「安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京ニュース」の「第0号」をメールで送信いただいた。提訴前の準備段階なので「0号」なのだろう。A4・4頁の立派なレイアウト。会の熱意と意気込みが伝わってくる。支援と激励の立ち場を明確にして、内容をご紹介したい。
第1ページが、会の事務局長による「提訴します」宣言。2頁に原告代表の関千枝子さんが「わたしはなぜ原告になったか」の記事。そして、3頁に弁護団の2名の弁護士が「司法の場でともに闘う決意」を述べている。4頁が提訴スケジュールと、4月21日当日の提訴報告集会の呼び掛け。また、大阪からの「先陣を切っての提訴」予定の報告もある。
大阪の提訴は、明日(4月11日)の予定。下記のURLに、以下のお知らせがある。
http://www.geocities.jp/yasukuni_no/
「安倍首相靖国参拝違憲訴訟・関西」いよいよ提訴!
4/11 訴訟団出発集会!
安倍内閣の戦争国家推進の前に立ちはだかろう!!
関西第一次訴訟団=原告団・弁護団・サポーター、圧倒的“元気”で出発です。
「靖国の亡霊」を生かしてはならない。二度と靖国の神にされてはたまらない!
2014年4月11日・スケジュール
2:45大阪地方裁判所正面玄関前集合
提訴3:00? 提訴後記者会見
訴訟団結団・提訴報告集会
日時4月11日(金)6時30分?
場所エル大阪・南館102号(地下鉄・京阪「天満橋」西300m)
引き続き 二次訴訟原告 募集中
そして、東京の提訴は、4月21日の予定。こちらは「安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京」が立ち上げた下記のホームページに、「原告になりませんか」という呼びかけがあり、訴訟委任状のダウンロードもできる。
http://homepage3.nifty.com/seikyobunri/
安倍首相の靖国神社参拝が憲法違反であることを確認する訴訟に加わりませんか?
原告を募集しております。原告は無理という方は、支援者になることも出来ます。
「ニュース・0号」の末尾、提訴報告集会への参加呼びかけ文を転載する。
2013年12月26日、安倍晋三首相が靖国神社を参拝しました。
礼装し、公用車で靖国神社に向かい、「内閣総理大臣安倍晋三」と記帳し、正式に昇殿参拝しました。これは公式参拝であり、日本国憲法20条(政教分離)に明らかに違反をしております。
2014年4月21日に、170名以上の原告が具体的な形で安倍首相に批判の声を届けるべく、安倍靖国参拝違憲訴訟を東京地方裁判所へ提訴します。
この訴訟は違憲を確認し、将来にわたる公式参拝差し止めを求める裁判ですが、「政教分離」だけでなく、平和的生存権はもちろん、「秘密保護法」成立の強行、「集団的自衛権」「武器輸出」推進、その他社会全般に及ぼうとしている安倍内閣の危険な政治を総合的に問う訴訟になればと願っています。
提訴の日はアメリカよりオバマ大統領が来日する前日に当たります。また靖国神社でもっとも重要な祭事である春季例大祭の初日に当たります。この国が人の住むにふさわしい平和な国になるように、平和憲法を護り世界の平和の先頭に立つ国になるように、訴訟団(原告、支援者、弁護団)一同、思いを一つにして勝利したいと願い、その戦いを東京から世界へと発信します。
つきましては、その気持ちを分かち合うべく提訴の日に、呼びかけ人・弁護団と共に報告集会を持とうと思います。
万障繰り合わせの上、お越しいただきたくお願いいたします。
原告以外であっても関心ある方はぜひご参加くださり、皆様の共なる連帯を願っています。
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原告第2次募集のお知らせ
2014年4月1日より、原告第2次募集をします。応募要領は第1次と同じです。委任状も同じもので結構です。ご応募ください。
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安倍首相の靖国神社参拝が、公的資格において行われたもので、目的効果基準によっても、政教分離原則に反するものであることは自明と言ってよい。
周知のとおり、最高裁判例は厳格分離説を採らず、相対分離を前提として、目的効果基準にもとづく「国家および地方公共団体に禁じられる宗教的活動」の範囲を明らかにしようとする。不満は残るところだが、訴訟実務においてはこの枠組みを受容せざるをえない。その最高裁判例の立ち場からも首相の靖国参拝は明らかに違憲なのだ。
目的効果基準において許容されない国の宗教的活動とは、「当該の行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進、又は圧迫、干渉になるような行為」である。
安倍は、神道という宗教の特定宗教施設である靖国神社において、拝殿に昇殿して、祭神と宗教的な意味付けをされた礼拝対象に対し、宗教専門職の神官に先導されて、神道形式の作法に則って礼拝をしている。これが、「目的が宗教的意義をもち」の要件を充足していることは明らかだ。仮に、安倍が参拝の目的は「戦没者遺族の心情の慰藉という世俗的なもの」と弁明しても、宗教的意義を排除することにはならない。
また、安倍が首相として、靖国神社に参拝することの効果は、宗教法人靖国神社を国家に特別な結びつきあるものとするものであって、象徴的意味において、靖国神社を、援助、助長、促進することになり、反面他の宗教や宗教団体を、圧迫、干渉することになるものである。この点も、極めて明白である。
提訴の目的は、なによりも安倍参拝の違憲性を明確にすることにあろう。大阪からの記事の抜粋だが、「これまで、中曽根首相靖国参拝違憲訴訟では福岡高裁で『継続すれば違憲の疑い』があると指摘され、小泉首相靖国参拝違憲訴訟では福岡地裁で「憲法違反」の判決が出ています。また、大阪でも、2006年9月30日小泉首相靖国参拝訴訟(二次訴訟・台湾原住民が原告として提訴)で、高裁段階で初の違憲判断を示しています」。
安倍参拝によって各原告が侵害された法的保護に値する利益とは、まずは「宗教的人格権」である。「静謐な宗教的環境のもとで信仰生活を送るべき法的利益」と構成された宗教的人格権は、自衛官合祀拒否訴訟の一・二審において、法律上保護に値する利益として認められている。しかも、今回提訴では、安倍の憲法総体に対する攻撃の一環としての靖国神社参拝の位置づけにふさわしく、平和的生存権その他の被侵害利益構成の工夫があるはず。
原告団と弁護団の皆様に、敬意とエールを送りたい。
(2014年4月10日)。
本日(4月9日)夕刻、地元「本郷湯島九条の会」などが本郷三丁目交差点で集団的自衛権問題で街頭宣伝活動を行った。これまで、特定秘密保護法についての訴えは何度も行ってきたが、集団的自衛権のテーマについては初めての行動。
久々に、街頭宣伝行動でマイクを握って、家路を急ぐ人々に、ショートフレーズで語りかける。
今、安倍内閣は、憲法解釈を大転換して、集団的自衛権の行使容認に踏み切ろうとしています。これは、憲法の平和主義を根底から突き崩すたいへん危険なたくらみとして到底見過ごすことができません。
歴代の自民党政権は決して憲法を大切にしようという姿勢ではなかった。それでも、「我が国では、憲法9条の制約があって集団的自衛権の行使は許されない」ということで一貫してきました。これまで何度も確認されてきた憲法解釈を投げ捨てて、集団的自衛権を認めようというこの乱暴なやりかたは、安倍内閣の暴走という以外に言葉がありません。
自衛権とは、自国が攻撃されたときに、やむを得ずこれに反撃する権利をいいます。現実に攻撃がなされていること、実力で反撃する以外に方法がないこと、反撃の程度が過剰にわたらないことの3点が要件とされています。
ところが、集団的自衛権とは自国が攻撃されていないのに、同盟国が攻撃されたら、それを自国への攻撃と見なして、攻撃された国と一緒に戦争ができるという権利のことです。謂わば人のケンカを買って出る権利のことを言います。自分が攻撃されているわけではないのですから、本来の意味での自衛権ではありません。
日本と軍事同盟を結んでいるアメリカは世界に軍隊を展開しています。現実にたくさんの戦争をしてきました。そのアメリカが世界のどこかで攻撃を仕掛けられたら、それがどこであろうとも日本も一緒になって攻撃を仕掛けた国を相手に戦うことができるということなのです。
「義務ではないから選択肢が増えただけで差し支えないじゃないか」などと言ってはいけません。これまで日本がアメリカの戦争に巻き込まれずに済んだのは、我が国が集団的自衛権の行使はできないという憲法上の大原則をもっていたからです。この貴重な原則を投げ捨てれば、日本は参戦を拒否できなくなります。
