明日(11月21日)に予定されている解散とこれに続く総選挙には、「大義なき解散」「党利党略のジコチュウ選挙」という批判の声が高い。頷かせる材料が満載だ。呼応する見解のなかには、「大義なき解散」は総理の職権濫用」であり「憲法違反」でもある、という論調すら見られる。
もちろん、これに対して「解散は総理の専権」だとか、「解散については総理の嘘も許される」という御用評論家の提灯論調もある。
違憲と断じることができるかはともかく、選挙が民意の正確な反映を可能とするよう公平な仕組みでなければならないことには異論のないところ。とすれば、プレーヤーの片方だけに、試合開始の時期を一方的に選択できるというルールの不公平は誰の目にも明らかではないか。自チームの弱点が見えているときは開戦を先送りし、相手チームの弱点が見えているときに、相手チームの態勢がととのわないときを狙って、開戦の時期を決められる。これはアンフェア極まるルールではないか。
相撲においては、先に突っかける立ち会いは恥とされる。相手力士がいつ立ってもそれに合わせて、後の先をとるのが横綱相撲であり力士本来の品格とされる。解散権とは、相手不十分の内に突っかける、みっともない立ち会いの権利を一方だけに認めるものではないか。しかも、体格の優る横綱の側だけに認めるというのだ。これはあきらかに美学に反する。憲法が想定する公平な選挙のあり方ではない。
しかし、このみっともない解散の権利は先例として定着している。こんな有利な武器を使わない手はないのだから、当然といえば当然。現行憲法下での解散・総選挙はこれまで23回に及ぶ。今回の「大義なきアベノジコチュウ解散」は24回目となる。その24回のうちに内閣不信任決議に対抗しての解散が4回ある。解散せず任期満了による総選挙はわずかに1回のみ(毎日新聞の年表による)。
衆議院の解散に触れている憲法の条項は、次の2か条。
第69条「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」
第7条「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。第3号 衆議院を解散すること。」
憲法には、内閣の専権としていつでも理由なく都合のよいときに解散できるという明文規定はない。しかしまた、これを禁じていると断定もなし難い。国民主権の理念や三権分立・選挙制度の趣旨から考察するしかない。
現行憲法下の最初の解散は、第2次吉田内閣の「なれあい解散」(1948年12月)であった。当時既に「解散は69条が定める場合(不信任決議または信任否決決議があったとき)に限る」とする野党側と、「7条によって、いつでも可能」とする政府側の解散権論争が激しかった。GHQは、「いつでも解散可能というのは旧憲法的な考え方」と、理論的には野党の肩をもったとされるが、結局はなれあい解散(野党が不信任案を提出し、その可決を経ての解散)となり、解散詔書の文言は「第7条及び第69条により衆議院を解散する」となった。
問題は第3次吉田内閣の「抜き打ち解散」(1952年8月)時に起きた。69条ではなく、7条のみによる初めての解散。このときに、解散の根拠と有効性をめぐって、苫米地事件という訴訟が起こされる。
苫米地義三という保守系の政治家がいた。青森県を地盤として新憲法下の第1回総選挙から立候補し、順調に当選を重ねた。1950年4月には、国民民主党を結成して、その最高委員長を務めている。1951年のサンフランシスコ講和会議では野党代表の一人として全権委員に名を連ねているそうだ。最後は、保守合同によって成立した自民党に籍を置いている。
その苫米地が、衆議院の「抜き打ち解散」に怒った(のだろう)。そして、憲法史に名高い「苫米地訴訟」を起こした。内閣の解散権など憲法のどこにも書いていない。この解散は憲法違反で無効であるという主張をもっての提訴である。
苫米地訴訟は二つある。まず彼は、直接最高裁に提訴する。解散の違憲・無効を確認せよとの訴えである。しかし、53年4月最高裁はこの訴えを斥けた。裁判所の違憲審査権は、具体的な法律上の争訟の解決に必要な範囲においてのみ行使しうるものとの判断で、憲法裁判所としての役割を否定したのだ。
そこで、苫米地は改めて、国を被告として任期満了までの議員歳費支払いを求める訴訟を東京地裁に提起し、その請求原因として「7条解散」の違憲無効を主張した。
苫米地は一審判決で勝訴して世間の注目を集める。判決が解散無効と判断したのだから、激震クラスのインパクトであったろう。もっとも、勝訴の理由は「7条解散の違憲無効」が認められたのではなく、7条解散の手続き要件である「内閣の助言と承認」が適法な閣議決定として行われていない、ということであった。
苫米地勝訴の一審判決は、東京高裁の控訴審において逆転され、舞台は最高裁に移る。ここで、著名な1960年6月8日大法廷判決の「統治行為論」の展開となる。
最高裁田中耕太郎コートは、「衆議院の解散は、極めて政治性の高い国家統治の基本に関する行為であって、かくのごとき行為についてその法律上の有効無効を判断することは司法裁判所の権限の外にありと解すべきことは明らか」と判示した。判断を避けた、というよりは逃げたのだ。結局、このテーマについては、権力に司法のチェックがおよばないこととなり、いまだにその事態が継続している。たとえば、1986年の衆参同時選挙における衆院の解散について、「解散権行使の限界を超えて違憲」と選挙無効を主張した訴訟において、名古屋高裁は統治行為論を採用して請求を棄却している(87年3月判決)。
