澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

ビキニ水爆被災60年・連続市民講座第1回「その国内的影響」

 1945年8月 6日
 1954年3月 1日
 2011年3月11日

以上は人類が永久に記憶しなければならない日。とりわけ、日本人である私たちにとって忘れることのできない日。

8月6日は、人類が核という自殺手段を手に入れたことをこの上なく残虐な方法で明示した日。3月1日は兵器としての核の威力が極限に達して、ヒロシマ型原爆の1000倍規模の水爆(「ブラボー」15メガトン)が爆発した日。そして、3月11日は核と人類が共存できないことが明らかとなった日。いずれの日にも日本人が犠牲となった。第五福竜丸の被ばくは原水爆禁止運動の起点となり、また今福島原発事故の放射線被害の教訓ともなっている。核兵器の脅威と、核の放射線被害の恐怖との結節点でもある。

今年は、その第五福竜丸の被ばくから60周年。本日は、記念行事のひとつとしての連続市民講座の第1回。公益財団法人第五福竜丸平和協会と明治学院大学国際平和研究所との共催での「いま水爆の時代を問う?核と向き合い明日へ」の4回シリーズのうちの「第五福竜丸被ばく・ビキニ事件をたどる。その国内的影響」。午後1時に開会して閉会は5時15分。たいへん充実した「講座」だった。いささかくたびれるほどのレベルの高さ。

最初に、20分余の科学ドキュメント「死の灰」が上映された。第五福竜丸の甲板に付着して持ち帰られた「死の灰」の分析と、ビキニ近海の放射線汚染を調査した俊鶻丸のドキュメント。当時の緊迫した雰囲気が伝わってくる。

俊鶻丸は、水産庁が企画した調査船。その第1次の調査航海は、54年5月15日に竹芝桟橋出港となっている。3月1日に被ばくした第五福竜丸が一直線に母港焼津に寄港したのが3月14日。16日に読売が「世紀のスクープ」記事を掲載。乗組員全員が東大附属病院で「急性放射能症」と診断されたのが3月20日である。3月下旬には水産庁がビキニ海域の総合調査企画を開始し、4月に各分野の科学者から成る調査顧問団を編成し、調査船に乗り込む調査団22名と報道班9名を人選、水産講習所の俊鶻丸に測定器具・分析器具、ガスマスクまでを積み込んでの出港であった。その迅速性に驚かされる。帰港は7月4日。

本日の講座の前半は、「被ばくと関わった科学者に聞く」として、当時直接に死の灰の分析に当たった池田長生さんと、俊鶻丸に乗り組み手製の測定器を駆使して環境放射線を測定した岡野眞治さんお二人の講演。お二人とも、もうすぐ90歳。直接お話を聞くことがでたことだけで貴重な体験であった。

「死の灰」の正確な分析と、俊鶻丸の海洋調査とは、「放射線など大したことはない」「日本は大袈裟に過ぎる」と言っていたアメリカに、恐怖の根拠を突きつけるものとなった。遅ればせながら55年2月に、アメリカも調査船タニー号を派遣するが俊鶻丸の調査結果を追認することとなった。

俊鶻丸の調査は、水爆実験への強力な批判の根拠となった。三宅泰雄博士(第五福竜丸平和協会・初代会長)は、次の言葉を残している。
「水爆実験に伴う多くの研究や観測、これらはいかにうまく水爆を使うかというための研究である。俊鶻丸のみが世界でただひとつ、いかにして人類を水爆の危険から守るか、というヒューマニズムに立脚した研究を行った」(「死の灰と闘う科学者」より)

本日の講座の後半はお二人の水産・海洋学専門家の講演と質疑。「ビキニ事件とマグロ」(水口憲哉さん)、「放射能雨と地球環境」(青山道夫さん)。パワーポイントを使っての詳細な講演だった。講演内容は、近々ブックレットとして出版される予定。加筆のうえ表やグラフを添えてのものとなるはず。楽しみに待ちたい。

本日の講演では、当然のことのごとくに、会場からの質問は福島第1原発事故による「海洋汚染」と「水産物の安全性」に集中した。過去の問題でもなく、将来のリスクとしての問題でもない。まさしく現在進行中の放射線被害の恐怖は、核と人類との共存があり得ないことをものがたっている。かつては、原水禁運動にも「原子力の平和利用」というスローガンが掲げられていた。3・11を経た今、兵器としての核利用も、原発としての核利用も、人間の手に負えぬものとの認識が多くの人に共有されている。

第五福竜丸平和協会が、被ばく60周年を記念して出版した記録集の「第五福竜丸は航海中」の帯に、「核なき世界に」としっかり書き込まれている。第五福竜丸の航海が目指すさきは、核兵器も原発もない世界なのだ。

次回の市民講座は、6月14日(日)午後1時30分より。場所は明治学院大学。テーマは、「ビキニ事件、日米関係への影響」、報告者と演題は以下のとおりである。
(1)公開外交文書に見る第五福竜丸被ばくビキニ事件と日米関係・市田真理(展示館学芸員)
(2)ビキニ事件の米政策への影響と日米関係・太田昌克(共同通信編集委員)
(3)ビキニ事件と経済界の動向・山本義彦(静岡大学名誉教授)

今回は専ら理系だったが、次回は社会科学系。これも充実したものになりそうだ。参加希望者は、第五福竜丸平和協会の下記ホームページから事前の申込を。
http://d5f.org/top.htm
(2014年4月20日)

「政治的中立」というカムフラージュでの政治的偏向

最近、各地の自治体による、護憲運動や市民運動への冷たい仕打ちが目につく。安倍政権発足以来の時代の空気を反映するものとして不気味なことこの上ない。その口実が、「行政の政治的中立」である。これには警戒を要する。

このことを最初に意識したのは、神戸市が今年の憲法記念日集会への後援申請を拒否したという報道。この件については、「『政治的中立』という名目での政治的偏向」との標題を付して、3月13日の当ブログで取りあげた。その集会は内田樹氏の講演をメインとするもの。講演のテーマは、「憲法施行67周年、今あらためて憲法を考える」というだけの党派性の片鱗もないもの。しかも、同氏は地元・神戸女学院大学で長く教鞭を執った人ではないか。前例に鑑みて、主催の実行委員会は当然に後援の決定あるものと想定していた。不承認には驚いたようだ。断った市教委は、その理由を「『憲法』自体が政治的な要素を含むテーマである昨今の社会情勢に鑑み」と堂々と明示したそうだ。「憲法を考える」「憲法を守ろう」というごく当然の言動が政治的だと攻撃される時代なのだ。

長野県千曲市でも、東大の小森陽一さんの3月30日講演会(実行委員会主催)の後援要請を市長が「不承認」としている。同市では、07年3月の「九条の会」呼びかけ人の澤地久枝さん、同11月の経済同友会終身幹事の品川正治さん、08年3月の経済アナリストの森永卓郎さんの各講演会(いずれも千曲市9条の会主催)は、市も市教育委員会も後援していたのにかかわらず、である。ここでも、不承認の理由が「講演内容に政治的主張を含むと認められるため」「講演テーマは国論を二分する問題であり、政治的意見の分かれる典型的なもの…行政の中立性が保てない恐れがある」とされているという(3月7日付赤旗による)。

栃木県那須塩原市は、新潟県巻町での脱原発運動の実話をドラマ化した「渡されたバトン さよなら原発」上映会への後援を断った。同市は以前、同じ団体が催した憲法などに関する上映会や、原発関連でも内部被ばく対策など別の団体が催した5件は後援した、にもかかわらずである。従前の例に照らせば、明らかに方針が変わっているのだ。

「渡されたバトン さよなら原発」は、住民投票で原発建設計画を撤回させた新潟県巻町(現新潟市)のドラマで、映画制作会社インディーズ(東京都中央区)が社会的なテーマを扱ったシリーズの3作目。市民でつくる実行委員会は昨年11月、市に後援申請したが却下され、今年1月に後援なく開催した。実行委によると、市の取り扱い要領が「目的や内容に公共性があること」を名義後援の条件としており、「公共性があると明確に判断できない」と説明されたという(東京新聞)。原発問題や原発反対運動にかかわる問題を、「公共性がない」と切って捨てる神経は理解しがたい。当然のことながら、主催者も「那須塩原市は福島県に接しており、原発への関心は高い」と反発している。

そして、「千葉市も自主規制 平和集会 後援断る」という報道である。一作日(4月17日)の東京朝刊。記者の問題意識がよく反映した記事になっている。

「憲法や原発をテーマにした市民団体のイベントなどの後援申請を拒否する自治体が相次いでいる問題で、千葉市も4月から、平和に関する行事の後援などの申請要件を厳格化し、実質的に拒否していることが分かった。市ではこれに先立ち、1月の平和集会の後援を拒否していた。
 市は、行事の共催や後援に関する基準を4月から変更した。従来は、共催や後援を見送るのは政治的・宗教的中立性を侵したり、営利目的のケースだったが、新たに平和関連行事を念頭に『一般的に論点が分かれているとされる思想、事実等について主観的考えを主張すると認められるとき』や『そのおそれのあるとき』を加えた。
 市男女共同参画課によると、平和行事の定義は、戦争の悲惨さや平和の大切さを伝える行事。担当者は『東日本大震災以降、脱原発や憲法をテーマにした行事の後援申請が増えた。政治的中立性という従来の基準はあいまいで、判断に困る場合が出てきた』と説明している。」

千葉市は、「政治的中立性という従来の基準はあいまい」と言いつつ、もっと極端に、政治的中立性という口実での偏向姿勢を露わにしているのだ。

昨日(4月18日)赤旗は、『「平和憲法電車」中止ひどい」と報道している。こちらは自治体ではないが、地方の鉄道会社の方針変更による平和憲法への冷たい仕打ち。

「高知県の市民団体などがカンパを募り、土佐電気鉄道(本社・高知市)の路面電車に、『守ろう平和憲法』や『9条は世界の宝』と書いた車両を走らせていましたが、同社は今年から中止することを決めました。市民から批判の声が出ています。
 平和憲法ネットワークなどが2006年から(途中2回中断)『平和憲法号』を、高知憲法会議などが昨年から『憲法9条号』をそれぞれ運行。憲法記念日の5月3日前後から終戦記念日の8月中旬まで高知市を中心に25・3キロの区間を走らせていました。80万円ほどの費用は市民カンパで賄ってきました。
 土佐電鉄では、昨年の運行に対し市民から電話やメールで賛同の意見とともに、『意見広告ではないか』との指摘があったとして論議。国会でも憲法論議が高まっている時に『政治的と受け取られかねない』と判断し『走らさない』と団体に通告してきました」

「平和憲法電車」中止の理由が、国会での改憲論議と絡んでいることに注目せざるを得ない。

そして、昨日(4月18日)の毎日夕刊の報道である。「強制連行追悼碑:群馬県が『政治利用』と許可更新に応じず」という記事。「記憶 反省 そして友好」と刻まれている朝鮮人強制連行追悼碑の設置許可更新に県が応じていないという記事。全文を転記しておきたい。

「第二次世界大戦中の強制連行で犠牲になった韓国・朝鮮人を追悼しようと、群馬県高崎市の県立公園『群馬の森』に建てられた石碑を巡り、県が『政治利用されている可能性がある』として設置許可の更新に応じていないことが分かった。碑を管理する市民団体『追悼碑を守る会』は『平和と友好を誓った碑を撤去せざるを得なくなる』と懸念している。
 市民団体が県の設置許可を得て、2004年4月に追悼碑を建立。高さ1.8メートルで、『わが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する』などと刻まれている。

