この度は、産経の側に立つ
私は産経新聞が嫌いだ。ときに率直に産経の記者に「ジャーナリズムとして認めない」などと真情を吐露して物議を醸す。その上司から「ウチの記者をいじめるのか」と抗議を受けたりもする。日の丸でコメントを求められて、即座に断ったこともある。その際には、理由を聞かれて「産経を信頼していない。正確に私のコメントを掲載してくれるとは思えない」と答えたが、産経紙上に自分の名が載ることを恥ずべきこととする感情を拭えない。
私は韓国が好きだ。ソウルに行ってみて、その空気を好もしいと思った。もともと、軍事政権から民主化を成し遂げた韓国の民衆の運動には敬意をもっているし、現政権の姿勢も安倍内閣よりはずっとマシだと思っている。
昨日(10月8日)、私の好きな韓国の検察が、私の嫌いな産経の記事をとがめた。「弾圧した」と言ってもよい。その記事の内容が不都合として、産経の前ソウル支局長を起訴したのである。起訴の罪名は、耳になじみのない「情報通信網法違反」だという。これだけでは良く分からないが、「根拠もなく女性大統領に不適切な男女関係があるかのように報じて名誉を傷つけた」ことが処罰に値するというのだ。日本に当てはめれば、天皇か首相の名誉を毀損する記事の掲載を犯罪として訴追したことに相当する。
本日の産経社説が、「前支局長起訴 一言でいえば異様である 言論自由の原点を忘れるな」と表題して、大意次のように述べている。
「言論の自由を憲法で保障している民主主義国家としては極めて異例、異様な措置であり、到底、これを受け入れることはできない。
日本と韓国の間には歴史問題などの難題が山積し、決して良好な関係にあるとは言い難い。それでも、自由と民主主義、法の支配といった普遍的価値観を共有する東アジアの盟友であることに変わりはない。報道、言論の自由は、民主主義の根幹をなすものだ。政権に不都合な報道に対して公権力の行使で対処するのは、まるで独裁国家のやり口のようではないか。
問題とされた記事は8月3日、産経新聞のニュースサイトに掲載されたコラムで、大型旅客船「セウォル号」の沈没事故当日に朴大統領の所在が明確でなかったことの顛末について、地元紙の記事や議事録に残る国会でのやりとりなどを紹介し、これに論評を加えたものである。
韓国『情報通信網法』では、『人を誹謗する目的で、情報通信網を通じ、公然と虚偽の事実を開示し、他人の名誉を毀損した者』に対して7年以下の懲役などの罰を規定している。だが、名誉毀損については同国の刑法でも『公共の利益に関するときは罰せられない』と定めている。大統領は、有権者の選挙による公人中の公人であるはずだ。重大事故があった際の国のトップの行動について、国内の有力紙はどう報じたか。どのようなことが国内で語られていたか。これを紹介して論じることが、どうして公益とは無縁といえるのだろう。
記事中にある風評の真実性も問題視されているが、あくまでこれは『真偽不明のウワサ』と断った上で伝えたものであり、真実と断じて報じたものではない。そうした風評が流れる背景について論じたものである。
前支局長の起訴処分は、撤回すべきだ。」
私が産経を嫌いという理由の主たるものは、紙面に体制や権力への批判や抵抗の姿勢がないことである。権力に迎合し体制とつるんで恥としないその体質への嫌悪感からだ。本件では、産経は日本の権力を批判したのではなく、韓国の権力を批判して、韓国の権力から叩かれた。こうして、私の好きな韓国が、私の嫌いな産経を叩く図式が現出した。
私は好悪の感情に流されず、理性が命じるところに従う。言論の自由に関して、けっしてダブルスタンダードを使い分けるようなことがあってはならない。大切な原則をおろそかにすれば、失うものがあまりに大きなものとなる。
結論論として、こう言わねばならない。
「私はあなたの普段の姿勢には嫌悪を感じている。今回のあなたの記事も立派なものとは思わない。しかし、あなたがこのことを記事にする権利は断固として支持する。いかなる国のいかなる形のものであれ、あなたの言論を封じる権力の弾圧には徹底して反対する。あらゆる国のあらゆるジャーナリズムが、萎縮することなく多様な言論を表現する権利を保障されなければならず、それを通じて各国国民の知る権利が全うされなければならないのだから」
(2014年10月9日)