(2020年7月12日)
本日(7月12日)の東京新聞「こちら特報部」に、おや、見覚えのある方のお顔。もと、国立二小の教員だった佐藤美和子さん。「日の丸・君が代強制に反対」の思いを込めたブルーリボンを手にしての一枚。
「こちら特報部」の記事は、「黒川氏『訓告』甘すぎる」「「日の丸・君が代」で「懲戒」も」「思想の自由教えただけなのに」と見出しを付けられたもの。そのリードは、以下のとおり。
コロナ禍の真っただ中に新聞記者と賭けマージャンをした前東京高検検事長・黒川弘務氏の訓告処分が「甘過ぎる」と、批判を強めている人たちがいる。かつて「日の丸・君が代」の問題で処分された学校関係者だ。式典での国歌斉唱などの際、思想や信仰の自由を貫いただけで、減給や停職とされた人もいる。「犯罪行為の賭博が、なぜこんなに軽いのか」と、国や東京都に説明を求めている。
佐藤さんは、「たったこれだけ。私はこれ(ブルーリボン)を胸に着けていただけなのに、職務に専念していないと見なされて訓告処分を受けました」という。佐藤さんが、「日の丸・君が代」強制を受け入れがたいとする理由の根幹には、信仰と歴史観の問題がある。
佐藤さんは父親と母方の祖父が牧師。戦時中、キリストではなく天皇を神としてあがめるよう強制された話を聞かされた。朝鮮、台湾といった植民地での皇民化教育にも使われ、軍国主義の歴史が色濃い日の丸・君が代は受け入れられなかった。
それだけではない。教員として、子どもたちに思想の自由を教えながら、「日の丸・君が代」の強制を受け入れてはならないという思いも強かった。
式の一週間ほど前には、6年生の授業で君が代を扱ったばかり。歌詞の意味や賛否両方の意見を教えつつ「世の中には歌いたい人も、歌いたくない人もいる。その選択はみんなの自由で、憲法で保障されている。決して強制されるようなものではない」と伝えていた。
信仰と歴史観、そして教員としての良心に従った佐藤さん。佐藤さんは、教員としてあるべき姿を貫いたのではないか。しかし「訓告」。一方、常習賭博にも当たる、賭けマージャンの黒川が同じく「訓告」。誰が考えてもおかしくはないか。
念のために申し上げれば、00年3月の国立二小の卒業式の式次第には、国歌斉唱のプログラムも、起立斉唱の号令もない。式場に日の丸もなかった。「日の丸・君が代」なしに、創意工夫をこらした感動的なフロア対面形式の卒業式が行われている。ただ、それまで、「日の丸」とも「君が代」ともまったく無縁だった国立二小校舎の屋上に、校長が独断で「日の丸」を立てたのだ。佐藤さんのブルーリボンは、そのことへの抗議だった。
その後03年10月23日に、悪名高き「10・23通達」が発出されて、事態は昏迷することになる。あの石原慎太郎2期目の都政でのことである。この年の4月13日都知事選で、石原は308万票(得票率70%)を獲得した。ここから、石原の暴走が始まる。この右翼政治家に308万票を献じた都民の責任は大きい。
いつもながら、東京新聞「こちら特報部」は、立派な記事を書いてくれた。だが、一点気になるところがある。「10・23通達」後の、国歌斉唱時の不起立による処分の問題。記事には、こう書いてある。
都教委は2000年代から統制を強め、卒業式や入学式の国歌斉唱時に起立しないことなどへの処分が続出した。03年度以降、訓告は数人、より重い懲戒処分は延べ約480人に上る。不起立1回目は戒告で、1回増えるたびに減給1、3、6ヵ月、停職1、3、6ヵ月と重くなる。
都教委の意図は「特報部」記事のとおりであった。現実に、都教委は最高裁判決が出るまで、この累積加重の処分を重ねてきた。卒入学式での国歌斉唱時における不起立1回目は戒告。2回目は減給(10分の1・1か月)、3回目目は減給(10分の1・6か月)、4回目は停職(1か月)、5回目は停職(3か月)、6回目は停職(6か月)…というもの。このあとは、懲戒解雇しかなくなる。
不起立の回数が増える度に、懲戒処分の量定を重くし、自らの思想・良心・信仰を曲げなければ教壇を追われることになるという二律背反。この深刻な事態に、良心的な教員を追い込もうという卑劣なやり口。これをわれわれは、「思想転向強要システム」と呼んだ。
さすがに、最高裁もこの邪悪なたくらみを許さなかった。不起立と、それによる処分が累積しても、認められる懲戒処分の量定は戒告限り。減給も、停職も認められないというのが現在の最高裁の態度である。都教委がたくらんだ、思想転向強要システムは破綻している。このことは、もっと広く知られねばならない。
(2020年7月10日)
「日の丸・君が代」ILO・ユネスコ勧告実施
文部科学省交渉&記者会見にご参加を!(要予約)
日時:2020年7月21日(火)
会場:参議院議員会館 B109会議室(地下1F)
*文科省交渉 13時?14時30分
*記者会見 14時40分?15時20分
*発 言
●前田朗さん(東京造形大学)
●中村雅子さん(桜美林大学)
●寺中誠さん(東京経済大学)
●澤藤統一郎さん(弁護士)
●金井知明さん(弁護士)
●山本紘太朗さん(弁護士)
東京では2003年から、大阪では2011年から「国歌・君が代」の強制が続き、卒業式や入学式で起立できない教職員に対する懲戒処分が行われています。2014年に2つの労働組合がILO/ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(セアート)に、「日の丸・君が代」強制は「教員の地位に関する勧告」(1966年のユネスコの特別政府間会議で採択)に違反していると申し立て、ILO/ユネスコから2019年3、4月日本政府に対して、強制の是正を求める勧告が出されました。
2020年3月1日に「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議が発足し、日本政府に勧告の実施を求めていくことを決意しました。その第一歩として、来る7月21日に文科省交渉を行います。その後、交渉内容とセアート勧告について記者会見も行います。ぜひ、ご参加下さい。
主催 「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議
共同事務局長 金井知明・寺中誠・山本紘太朗
連絡先:澤藤統一郎弁護士事務所
*定員30名程度。要予約。
市民会議メールアドレス<cciu@teramako.jp>へお申し込みください。
※通行証を参議院議員会館入り口で 12時30分?14時30分 お渡しします。
※コビット19(新型コロナウイルス)感染症対策のため、参加者数を30人程度とします。
議員会館入り口での手指消毒、マスク等を着用してください。
体調のよくない方、発熱の ????ある方は参加をご遠慮ください。
※会場入り口で参加票ご記入下さい。 *資料代300円
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ボーっと生きてんじゃねーよ。
日本政府が、 国歌斉唱の強制で、国連機関に叱られる。
Qどうして叱られたの?
東京や大阪の公立学校では、国歌斉唱時に起立できない先生に対して懲戒処分が行われています。
これが、市民的権利を侵害しているとして、是正を求める勧告が出されました。
Q誰に叱られたの?
ILO(国際労働機関)とユネスコ(国連教育科学文化機関)です。いずれも国連の機関です。
日本は、ILOの常任理事国で、ユネスコの執行委員国になっています。
Q先生だから歌わなければいけないんじゃないの?
ILOとユネスコは、仕事中の先生であっても、国歌斉唱時に起立斉唱を静かに拒否することは、市民的権利として保障されるとしました。
国歌の強制は、民主主義社会にそぐわないと指摘しています。
Q国際機関から叱られて、日本政府はどうしたの?