 県や守る会によると、12年から『碑文が反日的なので撤去して』との苦情が計約100件あった。その後、県は、12年の追悼集会で参加者が高校授業料無償化の対象から朝鮮学校を除外する政府方針を批判したことなどについて、『政治的行事を行わないと定めた設置許可条件に抵触する可能性がある』と問題視するようになった。

 県は今年1月に『政治的発言と考えるか』などとの質問を出したが、守る会は『集会が丸ごと政治喧伝の場であったかのように決めつけている』として回答を拒否。碑の設置許可は10年間だが、県は更新申請を保留し、1月に期限が切れた。
 守る会の猪上輝雄事務局長(84)は『韓国や中国との関係がぎくしゃくしているこの時代にこそ、碑の意味がある』と訴える。県都市計画課は『再度の回答要請も含めて対応を検討中』としている。」

問題の発端が「碑文が反日的なので撤去して」との「約100件の苦情」であったというのだ。県当局が、このような排外的な、歴史修正主義者たちの「意見」に振り回されている様子が情けない。しかし、群馬県は、設置許可更新の申請に回答を保留し、まだ拒否したということではなさそうだ。是非良識を発揮して着地点を見つけてもらいたい。

仮に、設置挙許可更新拒否、碑の撤去要求という事態に至るようなことがあれば、日韓、日朝間の大きな問題となるだけではない。国際世論から、「いまだに日本は、侵略戦争や植民地支配への反省をしていない」として指弾されざるを得ない。また、10年前には碑の設置を許可し、今設置許可の更新を拒否する、その姿勢の豹変ぶりが、軍国主義化、大国主義への路線変更と各国に印象づけられることにもなるだろう。

それにしても、「政治的中立」あるいは、「意見が別れている問題への支持支援拒否」という名目での、その実は「著しい政治的偏向」の動きには、その都度的確に抗議しなければならない。自治体にとって、「護憲」も「改憲」も、どっちもどっちの「政治的」イシューなのではない。自治体が支持・支援すべきは、「憲法擁護」「改憲阻止」「憲法の理念の実現」というテーマである。つまりは、平和・人権・民主主義に与する方向であって、「改憲」「排外主義」「差別」「反人権」ではない。基準はあくまで日本国憲法なのだ。憲法を遵守すること、憲法理念の実現に努力することは、自治体の責務と認識されなければならない。
(2014年4月19日)

「NHK受信料凍結」運動に刑事事件はあり得ない

本日の朝日の報道によれば、市民団体「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」が、「受信料支払いを半年間凍結するよう視聴者に呼びかける運動」を始めるとのこと。その運動方針に全面的に賛意を表明し支持を惜しまない。

報道内容は以下のとおり。
「就任会見での政治的中立性を疑われる発言などが問題になっているNHKの籾井勝人会長について、市民団体『NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ』は17日、籾井氏が4月中に自ら辞任しない場合、受信料を今後半年間支払わないよう視聴者に呼びかける運動を始める、と発表した。
醍醐聰共同代表によれば、同団体は21日にNHKの担当者と面会する予定。籾井氏に4月中の辞任を求めるとともに、籾井氏と全理事、経営委員会に対し、運動を起こすことを通知する。受信料の不払いではなく、あくまで『支払いの凍結』とし、籾井氏が辞任した場合は支払いを再開するとともに、滞納分も支払うよう呼びかける。」

運動には、なによりも道理が必要だ。多くの人の共感を得るための道理。それなくしては運動として成立する余地がない。運動の目標を達成することもおぼつかない。しかし、運動とは闘いでもある。道理だけでは必ずしも十分ではない。目標達成のための武器が必要だ。人を殺傷する本物の武器は逆効果、要求獲得のための手段・力が必要なのだ。まずは多くの人に問題を正確に知ってもらうこと。そして、運動への共鳴の声をあげてもらうこと。それが力となる。それだけではなく、社会的に許容された範囲での実力行使の武器が欲しい。

労働者は、労働条件改善の要求実現手段として、労働組合を結成して、団体交渉をするだけではない。実力を行使することによって目標を達成する。交渉力は、実力行使を背景とすることを源泉とする。要求は、口達者が交渉で勝ち取るものではない。とどのつまりは、どれだけの争議ができるかが交渉による妥結の水準を決める。団結権・団体交渉権だけではなく争議権を含む労働三権が、労働者自身による労働条件改善のためのワンセットの闘いの武器として憲法28条によって保障されている。

消費者運動では問題企業を糾弾するために、不買運動が呼び掛けられる。企業と闘う強力な武器として、不買運動は有効な実力行使手段である。

NHKの会長や経営委員辞任要求には十分な道理がある。道理だけはなく、受信料支払い凍結という要求獲得手段は、極めて大きなインパクトを持ちうる。受信料支払い凍結は、籾井会長辞任要求の手段としてだけに限定される模様だが、5月以降の半年間にどれだけの視聴者が参加するかが、闘いの成果の分かれ目となる。

この運動の特徴は、「受信料不払い」ではなく「半年間の支払い凍結」としている点にある。籾井会長が辞任すれば、その時点で遡って支払いを回復するとしているわけだ。凍結期間の半年を経過して、籾井会長がまだ居座っている場合にどうするか。報道では、会の方針は明確にされていないが、半年と期間を限定しているのは、運動としてはそれ以上の支払留保の継続を呼び掛けない意向だと忖度される。おそらくは、そこで凍結継続の是非は各人の意思に任される。事実上多くの人が継続することになるだろう。

しかし、運動としては、取りあえず半年の期間だけの受信料の凍結、すなわち支払いの留保の呼びかけなのだ。不払いよりもずっと参加のハードルが低い。「会長辞任までは無期限で凍結継続」と悲壮な覚悟を決めなくても、多くの人の参加を期待しうる。安倍政権による籾井会長人事への不快感や、NHKの公共放送としての在り方に疑念をもつ人は多い。このよう人に、格好の意思表明手段ではないか。なによりも、NHKにダメージを与えることが運動の主目的ではないことが明白とされている。現場スタッフの良心を大切にし、これを励まし、連携した運動を志す運動であることに意味が大きい。

訪問集金の視聴者は、今後半年の訪問による受信料集金への支払いを凍結する。口座引き落としであれば当面半年間の引き落としを止めることになる。その半年の間に、籾井会長辞任となれば、直ちに支払い凍結を解除し未払い分も支払うことにするということになるだろう。運動提起者の認識は、短期決戦ということと推察される。

ところで、「視聴者コミュニティ」のホームページのトラックバックに、次の記事を見つけた。

「今回の騒動で、個人的に不払いという形で抗議の意思を明らかにしてます。しかし、受信料不払い・支払い延期運動を団体が起こした場合、威力業務妨害罪に問われやすいよね。あの馬鹿な長谷川だって2ヶ月後には払ってる訳だし・・。この運動に賛同したいんだけど威力業務妨害罪は刑事事件にあたるから友人知人を誘いづらい。出来れば、法的に一切問題がないとの当局なり弁護士団体なりの御墨付きが欲しいと思います。」

これには、少し驚いた。どこかで、悪質な宣伝活動が行われているのかも知れない。籾井会長の「政府が右といえば左とは言えない」「従軍慰安婦はどこの国にもあったこと」発言を支持する勢力はあるのだから。会長辞任要求などはとんでもない、ましてや不払いの呼びかけなど、という動きがあってもおかしくはない。

当局からの「御墨付き」を得ることは無理である。弁護士団体の御墨付きは、間に合わない。私の言では「御墨付き」にはならないが、法律家の常識を以下のとおり述べておきたい。

NHK受信料の支払い義務は、NHKと視聴者個人との各受信契約締結の効果として生じている。支払い凍結は、受信契約を締結した視聴者についてのものであるから、民事上の債務不履行という状態にはなりうる。本件の場合金額は小さいものの、借金の返済が遅滞している、家賃の支払いが滞っている、キャッシングの決済が未了となっている、などと同じ事態。だから、NHKから民事的な催告があることは予想される。

催告を拒否しても、民事訴訟の判決がない限り強制執行はできない。では、民事訴訟はあり得るか。その可能性はないとは言えない。とはいうものの、訴訟コストを考えれば、半年の期間の支払い凍結に対する提訴は現実的には合理性を欠き可能性は低い。おそらくはあり得ないと考えるのが常識的だろう。

仮に、NHKからの提訴があった場合には、多くの視聴者が共同して応訴することになるだろう。その場合には、視聴者側の言い分を堂々と述べることになる。受信契約は双務契約であるから、NHK側が自分の債務を履行していることが大前提でなくてはならない。放送法に定められた公共放送としての責務をきちんと果たしているかを問題としなければならない。籾井会長や、百田・長谷川などの経営委員の、人選や言動、あるいはその放送内容への影響などが裁判の焦点となるものと考えられる。安倍晋三の女性国際戦犯法廷取材番組への介入の事実も再度問題となろう。大裁判といってよい。到底半年で決着がつくはずもない。凍結期間半年が経過すれば、裁判も終了する。以上が民事の問題。警察や検察が介入する問題ではない。

では、刑事的に問題となりうるか。絶対になり得ないと言ってよい。仮にこの受信料支払い凍結運動で、いささかなりとも警察が動くようなことがあれば、それこそ日本は警察国家と言わねばならない。世も末の全体主義、安倍政権の恐怖政治というほかはない。

おそらく、悪質な税金の不払いが犯罪となりうるという類推から、NHK受信料の滞納も刑事事件となりうるのではと心配の向きがあるのではないか。NHK受信料の不払いは、あくまで民事的な問題で、刑事上の制裁とは一切無縁である。

放送法に、「受信料不払いの罪」があるわけではない。その他NHKの受信料収入を刑事制裁をもって確保する特別の法律はない。受信契約なしでは受信料の請求すらできないのだから、税金の取り立てとはまったく異なるのだ。

では、刑法上の業務妨害となるか。刑法の規定は、以下のとおりである。
第233条: 虚偽の風説を流布し、又は偽計を用いて、人の信用を毀損し、又はその業務を妨害した者は、3年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。
第234条 威力を用いて人の業務を妨害した者も、前条の例による。

「偽計を用い」た場合が偽計業務妨害、「威力を用い」た場合が威力業務妨害罪となる。偽計とは、「人を欺き(欺罔し)、あるいは人の錯誤・不知を利用したり、人を誘惑するほか、計略や策略を講じるなど、威力以外の不正な手段を用いることをいう」。威力とは、「人の意思を制圧するような勢力をいい、暴行・脅迫はもちろん、それまでに至らないものであっても、社会的、経済的地位・権勢を利用した威迫、多衆・団体の力の誇示、騒音喧噪、物の損壊等およそ人の意思を制圧するに足りる勢力一切を含む」(前田雅英編「条解刑法」)とされている。

本件の受信料凍結運動に、「偽計」の要素がないことは一見明白である。また、上記に明らかなように「威力」とは人の意思の制圧であって、受信料の支払いを留保することがNHKの職員の意思を制圧して放送業務を妨害することにはならない。集団での抗議行動が喧噪状態と捉えられるような場合には、威力業務妨害罪が弾圧法規として働く余地あることを警戒しなけれはならないが、単なる料金不払いが人の意思を制圧する行為にはあたらない。