結局、日本では統治行為ゆえに訴訟という手段では「大義なき解散」を違憲無効と断じることができない。そのため合憲の判断もないまま実務慣行がまかり通っている。憲法の理念や制度の趣旨からする解散権の有無や行使の条件についての議論も深まらない。
一方、日本の議院内閣制のモデルとされてきた「イギリス的議院内閣制」は近年大きく変貌を遂げているという。本日(11月20日)の毎日にも、「発信箱:解散権の封印」として次のように紹介されている。
「イギリスでは2011年に下院総選挙を原則として5年ごとに行うという法律が成立し、首相の解散権が事実上、封印されたのだという。与党に有利な時期を選んで解散するのは不公平だという考えが背景にあったそうだ。」
2011年9月に英国議会で成立したその法律は、「議会任期固定法」という興味深い名称。内閣不信任案決議等がない限り、下院総選挙は5年ごとの5月第一木曜日に行われるという。これまでも、クリスマス休暇や夏季休暇に解散が行われることはなかったという(駒澤大学・大山礼子教授による)。飽くまで、国民を主体に、国民の都合を最優先した総選挙が構想されており、政権の思惑優先の解散・選挙は想定されていない。
この機会に、もう一度国民的議論が必要ではないか。一方的に政府・与党の都合次第の解散・総選挙を認めてもよいのだろうか。憲法に明文はない以上は、国民主権原理やあるべき選挙制度の趣旨からよく考えてみよう。本当に実務慣行となっている今のままの解散の制度で良いのだろうか。もっとフェアな制度に改めるべきではないか。
裁判所は判断を逃げているが、国民は議論を逃げてはならない。実例として眼前に、大義なき安倍解散が、アンフェアでジコチュウで、党利党略の実態をさらけ出しているのだから。
(2014年11月20日)
いよいよ解散、またまた暮れの総選挙である。12月14日赤穂浪士討ち入りの日の政治戦が本決まり。さてこの日、首尾よく総理のクビを討ち取れるか。
ところで、なにゆえの選挙か、何を問うべき選挙か。安倍首相の説明は腑に落ちない。当人も、国民が納得するとは思っていない。
首相は、「国民生活、国民経済にとって重い重い決断をする以上、速やかに国民に信を問うべきだと決心した」と言った。「国民に信を問うべき重い重い決断」とは、何なのだ。消費増税を延期することなのか。それとも延期はしても2017年4月には消費増税を行うことなのか。
消費増税自体は既定路線となっている。消費税法など、いわゆる消費増税関連8法の成立によって、法的には10%の増税は決まっていること。いまさら、「国民に信を問う」とは大袈裟な。唐突に「代表なくして課税なし」というスローガンが出てきたことに驚いた。「課税負担には代表権が伴わなくてはならない」との意味でもあるのだから、在日の諸氏へ選挙権付与の布石かと一瞬耳を疑った。が、そうではなく国民に信を問うことで、痛みの負担を我慢してもらおうという思惑での発言でしかなかったようだ。
では、増税延期の方が解散して国民の信を問うべき大きなテーマかといえば、そんなことはない。この経済環境において増税先送りは大多数の国民が歓迎するところで、反対派の抵抗を想定しがたい。法的にも「景気弾力条項」の発動で済むこと。増税先送りは、首相がまなじりを決して「国民の信を得て敢えて断行する」などと口にするほどのテーマではない。
ほんとのところは、「高支持率の唯一の頼みであったアベノミクスのメッキが剥がれてきた。これから好転することも考えにくい。だから、どうせジリ貧になるのなら、傷が小さい内に解散して、議席の目減りを最低限に抑えておきたい」というものだろう。
だから、大義なき解散と評判が悪い。解散に打って出ることで風を起こしたいという思惑は外れたようだ。既に、自民党へは逆風が吹き始めている。しかし、解散の思惑がどうであれ、民意を示すビッグチャンスではある。壮大な政治戦のゴングが鳴ろうとしている。まさしく、国民全てに安倍政権への信任か不信任かの選択が迫られる。シングルイシューもありうる地方選挙とは違うのだ。
消費増税の延期ではなく、増税自体の是非が問われなくてはならない。逆進性の消費増税は格差・貧困を拡大するものではないか。大企業と金持ちは空前の儲けに潤い、一方実質賃金は15か月連続の目減りである。非正規労働者の急増で雇用は不安定となり、残業代は次第になくされつつある。中小企業と地方は冷え込み、TPPの強行で農漁業は切り捨てられようとしている。福祉は削られ、医療も介護も不安だらけだ。
さらに、自民党改憲草案、96条改憲構想、特定秘密保護法の強行、集団的自衛権行使容認の閣議決定、原発再稼働、原発輸出、NHK「国営化」、歴史修正主義、靖国参拝、日米ガイドライン、沖縄基地固定化、オスプレイ導入、教育再生、地教行法改正、道徳の教科化‥‥。挙げればキリがない。たいへんな内閣なのだ。
国民の選択は、自・公の与党、共社の革新、その中間政党のどれかとなる。安倍政権対革新政党の対峙の骨格がまずあって、その間に民主党・生活の党などの中間政党が点在する構図がある。
ところが、これまでのマスコミの論調は、二大政党としての自民・民主に吸収されない「第3極」をもてはやしてきた。前回総選挙時には、みんなの党と維新とが、持ち上げられた。両党とも、その後の離合集散を経て勢力の衰えを露わにしている。そして本日、みんなの党は、両院議員総会を衆院議員会館で開き、解党することを賛成多数で議決した。
