澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

ドイツ語クラスの学生が唱った「国歌」

(2020年11月1日)
私は時代の子である。戦後民主主義という時代の嫡子であったと思う。特定の誰かから思想的な影響を受けた覚えはなく、ごく自然に、自由や平等、反権力・反権威の姿勢を身につけた。そういう自分を意識したのは学生時代、昔々の駒場のキャンパスにおいてのことだった。

1963年に私は東京大学に入学した。1・2年生は、全員が駒場の教養学部キャンパスで授業を受ける。文科は?(法学部進学コース)類・?(経済学部)類・?(文学部・教育学部)類に分かれ、さらに第2外国語の科目でクラス編成をされた。

語学のクラスは、A(ドイツ語既習)、B(ドイツ語未習)、C(フランス語既修)、D(フランス語未修)、E(中国語)に分類されていた。当時、スペイン語もロシア語もなかった。当然のことながら、圧倒的にBとDのクラスか多人数で各類毎に複数のクラスが編成された。これに対して、A、C、Eは少数で、?・?・?類をまたぐ形で各1クラス編成となっていた。私は、中国語のEクラスに属して、たいへん居心地がよかった。

授業が始まって間もない頃、誰が企画したか、A、C、Eの少数派で合同の懇親会をもったことがある。A(ドイツ語)、C(フランス語)、E(中国語)、各語学を選んだそれぞれの学生の個性が見えて面白かったという記憶がある。

そのとき、各グループで何か演し物をという話になり、まずEクラスの私たちが、中国語で「中国国歌」を歌った。あの、勇壮な「立て、奴隷となるな人民」という歌い出しの「義勇軍進行曲」である。抗日戦争のさなかにできた抵抗の歌。

Eクラスは、伝統的に、各年次の連携が密だった。授業が始まる前に、キャンパス内の同窓会館で2年生の世話でオリエンテーション合宿があり、この歌の歌詞や曲はその合宿で覚えたものだった。当時、国交のない中国だったが、その国の国歌を歌うことに何の抵抗感もなかった。

続いて、C(フランス語)クラスが、フランス国歌「ラマルセイエーズ」をフランス語で歌った。これも、義勇軍の歌だ。この歌を口にすることに、何の抵抗もあろうはずもない。

最後に、A(ドイツ語)クラスが、多少の協議の時間があって「ボクたちも国歌を歌います」と、立ち上がった。ドイツといえば西ドイツのことだろうが、その国歌は知らない。いったいどんな曲かと聞き耳を立てたら…、彼らは厳かに「キミガァーヨォワ…」と唱い始めた。真面目くさっての君が代斉唱の一くさり。満場大爆笑で、これが当日のハイライト。一番ウケた演し物となった。

随分昔のことだが、なぜ、みんなあんなに笑ったろう。あんなにウケたろう。当時の学生にとって、君が代は、大学や学生生活に、あまりにも不釣り合いで、表に出てくるものではなかったのだ。そんなものが突然出てきた意外性が、洒落にもなり、ユーモアとも感じられたのだ。少しでも、君が代を神聖な歌とする雰囲気があれば、爆笑にはならなかっただろう。何の存在感もない、何の肯定的評価もありえない「君が代」であればこそ、真面目くさって唱ってみせることが、その落差ゆえに爆笑を誘った。

中国国歌、フランス国歌は、真面目に歌い聞く雰囲気。「君が代」は不真面目にしか唱いようがなかったということなのだ。それが、当たり前の時代だった。

さて、今、あの頃の気持ちで「起来! 不愿做奴隶的人?!」「前?! 前?! ?!」と唱う気持には到底なれない。あの頃の仲間が集まっても唱うことはないだろう。洒落にもならない。もちろん、「君が代」も同様である。

いま、国旗・国歌(日の丸・君が代)を強制される都立校の教員の訴訟を担当して、17年に及ぶ。唱いたくない歌を、むりやりに唱えと命令される不条理をあらためて噛みしめる。

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