威力業務妨害罪は粗暴犯的色彩の強いものとされており、判例上の具体例としては、暴行・脅迫、物の損壊・隠匿、多衆・団体の力の誇示(労働争議に関わるもの)、騒音・喧噪によるもの、その他(デパートの食堂に蛇20匹を撒き散らした。猫の死骸を事務机の引出に入れた。国税調査官の車の前に座り込んだ…)などからイメージの把握が可能である。また、その保護法益は、業務の平穏円滑な遂行と理解されており、不払い自体が放送業務の遂行を妨害するものではなく、この点からも犯罪は成立し得ない。

「半年間受信料凍結」運動への参加が刑事事件となることはあり得ない。その点は安心して、籾井NHK会長辞任要求の運動にご参加されたい。

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     カレル・チャペックさん、無い物ねだりはおやめなさい
カレル・チャペックは「園芸家12カ月」で無い物ねだりをしている。
「園芸家は文明によってつくり出された人種であって、自然淘汰の結果ではない。園芸家が、もし自然から進化したとしたら、外観がちがっていたはずだ。第一、しゃがまないですむように、カブトムシのような脚をしていただろう。そして、翅をもっていただろう。そうすれば、見た目もきれいだし、花壇の上を飛ぶことができたからだ。人間の脚などというものは、置き場がないときはどんなに邪魔っけなものか、しゃがまなければならないときには、どんなに不必要に長いものか、また、寄せ植えのしてあるサルヴィアや、アキレシアのシュートをふまずにまたいで、花壇のむこう側にとどかせたいときには、どんなに腹が立つほど短いものか、経験の無いものには想像もできない。・・ところが、園芸家のからだもほかの人間と同じように不完全に作られているので、できるだけの芸当をやる以外に方法がない。ロシアの踊り子のように片脚をあげて、爪さきでバランスをとって宙に浮かんだり、両脚を4メートルも開いて、チョウチョか鶺鴒のように軽く地面の上を歩いたり、1平方インチの場所に全身の重みをかけ、傾斜する物体のあらゆる法則を無視して平衡をたもちながら、あらゆるものを避けて、あらゆるところへ手をとどかせる」

全く同感だ。身体を動かすたびに、やっと出てきたばかりのチゴユリの芽を踏んづけたり、モミジの大切な枝をボキリと折ったりするので、舌打ちをしながら、悔し涙を流しながらそう思う。伸縮自在の腕と指がほしい。園芸家でなくとも、座ったまま電気のスイッチをきったり、開けたままのドアを閉めたりできたら、誰だってうれしいだろう。欲を言えば、物を運ぶとき何回も行ったり来たりしなくてすむように、腕が何本もあったらいい。ワープロ打ちながら、コーヒーを飲みながら、痒いところをかくこともできる。しかし、風呂に入ったときはそんな長い腕を何本も洗うのは大変だ。何本も手があったら、爪を切るのも一仕事だ。そう考えると、腕も指も少ない方がいいかもしれない。欲張りの心は揺れ動く。目は後ろにもあったらいい。でも後ろに眼鏡をかけるのは難しそうだ。コンタクトを入れるのはもつと大変だ。脚だって4本あれば、疲れたときには別の足で歩ける。食いしん坊は口が二つあったらと思うかもしれない。嘘つき政治家は滑らかな舌がもう一枚欲しいだろう。

と、人の欲望は限りを知らない。ところが現実は、年をとるとともに、今もっている能力でさえ日ごとに失われていく。目は遠くも近くも見えなくなる。色もぼんやりしているようだ。耳も低音が聞こえないらしい。少し歩けば、脚だけでなく全身疲れる。すぐにものにつまづく。平衡感覚も悪くなってきたようだ。ただ立っていてさえ、地震がきたのかとまわりを見回したりする。決定的なのは、記憶力の減退だ。アレ、コレ、アノ、ソノで会話しようとする。そんな自分に腹が立つ。新しいことは覚えられない。古いことは思い出せない。そうであるなら、増えた腕や脚の使い方はとうてい覚えられない。古い腕や脚にこんがらがって、イライラするばかりだろう。目が見えなくなったって、記憶のなかのものの方が美しいこともある。耳が聞こえなくたって、どうせたいしたことを言ってるわけじゃない。無い物ねだりはやめておいたほうがいいのかもしれない。
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NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い。

下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
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    NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
 ※郵便の場合
  〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
 ※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
 ※ファクスの場合 03?5453?4000
 ※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
    http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
  *籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
  *経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
  *百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
  *経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
以上よろしくお願いします。
(2014年4月18日)

他人の痛みへの共感能力を育てよう

孟子は、人の性を善なるものと説いた。孟子公孫丑編の四端説の章に、次の有名な一節がある。高校時代に漢文の授業で習った。

「人みな人に忍びざるの心有り。…人みな人に忍びざるの心有りと謂ふ所以は、いま、人たちまち孺子の将に井に入らんとするを見れば、みな怵惕惻隠の心有り。交わりを孺子の父母に内るる所以にあらず、誉れを郷党朋友に要むる所以にあらず、其の声を悪みて然るにもあらざるなり。これに由りてこれを観れば、惻隠の心なきは、人にあらざるなり。羞悪の心なきは、人にあらざるなり。辞譲の心なきは、人にあらざるなり。是非の心なきは、人にあらざるなり。惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は智の端なり」(今里禎の読み下し)

次のような大意であろう。
「誰にだって、思いやりの心がある。だってね、ちっちゃい子が井戸に落ちそうになっているのを見たら、誰だって、『あっ危ない、何とかしてあげなくちゃ』って思うだろう。その子の親に取り入ろうとか、周りの人たちに褒めてもらおうとか、なにもしなけりゃ悪口を言われるからってわけじゃない。だからね、思いやりの心というのは誰にでもあるんだ。これなくちゃ人間じゃない。悪を恥じる心も、譲り合う心も、善悪を判断する心もおんなじだ。」

その上で「四端」が説かれる。惻隠・羞悪・辞譲・是非の心が、それぞれ仁・義・礼・智の各「端」(今里訳では、端を「芽生え」としている。「糸口」などという洒落た訳もある。)であるというもの。高校時代、よくは分からないながら、「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」「惻隠の心は仁の端なり」のフレーズが印象に残った。

「孟子」には、人が生来もっているはずの善として、惻隠・羞悪・辞譲・是非の心が語られている。中でも、「惻隠の心」である。どう理解すればよいのだろう。

藤堂明保の「漢字源」によれば、惻とは「いつも心について離れない。ひしひしと心に迫る」の意という。「惻隠」は、「ひしひしといたわしく思う」とされている。広辞苑もこれによったか、「いたわしく思うこと。あわれみ」とある。「同情する心」、「痛ましく思うこと」、「慈しむこと」などとも解されているようだ。私には、「思いやり」の語が一番しっくりする。

今にして思う。孟子の説いている善とは、人の痛みへの共感のことではないのだろうか。子どもが井戸に落ちそうになれば、とっさに助けたいと思う。もし、落ちてしまえば、その子の苦しみは自分の苦痛となる。その子の母の嘆きは、自分の悲嘆でもある。人間の尊厳を尊重し、人間の尊厳の侵害に対して、侵害された人に寄り添い、共感をもってともに痛む心、それが「惻隠の心」ではないか。「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」は今に通じる名言だと思う。

韓国の旅客船セウォル号が一昨日(4月16日)珍島付近で沈没し、多数の死者と行方不明者を出している。リアルタイムの報道に胸が締めつけられる。狂わんばかりに、わが子の安否を案じる母親の姿に心の痛まない者はない。

「船内にいる子どもからメッセージが届いた」という報道があった。沈没した船内に取り残されたという男子生徒から、兄に携帯電話の文字メッセージが届いた。生存者がおり、救出を求める内容で、「今ここは船の中、何も見えない。男子数人と女の子が泣いている。まだ私は死んでいない」と記されたものだったという。涙がこぼれそうになる。いま、韓国民だけでなく、日本国民も「惻隠の心」を感じている。ヘイトスピーチの連中も、人として同様であろう。

ところが、残念なことに、「惻隠の心」を持ち合わせていない人もいる。性善説が揺らぎかねない。

今月13日、米カンザス州オーバーランドパークのユダヤ教系施設で、銃撃によって3人が殺害された。犯人として逮捕されたのはフレージャー・グレン・クロス(73歳)。コミュニティーセンターの駐車場で14歳の少年と祖父を射殺し、さらに近くの高齢者介護施設の駐車場で女性1人を殺害した。白人至上主義者集団クー・クラックス・クラン(KKK)に関連する団体の元幹部で、極端な反ユダヤ主義活動家であり、黒人への嫌がらせを繰り返してもいたという。事件が起きた13日は、ユダヤ教の行事「過越の祭り」開始日の前日だった。地元テレビ局の映像には、逮捕された容疑者がパトカーの後部座席から「ヒトラー万歳」と叫ぶ姿が映っていた(CNNの報道)。

死亡した少年は、歌唱コンテストのオーディションに出場するため祖父の車でセンターを訪れていた。祖父は現役の医師。皮肉なことに、2人ともキリスト教徒だった。被害者の女性は、介護施設に入居中の母親を毎週末見舞っており、その施設の駐車場で撃たれた。視覚障害児の施設で作業療法士を務め、この人もカトリック教会に所属していた。

この犯人には、惻隠の情がない。彼がユダヤ人と思い込んだ3人に、それぞれの人生があり、家族があり、交流する人々がいることを考えられない。死への恐怖や、心の痛み、周りの人の悲哀に共感すべき心が失われている。井戸に落ちそうな子どもを救うはずの人間が、子どもを井戸に突き落としたのだ。「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」というほかはない。

しかし、孟子の性善説も、次のように解釈されている。
「人間の本性が善である、という命題は、けっして現実の人間が善であることを意味しない。『性』を全面的に開花させるためには、人格完成のための努力が必要である。ここに実践倫理としての孟子独自の修養論が内省を中心として展開されるのである」(松枝茂夫・竹内好監修「中国の思想・孟子」)

国籍・言語・宗教・人種・性別・門地・職業・障がいの有無等の一切を捨象して、誰もが等しく人間としての尊厳を尊重されなければならない。「等しく」とは、「弱い立場にある者ほど手厚く」という意味でもある。自己と他者をともに人間としての尊厳あるものとする姿勢は、「性善」だからといって当然に現実化しているわけではない。その本来の善を開花させるために、人権尊重の教育が必要なのだ。徹底して差別を戒める教育が重要なのだ。惻隠の情の獲得は、具体的に心身の痛みを背負う人々と接触し、その人たちの痛みや嘆き苦しみ悲哀を身近に感じることが糸口であろう。そのことから、人間としての尊厳を傷つけられた者に対しての、共感能力が育つ。私は、現代の教養とは、人権侵害の被害に対する共感能力のことだと思っている。人権侵害に、敏感でありたい。
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     八重の「御室桜(オムロザクラ)」が世代交代で一重の桜に
昨日、恒例の根津神社のツツジ祭りへ行ってきた。まだ2分咲き程度で、入場券にプリントされた写真とはだいぶ様子が違っていたが、緑に混じった色とりどりのツツジは初々しく美しかった。見物客が少なくてゆっくり見られたこともなによりだった。

ツツジ山を下りたところによしず張りの植木屋の店が出ている。今年はもう絶対、植木は買わないと強い決意で、「見るだけ、見るだけ」と覗いてみると、シロ花のハナズオウと八重桜が私をがっちりとらえて、「つれてって、つれてって」と放してくれない。どうしたって運命的出会いには抗えるものではない。紫色のハナズオウはよくあるけれど、白は珍しい。八重桜は「キクシダレ(菊枝垂)」。これもなかなかお目にかかれるものじゃない。花は濃いめのピンクの八重咲き。小さな花弁がギッシリ集まってボール状になって、それが3から5花ぐらいづつかたまってぶら下がっている。何とも可憐である。置いて帰るわけにはいかない。