「採決は、地方議員も含めた出席者の怒号が飛び交う中、議事進行役を除く国会議員19人で行われ、反対したのは渡辺氏ら6人にとどまった。決定を受け、みんなは28日に正式に解党。衆院選公示日の12月2日に解散を総務相に届け出る」
「これにより、自民、民主二大政党に対抗する第三極の一角が消滅。所属議員は、民主党や維新の党への合流や新党結成を模索する見通しで、野党陣営の候補者調整が進みそうだ」(時事)と報道されている。
総会で解党を求める決議を提案したのは松沢成文参院議員。「党内は与党路線、野党路線、第三極に割れている。これでは選挙を戦えない。それぞれの道を行くべきだ」と発言したという。これは、たいへん示唆的だ。第3極とは、所詮こんなものなのだ。
我々は、みんなの党崩壊のきっかけとなったDHC吉田との間の8億円授受事件に関して、渡辺喜美を政治資金規正法違反として告発している。我々とは、研究者グループの告発人16名、そして代理人弁護士24名のことである。告発状は26頁におよぶもの。東京地検に告発状を提出して以来5か月が経った。そろそろ何らかの捜査があってしかるべき時期ではないか。
具体的事実の詳細に分からぬところがあることから、構成要件と罰条を必ずしも一義的に特定しがたいものの、8億円の授受についての渡辺喜美の行為が政治資金規正法に違反していることについては、自信をもっての告発である。そして、この告発をきっかけとする徹底した捜査の進展によって、渡辺に関しての被告発事実だけでなく、その周辺事実や関連人物までの捜査を通じて事案の全体像をあきらかにされるよう期待してやまない。問題の焦点は、8億円ものカネの授受が、政治をどう歪めたかにあるのだから。
衆議院解散と、みんなの党の解党決議。今回の重要な政治戦は保・革の対決、端的には自・共の対決を軸とするものとなるだろう。本日のみんなの党の解党は「第3極」の衰退を象徴するものとして、保革対立の図式を際立たせるものとなっている。
(2014年11月19日)
北海道新聞が11月17日の朝刊1面に「『吉田証言』報道をおわびします」と題して社告を掲載し、2ページにわたって検証記事を特集した。
毎日の同日夕刊が要領よく報道している。
「従軍慰安婦報道を巡り北海道新聞社(村田正敏社長)は17日朝刊で、朝鮮人女性を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言を報じた記事について『信憑性が薄いと判断した』として取り消した。同紙は1面で『検証が遅れ、記事をそのままにしてきたことを読者の皆さまにおわびし、記事を取り消します』としている。
北海道新聞によると、吉田氏の証言に関する記事を1991年11月22日朝刊以降、93年9月まで8回掲載(1本は共同通信の配信記事)した。このうち今回取り消した1回目は、吉田氏を直接取材し『朝鮮人従軍慰安婦の強制連行「まるで奴隷狩りだった」』との見出しで報じた。この記事は韓国紙の東亜日報に紹介された。他の7本は、吉田氏の国会招致の動きなど事実関係を報じた内容のため『取り消しようがない』としている」
吉田証言紹介記事の取り消しは、本年8月5日の朝日、9月27日の赤旗に続いて、道新が3紙目となる。もちろん、この3紙だけでなく、当時は各紙とも記事にした。先んじて、検証の上取り消し謝罪した3紙の誠実さは評価されなければならない。
これに続く他紙の対応が注目される。とりわけ、産経と読売である。
以下は、本年8月5日付け朝日の検証記事の一節。まずは、産経の報道について。
「韓国・済州島での『慰安婦狩り』を証言していた吉田氏。同氏を取り上げた朝日新聞の過去の報道を批判してきた産経新聞は、大阪本社版の夕刊で1993年に『人権考』と題した連載で、吉田氏を大きく取り上げた。連載のテーマは、『最大の人権侵害である戦争を、「証言者たち」とともに考え、問い直す』というものだ。
同年9月1日の紙面で、『加害 終わらぬ謝罪行脚』の見出しで、吉田氏が元慰安婦の金学順さんに謝罪している写真を掲載。『韓国・済州島で約千人以上の女性を従軍慰安婦に連行したことを明らかにした「証言者」』だと紹介。『(証言の)信ぴょう性に疑問をとなえる声があがり始めた』としつつも、『被害証言がなくとも、それで強制連行がなかったともいえない。吉田さんが、証言者として重要なかぎを握っていることは確かだ』と報じた。
この連載は、関西を拠点とした優れた報道に与えられる『第1回坂田記念ジャーナリズム賞』を受賞。94年には解放出版社から書籍化されている。」
当時の産経は、実に真っ当な報道姿勢をもっていたのだ。
次いで、読売はどうだったのか。
「読売新聞も92年8月15日の夕刊で吉田氏を取り上げている。『慰安婦問題がテーマ「戦争犠牲者」考える集会』との見出しの記事。『山口県労務報国会下関支部の動員部長だった吉田清治さん』が、『「病院の洗濯や炊事など雑役婦の仕事で、いい給料になる」と言って、百人の朝鮮人女性を海南島に連行したことなどを話した』などと伝えている」
当時の読売には、「吉田さんは『病院の洗濯や炊事など雑役婦の仕事で、いい給料になる』と言って、百人の朝鮮人女性を海南島に連行したことなどを話した」「『暴力で、国家の権力で、幼児のいる母親も連行した。今世紀最大最悪の人権侵害だった』などと述べた」などの記事もあったという。
