澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「アベ政治を許さない」言い遺して兜太逝く

俳人金子兜太が亡くなった。最前線で戦争を体験し、それゆえに反戦・平和を訴え続けたかけがえのない人がまた一人この世を去った。

俳人としての兜太について述べる能力も資格も私にはない。正直なところ、前衛と言われる彼の句のリズムは門外漢の私には心地よいものではない。彼が批判してやまない「有季定型」こそが俳句だと、長く思いこんできた。「俳句はかく解しかく味う」で虚子が述べているようなものが俳句だと、身に染みこんでしまっているのだから。

また、兜太の死がかくも大きなトピックとされていることにやや意外の感がある。俳句がそんなにメジャーな文芸だったのか、とあらためて思いを新たにしてもいる。

この機に、兜太の句に目を通して見たいと思っていたところに、同じ本郷に住まいされる黒田杏子さんから2冊の書を頂戴した。

「存在者 金子兜太」(黒田杏子編著・2017年4月刊・藤原書店)
「語る 兜太 ― わが俳句人生」(2014年6月刊・著者金子兜太・聞き手黒田杏子・岩波書店)

前書に兜太自選の50句があり、後書に100句がある。もちろんその他に幾百の句の紹介がある。幾つかは誰にも知られている著名句だが、私には咀嚼も玩味もなかなかに容易ではない。

しかし、この相当に分厚い2冊の書物に表れている金子兜太の人物像や、天衣無縫な生き方はよく分かり、たいへんに魅力的でもある。「存在者」「荒凡夫」との自称もむべなるかな。

以下が、黒田杏子が綴り、兜太が「ああ、結構です。うまくまとめてくださった。ありがたい」と言った、兜太の人生の紹介。

「この9月23日に満95歳となる金子兜太さん。この日が遊行者一遍の忌日であることから、折々に「私は一遍さんの生まれ変わりかも知れませんな」などと言ったりもするユーモアの人だ。
東大経済学部を卒業して日銀に入行。しかし、終戦を南太平洋のトラック島で迎えた戦争体験が、山国秩父の医家の比較的恵まれた家庭に育ったこの人の土性骨となっている。日銀復職の日がかの2・1ゼネラルストライキの日だった。
祖国に生還した金子さんは、「非業の死者に酬いたい」という思いから、先輩、上司が「その活動は君の将来を閉ざす」と忠告するのを振り切って、日銀従業員組合の専従となる。そのために五十五歳定年の日まで、いわゆる昇進はなく、福島・神戸・長崎での地方転勤を終えて東京に戻ってからも窓際族ならぬ窓奥族のままだった。日銀金庫の鍵を預かる文字通りの「金庫番」で職業人の生活を終わっている。
 一方、在職中から前衛俳句の旗手としてもてはやされ、早くから「俳句専念」の人生を選択。同志と「海程」を創刊している。定年後の人生が40年となる現在も、俳句会の長老として旺盛な活動をつづけ、いまや国民的人気俳人となっている。
芭蕉よりも一茶に親しむこの巨人の生き方は痛快でもある。独自の長寿健康法「立禅」。権威や肩書、地に足の着かない理屈を排す生き方。憲法九条にこだわり、脱原発の立場と反戦の思想を貫きとおす姿勢は独自の俳句作品となり、就任以来30年近くにもなる「朝日俳壇」の選者としての選句・選評にもこの立場は明確に示されている。
俳句が国民文芸となり、HAIKUが世界語、地球語となっている今こそ、この行動する俳人、金子兜大の語る俳句人生に耳を傾けたい。」

そして、兜太は黒田にこう語ったという。
「金子兜太を支えてきたのは、培ったのは、《戦争体験》《職場での冷や飯》、そして《ある時期の俳壇の保守返りと金子抹殺の風潮》、この三つだっていうことをあんた憶えておいてくれよな」

《戦争体験》《職場での冷や飯》は、この2書に目を通せばよく分かる。もっとも、《俳壇の保守返りと金子抹殺》の方は俳壇の事情に疎い私には何ゆえ重要事なのか分かりにくい。

彼の反戦や平和・9条への思い、さらには沖縄や福島の被曝をわがこととする心情と叛骨の精神は、《戦争体験》と《職場での冷や飯》だけではなく、秩父という産土の土地柄にもあるようだ。

「存在者 金子兜太」の中に、中嶋鬼谷という俳人が、「侠気の系譜」という一文を寄せている。秩父困民党事件の蜂起に触れて、兜太の父、兜太、その弟の句を紹介している。

兜太の父・金子伊昔紅(医師・俳人)の句。
 栃餅や石間押し出す困民党 伊昔紅
秩父郡石間村は、戸数150の寒村。ここから、実に147名が押し出したという。

兜太自身の句。
 沢蟹・毛桃食い暗み立つ困民史 兜太
沢蟹も毛桃も、通常は口にするものではない。極貧の農民たちが、そのようなものを喰らいつつ、目を暗ませながら叛乱に立ち上がったという。

父の医業は兜太の弟の金子千侍が嗣いだ。父とともに「秩父の赤ひげ」と人望のあった人だったという。その人の句。
 風光る峠一揆も絹も越ゆ 千侍
この句は、歴史を包み込んで、明るく分かりやすい。

中嶋鬼谷は、この親子3人の心の底を流れているものを、「侠気(おとこぎ)」といっている。「侠気」とは、「強きをくじき弱きを助ける心だて」のこと。秩父困民党こそ、その最心だてのも顕著な表れであり、兜太の人生をつらぬいた叛骨の精神もこの秩父の気質を受け継いだ見事なものだったといえるだろう。

ところで、兜太によれば、句は自由でよい。季語がなくても、定型にこだわらずともよい。花鳥風月ではなく、国家でも社会でも、政権でも句になるのだ。

ならば、兜太の最高傑作は、
 「アベ政治を許さない」
に違いない。有季・定型からの破調著しいが、まぎれもなく民衆の心をつかんだ一句ではないか。これほど、民衆に親しまれ民衆を励ましたフレーズはない。この「句」は、その書体と相俟って、自由でのびのびとした、それでいて断固とした雰囲気を醸しだしている。

この兜太の遺志を体して、アベ政治を許さない行動をもっともっと大きくしたい。憲法を守り抜きたい。さらに、アベ政治を倒したあとも、アベ政治的なものへの抵抗を続けていきたいとつよく思う。

それが、二度と戦争を繰り返さないという願いを実現することであり、金子兜太への何よりの手向けとなるであろうから。
(2018年2月22日)

