澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

今年のノーベル平和賞に納得。そして来年は憲法9条に。

今年のノーベル平和賞は、女子教育の権利確立を唱える17歳のマララ・ユスザイフさんと、児童労働から子供を守る活動を続けてきたカイラシュ・サティヤルさんのお二人に決まった。「すべての子を労働から解放」し、「すべての子に教育を」という呼びかけに世界が共鳴したのだ。インドとパキスタン、国境を接して軍事衝突を繰り返す両国の平和活動家への同時授賞も心憎い。これなら、平和賞の名に恥じないと言えるだろう。

だがこの二人の願いが未だに切実なものである世界の現実を傷ましいものと考え込まざるを得ない。貧困と偏見が、子供を、とりわけ女児を教育から遠ざけている。教育こそが貧困と偏見を一掃する切り札なのだが、その教育の普及を貧困と偏見が妨げている。この悪循環克服が、平和のための世界の共通課題であることを今年の平和賞がアピールした。メッセージ性の強い、意義ある授賞との印象が深い。

「一人の教師、一冊の本、一本のペンが世界を変えうる」ことは、象徴的な比喩としては真実であっても、現実には「無数の学校、無数の教師、無数の教材、膨大な予算」が必要である。共同体としての人類の課題として、これを成し遂げなければならない。世界の平和と安定のためには、武器や原発の輸出は役立たない。教育条件の整備こそが喫緊の課題なのだ。

もっとも、教育に関してわれわれは別の次元での問題も抱えている。教育の機会均等の形骸化と教育に対する国家統制である。

国民間の経済格差の固定化は、教育における機会均等の喪失度に相関する。戦後と言われた時代の我が国には、経済格差に依存しない教育の機会均等があったように思う。国立大学の授業料は安かった。授業料免除の制度も利用できた。だから私も、私の二人の弟も大学教育を受けることができた。

本日の朝日のオピニオン欄「戦後70年へ」で、日本の近現代史研究者であるアンドルー・ゴードンさん(ハーバード大)が興味ある指摘をしている。
「60年代の統計ですが、国立大学入学者に占める最も貧しい所得層の学生の比率は、全人口に占めるこの最低所得層の比率とまったく変わらなかった。高等教育へのアクセスが、完全な平等に近い状況だったのです。公立学校の評価がまだ高かった時代です。どんな家庭の子にも道は開かれている。努力さえすれば、良い学校に入り、良い会社に就職ができると信じることができたのです」
―そういう信仰は、もはやないですね。
「いい学校に行くには塾に行かせねばなりません。親が裕福な方が有利です。所得格差が教育格差につながっています」

所得格差が教育格差につながり、教育格差が生涯賃金格差の再生産につながる。格差固定化の社会。不満と不安と絶望とが充満した社会をもたらすことになる。

国家による教育への介入の排除は永遠の課題である。この点の到達度は民主々義成熟度のバロメータでもある。教育の場において、ナショナリズムと排外主義をどう克服すべきか。これは優れて平和の課題でもある。

今年のノーベル平和賞は、世界の人々に、教育を見つめ考え語る機会を提供した。あるべき教育を通じての平和の達成を意図しての試みとして成功したと評価しえよう。

来年は「憲法9条」の受賞で、憲法による平和を世界の話題としよう。そして、非武装中立の思想と運動を世界に普及するチャンスとしよう。

それにつけても思う。マララさんはタリバン襲撃の危険をかえりみず意見の表明を貫いた。襲撃を受けて瀕死の重傷を負ってなお怯まなかった。その勇気ある姿勢に世界が感動し、賞賛した。考えようによっては、マララさんを襲撃したタリバンが、今回の授賞に一役買ったのだ。

日本国憲法9条も、今安倍政権からの不当な攻撃を受けて大きな傷を負っている。これに負けない国民運動をもって世界を感動させたいものと思う。そして、来年の今頃には、「考えようによっては、9条を攻撃した安倍晋三が、今回の9条の平和賞受賞に一役買ったのだ」と言ってみたい。
(2014年10月11日)

「怒りの人」のノーベル物理学賞受賞を祝する

子供の頃、オリンピックで日本人がメダルを取ると我がことのごとくに嬉しかった。古橋広之進、橋爪四郎、石井庄八などは、まさしく英雄だった。ノーベル賞も同じ。湯川秀樹を日本の誇りと思った。敗戦の傷跡深かった時代の幼い心情。国民的なコンプレックスの投影であったのだろう。やがて国は傷跡を癒やし、私も長ずるに及んで、ナショナリズムの呪縛とは完全に縁が切れた。

国際競技において、選手が国家を背負って競技をすることを不自然とし、国別メダル争いを愚の骨頂と思うようになった。ノーベル賞についても同じ。日本人の受賞を喜ぶなどという気持ちの持ち合わせはなくなった。「あなたも日本人ならご一緒に、日本人の受賞を喜びましょう」という同調圧力がこの上なく不愉快。

科学の発達が人間を幸福にするなんてウソだと思いこんでもいる。原水爆や原発、数々の大量破壊兵器や人間監視システムを作り出した科学者を尊敬する気持ちはさらさらない。本多勝一さんの、ノーベル賞を唾棄すべきものとする意見に喝采を送って来た。だから、どこの誰がノーベル賞を取るかなど、例年は何の関心も持たない。

ところが今年だけは別だ。もしかしたら、「憲法九条にノーベル平和賞を」実行委員会が推薦した「九条を保持してきた日本国民」が受賞するかも知れないとの下馬評の故にである。申請団体ではない「九条の会」の事務局も、受賞した場合と受賞を逸した場合の二通りのコメントを用意したと聞いた。

東京新聞の報道では、集団的自衛権の行使を容認した安倍政権の憲法解釈変更が平和への脅威をもたらしているからこそ「九条」の受賞が有力なのだという。「平和賞が(戦争を抑止し、平和を希求するという)賞創設の原点に立ち返るには好機」(国際平和研究所(オスロ))だからなのだそうだ。つまりは、安倍政権の戦争志向の危険な動きを抑止するための受賞ということで、同研究所が憲法九条を最有力の平和賞候補としたのは、ひとえに安倍晋三のおかげなのだ。

「九条にノーベル賞」は、「富士に月見草ほど」は似合わない。それでも、世界に話題になるだろう。多くの人が、「日本に九条あり」と知ってくれるだろう。一国の実定憲法に非武装・平和の条文があり、これを支える思想があり、非武装による平和を守ろうとする国民的運動が存在し続けていることを知ってもらえる。まさしく、原発ではなく武器でもなく、九条の平和の理念を世界に広める好機となるのではないか。