これまで、集団的自衛権はアメリカやソ連などの超大国が、目下の同盟国から要請を受けたとして軍事介入をする口実に使われてきました。いま、安倍政権は、日本をアメリカのケンカを買って出て、世界で戦争のできる軍事大国に育て上げたいのです。
あの戦争の惨禍から再出発した日本は、再びの戦争を絶対に繰り返すまいとして平和憲法を打ち立てました。平和憲法は、その前文で、誰もが平和に生きる権利があることを確認し、憲法9条で、戦争を放棄し、「陸、海、空軍、その他の戦力はこれを保持しない」と宣言しています。
戦力を持つことのできない日本が、どうして自衛隊を持てるのでしょうか。政府は、一貫して、「自衛隊は戦力ではない」と言い続けてきました。日本は、憲法で禁止されている戦力は持てないが、国に自衛権はある。自衛のための実力は戦力ではない。そのように説明してきました。これは、半分はまやかしですが、半分は真実と言えることでもあるのです。
自衛隊はあくまで、自衛のための実力なのですから、専守防衛に徹する編成や行動が強いられます。自衛の範囲を超えた武器、たとえば空母や大陸間弾道弾などの武器を持つことはできません。ましてや、自国では使えるはずのない核兵器も持てません。海外派兵はできませんし、カンボジアやイラクに派遣された自衛隊が、軍事作戦に従事することはありませんでした。
ところが、集団的自衛権を行使できるということになれば、専守防衛の原則が崩れます。軍備にしても、海外派兵にしても、歯止めがなくなります。これは、憲法の平和主義の原則が、まったくの骨抜きになることと言わざるを得ません。
安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を叫んでいます。明文改憲、軍事力強化、特定秘密保護法、教育の国家主義化など、多方面での暴走が進んでいます。その中で、今最も重大なものが、集団的自衛権行使容認の閣議決定のたくらみなのです。
憲法の制約があって集団的自衛権の行使はできないとされているのですから、筋から言えば憲法改正以外に手段はないはずです。しかし、憲法改正の手続は国民投票で過半数の賛成を得なければならないのですから、安倍政権にその自信はありません。それなら、憲法を変えるのではなく、解釈を変えてしまおう。その発想が解釈改憲であり、閣議決定による集団的自衛権行使容認なのです。
憲法改正を実現するには厳重な手続的要件が定められています。それをすり抜けて、「国会の発議も、国民投票での過半数も得ることなく、一内閣の閣議決定だけで、憲法改正と同じことをやってしまおう」。これが安倍内閣のたくらみなのです。
政府の憲法解釈は、専門家集団としての内閣法制局が担当してきました。長年にわたる内閣法制局が担当した政府答弁の積み重ねで、「自衛隊が合憲であるためには専守防衛に徹しなければならない」「我が国では、憲法の制約があって集団的自衛権の行使はできない」という憲法解釈の見解が確定したものになっています。
安倍内閣にとってはこの内閣法制局見解が邪魔、なんと内閣法制局長官を最高裁判事に栄転させて、自分の言うことをよく聞くことを試し済みの、外務官僚小松一郎さんを後任に据えるという、異例の人事を行ったのです。やり口が姑息、汚い、と批判が噴出しています。
安倍内閣の手口の汚さはそれだけではありません。自分の言うことを聞きそうな権力迎合の人物だけを集めて、「安保法制懇」をつくり、集団的自衛権行使容認の可否について諮問をしているのです。答申の内容は分かりきっています。識者の意見を聞いたという形を整えて、閣議決定を行おうというのです。
安倍内閣のこのように姑息な手口は、今急速に国民の支持を失いつつあります。2月以来のあらゆる世論調査において、改憲反対の世論が急速に伸び、凋落した改憲賛成派を圧倒しています。朝日、毎日の調査だけはなく、読売や産経の調査結果も同様なのです。集団的自衛権行使容認派は永田町でこそ多数かも知れませんが、決して全国では多数派ではありません。
うららかなのどかな春の平和を大切にしたいものです。今日の平和を明日に続けましょう。私たちの今日の安全・安心と、子どもたちの未来のために、平和憲法の擁護を訴えます。閣議決定による憲法解釈の変更は禁じ手です。そんなことで平和を失うようなことがあってはなりません。
集団的自衛権行使容認の閣議決定ノー。安倍内閣ノー。その声を大きくしようではありませんか。
(2014年4月9日)
本日(4月8日)の、朝日・毎日・東京・日経・読売・産経の主要各紙すべてが、みんなの党・渡辺喜美の党代表辞任を社説で取りあげている。標題を一覧するだけで、何を言わんとしているか察しがつく。
朝日新聞 渡辺氏の借金―辞任で落着とはならぬ
毎日新聞 渡辺代表辞任 不信に沈んだ個人商店
東京新聞 渡辺代表辞任 8億円使途解明を急げ
日本経済 党首辞任はけじめにならない
読売新聞 渡辺代表辞任 8億円の使い道がまだ不明だ
産経新聞 渡辺代表辞任 疑惑への説明責任は残る
各紙とも、「政治資金や選挙資金の流れには徹底した透明性が必要」を前提として、「渡辺の代表辞任は当然」としながら、「これで幕引きとしてはならない」、「事実関係とりわけ8億円の使途に徹底して切り込め」という内容。渡辺の弁解内容や、その弁明の不自然さについての指摘も共通。
毎日の「構造改革が旗印のはずだった同党だが最近は渡辺氏が主導し特定秘密保護法や集団的自衛権行使問題など自民党への急接近が目立ち、与党との対立軸もぼやけていた。いわゆる第三極勢自体の存在意義が問われている。」と指摘していること、東京が「『みんなの党は自慢じゃないけど、お金もない、組織もない、支援団体もない。でも、しがらみがない。だから思い切った改革プランを提示できる』と訴え、党勢を伸ばしてきた。党首が借入金とはいえ8億円もの巨資を使えるにもかかわらず、『お金がない』と清新さを訴えて支持を広げていたとしたら、有権者を欺いたことにならないか」と言及していることが、辛口として目立つ程度。これに対して、産経は「新執行部は渡辺氏にさらなる説明を促し「政治とカネ」の問題に率先して取り組み、出直しの第一歩にしてもらいたい」と第三極の立ち直りにエールを送る立ち場。
もの足りないのは、巨額の金を融通することで、みんなの党を陰で操っていたスポンサーに対する批判の言が見られないこと。政治を金で歪めてはならない。金をもつ者がその金の力で政治を自らの利益をはかるように誘導することを許してはならない。
DHCの吉田嘉明は、その許すべからざることをやったのだ。化粧品やサプリメントを販売してもっと儲けるためには、厚生行政や消費者保護の規制が邪魔だ。小売業者を保護する規制も邪魔だ。労働者をもっと安価に使えるように、労働行政の規制もなくしたい。その本音を、「官僚と闘う」「官僚機構の打破」にカムフラージュして、みんなの党に託したのだ。
自らの私益のために金で政治を買おうとした主犯が吉田。その使いっ走りをした意地汚い政治家が渡辺。渡辺だけを批判するのは、この事件の本質を見ないものではないか。
政治資金規正法違反の犯罪が成立するか否かについては、朝日の解説記事の中にある、「資金提供の方法が寄付か貸付金かは関係なく、『個人からのお金を政治資金として使うのであれば、すべて政治資金収支報告書に記載する必要がある』として、違法性が問われるべき」との考え方に賛意を表したい。
仮に、今回の「吉田・渡辺ケース」が政治資金規正法に抵触しないとしたら、それこそ法の不備である。政治献金については細かく規制に服するが、「政治貸金」の形となれば一切規制を免れてしまうことの不合理は明らかである。巨額の金がアンダーテーブルで政治家に手渡され、その金が選挙や党勢拡大にものを言っても、貸金であれば公開の必要がなくなるということは到底納得し得ない。明らかに法の趣旨に反する。ましてや本件では、最初の3億円の授受には借用証が作成されたが、2回目の5億円の授受には借用証がないというのだ。透明性の確保に関して、献金と貸金での取扱いに差を設けることの不合理は明らかではないか。
主要6紙がこぞって社説に掲げているとおり、事件の幕引きは許されない。まずは「みんなの党」内部での徹底した調査の結果を注視したい。その上で、国会(政倫審)や司法での追求が必要になるだろう。
政治と金の問題の追求は決しておろそかにしてはならない。
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向島(墨堤)のあのご婦人はまぼろしであったのだろうか
花の季節は忙しく、疲れる。天気模様を見ながら、仕事のあいまをぬって、チャンスを逃さないように、果敢に出かけなければならない。とかく気ぜわしい。