市民的権利の保障が国際基準に達していないと叱られたのに、「勧告には法的拘束力がない」などと言って、勧告をスルーしています。
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たいていの国には、国歌がある。日本の国歌は、「君が代」。1999年に法律で決められた。
国歌は様々な場所で演奏される。スポーツの国際試合の前に演奏されることもあるし、日本では、卒業式や入学式で国歌斉唱が行われる。
国歌を「歌う」・「歌わない」ということが、時々ニュースになる。
例えば、アルゼンチンのサッカー代表選手メッシは、長らく国歌を斉唱しなかった選手として話題になった。また、アメリカでは、アメリカンフットボールの選手が、国歌斉唱時に、今の自分の国は敬えないといって、片膝をつく行為をしたことが、社会問題となった。
日本でも、総理大臣だった人がオリンピック開催前に「国歌を歌えないような選手は日本代表ではない」と言ったことがニュースとなった。
また、卒業式や入学式で国歌を起立斉唱できない先生が懲戒処分を受けている。
国歌を歌わない人に対し、自分の国の国歌ぐらい歌ってはどうかと言う人がいる。色々な意見があるのは当然だし、その思いも理解できる。
でも、歌うことを強制されるのは、ちょっと違うと思う。
国歌を歌わなかったら罰則があるような社会は窮屈だ。サッカーの代表選手が懲罰を恐れて国歌を熱唱していたとしたら、その姿に感動する人はいないだろう。
メッシが、愛国心はあるけど、歌う必要はないと言っていたように、国歌を熱唱するひとだけが愛国者ではない。また、そもそも、国を敬う、愛するかどうかは、国が決めることではない。自分を愛せ、敬えと強制するような人はちょっとあやしいし、そのような国はもっとあやしい。
歌いたければ熱唱してもよし、歌わなくとも咎められない。そんな自由のある国なら、多くの人が国歌を自然に歌うようになるかも。
「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議
共同事務局長:金井知明(弁護士)・寺中 誠(東京経済大学)・山本紘太郎(弁護士)
連絡先:澤藤統一郎法律事務所
(2020年6月19日)
国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制を違憲違法と主張する、東京「君が代」訴訟の憲法論を見直している。憲法論で、何とか勝ちたいと思うからだ。その見直し作業の中で、短かくまとまった紹介に値する文章をいくつか見つけた。以下はその内の一つ。
教育も、行政も、司法もナショナリズムに惑わされてはならない
ア 本件は、個人と国家との憲法価値の対抗をめぐる憲法訴訟である。
憲法訴訟においては、対抗する複数の憲法価値相互の衡量が行われる。本件において衡量の対象とするものは、端的に「個人」と「国家」の憲法価値である。個人とは自然人としての「人権主体」である。これは分かりやすい。一方国家の方は分かりにくい。「統合された国民の集合体」であり、これが「権力主体」となっている。つまりは、「基本的人権としての個人の尊厳」と、「国家の権力作用」ないしは「統合された国民全体」との各憲法価値の衡量である。
言うまでもなく個人の尊厳は、最も基底的な憲法価値である。他方、国家は与えられた権力を行使して憲法が想定する法的・政治的・社会的な秩序を形成して国民の福利に寄与すべき立場にある。両者ともに、憲法的価値を持つと言ってもよいが、両者の憲法価値としてのレベルは、明らかに異なる。個人の尊厳が究極の目的的価値であるのに対して、国家の権力作用はそれに奉仕すべき手段的価値でしかない。
従って立憲主義国家において、その両者の衡量の帰趨は自ずから明らかである。にもかかわらず、この正確な衡量を妨げ、あるいは狂わせるものがある。それがナショナリズムである。
イ 本件訴えは、「原告らに対して、国旗・国歌への敬意表明を強制しうるか」というシンプルな問に回答を求めている。
強制される敬意表明の対象としての国旗・国歌とは、ともに国家の象徴として、国家と等価の関係にあるものと意味づけられている旗と歌である。
原告らは、国家を象徴するものであるがゆえに、国旗・国歌への敬意表明の強制を受容しがたいとする。自らの精神の核をなす思想・良心・信仰との抵触を理由とするものである。
この局面は、国旗・国歌という国家象徴を介して、国家と個人が対峙している構図である。公権力が、原告らに対して、「個人の思想・良心・信仰の如何に拘わらず、国旗・国歌を介して国家への敬意を表明せよ」と命じている。この構図のもとで、「個人」ないしは「個人の思想・良心・信仰」と、「国家」が対抗関係を形成して、その憲法価値の優劣についての衡量が求められている。
衡量の一方の秤に載せるものは、国旗国歌への敬意表明の強制を受け容れがたいとする個人の思想・良心・信仰の自由という基本的人権としての憲法価値である。もう一つの秤に載せられるものは、国家そのものの憲法価値である。「国民の国家に対する敬意という価値」と言ってもよい。
一方に「国家」を、他方に「個人」をおいた衡量の帰趨は、法的判断のレベルでは、自ずから明らかである。近代立憲主義の大原則においては、個人が前国家的な存在であり、国家が後個人的存在であることは自明の理だからである。
ウ ところが、学校現場の現実はそうなっていない。行政もそのようには考えない。さらには、裁判所も、そのようにシンプルに考察することに躊躇を隠さない。国家と個人との憲法価値の正確な衡量を妨げる要因があるからである。それが強力なナショナリズムの作用にほかならない。
日本国憲法を制定した戦後民主主義は、戦前の排外的ナショナリズムを払拭したはずだった。ところが今、日本の社会には過剰なナショナリズム復興の過程にある。学校現場において、天皇制国家とまったく同じデザイン、まったく同じ歌詞・曲の「国旗・国歌(日の丸・君が代)」への敬意表明が強制されていることがその象徴的なできごとである。
ナショナリズムは政治学的ないしは社会心理学的な概念であるから、その正確な定義があるわけではない。しかし、ナショナリズムは、確実に少なからぬ国民の精神をとらえ、国家への統合に国民の情念を動員するエネルギーを有している。個人と国家との関係を醒めた理性で見つめる人に対して、愛国的な行動に同調を求める強力な圧力の源泉となっている。ナショナリズムは、国家を特別に重要で敬意を表すべき存在であるとし、信仰にも似た尊崇の対象と考える。その結果、国家を象徴する国旗・国歌についても、同様にこれを特別に重大で神聖なものと考えるのみならず、当然にすべての国民がこれに敬意を表明すべきものと考え、国旗国歌に敬意を表することを潔しとしない国民の態度を強く非難する。
エ ナショナリズムに基づく国旗国歌への敬意表明要求は、社会的同調圧力として存在するにとどまらず、多数決原理の下、容易に政治権力に転化する。こうして、政治権力がナショナリズムを鼓吹する悪循環が生じる。石原慎太郎知事の時代に、東京都教育委員会が発した悪名高い10・23通達は、その最悪の事例である。
愛国心とは普遍的な道徳で、国旗国歌の尊重は全ての人に望まれる態度であるという、信仰にも似た社会心理がこの世を覆っている。ナショナリズム鼓吹派は常に多数派で、ナショナリズムに同調しない人々は常に少数派とならざるを得ない。その結果、すべての国民が国旗国歌に敬意を表明すべきことは当然と考える人々が政治的多数派で、不起立不斉唱でこれに抵抗する人々は政治的に少数派となる。国旗国歌への敬意表明の強制は、民主主義の問題として放置をしておく限り、解決することはない。