しかし、残念ながら、本日九条は受賞を逃した。代わって、2014年のノーベル平和賞を受賞したのは、パキスタンで女子教育の権利を求め続けているマララ・ユスフザイさんと、児童労働問題に取り組むインドの非政府組織(NGO)代表のカイラシュ・サトヤルティさんの2人となった。お二人の受賞に祝意を送りたい。

ところで、今年のノーベル賞にまつわる話題で、最も興味深かったのは、物理学賞を受賞した中村修二さんの次の言葉。

「In my cace,my motivation is always anger.(私の行動の原動力は常に“怒り”です)」

毎日の報道では、「中村氏は大学構内での会見で、研究の原動力について『アンガー(怒り)だ。今も時々怒り、それがやる気になっている』と力を込めた。青色LED開発後、当時勤めていた日亜化学工業(徳島県阿南市)と特許を巡り訴訟に至った経緯に触れながら、怒りを前向きなエネルギー源に転換してきたと強調した。中村氏は、自分の発明特許を会社が独占し、技術者の自分には『ボーナス程度』しか支払われず、対立したと改めて説明。退職後も日亜化学から企業秘密漏えいの疑いで提訴されたことが『さらに怒りを募らせた』と明かした。『怒りがなければ、今日の私はなかった』と冗談交じりに語り、『アンガー』という言葉を手ぶりを入れながら何度も繰り返した」とのこと。

読売では、「社内で『無駄飯食い』と批判されていた」「会社の上司たちが私を見るたびに、『まだ辞めてないのか』、と聞いてきた。『私は怒りに震えた』。このような研究に冷ややかな周囲の目や元勤務先との訴訟への怒りが、開発への情熱につながった」という。

予定調和的なコメントがお約束となっている「晴れの場の記者会見」の席上で、歯に衣着せぬ言葉が実にすがすがしい。そうだ。そのとおり、「怒り」は行動の原動力だ。自分のこととして良く分かる。

「同じ日本人」としてなどではなく、「同じく怒れる人」として、中村さんの受賞を喜びたい。
(2014年10月10日)

この度は、産経の側に立つ

私は産経新聞が嫌いだ。ときに率直に産経の記者に「ジャーナリズムとして認めない」などと真情を吐露して物議を醸す。その上司から「ウチの記者をいじめるのか」と抗議を受けたりもする。日の丸でコメントを求められて、即座に断ったこともある。その際には、理由を聞かれて「産経を信頼していない。正確に私のコメントを掲載してくれるとは思えない」と答えたが、産経紙上に自分の名が載ることを恥ずべきこととする感情を拭えない。

私は韓国が好きだ。ソウルに行ってみて、その空気を好もしいと思った。もともと、軍事政権から民主化を成し遂げた韓国の民衆の運動には敬意をもっているし、現政権の姿勢も安倍内閣よりはずっとマシだと思っている。

昨日(10月8日)、私の好きな韓国の検察が、私の嫌いな産経の記事をとがめた。「弾圧した」と言ってもよい。その記事の内容が不都合として、産経の前ソウル支局長を起訴したのである。起訴の罪名は、耳になじみのない「情報通信網法違反」だという。これだけでは良く分からないが、「根拠もなく女性大統領に不適切な男女関係があるかのように報じて名誉を傷つけた」ことが処罰に値するというのだ。日本に当てはめれば、天皇か首相の名誉を毀損する記事の掲載を犯罪として訴追したことに相当する。

本日の産経社説が、「前支局長起訴 一言でいえば異様である 言論自由の原点を忘れるな」と表題して、大意次のように述べている。

「言論の自由を憲法で保障している民主主義国家としては極めて異例、異様な措置であり、到底、これを受け入れることはできない。
 日本と韓国の間には歴史問題などの難題が山積し、決して良好な関係にあるとは言い難い。それでも、自由と民主主義、法の支配といった普遍的価値観を共有する東アジアの盟友であることに変わりはない。報道、言論の自由は、民主主義の根幹をなすものだ。政権に不都合な報道に対して公権力の行使で対処するのは、まるで独裁国家のやり口のようではないか。
 問題とされた記事は8月3日、産経新聞のニュースサイトに掲載されたコラムで、大型旅客船「セウォル号」の沈没事故当日に朴大統領の所在が明確でなかったことの顛末について、地元紙の記事や議事録に残る国会でのやりとりなどを紹介し、これに論評を加えたものである。
 韓国『情報通信網法』では、『人を誹謗する目的で、情報通信網を通じ、公然と虚偽の事実を開示し、他人の名誉を毀損した者』に対して7年以下の懲役などの罰を規定している。だが、名誉毀損については同国の刑法でも『公共の利益に関するときは罰せられない』と定めている。大統領は、有権者の選挙による公人中の公人であるはずだ。重大事故があった際の国のトップの行動について、国内の有力紙はどう報じたか。どのようなことが国内で語られていたか。これを紹介して論じることが、どうして公益とは無縁といえるのだろう。
 記事中にある風評の真実性も問題視されているが、あくまでこれは『真偽不明のウワサ』と断った上で伝えたものであり、真実と断じて報じたものではない。そうした風評が流れる背景について論じたものである。
 前支局長の起訴処分は、撤回すべきだ。」

私が産経を嫌いという理由の主たるものは、紙面に体制や権力への批判や抵抗の姿勢がないことである。権力に迎合し体制とつるんで恥としないその体質への嫌悪感からだ。本件では、産経は日本の権力を批判したのではなく、韓国の権力を批判して、韓国の権力から叩かれた。こうして、私の好きな韓国が、私の嫌いな産経を叩く図式が現出した。

私は好悪の感情に流されず、理性が命じるところに従う。言論の自由に関して、けっしてダブルスタンダードを使い分けるようなことがあってはならない。大切な原則をおろそかにすれば、失うものがあまりに大きなものとなる。

結論論として、こう言わねばならない。
「私はあなたの普段の姿勢には嫌悪を感じている。今回のあなたの記事も立派なものとは思わない。しかし、あなたがこのことを記事にする権利は断固として支持する。いかなる国のいかなる形のものであれ、あなたの言論を封じる権力の弾圧には徹底して反対する。あらゆる国のあらゆるジャーナリズムが、萎縮することなく多様な言論を表現する権利を保障されなければならず、それを通じて各国国民の知る権利が全うされなければならないのだから」
(2014年10月9日)

「憲法は閣議ひとつで変えられる だから7月1日は壊憲記念日」

本日は、日弁連主催の「閣議決定撤回!憲法違反の集団的自衛権行使に反対する10・8日比谷野音大集会&パレード」。日比谷野音が人で埋まった盛況に見えたが、「参加者は3000人を超えた」という発表だった。