さて、帰宅して、花弁の数を数えてみたら、一花につき91枚、116枚、124枚と花を3つまで分解して数えたが、それ以上は根気が続かずやめてしまった。径3センチメートルの小花に大体100枚以上の花弁がついている。雌しべは1本、雄しべはかすかに3,4本。雄しべは花弁に変化してしまったのだ。真ん中の花弁は糸くずのように細くて小さい。こんな花弁数が極端に多い八重咲きをキク咲きという。

枝垂れない普通の「キクザクラ(菊桜)」は花弁が、100枚から180枚。「ケンロクエンキクザクラ(兼六園菊桜)」は100枚から300枚。「ライゴウジキクザクラ(来迎寺菊桜)」は2段咲きで90枚から270枚。「フジキクザクラ(富士菊桜)」は2段咲きで300枚から400枚。トップクラスは「ヒヨドリザクラ(鵯桜)」で、2段咲きで280枚から450枚。以上は「日本の桜」(木原浩ほか著 山と渓谷社)からピックアップしたもの。ヤマザクラのような5弁花に飽き足らない人たちは、400枚もの花弁をもつようなサトザクラをつくりあげたのだ。おかげで春になると、ソメイヨシノやヤマザクラのシンプルな美しさとサトザクラの豪華さの前で、どちらがいいか心が引き裂かれる思いがする。

京都仁和寺の「御室桜(オムロザクラ)」は京都の春の最後を飾る遅咲きの八重桜。種類は「オムロアリアケ」。ヤマザクラの影響の見られるサトザクラで花弁が5から10枚のふっくりとした八重の白い花を咲かせる。

その御室桜について4月15日付け京都新聞は次のように報じている。
江戸時代に貝原益軒の「京城勝覧」(1718年)は「境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす」と記している。また、昭和初期の研究者香山益彦の「御室の桜」には「八重が多数を占める」と書いてある。ところが、今回調査したところ、212本のうち八重はわずか18本しかなかった。樹齢360年のサクラが枯れて植え変えられたわけではなく、大枝が枯れて、根もとからでてきた「ひこばえ」で世代交代を繰り返しているうちに、そこに咲いた花は一重になってしまったのだ。品種改良された八重のオムロアリアケが先祖返りしてしまったということらしい。

仁和寺の立部佑道門跡は「御室桜は枝が大きくなると枯れてゆく特性があるが、それもまた花の姿の一つ。桜から学んでいこうという気持ちがあるので、御室桜を新しい苗に植え替えるということはしない」と述べている。もっとも、2010年に芽の組織から苗木を作る研究が行われ、今年の4月11日143センチに成長したクローン桜の蕾が一輪開花した。それを報じた朝日新聞の写真を見ると、白いふっくりとした八重桜が映っている。

この話を聞けば、理研の小保方さんのスタップ現象もありうることかもしれない気分がしてくる。組織細胞にお酢をかけて、初期化すれば八重も一重も思いのままなんて、楽しいようでもあり、恐いようでもある。
(2014年4月17日)

「安倍靖国参拝違憲訴訟」提訴への中国での反応

サーチナというインタネットメディアがある。かつては「中国情報局」と言っていた。その名称は、サーチ (search) とチャイナ (china) を重ねた造語だという。中国の情報を主とするものだが日本語のメディア。そのメディアに昨日(4月15日)掲載された日本人記者の署名記事を知人からの転送で知った。内容は、大阪と東京の安倍靖国参拝違憲訴訟に関するもの。提訴の内容ではなく、提訴に対する中国人の反応を主としたもの。

タイトルは、「安倍首相の参拝差し止め訴訟、『首相を訴えることができるなんて嘘だろ?』の声=中国版ツイッター」というもの。記事全文は以下のとおり。

「第2次世界大戦の戦没者遺族や市民などが11日、安倍首相による靖国神社への参拝は違憲であると主張し、参拝の差し止めや、原告1人当たり1万円の慰謝料を求める訴えを大阪地方裁判所に起こした。華商網が報じた。

報道によれば、戦没者遺族や市民らは、安倍首相の靖国神社参拝は「憲法が保障する国民の平和的生存権を侵害している」とし、「戦争を美化する行為である」と主張している。また、報道によれば東京でも別の原告らが同様に訴えを起こす予定だ。

日本の首相による靖国神社参拝に対し、中国では非常に強い反発が起こることが常だが、日本の市民団体が安倍首相を訴えたことを中国人ネットユーザーはどのように感じたのだろうか。

簡易投稿サイト・微博に寄せられたコメントを見ると、『一部の日本人が良心的であることが分かった』など、日本国内から靖国神社参拝の差し止めを求める動きが見られたことを評価するユーザーが見られたが、中国人ユーザーの反応で目立ったのは“一国の首相を訴えることができること”に対する驚きの声だった。

確かに、時の権力者を訴えるなどと言うことは中国ではまずあり得ないことだ。そのため「中国の人民は高官を訴える勇気があるだろうか」、「首相を訴えることができるとはすばらしい!」などのコメントも寄せられ、非常に驚いている様子が見て取れた。

なかには「日本では民衆が首相を訴えることができるのか? 裁判所は受理するのか? これは嘘の報道じゃないのか?」というコメントまであった。

多くの中国人ユーザーが今回の訴訟を通じて、日中の政治体制や制度の違いを認識したことは間違いなさそうだ。中国には「陳情」と呼ばれる直訴システムがあるものの、陳情しても解決されないケースも多いと言われており、首相さえ訴えることができる日本の体制を羨んでいる様子を感じることができた。」

たいへんに興味深い。この記事で報じられている中国人の反応のひとつが、靖国違憲訴訟の提訴行動を通じて、『一部の日本人が良心的であることが分かった』という肯定的評価をしていることである。これは、貴重な収穫だ。

政府間の関係がこじれているときほど両国民の信頼関係形成が重要だ。おそらく中国人の目からは、日本人全体が安倍色に染まった均一の集団と見えているのだろう。しかし、実際はそうではないことを知ってもらうことが大切だ。我々も、中国が一色であるはずのないことを知らねばならない。

中国人・韓国人を原告として日本の各地の裁判所に提訴された数多くの戦後補償訴訟があった。原告となったのは、従軍慰安婦とされた人、炭坑や軍需工場に強制連行された人、大量虐殺された事件の奇跡的な生存者、遺棄毒ガスの被害者等々の「皇軍の残虐行為の生き証人」であった。重慶爆撃訴訟など、まだ係属している訴訟もある。中国や韓国の戦争被害者を支援し、その被害救済の訴訟を支えた多くの日本人の活動を誇りに思う。このような運動こそが、真の日中、日韓の友好の基礎となり、国民間の強固な信頼関係形成の土台となりうる。

日本国憲法は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、…この憲法を確定する」と宣言している。戦争の惨禍に向かいあうことこそ、憲法を大切に思う国民の責務である。その戦争の惨禍は、被害と加害の両面がある。加害責任に目をつぶらず、被侵略国の民衆の被害に寄り添うことは、なによりも不再戦の決意を新たにすることである。そして、それだけでなく、国境や民族を超えた人間としての連帯感を築く交流であって、やがて国家を克服することにつながる展望を切り開く質をもつものと思う。11日提訴の大阪訴訟と、21日提訴予定の東京訴訟がともに、法廷内だけではなく、国内外の世論に大きな影響を及ぼす成果をあげることを願う。

もうひとつ。中国の多くのネットユーザーが、「一国の首相を訴えることができることに驚いている」というニュースには、こちらが驚かざるをえない。そもそも司法本来の役割は、国家権力の横暴によって侵害された人権を救済することにあるのだから。国家や国家機関の高官を訴えられないでは司法ではない。

韓国では、国民が裁判所に政府高官を訴えたとて驚く人はない。韓国の憲法裁判所は、政府批判の提訴で溢れており、判決もその期待に応えている。

理屈の上からは、立法や行政が国民の人権に冷淡であるときにこそ、司法が人権救済機関としてその役割を果たすべく期待される。しかし、現実には、立法や行政の「民主化」の進んでいない社会では、司法も十分な機能を果たし得ない。軍政時代の韓国の裁判所は、政府に不利な判決を書けなかった。政治と社会の民主化が進んで、憲法裁判所も大法院(日本の最高裁に当たる最上級司法裁判所)も、ともに人権擁護の機能を果敢に果たしつつあり、間接的に立法や行政にも大きな影響力をもつ存在となっている。日本の裁判所の判断の臆病さに歯がみすることが多い私などには、羨望の的である。

中国の現状は、民主主義の成熟度において未熟といわざるを得ない。国家だろうが幹部だろうが党であろうが、あるいは企業であろうが、あらゆる段階の権力の横暴が人権を侵害すれば、司法の判断に服さねばならない。そして、司法の判断は尊重されなければならず、侵害された人権は救済されなければならない。

この点についても、安倍靖国参拝違憲訴訟が、瞠目の成果を上げることができるよう切に期待する。
(2014年4月16日)

竹富町の八重山採択地区からの独立の意向を尊重せよ・再論

4月12日の当ブログで、「竹富町の八重山採択地区協からの独立の意向を尊重せよ」と書いた。「尊重せよ」の宛名は、安倍政権であり、文科省であり、下村博文文科相であり、石垣・与那国の教育長らのつもりだった。

竹富町教委を支持して政権の不当を論じているのは私ばかりではない。多くの良識の一致するところといってよい。これに対して、産経・読売がタッグを組んだがごとく、瓜二つの社説を書いている。13日産経「竹富町の教科書 法の無視は認められない」、本日(15日)読売「竹富町の教科書 法改正の趣旨踏まえた対応に」というもの。安倍政権が攻撃されれば、産経・読売が反撃する。さながら、集団的自衛権の行使を彷彿とさせる。

中央紙には産経・読売に対抗する社説の掲載はない。4月11日付の沖縄タイムスが政府批判の立ち場から「八重山教科書問題ー政治介入に終止符打て」という渾身の社説を書いている。また、文科省から竹富町への是正要求に関して、3月15日付の琉球新報の「文科相是正要求 道理ゆがめる『恫喝』だ」というこれも気合いのはいった社説がある。両社説とも、客観的に見て格調高く、自説の根拠を具体的に展開して説得力に富む。両社説とも感動的ですらある。産経・読売のお粗末さとはまったく比較にならない。比べて読めば、一目瞭然である。

下記がこの4社説のURLである。是非、読み比べていただきたい。もうひとつ、併せて「沖縄の教科書―両方を使ってみては」という朝日のふやけた社説もどうぞ。沖縄地方二紙の格調が理解されよう。

産経http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140413/trl14041303060002-n1.htm
読売http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20140414-OYT1T50106.html
沖タイhttp://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=66620
新報http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-221379-storytopic-11.html
朝日http://www.asahi.com/articles/ASG3G4J94G3GUSPT006.html