多数派の社会的同調圧力は多数決原理の介在によって、強制力をもつ公権力の命令に転化する。本件の10・23通達と、同通達にもとづく「起立・斉唱」の職務命令はそのようにして、原告らの人権を侵害している。
オ 本件訴訟は、そのような社会的背景の中で生じ、そのような背景の中で権利回復を求める訴訟である。
言うまでもなく、人権の擁護は、少数派の人権の擁護であることに実質的な意味がある。多数派が思想弾圧を受けることはない以上、思想良心の自由とは常に「権力(=多数派)が憎悪の対象とする少数派の思想の自由」である。
以上のとおり、本件において司法の役割が根底的に問われている。司法がナショナリズムという「権力(=多数派)の意思」に迎合し動揺して、少数者の人権侵害をいささかも容認してはならない。司法は、飽くまで人権の砦としての役割を果たさなくてはならず、無批判に多数決原理に追随してはならない。多数派の少数者に対する同調圧力の不当を看過して、これを容認するようなことがあってはならない。まさしく、司法の存在意義が問われているのだから。
(2020年6月7日)
久しぶりに、アメリカ発のニュースで、コリン・キャパニックの名を耳にした。この度の白人警官による黒人殺害事件で、全米に拡がった抗議運動の報道の中でのこと。彼は、元NFL所属の49ersでQBだったスーパースター。日本語では「片膝付き」と訳されている、プロテストポーズ「テイク・ア・ニー」の元祖である。
特定の身体ポーズが、政治的・宗教的主張と結びつくことがある。かつては、ヒトラーの崇拝者たちが、一斉に右手を伸ばすナチス式敬礼のうえ、「ハイルヒトラー」と叫んだ。以来、あのポーズは全体主義の印として周りの者をぞっとさせる。
また、アメリカ公民権運動を担った黒人活動家たちは、「ブラック・パワー・サリュート」という、拳を高く掲げる抗議のポーズをとった。1968年メキシコオリンピック表彰台における、トミー・スミスやジョン・カーロスの星条旗に対して拳を突き上げたあの抗議の姿が感動的だった。
2016年8月26日、NFLプレシーズンマッチでの試合前の国歌斉唱時に、キャパニックは起立を拒み、テイク・ア・ニーの姿勢を貫いた。その年の7月5日に南部ルイジアナ州で黒人男性が警官に射殺され、7月6日にも米中西部ミネソタ州で、黒人男性が警官に射殺される事件が続いた。全米に抗議行動が巻きおこっているさ中に、キャパニックは抗議の意思を表明したのだ。彼の日抗議の先は、毅然とした対策をとらない国家に向けられた。「黒人や有色人種への差別がまかり通る国に敬意は払えない」と明言している。
この行動に、多くの選手が賛同して国歌斉唱時のテイク・ア・ニーは大きな運動となった。当然のこととして、その賛否にアメリカの世論は大きく割れた。キャパニック批判の先頭に立ったのが、新大統領となったトランプだった。
17年9月22日における彼の支援者集会での演説のえげつなさが衝撃である。これが、超大国大統領の品性の程度である。
「我々の国旗に不敬な態度をとる奴に、NFLチームのオーナーが『あのクソ野郎をすぐにグラウンドからつまみだせ。出てけ。クビだ』と言ったら最高じゃないか」(クソ野郎の原語は、「son of a bitch」)「そのうちどこかのオーナーがきっとこう言うに違いない。『あいつは国旗を侮辱した。クビだ』とね。彼らは知らないのだ。私にはオーナーの友人がたくさんいる。」
得意になって、激した言葉で聴衆に語りかけるトランプ。これにヤンヤの喝采で応える支持者たち。煽る側、煽られる側の相互作用。節度も知性のかけらもない、これがアメリカの一面の現実なのだ。
このトランプ発言に、選手たちが反発してテイク・ア・ニーはさらに拡がった。この事態に、NFLコミッショナーのロジャー・グッデルは「大統領による無神経な発言を受け、彼ら(選手たち)はフラストレーションや失望を平和的な形で表明したのだ」とし、国歌斉唱中に平和的抗議運動を展開するNFL全体の動きを「誇りに思う」とまで語った。
当初は、キャパニックの所属チームは「宗教や表現の自由をうたう米国の精神に基づき、個人が国歌演奏に参加するかしないか選択する権利を認める」と同選手の決断を尊重するとの声明を発表した。また、NFLは声明で、「国歌の演奏中に選手たちが起立することを奨励するが強制ではない」と選手を擁護した。
しかし、このNFLのグッデルも、この姿勢を堅持できなかった。翌2018年にはNFLは方針を変え、選手たちの抗議活動を支持せず、国歌斉唱の際にひざまずくことを禁止。違反した場合には処罰を課すとした。これが、NFLの公式姿勢として今日まで続いた。キャパニックと49ersとの契約が切れたあと、彼を迎え入れるチームはなく、いまだに彼は失職状態にある。
しかし、捨てる神ばかりではなく、大手スポーツ用品メーカーのナイキが登場して拾う神となる。キャパニックを同社のイメージキャラクターとして採用した。同社のスローガン「Just Do It」の30周年を記念する広告にキャパニックを起用した。広告では、キャパニックの顔に「何かを信じろ。たとえすべてを犠牲にするとしても」という言葉を重ね合わせている。キャパニックがアメリカの自由を象徴する人物とすれば、トランプがアメリカの不寛容を象徴する存在であり、ナイキはアメリカの懐の深さを象徴したというべきであろう。
もちろん、トランプは、ナイキも執拗に攻撃した。18年9月5日の彼のツイッターは、ナイキを指して「間違いなく殺される」と述べた。「テレビ視聴率が下がったNFLと同じように、ナイキは間違いなく、怒りと購買拒否によって殺される。ナイキはそうなることを分かってやっているのか」とした。
そして、白人警官の黒人に対する絞殺事件という衝撃の新事態を迎える。全米に激しい抗議の行動が巻きおこっている。その矛先は、今、間違いなくトランプに突きつけられている。NFLの選手たちも声を上げ始めた。「人種差別や黒人への組織的弾圧を糾弾し、選手たちの平和的抗議を禁じた過ちを認め、黒人の命の大切さを尊重してほしい」との動画を投稿することでNFLに呼びかけた。
これに、NFLコミッショナーのロジャー・グッデルが呼応した。現地6月5日(金)、NFLが「以前にNFL選手の声に耳を傾けなかった」ことは間違いだったと認め、NFLのソーシャルメディアプラットフォームを通じて投稿した動画で「すべての人が意見を述べ、平和的に抗議」することを奨励すると語ったのだ。具体的には下記のとおりである。
「われわれナショナル・フットボール・リーグは、人種差別や黒人の方々に対する組織的弾圧を糾弾します。われわれナショナル・フットボール・リーグは、以前にNFL選手の声に耳を傾けなかったのは間違いだったと認め、すべての人が意見を述べ、平和的に抗議することを奨励します。われわれ、ナショナル・フットボール・リーグは、黒人の命の大切さを尊重します。個人的には皆さんと共に抗議しており、この国の切望される変化に携わりたいと思っています。黒人選手なくして、ナショナル・フットボール・リーグは存在しません。国内で行われている抗議活動は黒人の選手、コーチ、ファン、スタッフに対する何世紀にもわたる沈黙、不平等、弾圧を象徴しています。私たちは耳を傾けています。私は耳を傾けています。声を上げてくれた選手たちに連絡し、改善方法やNFLファミリーがさらに一致団結して前進できる方法を伝えていくつもりです」
直接にはキャパニックの名は出て来ない。国歌斉唱時のテイク・ア・ニーに言及されてもいないが、「以前にNFL選手の声に耳を傾けなかった間違い」と言えば、このことしかない。結局は、国歌斉唱時における選手たちのテイク・ア・ニー行動を容認するということなのだ。
