澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「集団的自衛権行使限定容認論」は「限定度無限定容認論」

3月31日自民党「安全保障法制整備推進本部」第1回会合。集団的自衛権行使容認論への反発を宥和するための落としどころとして、高村正彦副総裁が「限定的な集団的自衛権行使容認論」を提案した。

さっそく、昨日(4月4日)の読売社説が賛成論を述べている。「集団的自衛権限定容認論で合意形成を図れ」というタイトル。産経の社説はまだないが、4月3日の「正論」欄に、百地章の「集団自衛権の『日本的定義』正せ」という意見が掲載されている。高村提案には直接触れていないものの、読売社説と同旨である。安倍政権は、保守勢力の支援をえて、この線での閣議決定による「解釈改憲強行突破」路線を歩もうとしている。

本日の東京新聞社説が、これに真っ向から異議を唱えている。タイトルは「集団的自衛権 『限定容認』という詭弁」。手厳しい批判となっている。

ほかに目についたのは、北海道新聞(4月3日)。「集団的自衛権 限定容認論は通らない」
「憲法が許容する必要最小限度の自衛権の範囲に、一部の集団的自衛権行使も含まれると憲法解釈を改めるのが柱だ。」「憲法解釈変更の突破口だけ開いておけば、後はいくらでも拡大解釈できると考えているのだとすれば、憲法軽視もはなはだしい。」

河北新報(4月5日)。「集団的自衛権/限定容認、歯止めにならず」
「集団的自衛権行使を容認する憲法解釈の見直しに向け、まずはハードルを低めにして、風穴を開けることを優先するということなのだろう。」

琉球新報(4月5日)。「集団的自衛権 『限定』で本質隠すな」
「歴代内閣が積み重ねた解釈を国民的議論も尽くさず、憲法改正の手続きも経ずして変える暴挙は許されない。『限定』といった言葉で議論の本質を隠してはならない。」

おそらくは、96条先行改憲論への賛否で見られた、「読売・産経の政権擁護論」対「地方紙の良識」の対抗パターンが、再度繰り返されることになるのだろう。あのとき、国内世論の大勢を決めたのは圧倒的多数となった地方紙の論調だった。

両論の代表として、「読売」と「東京」の論理を対比させてみよう。

☆高村提案に対する総括的評価
読売:現行の憲法解釈と一定の論理的整合性を保ちつつ、安全保障環境の悪化に的確に対応する。そのための、説得力を持つ理論と評価できる。 
東京:限定的なら認められる、というのは詭弁ではないのか。政府の憲法解釈は長年の議論の積み重ねだ。一内閣の意向で勝手に変更することは許されない。

☆高村提案の位置づけ
読売:幅広い与野党の合意を形成し、国民の理解を広げて、新解釈の安定性を確保するには、バランスの取れた現実的な手法と言える。
東京:違憲としてきた集団的自衛権の行使を、一内閣の判断で合憲とすることには公明党や自民党の一部に根強い慎重論がある。限定容認論は説き伏せる便法として出てきたのだろう。

☆これまでの政府解釈との整合性
読売:自衛権は必要最小限の範囲内にとどめるとの現行解釈を継承しながら、一部の集団的自衛権の行使はこの範囲内に含まれる、とする抑制的な解釈変更となる。
東京:たとえ限定的だったとしても、政府の憲法解釈を根本的に変えることにほかならない。このやり方がいったん認められれば、憲法の条文や立法趣旨に関係なく、政府の勝手な解釈で何でもできる。憲法が空文化し、権力が憲法を順守する「立憲主義」は形骸化する。

☆砂川判決を論拠とすることへの評価
読売:「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置はとりうる」との砂川事件に関する1959年の最高裁判決を根拠としている。(それ以上の肯定論の言及はない)
東京:いかにも無理がある。個別的自衛権を有するかどうかが議論されていた時代の判決を、集団的自衛権の行使の一部を認める根拠にするのは「論理の飛躍」(公明党幹部)にほかならない。

☆あるべき今後の議論の方向
読売:今後、議論すべきは、行使を限定的に容認する範囲や条件だ。抽象論でなく、具体的な事例に即した論議が求められる。
東京:限定容認なら大丈夫と高をくくってはいけない。立憲主義の危機にあることを、すべての国会議員が自覚すべきである。

読売の論理の出発点は、「集団的自衛権は憲法上行使できないとの現行解釈は誤りであり、全面的に行使を容認すべきだという主張も根強い。理論的にも、十分成り立とう。」という極端なところにある。これを前提とした議論なのだから、通説的な理解とはほど遠い。読売や産経とはなかなか、意味のある意見交換自体が難しい。