今日は「江戸の花見」。墨堤(ぼくてい)へ繰り出した。吾妻橋を墨田区側に渡って、隅田川の河岸の遊歩道に下りた。下水臭い匂いが鼻につくが、10分もすれば慣れて気にならなくなる。広々とした隅田川の流れとどこからもみえるスカイツリーをバックにした青空のおかげだ。川の両岸を飾る主役のソメイヨシノは盛りをとうに過ぎてしまったが、風に舞う花びらと散り敷いたピンクの道路は別の美しさがある。人が少なく、名残の春をしみじみ味わえる。
隅田川沿いには3本の遊歩道がある。1本は川岸の小道。ジョギングやイヌの散歩道。2本目は小道から2メートルほど高いところを通る幅1間ほどの道。高い位置にあるので、浅草(台東区)側の桜並木もスカイツリーもよく見える。テント張りの出店も出ている。道端にソメイヨシノがずらりと植えられていて、盛りの頃の人出は歩くのも難しかったろうと想像される。その外側に2車線の車道が走っている。
その車道を隔てて、3本目の小道がある。それが今日のお目当て。ソメイヨシノだけでは花の季節が短すぎることに気がついた墨田区公園課がその3本目の小道に39種76本のサトザクラを植えた。こちらはやっと咲き始めた品種がならんでいる。真っ白な「白妙」、ふっくらとした薄いピンクの「一葉」、黄色い「鬱金」、緑色の「御衣黄」など珍しい花が植えられている。
もともと隅田川堤に桜を植えたのは8代将軍徳川吉宗であった。隅田川の水質保全と水害対策のため、向島の堤に桜を植えたといわれている。「江戸名所花暦」(岡山鳥)に「隅田川は江戸第一の花の名所にして、此花は享保の頃、依台命(たいめいによって)植えし処の物にして、今も枝を折ることを禁ずるは、諸人のしる所なり。堤曲行にして木母寺大門へ向かう所、左右より桜の枝おいかさなりて、くものうちに入るかと思うばかりなり。」と記されている。また、「東都第一の花の名所にして、彼岸桜より咲き出でて一重、八重追々に咲きつづき、弥生の末まで花のたゆることなし」とも書かれているので、上野とならぶ江戸の三大名所、隅田川堤や飛鳥山でも花は一か月は咲き続けていたと思われる。
その古いサクラの名前や図は伝えられているが、現物は失われてしまったものが沢山ある。それを研究者や園芸家が見つけ出したり、再生させる懸命の努力を続けてきた。墨田区公園課もその努力を引き継いで、3本目の小道に結晶させようとしている。あと5年もすれば、一か月といわず二か月も咲き続ける桜の名所が出来上がるだろう。但し、残念なのは、この3本目の道の上を首都高向島線が通っていること。騒音と圧迫感はサクラの美しさも、花見の風情も吹き飛ばしてしまう。
その高速道路の暗い影の下で、夢のような薄いピンクのサクラ「衣通姫(そとおりひめ)」の前に佇んでいると、年配のご婦人が突然、「ここに防空壕がありまして、東京大空襲の時、14歳の私は焼夷弾が花火のように降ってくるのを見ていたんです」と話しかけてきた。マスクをかけたくぐもった声が「隅田川には毎日毎日たくさんの死体が流れてきたんです」とつづける。「何もかにもみんな焼けて、亀戸の向こうまでずっと見渡せました」「70年が夢のようです。せめてスカイツリーが建ったのを見れたのがよかったと思います」と、耳を近づけなければ聞こえないような声で話す。目だけが、強く光っている。
しばらく話を交わして別れて、言問橋の上で隅田川の波間に漂う都鳥が鳴き交わす声を聞いていると、あのご婦人が実在の方であったのか自信がなくなってきた。桜に酔った日のまぼろしではなかったか。
(2014年4月8日)
民主主義とは、民意を実現する政治のこと。その「民意」というものを考えたい。民意に基づく政治の大切さだけをいうのであれば、2500年も前から明らかにされている。よく知られている論語顔淵編の次の一節。
子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立。
私なりに訳せば、以下のとおり。
子貢が孔子に政治の要諦を尋ねた。
「経済を充実させ、軍備を怠らず、民意の支持を得ることだね」
「その三つとも全部はできないとすれば、まずどれを犠牲にしますか」
「そりゃ、軍備だね」
「残りの二つも両立は無理だとすれば、どちらを犠牲にすべきでしょうか」
「経済だよ。民生の疲弊はやむを得ないが、民衆の信頼がなければそもそも国家が成り立たないのだから」
孔子の時代の「民の信」とは、民衆の意思では取り替えることのできない為政者への包括的な信頼ということでしかない。民主主義社会では、具体的な民意を政治に反映することが必要だ。それができない為政者は、遠慮なく取り替えられなければならない。
はたして安倍政権の政策は、そのような意味で民意を反映し、民意の支持を得ているだろうか。むしろ、遠慮なく取り替えられるべき事態を迎えているのではないか。少なくもその兆しが見える。いくつかの世論調査の結果が、その証しである。
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本日の「朝日」朝刊に集団的自衛権に関する世論調査の結果が掲載されている。その大要は以下のとおり。
☆集団的自衛権について
「行使できるようにする」 29%
「行使できない立場を維持する」 63%
★「集団的自衛権を行使できるようにする」賛成者(29%)の中で、
そのためには
「憲法を変える」 56%
「解釈を変更する」 40%
その場合近隣諸国の理解が
「必要」 49%
「必要ない」 46%
☆今の憲法を
「変える必要がある」 44%
「変える必要はない」 50%
☆憲法9条を
「変える方がよい」 29%
「変えない方がよい」 64%
☆自衛隊を国防軍にすることに
「賛成」 25%
「反対」 68%
☆非核3原則を
「見直すべきだ」 13%
「維持すべきだ」 82%
☆武器輸出の拡大に
「賛成」 17%
「反対」 77%
朝日自身の解説を抜粋して紹介する。
集団的自衛権について「行使できない立場を維持する」が昨年の調査の56%から63%に増え、「行使できるようにする」の29%を大きく上回った。憲法9条を「変えない方がよい」も増えるなど、平和志向がのきなみ高まっている。安倍内閣支持層や自民支持層でも「行使できない立場を維持する」が5割強で多数を占めている。
安倍晋三首相は政府による憲法解釈の変更で行使容認に踏み切ろうとしているが、行使容認層でも「憲法を変えなければならない」の56%が「政府の解釈を変更するだけでよい」の40%より多かった。首相に同意する人は回答者全体で12%しかいないことになる。
一方、国内では憲法9条を「変えない方がよい」も昨年の52%から64%に増え、「変える方がよい」29%との差を広げた。武器輸出の拡大に反対が71%→77%、非核三原則を「維持すべきだ」も77%→82%。自衛隊の国防軍化に反対も62%→68%と増えた。有権者が1年足らずの間に軍事力強化に対する不安を強めている様子がうかがえる。
改憲の是非についても、今の憲法を「変える必要はない」の50%が「変える必要がある」の44%を上回った。朝日新聞社の調査で改憲反対が多数を占めるのは1986年の調査までで、次に改憲是非を聞いた97年以降は賛成が多かった。
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テレビ朝日「報道ステーション」が、3月29・30日実施した調査結果は以下のとおり。
☆集団的自衛権
日本は、憲法第9条で、他国から直接攻撃を受けた場合のみ、武力行使することができるとされています。あなたは、これを変えて、日本と密接な関係にある国が攻撃を受けて、協力を求められた場合も、集団的自衛権を使って、自衛隊を海外に派兵して武力行使できるようにする必要があると思いますか、思いませんか?
「思う」 35%
「思わない」 45%
「わからない、答えない」 20%
☆解釈改憲
安倍総理は、憲法を改正しないで、第9条の解釈を変えることで、海外での武力行使ができるようしようとしています。あなたは、憲法を改正せずに、解釈でできるようにすることを、支持しますか、支持しませんか?
「支持する」 22%
「支持しない」 56%
「わからない、答えない」 22%
☆閣議決定
安倍総理は、憲法第9条の解釈を、内閣として決めることで、変えることができると主張しています。野党は、まずは国会での議論が必要だと主張しています。あなたは、内閣が決める前に、国会で議論することが必要だと思いますか、思いませんか?
「思う」 84%
「思わない」 7%
「わからない、答えない」 9%
☆武器輸出
安倍内閣は、国際環境の変化に対応するためなどとして、日本製の武器関連製品の外国への輸出を厳しく制限してきた、これまでの武器輸出三原則に代わって、新たな取り決めを検討しています。検討されている新たな取り決めでは、これまでの原則、輸出禁止に代えて、内閣が、日本の安全保障に役立つかどうかなどの政治判断を重視して、武器関連製品を、輸出するかどうかを決めることとしています。あなたは、この新たな取り決めを、支持しますか、支持しませんか?