「黒人や有色人種への差別がまかり通る国に敬意は払えない」と言ったキャパニックから見れば、差別主義者トランプを大統領とする米国の国旗にも国歌にも敬意を払うことはとうていできまい。黒人を差別し、黒人に敵意を持つ国は、黒人にとって自らの国ではあり得ないのだ。
もっとも、キャパニックは、国家を本来的に性悪なものとして、原理的に国旗や国歌への敬意表明を拒絶していたわけではない。Black Lives Matterをスローガンとする運動が今度こそ成功をおさめ、トランプが大統領選で大敗した後には、キャパニックも国歌を歌えるようになるだろう。
本日(3月31日)は、「日の丸・君が代」強制に抵抗する諸運動体による、恒例の「卒業式総括集会」だった。
悪名高い「10・23通達」が発せられて以来、17度目の憂鬱な春である。本来胸おどる卒業式・入学式の希望の季節が、日の丸・君が代強制と思想弾圧の季節と化して17星霜を数える。
当初は、極右の知事石原慎太郎の特異なキャラクター故の暴走と考え、この知事さえ交替すればと思っていたのが甘かった。石原後継の知事も、保守の中では良識派と見えたその次の知事も、そして、ダイバーシティを口にする自分ファースト現知事もこの異様な事態をなんとも考えてはいないのだ。精神の自由についても、教育が権力の支配に服してはならないとする基本理念にも、なんの関心もない。歴代の凡庸なお飾り教育委員たちも同様なのだ。
そうこうしているうちに、安倍晋三が国政に君臨するようになった。こういう歴史修正主義者であり復古主義者でもあり、憲法に敵意を剥き出しにする輩を国政のトップに押し上げる勢力が幅を利かせる時代なのだ。次第に、日の丸・君が代を強制している、われわれが闘う相手の大きさが見えてきた。
日の丸・君が代強制勢力にとっは、大きな抵抗にぶつかって、思うようにはその思惑の進捗はない。しかし抵抗するわれわれも、日の丸・君が代強制を阻止し得ていない。事態が膠着した状況で17年目の春を迎えている。
本日の集会での現場からの報告によれば、今年の都立校の卒業式はコロナ対応に追われたものだったという。それでも、知事と教委は、「国歌斉唱」の実行にこだわった。
2月26日に、各校長に対して、「新型コロナウィルス感染症に関する学校における対応について(通知)」が教育長名で出された。以下のとおり、卒業式に関しては、「参列者の制限及び時間短縮」が述べられている。
1 令和元年度卒業式の実施
(1)参列者の制限及び時間短縮
ア 参列者の制限
附属中学校、中等教育学校及び高等学校においては、保護者及び来賓は参加せず、教職員、卒業生及び式に関係する在校生とする。
特別支援学校においては、来賓は参加せず、教職員、卒業生及び関係する在校生並びに介助を必要とする児童生徒等の保護者とする。
イ 時間の短縮
知事メッセージと都教育委員会挨拶は校内に掲示するとともに、卒業生に配布する。なお、卒業式の挨拶業務に係る都教育委員会からの派遣は行わない。
祝電は掲示のみとし、祝電の披露は行わない。
翌27日には、都教委から各校に卒業式の式次第からカットする項目の例示がメールで送信され、各校では都教委からの指示に基づき、式次第の手直しがされた。
更に28日、都教委は「更なる感染防止拡大」のため卒業式は「参列者の制限や時間の短縮により実施」とする「新型コロナウイルスに関する都内公立学校における今後の対応(第49報)」を発表するとともに、「卒業式における国旗・国歌に関する調査の実施」に関わって、同日立て続けに二つの事務連絡を各学校長宛に出した。
この経過と「二つの事務連絡」については、下記の当ブログを参照されたい。
生徒たちへのコロナ感染防御よりも、「日の丸・君が代」強行が大切なのか。
https://article9.jp/wordpress/?p=14522(2020年3月19日)
国旗を「式典会場内掲揚せず」や国歌「斉唱せずメロディも流さず」を不適切な状況として取り扱わない」とした「事務連絡?」と、「都立高校における国旗国歌の取り扱いについては『国旗掲揚の下に、体育館で実施する。』『国歌斉唱を行う。』という方針に変更ありません。」という「事務連絡?」は明らかに矛盾している。コロナ対応に追われる中で、都教委の職員の間に認識の違いや混乱があったことは間違いない。
このような都教委の指示によって、都立高校では様々な式次第で卒業式が実施された。
保護者代表謝辞、都教委挨拶、祝電披露は全ての学校でカットされた。
校歌斉唱、卒業生代表答辞、在校生代表送辞、式歌(卒業の歌)斉唱については、各学校の判断に任された。
結局、?国歌斉唱、?校長式辞、?卒業証書授与だけは、カットを許されず、この3点のみに縮小して式を実施した学校が多くあった。中には、卒業証書授与の際の呼名までカットした学校もあった。
コロナ対策としての飛沫感染防止を目的に校歌や式歌をカットしながら、国歌だけは斉唱するという異様な式が行われた。今年の卒業式は、生徒や教職員の命や健康よりも国旗掲揚や国歌斉唱を優先する都教委の異常さを浮き彫りにした。
卒業式は、国旗を掲揚したり国歌を斉唱したりするために行われるわけではない。生徒のための卒業式を取り戻すために、「10・23通達」を撤回させる取り組みを今後もあきらめず続けていかなければならない。そのような決意を新たにした集会だった。
(2020年3月31日)
一昨日(3月25日)、東京高裁(第9民事部・小川秀樹裁判長)で「河原井・根津09年停職事件」の控訴審判決言い渡しがあった。同判決は、東京地裁判決を主要な部分で変更し、根津公子さんに対する停職6月の懲戒処分を取り消す旨の「逆転勝訴」となった。
2009年3月、都立学校の教員だった河原井さん・根津さんは、ともに卒業式での「君が代・不起立」を理由に、東京都教育委員会から停職6月の懲戒処分を受け、その処分取り消しを求めて人事委員会審査を経て、提訴していた。原審東京地裁判決は河原井さんの処分を取り消したが、根津さんの処分取消請求を棄却した。これを不服とした根津さんの控訴審で、小川秀樹判決は処分を取り消したもの。河原井純子さんの一審判決勝訴の部分は既に確定済みで、河原井さん・根津さん揃っての勝訴がほぼ確実となった。もっとも、まだ都教委側の上告受理申立はあり得ないではない。
なんとなく、安倍政権の天が下どこもかしこも忖度だらけとの印象が強いが、まだマシな裁判官も健在なのだ。まずは、めでたい。
とは言え、小川秀樹裁判長がリベラルで憲法の理念に親和的な立派な裁判官かと言えば、そうとも言いがたい。ちょうど1か月前の2月26日、夫婦同姓の強制は違憲との主張を斥けて、現行制度を合憲とした判決を言い渡したのが、同じ小川秀樹コートなのだ。
この根津さんの事件は、東京「君が代」弁護団の受任事件ではなく、私は関与していない。河原井さん・根津さんは、信頼する弁護士・弁護団を選んで、訴訟を追行し成果を上げた。根津さんを支える運動体によれば、根津さんの最近の「君が代」不起立に対する処分と判決は以下のとおりだという。
・2006年3月卒業式の不起立に、3か月の停職処分
?処分取消請求棄却の敗訴
・2007年3月卒業式の不起立に、6か月の停職処分
?処分取消請求に一審は棄却、東京高裁で逆転勝訴(須藤判決)
?最高裁で確定
・2008年3月の卒業式不起立に、6か月の停職処分
?ゼッケン着用などを理由に取り消されず
・2009年3月の卒業式不起立に、6か月の停職処分(本件処分)
?地裁は、処分取消請求を棄却(敗訴)
同判決主文の主要部分は、以下のとおりである。
1 原判決主文第2項のうち,控訴人根津の請求に係る部分を次のとおり変更する。