私自身には吉田調書の信憑性を判断して虚偽と断定する能力はない。「第1次サハリン裁判」で吉田清治が証言をした証言調書の抜粋が日本YWCAのパンフレットに掲載されているが、その証言を虚偽だと見抜くのは容易なことではない。当時の各紙の記者が信じ込んだのも無理からぬところ。先行して検証の上記事を取り消した3紙の姿勢を評価し、その他の各紙が次に続くことを期待したい。
その場合に望まれるのは「懺悔」ではなく、「自己検証」の充実である。どうして吉田証言を真実と軽信したのか、どうして訂正記事がこんなに遅れたのか、どうしたら同様の過誤の再発を防止できるのか。是非ともその作業を通じて、国民のジャーナリズムへの信頼を深める努力をしていただきたい。
(2014年11月18日)
はからずも、沖縄知事選が総選挙の前哨戦となった。沖縄には、安倍暴走政治の矛盾が凝縮している。その沖縄で、三選を目指す政権テコ入れ候補が現職の強みを発揮できずに惨敗した。これは政権の大きな痛手である。まずは幸先のよい前哨戦の勝利、翁長候補の当選を素直に喜びたい。
これに続いて、今日(11月16日)の7?9月期GDP速報値。年率換算値で、実質GDP1.6%減、名目では3.0%の減である。アベノミクスの失敗があきらかになった。アベノミクスのトリクルダウンとは、「いつかは実現する下層へのおこぼれ効果」のこと。実は、いつまで経ってもおこぼれのないことが明確になってきたではないか。
さあ、いよいよ安倍政権の「終わりの始まり」の本格化だ。この事態に何のための解散かはよく分からないが、安倍政権にとっての「じり貧回避解散」「いまのうちならまだしも解散」「居直り・目眩まし解散」なのだろう。
さて、今回の沖縄知事選。当選者は真正保守の人で、革新候補ではない。「革新知事」だった大田昌秀は、11月13日の時事通信インタビューで、状況を次のように説明している。
「翁長氏は‥保守本流を名乗り、自民党県連幹事長をして基地受け入れの中心人物だった。選挙前に、自分は過去はこういう理由で基地を容認したが、今はこういう理由で反対に回っているということを説明すべきだ。しかし、そういうことを全然しない。だから信用できないところが出てくる」「(革新政党は)結局、勝ち馬に乗るという発想だ。力をなくして、資金も工面できない状況。勝ち馬に乗った方が有利になるし、楽になる。いろんな理由があるだろうが、一面的に勝ち馬に乗るということだけでやっていくと、沖縄を救えない。選挙前に、なぜ現職が基地を受け入れたか、それに対してなぜ反対するのかをきちんと訴えていく。これが革新(のあるべき姿)だと思う。情けない。」
おそらく、事態は太田が指摘するとおりなのだろう。しかし私は、今回の選挙について、革新の姿勢を情けないとは思わない。勝てる選挙は勝ちに行かねばならない。候補者調整もあり。政策調整もあり。勝つためならば、譲るべきは譲らねばならない。「他の重要政策が相違しているのに、ワンイシューだけの候補者一本化はあり得ない」などと頑固なことを言っていたのでは、万年負け組で終わることにしかならない。沖縄の革新が、「普天間の辺野古移設反対」のワンイシューでの選挙共闘に踏み切ったことは正しい選択だったと思う。
率直に言って、翁長候補の政治姿勢には大きな違和感を感じる。たとえば、憲法のとらえ方。沖縄タイムス(電子版)11月8日付で「沖縄知事選公約くらべ読み:『憲法』」という記事がある。ここで、憲法9条に対する各候補者の見解が紹介されている。要約抜粋では不正確となりかねないので、全文を転載して、コメントしておきたい。◆が沖タイ記事の転記、◇が私のコメントである。
◆改憲論は多角的に 翁長雄志氏
憲法はわが国の基本的な秩序を示す最高理念として、最も基本的な国家統治の法規範である。現憲法が施行されてから、わが国は一人の戦死者も出さず、そして殺傷することなく、今日におよんでいるという事実に対し、現憲法の果たした役割は、非常に大きなものがあると考えている。
一方で、核拡散の問題や国際テロの恐怖などを背景に、憲法9条を含む憲法改正論議が高まっている。改正の可否については、これまでの時代背景と現在に変化が生じているのかという視点とさらに諸外国、特にアジアの視点が欠落しているのではないかと思われる。また、個人や政党などにおいても、さまざまな考え方や意見があり、十分に時間をかけて論議するべきであり、主権者である国民のさまざまな議論を通して関心を持ち、より一層の理解を深めることが重要だと考えている。
◇何を言っているのか意味不明。保守を基盤に革新も寄り合っての所帯で、意思統一ができてないから、こんな拙劣な文章になるのだろう。
「憲法はわが国の基本的な秩序を示す最高理念として、最も基本的な国家統治の法規範である」は、まったく無意味・無内容な一文。「現憲法が施行されてから、わが国は一人の戦死者も出さず、そして殺傷することなく、今日におよんでいるという事実に対し、現憲法の果たした役割は、非常に大きなものがあると考えている」は現行憲法の肯定的評価として意味をもつ文章。「だから、憲法改正には反対」、少なくとも「改正には慎重でなくてはならない」と続けば論理が整合するが、そうはならない。「一方で、核拡散の問題や国際テロの恐怖などを背景に、憲法9条を含む憲法改正論議が高まっている」は、批判をともなわない改憲論の紹介となつている。そして、「改正の可否については、これまでの時代背景と現在に変化が生じているのかという視点とさらに諸外国、特にアジアの視点が欠落しているのではないかと思われる」は、意味不明の文章というより、文章の体をなしていない。結論のように読める「より一層の理解を深めることが重要」は、無内容きわまる。