「支持する」 24%
「支持しない」 47%
「わからない、答えない」 29%
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また、4月1日付産経は、自社が行った世論調査の報道に、「憲法改正の賛否が逆転 反対47%が賛成38%を上回る」と見出しを付けている。記事の大要は以下のとおり。
産経新聞社とFNNの合同世論調査で、憲法改正の反対派(47・0%)が昨年4月以降初めて賛成派(38・8%)を上回った。
安倍晋三首相が改正に積極的な発言をしていた昨年4月は「賛成」(61・3%)が「反対」(26・4%)を引き離していたが、改正に慎重な公明党への配慮から発言を控えるようになると、賛成派は徐々に減少。今年1月には「賛成」(44・3%)と「反対」(42・2%)が拮抗していた。
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朝日が解説するとおり、民意は確実に平和指向・憲法擁護の方向にある。
産経の結果を再確認すれば、以下のとおり昨年4月から今年1月、そして今回の3月調査へと劇的な変化である。
憲法改正反対 26.4%⇒42.2%⇒47・0%
憲法改正賛成 61.3%⇒44.3%⇒38・8%
民意は、安倍の「積極的平和主義」の暴走に大きな不安を感じて、「安倍ノー」を突きつけつつある。靖国参拝、消費増税、原発再稼動、原発輸出、非正規恒久化、さらにNHK人事、TPPである。それでもまだ安倍内閣の支持率が比較的高いのは、アベノミクス幻影という皮一枚の効果に過ぎない。
「民無信不立」は、「民に信ぜられることなくば立たず」と読みたい。政権も、政党も、政治家も、民意を獲得し民意の支持なくてはやっていけないのだ。猪瀬直樹や渡辺喜美が好例である。そして、各世論調査の結果は、安倍晋三もこれに続きそうな予兆なのだ。
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NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い。
下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
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NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
以上よろしくお願いします。
(2014年4月7日)
産経に「中高生のための国民の憲法講座」という連載コラムがある。昨日(4月5日)その第40講として「首相の靖国参拝と国家儀礼」と標題する百地章さんの論稿が掲載されている。
この方、学界で重きをなす存在ではないが、右翼の論調を「憲法学風に」解説する貴重な存在として右派メディアに重宝がられている。なにしろ、「本紙『正論』欄に『首相は英霊の加護信じて参拝を』と執筆した」と自らおっしゃる、歴とした靖国派で、神がかりの公式参拝推進論者。その論調のイデオロギー性はともかく、学説や判例の解説における不正確は指摘されねばならない。とりわけ、中学生や高校生に、間違えた知識を刷り込んではならない。
同論稿は、「首相の靖国参拝について考えてみましょう」から始まる。論旨は、首相の靖国参拝は「政教分離以前の国家儀礼」であって、どこの国でも行われている。政府の公式見解もこれを合憲とし、最高裁も違憲判断をしていない。目的効果基準を適用すれば合憲と見るべきだが、論争の対象となることは好ましくないので、一日も早く憲法を改正すべきだ、というもの。日本国憲法下での公式参拝合憲論を説きつつも、最終的には改憲という苦しい結論となっている。
この論稿を真面目に読もうとした中学生や高校生は、戸惑うに違いない。百地さんは、靖国公式参拝容認という自説の結論を述べるに急で、政教分離の本旨について語るところがないのだ。なぜ、日本国憲法に政教分離規定があるのか、なぜ公式参拝が論争の対象になっているのか、についてすら言及がない。通説的な見解や、自説への反対論については一顧だにされていない。このような、「中高生のための解説」は恐い。教科書問題とよく似た「刷り込み」構造ではないか。
いくつか、指摘しておきたい。
第1点。百地さんは、「憲法解釈について最終的判断を行うのは最高裁判所です(憲法81条)。しかし、首相の靖国神社参拝について、最高裁が直接、合憲性を判断した判決はありません。」という。これは、明らかな誤りとの指摘を慎重に避けつつ意図的な誤解を誘う、不正確な記述である。百地論稿では、あたかも司法は首相の公式参拝問題にまったくなにも言っていないごとくであるが、決してそうではない。すくなくない公式参拝問題についての裁判例はあり、類似事件については最高裁大法廷判決もある。司法は、明らかに違憲論に与している。
「すべて司法権は、最高裁判所および法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する(憲法76条1項)」とされ、最高裁判例のない分野では下級裁判所(高裁・地裁)の判決が尊重されなければならない。高裁レベルでは内閣総理大臣の公的資格による靖国神社参拝は違憲と述べた判決は以下のとおり、複数存在する。
これまでの靖国参拝違憲訴訟には、住民訴訟と違憲国賠訴訟の2類型がある。
前者が「岩手靖国参拝違憲訴訟」であり、後者が「中曽根参拝違憲訴訟」(3件)と「小泉参拝違憲訴訟」(7件)である。そして今、各地で「安倍参拝違憲訴訟」の提起が準備中である。
住民訴訟は客観訴訟として原告の権利侵害の有無にかかわらず、自治体の財務に関わる違憲違法を争うことができる。これに対して、国家賠償訴訟を提起するには、首相の参拝行為の違法と過失だけでなく、原告となる者の権利または法律上保護される利益侵害の存在が必要とされる。憲法判断ではなく、この点がネックとなっている。
岩手靖国違憲訴訟仙台高裁判決(1991年1月10日)は、憲法判断到達にさしたる困難なく、その「理由」において、最高裁判例とされる目的効果基準に拠りながら、首相と天皇の靖国公式参拝を違憲と明確に判断した。今のところ、この判決が靖国参拝に関する憲法判断のリーディングケースと言ってよい。また、国家賠償訴訟では憲法判断に到達することに苦労しながらも、中曽根公式参拝関西違憲訴訟 大阪高裁判決(1992年7月30日)などでは、これも「理由」中の「違憲の強い疑いがある」との判断を得ている。
第2点。靖国公式参拝問題での最高裁の判断はまだないが、近似の事件として靖国神社への公費による玉串料奉納を違憲とした愛媛玉串料訴訟大法廷判決(1997年4月)がある。違憲判断に与した多数意見が13名。合憲とした少数意見はわずかに2名だった。その少数意見組の一人が、現在日本会議会長の任にある三好達である。
同事件でも被告側(愛媛県知事)は、「靖国神社や護国神社への玉串料などの奉納は、神社仏閣を訪れた際にさい銭を投ずることと同様の世俗的な社会儀礼に過ぎない」と弁明した。しかし、最高裁は次のようにこれを斥けた。
「玉串料及び供物料は、例大祭又は慰霊大祭において、宗教上の儀式が執り行われるに際して神前に供えられるものであり、献灯料は、これによりみたま祭において境内に奉納者の名前を記した灯明が掲げられるというものであって、いずれも各神社が宗教的意義を有すると考えていることが明らかなものである。これらのことからすれば、県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったということが明らかである。」
注目すべきは次の一節である。
「本件玉串料等の奉納は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても、世俗的目的で行われた社会的儀礼にすぎないものとして憲法に違反しないということはできない。」
ここには目的効果論における「目的」の捉え方の指針が示されている。国や自治体が行う行為に複数目的があった場合、世俗的な儀礼の目的のあることをもって、宗教的意義を否定することはできない、としているのである。このことは、玉串料奉納にだけあてはまるものではない。公式参拝には、より強く妥当すると言えよう。
「安倍首相の公的資格における靖国神社参拝は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても、世俗的目的で行われた国家的儀礼にすぎないものとして憲法に違反しないということはできない。」との最高裁判決が予想されるところなのである。
第3点。百地さんは「昭和60年(1985年)8月に中曽根康弘内閣が示した「首相の靖国神社公式参拝は合憲」とする公式見解があります」という。これは、公式参拝合憲化を狙って、「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)をつくり、その「報告書」に基づいての見解である。愛媛玉串料訴訟の最高裁大法廷判決以前のものであり、岩手靖国参拝違憲訴訟高裁判決もなかったときのもの。こんなに古いものを持ち出さざるを得ないのだ。