(1) 東京都教育委員会が平成21年3月31日付けで控訴人根津に対してした懲戒処分を取り消す。
(2) 控訴人根津のその余の請求を棄却する。
根津さんが求めたのは、停職6か月の懲戒処分の取消しと、慰謝料の支払いとである。慰謝料の支払いは棄却されたが、この判決で懲戒処分の取消支払い認められた。最高裁が、これを覆すことは考え難い。
同判決理由の主要部分は、以下のとおり。
原審(東京地裁判決)は,控訴人ら(河原井・根津)の憲法及び教育基本法違反の主張を排斥する一方で,本件河原井懲戒処分については,懲戒権者の裁量権の範囲を逸脱してされた違法なものであるとして,同処分を取り消し,本件根津懲戒処分については,社会観念上著しく妥当を欠くものとはいえず,停職期間も裁量権の範囲内ということができ,適法であるとして,同処分の取消しの請求を棄却し,損害賠償請求については,本件根津懲戒処分は違法とはいえず,本件河原井懲戒処分については国賠法上の過失は認められないなどとして,控訴人らの請求をいずれも棄却する旨の判決をした。
しかし、「本件根津懲戒処分」については控訴審判決の判断は地裁判決とは違った。
…停職期間を6月とする停職処分を科すことは十分な根拠をもって慎重に行わなければならないものというべきであるところ,控訴人根津の過去の懲戒処分等の対象となったいくつかの行為は平成18年(06年)の懲戒処分において考慮され,その後同種の非違行為が繰り返されて懲戒処分を受けてはいないこと,本件根津不起立は,それ以前のような積極的な式典の妨害行為ではなく,控訴人河原井と同様の国歌斉唱時に起立しなかったという消極的行為であること,平成20年の停職6月の懲戒処分がされた後は,本件トレーナー着用行為のような行為はしていないこと等によれば,都教委の判断は,具体的に行われた非違行為の内容や影響の程度等に鑑み,社会通念上,行為と処分との均衡を著しく失していて妥当性を欠き,裁量権の、合理的範囲を逸脱してされたものといわざるを得ず,違法なものというべきである。したがって,控訴人根津の本件根津懲戒処分の取消請求は理由がある。
問題は、「積極的な式典の妨害行為」か、「国歌斉唱時に起立しなかったという消極的行為」かの分類にある。判決の認定するところでは、「平成17年5月の懲戒処分の後に実施された再発防止研修において,日の丸,君が代強制反対と書かれたゼッケンの着用を巡る抗議等を行ったこと」「平成19年3月の停職6月の懲戒処分を受けた後には、勤務時間中に『強制反対日の丸君が代』等と印刷されたトレーナー着用」などが「積極的な式典の妨害行為」にあたる。
一審は、この過去の「積極的式典妨害行為」を今につながる重大事と見たが、控訴審は「本件は、単に起立しなかったという消極的行為。過去の行為は既に相当な処分を受けており、本件で斟酌すべきではない」と判断した。これだけの判断を獲得するために、多大な努力が必要だったのだ。
なお、君が代不起立は、基本権としての思想・良心・信仰を防衛するためには最低限必要不可欠な受動的行為である。「式典を妨害しない単なる不起立という消極的行為」であれば、何度繰り返しても戒告どまりで、減給以上の懲戒処分とはならない。これが、強権的な都教委と、思想・良心を擁護しようという教員集団とのせめぎ合いの膠着線。
都教委は、累積加重の懲戒処分を重ねることによって教員の転向をたくらみ、非転向の教員を追い払おうとしたが、失敗した。徒然に現状に不服である。教員の側は、戒告とは言え懲戒処分を容認しえない。本来、戒告処分も違憲違法のはずと不満を募らせての、膠着状態である。
この判決が現状の打開をもたらすものとは考えにくいが、闘いを継続する姿勢を学びたいと思う。
(2020年3月27日)
本日(3月19日)、「卒業式処分をするな!都教委要請行動」。32名の要請団に私も交じって、いくつもの課題について要請と質問を重ねた。
いくつもの課題の根底に、民主主義国家の教育の場にふさわしからぬ「国旗・国歌(日の丸・君が代)」への敬意表明の強制がある。この強制に服さぬ教員に対して、東京都教育委員会が懲戒処分を科し、処分に伴う諸不利益を押し付け続けて事態を混乱させている。
国旗と国歌の学校行事を、ILO・ユネスコ勧告は「愛国的儀式」と呼称している。本来教育とは個人の人格の完成を目指すものだが、世界の良識には日本の教育は「愛国的儀式」に彩られたものと映っているのだ。この点、天皇制政府が国家主義を子どもたちに注入した戦前教育と基本的に変わるところがない。
そして「勧告」は、教員に対して愛国的儀式への参加を強制せぬよう配慮が必要という。これを受け容れがたいとする教員の「不服従の権利」を容認している。
消極的な不服従である限り思想良心に基づく行為への制裁があってはならない。これが「市民的不服従の権利」であって、国連の指し示す世界標準なのだ。不服従の権利を認めず、懲戒処分をもって愛国的行為を強制する我が国は、後進・野蛮の誹りを免れない。
都教委は、いったい何ゆえに、このような野蛮な国旗・国歌(日の丸・君が代)強制にこだわるのであろうか。不可解というしかない。
この度のコロナ禍に伴う措置は、不可解にさらに輪をかけるものとなった。本日の要請行動で、最も話題となったのが、「被処分者の会」からの次の指摘。
東京都教育委員会は2月28日、「新型コロナウイルスに間する都内公立学校における今後の対応(第49報)」を発表し、「1 都立学校の基本方針」として「更なる感染防止拡大」のため卒業式は「参列者の制限や時間の短縮により実施」とした。
そして、指導部指導企画課長名で都立高等学校長・都立特別支援学校長・都立高等学校付属中学校長・都立中等学校長宛「卒業式における国旗・国歌に関する調査の実施について」という事務連絡(以下、事務連絡?という)を発出し、記の2で「本年度に限り…『10.23通達』に示す取り扱いと異なる方法で卒業式を実施する場合は…」として回答例・例1では「…国旗を掲揚できなかった場合‥」、例2では「国歌を含め…斉唱や合唱を行わなかった場合」を挙げ、「※ 本年度に限り、上記回答を不適切な状況として取り扱わない」とした。
ところが、同日、指導部指導企画課長名で都立高等学校長宛に「事務連絡?」を発出し、「現時点で、都立学校における卒業式の国旗国歌の取り扱いについては、『国旗掲揚の下に、体育館で実施する。』『国歌斉唱を行う』という方針に変更ありません。」と指示し、「説明不足であったことをお詫び」した。
事務連絡?で「感染防止」のための「緊急対策」として「連絡」した内容が事務連絡?では「国旗掲揚…、体育館で実施…」「国歌斉唱を行う。」に変えられたのである。
その結果、これまでの式次第にあった校歌斉唱、保護者代表式辞、卒業生代表答辞、在校生代表送辞、式歌(卒業の歌)斉唱、などをカットし、?国歌斉唱、?校長式辞、?卒業証書授与、などに縮小して実施した学校も多い。「感染防止」と言いながら何が何でも「君が代」だけは歌わせるという都教委の異常さが際立っている。
納得できる説明を求めるという質問書の提出に続いて、出席者から声が上がった。
「朝令暮改も甚だしい。常識的な事務連絡?を出したあとに、いったい何があって、非常識な事務連絡?を出すことになったのか」「コロナは、接触感染と飛沫感染で広まっている。接触感染を防ごうというのが、体育館ではなく各教室で行おうという配慮。飛沫感染を防ごうというのが斉唱をやめようという配慮。どちらもまかりならんとはどういうことなのか」「性との命や健康よりも、日の丸・君が代が大切ということなのか」
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事務連絡?