善意に理解して、「積極的改憲論ではありませんよとの精一杯のアピール」なのだろう。要するに、憲法原則について、翁長候補と革新陣営との共通項を見出すのは困難ではないか。このような「真正保守候補」を革新陣営が推したのだ。
これに比べて、喜納候補の憲法論は歯切れがよい。
◆集団的自衛権不可 喜納昌吉氏
現行憲法には国会議員の免責特権をはじめ、重大な欠陥があり、前文と9条の崇高な精神を継承・発展させて改憲すべきである。
1条から8条はなくし、国民主権を第1章とすべきだ。
第1条は国民の抵抗権。
「すべての国民は外国の侵略あるいは国家の圧政により、生命および基本的人権がおびやかされる場合、可能なあらゆる手段・方法をもってこれに抵抗し、これを排除する権利を有する」旨を明記すべきだ。
9条には第3項を加え「集団的自衛権についてはこれを認めない」と明記するべきである。
現政権による「集団的自衛権の行使容認」は国家による武力の行使、すなわち戦争の容認であり、明らかな憲法違反だ。
これを閣議決定による「解釈変更」で強行したのは、まさに「ナチスの手口」によるクーデター。
◇個人的にはシンパシーを感じる主張。基本姿勢において「護憲派」ではなく、人権・民主主義・平和主義を徹底する立場からの「改憲派」なのだ。天皇制をなくすことを公言するその意気やよし。しかし、問題は、この主張では勝てる見込みがないことだ。この人と組むことは、私個人なら喜んでするが、政党や政治勢力としては難しかろう。この人を組織の中に抱えていた、かつての民主党とは、懐の広い政党であったと感嘆の思いである。
さらに、今回知事選の最大の争点(もちろん、唯一の争点ではない)とされた辺野古米軍基地建設の是非について、同じシリーズの11月3日付「辺野古に対する考え方」を見てみよう。まず、喜納の見解、そして翁長の意見。
◆承認取り消し可能 喜納氏
普天間飛行場の無条件閉鎖は、アメリカとの交渉により不可能ではない。
アメリカ高官から「辺野古は無理。普天間は引き取る」旨の発言を野田佳彦首相(当時)と共に聞いた。辺野古基地建設を合法的、平和的に阻止するには、埋め立て承認を新知事が行政法に基づき職権で取り消すしかない。
私は、知事就任後、すみやかにそれを行う。埋め立て承認は公有水面埋立法の環境保全への配慮に違反しており、知事の判断で取り消し、文書で通告するだけで止められる。
反対・阻止を叫んでも、実力阻止するなら別だが、取り消しあるいは撤回を選挙前にはっきり約束できない人は信用できない。
◇「辺野古基地建設を合法的、平和的に阻止するには、埋め立て承認を新知事が行政法に基づき職権で取り消すしかない。私は、知事就任後、すみやかにそれを行う」というのが、最大の争点での確固たる公約である。きっぱりとしたわかりやすい立場。問題は、「職権取り消しは法的に可能なのか」という点にあるが、国との争いを覚悟して、取り消しまたは撤回を行うという心意気やよしではないか。
本来、選挙戦ではこの点をめぐっての論戦の展開が必要だったのではないか。
◆国外か県外で解決 翁長氏
世論調査が示す現状を見ると、普天間飛行場の名護市辺野古移設に対する県民の反対は、ことし4月下旬の74%から8月末には8割超に増加しており、地元の理解の得られない移設案を実現することは、事実上不可能である。
日本国土の0・6%の面積の沖縄に、日本の米軍専用施設の74%が存在することは異常事態である。日本の安全保障は、日本全体で負担すべきものでこれ以上の押し付けは、沖縄にとって限界であることを強く認識してもらいたい。
沖縄の基地問題の解決は、県内移設でなく国外・県外移設により解決が図られるべきである。従って普天間飛行場の移設については、昨年1月に全市町村長、全市町村議長、全県議らの「オール沖縄」で政府に要請した普天間飛行場の県外・国外移設、県内移設反対の「建白書」の精神で取り組んでいく。
◇「辺野古移設に対する県民の反対は、8割超に増加しており、地元の理解の得られない移設案を実現することは、事実上不可能である」と、県民世論を語ることに終始して自分の意見の言及がない。
何よりも、喜納候補の「埋め立て承認を職権で取り消す」という具体的提案への賛否も対案も示されていない。「あらゆる手段を行使して辺野古移設を阻止する」「埋め立て承認に瑕疵がないはずはない」は具体性を欠き迫力のないことこのうえない。具体的に、「このような瑕疵がある」「だから取り消し可能」と指摘をしての選挙戦であって欲しかった。
なお、普通、瑕疵がある場合は行政行為の取り消しが可能だが、瑕疵のない行政行為を撤回することは、当該行為による受益者が存在する場合にはできないと考えられている。もっとも、県民の圧倒的多数が移設反対、したがって公有水面埋め立ての承認にも反対の意思を表明した政治的効果はこの上なく大きい。
以上に見た、憲法理念擁護という革新の大義からみても、具体的な辺野古移設反対の手段を公約している点からも、喜納候補に肩入れしたいところ。しかし、現実には喜納候補では勝てそうもなく、結果も予想のとおりだった。選挙に勝てなければ、県政を変えられない。辺野古基地新設を阻止する力を手に入れられない。とすれば、憲法問題には目をつぶっても、一歩前進を勝ち取るにしくはない。これが、保革相乗り選挙なのだ。
理念と現実の角逐は常のこと。理念を貫こうとすれば陣営はやせ細る。当選という目標には票を取るためにはには原則を2014年沖縄知事選は「辺野古移設反対のワンイシューで候補者を一本化」しての勝利の成功例であり、同じ年の東京都知事選は「反原発のワンイシューでは一本化できない」として惨敗した失敗例であった。