「官僚養成学校」の片隅にひっそりと咲いた叛骨の文化

63年入学の澤藤から、幹事の一人として、閉会の辞を申しあげます。
本日は、楽しく有意義な「Eクラス」合同同窓会の集いをもつことができました。お互い、元気な姿で集まることができたことを喜びた合いたいと思います。参加者は、51年入学組から67年組までの48名でした。

自分自身を形づくる時期を青春というのなら、まぎれもなく、ここ駒場に私たちの青春がありました。その青春の時期を想い起こすには、その場所に赴き、その時を共にした友人と語り合うこと。本日は、そのような機会であったと思います。その青春の時期に抱いた理想を想い起こすことは意味あることではないでしょうか。

51年入学の石川忠久さんの開会の辞の中に、当時の想い出として「血のメーデー」で警官に殴打されて負傷した同級生のお話しが出てきたことに驚きました。田仲一成さんのスピーチには大講堂での山村工作隊員募集の件もありました。その後に60年安保の時代があり、フランスの中国承認があって、米中の和解や日中国交回復が「Eクラス」の消長にも大きな影響を与えることになりました。

それぞれの時代の背景事情が、そのときどきの学生に大きなインパクトを与えてきました。その時代を超えて、私たちは、何を共通のバックボーンとしたのでしょうか。おそらくは、思想とか信条というものではなく、権勢にも多数派にもおもねることを潔しとしない心情とか感性であったような気がします。

それは富貴を求めず、名声や権力を指向しない生き方。叛骨・在野の精神を矜持としてもつ生き方の感性ではなかったかと思うのです。本日は、あらためて、そんなことを確認する機会ではなかったでしょうか。

また来年、集まりましょう。それまで健康にお気を付けてお過ごしください。

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本日(12月3日)は、恒例となった学生時代の同窓会。東大教養学部で第2外国語に中国語履修を選択した「Eクラス」の各期48名が参集して和気あいあいのうちに歓談した。度々の引用となるが、下記の詩のとおりである。

 同榜 同僚 同里の客
 班毛 素髪 華筵に入る
 三杯 耳熱くして歌声発す
 猶お喜ぶ 歓情の少年に似たるを

(註 「同榜」は合格掲示板に名を連ねた同窓の意。「素髪」は白髪頭。「班毛」はごま塩頭。いずれも老年を指す。「華筵」はにぎやかな饗宴のこと)

拙訳はころころ変わる。今は、こんなところ。

 口角に泡を飛ばしたあのころの
 古き友らと宴の席に
 飲んではしゃいで語って熱い
 おれもおまえも変わらない

教養学部のクラス編成は第2外国語の選択で編成されている。私が在籍した当時、文系の第2外国語は独・仏・中の3語だけ。ドイツ語の既修クラスがA、未習がB。フランス語既修がC、未習がD。そして、中国語が未習のみで「Eクラス」を作っていた。なお、理系には中国語はなく、ロシア語のFクラスがあった。1963年入学者のEクラス総勢は27名。ほぼ3000名の入学者の内、中国語を学ぼうという者は1%に満たなかったのだ。

当時中国語を学ぼうという学生の多くは、49年の中国革命に大きな関心をもつ者であった。かなりの部分がその思想や実践を肯定的にとらえていたと思う。もちろん、圧倒的な少数派。それに、工藤篁という特異なキャラクターをもつ教師の個性が加わって、「国家経営の官僚養成学校」の片隅に叛骨の文化がひっそりと咲いたのだ。あれ以来、少数派であり続けてきた思いがあるが、そのことに悔いはない。
(2017年12月3日)

100年前にロシア革命があった。

今年・2017年は、ロシア革命から100週年の年である。
その年の十月革命から内戦を経て1922年にソビエト連邦が成立した。各国からの干渉戦争を乗り越え、ナチスドイツとの大戦に勝利して、戦後はアメリカ合衆国と対峙する超大国として世界に君臨したが、結局は官僚独裁の弊によって1991年に崩壊した。崩壊はしたが、資本主義の矛盾を克服しようとする人類史上の壮大な試みとして、その意義を否定することはできない。

若いころの私には、マルクスもレーニンも毛沢東もそしてカストロも、輝く魅力にあふれる存在だった。社会主義陣営にこそヒューマニズムがあり未来があるものと感じていた。必ずや「東風が西風を圧する」ものと思いこんでもいた。

否応なく自分の身の回りに見える資本主義社会の矛盾は明らかだった。社会には大きな経済格差があり貧困があった。多くの人々が、低賃金や失業や生活の不安におののいていた。資本の利益に適うとされる限りで、人は人たるに値する処遇を期待することができるが、資本の利益に資することのないとされる人は、切り捨てられ見捨てられる。

人は、人として遇されるのではない。資本に利潤をもたらす労働力としてのみ価値あるものとされる。そのことを当然とし馴らされた国民が保守政党を支持することで、この国の政治が成り立っている。政党政治も民主主義も醜悪な欺瞞以外のなにものでもないと映った。

これに比較して、資本主義の矛盾を克服する試みとしての、社会主義の理念の正しさに疑いはなく、ソ連や中国の社会主義もまぶしいものに見えた。スターリンの粛正も、毛沢東の経済政策の失敗も、当時はよく知らなかった。あるいは、よく知ろうとはしなかったというべきだろう。結局は、ソ連や中国の実態に触れることのないままの観念的な思い込みに過ぎなかった。

中国はいち早く「改革開放」という名の資本主義化に舵を切り、さらにソ連が崩壊するに至って、社会主義の壮大な実験の失敗が明らかとなった。

現実の社会主義建設の試みは失敗したが、そのことによって、克服すべき資本主義の矛盾が解決されたわけではない。むしろ、競争者がなくなったことで、資本主義の傲りは著しいものになったと言えよう。

資本主義の矛盾への対処は、革命というドラスティックな処方が唯一のものではない。資本主義という猛獣を退治しようとしたのが社会主義革命だが、退治するのではなく、その牙を抜き訓育しようという種々の策が各国で試みられている。民主主義的政治原理で、経済の制度や運用をコントロールしようという試みといってよい。ここには、法や人権の観念が大きな役割を果たすことが期待されている。

資本主義の原初の姿が、搾取の容認であり競争の放任である。すべてを市場の原理に任せて良しとするのだ。その破綻は、既に誰の目にも明らかであって、資本の放縦への規制が必要なのだ。資本の行動に枠をはめ、まずは労働者の保護と公正な市場の管理が不可欠なのだ。そして、資本の回転の各過程で、下請け企業の保護や消費者の保護、環境の保護などが必要となる。