事 務 連 絡
令和2年2月28日
都立高等学校長
都立特別支援学校長
都立高等学校付属中学校長
都立中等学校長 殿
教育庁指導部指導企画課長 小寺 康裕
卒業式における国旗・国歌に関する調査の実施について
例年実施している標記の調査について、複数の学校や自治体から、「新型コロナウイルス感染防止のため例年と異なる方法で卒業式を実施するため、どのように回答すればよいか。」
などの問い合わせを受けています。
つきましては、下記のとおり御対応ください。
記
1.例年と同様の様式で回答する。
2.新型コロナウイルスへの緊急対策に伴い、本年度に限り、いわゆる「10・23通達」に示す取り扱いと異なる方法で卒業式を実施する場合は、以下の例を参考に回答する。
◆例1 各教室で放送等を活用して式を実施したため、国旗を掲揚できなか った場合
→「オ 式典会場内掲揚せず」、
「ノ 演台を設置せずに実施」と回答
◆例2 飛沫感染を防ぐため、国歌を含め全ての式歌の斉唱や合唱を行わなかった場合
→「ス 斉唱せずメロディも流さず」と回答、
「(7)教職員の状況」は空欄
※本年度に限り、上記回答を不適切な状況として取り扱わない。
なお、体育館で実施しながら国旗掲揚を行わない事例や、校歌や他の式歌を斉唱(合唱)しながら国歌斉唱を行わない事例等は、不適切な事例に該当します。
【担 当】
教育庁指導部 主任指導主事 ○ ○
指導企画課統括指導主事 ○ ○
指導企画課指導主事 ○ ○
電話 03?53××?68××
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事務連絡?
事 務 連 絡
令和2年2月28日
都立高等学校長殿
教育庁指導部指導企画課長 小寺 康裕
「卒業式における国旗・国歌に関する調査の実施について」の趣旨等について
先ほど、当課からの事務連絡「卒業式における国旗・国歌に関する調査の実施について」により、本年度の調査の回答例等を示したところですが、この例は、今年度の新型コロナウイルスの感染拡大等の状況によっては、卒業式の実施方法について、様々な変更が想定されることから、変更があった際の回答の仕方を示したものです。
現時点で、都立学校における卒業式の国旗国歌の取り扱いについては、「国旗掲揚の下に、体育館で実施する。」「国歌斉唱を行う。」という方針に変更ありません。
説明不足であったことをお詫び申し上げます。
ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
【担 当】
指導部主任指導主事(安全教育担当) ○ ○
統括指導主事 ○ ○
電話 03?53××?68××
(2020年3月19日)
いつもながらの安倍晋三「やってる感」演出の印象操作。この度のパフォーマンスは国民生活への影響多大な全国一律休校要請。そのテンヤワンヤの影響が、全国各校の卒業式にも及んでいる。しかし、この期に及んでなお、東京都内での「日の丸・君が代」強制へのこだわりぶりが恐ろしい。
東京都教育委員会は、先月(2月)28日、「新型コロナウイルスに関する都内公立学校における今後の対応」を公表した。
これによると、「1 都立学校の基本方針」を次のように言う。
「先般、都としては、今後、3週間程度を集中対策期間とし、更なる感染防止拡大に向け、時差通学の実施や春季休業期間の前倒しなどに取り組むこととしたところである。
この度、国が方針を変更し、全国一斉の休校を行うこととしたため、都としても、これを踏まえ、原則として3月2日から春休みまでの間、休校とする。」
まったく自主性に欠けた、情けない中央追随主義。そして、その故に安倍の場当たり方針変更に振り回されるみじめな実態というほかはない。その基本方針のもと、「2 休校に伴う課題への対応」が記されているが、卒業式については以下の2行のみである。
「(2)卒業式
参列者の制限や時間の短縮により実施」
可及的に感染の機会を低減しようとするなら、授業だけでなく卒業式も取りやめればよい。そうすれば、政権への忖度の姿勢を見せるメリットもある。とは言うものの、教育の役割や児童・生徒の心情に思いをいたせば、卒業式をやめるとまでは言いにくい。それ故の「参列者の制限や時間の短縮による卒業式実施」なのであろう。それはそれで、理解できなくもない。問題はその具体化だ。
「参列者の制限」としては、議員や地域の名誉職を呼ぶのはやめよう。教育委員会事務局からの指導主事など「日の丸・君が代」実施の監視要員も不要だ。「時間の短縮」のためには、まずは君が代斉唱をやめよう。紋切り型の式辞の類も一切不要だ。生徒が学窓の想い出と将来への決意を語り、教員がそれを励ます、生徒と教員を中心とした簡素な集いでよい。3年間の教育の成果を確認する感動的な卒業式は、「参列者の制限と時間の短縮」でより濃密になるだろう。
ところが、現実にはそうなっていない。公表の限りでは、「休業中の卒業式は『31教総務第2347号』に基づいて実施する」とされているが、この通達は見あたらない。
複数の友人からの報告によれば、以下のとおり東京都非教育委員会は、「式次第から校歌、卒業生の歌、保護者式辞などを省いても『君が代』斉唱だけはやる」との方針であるという。生徒のための式ではなく、国家のための卒業式の色彩が濃くなっている。本末転倒も甚だしい。
報告その1
卒業式は時間短縮で、保護者、在校生、来賓は感染防止のため出席させないにもかかわらず、式次第に『国歌斉唱』だけはある。校長も、通達があるからどうしようもないと言っている。都民の声として挙げてもらえたら。
報告その2
卒業式の件ですが、私の勤務校では「短縮化」と言いながら、「国歌斉唱」のみ従来通り強行という内容です。何だかんだで「君が代」だけやればいいという教委の目的が浮き彫りになった感じです。
管理職はセンターの担当に「証書の授与だけではよくないのか?」と質問したそうだが、「(国歌斉唱は)必ずやってください」と言われたとのこと。
式の進行概要は以下の通りで、前日の予行は中止です。
? 卆業生入場、?「君が代」斉唱、?証書授与(呼名+代表生徒への授与)、?校長式辞、?卒業生退場
報告その3
以下の内容で、都民の声にメールしました。
————————–
都立高校の卒業式は、新型コロナウイルス対策のために、校歌斉唱や式の歌を省略して実施することになりましたが、君が代の斉唱は行うことになっています。感染防止のために斉唱を取り止めたのなら、君が代の斉唱も取り止めるべきではないでしょうか。卒業生の健康や命より、君が代の方が大事にされるのはどう考えても間違いだと思います。
なぜ君が代斉唱を行わなければならないか、理由を教えてください。説明を求めます。
都民の声の窓口の FAX 03?5388?1233
ハガキ 〒163?8001 東京都庁「都民の声総合窓口」
都民の声課
https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/iken-sodan/otoiawase/madoguchi/koe/tominnokoe/index.html
(2020年3月7日)
2月が逃げて、はや弥生3月。「3・1ビキニデー」であり、「3・1独立運動記念日」でもある。早春にふさわしいうららかな日曜日だが、世の話題はコロナウィルス一色。街に人通りは少なく沈滞した空気。これは不気味な光景である。
いくつもの商業イベントが中止になった。いくつもの市民集会も中止に追い込まれている。巷は徹底した自粛のムードで、このご時世に集会など開催することが怪しからんという声があるのだという。まるで、諒闇に歌舞音曲批判の再来である。