靖国懇は、最初から結論の見えていた懇談会であることにおいて、安保法制懇と同様のもの。その靖国懇の報告とて、単純に公式参拝合憲の結論を出したわけではない。最終報告書の中に、次のような文章もある。
「靖国神社がたとえ戦前の一時期にせよ、軍国主義の立場から利用されていたことは事実であるし、また、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、時としてそれに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられたことも事実であるので、政府は、公式参拝の実施に際しては、いささかもそのような不安を招くことのないよう、将来にわたって十分配慮すべきであることは当然である。」
「靖国神社への参拝という行為は、宗教とのかかわり合いを持つ行為である。したがって、政府は、内閣総理大臣その他の国務大臣の靖国神社参拝に当たっては、憲法第20条第2項(信教の自由)との関係に留意し、制度化によって参拝を義務づける等、信教の自由を侵すことのないよう配慮すべきである」
「討議の過程において、靖国神社公式参拝の実施は過度の政治的対立を招き、あるいは、国際的にも非難を受けかねないとの意見があった。政府は、この点についても、そのような対立の解消、非難の回避に十分努めるべきであろう。」
第4点。百地さんは、首相の靖国参拝を国際儀礼として、「国際社会では、互いに自国のために戦った戦没者の勇気を称え敬意を表する。これはたとえ旧敵国同士であっても同じ」としている。あたかも、靖国神社は、国際的にどこにでもある普遍的な戦争犠牲者追悼施設と描いている。とんでもない。
靖国神社は墓地ではない。戦争犠牲者への追悼の施設でもなく、極めて特異な軍事的宗教施設なのだ。天皇への忠誠を尽くしての死者を英霊として「敬意の対象」とし、顕彰することを本質とする。そのために、戦没者を祭神として祀る宗教施設である。歴史観、戦争観、天皇観において、宗教法人靖国神社は、かつての別格官幣社の立場をまったく変えていない。到底、どこの国にもある施設ではない。外国元首に参拝を要請することなどできる場所ではないのだ。
第5点。中学生、高校生には、なによりも戦争の惨禍を学んでもらわねばならない。日本の軍国主義が、日本国民と近隣諸国に、いかに多大な犠牲を強いたかを。その軍国主義の精神的な主柱として靖国神社の存在があったことを。国民の精神的な支配の道具として、神権天皇制や国家神道があったことを。その徹底した反省から、日本国憲法が制定され、国家神道を厳格に排除するために政教分離の原則が明記されたことを。
そして、戦後レジームからの脱却を呼号する安倍政権の靖国公式参拝の実行は、歴史の歯車を逆回転させようとするものであることを。それ故に、近隣諸国や西側諸国からさえも、反発を買っているものであることを。
産経と百地先生に教えられた生徒は、日本国憲法の精神を理解できぬまま成長し、世界に孤立することにならざるを得ない。
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冬のあいだのできごと
小石川植物園の小道にハトの羽が散乱している。近くにいたアマチュアカメラマンの言によると、オオタカが襲ったのだ(オオタカは今では明治神宮や皇居でも営巣が見られるといわれている)。日本庭園の池に真っ白なサギが置物のように立っていて、見ているとサッと首を伸ばして魚を咥えている。東京の「冬のできごと」はこれくらいなもの。
ところが、ニコライ・スラトコフによるとロシアの「冬のあいだのできごと」は次のように繰りひろげられる。
「冬のあいだに森のなかでおきたことは、すべて雪がおおいかくした。いいことも、わるいこともぜんぶ、雪だまりのなかにかくされてしまった。・・しかし、春になって、あともどりするときがやってきた。早春のあたたかい陽気は、まず四月にふった新しい雪をとかした。それから順番にとかしていった。三月の雪、二月の雪、一月の雪、一二月の雪・・。そこで、冬のあいだのできごとが、ぜんぶ表面にあらわれた。つみかさなっていたもの、かくされていたものが、すべてすがたをあらわしたのだ。・・ほら、これは冬のおわりにタカがひきさいたカラスの羽。これは雪の下にあったエゾライチョウとクロライチョウのねぐらの穴のあとだ。このなかでライチョウたちは、とてもさびしい冬をすごした。
ここには、モグラの雪のトンネルがあった。なんと、モグラは雪の中で虫をさがしていたんだ!まつぼっくりは、イスカがおとしたり、リスがかじったもの。ヤナギの小枝はウサギがかみきったものだ。これは、オコジョがしめころして、うちすてたトガリネズミだ。そして、これはモモンガのしっぽ。テンの食べ残しだ。
まるで、読み終えた本のおわりのページからはんたいにめくりながら、さし絵を見ているようだ。風と太陽が、白い本のページを最後までめくっていく。まもなく表紙、つまり地面があらわれる。・・足もとの大地、それは、すぎさった日のできごとがつみかさなってできている。」(ニコライ・スラトコフ著「北の森の十二か月」福音館書店)
ニコライ・スラトコフ(1920?1996)はソ連時代のナチュラリストで動物文学者。ペテルブルグの南東にあるノブゴロドの森で自然観察し、数多くの著作を発表した。ロシアの自然は今でもこうした営みを繰り返しているのだろうか。
東京の空にオオタカがもどってきた。喜ぶべきことだろうか。ノブゴロドの森とちがって、餌食になったハトの羽はアスファルトに阻まれて、大地に積み重なっていくことはない。東京はコンクリートとアスファルトの建設をやめるつもりはない。オリンピックは、ようやく作りあげた葛西臨海公園の森さえつぶそうとしている。
オオタカは、スズメやハトやカラスのように都会で人間と共生していくのか。それとも里山に出没し始めたイノシシやシカやサルと力を合わせて、東京を武蔵野の森に変えようとしているのだろうか。
(2014年4月6日)
3月31日自民党「安全保障法制整備推進本部」第1回会合。集団的自衛権行使容認論への反発を宥和するための落としどころとして、高村正彦副総裁が「限定的な集団的自衛権行使容認論」を提案した。
さっそく、昨日(4月4日)の読売社説が賛成論を述べている。「集団的自衛権限定容認論で合意形成を図れ」というタイトル。産経の社説はまだないが、4月3日の「正論」欄に、百地章の「集団自衛権の『日本的定義』正せ」という意見が掲載されている。高村提案には直接触れていないものの、読売社説と同旨である。安倍政権は、保守勢力の支援をえて、この線での閣議決定による「解釈改憲強行突破」路線を歩もうとしている。
本日の東京新聞社説が、これに真っ向から異議を唱えている。タイトルは「集団的自衛権 『限定容認』という詭弁」。手厳しい批判となっている。
ほかに目についたのは、北海道新聞(4月3日)。「集団的自衛権 限定容認論は通らない」
「憲法が許容する必要最小限度の自衛権の範囲に、一部の集団的自衛権行使も含まれると憲法解釈を改めるのが柱だ。」「憲法解釈変更の突破口だけ開いておけば、後はいくらでも拡大解釈できると考えているのだとすれば、憲法軽視もはなはだしい。」
河北新報(4月5日)。「集団的自衛権/限定容認、歯止めにならず」
「集団的自衛権行使を容認する憲法解釈の見直しに向け、まずはハードルを低めにして、風穴を開けることを優先するということなのだろう。」
琉球新報(4月5日)。「集団的自衛権 『限定』で本質隠すな」
「歴代内閣が積み重ねた解釈を国民的議論も尽くさず、憲法改正の手続きも経ずして変える暴挙は許されない。『限定』といった言葉で議論の本質を隠してはならない。」
おそらくは、96条先行改憲論への賛否で見られた、「読売・産経の政権擁護論」対「地方紙の良識」の対抗パターンが、再度繰り返されることになるのだろう。あのとき、国内世論の大勢を決めたのは圧倒的多数となった地方紙の論調だった。
両論の代表として、「読売」と「東京」の論理を対比させてみよう。
☆高村提案に対する総括的評価
読売:現行の憲法解釈と一定の論理的整合性を保ちつつ、安全保障環境の悪化に的確に対応する。そのための、説得力を持つ理論と評価できる。
東京:限定的なら認められる、というのは詭弁ではないのか。政府の憲法解釈は長年の議論の積み重ねだ。一内閣の意向で勝手に変更することは許されない。
☆高村提案の位置づけ
読売:幅広い与野党の合意を形成し、国民の理解を広げて、新解釈の安定性を確保するには、バランスの取れた現実的な手法と言える。
東京:違憲としてきた集団的自衛権の行使を、一内閣の判断で合憲とすることには公明党や自民党の一部に根強い慎重論がある。限定容認論は説き伏せる便法として出てきたのだろう。
☆これまでの政府解釈との整合性
読売:自衛権は必要最小限の範囲内にとどめるとの現行解釈を継承しながら、一部の集団的自衛権の行使はこの範囲内に含まれる、とする抑制的な解釈変更となる。
東京:たとえ限定的だったとしても、政府の憲法解釈を根本的に変えることにほかならない。このやり方がいったん認められれば、憲法の条文や立法趣旨に関係なく、政府の勝手な解釈で何でもできる。憲法が空文化し、権力が憲法を順守する「立憲主義」は形骸化する。
☆砂川判決を論拠とすることへの評価