産経と読売とでは、多少の差がないわけではない。読売の方がほんの少しだけ反対論に目くばりをしている。独善的な断定調にも多少のぼかしが入っている。産経社説のこの独善の論調は、読者の要求に応えたものなのか、社説執筆陣が読者を先導しているのか。卵と鶏の関係はわからない。拠って来たるところはわからないながらも、産経だけを読んでいる人の精神構造はいったいどうなるのだろうと、他人事ながら心配せざるを得ない。心配のあまり、逐語的に反論を書かねばならないという意欲が湧いてきた。なお、産経批判はそのまま読売批判でもある。産経とほんの少しの差でしかない。五十歩百歩の差にも至らず、せいぜいが「五十歩六十歩」の程度、歩の進む方向はまったく同じである。

産経の社説は「主張」と称されている。4月13日の「主張」は、「竹富町の教科書 法の無視は認められない」との標題。以下、産経社説の部分々々を引用しながら全文を批判する。

「国の是正要求に従わず法改正の趣旨も歪(ゆが)めるのか。教科書採択で沖縄県竹富町教育委員会が、石垣市などとの共同採択から離脱を検討している。これを認めるべきではない。是正要求に従い、勝手な教科書使用をやめることが先だ。」

この出だし。なんと大上段で、なんと大袈裟なことか。滑稽極まる。国家権力から理不尽に人権を蹂躙された側に立って憤るのなら、どんな大声を発してもよい。地方の小さな町が、国の意向に従わないとして、権力の尻馬に乗る姿勢が恥ずかしくはないか。いじめに加担する卑怯な振る舞いというしかない。
しかも臆面なく、典型的な「お上は正しい」「お上のいうことには従え」論。さすがに産経の社説というべきか。本来、ジャーナリズムとは、まず「お上のいうことに本当に理があるのだろうか」「権力への抵抗には一理あるのではないか」を吟味しなければならない。「国の是正要求」は「国の要求」であるから従わねばならないものではない。国とて間違う、いや国も大いに間違うのだ。間違っているか否かの基準は日本国憲法である。憲法大嫌いな安倍政権であれば、大切な問題について間違う公算は極めて高い。是正要求の根拠とされているものには様々な疑義が提示されている。論点は具体的に明確化されているのだ。「法改正の趣旨」についても同様だ。これらの具体的な問題点に触れることがないままの、勝手な結論押し付けをやめることが先だ。

「小規模な市町村は、近隣市町村と共同で教科書を選ぶルールが、義務教育の教科書を配布するための教科書無償措置法で定められている。生活、文化など一体性のある広域で同じ教科書を使えば効率的な配布のほか、教師の共同研究や転校した場合に学習の連携などメリットが大きいからだ。」

複雑な法体系を一面化しあるいは過度に単純化して把握することが間違いの第一歩である。場合によっては、誤導の論法ともなる。産経社説には教科書無償措置法しか言及されていないが、文科省の有権解釈によれば、地教行法上教科書採択の権限は各市町村の教育委員会にある。各市町村教育委員会の独立性が大前提で、小規模な市町村の便宜のために広域採択の制度ができたと理解すべきであろう。便宜のためであるべき制度が、メリットの享受よりもデメリットの桎梏が優るとなれば、制度利用に縛られるいわれはない。
広域採択のメリットはもちろんある。しかし、同時にデメリットも大きいのだ。広域化のメリットだけを語って、各市町村教育委員会の独立性喪失というデメリットを語らないのは不都合である。産経のいうようなメリットばかりであれば、強制の問題は生じない。事実、今回の法改正以前には、採択地区での教科書採択に強制は予定されていなかった。協議を尽くすべきことことが求められていただけ。
また、本来は、教科書を使う専門家としての現場教師の意見の集約や集団討議による意見反映がもっとも重要視されるべきなのだ。現場の発言の重視は、採択単位が小さいほど現実性を帯びる。現場の教師の影響力をできるだけ排除したいという政策的要求が広域採択の制度になった。「効率的な配布、教師の共同研究や転校した場合に学習の連携」などのメリットは、当然に現場が考える。押し付けが正当化されることにはならない。

「竹富町の場合、石垣市、与那国町の3市町で八重山採択地区協議会をつくり採択してきた。平成23年夏の採択で協議会は、中学公民教科書に育鵬社版を決めた。だが竹富町は従わず東京書籍版の使用を24年度から始めた。地方自治法で最も強い措置の是正要求が出されたが、今年度も違法状態の教科書使用を強行している。」

これを過度の単純化という。むしろ、単純化を装った意図的な事実の曲解というべきであろう。この単純化への反駁として、少し長いが、「不審な経過」と小見出しを付された、3月15日付琉球新報社説の一節を引用する。
『そもそも竹富町教委の行為は正当な教育行政だ。それをあたかも違法であるかのように政府は印象操作している。
 経過を振り返る。石垣・竹富・与那国3市町の教科書を話し合う八重山採択地区協議会会長の玉津博克石垣市教育長は2011年6月、教科書調査員を独断で選任できるよう規約を改正しようとして反対された。役員会で選任することになったが、玉津氏は役員会を開くことなく独断で委嘱した。
 その調査員も、報告書では、保守色の極めて強い育鵬社版の中学・公民の教科書について「文中に沖縄の米軍基地に関する記述がない」などと難点を指摘。複数を推薦した中に育鵬社版は入れていなかった。
 だが同年8月23日の採択地区協議会は、玉津氏の主導で育鵬社版を選ぶよう答申した。しかし竹富町教委は8月27日、選考過程における前述の不審な点を挙げ、育鵬社版でなく東京書籍版を選んだ。
 一方、石垣・与那国2市町教委は育鵬社版を選定。3市町教委は8月31日に採択地区協議会を開き、再協議したが、決裂した。
 9月8日、今度は3市町教育委員全員で協議し、多数決で東京書籍版を選んだ。だが文科省は「全員協議はどこにも規約がない」と、この選定を無効とした。
 規約の有無を言うなら、玉津氏の調査員選任も規約にない手法だった。その点は問わないのか。
 政府は同年11月、「自ら教科書を購入して生徒に無償で給与することは、無償措置法でも禁止されるものではない」との答弁書を閣議決定している。竹富町教委の行為は合法だと閣議で決めたのだ。それが自民党に政権交代した途端、違法になるというのか。』
迫力十分な叙述である。経過の説明は以上に尽きる。これへの反論は聞いたことがない。

「竹富町の共同採択離脱の方針は、9日に成立した教科書無償措置法改正に伴うものだ。採択地区の構成単位を「市郡」から「市町村」に変えたことを捉え町単独で採択できるとしている。沖縄県教委は要望を受け認める方向だ。
 この改正は市町村合併に伴い、飛び地の自治体が共同採択するケースなどができ、不都合を解消しやすいよう見直したものだ。竹富町にはあてはまらない。」

この法改正の趣旨が最大の問題なのに、産経社説は、何とも迫力に欠ける。結論は明瞭だが、根拠の薄弱なことこの上ない。読者を説得する意思も能力もないことを露呈するのみ。
文科省が、ホームページに「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律の一部を改正する法律案」について、下記URLに、概要、要綱、案文・理由、新旧対照表を掲載している。ここには産経の言い分に与するものはひと言もない。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houan/an/detail/1344707.htm

産経の社説は、下村文科相の言い分を口移しにしただけのものだが、これについては、4月11日付沖縄タイムス社説が次のとおり反駁している。
『下村博文文科相は3月の会見で「(採択地区は)市町村教委の意見を尊重しながら、県教委が最終的に決定する」と明言。県教委が竹富町を分離しても「法の違反には当たらない」と述べた。
 政府見解は腰の定まらない印象をぬぐえない。国の恣意(しい)的な法律運用がまかり通れば不当のそしりは免れない。』

法の解釈は、文理解釈が基本である。法の文言が明晰性を欠き、文理解釈が困難なときにはじめて、立法者意思などが忖度されて目的論的解釈などに頼らざるを得なくなる。本件では、そのような事情なく、法文は極めて明晰である。ややくどいが、産経の読者にもわかるように噛み砕いて、解説しておきたい。

改正前の教科書無償措置法12条1項は、「市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域に」教科書用図書採択地区を設定しなければならないと定めていた。だから、採択地区は、論理的に、「市」「郡」という区域単独の場合と、「市および郡」をあわせた地域から構成される場合があり得たことになり、それ以外はなかった。つまり、市は単独で採択地区を構成することはできたが、郡内の町村は単独では採択地区を構成することはできなかったのである。

改正法は、当該箇所を「市町村の区域又はこれらの区域を併せた地域に」と変更した。これによって、採択地区は、論理的に、「市」「町」「村」という各区域単独の場合と、「市および町」「町および村」「村および市」「市および町および市」を併せた地域から構成される場合があり得ることとなった。つまり、これまで、郡内の町村は単独では採択地区を構成することはできなかったが、郡という区域単位を捨象することによって、町・村ともに、単独での採択地区となる資格を取得したのである。「飛び地の自治体が共同採択する不都合を解消しやすいよう見直す」こともあり得ようが、それにとどまるなどとは条文の読みようがない。「竹富町にはあてはまらない」などということに何の根拠もない。

「同法改正では、共同採択地区で同一教科書を使う規定が明確化された。竹富町の役場自体、石垣市の港近くにある。地域性から同市と共同採択するのが自然だ。」

改正法が13条5項が、「共同採択地区で同一教科書を使う規定が明確化された」ことは、指摘のとおりである。そのための法改正であった。反対解釈からは、改正前には、「共同採択地区で同一教科書を使う義務は存在しなかった」と言える。これまでの竹富町教委の行動に違法があったとは到底考えられない。今後は、県教委の承認があれば、竹富町の独立した教科書採択は可能となる。「竹富町の役場自体、石垣市の港近くにある。地域性から同市と共同採択するのが自然だ」などの言は児戯に等しい。役場の存在場所が自治体の独立性を蹂躙する理由にはならない。「共同採択が自然だ」などというふやけたことが何の根拠とも理由ともなり得ない。

「下村博文文部科学相は、採択の際に教科書の内容を吟味する調査研究が、小規模の教委では難しいことも挙げ、法の趣旨を竹富町教委に「しっかり伝える」としている。沖縄県教委も法を曲げないでもらいたい。協議会が育鵬社版を選んだのは、尖閣諸島を抱える地域性から、領土などの記述が詳しい内容を重視した結果だ。」

ここにいたって、本性露顕である。恐るべき「論理」といわねばならない。教育の本旨の何たるか、教育が行政から、なかんずく国家から独立していなければならないとする大原則に無理解も甚だしい。「小規模教委は大規模教委に付け」とするのは、教育の地方分権に対する露骨な敵対感情である。教育は国家統制から距離を置かねばならない。国より広域自治体の教育委員会、広域自治体よりは基礎自治体の教育委員会、さらには学校、そして教師一人一人の独立と、分権が理想である。産経社説の「論理」はその真逆なのだ。

「同社版の歴史や公民教科書に対しては「戦争を美化する保守系教科書」などと批判が繰り返されていた。いわれのない教科書批判にとらわれ、採択を歪めたのは竹富町や沖縄県教委の方である。法に従わぬ教育委員会に安心して教育は任せられない。国の責任で是正を果たしてもらいたい。」

まさしく、国家による教育統制が安倍政権の狙いであり、右往左往しながらも、下村文科省の狙いでもある。そして、産経・読売がその応援団となっている。

本日の読売社説の一節に、「竹富町教委だけが独自に異なる教科書を採択したのは、明らかに違法行為である。文科省が地方自治法に基づき、是正要求を発動したのは当然のことだった。是正要求に従おうとしない竹富町教委の姿勢は、教育行政を担う機関として、順法精神に欠け、許されるものではない」とある。沖縄タイムスや琉球新報社説を読めば、読売の異常さは明らかとなる。しかし、何百万もの読者に、「竹富町教委・違法」と垂れ流す読売の影響力に背筋が寒くなる。