そのような時に、3月1日《「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議》発足集会は予定通り開催された。主催者が、「新型コロナウィルスの感染リスクに配慮し、当日の集会に関して細心の注意を払って実施いたします」と言ったとおりの配慮のもと、マスクや消毒薬・除菌テイッシュ、使い捨て手袋が用意され、マイクやドアノブ等の除菌も怠らなかった。
160人の参加者を得ただけでなく、内容の濃い元気の出る発足集会となった。この日発足した「市民会議」は、本日採択の声明のとおり、下記の運動を進める。
私たちは、日本政府に対し、ILO/ユネスコ勧告を遵守し、「国旗・国歌(日の丸・君が代)」の強制を直ちに中止することを強く求める。
今回のILO/ユネスコ勧告も指摘するように、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制は、民主主義社会とは相容れないものである。
日本政府にILO/ユネスコ勧告の遵守を求める私たちの運動は、「国旗・国歌(日の丸・君が代)」の強制に苦しむ教職員や「日の丸・君が代」に抵抗感を持つ者だけのものではない。多様性を尊重し、人間の尊厳と権利を大切にするすべての人々と手を携えていけるものと確信している。
力を結集して日本政府に勧告の実施を求めるため、本日、私たちは「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議を発足させた。
多くの皆様がこの市民会議に参加・協力してくださることを、心からお願いする。
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閉会の挨拶(澤藤統一郎)
本日の市民会議発足集会は、悪条件を押して開催いたしました。にもかかわらず、こんなにも多数の方々にご参集いただいたことを、心強く思います。励まされます。
思えば、「日の丸・君が代」強制との闘いは長くなりました。国旗国歌法の制定が1995年8月のこと。そして東京都教育委員会の悪名高い「10・23通達」発出が、2003年10月です。その直後に「予防訴訟」弁護団が結成され、これが懲戒処分の取消訴訟を任務とする東京「君が代」弁護団となって、併せて16年余の法廷闘争が継続しています。
教員も弁護団もこの間全力で活動を続けてきました。しかし、私たちは獲得目標としてきた、最高裁での違憲判断をいまだに勝ち得ていません。無念の極みと言うほかはありません。
問題は、《人権主体としての個人》と《権力主体としての国家》との対立です。そのいずれが憲法上の根源的価値であるか。どちらが、憲法価値として優越するのか。憲法の根幹をなす重大問題、それがこの事件において明確に、そして根源的に問われています。
国家よりも個人、権力よりも人権こそが優越することが当然ではありませんか。にもかかわらず、個人が国家の象徴に対して敬意を表明することを強制されることが許されようはずがない。個人の思想・良心という基本的人権を蹂躙する権力の行使が許されるはずはない。にもかかわらず、最高裁は「日の丸・君が代」強制を違憲とは判断していません。
もちろん、いまだ道半ばで闘いはこれからも続くのですが、違憲判断についてはやや手詰まりの感を否めません。そこに、ILO・ユネスコの勧告が出されてきました。これは一筋の光明にほかなりません。
最高裁も、国家が国民に国旗国歌の強制ができるとまでは言いません。国民ではなく、教育公務員には、職務命令を出すことができる。その教員に対する職務命令の内容として、「生徒に国旗国歌尊重の指導をせよ」と命ずることもできる。これに附随して、教員に対して「国旗に向かって起立し国歌を斉唱せよ」と命じることも違憲ではない。実害のない戒告処分であれば有効、と言うのです。
これに関して、ILO・ユネスコ勧告は、「消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰」は避けなければならない、としているのです。これが、国際的なスタンダードです。これが、世界の法常識なのです。私たちは、この勧告を活かして訴訟の手詰まり感を打開する努力をしたい。
もちろんそれだけではなく、政府に対して、自治体に対して、各地の教育委員会に対して、この勧告の完全実施を求めたい。そのためには、まずは、この勧告を日本の多くの人々に知っていただき、この勧告実施の世論をつくる必要があります。
「市民会議」は、その運動を担うために、本日発足しました。多くの人に訴え、メディアにも、行政にも、裁判所にも働きかける大きな運動の第一歩です。本日はその運動の出発にふさわしい充実した内容で、元気をいただきました。ありがとうございます。そして、今後とも、よろしくお願いします。
(2020年3月1日)
一昨日(2月27日)、安倍晋三が唐突に発表した、全国の小・中・高校などへの「臨時休校」の要請。案の定、全国の教育現場にも、家庭にも、親たちの職場にも大混乱を引き起こしている。のみならず、この過剰な政策は社会活動のあらゆる面に萎縮効果をもたらしている。これまでは政治に無関心であった国民も、消極的にもせよ自らも加担して、こんな人物を政権のトップに据え置いていたことを真摯に反省しなければならない。
驚くべきことは、この方策が「何の科学的根拠にも基づかない」「政治的判断」であり、しかも「安倍の独断」であったことである。一握りの安倍側近による判断であったことから、政権や与党の中枢からも批判や不満が噴き出しており、大手メディアが自信をもって、内幕を書いている。これはもはや、コロナ被害ではなく、アベ政治被害である。
われわれ自身の目と耳で直接確かめられることは、国会論戦における安倍答弁のいい加減さである。安倍晋三答弁の酷さは、「ご飯論法」として悪名高いものとなったが、さらに「桜論法」として悪質度は磨かれ、いまや「コロナ論法」として、完成の域に近づいている。常識的には「詰み」の局面でも、決して「まいった」とは言わない鉄面皮の答弁なのだ。
昨日(2月28日)の衆議院予算委員会での宮本徹議員(日本共産党)の質問は、安倍の愚策の根拠を鋭く追及した。政府は、休校の効果や影響について専門家会議に諮問していないことを挙げ、休校について専門家からは「あまり意味がない」「国民に負担を強いる」など苦言が相次いでいることを紹介し、唐突な全国一律休校要請の「エビデンス(根拠)はなにか」という追及である。以下は、その抜粋。
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宮本議員:25日に基本方針を発表した際は、学校の休校は感染の広がりに応じて都道府県で判断するということだった。ところが2日でその方針が変更された。感染者が確認されていない地域も多数あるが、なぜ全国一律(休校)に変えたのか。この判断変更の具体的なエビデンスについて伺いたい。
安倍首相:エビデンスは何かというご質問でございますが、専門家の意見を踏まえて、先日策定した「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」で示した通り、感染の流行を早期に収束させるためには、患者クラスターが次のクラスターを生み出すことを防止することが極めて重要であり、徹底した対策を講じるべきと考えております。
専門家の知見によれば、ここ1〜2週間が極めて重要な時期であり、先手先手の対応が求められる状況と認識しております。
このため昨日(27日)政府としては、何よりも子どもたちの健康・安全を第一に考え、多くの子どもたちや教職員が日常的に長時間集まることによる感染リスクにあらかじめ備える観点から、全国全ての小学校、中学校、高等学校、特別支援学校について、来週3月2日から春休みに入るまで臨時休業を行うよう要請したものであります。