読売:「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置はとりうる」との砂川事件に関する1959年の最高裁判決を根拠としている。(それ以上の肯定論の言及はない)
東京:いかにも無理がある。個別的自衛権を有するかどうかが議論されていた時代の判決を、集団的自衛権の行使の一部を認める根拠にするのは「論理の飛躍」(公明党幹部)にほかならない。
☆あるべき今後の議論の方向
読売:今後、議論すべきは、行使を限定的に容認する範囲や条件だ。抽象論でなく、具体的な事例に即した論議が求められる。
東京:限定容認なら大丈夫と高をくくってはいけない。立憲主義の危機にあることを、すべての国会議員が自覚すべきである。
読売の論理の出発点は、「集団的自衛権は憲法上行使できないとの現行解釈は誤りであり、全面的に行使を容認すべきだという主張も根強い。理論的にも、十分成り立とう。」という極端なところにある。これを前提とした議論なのだから、通説的な理解とはほど遠い。読売や産経とはなかなか、意味のある意見交換自体が難しい。
一方、東京は「集団的自衛権をめぐる議論の本質は、日本が直接攻撃されていないにもかかわらず、他国のために武力行使することが妥当か、長年の議論に耐えてきた政府の憲法解釈を、一内閣の意向で変えていいのか、という点にある。」と争点を押さえている。
両社説を読み比べて浮かびあがってくる論争の現実的な焦点は、「限定された容認」が武力行使への歯止めとしての有効であるか否かである。東京は、「限定容認なら大丈夫と高をくくってはいけない。」とし、読売は「限定容認論によって、集団的自衛権行使の歯止めや条件を明確化することが有効である」という。
この論争における勝敗は自ずと明らかである。集団的自衛権行使否定論は、それなりの明確性をもった議論になっているが、「限定容認論」の外延の不明確さは覆うべくもない。そもそも「限定容認論」は、全面容認論では国民の納得を得られないとして出てきた苦肉の策ではないか。その出自自体が「限定」の不明確、伸縮自在をものがたっている。読売が、「今後、議論すべきは、行使を限定的に容認する範囲や条件だ。抽象論でなく、具体的な事例に即した論議が求められる。」というのは、不明確を自認していることにほかならない。「具体的な事例に即して、個別に判断」せざるを得ないのは、基準が不明確だからなのだ。しかも、その判断の主体は時の政権でよいというのでは、憲法論になっていない。
読売社説では、つまりは高村提案では、憲法の平和主義がないがしろにされざるを得ない。「限定容認論」とは、どこまで限定するかについての程度について、原則をもたない「限定の程度を無限定とする容認論」にほかならないのだから。
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春の妖精たちの一番美しいとき
ハッカクレンの開きかけのたぐまった傘のような芽が土の中から出てきた。昨年は伸びきる前に虫に囓られ、ある日クシャリと折れていた。それなのに強いものだ、今年も芽吹いた。
ニリンソウの白い小梅のような花が咲いている。一輪伸びた花の下の托葉の上に豆粒のような蕾が控えて、行儀よく咲く順番を待っている。
雪割草の花は終わって、その横で薄紫色のショウジョウバカマの花が首を伸ばしている。
ハナイカダは折りたたんだ葉をやっと開いたばかりなのに、よくみると、そのうえに芥子粒のような蕾を付けている。たいした花じゃなくても、葉っぱの上にくっついた花を咲かせるだけでじゅうぶん珍重される。
ヤマユリも何本か芽を出した。昨年花をつけすぎて、疲れたんだろうか。今年はとうてい花を咲かせられないような一枚葉もたくさんある。それでもいい。2年や3年はお待ちしましょう。
ルイヨウボタンもクリーム色の芥子粒のような蕾を先端に付けて、スックリと立ち上がった。たいそう地味な花だけれど、その渋いところが気に入っている。
おや、花びらがとれて蘂だけになったサクラが集まって落ちていると思ったら、ヒトリシズカの花芽だ。黒褐色の葉っぱの上に白い木綿糸を束ねたような花穂が出ている。
これらはみんな小さな者たち。かがんでよく見ておかないと、春の妖精たちの一番素晴らしい時を見逃してしまう。
腰を伸ばして、上を見ると、3日前に盛りを迎えていたソメイヨシノは、雨と風に吹かれて無残な姿になってしまった。半月前に春の先駆けですとばかりにキリリと咲いていたキブシの花もあっという間にほうけて、葉っぱがぐんぐん出てきている。大きい者たちの美しいときも一瞬だ。
そのキブシの可愛らしさについて、宇都宮貞子さんは次のように書いている。「この莟の穂は前年の9月というともうちゃんと出来ていて、細いのが3,4センチ丈にチョロリと垂れ、何かの虫の尻尾のようだ。・・その白い粒のついた撚り糸みたいな穂を中社のおばあさんに見せると、『マメンブチ(キブシ)がへえもう来年の花をだんどってる(用意している)』といった」「長野辺の里山では、キブシは大体4月中旬に盛りとなる。時により、場所により、この花穂の下がった景色を枯れ枝に雫を綴っていると感じたこともあるし、冬ざれ山で淋しいものだから、ブラリ簪を沢山さしておしゃれしているな、と思ったこともある。木々の芽は外套を脱ぎ始めてはいるが、まだ裸木にしかみえないのだ。少しでも青いのは低い連中で、マユミやミヤマイボタ、ノバラの幼い葉ぐらいなのである。キブシのすだれの奥から、ツツピン・ツツピンとシジュウカラの愛らしい早口歌が降ってくる」(「春の草木」新潮文庫)
(2014年4月5日)
春は、卒業式と入学式の季節。それぞれの人生の節目と再出発の、キラキラ光る美しい時。ところが、東京の公立校では、「日の丸」と「君が代」の強制の季節。そして処分の季節だ。少しも美しくない。今年も4人に懲戒処分が発せられた。これで、「日の丸・君が代」強制に服さないことを理由とする処分は461件となった。
懲戒処分を受けた者には、服務事故再発防止研修の受講が命じられる。本日、水道橋の東京都教職員研修センターで、その再発防止研修が強行された。私たちは、これに抗議して、センターの門前に集まって抗議と要請を行い受講者を激励する。
早朝8時半、マイクを握って研修の責任者に申し入れを行う。
「行政機関としての都教委と研修センターに、抗議と要請を申しあげたい。また、本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様にもお願いしたいことがある。聞いていただきたい。
本日、服務事故の再発を防止するための研修が予定されているが、いずれの受講者も服務事故を起こしたとの認識はない。もとより、反省とは無縁である。再発防止のためとする研修は、体罰やハラスメントの不祥事を起こした職員には必要であろうが、自らの思想・良心に忠実な行動をした本日の受講者には、まったく無意味で、本来研修は無用である。むしろ、本日の研修受講予定者は、教員としての職業的倫理観と責任感の高い尊敬に値する教育者である。模範に値すると言っても決して過言ではない。
この人たち対して、再発防止研修に名を借りた恫喝は思想良心の自由に対する直接の侵害である。また、その誤りを糺そうと説得を試みることは、行政による思想転向の強要にほかならない。いずれも憲法19条に違反する。また、子どもたちの教育を受ける権利の侵害にもなる。
行政機関は憲法を遵守しなければならない。その憲法は、思想良心の自由を保障している。思想良心の自由の保障は、国民に対してどんな行動も自由だとしているわけではない。しかし、こと国民が国家をどのように位置づけるかについては、絶対の自由が保障されなければならない。国旗国歌への敬意表明の強制は、国家主義否定の思想を侵害することではないか。各個人の歴史認識によって、日の丸・君が代が象徴している大日本帝国の時代を受け容れがたいとする思想を否定してはならない。
戦争の惨禍から新たな国をつくろうとした日本国民は、戦前の国家主義を清算することを新たな国家の礎として憲法を制定した。国家は誤りを犯す、ということが最大の教訓ではなかったか。国家は、特定の価値観をもってはならない。とりわけ、教育の場で、国家に都合のよいイデオロギーを子どもたちに押し付けてはならない。それが憲法の命じる大原則である。
10・23通達と、通達に基づく職務命令、そして職務命令違反を理由とする懲戒処分は、思想良心の侵害であり、子どもたちの教育を受ける権利の侵害でもある。それだけではない。再発防止研修という名の嫌がらせも、思想良心の侵害なのだ。
これまで、あなた方研修センターは、教職員に対する思想良心侵害実施実務の脇役だった。なによりも、懲戒処分の累進加重制度が圧倒的な重みをもつ弾圧手段だった。再雇用拒否も過酷な制裁だった。ところが、行政には甘いことで知られている最高裁も、さすがに累進加重制度を転向強要システムと認めて、これは違法とした。つまり、懲戒処分の制裁効果は最高裁によって縮減された。代わって、服務事故再発防止研修が、「怪しからん教員への嫌がらせ手段」として主役の座に躍り出た。
いま、あなた方の一挙手一投足が注目の的となっている。今日の研修におけるあなた方のやり方が歴史の審判を受けることになる。
400年前のキリシタンに対する踏み絵は、九州の天領や各藩で大規模に行われた。その実施には大勢の役人が動員されている。今、あなた方は、キリシタン弾圧の役人と同じことをやっている。