とは言え、新知事は真正保守の人。一抹の不安がないわけではない。辺野古移転反対の公約実現について県政がぶれることのないよう、しっかりと知事を支え、かつ見守ること。それが沖縄の革新陣営との責務となるだろう。
(2014年11月17日)
昨日(11月15日)、日本民主法律家協会の秋の行事として定着している司法制度研究集会(「司研集会」)が開催された。今年で45回目となる。
今回のテーマは、「憲法の危機と司法の役割」。まさしく今にふさわしい。いささかなりとも憲法や司法に関心のある者にとって、ほかならぬこの今の憲法状況の危うさを正確に認識すること、司法がどのようにしてこの危機を制御可能であるのか、この実践的課題に興味をもたないはずはない。
長丁場の集会の中で繰り返された問いかけは、「反知性の政治に、法の知性をどのように対峙させるか」「どうすれば、政治の暴走を司法が制御できるか」ということ。「法は権力を制御する」という命題よりはやや広く、「憲法を危うくしている政治の暴走に歯止めをかける手段として、法の実現機関である司法が有効に活用されなければならない」という実践的な問題意識なのだ。
憲法は、改正手続きを経ることなく次第に全体として壊されつつあるというのが、共通した危機意識。9条だけが標的とされているのではない。民主主義システムの総体、主権者を育てる教育、精神的自由をはじめとする人権一般が、「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」という乱暴なスローガンのもと、全面的な危機にある。
このようなときにこそ、司法本来の役割に期待せざるを得ない。どうすれば、反憲法的な暴走政治をコントロールできるだろうか。理論と法実践との結合を目指す、日本民主法律家協会ならではの課題設定ではないか。
集会案内には、次のように集会の趣旨が語られている。
「特定秘密保護法の制定、集団的自衛権行使容認の閣議決定、盗聴法の大幅拡大を盛り込んだ法制審の答申など、今、まさに歴史の曲がり角なのではないかと思えるような、緊迫した時代状況になっています。悪法反対運動の重要性は言うまでもありませんが、同時に、戦争への動きや深刻な人権侵害に歯止めをかける重大な役割を担うのが三権分立の一翼を担う司法です。
1960年代から70年代にかけて、自衛隊の違憲性、公務員の労働基本権制限や政治活動禁止の違憲性を断ずる裁判が相次いだことを契機として、青法協攻撃、裁判官の再任拒否など『司法反動』の嵐が吹き荒れ、その後、司法は、国家の根本問題に関する立法や行政の行為について司法判断を回避し、あるいは合憲のお墨付きを与える傾向が顕著になりました。司法改革によってこの傾向は変わったでしょうか?
『壊憲』の動きに反対する国民の運動は広がり、司法に対する国民の期待は高まっています。今年は、元裁判官の著書『絶望の裁判所』が話題になる一方で、袴田再審開始、大飯原発差止、厚木基地自衛隊機飛行差止、原発事故と自殺の因果関係を認めた判決など、勇気ある下級審の判断も生まれ、国民を励ましています。
危機の時代に、司法はその役割を果たせるのか、果たさせるために私たちは何をすべきなのか。そのことを今、改めて考える集会を企画しました」
このような法実践に関わるテーマについて全面的にものを語ることができる理論家は世に稀である。最適任者として第一に指を折るべきは、ひいき目ではなく、森英樹協会理事長を措いてない。今日は、森講演に耳を傾けようと人が集まった。
学会の研究会ではなく日民協の集会である。実務家の報告も欠かせない。集会では、自衛隊イラク派兵差止訴訟弁護団全国連絡会の佐藤博文弁護士(札幌弁護士会)と、裁判官懇話会の活動に長年取り組んでこられた石塚章夫元裁判官(現在、埼玉弁護士会会員)のお二人も、それぞれの立場から「司法が何をなしうるか」「いかにすれば司法本来の役割を果たさせることができるか」を存分に語られた。
森講演の内容は、期待通りのさすがなものだった。その全文が「法と民主主義」12月号に掲載される。楽しみにしたい。森講演の満足度は当然として、意外にというと失礼に当たるが、石塚章夫元裁判官の講演がひどく面白かった。
長い講演を私の関心で要約すれば、テーマは裁判官の「感性」である。
最高裁事務当局が裁判官をイデオロギー的に統制した「司法の危機」の時代は過去のものではないか。代わって、今は意識的な裁判官統制が不必要な時代となってしまっているのではないか。いまや、事件数をこなすことだけに明け暮れ、事件や当事者を記号としか認識しようとしない裁判官で満たされた「絶望の裁判所」と嘆かざるを得ない時代となっている一面を否定できない。
しかし、現実の下級審判決の中には、紋切り型の法律家の文章としては異質の、血の通った文章と判断を垣間見ることができる。多くは、深刻な被害を訴える事件で、被害実態を丁寧に事実認定しているものが多い。これは、裁判官の中に残された感性が、当事者の感性と共鳴してできた判決と言えるだろう。
おそらく、このような共鳴を可能とする感性は、集団としての裁判官群の中に一定の割合で存在する。また、裁判官個々人の中にも一定の割合で残存しているのではないか。訴える主体の側の感性をもって、裁判官の感性の共鳴を引き出すような訴訟のあり方を工夫することが大切だろうと思う。それは決して不可能ではない。