ところが、今また、規制を排し資本に無限の自由を与えようという、新自由主義の潮流がはびこっているではないか。労働者の使い捨ては容認され、格差はますます拡がり、貧困はさらに深刻の度を深めている。100年前のロシア革命は、「人間を大切した社会主義」の樹立に成功しなかったが、それに代わって眼前にあるのは「人間を大切にしない野放図な資本主義」である。

私は、人間の尊厳こそが最優先の価値と考える。民主々義的政治過程によって資本を規制することを通じて、「人間を大切にした節度ある社会」を目指したいと思う。ロシア革命は失敗したが、人類は資本主義の基本構造の変革という現実の選択肢をもっているとを示した点に、その意義を見出すべきだろう。
(2017年1月3日)

正月にめぐりあったお地蔵様に

関東は、暮れから新年の晴天に恵まれた。風は穏やかで、街の喧噪はない。夕暮れには、とびきり明るい宵の明星と三日月とのランデブーが目を楽しませている。暖かな、申し分のない「よいお正月」である。

この数日、あちこちを歩いている。空気はきれいで、路上に人が少ない。正月は、どこもかしこも、さわやかな散歩道だ。

街を歩くと、あらためて神社仏閣が目につく。大伽藍の神社や寺院も魅力的だが、路地裏の小さな社や石像にこころ惹かれる。中でも、目立つのが稲荷神社とお地蔵様だろう。稲荷神社は、江戸時代に伏見稲荷が全国に飛脚便を用いて、積極的に分霊・勧請を行ったと言われている。これが事実なら、画期的な神様の通信販売。何しろ、お稲荷様は、商売の神様。さもありなんと思わせる社の数である。「伊勢屋、稲荷に犬の糞」といわれたほどなのだ。

これに比して、お地蔵様の方には、慎ましやかな敬虔さがある。今日、瓦葺きのお堂に納められた単体の大きな地蔵菩薩にめぐり逢った。人気のない街はずれに、なにやら、かたじけなくもありがたい慈愛の雰囲気。そして、しばらく歩いて、お揃いの赤ずきんとよだれかけの六地蔵にもお目にかかった。

末法思想では、釈迦の入滅後56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうという。その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う役割を果たすのが、地蔵菩薩であるという。

また、十王思想(後世では十三王思想)というものがある。今日もらったパンフレットによると「地獄十王経」が出典とされる説明がなされている。かなり詳細なその記述を要約すれば、以下のようなもの。

人は死すると冥府の十王に裁きを受ける。初七日(死後7日目)から、七日ごとに各王にまみえて生前の罪業について審判を受け、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)のどこに転生するかについて宣告されることになる。その五・七日(死後35日目)にまみえなければならないのが、あの閻魔王である。実は、その閻魔王とは地蔵菩薩の化身なのだという。中世に一般化した本地垂迹説によれば、現世で衆生を救済する地蔵菩薩が本地で、死後の世界で人を弾劾する閻魔はその変化の姿なのだそうだ。

十王思想では、閻魔は裁判官役ではない。六道の転生先を決する処断者は、七・七日(死後49日目)の太山王であって、閻魔は主席検察官役と言ったところ。閻魔王庁には淨玻璃の鏡が置かれている。この鏡には亡者の生前の一挙手一投足が映し出されるという。そのため、閻魔の前ではいかなる隠し事もできないとされているのだ。事実上、ここで事実認定と罰条が決せられることになる。

六地蔵とは、いずれも地蔵菩薩の分身で、人が死後に送られた、地獄,畜生,餓鬼,修羅,人,天という六道のそれぞれにおいて,衆生救済のために配されものという。この各分身にも名がつけられており、檀陀,宝印,宝珠,持地,除蓋障,日光というのだそうだ。民間信仰や民間説話としての豊穣さがとても興味深い。

六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)の輪廻は、人々の願いでもあり、戒めでもあったろう。もう少しマシな人生をやり直すことや、あるいはそれ以上の仏の加護は苦しい現実に生きざるを得なかった多くの民衆の願いであったろう。善行を積むことによって人道や天道に転生が可能であるとの教えは救いであったろう。できることなら、人道や天道に転生するために、浄玻璃の鏡で暴かれるような悪行は慎もうと自戒したのだ。

しかし、凡夫はあくまでも凡夫である。浄玻璃の鏡に照らして一点の曇りもない人生を送ることなどは、現実にはなし得るところではない。しかも、戦乱や領主の収奪や洪水や飢饉など、自らの責めに帰すことのできない現実の不幸は無数にあった。

厳格な裁きの閻魔ではなく、救済の仏が求められたのだ。民衆の救済を求める心情が慈愛の地蔵菩薩の信仰を生んだに違いない。しかも、一体だけでは足りずとして、六道それぞれに配置するための六地蔵の変化としたのだ。天道や人道ではいず知らず、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道でこそ、救済の慈悲の仏が必要ではないか。まさしく、「地獄に仏」である。

地蔵の信仰を生み地蔵を祀ったのは、不幸を強いられた民衆の心情だった。日本中至る所に素朴な地蔵を造り、これを祀り続けてきたのも同じ民衆の心だ。私が今日出会ったお地蔵様も、そのように守り伝えられてきたものなのだ。

いまも、事情は大きくは変わらない。シリアやアフガンやガザなどには地獄道が展開されている。ブラック企業やアンフェアトレードの世界は餓鬼道というべきだろう。従軍慰安婦問題をもみ消そうという輩は畜生道に落ちねばならない。自・公・維などの改憲陣営は修羅道に生きる勢力である。

民主主義や立憲主義が行われべき人道、さらには誰もが豊かに、その尊厳が守られるべき天道(あるいは天上道、天界道とも)の世を実現したいと思う。

正月である。お地蔵様にはそのように願ったが、ただ微笑んでいるばかりだった。
(2017年1月2日)

明けましておめでとうございますー「目出度さもちう位也この春は」

あらたまの年の初めである。目出度くないはずはない。街は静かで人は穏やかである。誰もが、今年こそはという希望をもっている。欠乏や飢餓や恐怖は、見えるところにはない。が、その目出度さも、「ちう位」というしかない。

