに対して、A、C、Eは少数で、?・?・?類をまたぐ形で各1クラス編成となっていた。私は、中国語のEクラスに属して、たいへん居心地がよかった。

授業が始まって間もない頃、誰が企画したか、A、C、Eの少数派で合同の懇親会をもったことがある。A(ドイツ語)、C(フランス語)、E(中国語)、各語学を選んだそれぞれの学生の個性が見えて面白かったという記憶がある。

そのとき、各グループで何か演し物をという話になり、まずEクラスの私たちが、中国語で「中国国歌」を歌った。あの、勇壮な「立て、奴隷となるな人民」という歌い出しの「義勇軍進行曲」である。抗日戦争のさなかにできた抵抗の歌。

Eクラスは、伝統的に、各年次の連携が密だった。授業が始まる前に、キャンパス内の同窓会館で2年生の世話でオリエンテーション合宿があり、この歌の歌詞や曲はその合宿で覚えたものだった。当時、国交のない中国だったが、その国の国歌を歌うことに何の抵抗感もなかった。

続いて、C(フランス語)クラスが、フランス国歌「ラマルセイエーズ」をフランス語で歌った。これも、義勇軍の歌だ。この歌を口にすることに、何の抵抗もあろうはずもない。

最後に、A(ドイツ語)クラスが、多少の協議の時間があって「ボクたちも国歌を歌います」と、立ち上がった。ドイツといえば西ドイツのことだろうが、その国歌は知らない。いったいどんな曲かと聞き耳を立てたら…、彼らは厳かに「キミガァーヨォワ…」と唱い始めた。真面目くさっての君が代斉唱の一くさり。満場大爆笑で、これが当日のハイライト。一番ウケた演し物となった。

随分昔のことだが、なぜ、みんなあんなに笑ったろう。あんなにウケたろう。当時の学生にとって、君が代は、大学や学生生活に、あまりにも不釣り合いで、表に出てくるものではなかったのだ。そんなものが突然出てきた意外性が、洒落にもなり、ユーモアとも感じられたのだ。少しでも、君が代を神聖な歌とする雰囲気があれば、爆笑にはならなかっただろう。何の存在感もない、何の肯定的評価もありえない「君が代」であればこそ、真面目くさって唱ってみせることが、その落差ゆえに爆笑を誘った。

中国国歌、フランス国歌は、真面目に歌い聞く雰囲気。「君が代」は不真面目にしか唱いようがなかったということなのだ。それが、当たり前の時代だった。

さて、今、あの頃の気持ちで「起来! 不愿做奴隶的人?!」「前?! 前?! ?!」と唱う気持には到底なれない。あの頃の仲間が集まっても唱うことはないだろう。洒落にもならない。もちろん、「君が代」も同様である。

いま、国旗・国歌(日の丸・君が代)を強制される都立校の教員の訴訟を担当して、17年に及ぶ。唱いたくない歌を、むりやりに唱えと命令される不条理をあらためて噛みしめる。

悪名高き「10・23通達」発出の日に、その撤回を求める決意を再確認する。

(2020年10月23日)
今年も10月23日がめぐってきた。2003年のこの日、東京都教育委員会が悪名高い「10・23通達」を発出した。横山洋一教育長名だが、実質的には石原慎太郎という極右政治家の意図によるもの。今、日本人の多くがトランプを大統領に選出したアメリカ国民の知的水準を嗤っているが、石原慎太郎のごときトンデモ人物を首都の知事に選んだ日本人も同列なのだ。

「10・23通達」は、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を強制する内容。具体的には、東京都内の公立校の全ての校長に対する命令という形式となっている。各校長に、所管の教職員に対して、入学式・卒業式等の儀式的行事に、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」よう職務命令例を発令せよ、職務命令違反には処分がともなうことを周知徹底せよというのだ。

以来、東京都内の全ての公立校の教職員は、入学式・卒業式の度に、「起立・斉唱」を義務付ける職務命令を受け取る。口頭と文書の両方でだ。違反には、懲戒処分が待っている。それでも、どうしても起立できないという教職員がおり、この17年間、抵抗を続けているのだ。この抵抗は、真面目な教員と支援する市民の、人間としての尊厳を求め、公権力の教育への不当な介入を阻止しようという運動である。