民主・共産・社民・生活の各党から合計16名の国会議員の参加を得て、午後6時に開会。村越進日弁連会長の開会挨拶は、なかなか聞かせる内容だった。その要旨は以下のとおり。

「日弁連は、政治団体でも社会運動団体でもありません。当然のこととして、会員の思想信条はまちまちであり、立場の違いもあります。強制加入団体である日弁連が、集団的自衛権行使容認反対の運動をすべきではないと批判の声もあります。

しかし、私たちの使命は人権の擁護にあります。人権の擁護に徹するとすれば、憲法を擁護し、憲法が定める平和主義を擁護する立場に立たざるを得ません。戦争こそが最大の人権侵害であり、人権は平和の中でしか花開くことができないからです。従って、憲法の前文と9条に描かれた恒久平和主義を擁護することは弁護士会の責務であります。

また、集団的自衛権行使を容認した7月1日閣議決定が、立憲主義に反することは明らかで、日弁連はこの点からも、閣議決定の撤回を求めています。

今こそ、多くの人々が人権と平和と民主々義のために力を合わせるべきときです。閣議決定の撤回を求めるとともに、関連諸法の成立を許さぬよう、ご一緒にがんばりましょう」

また、山岸良太・憲法問題対策本部長代行から、日弁連だけでなく全国の52単位会の全部が集団的自衛権行使容認に反対する声明や意見を出していると報告された。また、7月1日閣議決定は、憲法の平和主義に反し立憲主義に反し、ひいては国民主権に反すると説明された。

次いで、6名の発言者によるリレートークが本日のメイン。
出色だったのは、やはり上野千鶴子さん。正確には再現できないが、大意は以下のとおり。
「集団的自衛権を行使する、とは日本がアメリカの戦争の共犯者となること。そのようなことを憲法は許していないはず。にもかかわらず、閣議決定は時の政府の一存でその容認に踏み切った。
   憲法は閣議ひとつで変えられる だから7月1日は壊憲記念日
本来、法は時々の政治の要求で踏みにじられてはならない。今、法律家には、失われた法に対する信頼を取り戻すべき責任がある。

若い頃大人に対して『こんな世の中に誰がした』と詰め寄った憶えがある。私たちは、今の若者から同じように詰め寄られてなんと返答できるだろうか。戦後のはずの今を、戦前にしてはならない」

青井未帆学習院大学教授の発言も危機感にあふれたものだった。
「2014年は、あとから振り返って、戦後平和主義の転換点とされる年になるかも知れない。過去に目を閉ざしてはならない。戦争体験を学び次代に伝え、平和の尊さを伝える努力をしていかねばならない。
政治は憲法に従わなくてはならず、超えてはならない矩がある。明治憲法は、権力の統制に失敗したが、日本国憲法はこれまではそれなりに真摯に取り扱われてきた。ところが今、憲法はなきに等しくなってはいまいか、あるいはきわめて軽んじられてしまってはいないか。憲法の最高法規制を見失えば、特定秘密保護法・日本版NSC設置法・集団的自衛権行使容認などの深刻な事態となる」

宮?礼壹・元内閣法制局長官も、中野晃一上智大学教授の発言も、耳を傾けるに値する内容だった。

閉会の挨拶で、?中正彦東京弁護士会会長が、「法律家の常識として、どのように考えても集団的自衛権を容認する憲法解釈は出てくる余地はない」と締めくくった。

会場に各単位会の旗が林立した。自由法曹団や日民協の旗も建てられた。弁護士会はなかなかに立派なものだ。いや、日弁連は現行憲法の理念に忠実という意味において、きわめて保守的な姿勢を貫いているに過ぎない。法律家の宿命というべきであろう。この保守的姿勢が、いま、右翼政権からは邪魔なリベラル派に映るというだけのことなのだろうと思う。
(2014年10月8日)

朝日バッシングに悪乗りした石原慎太郎の暴論

朝日バッシングの動きは、傍観しておられない。バッシングされているのは、「朝日」が象徴する戦後民主々義だからである。
朝日が戦後民主々義の正統な継承者であるかの議論は措く。虚像にもせよ攻撃する側の認識においては、「朝日=唾棄すべき戦後民主々義」なのだ。朝日叩きを通じて、「戦後」と「民主々義」とが叩かれている。叩かれっぱなしとするわけにはいかない。

時代の空気が、安倍のいう「戦後レジームからの脱却」や「(戦後レジーム以前の)日本を取り戻す」に染まりつつある。むしろ、そのような時代の空気が安倍を押し上げたのだろう。

朝日へのバッシングにおいて、戦前から断絶したはずの戦後が意識的に否定されている。具体的に攻撃されているものは、朝日が体現する歴史認識であり、その歴史認識が結実した日本国憲法であり、平和・民主々義・人権という理念にほかならない。だから、「従軍慰安婦問題」がメインテーマとなっているのだ。テーマだけではなく、その主張の乱暴さに驚かざるをえない。とうてい、放置してはおられない。

本日の朝日社会面の「メディアタイムズ」が、朝日バッシングのすさまじさをよく伝えている。
「慰安婦報道にかかわった元朝日新聞記者が勤める大学へ脅迫文が届き、警察が捜査を進めている。インターネット上では、元記者の実名を挙げ、「国賊」「反日」などと憎悪をあおる言葉で個人攻撃が繰り返され、その矛先は家族にも向かう。暴力で言論を封じることは許せないと市民の動きが始まった。」

標的とされた北星学園大学(札幌)は、「9月30日、学生と保護者に向けた説明文書の中で初めて、U氏の退職を求める悪質な脅迫状が5月と7月に届き、北海道警に被害届を出したことを明らかにした。3月以降、電話やメール、ファクス、手紙が大学や教職員あてに数多く届き、大学周辺では政治団体などによるビラまきや街宣活動もあった」という。

「ネット上で、大学へ抗議電話やメールを集中させる呼びかけが始まった。3月、大学側が『採用予定だったU氏との雇用契約は解消されました』とホームページで公表すると、ネットには『吉報』『ざまぁ』の書き込みが相次いだ」とのこと。記事中にあるとおり、「もはやUさんだけの問題ではない。大学教育、学問の自由が脅かされている」

また、「帝塚山学院大(大阪府大阪狭山市)にも9月13日、慰安婦報道に関わった元朝日新聞記者の人間科学部教授の退職を要求する脅迫文が届き、府警が威力業務妨害容疑で調べている。元記者は同日付で退職した」とのこと。