最後に3月15日琉球新報社説の末尾を引用しておきたい。

『竹富町の教育現場では(教科書採択問題が生じて以来の)過去2年、問題は起きていない。仲村守和元県教育長によると、問題行動は皆無で学力は県内トップ級、科目によっては全国一の県をも凌駕(りょうが)する。静穏に教育が行える環境ができているのだ。子どもたちに無用な混乱をもたらしているのはむしろ文科省の方ではないか』
産経よ、読売よ。竹富町への無用な混乱の助長は余計なお世話なのだ。

琉球新報は、文科省から竹富町に対する違法確認訴訟をスラップ訴訟と警戒している。しかし、竹富町は、このスラップ訴訟の提起を恐れることはない。恫喝目的の提訴自体が不法行為を構成する可能性は高い。その場合には、応訴費用を反訴請求することも可能となる。
がんばれ竹富。叛骨の島。
(2014年4月15日)

日本国憲法9条を保持する日本国民にノーベル賞を

「憲法9条にノーベル平和賞を」という運動が話題になっている。憲法9条にノーベル賞という発想だけでなく、一人の主婦の発案からはじまった運動としても話題性十分。

ノルウェーのノーベル賞委員会から、署名を集めた市民実行委員会や推薦人の大学教授らに、2014年のノーベル平和賞候補として正式に受理したとの通知が届いたと報じられている。今年の候補は278件で、10月10日に受賞者が発表されるという。

「この活動は神奈川県座間市の鷹巣(たかす)直美さん(37)が発案し、昨年1月から署名活動を始めた。市民実行委が昨夏発足、推薦資格のある大学教授らに呼びかけた。今年2月1日の締め切りまでに学者ら42人が賛同し、約2万5000分の署名と共に応募した。」
「受賞資格は個人または団体のため『憲法九条を保持する日本国民』としてノミネートされている。実行委メンバーは『改憲を目指す安倍政権を、国際的な力で穏便に止められる手段だと共感を得た。多くの人が平和憲法を尊び、危機感を持っていると実感した』と話している。」(東京新聞)

「憲法9条を世界遺産に」という大田光さんの著書がある。古賀誠元自民党幹事長の「9条は平和憲法の根幹で、世界遺産だ」という話題の発言もあった。こちらの方が普通の発想。だが、ユネスコに世界遺産登録申請の具体的な運動が起きたことは聞かない。一人の主婦がノーベル平和賞の受賞を目指す運動を始めたこと、それがノミネートの段階まで漕ぎつけたことに脱帽するしかない。

しかもこの発案者の発想は、極めて真っ当なのだ。「『戦後70年近くも日本に戦争をさせなかった9条に(平和賞受賞の)資格がある』とひらめいた。安倍政権が改憲への動きを活発化する中、『受賞すれば9条を守れる』と思ったことも大きかった (1月3日東京)」という。しっかり応援をしたい。

もっとも、多少の引っかかりを感じないわけでもない。「憲法9条にノーベル賞を」という発想は、ノーベル賞のもっている権威を前提に、憲法9条に権威のお裾分けをいただこうというものではないか。はたして、ノーベル平和賞とは、そんなに権威ある存在だろうか。また、憲法9条とは、ノーベル平和賞よりも権威のないものなのだろうか。

私の記憶では、佐藤栄作の受賞がノーベル平和賞のイメージを決定づけている。キッシンジャーが受賞し、オバマが受賞したこのノーベル平和賞の政治性は覆いがたい。はたして、ノーベル平和賞はその権威において、日本国憲法9条を凌ぐものだろうか。

ところで、法の歴史において、近代立憲主義の嚆矢となったものはアメリカ合衆国憲法(1787年)であり、輝かしく基本的人権を宣告したのはフランス人権宣言(1789年)である。ともに、過去の遺産ではなく、いまだに実定法として生きている憲法の一部である。

合衆国憲法は、後に「権利章典」部分を修正条項として付加して今日に至っている。フランスの第5共和国憲法は統治機構部分を有してはいるが、独自の人権宣言部分をもたない。前文で「1946年憲法で確認され補充された1789年宣言によって定められた、人権および国民主権の原則に対する愛着を厳粛に宣言する」として、1789年人権宣言の各条項に基づいて違憲立法審査権を行使しているとのことだ。

これらこそノーベル賞ものであり、世界遺産当確と思うのだが、アメリカ人やフラン人にしてみれば、合衆国憲法も、人権宣言もノーベル賞よりも権威ある存在として、ノーベル賞にノミネートという発想にはならないにちがいない。日本国憲法9条が、合衆国憲法や人権宣言のごとくに、歴史的にも地理的にも尊敬を勝ち得、やがてはノーベル賞など足元にも及ばない権威を獲得する日の来たらんことを願う。

なお、ひとつ提案がある。憲法第9条が受賞した場合、授賞式に臨む日本国民の代表者を選任しなければならない。これまで運動を担ってきた関係者とは別に、「9条を保持する日本国民」の代表としてふさわしい人物を。

戦争責任者の長男である天皇は、「9条を保持する日本国民」の代表としては、最もふさわしからぬ存在である。9条破壊に専念している安倍もその資格を欠く。

そこで、一般国民の中から、もっともふさわしい「9条国民代表」を選任するための大イベントを企画してはどうだろうか。年齢・性別・国籍・居住地・職業等の属性一切関係なく、日本国民としての自覚だけを要件とすればよい。そして、9条についての思いを作品にして、募集するのだ。論文・散文・小説・詩・短歌・俳句・絵画・彫刻・工芸・写真・動画・作曲・落語・浪曲・能・狂言…。要するに何でもよい。大会場で、自薦他薦のスピーチ大会を開催して、投票で代表を選任する。いかがだろうか。

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          安倍晋三の「観桜会」に思う
樋口一葉に「闇桜」という作がある。幼い頃から隣どおし、兄妹のように育った二人の物語。この二人は伊勢物語の「筒井筒」のように結ばれることはない。
娘は「一粒ものとて寵愛はいとど手の内の玉かざしの花に吹かぬ風まずいといて願うはあし田鶴の齢ながかれとにや千代となづけし親心にぞ見ゆらんものよ栴檀の二葉三つ四つより行く末さぞと世の人のほめものにせし姿の花は雨さそう弥生の山ほころび初めしつぼみに眺めそはりて盛りはいつとまつの葉ごしの月いざよう」と美人薄命を暗示される。終章、男はなすすべもなく、病床の娘の手をとりて、「風もなき軒端の桜ほろほろとこぼれて夕やみの空鐘の音かなし」でおわる。何ともじっれたい話。

坂口安吾の「桜の森の満開の下」は山賊の話。「この山賊はずいぶんむごたらしい男で、街道へでて情容赦なく着物をはぎ人の命も断ちましたが、こんな男でも桜の森の花の下へくるとやっぱり怖ろしくなって気が変になりました」。そんな男が、例のとおり身ぐるみはごうとした女のあまりの美しさに、身も心も奪われて女房にしてしまう。ところが、この女が「外面如菩薩内心如夜叉」で、男は都に出て悪逆非道を尽くすことを強いられる。盗み、殺し、贅を尽くした都暮らしを続けるが、いつしかむなしさを感じた山賊は山に帰ろうと決意する。女はいやがるが、仕方なく山へ帰ることに同意する。花びらが一面に散り敷いた桜の木の下にたどり着いたとき、背負ってきた女が「鬼」に変わっているのに気づいた山賊は、女をくびり殺してしまう。「彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変わったことが起こったように思われました。すると、彼の手の下にはふりつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も、伸ばしたときにはもはや消えていました。あとに花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりでした。」悪い女に迷った男のよくある話。しかし、男は繊細で感じやすい人間であり、救いがある。

次は国家権力による「桜の利用」。「桜・・それはすこやかに輝く命の花であった。そこに死の翳などの入りこむ余地はなかった。その花を、明治政府のかつての志士の幸運な生存者たちである薩長の軍事官僚たちが、勝手に武人の花、死の花に変えてしまった。明治中期、九段坂上に、戊辰・西南の内戦での戦死者たちを祀った招魂社(現・靖国神社)を建立した際、その社前に桜が植樹され、明治後期の二度の外征での若い死者たちもここに合祀されて、桜は『九段の花』として軍事国家時代の国民に深く印象づけられた」(「桜と日本人」小川和佑著)

周知のとおり、東京の開花宣言の標準木は靖国神社の境内にある。その花の盛りが過ぎたころの4月12日、新宿御苑で安倍首相が「観桜会」を催した。14000人の人が招かれ、盛大なものであったと報じられた。その席で、安倍は「給料の上がる春は八重桜」と、信じがたい駄句を披露している。

安倍は、可能であれば、九段の靖国神社に参拝し、靖国での観桜会をしたかったであろう。新宿御苑の観桜会はこれに代わるものだが、美しい「八重桜」もことのほか迷惑顔。そして、心なし安倍の駄句に赤面した風情だった。悪逆を尽くした山賊も、その害悪と責任の大きさにおいて、靖国に合祀されている戦犯には足もとにも及ばない。その戦争に無反省な安倍晋三らにも。

花は、確かに人を狂わせる。一葉のえがく余りにも繊細でか弱い人たちのようでもなく、坂口安吾のえがく孤独で内省的ではあるが残虐な山賊のようでもなく、そして安倍晋三のごとく臆面もなく策と思惑を露わにしてのことでもなく、美しいものを美しいとして、こころしずかに花見をしたいものである。
(2014年4月14日)

カジノ解禁法案に反対する

賭博は犯罪である。単に違法な行為というだけのものではない。国家が刑罰権を発動して制裁を科する必要があるとされているのだ。その本質において、互いに相手の財産を奪い合う醜い行為であり、やがては身を滅ぼす行為でもある。単純賭博罪(刑法185条)、常習賭博罪(同186条1貢)、賭博場開張図利罪(同186条2項)。博徒結合図利罪(同)と類型化され、富くじの発売も、発売の取次も、授受も犯罪(同187条)とされている。

「賭博は、お互い負ければ取られることを覚悟でのゲームだ。大人の娯楽として、刑罰をもって禁圧するほどのことはあるまい」という意見は、昔からある。賭場を開帳して、寺銭を稼ごうという有力者の声が大きい。しかし、賭博の実態が、その禁圧の必要性を確認し続けてきた。

ダンテの「神曲」では、賭博を行う者は、「他人の不利を自己の利とせし」罪によって地獄に堕ちている。最高裁は、「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済の影響を及ぼす」と説明している。賭博とは、マクロに見れば参加者から収奪するシステムにほかならない。宝くじもおなじ。

賭博あるいは博打は、人を不幸にする。賭博の公認は、大規模に不幸な人をつくり出す。横文字にして、賭博や博打をギャンブルといい、賭場をカジノと言い換えても、事情はまったく変わらない。

昨今は、賭博の経済効果が喧伝されている。そして、イメージを一新しようと、「IR」などと言葉をもてあそぶ。IRとは、定着しているInvestor Relationsの略語ではなく、Integrated Resortの訳語、カジノを中心とした複合型娯楽施設のことだそうだ。「統合型リゾート」の訳されている。その狙いは、賭博の本質が発散する胡散臭さをカムフラージュすることにある。