これが、裁判官生活38年、地裁所長も高裁総括も務めた人の貴重なアドバイスなのだ。同感するところが多々ある。別の機会に、どうすれば裁判官の感性との共鳴ができるか、具体的な続きの話を聞かせていただきたい。そう、お願いしてきた。
(2014年11月16日)
沖縄知事選が始まって以来、沖縄タイムスと琉球新報のサイトに目が離せない。北星学園大学脅迫告発運動に関わって以来は、これに北海道新聞が加わった。3紙とも、よくその使命を果たしていると思う。日本の北と南に、優れた地方紙が育っていることには必然性があるのだろうか。興味深い現象。
その「道新」のサイトが、本日(11月15日)の未明に「元記者雇い止め、学長『慎重に判断』 北星学園大で公聴会」という記事を発信している。短い記事だから、全文を引用する。
「札幌市厚別区の北星学園大が、朝日新聞記者時代に従軍慰安婦問題の報道に携わった非常勤講師との契約を来年度更新しない方向で検討していることについて、同大は14日夜、全教職員を対象とした公聴会を開催した。田村信一学長は終了後、『いろいろな意見が出た。理事会や理事長の意見も聴き、慎重に判断したい』と述べた。
非公開の公聴会は予定を1時間超過し2時間半続いた。関係者によると、大学側の方針について出席者から『建学の精神のキリスト教に基づく「博愛の精神」と相いれないのでは』という疑問や『雇用打ち切りが学生を守ることにつながるのか』といった意見が出たという」
11月1日付の道新記事のタイトルが、「北星学園大、元記者の契約更新せず 学長、脅迫問題で方針」だったのだから、この2週間で学長の発言にかなりの変化が生じたことが窺える。
道新だけではない。NHKも本日早朝の「北海道News Web」で、次のように報じている。
「朝日新聞の元記者を非常勤講師として雇用している札幌市の大学が、講師を辞めさせるよう脅迫された事件をめぐり、学長が示した来年度は元記者を雇用しない考えについて14日夜、教職員の意見を聴く公聴会が開かれました。
この事件は、いわゆる従軍慰安婦の問題の取材に関わった朝日新聞の元記者を非常勤講師として雇用している札幌市の北星学園大学に、『辞めさせなければ学生に危害を加える』とする脅迫文が届くなどしたものです。
田村信一学長が来年度は元記者を雇用しない考えを明らかにしたことを受け、14日夜、大学側が200人以上いる教職員を対象に直接意見を聴く公聴会を開きました。
出席者によりますと、公聴会にはおよそ100人が参加し、『脅迫に屈して雇用を打ち切るのは大学の自治の放棄になる』など雇用を継続すべきという意見が相次いだということです。
公聴会のあと田村学長はNHKの取材に対し『いろいろな意見を聞き総合的に判断したい』と述べたうえで、来月初めまでに最終判断する考えを示しました」
公聴会出席者の真摯な発言には敬意を表したい。
私たちは、学長を励ましたいと思う。そのためには、大学が、右翼からの圧力や外部からの学内治安への攻撃を心配することなく、その自治をまっとうできるよう環境を整備しなければならない。380人の弁護士が告発に名を連ねて捜査機関を督励し、大学への激励の意思を表明した。そのうち道内の弁護士は171人に及ぶ。脅迫内容実行の予防には役に立っているのではないか。
「負けるな会」に名を連ねた著名な学者や文化人が、大学に対して来年度からのボランティア講師活動提供を申し出てもいる。私は著名人ではないが、元日弁連消費者委員長として現代の消費者問題のエッセンスや具体的な法的問題を語りたいと思う。
さらに同大学の大学院生らが、「北星・学問の自由と大学の自治のために行動する大学院生有志の会」を結成した、との道新報道もある。同会は、大学に要望書を提出し、「脅迫で誰かの雇用が奪われるという前例ができれば、私たち自身の研究も常に危険にさらされる状況となる」と指摘して再考を求めているという。
卑劣で不当な攻撃に対して私たちの社会がどれほどの耐性をもっているのか、北星学園脅迫事件は、そのテストケースとなっている。心ある多くの人が、動き始めていることに意を強くもちたい。そしてさらに声を揃えて、「負けるな北星!」と叫びたいと思う。
(2014年11月15日)
昨日(11月13日)の「週刊金曜日」ネットニュースが報じている。去る10月25日、「『朝日新聞を糺す国民会議』結成国民大集会」なるものが、東京・永田町で開催されたとのこと。同記事の標題は、「植村氏への“脅迫煽る”元議員も―『朝日』叩きで集会」となっている。
同報道は、この集会での3人の発言を紹介している。
まず、この集会の基本性格を明確にする藤岡信勝発言。
「藤岡信勝・拓殖大学客員教授は今後の争点は『二つある』として、第一に、従軍“慰安婦”問題の『土台になる(日本国への)朝鮮人強制連行のデマそのものを打ち砕かなければいけない』などと持論を展開。第二の争点は『南京事件』であるとして、来年『終戦70年』を前に歴史戦が激しく闘われることになるのは間違いなく、そこでは『必ず南京事件、南京大虐殺(の史実をめぐる応酬)がむし返されます』と述べ、『週刊文春』や本誌で近日、藤岡氏と本多勝一本誌編集委員による誌上公開討論が予定されていると告知した」
そして、私が驚いた土屋敬之発言。
「土屋たかゆき・前東京都議会議員は、元『朝日新聞』記者の植村隆氏が非常勤講師を務める北星学園大学(札幌市)に今年9月、何者かが植村氏を辞めさせなければ大学に危害を加えるなどと脅迫した事件に触れ、『(同大学に)抗議が殺到して、彼(植村氏)はなんと言ったかというと「大変な脅迫を受けている」(と訴えたが)、冗談じゃないですよ!』『だって国賊でしょ? 売国……でしょ?』などと脅迫行為を支持するともとられかねない発言を繰り広げた」