一方、東京は「集団的自衛権をめぐる議論の本質は、日本が直接攻撃されていないにもかかわらず、他国のために武力行使することが妥当か、長年の議論に耐えてきた政府の憲法解釈を、一内閣の意向で変えていいのか、という点にある。」と争点を押さえている。

両社説を読み比べて浮かびあがってくる論争の現実的な焦点は、「限定された容認」が武力行使への歯止めとしての有効であるか否かである。東京は、「限定容認なら大丈夫と高をくくってはいけない。」とし、読売は「限定容認論によって、集団的自衛権行使の歯止めや条件を明確化することが有効である」という。

この論争における勝敗は自ずと明らかである。集団的自衛権行使否定論は、それなりの明確性をもった議論になっているが、「限定容認論」の外延の不明確さは覆うべくもない。そもそも「限定容認論」は、全面容認論では国民の納得を得られないとして出てきた苦肉の策ではないか。その出自自体が「限定」の不明確、伸縮自在をものがたっている。読売が、「今後、議論すべきは、行使を限定的に容認する範囲や条件だ。抽象論でなく、具体的な事例に即した論議が求められる。」というのは、不明確を自認していることにほかならない。「具体的な事例に即して、個別に判断」せざるを得ないのは、基準が不明確だからなのだ。しかも、その判断の主体は時の政権でよいというのでは、憲法論になっていない。

読売社説では、つまりは高村提案では、憲法の平和主義がないがしろにされざるを得ない。「限定容認論」とは、どこまで限定するかについての程度について、原則をもたない「限定の程度を無限定とする容認論」にほかならないのだから。

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          春の妖精たちの一番美しいとき
ハッカクレンの開きかけのたぐまった傘のような芽が土の中から出てきた。昨年は伸びきる前に虫に囓られ、ある日クシャリと折れていた。それなのに強いものだ、今年も芽吹いた。

ニリンソウの白い小梅のような花が咲いている。一輪伸びた花の下の托葉の上に豆粒のような蕾が控えて、行儀よく咲く順番を待っている。
雪割草の花は終わって、その横で薄紫色のショウジョウバカマの花が首を伸ばしている。
ハナイカダは折りたたんだ葉をやっと開いたばかりなのに、よくみると、そのうえに芥子粒のような蕾を付けている。たいした花じゃなくても、葉っぱの上にくっついた花を咲かせるだけでじゅうぶん珍重される。
ヤマユリも何本か芽を出した。昨年花をつけすぎて、疲れたんだろうか。今年はとうてい花を咲かせられないような一枚葉もたくさんある。それでもいい。2年や3年はお待ちしましょう。

ルイヨウボタンもクリーム色の芥子粒のような蕾を先端に付けて、スックリと立ち上がった。たいそう地味な花だけれど、その渋いところが気に入っている。
おや、花びらがとれて蘂だけになったサクラが集まって落ちていると思ったら、ヒトリシズカの花芽だ。黒褐色の葉っぱの上に白い木綿糸を束ねたような花穂が出ている。
これらはみんな小さな者たち。かがんでよく見ておかないと、春の妖精たちの一番素晴らしい時を見逃してしまう。

腰を伸ばして、上を見ると、3日前に盛りを迎えていたソメイヨシノは、雨と風に吹かれて無残な姿になってしまった。半月前に春の先駆けですとばかりにキリリと咲いていたキブシの花もあっという間にほうけて、葉っぱがぐんぐん出てきている。大きい者たちの美しいときも一瞬だ。

そのキブシの可愛らしさについて、宇都宮貞子さんは次のように書いている。「この莟の穂は前年の9月というともうちゃんと出来ていて、細いのが3,4センチ丈にチョロリと垂れ、何かの虫の尻尾のようだ。・・その白い粒のついた撚り糸みたいな穂を中社のおばあさんに見せると、『マメンブチ(キブシ)がへえもう来年の花をだんどってる(用意している)』といった」「長野辺の里山では、キブシは大体4月中旬に盛りとなる。時により、場所により、この花穂の下がった景色を枯れ枝に雫を綴っていると感じたこともあるし、冬ざれ山で淋しいものだから、ブラリ簪を沢山さしておしゃれしているな、と思ったこともある。木々の芽は外套を脱ぎ始めてはいるが、まだ裸木にしかみえないのだ。少しでも青いのは低い連中で、マユミやミヤマイボタ、ノバラの幼い葉ぐらいなのである。キブシのすだれの奥から、ツツピン・ツツピンとシジュウカラの愛らしい早口歌が降ってくる」(「春の草木」新潮文庫)
(2014年4月5日)

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Published in 土曜日, 4月 5th, 2014, at 22:06, and filed under 集団的自衛権.

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