澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

8月、タブーなく戦争責任と憲法の平和主義を語ろう

8月になった。深く戦争の記憶を想起し、平和への決意を新たにするとき。そして、憲法の平和主義を再確認するときでもある。

68年前の8月、我が国は「無謀な侵略戦争」に敗れて無条件降伏をした。その悲惨な国民的共通体験から、我が国は再生した。新しい国の形「日本国憲法」は、侵略戦争の反省から生まれ、日本国憲法は「平和憲法」として特徴づけられることになった。再び、戦争の加害者にも被害者にもなるまい。その決意が、憲法の前文と第9条に結実している。

「敗戦」は、疲弊し尽くした国民には「終戦」の実感であったろう。しかし、近隣被侵略国の民衆の被害の規模の大きさ深刻さは我が国を遙かに超えるものであった。反省すべきは、「勝てなかったこと」ではなく、「戦争を起こしたこと」「戦争を防止しえなかったこと」である。さらに、「戦争の原因や責任の所在を明確にしたか。自らの手で戦争責任を追求したか」が付け加わる。

敗戦の惨禍の中から新しい日本が蘇生するためには、戦争原因の明確化と、戦争責任の追求が不可欠であった。その努力が十分であったか否かが、今なお、問われ続けている。歴史の客観的な把握を妨げている最大のものは、天皇批判のタブーである。

降伏勧奨のポツダム宣言全13か条が日本に向けて発せられたのは7月26日。既にイタリアもドイツも降伏しており、誰の目にも日本の敗戦が必至な時期であった。しかし、その受諾は8月14日まで遅延した。よく知られているとおり、天皇(裕仁)自身が国体の護持にこだわったからである。この間に、広島・長崎の悲劇が生じ、ソ連の参戦を迎えた。8月12日の時点でなお「国体護持ができなければ、戦争を継続するか」という朝香宮鳩彦の質問に対して、天皇は「勿論だ」と答えている(昭和天皇独白録)。愚かな最高指導者が我が身可愛さの余り降伏に逡巡している間に、何10万もの尊い命が奪われたのだ。その反省を彼の口から聞く機会はなかった。

戦争責任は、いろんなレベルで考えられる。戦争を主導した者、積極的に加担した者、消極的加担者、黙認した者、状況に押し流された者…。戦争で利益を得た者、利益を期待した者。戦争反対の勢力を抑圧した者、抑圧に加担した者、傍観した者…。名目的な責任、実質的な責任、政治的責任・道義的責任・法的責任…。

民衆にも一半の戦争責任は免れない。しかし、自ずから戦争責任には質的な差異があり、戦争を唱導した者と操られた者との責任の差異を糊塗してはならない。「一億総懺悔」とは、真の責任者の責任をごまかすための意図的なミスリードにほかならない。

天皇(裕仁)が、最大・最高の戦争責任者であったのは自明のこと。彼は、統治権の総覧者であり、元首であり、大元帥でもあった。その地位にあったことだけで責任を取らねばならない。しかも、彼はけっして操り人形ではなかった。十分な情報に接し、開戦と戦争推進と終戦遅延に主体的に関わった。私は、死刑廃止論者だが、昭和天皇の責任については、「罪万死に値する」という表現が誇張でなくあてはまると思っている。

私は、年長者から、天皇に対する敬愛の念だけを聞いて育ったわけではない。天皇に対する怨嗟・怨念の発言をずいぶん聞かされた。とりわけ、兵役における「上官の命令は天皇の命令と思え」というスローガンは、無数の「骨の髄までのアンチ天皇派」を作りあげた。しかし、天皇への怨み言は、ひそひそと囁かれはするが、表立つての発言としては控えられ、活字にもしにくい雰囲気の中に埋没している。

正確な歴史認識のために、まずは天皇批判のタブーをなくそう。タブーのない天皇批判によるその個人責任の明確化は、天皇の名によってされた戦争全体への批判のタブーを取り除くことになる。

この8月、大いに戦争を語り、歴史認識を語り、憲法の平和主義を語ろう。何のタブーにも臆することなく。

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  『8月の園芸家』(「園芸家12カ月」カレル・チャペック著より)
園芸家だって8月は避暑に行く。留守のあいだ安心して庭を任せられる親戚か友人が見つかれば、のことなのだが…。

「とにかく、ごらんのとおり、いまは庭では何もすることがないんです。3日に1日見まわってくださるだけでいいんです。・・5分間でいいんです。ちょっと見まわるだけで。」こうして、やっと、この親切な男にたのんで出かける。

翌日、この親切な男は園芸家から1通の手紙をうけとることになる。
「お願いするのを忘れましたが、毎日庭に水をやってください。いちばんいいのは、朝の5時か、夕方の7時頃です。・・どうかたっぷりやってください。」
それから1日たつと、
「ひどく乾燥しています。お願いです。ロードデンドロンに汲み置きの水を、如露に2杯ぐらいずつ、マツ科の植物には5杯ずつ、その他の植物には4杯ぐらいずつやってください。・・今は何と何が咲いていますか、折り返しお知らせください。しぼんだ花は、花梗を切り落とさないといけません。」
3日目。
「芝を刈らなきゃいけないことを忘れていました。芝刈機で刈ってくだされば、ぞうさありません。」
4日目。
「万一、嵐が来たら、大急ぎで庭を見まわってください。豪雨のためによく被害を受けることがありますから、そんなとき、ちょうどその場にいてくださると都合がいいのです。」6日目。
「速達で当地に自生している植物を1かご送ります。すぐ植えること。」

親切な男はそのあいだ、水をやり、芝を刈り、到着した植物をもって途方に暮れる。何だってこんなやっかいなことを引き受けてしまったのかと、悔しがって、早く秋になりますようにと、神様にお祈りする。

一方、園芸家は庭のことが気がかりで、夜もおちおち眠れず、家へ帰る日を指折り数えている。やっと帰ってくると、スーツケースを持ったまま庭に駆け込み、(ろくでなしの、まぬけ野郎め。おれの庭をメチャメチャにしちまいやがった!)と思う。
「ありがとう」ぶっきらぼうにそう言うと、当てつけがましくホースで水まきをはじめる。こんな男を信用するなんて!避暑に出かけるなんて馬鹿なことは、もう、一生涯やらないぞ、と考えながら。

だから、私は避暑に行かない。暑い暑い庭で、汗みずくになって、蚊に食われながら水やりをして、夏を過ごす。
(2013年8月1日)

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