「10・23通達」については、これまで何度も当ブログに取りあげてきた。主なものは、下記のとおりである。

10・23通達関連訴訟を概観する
https://article9.jp/wordpress/?p=140

都教委の諸君、君たちは「裸の王様」だー10・23通達から10年の日に
https://article9.jp/wordpress/?p=1397

「10・23通達」発出からの11年
https://article9.jp/wordpress/?p=3745

「10・23通達」発出のこの日に、「明治150年記念式典」
https://article9.jp/wordpress/?p=11330

入学式卒業式に「日の丸・君が代」など、かつての都立高にはなかった。それが、「都立の自由」の象徴であり、誇りでもあった。ところが、学習指導要領の国旗国歌条項の改訂(1989年)あたりから締め付けが強まり、国旗国歌法の制定(1999年)後には国旗の掲揚と国歌斉唱のプログラム化は次第に都立校全体に浸透していく。それでも、強制はなかった。多くの教師・生徒は国歌斉唱時の起立を拒否したが、それが卒業式の雰囲気を壊すものとの認識も指摘もなく、不起立不斉唱に何の制裁も行われなかった。単なる不起立を懲戒の対象とするなどは当時の非常識であった。

17年前、その「非常識」が現実のものとなった。驚愕しつつも、こんなバカげたことは石原慎太郎が知事なればこその事態、石原が知事の座から去れば、「10・23通達」は撤回されるだろう、としか考えられなかった。

しかし、今や石原も横山もその座を去り、悪名高い教育委員であった米長邦雄や鳥海巌は他界した。当時の教育委員は内舘牧子を最後にいなくなった。教育庁(教育委員会事務局)の幹部職員も入れ替わっている。しかし、「10・23通達」はいまだに、その存在を誇示し続け、教育現場を支配し続けている。

そして、抵抗の運動も、続けられている。主軸となる訴訟としては、まず、通称「予防訴訟」(「国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟」)が提起され、次いで、処分取消訴訟が第1次訴訟から第4次訴訟まで続き、現在第5次訴訟を準備中である。

第5次訴訟での原告側主張の目玉となるだろうものが、「国旗国歌の強制を避ける」べきことを内容とする国連の日本政府に対する勧告である。

国連の、ILOとユネスコとは、教員の労働条件に関して、各専門家の合同委員会(セアート)を構成している。そのセアートが、日本の教職員組合からの申立に基づいて、昨年(2019年)日本政府に、下記に記した6項目の勧告を出した。この政府に対する勧告の中に、「愛国的な式典における国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるよう」対話に応じよ、「消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける」べきこと、などが明記されている。

「消極的で混乱をもたらさない不服従」を罰してはならない。教員に対する国旗国歌(への敬意表明)の強制などは、世界の良識に照らして非常識なものであって、是正されねばならないのだ。

悪名高き「10・23通達」発出の日に、あらためてその撤回を求める決意を確認したい。

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合同委員会(セアート)は、ILO理事会とユネスコ執行委員会が日本政府に対して次のことを促すよう勧告する。

(a) 愛国的な式典に関する規則に関して教員団体と対話する機会を設ける。その目的はそのような式典に関する教員の義務について合意することであり、規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする。
(b) 消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒のしくみについて教員団体と対話する機会を設ける。
(c) 懲戒審査機関に教員の立場にある者をかかわらせることを検討する。
(d) 現職教員研修は、教員の専門的発達を目的とし、懲戒や懲罰の道具として利用しないよう、方針や実践を見直し改める。
(e) 障がいを持った子どもや教員、および障がいを持った子どもと関わる者のニーズに照らし、愛国的式典に関する要件を見直す。
(f) 上記勧告に関する諸努力についてそのつど合同委員会に通知すること。

中国での国旗法改正、ますますの国家主義、ますますの強権体質。

(2020年10月18日)
中国での国旗法改正を伝える本日の共同通信記事に、解説を加えたい。

 「中国の全国人民代表大会(全人代=国会)常務委員会は17日、国旗の尊厳を損なうことを禁じた国旗法改正案を可決した。来年1月1日に施行する。国営通信の新華社が伝えた。香港でも関連条例を改正して適用。デモで中国の国旗を否定するような掲げ方をした場合は取り締まり対象となりそうだ。」