さらに、ネットの書き込み自体も大きな問題だ。「ネットに公開していない自宅の電話番号が掲載されていた。高校生の長女の写真も実名入りでネット上にさらされた。『自殺するまで追い込むしかない』『日本から、出ていってほしい』と書き込まれた。長男の同級生が『同姓』という理由で長男と間違われ、ネット上で『売国奴のガキ』と中傷された」ともいう。これにも、適切な法的措置が必要だ。

北星学園事件と帝塚山学院事件、そしてネットでの中傷。いずれもまことに卑劣な行為。あきらかに、威力業務妨害、脅迫、強要、名誉毀損、侮辱などの犯罪に該当する。徹底した刑事事件としての訴追が必要であり、再発防止には処罰が有効だろう。

五野井郁夫・高千穂大准教授のコメントが適切である。
「民主主義の要である言論の自由を暴力で屈服させるテロ行為と等しく、大変危険だ」「言論を暴力で抑圧してきた過去を日本社会は克服したはずなのに、時代が逆戻りしたかのようだ。私たちはこうした脅しに屈してはいけない」

まったく同感である。一連のバッシングを「言論の自由を暴力で屈服させるテロ行為に等しい」との認識が定着しつつある。産経新聞ですら、「報道に抗議の意味を込めた脅迫文であれば、これは言論封じのテロ」「言論にはあくまで言論で対峙すべきだ」と社説で主張している。

ところが、比喩としての「言論によるテロ」ではなく、本物のテロの実行を煽る言動まで表れている。石原慎太郎「国を貶めて新聞を売った『朝日』の罪と罰」(『週刊新潮』10月9日号)がそれである。何とも驚くべき暴論。

「私と親しかった右翼活動家の野村秋介さんが、朝日新聞東京本社に乗り込んだ事件がありました。九十三年十月のことで、当時の中江利忠社長らに説教して謝罪させたあと、社長の目の前で自分のわき腹に向けて拳銃を放ち、自殺してしまいました。
 私は通夜に行って、『野村なんでこんな死に方をしたんだ、なんで相手と刺し違わなかったんだ』と言いました。彼は朝日新聞に対して、命がけで決着をつけるべきだったのです。そうすれば、彼らはもう少しまともな会社になっていたのではないか。朝日が国を売った慰安婦報道をひっくり返した今、なおさらそう思います。
 朝日新聞は、これだけ国家と民族を辱めました。彼らがやったことは国家を殺すのと同じことで、国家を殺すというのは、同胞民族を殺すことと同じです。彼らはいつもああいうマゾヒズム的な姿勢をとることで、エクスタシーを感じているのかもしれませんが、朝日の木村伊量社長は、世が世なら腹を切って死ななければならないはずだ。彼らの責任はそれくらい重いと思います。
 三島由紀夫は生前、『健全なテロがないかぎり、健全な民主主義は育たない』と言いました。私は、これにはパラドックスとして正しい面があると思います。
 野村秋介は六十三年に、当時建設大臣だった河野一郎邸に火をつけました。河野は代議士になる前は朝日新聞の記者で、典型的な売国奴のような男でしたが、那須の御用邸に隣接する上地を持っていて、御用邸との境界線争いが起きたとき、境界をうやむやにするために雑木林に火をつけさせたといわれた。
 それで御用邸の森の一部も燃えてしまい、泉も涸れてしまい、天皇陛下も大変悲しまれました。そのことが右翼全体の怒りを招き、結局、児玉誉士夫が騒ぎを収めたのですが、野村はそれでは納得できず、河野邸を燃やしたのです。
 野村はそれで十二年間、刑務所に入りました。もちろん放火という行為は推奨できないが、命懸けだった。少なくとも昔の言論人は命懸けで、最近、そういう志の高い右翼はまったくいなくなりました。今は、朝日が何をしようと安穏と過ごせる、結局うやむやにして過ごせる時代です」

これは、殺人と放火と業務妨害とを唆し煽る行為である。犯罪を煽動するものとして言論の自由の範疇を超えるものと言わなければならない。自分は安全な場所にいて、他人にテロをけしかけているという意味において卑劣な言動でもある。社会は、このような言論を許してはならない。筆者も筆者だが、新潮の責任も大きい。

今日の東京新聞「本音のコラム」に鎌田慧「軽率な謝罪」が、石原の記事に触れて正論を語っている。
「右派ジャーナリズムあおりに便乗して、石原慎太郎さんは朝日を廃刊にせよ、不買運動を、とアジっている。邪魔な新聞はつぶせ、という政治家の暴論だ」「盥の水と一緒に赤子(報道の自由と民主々義)を流すな」

石原慎太郎が「朝日の不買を」というのなら、私は定期購読を再開しよう。実は、朝日の姿勢に不満あって、ここしばらく定期購読はやめていたのだ。同じように、他紙に乗り換えた人は私の周りに少なくない。しかし、小異にこだわらず朝日を応援しよう。周囲にも朝日回帰を呼びかけよう。朝日が現場の記者を擁護してバッシングと闘い続ける限り、ささやかながら朝日を支え続けよう。
(2014年10月7日)

防衛大臣の政治資金規正法違反を、報告書の訂正で済ませてはならない

共同通信などの複数メディアが伝えるところによると、
「江渡聡徳防衛相の資金管理団体(「聡友会」)が2009年と12年、江渡氏個人に計350万円を寄付したと政治資金収支報告書に記載していたことが9月26日に分かった。江渡氏は同日の閣議後記者会見で『事務的なミスだった』と述べ、既に訂正したと明らかにした」「江渡氏や訂正前の報告書などによると、09年に100万円を2回、12年5月と12月にも100万円と50万円を寄付したことになっていた」
という。

明らかな政治資金規正法違反。条文上は、法第21条の2「何人も、公職の候補者の政治活動(選挙運動を除く)に関して寄附(政治団体に対するものを除く)をしてはならない」に違反する。個人及び政党以外の政治団体は、公職の候補者(国会議員や首長など現職を含む)に対して、選挙運動に関するものを除き、金額にかかわらず政治活動に関する寄附を行うことが禁止されている。

ましてや、資金管理団体とは政治家個人の政治資金を管理するために設置される団体である。法は、政治家を代表とする資金管理団体を一つだけ作らせて、政治家個人への政治資金の「入り」も「出」も、この団体を通すことによって、透明性を確保し量的規制を貫徹しようとしている。だから、資金管理団体から政治家個人への寄付などという形で資金の環流を認めたのでは、政治資金の取り扱い権限を個人から資金管理団体へ移行しようとする制度の趣旨を没却することになってしまう。

総務省のホームページで、「政治資金収支報告書及び政党交付金使途等報告書」を検索してみた。残念ながら09年の報告は期限が切れて掲載されていない。12年の報告だけは閲覧可能である。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/contents/131129/1306400032.pdf