今年(2017年)の5月3日に、日本国憲法は施行70周年の記念日を迎える。この70年は、私の人生と重なる。振り返れば、その70年の過半は、希望とともにあった。漠然したものではあれ、昨日よりは今日、今日よりは明日が、よりよくなるという信念に支えられていた。「よりよくなる」とは、すべての人の生活が豊かになること、人が拘束から逃れて自由になること、そして貧困が克服されて格差のない平等が実現し、人が個性を育み自己実現ができること、その土台としての平和が保たれることであった。

敗戦ですべてを失った戦後の歩みは、平和を守りつつ豊かさを取り戻す過程であった。自由や平等や人権保障の不足は、「戦前の遅れた意識」のなせる業で、いずれは克服されるだろうと考えられていた。楽観的な未来像を描ける時代が長く続いた。しかし、明らかに今は違う。今日よりも明日がよりよくなり、上の世代よりも若い世代が、よりよい社会を享受するだろうとは思えない。いつから、どうしてこうなったのだろうか。

私が物心ついて以来、民主主義信仰というものがあった。戦前の誤りは、一握りの、皇族や軍部、藩閥政治家や財閥、大地主たちに政治をまかせていたからである。完全な普通選挙を実施したからには、同じ過ちが繰り返されるはずはない、というもの。天皇を頂点とする差別の構造も、官僚や資本の横暴も、民主主義の政治過程が深化する中でやがてはなくなる、そう考えていた。

しかし、経済格差のない男女平等の普通選挙制度が実現して久しい今も、多くの人が政権や天皇批判の言動を躊躇している。官僚や資本の横暴もなくなりそうもない。それどころか、平和さえ危うくなってきた。民主主義信仰は破綻した。少なくとも、懐疑なしに民主主義を語ることはできなくなった。

政治や制度が多数派国民の意思に支えられていることを民主主義と定義すれば、民主主義的な搾取や収奪の進行も、民主主義的な戦争もあり得るのだ。人種差別も思想差別も優生思想もなんでも「民主主義」とは両立する。トランプの登場やアベの政治は、そのことに警鐘を鳴らしている。

格差と貧困が拡がり深まる社会にあって、「お目出度とう」とは言いがたい。国民一人ひとりの尊厳が大切にされて、こころから「おめでとう」と言い合える、「ちう位」ではない目出度い正月をいつの日にかは迎えたいと思う。

立憲主義大嫌いのアベ政権である。今年の憲法記念日に、憲法施行70年を盛大に祝うとは到底思えない。このことは、一面「怪しからん」ことではあるが、権力によって嫌われる憲法の面目躍如でもある。日本国憲法は、政権から嫌われ、ないがしろにされ、改悪をたくらまれていればこそ、民衆の側が護るに値する憲法なのだ。

今年も、憲法改悪を阻止と、憲法の理念を実現する運動の進展を願う。その運動の進展自身が、民主主義を支える自立した市民を育むことになる。微力ではあるが、当ブログもその運動の一翼を担いたいと思う。
(2017年1月1日・元旦)

2017年「友愛政治塾」を開催しますー〈友愛を心に活憲を!〉をモットーに

友愛政治塾は、〈友愛を心に活憲を!〉をモットーに、季刊『フラタニティ』の執筆者を講師に招き、それぞれの専門領域での最新の知識を学ぶ場として開設されます。講師団と塾生によるシンクタンク=知的拠点としても活動し、時には講師団全員の賛同を得たうえで政策的提言を発することもあります。
私も、講師を担当いたします。ぜひご参加ください。

塾長:西川伸一 (明治大学教授)
開講場所 東京都内
第3日曜日午後
☆時間配分 午後1時20分から 講義:90分  質疑討論:70分
☆講師は確定。テーマと開講日は変更の可能性あり。
☆12月は番外、望年会も、自由参加。
☆受講料 通し1万円
単回は無し(途中からは別途割引)
登録受講者が欠席の場合にはその友人が1人出席可能。
受講手続き:事前申込必要→入金
主催:友愛政治塾? Fraternity School of Politics
事務局:村岡到
連絡先住所:〒113-0033? 東京都文京区本郷2-6-11-301
ロゴスの会   TEL:03-5840-8525
Mail : logos.sya@gmail.com
郵便口座:00180-3-767282 友愛政治塾

2017年の講師団 (講義順)
西川伸一  明治大学教授
進藤榮一  筑波大学名誉教授
下斗米伸夫 法政大学教授
松竹伸幸  かもがわ出版編集長
丹羽宇一郎 元駐中国大使
伊波洋一  参議院議員
澤藤統一郎 弁護士
浅野純次  石橋湛山記念財団理事
岡田 充  共同通信客員論説委員
孫崎 享  東アジア共同体研究所所長
村岡 到  『フラタニティ』編集長
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2017年日程
? 1月22日(日)
西川伸一 明治大学教授 自民党の特徴と安倍政権
安倍晋三首相は繰り返し「憲法改正は自民党の党是」だと主張しているが、本当なのか。自民党史やこれまでの自民党大会の決議ではどのように書かれているのか。自民党の特質と安倍政権の特徴を明らかにする。

? 2月19日(日)
進藤榮一 筑波大学名誉教授 アジア力が開く新世紀
中国は今やGDPでアメリカに次ぐ第二位で第三位の日本の二倍となっている。アジア諸国の経済成長も目覚ましい。〈アジア力〉の台頭は、400年に渡る近代を超える世紀を切り開きつつある。この現実を直視する。

? 3月19日(日)
下斗米伸夫 法政大学教授 ロシア革命と宗教(古儀式派の存在)
ロシア革命100年を迎えた。「宗教はアヘンだ」という教条に災いされて知られることがなかったが、実はロシア革命には「古儀式派」という宗教の流れが連綿として強く作用していた。政治と歴史にどう影響したのか。

? 4月16日(日)
松竹伸幸 かもがわ出版編集長 日本会議をいかに批判すべきか
近年の日本政治の危険な右傾化の陰で強い影響を発揮している右翼勢力=日本会議への批判はどうあるべきか。単に彼らの「欠点」を暴くだけではない、柔軟で包摂的な批判こそが強く求められている。

? 5月21日(日)
丹羽宇一郎 元駐中国大使 日本と中国の友好外交の道
「中国の脅威」がしきりに煽られているが、14億人の中国の歴史と現状を知らなくてはならない。そして、動かすことのできない隣国とどのように付き合うことが求められているのか。友好外交の道を探る。

? 6月18日(日)
伊波洋一 参議院議員 沖縄の歴史的位置と課題
第二次世界大戦での日本の敗北のなかで、米軍基地の理不尽な押し付けは、どうして生じたのか。琉球王国いらいの沖縄の歴史を捉え返し、沖縄がどのように苦しんできたのか、その理解に踏まえてあるべき姿を展望する。