 中国では、国旗法と国歌法とが別になっている。いずれも、国民に自国の国旗・国歌に対する侮辱行為を刑事罰をもって禁止している。これは、事実上の愛国強制法にほかならない。こんな法律を作らねばならないこと自体が、国家の脆弱性を自白しているに等しく、情けない。のみならず、いまその強制をさらに強化しようというのだ。

 「第1条で「国旗の尊厳を守り、愛国主義精神を発揚し、社会主義の価値観を育成し実践する」とうたった。破損したり汚れたりした国旗を掲揚することや、国旗を逆さまに掲げる行為などを禁じた。香港で昨年から続く抗議デモでは、中国国旗を燃やしたり、海に投げ捨てたりする場面もあった。こうした行為を取り締まるとみられる。」

 共同通信記事は、国旗法第1条を「国旗の尊厳を守り、愛国主義精神を発揚し、社会主義の価値観を育成し実践する」と訳して報道したが、原文は下記のとおりである。

「第一条 ?了??国旗的尊?,?范国旗的使用,??公民的国家?念,弘??国主?精神,培育和践行社会主?核心价??,根据?法,制定本法。」

私の訳だから、正確性は保証しかねるが、こんなところだろう。
「第1条 国旗の尊厳を擁護し、国旗取扱いの規範を定め、国民の公民的国家観念を増強し、愛国主義精神を発揚し、社会主義核心価値観を育成し実践するために、憲法に基づいて、本法を制定する。」

これは、なんともおどろおどろしい国家主義の価値観を全国民に押し付けようという「国民精神善導法」である。しかも、善導は刑罰で担保されている。なお、「社会主義核心価値観」とは、中国共産党唱道のスローガンで、具体的には、「富強、民主、文明、和諧、自由、平等、公正、法治、愛国、敬業、誠信、友善」と定義づけられる。これを私は、中国版教育勅語と理解している。国家が、国民に特定の価値観を注入しようという発想において同類なのだ。

爾臣民父母ニニ兄弟ニニ夫婦相和シ朋友相信恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

よく似ていないだろうか。もちろん、「天壤無窮ノ皇運」「偉大な中国共産党の興隆」に置き換えて読まねばならない。

 「少数民族の自治地区では、民族の伝統的な祝日にも国旗を掲揚するよう義務付けた。中央政府に対する反感が強い新疆ウイグル自治区などで、愛国心を植え付ける狙いとみられる。」「香港でも関連条例を改正して適用。デモで中国の国旗を否定するような掲げ方をした場合は取り締まり対象となりそうだ。」

 国旗も国歌も、国家の象徴である。国旗国歌に敬意を表明せよとの強制は、国民の上に国家を置く全体主義の発想。およそ文明国にあるまじき法である。要するに、まつろわぬ人々をあぶり出し、国家の統制下に置く手段としての立法なのだ。

なお、NHKは本日(10月18日)午後、こう伝えている。

「中国で、国旗の尊厳を損なう行為を禁じ愛国心を示すよう求める法律の改正案が可決されました。少数民族の伝統的な祝日でも国旗の掲揚が義務づけられるほか、香港でも関連する条例が改正されて適用される見通しで、中国政府としては国民の愛国心を高めたいねらいがあるとみられます。

改正された法律は来年1月1日から施行され、学校で国旗を毎日掲揚することや祝日には広場や公園など公共の場所でも掲揚することなどを求めています。

少数民族が多く住む自治区では民族の伝統的な祝日にも国旗を掲揚しなければならないと義務づけており、政府への反発が根強くある新疆ウイグル自治区などでも愛国心を高めたいねらいがあるとみられます。

さらに、法律では、これまで禁じていた破損したり汚れたりした国旗の掲揚に加えて、国旗を逆さまに掲げる行為なども禁じたほか、国旗を通じて国民に愛国の気持ちを表現するよう求めています。

今回の法律の改正を受けて、今後、香港やマカオでも関連する条例が改正され適用される見通しです。香港では、去年から続いた一連の抗議活動で中国の国旗を燃やしたり投げ捨てたりする場面もあり、中国政府としてはこうした行為に厳しく対処する姿勢を示した形です。」