確かに、「聡友会」(代表者江渡聡徳)の収支報告書の支出欄に、
  2012年5月25日  「江渡あきのり」への寄付100万円
  2012年12月28日 「江渡あきのり」への寄付 50万円
と明記されていたものが、本年9月2日に「願により訂正」として、抹消されている。これに辻褄を合わせて、「支出の総括表」における「寄付」の項目が150万円減額となり、人件費が150万円増額となっている。これも、「9月2日 願により訂正」とされている。

記者会見による弁明の内容については、「江渡氏は『350万円は寄付ではなく、聡友会の複数の職員に支払った人件費だった』と説明。担当者が領収書を混同し、記載をミスしたとしている」(共同)と報じられている。

弁明の内容については、朝日の報道がさらに詳しい。
「江渡氏は『私から職員らに人件費を交付する際、私名義の仮の領収書を作成していたため、(報告書を記載する)担当者が(江渡氏への)寄付と混同した』と説明。人件費は数人分で、江渡氏が仮領収書にサインするのは『お金の出し入れの明細がわかるようにするため』と述べた」という。

この江渡弁明を理解できるだろうか。弁明が納得できるかどうかの以前に、どうしてこのような主張が弁明となり得るのかが理解できないのだ。

人件費としての支出には、その都度に受領者からの領収証を徴すべきが常識であろう。政治団体の場合は常識にとどまらない。政治資金規正法は、刑罰の制裁をともなう法的義務としている。

「第11条(抜粋) 政治団体の会計責任者又は、一件五万円以上のすべての支出について、当該支出の目的、金額及び年月日を記載した領収書を徴さなければならない。ただし、これを徴し難い事情があるときは、この限りでない。」

この領収証を徴すべき義務の対象において人件費は除外されていない。そして、その領収証について3年間の保管義務も法定されている。例外を認める但し書きはあるものの、職員への人件費の支払いに関して「領収証を徴し難い事情」はおよそ考えられるところではない。この11条の規定に違反して領収書を徴しない会計責任者には、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処せられる(24条3号)。政治資金規正法をザル法にしないための当然の規定というべきだろう。

江渡弁明を報告書訂正の内容と合わせて理解しようとすれば、職員に支払った人件費の支出を事務的ミスで江渡個人への寄付による支出と混同したということになる。しかし、いったいどのような経過があってどのような事情で、混同が生じたというのだろうか。職員に支払う際の義務とされている領収証を受領しておきさえすれば「混同」は避けられたはずではないか。それすらできていなかったということなのか。

なによりも、「私から職員らに人件費を交付する際、私名義の仮の領収書を作成した」ということが意味不明だ。「仮」のものにせよ、人件費の支払いを受けた資金管理団体の職員の側ではなく、支払いをした資金管理団体の代表が「領収証」を作成したということが理解できない。

政治資金収支報告書の届け出によれば、同年の「聡友会」の支出のうち、「寄付」はわずかに16件である。問題の2件を除けば14件。そのうち12件は、毎月定期的に行われる、各月ほぼ100万円の地元「江渡あきのり後援会」への寄付(合計1260万円)が占めている。他は、自民党青森県連へのものが1件と、靖国神社へ1件だけ。「江渡あきのり・個人」への2件150万円は、異色の寄付として目立つものとなっている。たまたま紛れがあって、事務的ミスが原因で報告書に記載されたとはとうてい考えがたい。直ぐには目にすることができないが、きちんと作成され保管されていた「江渡聡徳名義の領収証」があったに違いない。これを、苦し紛れに「仮の領収証」と言い訳をしたものとしか考えられない。これだけの疑惑が問題となっている。

この「事務的なミス」とする弁明は不誠実でみっともない。きちんと誤りを認めて謝罪し、再発防止を誓約することこそが、政治家としての信頼をつなぎ止める唯一の方策であろう。問題の「仮領収証」を公開することもないまま、「報告書を訂正したのだから、もう済んだ問題」として収束をはかるなどはとうてい認められない。

よく似た例はいくらでもある。たとえば、2012年都知事選がそうだった。
「上原氏の‥交通費や宿泊費など法的に認められる支出の一部にすぎない10万円の実費弁償に何の違法性もないことは明らかである」「上原さんらの上記10万円の実費弁償が選挙運動費用収支報告書に誤って『労務費』と記載されていることは事実であるが、この記載ミスを訂正すれば済む問題である」
とは、江渡弁明とよく似た言い分。

自らの手の内にあるはずの根拠となる資料を示すことなく、「この記載ミスを訂正すれば済む問題」とし、今は「既に訂正したのだから、もう済んだ問題」として押し通そうとしている。このようにして収束をはかろうなどはとうてい認められない。

誤りを認めず、反省せず、真摯に批判に耳を傾けようとしない。こういう体質は改めなければならない。でなければ、この陣営に参集した者には、石原宏高や猪瀬直樹、渡辺喜美、そして江渡聡徳らを批判する資格がないことになるのだから。
(2014年10月6日)

不透明な政治資金の動きには徹底的な解明のメスを

昨日(10月4日)の朝日が、新たな渡辺喜美関係の政治資金規正法違反疑惑を報道した。今年3月にDHC吉田からの「8億円裏金疑惑」が表に出たが、渡辺は自らすべてを報告しようとはしなかった。4月には弁護士2名と公認会計士をメンバーとした「みんなの党調査チーム」の報告書が発表されたが、これも未解明部分を残したものとなった。そして今また「新たな疑惑」である。もちろん、これで終わりではない。あきらかに解明しなければならない疑惑は残っている。この上は特捜の強制捜査に期待したい。捜査の徹底によって、渡辺喜美・みんなの党の内部だけでなく、この人物この政党と関係したすべての者との金銭の出入りを明確にしてもらいたい。

当ブログで何度も繰り返した。「政治資金の流れは透明でなければならない」「可視性が確保されなければならない」「政治資金の公開の制度は、民主々義の基本的要請である」「その監視と批判は主権者国民の責務である」。巨額の政治資金の動きが、献金ではなく貸付金だからという理由で、裏に隠されたままでよいことにはならない。しかも、本当に貸付金であるか、怪しい金の動きについては、主権者の良識が納得を得るだけの徹底した疑惑の解明が必要である。

朝日が報道した「新しい疑惑」は、その金の流れ自体は既に、本年4月24日付けの「みんなの党調査チーム・報告書」で明らかにされていたものである。同報告書は、本文12頁に、6頁の図表、3頁の別表、そして3件のメールの写で構成されている。その図表1から、昨日の朝日に掲載された「2010年参院選の前後の渡辺喜美前代表をめぐる資金の流れ」の図が作成されている。