超党派の「IR議連」が立ち上げられ、議員立法で「特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案」が昨年12月に提出された。認可業者が、国の認定を受けた地域でカジノを中心とする「特定複合観光施設」を設置・運営できるとするもの。その法案の審議が連休明けから動き出すと観測されている。

法案の推進母体となっている「IR議連」の正式名称は、「国際観光産業振興議員連盟」。最高顧問として安倍晋三、麻生太郎、石原慎太郎、小沢一郎などのおぞましい面々が並ぶ。業界の利権とのつながりが懸念され、それあらんか、維新の会がことのほか熱心だ。

経済紙誌に、「1兆円の市場規模」「いや、年間で総額400億ドル(約4兆円)の売り上げを期待」「ラスベガス、マカオに次ぐ巨大施設建設を」「ロビー活動活発化」「お台場に」「大阪湾の人工島・夢洲(ゆめしま)に」「震災からの復興の目玉に」と、景気のよい話と危ない話しとが踊る。博打奨励の尻尾を隠して、「海外の観光客を誘致してお金を落としてもらい、国内の雇用を増やし、経済を活性化させる」などと「大義」が説明されている。とりわけ、2020年の東京五輪招致がカジノ設立のチャンスと捉えられている。業界には、これ以上ない美味しい話し。庶民には不幸のばらまき。
 
もちろん、カジノ解禁法案に反対の世論は健在である。特に注目されているのが、弁護士の動き。昨日(4月12日)、「多重債務者の支援に取り組んできた弁護士らが、法案に反対する団体を設立し、全国で反対運動を行なっていくことなどを確認した」ことが報道されている。

彼らは、社会問題としての多重債務問題のおおきな一因として、ギャンブルやギャンブル依存症があることを、深刻に受けとめてきた。これまでは、競馬、競輪、パチンコ、宝くじの類である。「ギャンブルで借金を作り、家族や仕事を失う悲惨な人たちを私たちは見てきました。そうした犠牲を基に経済活性化を目指す国でいいのでしょうか」という代表(新里宏二弁護士・仙台)の言葉が紹介されている。人の不幸に向かいあってきた弁護士グループの言葉として重い。IRの公認は人の不幸に輪をかけることになる。

これから、国会議員に反対を訴えていくほか、大阪・沖縄・東京・仙台など、カジノの誘致を検討しているといわれる自治体に対して、具体的な反対運動を行なっていくことを確認したという。

カジノは、人を不幸にする。人を不幸にしての経済振興はあり得ない。また、カジノ誘致には、基地や原発の誘致と同じ匂いがする。基地や原発に依存した経済の二の舞となることが目に見えている。

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           「ローズマリーの庭」
イングリッシュガーデン愛好家のバイブル「ローズマリーの庭にて」の著者ローズマリー・ヴィアリー(1919?2001)は四月について以下のように書いている。

「ガーデニングに関心のある者にとって、春とは、大地の温度が上昇するときを意味する。道端に雑草が生えてきたらいよいよ種のまき時だ。わざわざ寒暖計で測定しなくても、まいたものは必ず発芽してくれる。それともう一つ、大地の匂いが良い年はすべてのものの生育が良好と期待していい。」

「四月とは名ばかりの寒い日が続いたのでヘッジロウ(生け垣)には春の気配は全く感じられない。葉を落とした灌木の枯れ枝がそう思わせるのだ。が、そうみえるだけで生き物たちは本格的な春に備えて着実に活動を始めている。注意していれば生け垣に沿って早足で駆けていくウサギの後ろ姿を見かけるはずだし、枯れ枝と紛らわしいのでわかりにくいだけで、ウズラたちも何やら忙しそうだ。『三月の声を聞くといてもたってもいられなくなる』といわれる活発な野ウサギたちにいたっては、長い後ろ足を最大限に生かして野原をぴょんぴょん飛んで跳ねている」

90年代に日本ではイングリッシュガーデンブームが巻き起こった。およそ似て非なるものであることは承知しながら、みな競って、日本の狭い庭にカタカナ名前の花苗を植え、装いを凝らしたものだ。雑誌や写真誌もイギリスの広大な庭に咲きそろった美しい花壇の写真を載せた。「キングサリ」の黄金色のアーチや「ホワイトガーデン」、「香りの庭」に夢中になり、英国庭園ツアーに大挙した。

その有名な庭園のひとつ「バーンズリーハウス」のオーナーが、高名な女性ガーデンデザイナーのローズマリー・ヴィアリーさんだった。「バーンズリーハウス」は英国でも特に美しいコッツウォルズ地方にある。コッツウォルズ特産の蜂蜜色のライムストーンで300年以上前に建てられた、典型的な英国の美しい屋敷である。その庭をローズマリー・ヴィアリーさんが30年以上かけて、手作りで造りあげ公開していた。4エーカーというから5000坪ほどの庭である。広大ではあるが、手に負えない広さではない。憧れにぴったりの、田園地帯の「良きイギリスの庭」だったと思う。生前のローズマリーさんに会った人たちは彼女の気取らない実直で穏やかな人柄に魅了されたようだ。目の前に造り上げられた美しい庭を見、彼女の数々の著作に触れれば当然なことだ。「聖地」を訪れる「巡礼者」は全世界から引きも切らなかったことと思われる。

私も写真で見たキングサリのアーチに魅せられて、せめて黄色い藤の花房を見上げてみたいものだと、苗屋から買ってきては何本も枯らした思い出がある。白い花や香りのある花に関心が向くようになったのも、それからのことである。

「毎年四月下旬には野生のパルサティラ・バルガリス(セイヨウオキナグサ)を観に行くことにしている。石灰岩がむき出しの西向きの急斜面に何千、何万というブルーの花が咲き乱れるのである。崖の下から見上げるようにすると一番よく見える。花は6センチほどの短い茎に隠れて見にくいからである。・・この素晴らしい花畑の地主はグロスターシャー自然保護トラストからの要請で、花が咲き出してから種子が完全に地面に落ちるまでのあいだ、家畜を一帯に近づけないと約束したそうである。トラストはこのような自然を後世に伝えていくための地道な活動を全英五十箇所で行っている。そのほか成人向けの教育プログラムと子ども向けの自然観察など、その活動は幅広く、頭が下がる思いだ。」

ここに出てくるトラストとは、英国において歴史的名所や景勝地を保護するために1895年設立されたボランティア団体、通称「ナショナル・トラスト」のこと。現在27万ヘクタールの田園地帯、960キロメートルの自然海岸、300カ所余りの歴史的建造物、230カ所余りの庭園が寄贈され、買い取られたりして、保有、公開されている。「ピーターラビット」の著者ビアトリス・ポターの保存した湖水地方やチャーチル首相が幼い頃過ごした邸宅チャートウェルなどが有名である。

このように書いたローズマリーさん亡きあと、「バーンズリーハウス」は残念ながら、ナショナルトラストの保有するところとはならなかった。ホテル業者に売却されて、宿泊客と食事をする客だけに庭は公開されているという。聖地が冒涜されたような、少々切ない気持ちになりながら、ガーデナーとしてのローズマリーさんの夢の結実の庭園がどのような形でも長く受け継がれていきますようにと切に願う。
(2014年4月13日)

竹富町の八重山採択地区からの独立の意向を尊重せよ

参議院事務局企画調整室編集・発行の「立法と調査」誌(2014年4月号、№351)に、「教科書無償化措置法の改正ー問われる共同採択制度」という論稿が掲載されている。執筆者は、「参議院文教科学委員会調査室 平井祐太」氏。2014年3月14日に執筆されたもの。A4・10頁の分量だが、経過と論点が要領よくまとめられている。しかも、私の印象では客観的で公平。これを紹介しながら、竹富町への育鵬社教科書の押しつけの不当と、八重山採択地区からの独立の意向を尊重すべきことを論じたい。

なお、下記のURLで、PDF化された同論稿を読むことができる。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2014pdf/20140401011.pdf

同論稿は「教科書採択制度の概要」「沖縄県八重山採択地区における教科書採択問題」「本法律案の提出」「本法律案の概要」「論点」と解説し、今回八重山における教科書採択問題に対応する必要からの最小限の法改正案の提案に至った事情が述べられている。注目すべきは、文科省が法案を作成した当時から、「採択地区設定単位の柔軟化」が意図されており、竹富町の「八重山採択地区」からの離脱のあり得ることが想定されていたということである。

周知のとおり、2012年度から使用する中学校公民教科書の採択に関して、石垣市と与那国町が育鵬社本を採択し、竹富町は東京書籍本を採択している。

「問題の発端は、平成23年8月23日、八重山採択地区の採択地区協議会(各教育委員会の教育長・教育委員1名、PTA連合会代表、学識経験者の計8名で構成)が、中学校公民教科書について、育鵬社版の教科書を選定・答申した(引用者註ー5対3)ことに始まる。答申を受け、石垣市・与那国町は同社の教科書を採択した一方、竹富町は東京書籍版の教科書を採択し、同一採択地区内で異なる教科書が採択される事態が生じた。この事態を受け、8月31日、八重山採択地区協議会規約に規定される同協議会役員会(3市町の教育長により構成)において再協議が行われ、竹富町に対し、採択地区協議会の結果どおりの採択を行うよう要請された。一方、9月8日には、沖縄県の求めに応じ、3市町の教育委員全員で構成する地区教育委員協議会が開催され、東京書籍版の「選定」を多数決で決定した。これに対し、石垣市教育長と与那国町教育長が、上記の協議会は何ら法的根拠を有しないものであり、その協議は無効である旨の文書を文部科学省に提出するなど、事態は複雑化していった。これに対し、文部科学省は、9月15日、沖縄県に対し、採択地区協議会の規約に従ってまとめられた結果に基づき、同一教科書を採択するよう求める文書指導を行っ(た)」

留意すべきは、「9月8日には、3市町の教育委員全員で構成する地区教育委員協議会が開催され、東京書籍版教科書の「選定」を多数決で決定」しているのだ。地区協議会と教育委員協議会との判断が捩れたことになった。

この事態に、「10月26日の衆議院文部科学委員会において、中川文部科学大臣(当時)より、教科書の無償給与についての考え方が示された。
…文部科学省としては、8月23日に出された八重山採択地区協議会の答申及び8月31日の同採択地区協議会の再協議の結果が協議の結果であって、それに基づいて採択を行った教育委員会、これは石垣市と与那国町ということになるわけですが、これに対しては教科書の無償給与をすることになるものというふうにまとめていきたいというふうに思っています。 協議の結果に基づいて採択を行っていない教育委員会、これは竹富町になるわけですが、これについては、国の無償供与の対象にならないということでありますが、地方公共団体みずから教科書を購入して生徒に無償で供与するということまで法令上禁止されるものではないという解釈が法制局の方からも出てまいりましたので、これに従って淡々とやっていきたいということであります。」

その結果竹富町は、教科書の無償給与を得られないことにはなったが、東京書籍版教科書の採択は認められた。これで、一件落着のはずだった。ところが、ことは淡々とは進まなかった。安倍政権の誕生で事態は急変する。国家主義万歳、歴史修正主義大好きの政治家たちが、なんとか竹富町にも育鵬社教科書を押し付けたいと画策をはじめたからだ。

それが、文科相から沖縄県に対する是正要求となり、さらには前代未聞の本年3月14日付竹富町に対する直接の是正要求ともなった。そして、本年2月28日国会提出の、「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律の一部を改正する法律案」である。