? 7月16日(日)
澤藤統一郎 弁護士 言論の自由の時代状況
そもそも言論の自由とはどのような権利なのか。今、日本の言論の自由はどのような状態ににあるのか。DHCから6000万円請求のスラップ訴訟被告とされた体験を通じて、「表現の自由」の本質を再確認しつつ、言論封殺の圧力に抗する方法について論じる。

? 9月17日(日)
浅野純次 石橋湛山記念財団理事 マスコミの影響力と責任
マスコミは「第四の権力」といわれ、現代の政治を動かす大きな要因となっている。日本の現在のマスコミはどうなっているのか。市民の立場に立った情報源として有効に機能しているのか。その責任を問う。

? 10月15日(日)
岡田 充 共同通信客員論説委員 日本・中国・台湾はどうなる
日中関係はどうなっているのか。実は台湾も視野に入れて総体的な関係を掴まなくてはならない。台湾の政治はどうなっているのか。マスコミの視野からは抜け落ちる諸関係を歴史的に明らかにする。

? 11月19日(日)
孫崎 享 東アジア共同体研究所所長 日米関係の深層
「アメリカが日本を守っている」──多くの日本人がそう思っているが、本当なのか。真実は一つ。アメリカには日本を防衛する義務はない。敗戦後に作られた〈対米従属〉の分厚い壁からどうしたら脱却できるのか。

番外 12月17日(日)(自由参加)
村岡 到 『フラタニティ』編集長 日本左翼運動の軌跡と意味

左翼は依然として小さな勢力に留まっている。政治を動かす大きな力になれないのは何故なのか。新左翼として生きてきた自らの体験に踏まえて戦後左翼の歩みをふりかえり、その根本的欠陥・弱点を抉り出す。
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よびかけ
日本も世界も不安定さを増しつつ大きく変化しています。日本では、昨年(2015年)9月に安保法制が違憲であることが明確であるにもかかわらず強行採決され、今年(16年)7月の参院選の結果、民意を歪曲する選挙制度も作用して壊憲を進める自民党など与党勢力が総議席の3分の2を超えました。経済では、非正規労働者がほぼ2000万人で被雇用者の約40%に増え、子どもの6人に1人が貧困家庭となる深刻な〈格差社会〉となっています。また、福島原発事故の深刻な実害や今後の災害の可能性を顧慮することなく、原発の再稼働が進んでいます。〈脱原発〉も最重要な課題です。
世界では中国がGDPでアメリカに次ぐ第2位で、第3位の日本のほぼ2倍へと大きく成長し、アジア各国の成長も著しく、アジアの世紀が到来すると言われています。アメリカの衰退は不可避です。戦後の日本を一貫する〈対米従属〉から脱却し、友好と平和の創造をめざす〈東アジア共同体〉を展望しなくてはなりません。
森羅万象と言われるように複雑さを増し、その事象が瞬時に目の前に伝達される情報革命の進展のなかで、日本政治の劣化は著しく、基礎的な認識の獲得がいっそう求められています。
友愛政治塾は、〈友愛を心に活憲を!〉をモットーに、季刊『フラタニティ』の執筆者を講師に招き、それぞれの専門領域での最新の知識を学ぶ場として開設されます。講師団と塾生によるシンクタンク=知的拠点としても活動し、時には講師団全員の賛同を得たうえで政策的提言を発することもあります。
ぜひご参加ください。

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本日は、フラタニティの編集会議。その席上、ハーグ陸戦条約(正確には、「陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約」及び條約附屬書である「陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則」。1899年採択、1907年改定。日本は1911年に批准)が話題になった。伊波洋一さんが、参議院議員として有する国政調査権を行使して、米軍の沖縄に対する違法行為を洗い出す構想を持っているのだそうだ。

なるほど、ハーグ陸戦条約は戦時国際法として、戦争そのものを止められないとしても、無用の殺傷や戦争被害を最小限にすることを交戦当事国の義務としている。これに照らして、米軍が戦時中に行ったこと、占領中に行ったことの違法の有無を点検することは、今につながる意義のあることであろう。

同条約から、関係あると思われる条文を抜き出してみた。(なお、訳文はネットに掲載されている神川彦松,横田喜三郎共編『国際条約集』を適宜補い句読点を加えた。)
「陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約」
第三條 前記規則(各締約国が国内法化した本条約に適合する訓令)ノ條項ニ違反シタル交戰當事者ハ、損害アルトキハ之カ賠償ノ責ヲ負フヘキモノトス。交戰當事者ハ、其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行爲ニ付責任ヲ負フ。

「陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則」(條約附屬書)
第二款 戰闘
第一章 害敵手段、攻圍及砲撃
第二二條 交戰者ハ、害敵手段ノ選擇ニ付無制限ノ權利ヲ有スルモノニ非ス。
第二三條 特ニ禁止スルモノ左ノ如シ。
イ 毒又ハ毒ヲ施シタル兵器ヲ使用スルコト
ロ 敵國又ハ敵軍ニ屬スル者ヲ背信ノ行爲ヲ以テ殺傷スルコト
ハ 兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段盡キテ降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト
ニ 助命セサルコトヲ宣言スルコト
ホ 不必要ノ苦痛ヲ與フヘキ兵器、投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト
ト 戰争ノ必要上萬已ヲ得サル場合ヲ除クノ外敵ノ財産ヲ破壊シ又ハ押収スルコト
第二五條 防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段ニ依ルモ之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス。
第二七條 攻撃及砲撃ヲ爲スニ當リテハ、宗教、技藝、學術及慈善ノ用ニ供セラルル建物、歴史上ノ記念建造物、病院竝病者及傷者ノ収容所ハ同時ニ軍事上ノ目的ニ使用セラレサル限之ヲシテ成ルヘク損害ヲ免レシムル爲必要ナル一切ノ手段ヲ執ルヘキモノトス。
第二八條 都市其ノ他ノ地域ハ、突撃ヲ以テ攻取シタル場合ト雖、之ヲ略奪ニ委スルコトヲ得ス。