みんなの党調査報告書の該当部分を、改めて抜き書きしてみる(すべて2010年) 。
(1) 3月26日 Aから渡辺喜美(りそな銀行衆議院支店)に5000万円貸付
(2) 3月29日 渡辺喜美からみんなの党に5000万円貸付
(3) 6 月18日 Aから渡辺(りそな銀行衆議院支店)に4000万円貸付
(4) 6月21日 渡辺喜美からみんなの党に5000万円貸付
(5) 6月21日 みんなの党が供託金(1億3800万円)支払い
(6) 6月30日 DHC吉田から渡辺(りそな銀行衆議院支店)に3億円貸付
(7) 7月13日 渡辺(りそな銀行衆議院支店)から「A」に9000万円返済
要するに、Aから渡辺に9000万円が貸し付けられ、4か月後に渡辺がこれを返還しているが、その返済の原資はDHC吉田から借用した3億円の一部である。

この報告書では、Aを個人と明示してはいない。しかし、Aが政治資金規制法における収支報告を義務づけられた政治団体だとも指摘していない。多くの読み手は、AをDHC吉田と同様の個人と理解してしまうだろう。うかつにも、私もその一人だった。朝日は調査して、このAが政治団体「渡辺美智雄政治経済研究所」(栃木県宇都宮市・代表者渡辺喜美)だと報道したのだ。自分が主宰する政治団体から自分に9000万円を貸し付け、これを政党に貸し付けている。はて、面妖な。

2010(平成22)年の「渡辺美智雄政治経済研究所」の総務省への収支報告書は以下のURLで読むことができる。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/contents/111130/2460000021.pdf
4000万円の支出も、5000万円の支出も記載がない。「貸付先ごとの残高が100万円を超える貸付金」「借入先ごとの残高が100万円を超える借入金」について、「無」と明記されてもいる。繰り越しを含む年間総収入が592万円、支出総額が527万円である。9000万円の支出などできるはずもない。

朝日が、どんな資料を把握しているのかは分からない。慎重に、出稿前に渡辺喜美側に取材し言い分を聞いている。記事は次のとおり。

「渡辺喜美前代表の事務所は3日、朝日新聞の取材に対し、9千万円の貸し付けと返済について『渡辺議員に対する貸し付けは、ご指摘の政治団体(渡辺美智雄政治経済研究所)の資金ではありません。政治団体の収支に関係しないので収支報告書に記載する必要はありません。政治資金規正法に反するのではないかとの指摘は誤りです』と書面で回答した。同研究所名義の銀行口座から出入金されたかどうかの質問には、回答がなかった。」という。

朝日は、「同研究所名義の銀行口座から9000万円の出入金があったか」と質問したが、渡辺側からの「回答はなかった」という。常識的には、「これで勝負あった」ということになる。

もっとも、渡辺喜美側は、4日になって「朝日の指摘は全く当たらない」と反論するコメントを発表した、という。
「コメントは『口座の名義は、政治団体の経理担当者の政治団体名の肩書を付けた個人名義』と説明。『政治団体の資産ではなく、収支報告書に記載すべき収支には当たらない』としている」(時事)という。

これは不自然きわまる苦しい言い訳。「政治団体の経理担当者の政治団体名の肩書を付けた個人名義」って、いったいそりゃ何のことだ。個人名義と言いたいのだろうが、それならなぜ政治団体名を付したのか。本当に、経理担当者個人が9000万円を渡辺喜美個人に貸し、9000万円を返してもらったというのか。いったい何のために、そんな操作をしたのか。そもそも経理担当者(収支報告書には、「会計責任者薄井等」とされている)が、どのようにして9000万円を調達したというのだろうか。
今回の朝日の報道では問題とされていないが、みんなの党の報告書にはAだけではなく、B、C、D、Eまで出てくる。特に、BはAと並んで同時期(2010年6 月18日)に、渡辺喜美に8000万円を貸し付けている。このBとは誰のことだろうか。やはり、政治資金規正法上の収支報告を義務づけられている政治団体である可能性が高い。

渡辺喜美もみんなの党も、そして調査チームも、徹底解明の意欲に欠けている。朝日の報道で、調査チーム報告の疑惑解明不徹底が明瞭になった。私もこの件の告発代理人の一人に名を連ねている。特捜には、是非とも徹底して疑惑を解明してもらいたい。かりに、現行法での捜査の限界があるというのであれば、貸付金の報告義務や量的制限についての立法措置の必要まで視野に置くべきであろう。
(2014年10月5日)

「株主代表訴訟と住民訴訟に明と暗の判決」続編ー川柳2句にちなんで

今日の毎日川柳欄に、次の一句。
   管理職経験生きぬ町内会  (のびた)

企業にせよ役所にせよ、部下との関係では管理職は気楽なものだ。上司としての管理職には、業務命令だの職務命令だのという武器が与えられている。この強力な武器を振りかざして、部下には専制君主として振る舞うことができるのだ。

長く管理職をやっているうちに錯覚に陥る人がある。「自分には、生来他人に命令をする力が備わっているのだ」と。誰かに命令できるのが当然だと勘違いし、それに従わない人間を「けしからぬ奴」と見ることになる。

だから、元管理職氏が町内会の役員になると往々にしてギグシャグが生じる。人を説得し納得ずくでことを運ぶことが非能率としか考えられない。そんな面倒なことをしてはおられないと、長年なじんだ強権をふるうことにもなる。これでうまくいくはずはない。上命下服で動くはずのない町内会では、元管理職の肩書きが生きないばかりか、その強権体質が町内会運営の邪魔になるのだ。結局は、会員の参集を蹴散らすこととなる。

元市長などが、ボランティアチームのリーダーになって悪かろうはずはない。しかし、たまたまこの人物が、「自分には他人に命令をする力がある」という錯覚派だと、悲惨なことになる。共通の理念に賛同して、運動に参加した仲間を対等な人格とみることができない。同じボランティア仲間に、命令ができると大きな勘違いをしてしまう。さらには、「事務局長と目を合わせて、にやにやしながら、『この人、私の命令を聞けないんだって』」などと、傲慢な態度をとることにもなる。

「民主的」選対の本部長や事務局長が、権力や企業内の組織にいるのと同じ発想であることが恐ろしい。しかも、周囲が、このような本部長や事務局長をたしなめることさえせず、自浄能力の欠如をさらけ出したことはいっそうの悲惨と言わざるを得ない。