 日本の国旗国歌法は、国旗国歌の定義を決めるだけで、国旗国歌の尊重義務もなければ、敬意表明を強制する条文もない。もちろん、日本国憲法下の刑法に国旗国歌侮辱罪などあり得ない。ただ、公務員である教員に対する起立・斉唱の職務命令が、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明行為強制の根拠とされている。(「外国に対して侮辱を加える目的でその国の国旗その他の国章を損壊した者に対する「外国国章損壊罪」はある)

国家主義・愛国主義の強制は、民主主義や人権の対立物である。スガ政権や、これを支持する人々にとっては中国の強権的国家主義垂涎の的であろう。中国とは対等の立場で友好関係を築かねばならないが、国民統制に便として、中国の強権性や国家主義を学んではならない。

都教委は、懲戒処分に先立つ事情聴取に弁護士の立ち会いを認めよ

(2020年7月28日)

申  入  書

2020(令和2)年7月22日

東京都教育委員会
教育長  藤  田  裕  司  殿
委員   遠  藤  勝  裕  殿
委員   山  口     香  殿
委員   宮  崎     緑  殿
委員   秋  山  千? 枝? 子  殿
委員   北  村  友  人  殿

弁護士 澤 藤 統一郎
外弁護士6名連名

 私たちは、東京都立I特別支援学校に勤務するT教諭から依頼を受けた弁護士として、連名で貴委員会に下記の申し入れをいたします。

 東京都教育庁人事部から所属校の学校長を通じてT教諭に対して、口頭での「事情聴取」の通告がありました。同時に、「事情聴取」実施日について同教諭の日程問い合わせがなされているところです。
おそらくは、この「事情聴取」は貴委員会が、T教諭に対する懲戒処分発令する手続きの一環としてなされるもので、当該の「事情聴取」とは、行政手続法13条1項2号にいう、「弁明の機会の付与」であるものと理解いたします。
 いうまでもなく、懲戒処分発令はこれを受ける公務員にとっては重大な不利益処分となります。しかも、T教諭には、教育公務員としての職責の遂行に何の落ち度もなく、むしろ貴委員会が発令しようとしている懲戒処分にこそ憲法違反、ないしは数々の法令違反が窺われるところです。
 しかし、T教諭には貴委員会による処分決定に向けた教育庁人事部による「事情聴取」を拒絶する意思は豪もなく、むしろ、与えられたこの機会に、予想される懲戒処分の違憲・違法・不当について十分な弁明を尽くしたいと考えています。そして、その弁明に遺憾なきを期するために弁護士の立ち会いを希望しています。私どもは、同教諭の依頼に応えて、私たちのうちの日程の都合のつく者が「事情聴取」に立ち会い、法律専門家の立場から、弁明に必要なアドバイスを行う所存です。
 ご存じのとおり、行政手続法は「聴聞」と「弁明の機会の付与」とを分け、前者の手続には代理人選任を被聴聞者の権利として認めており、後者の場合には認めていません。しかし、もとより「弁明の機会の付与」に、代理人の選任を禁ずる規程はなく、ましてや弁護士の立ち会いを不都合とするものではあり得ません。
本件は、優れて法的に複雑な問題を伏在している事案として、弁明者の権利の保護という観点からも、なされるべき弁明が全うされて法が要求する手続に瑕疵なきを期するという視点からも、弁護士の立ち会いを認めて然るべき事案だと思料せざるを得ません。
 弁護士という職能は国民の基本的人権を擁護するために、法治国家としてのわが国の法が認めた法律事務専門職であります。国民の誰もが、法的な助言を得たいと希望するときに、これに応えることが弁護士の職責であることをご理解いただきたいと存じます。
 なお、教育行政を司る貴委員会の在り方としても、教師としての職責を有する公務員の立場を尊重され、是非とも弁護士立ち会いを認めていただくよう申し入れする次第です。

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T先生は、特別支援学校で美術を教えている。穏やかな人だ。京都で育ち、身近に在日差別や部落差別に接して心を痛めてきた。そして、自分が教師になって差別をを許さない教育実践をしようと思ったという。そのT先生にとって、学校での「日の丸・君が代」は、かつての皇民教育の象徴であり、民族差別・身分差別の象徴でもあった。自分が教員を志した原点に関わる問題として起立・斉唱の強制に服することはできない。それは、教え子に対する裏切りである、と言う。