第三款 敵國ノ領土ニ於ケル軍ノ權力
第四三條 國ノ權力カ事實上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶對的ノ支障ナキ限占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ囘復確保スル爲施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ盡スヘシ。
第四六條 家ノ名譽及權利、個人ノ生命、私有財産竝宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ之ヲ尊重スヘシ。
私有財産ハ之ヲ没収スルコトヲ得ス。
第四七條 掠奪ハ之ヲ嚴禁ス。
第五五條 占領國ハ敵國ニ屬シ且占領地ニ在ル公共建物・不動産・森林及農場ニ付テハ其ノ管理者及用益權者タルニ過キサルモノナリト考慮シ、右財産ノ基本ヲ保護シ且用益權ノ法則ニ依リテ之ヲ管理スヘシ。

日本の皇軍が占領地で行った無法ぶりを免責することができないことは当然としても、そのことが米軍の行為を正当化することにはならない。「銃剣とブルドーザー」で、島民の土地を強奪する行為が違法であることは明らかではないか。伊波さんには、頑張っていただき成果をあげていただきたい。
(2016年12月17日)

維新の、おまえも相当のワルよのう。いや、自民の親分ほどではおまへん。

自民の親分。目出度いことでおますな。いよいよ、ワイら極道の時代の幕開けやおまへんか。

おう。維新の代貸しか。まだ、はしゃぐのは早い。世間の目は冷たいぞ。もう少し、目立たぬようにしておかんと、世論という化け物に足をすくわれかねん。用心に越したことはない。

せやけど、嬉しゅうてなりませんのや。このところ、やることなすことうまく行かんで、頭を抱えていたとこでんねん。そこに久々の朗報や。賭場開帳のお墨付きに、地元の極道や博徒の連中は大喜びでっせ。

そんなにはやまってはいかん。はやまってはいかんが、ここまで来たからにはもう一押しで大丈夫だろう。あんたのところには、ずいぶん貸しを作ったことを憶えておいてもらおう。

そら、よう分かってまんがな。せやけど、貸し借りはお互いさまでっせ。ウチの組の力あっての法案通過やおまへんか。親分のところも、これで大儲け間違いなしや。

こんな修羅場には、公明の組がどうもたよりにならん。法案賛成なのか反対なのかふらふらしおって、最後は自主投票だと。結局は敵前逃亡じゃないか。

そやさかい、これからは、ウチの組ともっと仲ようしてもらいまひょ。選挙のときには、持ちつ持たれつということであんじょうたのんまっせ。

とはいうものの、あっちの組を袖にするのも痛し痒しだ。仁義と任侠のこの業界、世話になった分だけ、きっちりと借りは返すということは心がけんとな。

親分、意外にソロバンお上手やな。今回はウチと組んだが、明日以後は公明の組との天秤というわけやな。そない、ホンネを言うてもろうた方が話が早い。

腹を割って話せば、そのとおり天秤さ。政権与党の旨味を分けてやれるのがウチの組の強みだ。すり寄って尻尾を振ってくれる方が可愛いのは当たり前だろう。

親分とこの悲願は憲法改正や。公明は、支持者との関係で、なかなか改憲には踏んぎれへん。そこいくと、ウチの組は憲法改正にたいしたアレルギーはおまへん。儲かりさえすれば取引可能や。防衛予算拡大も、教育基本法再改正も、TPPも、福祉の削減も取引材料や。沖縄基地建設強行も結構でっせ。一緒になって、「土人」の反対を潰しまひょ。

そいつぁ心強い。その言葉は、公明の組で番を張っている幹部連中によく聞かせてやろう。そうすりゃあ、あっちも背に腹は代えられないところだろう。

せやけど、今回は親分よう決断しやはりましたなぁ。アッという間の、委員会採決。腹をくくらにゃ、なかなかできることではおまへんで。

そうよ。反対運動が盛りあがらないうちの手際のよい採決。もうすぐ12月8日だが、あの奇襲作戦を真似たのさ。卑怯と言われようとも勝てば官軍。法案通しての政権与党だ。

審議たったの6時間での委員会採決やから、ホンマにあっという間でんな。見事なもんや。たいした強行採決や。

おや、口は謹んでもらいたい。うちの組は、これまで強行採決など一度もしたことはなく、考えたこともない。

よう言わはるね。その辺のシンゾウがたいしたもんや。

世の中、甘くはない。刑法は賭博を禁じているし、最高裁判例も賭博がなぜ犯罪かの理由を詳しく述べている。そんな時代を終わらせて、俺たち極道が堂々と賭場を開帳できる時代がようやく来ようとしている。

ありがたいのは、マスコミの反対理由や。「景気や雇用回復に役立つのか」「反社会的勢力に利用されないか」「治安が悪化しないか」というレベルの疑問の提示で、賭博そのもの絶対悪だと切り込んでいないことや。

そうよ。そんな程度の懸念ならいくらでもごまかしが可能だ。世間の関心は何よりも景気回復だ。儲かりさえすればなんだってよいというのが、資本主義じゃないか。どうしてこんな当たり前のことが、頭の固い連中には分からないのかね。

アメリカでも、ヨーロッパでも、きれいごとを言ってる連中は、このごろ顔色おまへんな。橋下徹の登場にしても、アベ政権にしても、日本はドゥテルテやトランプの先を行っていたわけや。

「賭博は何も生まない。お互いが、他人の損を自分の利得にしようと争うだけのもの」というのは、見方が浅いな。何よりも、莫大がカネが動くという経済効果が大きい。賭場は儲かる。利権のあるところ、政治家のフトコロにも大金がはいる。結構なことではないか。

賭博は人の本能に根ざしているんや。これを封じ込めてはあかん。無理はアカンのや。

「日本のギャンブル依存症患者は海外と比べても多い」とか、「厚生労働省研究班の調査では、依存症が疑われる成人は全体の5%弱の536万人と推計される」とか言われているが、これは自己責任。どんな政策にも、光だけでなく影もあるさ。

せやせや、そのとおり。うちの組は、何が何でも25年大阪万博誘致で大儲けをしたいんや。万博候補地の人工島にカジノは不可欠や。そのための、親分への貸しや。この思惑で、政治資金もたんまり期待できる。ウチの組と親分のとこが組めば、なんでもできる。数は力や。力はカネや。

維新の、おまえも相当のワルよのう。

いやいや、とうてい自民の親分ほどではおまへんで。
(2016年12月3日)

「川柳子愚かな総理で秀句詠み」

川柳こそは、庶民の文芸である。句形以外になんの作法もお約束もない。「俳句はかく解しかく味わう」(虚子)という著作はあっても、「川柳はかく解しかく味わう」はない。誰もが、なんの制約もなく自由に作れる。自由に解釈すればよい。時流に迎合の句も川柳ではあるが、庶民の文芸であるからには反骨の精神あってこその川柳。