その法案提出の動機は、「自由民主党内においては、平成24年11月に設けられた教育再生実行本部教科書検定・採択改革分科会が、採択地区内で採択する教科書について意見が違った場合の対応について法制度で規定するための検討を行い、12月に発表した中間取りまとめにおいて、教科書無償措置法と地教行法の法的な整合性を図る旨が明記された。さらに、平成25年6月には、教育再生実行本部教科書検定の在り方特別部会が、議論の中間まとめを発表し、教科書採択の権限と責任が十分果たされるよう徹底を図ることを求めた。」

「その一方、こうした中、文部科学省は、平成25年11月、『教科書改革実行プラン』を策定し、同プランに基づいた、教科書制度全般の改革を表明した。特に教科書採択については、『共同採択について、構成市町村による協議ルールを明確化』、『市郡』単位となっている採択地区の設定単位を『市町村』に柔軟化…が記載された。」

この「柔軟化」に関する条文の変更は以下のとおりである。

これまでの教科書無償措置法第12条1項(採択地区)の文言は「都道府県の教育委員会は、当該都道府県の区域について、市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域に、教科用図書採択地区(以下この章において「採択地区」という。)を設定しなければならない。」というもの。
改正法では、この条文中の「市若しくは郡」が「市町村」に変更された。

法改正の趣旨は、「採択地区内で教科書が一本化できず、教科書の無償給与ができない事態の発生を防止すること等を目指し」とされている。八重山地区協議会内の自治体間で同一教科書採択の合意調整ができない現状を打破するには、竹富町に意に沿わぬ教科書の採択を強制するだけが方法ではない。文字どおり、「採択地区の設定単位を柔軟化」すれば済むことではないか。そのことによって、竹富町にも教科書の無償給与ができることになる。これこそ、住民自治団体自治の尊重であり、子どもたちの学習権を充足させる王道というべきであろう。

同論稿の「論点」には、「柔軟化」問題について、次のように述べられている。
「本法律案により、採択地区の設定単位が市町村となることで、より柔軟な採択地区の設定が可能となることが期待される。この点について、八重山教科書問題において、沖縄県教育委員会が、八重山採択地区から竹富町を分離することへの見解を文部科学省に対して求めたところ、同省は、今回の改正後においても、採択地区については教科書の調査研究が可能か、地理的に近接しているかなどの諸条件を踏まえ決定されることが必要で、八重山採択地区の分割は適当でないとの見解を示した。下村文部科学大臣も、今回の法改正はあくまで飛び地の解消が目的であり、共同採択の協議が難航した場合に採択地区の分割を可能とすることが目的ではないと述べている。しかし、本法律案が成立すれば、竹富町が八重山採択地区から分離することに、『法律上の問題はない』との声もある。本法律案によって、沖縄県が採択地区を分割して問題を解消することは法的に可能なのか等、確認していく必要があろう。」

前述のとおり、改正法は12条1項の文言を「市若しくは郡」から「市町村」に変更した。その趣旨は、「柔軟化」である。各教育委員会が不本意とする教科書の採択を強要されることを防止するための工夫の余地を拡げるということだ。

市町村立の小中学校においては、採択地区の設定は、都道府県教育委員会が、市長村教育委員会の意見を聴いて行うものとされている。もし、沖縄県教委が、竹富の八重山地区協から独立の意向を無視した場合には、軋轢が生じる。しかし、昨日(4月11日)の報道によれば、竹富町教育長は八重山地区協議会からの独立を表明、「沖縄県教委の諸見里明教育長は『町の判断を尊重する』と容認する方針」とのこと。今度こそ一件落着なのだ。

改正法の施行は、「平成27年4月1日から施行する。ただし、第12条第1項…の改正規定は、公布の日から施行する。」とされている。

「公布の日」とは、閣議決定を経て改正法が官報に掲載される日のことをいう。院の議長から内閣を経由して形式上天皇に奏上された日から30日以内に公布の手続をしなければならない。官報掲載がなされ次第、沖縄県教委は、竹富町教委の意向を確認して、採択地区再設定の手続を粛々と行えばよい。これで「違法の疑い」は完全に解消される。

文科大臣がこれに異を唱えるのは、大人げなくもあり、地方自治への不当な介入でもある。さらに、沖縄の県民感情を逆撫ですることにもなろう。よけいなことはしないことだ。
(2014年4月12日)

閣議決定での「集団的自衛権限定容認」は禁じ手だ

人は様々である。それぞれに密かな愉しみがある。他人から見れば、なんとたわいもない些事。「それがどうした」と、一蹴される類のもの。

最近の私の愉しみは、ときどきグーグルで「憲法」というキーワード検索を試みること。その検索のトップページに当ブログがあれば安心する。その順位があがればニンマリする。絶対に誰からの共感も得られない、理解を分かち合うこともできない、そのようなささやかで密やかな愉しみ。

本日午前中、「憲法」のキーワードで、グーグル検索をかけてみたところ、ヒット数は「約9,370,000件」となっている。そのトップページに並ぶトップテンは以下のとおり。
1位 日本国憲法(政府運営サイトe-Govの公式憲法典条文)
2位 憲法のニュース検索結果
3位 憲法 – Wikipedia
4位 日本国憲法 – Wikipedia
5位 法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生- 国立国会図書館
6位 澤藤統一郎の憲法日記 – article9.jp
7位 憲法とは-コトバンク- Kotobank
8位 憲法会議
9位 憲法 – キーワード(赤旗)- 日本共産党中央委員会
10位 法学館憲法研究所

グーグルがどういう基準で、配列の順位を決めていているのかは知らないし、想像もつかない。それでも、憲法会議と共産党を抜いた。小さく「万歳」をしよう。

1位のe-Gov「日本国憲法」は不動の位置を確保している。これを抜くことは不可能だろう。挑戦の対象はまずは「国会図書館」である。そして、次はWikipediaだ。これを抜くことができたら…、別になんと言うこともないのだが。コツコツと毎日ブログの掲載を継続して、より多くの人に読んでもらえるようになりたいものと思う。

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グーグルの「憲法」検索で本日2位の座を占めている「憲法のニュース検索結果」の内容は、本日(4月11日)午前4時22分配信のNHKニュース、「憲法解釈変更で容認は立憲主義に反する」というもの。

「政府が右と言えば、左と言うことはできない」という会長をいただくNHKである。首相が「集団的自衛権行使容認という憲法解釈変更を閣議決定で」とやる気満々に、「右」を指し示している。敢えてこれに水を差して、「憲法解釈変更で集団的自衛権行使容認は立憲主義に反する」と、「左」の立場からのニュースを流してもよいのだろうか。あのときと同様に幹部が官邸に呼びつけられて、「放送法を遵守せよ。それ以上のことは言わない。言わなくてもわかっているだろう」と安倍晋三から言われることにならないか。あるいは、わざわざ安倍が乗り出さなくとも、籾井会長レベルで、「放送法遵守の観点から徹底調査する」何てことにならないだろうか。NHKには、一々心配がつきまとう。

NHK報道の内容は、昨日(4月10日)夕刻に、日弁連が主催した「シンポジウム 集団的自衛権と憲法ー『積極的平和主義』を問う」の報道。正確な報道は、安倍政権の基本政策に道理のないことを明らかにすることになる。

シンポジウムは、北澤俊美氏(元防衛大臣)の基調講演とパネルディスカッション。パネラーは、北澤氏の他は、阪田雅裕氏(元内閣法制局長官)、谷口真由美氏(全日本おばちゃん党)、半田滋氏(東京新聞論説委員)。村越進日弁連新会長も、危なげない挨拶をしていた。

NHKが取材に来ていたことは知らなかったが、ネットでは次のとおりの報道とされている。

「集団的自衛権と憲法について考えるシンポジウムが10日夜、都内で開かれ、防衛大臣や内閣法制局長官の経験者が、『憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認するのは立憲主義に反する』などと批判しました。

シンポジウムは、日弁連=日本弁護士連合会が開いたもので、最初に、北澤俊美元防衛大臣が講演しました。

この中で、北澤元防衛大臣は、安倍総理大臣が集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈の変更に意欲を示していることについて、『憲法解釈の変更で集団的自衛権の行使を容認することは立憲主義に反し、自衛隊にとっても死活問題だ。たとえ総理大臣であっても過去の解釈と整合性のとれない変更をすることは許されない』と批判しました。

続いて行われたパネルディスカッションでは、集団的自衛権の行使を容認する根拠として昭和34年に出された「砂川事件」の最高裁判決が引用されていることが議論になりました。パネリストの1人で、元内閣法制局長官の阪田雅裕さんは、『当時は、国際法上、集団的自衛権の概念も明確ではなかった。これまで議論になったこともない判決を根拠に憲法解釈の変更を正当化するのは不可解だ』と指摘しました。会場を訪れた女性は、『安倍政権に危機感を感じ、憲法の勉強を始めました。子どもや孫を戦争には行かせたくないので反対の声を上げていきたい』と話していました。」

NHKの報道は立派なものではないか。第一線の現場はがんばっている、ということがよくわかる。会長と、経営委員だけがおかしいのだ。

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シンポジウムでは、淡々と語った阪田さんの発言に重みがあった。

「私は、防衛政策の在り方に発言する立場にはない」とし、「私が言いたいことは、立憲主義を大切にすべきだということに尽きる。憲法9条2項に整合的な解釈として、集団的自衛権行使容認の余地はない。集団的自衛権を容認するのであれば、96条に定められた改正手続きを経て国民が憲法を改正する道を執るべきで、内閣の解釈変更で憲法が許さないことをやってしまおうということは、立憲主義に反するし、法治国家にあるまじきこと」

「違法な戦争はできない。合法的な武力の行使には二通りしかない。個別的自衛権の行使か、集団的自衛権の行使か。憲法9条2項は、戦力の不保持を明記している。これは、自衛のための最小限度の実力組織の保持と、個別的自衛権の発動に限っての武力行使を認めたものと読むべきで、集団的自衛権行使は認めないことと表裏をなしている。集団的自衛権行使を容認したら、自衛隊は他国の軍隊とまったく同じになってしまい、憲法9条の存在意義がなくなってしまう」

「これを限定容認なら、ということはできない。これまで積み重ねられてきた歴代内閣の整合的な憲法解釈を崩してしまうもの。安保法制懇の答申にもとづいてという手法も姑息だ」

専守防衛に徹すべきだという真摯な論調は力強く貴重なものと思う。

昨年(2013年)の4月?5月は、96条先行改憲論に反対する統一戦線的論調が世論に浸透して、安倍政権のたくらみを潰した。今年は、集団的自衛権行使容認論批判だ。とりわけ、「限定的容認論」なら落としどころではないか、という自民・読売的論調への徹底批判が必要だ。たまたま、本日(4月11日)の毎日社説が、「集団的自衛権 限定容認論のまやかし」である。世論調査の動向を見ても、うん、今年も勝てそうだ。

ところで、日弁連や、在京3弁護士会が主催する、市民向け公開シンポジウムは一切費用を取らない。無料というだけではない。さすがに、いつも充実した内容。

下記のサイトが今後のイベント一覧を掲載している。近々、袴田事件の報告集会もある。特定秘密保護法に関して西山太吉氏の対談も予定されている。是非、霞ヶ関の弁護士会館に足を運んでいただきたい。
http://www.nichibenren.or.jp/event.html

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NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い。

下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
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    NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
 ※郵便の場合
  〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
 ※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
 ※ファクスの場合 03?5453?4000
 ※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
    http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
  *籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
  *経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
  *百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
  *経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
以上よろしくお願いします。
(2014年4月11日)

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