もっとも、取締役であれ首長であれ、「管理職」は部下との関係では気楽だが、所属する企業や自治体との関係では責任は大きい。第三者との関係でも、ときには身銭を切って責任を全うしなければならない。そのときには、管理職はつらい立場となる。「管理職」に違法があって、被害者に損害を与えれば管理職個人の責任が追求される。企業や自治体が目をつぶっても、違法を見逃せないとするたった一人の株主あるいは市民の提訴の権利を法は認めている。「管理職」が、会社や自治体に開けた穴について、「違法をおかした責任者に身銭を切って埋めさせる」という責任追及の制度である。これが、株主代表訴訟であり、住民訴訟なのだ。

今日の毎日川柳欄から、もう一句。
   手は打つが行政指導と云う無力  (岩田規夫)

この句が指摘するとおり、行政指導とは本来強制力のない無力なものなのだ。公権力の行使が強制力をもつためには、厳格に定められた法的根拠をもたなければならない。また、無力であればこそ、法的根拠のない行政指導も許される。しかし、市長が公約に掲げたテーマだからとか、市民の支持のある問題だからとかの理由で、強引な行政指導が許されることにはならない。市長に行き過ぎた行政指導があって第三者に損害を与えた場合には、まず市が損害を賠償しなければならない。次いで、市長に故意または重過失あれば、市長個人が市の財政に開けた穴を埋めなければならない。そのような文脈で国立市の住民が住民訴訟を提起し、2010年12月22日東京地裁判決(確定)は、「被告国立市は、元市長に対し、3123万9726円及びこれに対する遅延損害金の支払を請求せよ」と命じた。国立市は、この判決に従って、元市長に対する請求の訴訟を提起した。

ところが、その3年後、国立市議会は市が有する元市長に対する損害賠償請求権を放棄する決議をしたのだ。14年9月25日東京地裁判決は、この決議の効果を認め、国立市から元市長に対する請求を棄却した。この判決は、貴重な住民訴訟制度の機能を無にしかねないという意味で、悪しき前例になりかねない。。

市町村長や知事の横暴は、あちこちにあふれている。ところが、通常彼らは議会内多数派とは親密な関係にある。大阪府や大阪市の首長と、議会との関係を想起するとわかりやすいのではないか。せっかくの住民訴訟で、首長の責任が確定しても、議会の多数派が請求権放棄の議決をしてしまえば、元の木阿弥になってしまう。それでよいのだろうか。

ダブルスタンダードはいただけない。これまでは住民訴訟の機能を大切にし、活用を心がけていた人ならば、今回の判決のこの論点について、納得できるはずがないと思うのだが。
(2014年10月4日)

「政党助成金は廃止すべきだ」・「そして企業献金も」

9月30日東京新聞投書欄に「政党助成金は廃止すべきだ」と寄稿された沼津市のFさん。僭越かと思いますが、論旨明晰なご主張に感服しました。そして、表題の「政党助成金は廃止すべきだ」とのご主張には、諸手を挙げて賛意を表します。

「我慢がならないのは政党助成金だ。支持しない政党に私の税金が使われるのは、たとえ一円であってもお断りしたい。しかもこれは、企業からの政治献金を受けないという約束の下で導入された制度ではなかったか。献金ならいくら受けてもよいが、政党助成金は返上していただきたい。」

まことに仰るとおり。「支持しない政党に私の税金が使われるのは、たとえ一円であってもお断り」「我慢がならない」というのは、民主主義社会における主権者としてのまっとうな感覚だと思います。

現行制度では、「毎年私の懐から250円が強制徴収されて、私の支持しない政党の政策実現のための費用として使われている」のですから、私の思想・良心に反した行為(金銭支出)を強制されていることになります。すべての人に思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反する制度だと言わなければなりません。

この点は、政党助成金制度に反対している日本共産党が、「政党助成金制度は、国民の思想・良心の自由を侵す憲法違反の制度(国民への強制献金)である」と言っているとおりです。同党が制度の廃止を求めているだけでなく、「政党助成金の交付を、これまで1円も受け取っていない」のは、さすがにスジの通ったことだと思います。

政治献金は主権者である国民の政治参加の重要な一形態です。「寄付をするかしないか」「どの政党にいくら寄付するか」は、国民の自由な意思によるべきもので、けっして強制されてはなりません。南九州税理士会政治献金強制徴収事件の最高裁判決(1996年3月19日)はこの理を認めています。
article9.jp/wordpress/?p=2889 を参照ください)

ここまでは、Fさんと断然意見一致するところ。しかし、次の点では、見解を異にします。財界からの政治献金も自由だという点です。
「経団連が政治献金を復活する。恐らく献金のほとんどは、自民党に充てられるのだろう。私はこれに反対ではない。支持者が自分の支持する政党に献金することは、個人企業を問わず規制する必要はないと思う。」
さて、本当にそれでよいのでしょうか。はたして、それが民主主義社会における主権者のまっとうな感覚でしょうか。

論点はいくつかあります。まず、企業(株式会社)に政治献金の自由を認めてよいのでしょうか。企業は誰のものかという論争があります。企業の金は誰のものかということでもあります。最も狭く企業が株主のものであると解しても、上場企業の無数の株主の一人ひとりにとって、「支持しない政党の政治活動に私の会社の金が使われるのは、たとえ一円であってもお断り」「我慢がならない」ということになりはしないでしょうか。

株式会社が、経営者や従業員、あるいは下請け企業や債権者や、これから株を買おうと市場を見ている人まで含めて、多くのステークホルダーに関係する社会的存在であることを考えれば、関係者間で鋭く利害が対立することが明らかな特定政党への政治献金を「規制する必要はない」と言ってよいのでしょうか。

さらに、企業の本質は営利性にあります。仮に企業献金が、特定企業の営利に結びつかないものとすれば、無駄な捨て金の支出として、支出責任者は株主に責任を取らねばなりません。では、企業への見返りを期待した企業献金が許されるか。Fさんは、「それで良い」という意見をお持ちのようですが、これはアウトです。そもそも、金の力で、政治や行政を自分の都合のよいように誘導することは許されません。個別の利益につながる政治献金は、金の力で政治をゆがめるものとして賄賂に等しく、民主々義社会における政党活動を支えるための資金とは言えないからです。

企業は主権者でもなく選挙権も持ちません。政治活動や選挙運動の主体とはなり得ない存在です。単に経済的な活動主体として法が権利主体として認めただけの存在です。私は、これに政治的活動や政治献金の権利を認めてはならないと考えています。この点は、最高裁判例の考え方とは違いますが、いずれ最高裁もその考えを改めるだろうと思っています。