朝日川柳欄は、時事ネタに強い。ここ数日のアベ・トランプ会談ネタ。さすがである。「得々と解説するは野暮と知り」であるので、コメントはやめて、同工異曲の一句を付けてみた。

まず確認あなた狸でぼく狐(宮城県 猪又義記)
「まず敬意虎に尾を振るキツネかな」

ハウアーユーそんな程度のことでした(神奈川県 吉井信之)
「ハウアーユーそんな程度に公費出し」

さまでして地球の裏に駆けつける(宮城県 河村麦丸)
「遺伝子に参勤交代朝貢癖」

駆けつけて警護するんだTPP(東京都 三神直)
「かいもなく煙と消えそなTPP」

何となく気が合いそうに見え怖し(埼玉県 忍足ミツ子)
「差別と排外の価値観を同じくし」

この二人強き昔を恋しがり(神奈川県 大坪智)
「強がるは弱き本性隠すため」

なお、駆けつけ警護ネタでは。
武器使用 相手も武器を使用する(東京都 後藤克好)
「武器使用血も流れます死にもする」

操りの案山子(かかし)が似合う稲田かな(神奈川県 高山哲夫)
「つけマツゲみだれ髪異様な閲兵式」

毎日の万能川柳には、時事ネタが少ない。それでも、最近はアベネタが結構多くなっている。こちらも結構ぴりっと辛い。最近の数句。

投書欄見てたら誤字か安倍総統 神戸 酒みちる
「さもあらん立法府の長だもの」

あの人は話が長く語彙不足 宝塚 忠公
「英霊の御霊に捧ぐ誠なり」

米英も政治家てのは変な人 倉敷 中路修平
「変な人政権握って迷惑人」

能力はないが権力ある不思議 大阪 佐伯弘史
「無能者に権力与える民主主義」

官邸にとっちゃ騒音民の声 神奈川 荒川淳
「トランプタワーの二人防音でハーワーユー」

総裁の任期延長やな予感 町田 岡良
「まず憲法の延長確認せい」

戦争を心配してる万柳欄 龍ケ崎 おまめ
「万柳欄?戦争?心配?わしゃ知らん」

国民の皆さんという大雑把 浜松 よんぼ
「皆さんにいつも私は員数外」

自治会長まずは組閣をすると云う 東京 小把瑠都
「クラス会自治会並みのアベ政権」

ついでに、あと幾つか自作を。
「川柳子愚かな総理で秀句詠み」
「アベ総理毎日時事ネタ提供し」なのである。
しかし、川柳子には言っておきたい。
「よいネタと煽るべからずアベ暴走」

さらにおまけ。
「トランプの娘と婿は知る秘密」
「日本人総理と通訳だけが知り」
「アメリカはファミリービジネスカントリー」
「新王朝発足北朝鮮と合衆国」

最後に今日にちなんだ一句。
「立憲主義の月命日や19日」である。
(2016年11月19日)

「へそまがり宣言」

有史以来連綿として、一つの妖怪が我が物顔に日本の社会を徘徊している。最近、むやみにその妖怪の威勢がよい。――妖怪の名は「同調圧力」。この妖怪、別名を「長いものには巻かれろ」「出る釘は打たれる」とも言う。「附和雷同」「寄らば大樹」「地頭には勝てぬ」「ご無理ごもっとも」などという渾名もある。この妖怪は毒気を撒き散らし、その毒気は空気感染する。多くの人をして「みんなと同じでなければ、生き苦しい」「はみ出すのは恐い」「ボッチは耐えられない」「イジメを傍観できなければ、イジめる側に付かざるをえない」と思わせている。

日本のあらゆる支配構造が、この妖怪との神聖な同盟をむすんでいる。政治・経済・教育・メディア・学問、どの分野においてもだ。アベ政権、自民党、象徴天皇制、神社庁、日本経団連、NHK、新聞協会、民放連、JOC、教育委員会、PTA、学級、町内会…、いずれもこの妖怪と結び、この妖怪に生け贄を差し出して見返りに与っている。

現代の日本において、およそこの妖怪の毒牙による被害を被らなかった者がどこにいるだろうか。この「妖怪・同調圧力」は理性や知性を目の仇として忌み嫌う。自立した個人の敵であり、民主主義の攪乱者であって、全体主義の温床にほかならない。

これまでの日本社会の歴史は、多数派による少数派に対する同調圧力に、少数の側が果敢と異を唱え困難な抵抗を試みた闘争に彩られている。多くの場合、少数派はあえなく敗れている。もともと、闘い我に利非ずなのだ。

多数派とは、現体制であり、現体制を支えるイデオロギーの担い手である。多数派に与していることは、安全で安心であって、多数派との角逐は面倒であるだけでなく、常に孤立と排斥の危険を背負い込むことになる。だから、学校も家庭も子どもに対しては、「素直に大勢に順応せよ」「現行の秩序に波を立てるな」「和を以て貴しとせよ」「敢えて強者に逆らうな」と教えこむのだ。「社会を変えようなどと不埒なことを考えず、おまえこそ社会が望む人間になれ」というのが、「妖怪・同調圧力」がもたらした恐るべき害毒の惨状だ。

多数派との対決を敢えて辞さない社会的少数者の闘いのあり方に2種類がある。ひとつは、今は少数でも明日の多数派を目指す組織的な運動。言論の自由市場において、多数派と対峙して、市場の勝利をおさめようというこれが正統派。政党を作り、民衆を説得し、選挙に訴え、やがては自らが多数派になろうという積極的で生産的な日向の存在。

もう一つ日陰の存在がある。そもそも将来の多数派形成を意識することなく、現多数派の非を徹底的に攻撃しようという立場だ。その言論が、自らが多数になるのに有効か否かを斟酌しない。この立場を「へそまがり」という。

へそまがりは、自分の言論が社会にどう受け容れられるかを斟酌しない。ひたすら正論を吐き続けることで、「妖怪・同調圧力」と対峙する。勝てる見込みがあるかどうかは、視野の内にない。青くさい、へんくつ、などの陰口を意に介さない。

へそまがりは、徒党を組まない。孤立を恐れない。そして、へそまがりは、けっして社会におもねらない。どんな権威も認めない。権力には徹底して抗う。それなくして、「妖怪・同調圧力」と対峙する方法はないものと信じるが故だ。

へそまがりはけっして天皇の権威を認めない。天皇についての敬語一切を拒否する。元号での表記は絶対にしない。天皇の就位から歳を数え始めるなんて、まっぴらご免。「日の丸」にも「君が代」にも敬意を表しない。
へそまがりは、「民主的な手続」で選定された政権や知事を大いに嗤う。アベ政権も、小池百合子都政も徹底して批判する。
へそまがりは、ナショナリズムを拒否する。オリンピックはうんざりだ。感動の押し売りはいい加減にしてもらいたい。

へそまがりは孤独であるが、孤独恐るるに足りず。国家にも、資本にも、天皇制にも、メディアにも、町内会にもなびかない「へそまがり」バンザイ。

そう、自分に言い聞かせて、「へそまがり宣言」とする。ことの性質上、けっして宣言への賛同も同調も求めない。ひとり、へそまがり精神を貫徹するのみ。
(2016年8月17日)

ニントク君の回想ーボクって何者? ボクってなんの役に立っている?