戦前の憲兵や特高警察は、多くの弾圧立法に基づいて、国家に反逆する者、天皇に逆らう者、私有財産制度を否定する者を徹底的に取り締まった。今、あなた方は、特高や憲兵と本質において変わらないことをやっている。
キリシタン弾圧の役人も憲兵や特高も、残虐非道な極悪人だったわけではない。その時代の常識人として、その時代の常識に基づいて忠実に任務を実行していただけなのだ。いや、使命感に燃えて国家社会のために働いていたとも考えられる。今、あなた方も同じ立ち場にある。任務だからという言い訳は、歴史の審判に耐えられない。
とは言っても、あなた方が、命じられた本日の研修実施任務を放棄することは難しいだろう。だから、申し上げたい。せめて、本日の研修受講者に敬意をもって接していただきたい。あなた方は、自身の行為には忸怩たる思いを抱かねばならない。そして、処分の不利益を覚悟で、自らの思想良心を貫いた教員には、敬意の念を持っていただきたい。それが、せめてもの罪滅ぼしだと認識していただきたい。
私の要請はそのことに尽きる。」
実際は以上のように整然とはしゃべれなかった。時間の制約もあった。早朝、頭も口も滑らかには回らない。言いたかったことを整理して文章にしてみれば、以上のとおり。
(2014年4月4日)
将を射んとすればまず馬を射よ、という。泥棒を縛るには、あらかじめ縄を綯う。城を落とすには掘りを埋めなければならない。だから、馬が射られるまでは将は討たれない。縄が綯いあがらぬうちは泥棒も安泰だ。掘りの深いうちは、城は落ちない。
憲法を変えるには、その手続を定める国民投票法の整備が必要だ。国民投票法が整備されないうちは憲法改正手続は動き出せない。この整備が完成すると、掘りが埋められて城は裸になる。もちろん、掘りが埋められることが即落城を意味するものではないが、城攻めの重要な手立てが整ったことを意味する。国民投票法の整備は、憲法改正への重要な地均しであり、一里塚である。
その国民投票法は2007年5月に既に成立している。正式名称を「日本国憲法の改正手続に関する法律」という。憲法改正に必要な手続きである国民投票に関して規定するので、一般に「国民投票法」と略称される。「改憲手続法」といった方が、実態をよく表していると思うのだが。
国民投票法が成立したのは第1次安倍内閣当時のこと。一応の成立はしたものの、下記の「3つの宿題」が積み残しとされた。与野党の議論が折り合わなかった問題を付則に記載されたもの。与野党の摺り合わせと折り合いがなければ、憲法改正案の国会発議はできないのだから、必然的に幅の広い与野党合意が必要となる。
(1) 公職選挙法の選挙権年齢や民法上の成年年齢を、国民投票権年齢の原則に合わせて18歳に引き下げることについての可否
(2) 公務員や教員の国民投票運動規制の可否
(3) 国民投票対象を改憲以外の課題にも拡大することの可否
宿題の期限は、法律の施行日から3年後の2010年5月だったが、結局、宿題はできなかった。それが、今国会で、曲がりなりにもなされようとしている。
本日(4月3日)、与野党8党は憲法改正の手続きを定めた国民投票法改正案を今国会中に成立させることで合意した、という。与野党8党とは、自民、公明、民主、維新、みんな、結い、生活、新党改革。8党そろって合意文書に署名し、衆院に議席を持たない改革を除く7党が、来週8日(火)に共同で法案を衆院に提出する、と報じられている。
自民党の船田元・憲法改正推進本部長は3日、7党合意後の記者会見で「いつでも国民投票ができる状況をつくり上げた」と胸を張った(時事)。そんなところで、胸を張ってもらっても迷惑千万。
三つの宿題は、次のように解決するようだ。
(1) 憲法改正国民投票の投票権年齢は原則18歳ではあるが、公選法の選挙権年齢や民法の成人年齢が18歳に変更になるまでは20歳とされている(付則3条)。これを、国民投票年齢と選挙権年齢とのリンクを切断して、施行後4年間は20歳以上、これを過ぎれば18歳以上と確定させる。
また、公職選挙法を改正して選挙権年齢も2年以内に「18歳以上」とすることをめざす。但し、民法の成年年齢の引き下げは今後の検討課題とした。
(2) 公務員が憲法改正案に対する個人的な意見の表明や賛否の勧誘は認める一方、労働組合による組織的な運動をどう規制するかは検討課題とした。
(3) 国民投票対象の拡大については合意が得られなかった。
法案の共同提出に反対したのは、共産・社民の二党のみ。両党は壊憲に反対の立場なのだから、改憲への地均しに賛成できるはずがない。
まだ法案の審議が始まってもいない段階で、成立までどう転ぶかは分からない。とはいえ、なにしろ「8党合意」なのだから、この合意に基づく改正法案が成立することの可能性の高さは認めざるを得ない。安倍晋三らは「これで掘りが埋められる」「改憲への地均しができあがる」とほくそ笑んでいることだろう。
しかし、声を大にして言っておきたい。国会の多数意見と民意とは大きく異なることを。このことを見誤ると、安倍政権は猪突して自爆する。国会の議席は、民意を反映していない。政権を支える自民党の議席は、小選挙区制のマジックがもたらした虚構の多数でしかない。しかも、民主党不人気の反動で得た「一過性大量支持」から1年余。そのメッキが剥がれつつあることは、ますます民意との乖離を拡げつつある。決して、民意は改憲を望んでいない。改憲手続法の整備は無用である。震災からの復興も、福祉の充実も、もっともっと他にしなければならないことがあるはずではないか。
(2014年4月3日)
「ヨッシー日記」と標題した渡辺喜美のブログがある。そこに、3月31日付で「DHC会長からの借入金について」とする、興味の尽きない記事が掲載されている。興味を惹く第1点は、事件についての法的な弁明の構成。これは渡辺の人間性や政治姿勢をよく表している。そして、もう一点は、DHC吉田嘉明のやり口に触れているところ。こちらは、金を持つ者への政治家の諂いと、金で政治が歪められている実態の氷山の一角を見せてくれる。いずれにせよ、貴重な読み物である。
渡辺の法的弁明は、一読して相当に腹の立つ内容。おそらくは、弁護士の代筆が下敷きにある。「本件は法の取り締まりの対象とはならない」という挑戦的な姿勢。政治倫理や、政治資金の透明性の確保などへの配慮は微塵もない。要するに刑事制裁の対象となる違法はないよ、という開き直りである。法的に固く防御しているつもりで、政治的には却って墓穴を掘っている。
ここでの渡辺の「論法」は、「吉田嘉明から渡辺喜美が、みんなの党各候補者の選挙運動資金調達目的で金を借りたとしても、その借入を報告すべき制度上の義務はなく、法律違反の問題は生じない」ということに尽きる。謂わば、法の隙間の処罰不能な安全地帯にいるのだという宣言である。
もちろん、「政治倫理の確立のための国会議員の資産等の公開等に関する法律」には違反している。この法律は、「(第1条)国会議員の資産の状況等を国民の不断の監視と批判の下におくため、国会議員の資産等を公開する措置を講ずること等により、政治倫理の確立を期し、もって民主政治の健全な発達に資することを目的とする。」として、政治家の資産と所得の公開を求めている。しかし、これには処罰規定がない。倫理の問題としては責められても、強制捜査も起訴も心配しなくて済む。
では、公職選挙法上の選挙運動資金収支として報告義務の違反にはならないか。渡辺は、「選挙資金として(渡辺から吉田に対する)融資の申し込みをしたというメールが存在すると報道がありました。たとえそれがホンモノであったとしても法律違反は生じません。」と開き直る。自分の選挙ではないからだ。報告義務を負うのは各候補者であり、各陣営の会計選任者だからということ。
では、政党の党首が選挙運動費用として党員候補者に使わせる目的で金を借りたら、その借入の事実を政治資金収支報告書に記載すべきではないか。これも、「党首が個人の活動に使った分は、政治資金規正法上、政治家個人には報告の義務はありません。そのような制度がないということです。個人財産は借金も含めて使用・収益・処分は自由にできるからです」とここでも開き直っている。
もっとも、渡辺がDHCの吉田から借りた金を、党の政治資金や候補者の選挙運動資金として貸し付ければ、その段階で、借り入れた側に、借入金として報告義務が生じる。この点はどうしても逃げ切れない。8億の金がどう流れたのか、調査の結果を待って辻褄が合うのかどうか検討を要する。
今の段階では、「一般的に、党首が選挙での躍進を願って活動資金を調達するのは当然のことです。一般論ですが、借り受けた資金は党への貸付金として選挙運動を含む党活動に使えます。その分は党の政治資金収支報告書に記載し、報告します。」という、開き直りでもあるが貴重な言質でもあるこの言葉を胸に納めておこう。
いずれにしても、みんなの党は総力をあげて渡辺の8億円の使途を追求しなければならない。でなければ、自浄能力のない政党として国民の批判に堪え得ず、全員沈没の憂き目をみることになるだろう。