次の問題は、少数の大金持ちが、政治資金を特定政党や政治家に際限なく資金を提供して政治を壟断してよいのか、ということです。

Fさんのお考えは、非常にドライでリアリスティックなものだと思います。
「そもそも政党は、国民全体ではなく、国民の中の特定の層を代表する団体にすぎないのだから‥‥、献金を受けた政党は、国民全体を代表するような顔つきはやめて、献金をしてくれた人たちの利益のために働くべきだ。」

私が忖度するに、Fさんは、こうお考えなのではないでしょうか。
「所詮、政治とは利益配分の綱引き。政治をどう動かすか、金ある者は金で勝負をすればよい。国民が利口でありさえすれば、そんな金の力に負けるはずもない。金の力に負けるような民主々義なら、それまでのこと。国民の自己責任ではないか」

この見解も一理あると思います。しかし、賛成できません。
意見の相違は、金の力への評価の差から来るものではないかと思います。政治資金の規正や、選挙の公正性の確保の歴史は、まさしく金の力をどう押さえ込むかの苦闘の連続です。政治や選挙にかかる金とは、けっして買収や供応の金ばかりではありません。優秀な専門スタッフを結集しての政策作り。マーケットリサーチの手法を取り入れた宣伝作戦。テレビや新聞のスペースを買いきった意見広告、洗練された美しいパンフレット、湯水のごときビラの配布。金がなくてはできないこと、金さえあればできることは、多々あります。経済力は、容易に政治力へと転化するのです。こうして、企業や富裕層は、金の力で政治を動かし、票を獲得することができるのです。これを看過して、「献金を受けた政党は、献金をしてくれた企業や金持ちの利益のために働くべきだ」と言っていたのでは、政治は百年たっても変わらないと思うのです。

政治・選挙は言論を手段とする闘いです。言論を手段とする闘いを経て、最終的には獲得した支持者の数が議席に反映することになります。国民の支持の大きさの差が政党や候補者の資金力の差となって表れることは当然のことです。しかし、支持者間の経済力の格差が、言論の量的格差となってしまってはなりません。企業献金自由・金持ちの政治献金の量的制限なしとなれば、政治は一方的に経済的強者のためのものとなってしまうでしょう。これを容認することはできません。

ですから、政党助成金の制度を廃止するだけでなく、企業・団体からの政治献金規制も、そして金持ちの政治献金の上限規制も、必要だと思うのです。Fさん、いかがでしょうか。

なお、下記の私のブログも参照していただけたらありがたいと存じます。
「経団連の政治献金あっせん再開は国民本位の政策決定をゆがめる」
https://article9.jp/wordpress/?p=2784
(2014年10月3日)

香港の国慶節における五星紅旗へのブーイング

香港の情勢から目が離せない。いろんなことを考えさせられる。国家とは何か、民主々義とは何か。そして自らの運命を切り開く主体はどう形成されるのか。

昨日(10月1日)は中華人民共和国の国慶節。民主的な選挙制度を求める大規模デモが続く香港でも、慶賀の記念行事が行われた。その会場に掲揚された中国国旗に、両腕でバツ印を示して抗議する学生らの写真(毎日の記者が撮影)が印象に深い。

以下は毎日からの引用。
「中国の建国65周年となる国慶節(建国記念日)の1日、中国各地で記念式典が開かれた。学生らによる大規模デモが続く香港では同日朝、香港政府トップの梁振英行政長官らが中国国旗と香港行政特別区の旗の掲揚式に参加した。会場周辺には多数の学生が詰めかけ、緊張の中での式典となった。

デモは次期行政長官選挙制度に抗議して起きた。デモを率いる学生リーダーらはこの日、式典会場内に入り、中国国旗の掲揚の際に両手でバツ印を示して抗議した。梁行政長官には『辞任しろ』の声も飛んだ。」

ロイターは次のように伝えている。
「香港の民主派デモ隊数万人は、中国の国慶節(建国記念日)に当たる1日も主要地区の幹線道路を占拠し続けた。5日目に入ったデモ活動は衰える気配を見せず、2017年の行政長官選挙をめぐり民主派の立候補を事実上排除する中国の決定に依然として反発している。

香港の金紫荊広場(バウヒニア広場)で現地時間午前8時に始まった国旗掲揚式典は平和裏に行われた。式典を妨害すれば当局の弾圧を受けるとの懸念が、デモ隊にあったためとみられる。ただ、式典会場を取り囲んだ多数の学生は国歌演奏の際、中国政府への抗議を込めてブーイングを送った。

学生組織『学民思潮』の広報担当者は『われわれは65回目の国慶節を祝ってはいない。香港における現在の政治混乱や、中国で人権活動家に対する迫害が続く中、きょうはお祝いの日ではなく、むしろ悲しみの日だ』と述べた。」

私は都教委による教員への「日の丸・君が代強制」を違憲として争う訴訟を担当している。五星紅旗に無言で両手でバツ印を作って抗議の意を表す香港の学生たちと、日の丸への敬意表明を拒否して不起立を貫く良心的な教員たちとがダブって見える。日の丸に象徴される軍国主義国家も、民主々義を否定する大国の強権も受け容れ難い。理不尽な国家を受容しがたいときには、国家の象徴である国旗を受け容れ難いとする行為に及ぶことになる。反対に国旗に敬礼を命じることは、国家への無条件服従を強制するに等しい。これは、個人の尊厳の冒涜にほかならない。

香港は、1997年英国から中国に「返還」された。その際に50年間の「1国2制度」(一个国家两?制度)による高度の自治を保障された。99年にポルトガルから返還されたマカオ(澳門)がこれに続いている。

两?制度(2種類の制度)とは、建前としては「社会主義」と「資本主義」の両制度ということであったろう。しかし、1978年以来の改革開放路線突き進む中国を「社会主義」と理解する者は、当時既になかったと思われる。「市場的社会主義」とか「社会主義市場経済」とか意味不明の言葉だけは残ったにせよ、社会主義の理想は崩壊していたというほかはない。

結局のところ、「1国2制度」とは、「社会主義か資本主義か」ではなく、政治的な次元での制度選択の問題であった。一党独裁下にある人口12億の大国が、自由と民主々義を知った700万人の小国を飲み込むまでの猶予期間における暫定措置。それが「1国2制度」の常識的理解であったろう。

しかし、今や事態はこの常識を覆そうとしているのではないか。一国2制度は、大国にとってのやっかいな棘となっている。少なくとも、小国の側の意気込みに大国の側が慌てふためいているのではないか。「この小国、飲み込むにはチト骨っぽい。とはいえ放置していたのでは、この小国の『民主とか自由という害毒』が大国のあちこちに感染しはしまいか」。大国にとっても深刻な事態となっているのだ。

がんばれ香港。がんばれ若者たち。君たちの未来を決めるのは、君たち自身なのだから。
(2014年10月2日)

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