畏くも、第16代の天皇となられたオホサザキノミコトに「仁徳」の諡が献じられています。「仁」とは為政者としての最高の徳目ですから、この天皇こそが古代日本の帝王の理想像なのであります。

その仁政を象徴するものが、「民の竈は賑わいにけり」という、あのありがたくもかたじけない逸話でございます。あらためて申しあげるまでもないのですが、あらまし次のような次第でございます。

ある日、ミカドは難波高津宮の高殿から、下々の家々をご覧になられたのです。賢明なミカドは、ハタと気が付きました。ちょうど夕餉間近の頃合いだというのに、家々からは少しも煙が上がっていないのです。慈悲に厚いミカドは、こう仰せられました。

「下々のかまどより煙がたちのぼらないのは貧しさゆえであろう。とても税を取るなどできることではない」

こうして3年もの長きの間、税の免除が続きました。そのため、宮殿は荒れはてて屋根が破れ雨漏りがするようなことにもなりました。それでもミカドはじっと我慢をなさいました。

そして、時を経てミカドが再び高殿から下々の家々をご覧あそばすと、今度は家々の竈から、盛んに煙の立ちのぼるのが見えたのでございます。

ミカドは喜んで、こう詠われました。
高き屋に登りて見れば煙立つ民の竈はにぎはひにけり

こののちようやく、ミカドは民草が税を納めることをお許しになり、宮殿の造営なども行われるようになったのです。なんと下々にありがたい思し召しをされる慈悲深いミカドでいらっしゃることでしょう。

これが、天皇親政の理想の姿なのでございます。何よりも下々を思いやり、下々の身になって、その暮らしが成り立つことを第一にお考えになる、これが我が国の伝統である天皇の御代の本来の姿なのでございます。消費増税によって、民の竈を冷え込ませようというアベ政権には、仁徳天皇の爪の垢でも呑ませてあげようではありませんか。

でも、この話には、いろいろとウラがございます。仁徳ことオホサザキノミコトご自身が、のちに次のような回想をしていらっしゃいます。ここだけの話しとして、お聞きください。

ボクって、天皇職に就職して以来、下々の生活なんかにゼーンゼン関心なかったの。何に関心あったかって。不倫。一にも二にも不倫。二股、三股。もっともっと。ボクって美女に目がないの。古事記にも恐妻の目を逃れての好色ぶりが描かれているけれど、まあ、あれは遠慮して書いてあの程度のこと。ホントはもっと凄かった。で、不倫って結構金がかかるんだ。それでもって、使い込んで…。結局民の竈の煙が立たなくなっちゃったんだ。

ある日、ハタと気が付いたのは、竈からの煙がなくなったってことじゃないの。毎日、上から目線で見慣れた景色だから、竈の煙が薄くなり消えそうになっているのは、前から分かってた。

でも、ある日気が付いたんだ。このままだと、下々から税を取ろうにもとれなくなるんじゃないか、って。竈から煙が立たないって、民草は飢餓状態じゃん。これまで天皇や豪族が民草を「大御宝」なんて言って大切にしてきたのは、ここからしか税の出所がないからさ。文字どおり金の卵を産み続けるニワトリだからなの。その民草が飢えて死にそうじゃ、税も取れなくなっちゃうじゃん。税が取れなきゃ、ボクの不倫経費も捻出できない。

もう一つ気が付いたのは、少し恐ろしいことになっているんじゃないかってこと。これまでは、下々や民草は、絞ればおとなしく言われたとおりに税を払うと思っていた。だけど、竈に煙も立たない状態となると、窮鼠となって反抗しないだろうか。考えてみれば、ボクと下々の格差はすさまじい。民草が怒っても、当然といえば当然。捨て鉢で、宮殿に火を付けたりしないだろうか。テロられることにはならないだろうか。

それで、方針を変えてみたんだ。金の卵を産むニワトリがやせ細ってきたのだから、しばらく卵をとるのは我慢して、ニワトリを太らせなくっちゃ。そして、よい王様を演出して、下々から攻撃されないよう安全を確保しなくっちゃということ。宮殿が荒れ果てたって雨漏りしたって、火を付けられるよりはずっとマシ。

こうして、税を取らないことにしたんだけど、誰でも思うよね。その間、何をしていたのかってね。もちろん、不倫はどうしてもやめられなかった。でも、相当に努力はしたんだ。不倫相手の数も減らして、出費も縮小した。そうして蓄えを少しずつなし崩しに減らしていった。とうとう金庫が底を突いたから、もう一度高殿に登って、「民の竈はにぎはひにけり」ってやったんだ。ニワトリは、もう十分に太った頃だろうからね。この程度で「仁政」だの「聖帝」だのといわれているんだから、ま、楽な商売。

でも、ここからは真面目な話し。この件のあと、いったいボクってなんだろう、天皇ってなんだろう、って真剣に悩むようになった。ボクが税をとっているから、その分民が貧しくなる。3年でなく、ずっと税を取らなけりゃ、民の竈はもっもっと賑やかになるはず。ボクって、実はなんの役にも立っていないことに気が付いたんだ。おとなしい民草から、税を取り立てるだけのボク。自分じゃ働かず、人の働きの成果をむさぼっているだけのボク。いてもいなくてもよいボク。いや、不倫の費用分だけ、いない方がみんなのためになるボク。こんなボクって、いったい何なのだろう。

ちょっぴりだけど反省して、河川の改修や灌漑工事など公共工事なんかやってみた。やってみるったって、「よきにはからえ」って言うだけだけど。それが、記紀に善政として出ている。せめてもの罪滅ぼし。それでも、不倫は生涯やめられそうにない。
(2016年2月27日)

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