興味を惹くもう1点は、政治家と大口スポンサーとの関係の醜さの露呈である。金をもらうときのスポンサーへの矜持のなさは、さながら大旦那と幇間との関係である。渡辺は、「幇間にもプライドがある」と、大旦那然としたDHC吉田嘉明のやり口の強引さ、あくどさを語って尽きない。その結論は、「吉田会長は再三にわたり『言うことを聞かないのであれば、渡辺代表の追い落としをする』、と言っておられたので今回実行に移したものと思われます。」というもの。
それにしても、渡辺や江田にとって、大口スポンサーは吉田一人だったのだろうか。たまたま吉田とは蜜月の関係が破綻して、闇に隠れていた旦那が世に名乗りをあげた。しかし、闇に隠れたままのスポンサーが数多くいるのではないか。そのような輩が、政治を動かしているのではないだろうか。
たまたま、今日の朝日に、「サプリメント大国アメリカの現状」「3兆円市場 効能に審査なし」の調査記事が掲載されている。「DHC・渡辺」事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての「規制緩和という政治」を買いとりたいからなのだと合点が行く。
同報道によれば、我が国で、健康食品がどのように体によいかを表す「機能性表示」が解禁されようとしている。「骨の健康を維持する」「体脂肪の減少を助ける」といった表示で、消費者庁でいま新制度を検討中だという。その先進国が20年前からダイエタリーサプリメント(栄養補助食品)の表示を自由化している米国だという。
サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、「官僚と闘う」の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。
大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。「抵抗勢力」を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。
これが、おそらくは氷山の一角なのだ。
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椨の木(タブノキ)
私がひそかにトトロの木と名付けている大きな木がある。高さも幅も20メートルぐらいのパラソル型で、巨大なブロッコリーがドンとおいてあるようにみえる。宮崎駿の映画「となりのトトロ」ができてから、全国で多くの巨樹が「トトロの木」と名付けられている。たいていは杉やケヤキ。私のは、椨(タブ)の木。
タブは珍しい木というわけではないが、見てはいてもこれと意識していない人が多いと思う。クスノキ科である。遠くからみれば色の濃いどっしりとしたクスノキと思うかもしれない。中国、台湾、沖縄 、九州、四国、本州の暖地に生える照葉樹である。寒い東北地方では比較的暖かい海岸近くにヤブツバキなどと一緒に生えている。日本古来の森林の原植生を構成する樹である。シイやカシやクスノキやツバキそれにタブノキなどの暗い森が昔の日本の照葉樹林帯を覆っていたのだろう。各地でクス、しほだま(潮玉)、イヌグス、ヤマグス、タマグス(玉樟)、モチノキ、タモなどいろいろな呼び名でよばれている。
タブノキは役に立つ木である。古く、大木を断ち割って丸木舟を作った。建材、家具材としても貴重なものであった。皮や葉は乾燥させて、粉に曳いて、仏壇に供える線香の原料とした。八丈島特産の黄八丈の樺色の糸はタブの皮を染料として泥染めされた。
タブノキ教教祖といわれる宮脇昭・横浜国立大学名誉教授は東日本大震災後に、海岸線にタブノキの「森の長城」を築こうとしている。タブノキは海水にも強いし、根が深く張るので松と較べればずっと防潮の役に立つ。
水だけでなく防火の役にも立つ。1976年山形県酒田市は1000軒を焼失する大火にみまわれた。その時、西側にあった2本のタブの大木によって、江戸時代からの豪農、豪商であった本間家は類焼を免れた。被災後、酒田市は「タブノキ一本、消防車一台」といって、タブ、モチ、シイなどの常緑樹の植樹を推奨した。
タブはことほど素晴らしい木なのに、丸木舟や線香や黄八丈とともに現代日本人の記憶から失われようとしている。
私のタブノキはたった1本で立っている。あと1カ月もすると、花祭りの時期を迎える。枝々の先に燭台のような花穂を立ち上げる。薄緑色の小さな地味な花穂がオレンジ色の薄紙の苞で大切に包まれている。遠くからみると、木全体がオレンジ色の花で覆われたようにみえる。花穂と同時にでてくる新葉も橙色をして、ピカピカ輝いているので、あの花盛りの木は何の木だろうと思われる。このころのクスノキも黄緑色の花と新葉で覆われるので、美しく目立つ。これら照葉樹は5月には花を咲かせ輝きながら、同時に古い葉を落とす。秋の落葉樹の美しい落ち葉のような風情はなくて、人はただ重たく嵩張る落ち葉掃きにうんざりして、切り倒そうかなどと物騒な考えがわいてくる。
モミジやサクラのような落葉樹はかろやかさ、明るさ、儚さで現代人の好みにあう。それにひきかえ、常緑照葉樹は暗く重厚なので敬遠されるようだ。神社仏閣の神樹はたいてい常緑樹で、見る人を圧迫し、萎縮させ、畏れ多く近づきがたい気分にさせる。地球や生命の永続と自己の卑小さを思い起こさせ、厳粛で敬虔な気持ちにもさせる。私のタブノキはまだその域にはほど遠く、大きなブロッコリーのようで可愛らしい。いつか幹がコブコブになって、雷にうたれた主幹が折れて、脇から出た何本もの萌芽が若葉をつけて、木全体が小山のようになって、しめ縄なんか張られるのを想像する。でも私がその姿を見ることはない。
(2014年4月2日)
陽光燦々の4月。東京周辺は花満開。ここにもあそこにも、桜、桜、桜。気がつかなかったが、こんなにも桜が多かったのか。桜だけではなく、辛夷も桃も椿も、春の花が咲き誇っている。
美しい季節とは裏腹に、一夜明けて今日からは消費税8%の世界に。そして「武器輸出3原則」から「防衛装備移転3原則」へ変更の閣議決定。地教行法改正に自・公の合意成立と、政治は美しくない。
当ブログは、2年目の始まり。また、連続更新を目指して書き続けていくことになる。
「憲法」のキーワードでグーグル検索をすると、検索ページに700万件がヒットする。「澤藤統一郎の憲法日記」はトップページ(12件)に位置して現在11位のランク。すぐ目の前に、「憲法会議」と「キーワード・憲法-(赤旗)日本共産党中央委員会」の背中が見える。当面はこの両者に、追いつき追い越すことが目標。来年の4月1日に再度のご報告をしたい。
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さて、集団的自衛権行使容認の問題。
安倍政権の解釈改憲路線に自民党内の反発が強かった。その反発を吸収するために、総裁の直属機関として「安全保障法制整備推進本部」が立ち上げられ、昨日(31日)その第1回会合が開かれた。衆参156人の議員が参加したという。
この席で、高村正彦副総裁が講師を務めて、「限定的な集団的自衛権行使容認論」の線を出し、その理由づけとして「砂川事件最高裁大法廷判決(1959年)」を持ち出し、判決の論理を根拠として政府の限定的な憲法解釈変更が可能だと説明したとのこと。
この「論理」は、近々予定されている安保法制懇の答申の内容として報道されており、安倍首相も国会答弁で口にしている。おそらくは、これが着地点と予定されたところなのだろう。出席した議員からは目立った異論は出なかったという。
今後は、高村解説の「『必要最小限度の範囲』には、集団的自衛権行使の一部が入りうる」という、「集団的自衛権行使限定容認論」をめぐって議論がかわされることになる。
高村解説はいかにも苦しい説明。砂川事件最高裁判決からそこまでを読み取ることは困難だろう。同訴訟で争われたのは、旧安保条約に基づいて日本に駐留する米軍が、憲法9条2項で「保持しない」とされた戦力に当たるか否かである。原審東京地方裁判所の伊達判決はこれを肯定して違憲判断をし、跳躍上告審の最高裁はこれを逆転した。その説示部分の中心は以下のとおりである。
「憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」
これを素直に読めば、「9条2項の法意が自衛のための戦力の保持をも禁じたか否かについては判断しない」「外国軍隊の駐留は日本の侵略戦争の火種にはならないから禁じられた戦力に当たらない」というもの。ヘンな理屈ではあるが、集団的自衛権行使容認とは無縁である。そもそも、安保条約は集団的自衛権の行使を前提に締結されたものではない。
また、判決に、「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。」との一節がある。これが、個別的自衛権の論拠とされることはあり得ても、集団的自衛権の論拠とはなしえない。経過は、訴訟における争点の射程距離も、裁判所を含む当時の訴訟関係者すべての認識も、集団的自衛権論とは無縁であったことをものがたっている。これを、あとからの解釈としてこじつけることがどだい無理なのだ。
むしろ、心強いのは、世論調査での国民の意思は冷静で、最近の毎日の調査では以下のとおりである。
憲法解釈変更 反対64% 賛成30%
集団的自衛権行使 反対57% 容認37%
安倍政権は、実は政権自身にとっても極めて危ない橋を渡っているといわざるを得ない。
(2014年4月1日)