T先生は、東京君が代裁判・4次訴訟の原告のお一人。訴訟では、次の5件の懲戒処分の取消を求めた。
第1回不起立 戒告
第2回不起立 戒告
第3回不起立 戒告
第4回不起立 減給10分の1・1か月
第5回不起立 減給10分の1・1か月

一審・東京地裁判決は、残念ながら戒告処分の取消を認めなかったが、2件の減給処分をいずれも違法として取り消した。都教委は、これを不服として東京高裁に控訴したが控訴棄却の判決となった。都教委は、さらに上告受理申立までしたが最高裁は申立を不受理として、一審判決が確定した。これが、2019年3月28日のことである。

なお、4次訴訟の一審判決では、《停職6月》1名、《減給10分の1・6月》2名、《減給10分の1・1月》3名(4件)が、いずれも取り消された。これについて、都教委は、T先生の《減給10分の1・1月》(2件)だけを控訴して、他は確定させている。東京都も都教委も、この6名7件の確定した処分取消に対して、謝罪をしていない。謝罪をしようともしていない。まずは、真摯に謝罪すべきが当然であろう。

謝罪するどころか、都教委は「減給が認められないのであれば、改めて戒告処分としなければならない」ということなのだ。これが通るのなら、T先生としては、ひとつの不起立行為に2度の制裁手続を強いられ、再度の救済手続を強いられることにもなる。これは、過重な負担となる。

それにしても、昨年3月28日から既に1年4か月である。これまで、再処分手続に着手しようとしなかったことに、都教委の自信のなさを窺うことができよう。

都教委は弁護士の立ち会いを認めて、T先生に十分な弁明の機会を保障しなければならない。それが、教育行政に携わる者に要求される最低限の誠実さではないか。

この申し入れに、教育委員会からの返答はまだない。

ILO/ユネスコ勧告実施市民会議、文科省交渉の場で

(2020年7月21日)
弁護士の澤藤と申します。「日の丸・君が代」強制問題に関わるようになってから、20年余になります。

先程来、文科省の担当者から、セアート(ILO/ユネスコ合同勧告委員会)の報告書に関して、「我が国の実情や法制を十分斟酌しないままに記述されている」と繰り返されています。だからこの報告書はわが国が尊重するに値するものではないとのご意見のようですが、世界の良識は、その傲慢な態度を批判しているのだと知らねばなりません。

セアート勧告は、「国旗掲揚と国歌斉唱に参加したくない教員への配慮ができるように、愛国的な式典に関する規則について教員団体と対話する場を設定すること。」「不服従という無抵抗で混乱を招かない行為に対する懲罰を回避する目的で、懲戒処分のメカニズムについて教員組合と協議すること」を求めています。これを、「我が国の実情や法制を十分斟酌しない記述」と排斥してはなりません。

どこの国にも、それぞれの「実情」があり、それぞれの「法制」があります。それぞれの国の「実情」や「法制」に従っていればこと足れりで、国連が何を言おうと知らぬ顔というわけには行かないのです。「わが国にはわが国なりの人権の在り方がある。他国の批判は受けない」という国を、人権後進国といいます。今回の文科省の姿勢は、日本を人権後進国として印象づけるものというほかはありません。

実のところ、「我が国の実情」こそが問題なのです。教育の場に日の丸・君が代の強制が持ち込まれています。あまりに深く大日本帝国と結びつき、侵略戦争の歴史とも一体となったこの旗と歌。新しい憲法下の今の時代に、この歌を歌え、この旗に敬意を表せと言われても、それには従いかねます、というのが真っ当な主権者というものではありませんか。

また「我が国の法制」も問題なのです。立派な憲法をもちながら、これが活かされていない。むしろ憲法の下位にあるべき法令や、さらにその下位にあるはずの学習指導要領などに侵蝕されて、憲法は半分枯死してしまっている。法の下克上という現象です。最高裁は、毅然としてこれを正すことをしない。行政の暴走にブレーキを掛けるべきところを決して止めようとしない。暴走に任せてしまっている。

このような「我が国の実情や法制」こそが、国連という世界の良識から批判されていることを自覚しなければなりません。人権も、民主主義も、教育の権力からの独立も、文明社会の共通価値ではありませんか。「わが国には、わが国流の、人権や民主主義がある」という主張は、今や通じるものではないことを知らねばなりません。