宮本議員:ですから「この1〜2週間が大事だ、勝負だ」というのは、それを踏まえて25日の基本方針が出たわけじゃありませんか。2日間で方針を変更するほど重大な、何か我々に知らされていないエビデンスがあったのかを知りたい。
国民の中ではなにか起きているのではないかと不安が広がっている。オープンになっていない感染者の広がりがあるのではないか、あるいは原因のわからない肺炎患者がどんどん広がっているだとか、何らかのエビデンスがあって、この2日間で判断を変更したということなのか。
安倍首相:先程申し上げましたように、ここ1〜2週間が極めて重要という専門家のご指摘を頂いたところでございまして、その中においては先程申し上げましたように、多くの子供達が集まる教室、あるいは通学の途上が考えられるのではないか。こう思いますが、そういうリスクを減らし、新たなクラスターが発生することを、何よりも防がなければいけない。そのクラスターが子どもたちの中で生じることは防がなければならないと、こういうことでもあります。
我々はまさに先手、先手でやるべきであろうと今回は判断し、全国一律という判断をさせていただいたところでございます。まさに、この科学的、学術的な観点からは、詳細なエビデンスの蓄積が重要であることは言うまでもありませんが、1〜2週間という極めて切迫した時間的成約の中で、最後は政治が全責任を持って判断すべきものと考え、今回の決断を行ったところでございます。
宮本議員:「政治が判断したんだ」と。エビデンスについては中身の話が全くなかったわけでありますが。専門家会議を設けたわけじゃないですか。ところが報道を見ると、専門家会議での議論を踏まえたものじゃないんだ。政治判断だと言う話が、専門家会議のメンバーからもなされる状況。そして、専門家会議のメンバーの方々の言っていることもいろいろなわけです。(東北大の)押谷(仁)教授は「学校でクラスターが発生しないとは断言はできませんが、子供の感染例は中国でも非常に少なく、その可能性は低いです。一斉の学校閉鎖をすることは、全体の流れからするとあまり意味がない」と。あるいは岡部先生(川崎市健康安全研究所の岡部信彦所長)は「全国一律に小中高校の休校を要請するという、国民に大きな負担を強いる対策を、現時点ではとるべきではないと思う」と。
専門家会議の皆さんも、いまそういう対策がベストなのかと言ったらそうではないという意見もたくさん出ている。なぜ今回の判断をするにあたって専門家会議でしっかり議論されなかったのか。
安倍首相:これにつきましては、まさに専門会議においてここ1〜2週間が瀬戸際であり、正念場であるという判断がなされたわけでございまして。ここにおいて、1〜2週間において、いわば感染拡大を防止できるかということが問われていると。何をするかが問われているという判断をされた中において、そこでこちらが何をするかということでございます。そこでさまざまなご意見があることは承知をしているところでございます。その中において、我々はやはり子どもたちの健康と安全を守ることを最優先にしなければならない、こう考えたところでございます。
もちろん、いま委員が言われたように子どもの感染は少ないということをおっしゃったわけでございますが、これは少ないということは、子供に発生していないということではもちろんないわけでございます。事実、発症例も国内でもあるわけでございます。
つまり、それが広がってからでは我々は遅いと、こう考えたところでございまして。今回はこの1〜2週間こそが正念場であるという専門家の皆様のご意見を受け、そして政治的に、政治として判断をさせていただいたところでございます。
宮本議員:先程来「政治の判断だ」と繰り返されるわけですが、感染症対策ですから何よりも専門家の知見を大事にするのが政治の姿勢としても必要なことだと思いますよ。今回のこの対策が、社会の負担を上回るだけの効果が期待できるのかという声も上がっているわけであります。
学校は休校で保育園、学童保育は開くと、学童保育に子どもたちはたくさん集まると。そうすると感染拡大防止上それほど効果があるのかという声もあがっている。ちなみに、学童保育と比べて学校のほうが感染リスクが高い、低いという判断の根拠などはあるんですか。
安倍首相:学童保育と変わりがないのではないかという先程のご質問でございましたが、これはまさに学童保育が必要となるのは低学年の子どもたちなんだろうと思います。
そして、例えば福岡の例がございますが、市長からもお話を伺ったところでございます。まさに一律で対応しただいた場合は、教室として高学年の皆さんが使っている教室も(学童保育に)使う。あるいは学童保育的な形で学校でお預かりする人数もある程度限られるわけでございまして、一つ一つの教室についての子供の数は相当、通常の授業とは人数は圧倒的に少なくなるわけでございまして。学校の先生にも休業になる中でご協力を頂きながら対応していただくことができるのではないかと、そういう対応を行っていくというお話を伺っているところでございまして。そういう意味においては、違う対応が状況は違うといういうふうに、我々は考えているところでございます。
そこで法的根拠についてのご質問がございました。昨日の対策本部で決定した学校における全国一斉休校については、国としてここ1〜2週間が感染の拡大のスピードを抑制するために極めて重要な時期であるとの認識のもとおこなった要請であります。法的拘束力を有するものではないということでございます。
政府としては学校を設置する地方公共団体や学校法人等において、この要請を受けて子どもたちの健康、安全を確保する観点から検討し適切に対応していただくことを期待をしているところでございまして、要請であり法的拘束力を有するものではございません。
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お知らせ ー 3月1日《「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議》発足集会は、予定通り行います。
新型コロナウィルスの感染リスクに配慮し、当日の集会に関して細心の注意を払って実施いたします。ぜひご参集ください。
もっとも、発熱その他体調ご心配の方については、無理をなさらずに参加を見合わせくいただくようお願いします。
また、集会での発言予定者の中にも、参加見合わせとなる方が予想されます。当初予定よりも、集会規模は小さく、予定のプログラムも一部縮小になるかも知れません。予め、ご了解をお願いしておきたいと存じます。
なお、ご参加するにあたっては、できるだけ、マスクの着用をお願い致します。
主催者側では、除菌テイッシュ、手袋(使い捨て)を用意いたします。ドアノブ等の除菌にも努めます。ご協力よろしくお願いいたします。
「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議
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「3・1発足集会」の次第
日時 2020年3月1日(日曜日)
13時40分?16時40分(開場13時20分)
会場 日比谷図書文化館(B1) 日比谷コンベンションホール
東京都千代田区日比谷公園内
資料代 500円
主催「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議
あなたも運動サポーターに!
運動への協力金を
個人 1口500円 / 団体 1口1,000円(何口でも結構です)
郵便振替口座 番号00170?0?768037
「安達洋子」又は「アダチヨウコ」
(2020年2月29日)