時の首相がウルトラナショナリストだから、また文科大臣もその内閣の一人だから、という理由で身をすくめていてはなりません。人権も、教育の政権からの独立も、文明社会の共通の理念だとお考えになって、是非ともこのセアートの勧告を十分に活用していただくよう、お願いいたします。

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2020年7月9日

萩生田 光一 文部科学大臣殿

「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議
共同代表 金井 知明・寺中 誠・山本 紘太郎

「ILO/ユネスコ合同専門家委員会 第13回会期最終報告」に関する7・9質問書

本年2月、「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議は、貴職に対してILO・ユネスコ合同専門家委員会第13回会期最終報告に関して質問書を提出し、4月10日に回答を受領した。
回答を受けても猶不明な点や、回答によって新たに生じた疑問について、5月に再質問書を提出し、6月29日に回答を受領した。
2回にわたる回答に感謝するとともに、貴職の見解をより正確に理解するために、新たに質問をまとめた。以下について再度貴職の見解を伺う。

質問1
文科省は、CEART第13回会合報告書(勧告)の日本語訳を求める当方に対して、「和訳を作成する予定はない」と繰り返すのみで、なぜ日本語訳をしないのか理由を一切説明しない。当方は「質問1(6)及びその回答に対する再質問」で、文部科学省が第10回会期最終報告書を日本語訳(仮訳)したことを指摘しているが、貴省はそれを否定していない。
全日本教職員組合の申し立てに対して、2009年11月、ILO理事会法務基準委員会は「政府はCEART報告を、コメントをつけて各県教育委員会に伝達すること。政府および全ての教員団体の代表は前進や解決できていない困難についてCEARTに情報を提供し続けること。」と勧告し、2009年9月にCEARTは「上記の所見と勧告を日本政府、県教委、関係する教員団体に伝達し、政府と代表的な教員団体全てにたいし、これらの事項についての進展や継続する困難にかんする情報を共同専門家委員会に引き続き提供すること。」と勧告している。これはCEARTの一貫した基本姿勢である。
直ちに、CEART第13回最終報告書を日本語訳し、地方自治体へ送るよう求める。

質問2
(1) 文部科学省は<質問4(10)?(12)の回答に対する再質問に対する回答>で、「我が国の実情や法制を十分斟酌しないままに記述されていると考えております。」と回答した。パラグラフ103・105で日本の実情を斟酌しないままに記述されているのはどの部分か、日本の法制を十分斟酌しないまま記述されてるのはどの部分か。具体的に指摘されたい。
(2)(1)に記載した文科省回答で、文科省は、パラグラフ103・105の見解に同意しないことを言明した。同意しないという見解である、という理解で間違いないか。
(3)CEART第13回会合報告書(日本政府への勧告を含む)、及び、後にILOならびにユネスコで承認された最終報告書(日本政府への勧告を含む)が、法的拘束力を有するものではないことは周知の事実である。しかし、法的拘束力を有しないから尊重する必要性がないということではない、ことも周知の事実である。
2015年1月、市民団体の質問に対して、文部科学省自身が(勧告は)「法的拘束力を有するものではないが、政府として適切に対処していきたいというのが我が国政府の考え方である」と答弁している。勧告についての貴省の見解は、現在も同じだと考えて間違いないか。
(4)CEART第13回会合報告書の中に書かれているように、CEARTは「教員の地位に関する勧告」(1966年)に照らして、申し立てを判断している。「教員の地位に関する勧告」パラグラフ80、自由権規約第18条、世界人権宣言など、人権保障の国際基準に基づいて出されたパラグラフ103並びに105の見解が、文部科学省が拠り所とする2011年6月6日の最高裁判決と相違する場合、貴省は「我が国の実情や法制に適合した方法で取組を進めてまいりたい」(「質問4(10)?(12)の回答に対する再質問」への回答)として、CEART第13回会合報告書は日本には妥当しないものとして処理するのか。
(5)「我が国の実情や法制に適合した方法で取組を進めてまいりたいと考えており、自由権規約委員会により日本の第7回政府報告に関する事前質問票への回答についても、従来の見解を回答しているところです。」とする回答は、CEART第13回会合報告書パラグラフ103・105の見解を退け、日本には妥当しないものとして処理した、ということか。
(6)CEART第13回会合報告書パラグラフ93から110の中で、文部科学省が尊重し、受け入れられる箇所はどこか、示されたい。

質問3
(1)2011年6月6日の最高裁判決は、2011年5月30日から7月14日にかけて出された10件の判決群の中の1つである。これらの判決に関わった第1、2、3小法廷の裁判官のうち、7人から補足意見が、2人から反対意見が出された。
文部科学省が回答で取り上げている6月6日第1小法廷判決でも5人(金築、桜井、白木、宮川、横田)の裁判官のうち、金築裁判官から補足意見、宮川裁判官から反対意見が出され、後に、桜井裁判官(2012年「君が代」訴訟判決・予防訴訟判決)、横田裁判官(2012年予防訴訟判決)からも補足意見が出された。
これほどの数の反対意見、補足意見が出されたのは、多数意見を述べるだけでは根本的問題が解決し得ないと裁判官自身が感じていたからに他ならない。
補足意見には「このような職務命令によって、実は一定の歴史観等を有する者の思想を抑圧することを狙っているというのであるならば、公権力が特定の思想を禁止するものであって、憲法19条に直接反するものとして許されない」(須藤正彦裁判官)、「この問題の最終解決としては、国旗及び国歌が、強制的にではなく、自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが何よりも重要である」(千葉勝美裁判官)、「教育の現場でこのような職務命令違反行為と懲戒処分がいたずらに繰り返されることは決して望ましいことではない。教育行政の責任者として、現場の教育担当者として、それぞれがこの問題に真摯に向かい合い、何が子供たちの教育にとって、また子供たちの将来にとって必要かつ適切なことかという視点に立ち、現実に即した解決策を追求していく柔軟かつ建設的な対応が期待されるところである。」(桜井龍子裁判官)などと書かれている。
これらはセアート第13回会合報告書の内容と通底する。
危惧や異口同音に指摘された解決のため対話の重要性が記されている一連の最高裁判決は、補足意見や反対意見も含めて判決文全体が尊重されるべきであると考えるが、文部科学省の見解を問う。
(2)2011年の最高裁判決は、国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であり、「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が、起立斉唱を求められることは、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があると判示している。起立斉唱命令は思想良心の自由への「間接的制約」となる面があるという最高裁の判示についての文部科学省の見解を問う。
(3)文部科学省が回答した「国旗国歌に係る懲戒処分等の状況」によれば、2001年度・2002年度の東京都の懲戒処分件数はゼロだった。2003年10月23日に東京都教育長が発出した「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」以後、2003年度は179人、2004年度は114人(他に訓告1人)と急増した。貴省は急増の原因を何だと考えるか。

質問4
2003年10月23日、東京都は「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」を発出するとともに、別紙「入学式・卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」を示した。実施指針は「3 会場設営について 入学式、卒業式等における会場設営等は、次のとおりとする。(1)卒業式を体育館で実施する場合には、舞台壇上に演台を置き、卒業証書を授与する。(以下略)」と定め、都内公立養護学校(現特別支援学校)では、それまでは一般的だった舞台を使用しないフロア形式の卒業式が一律禁止されることになった。
松葉杖や車椅子を使用する生徒も自力で演台の前に進み、卒業証書を受け取ることができるフロア形式は、障がいを持つ児童生徒、障がい児教育の専門家である教職員、子どもの成長を見守り励ましてきた保護者など、当事者・関係者のニーズに応えて考え出された卒業式の形だった。児童生徒や学校の実情を考慮することなく、一律に禁止するのは、障害者差別禁止法が行政機関に義務づけている合理的配慮を欠いた措置である。文部科学省は、都内公立の特別支援学校全校の卒業式で、フロア形式を禁じられ、壇上を使用させられている事実を把握しているか。合理的配慮を欠くこの事実に対する貴省の見解を問う。

質問5
文部科学省は、地方公務員法55条を理由に教員団体との対話を拒むが、地方公務員法55条3項は、管理運営は交渉の対象としないというもので、交渉に限定したものであり、教育行政を円滑に進めていくための相互理解をはかる対話までも拒否しているものではない。
そもそも、CEARTが推奨する対話は「教員の地位に関する勧告」の適用促進を目的とする、説得的で相互理解促進型の対話である。地方公務員法上の交渉を指しているものではない。CEART第13回会合報告書の中に記載される懲戒処分に関する話し合いを、積極的に誠実に行うよう求める。

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