そして、もうひとり。
「ジャーナリストの大高未貴氏は『左巻きの連中』を『歴史捏造主義者』などと揶揄したが、自身の『捏造』記事をめぐり、現在、韓国・ソウル大学の名誉教授から『出版物による名誉毀損罪』で告訴されている件(本誌10月17日号で既報)への言及はなかった」
この集会の決議文をネットで読むことができる。
「朝日新聞は、日本軍の兵士が朝鮮人女性を『強制連行』し、『従軍慰安婦』にしたとの吉田清治『証言』を報道し、その嘘とねつ造が明らかになっても訂正謝罪することなく、30年以上も放置して来ました。その結果、世界中の人々は、日本の兵士が、朝鮮人女性を『強制連行』し、『性奴隷』のごとく扱ったかのような認識とイメージを抱くようになりました。朝日新聞のねつ造報道によって、世界で最も軍律厳しく道義心の高かった皇軍兵士は、野蛮で残酷な誘拐犯や強姦魔のごとき犯罪者扱いをされたまま、日本人の名誉と誇りを傷つけられて来ました(以下略)」
「世界で最も軍律厳しく道義心の高かった皇軍兵士」とは一驚に値する。彼らの心情(願望というべきか)を素直に吐露するものとして甚だ興味深い。
もちろん、「吉田清治『証言』を報道し」たのは朝日だけではない。産経も読売も毎日もなのだ。とりわけ産経は熱心だった。読売も当時は良心的な記事を書いていた。これは周知の事実。朝日だけをバッシングの対象とするのは理不尽極まる。とりわけ、植村隆元記者は、吉田清治証言紹介記事とは無縁なのだ。
さらに、この決議が興味を惹くのは、「日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」「戦後体制脱却」が繰り返されていること。安倍政権や自民党と同じフレーズを使って、親和性がアピールされているのだ。安倍自民党は、かつての「保守」政党ではなく、この集会の参加者と同質の極右政党と化していることをよく表している。
この集会では、「日本と日本人の名誉と誇りを取り戻す」ことが繰りかえし強調された。「『戦後日本』ではなく、本来の『日本』が動き出した」「『世界市民』ではなく、『日本国民』が起ち上がった」などとされている。また、この日の集会で代表者に選出された渡部昇一は、「朝日新聞の社長と関係者は、国連ビル前で切腹してもらいたいくらいだ」とまで発言している。
最も注目すべきは先に見た土屋敬之発言である。週刊金曜日は品良く、「脅迫行為を支持するともとられかねない発言」と手心を加えているが、誰が見ても「犯罪容認発言」であり、「犯罪者にエールを送る発言」でもある。国賊や売国者には脅迫があってしかるべきとする見地から犯罪者を激励する発言ではないか。
かつて石原慎太郎がテロ容認発言をして物議を醸した。
右翼少年による浅沼稲次郎・元社会党委員長の刺殺事件に対して「こんな軽率浅はかな政治家はその内天誅が下るのではないかと密かに思っていたら、果たせるかなああしたことにあいなった」と言い、また、外務省の田中均外務審議官の自宅ガレージに右翼が爆発物を仕掛けた事件に関して、「何やってんですか。田中均というやつ、今度、爆弾を仕掛けられて、当ったり前の話だ」と発言している。
土屋発言も同様だが、法が支配する社会において許容される限度を明らかに超えた発言である。法秩序を逸脱し、人権や人身を攻撃する暴言として許容してはならないのだ。
私は、北星学園大学への匿名脅迫状の発送を威力業務妨害罪に当たるとして、その犯人に厳正な捜査と処罰を求めた告発人弁護士380名のひとりである。共同代表のひとりでもある。この卑劣な犯罪を容認し、公然と激励する発言者を許しがたい。もちろん、このような発言を組織した集会もだ。
朝日バッシングの尖兵になっているのは、匿名脅迫状発送の卑劣な犯罪者にシンパシーをもつ、このような集会の参加者なのだ。必要な批判を遠慮してはならないと思う。
(2014年11月14日)
本日の朝日・朝刊は、福島第1原発事故についての吉田昌郎調書報道に関する「報道と人権委員会」(PRC)見解を受けての「総懺悔録」となっている。PRC見解は当事者の弁明も聴取してのもので丁寧な叙述にはなっている。しかし、どうしても違和感が拭えない。
5月20日記事の「取消」は、はたして妥当だったのだろうか。「訂正」がしかるべきではなかったのか。PRC見解は、記事の功罪の評価においてバランスのとれた的確なものになっているだろうか。全てのメディアや論評が、PRC見解支持で同一方向に纏まってしまうことの不気味さを敢えて問題にしたい。
朝日のPRC見解についてのまとめは以下のとおりである。
A「調書の入手は評価したものの、『報道内容に重大な誤りがあった』『公正で正確な報道姿勢に欠けた』として、同社が記事を取り消したことを『妥当』と判断した」
B「PRCはまた、報道後に批判や疑問が拡大したにもかかわらず、危機感がないまま迅速に対応しなかった結果、朝日新聞社は信頼を失ったと結論づけた」
上記Bは、主として朝日の姿勢や機構の問題だが、Aはジャーナリズムのあり方そのものに関わる。当該の記事を「重大な誤り」と断定する過度の厳格さの要求は、報道の萎縮をもたらすことになりかねない。記事の評価には多様な見解が併存してよいところではないか。PRC見解の立場ばかりが「正しい」か。はたして「妥当」なものだろうか。
まず、闇の中にあった400頁といわれる吉田調書に光を当てて、これを世に出したことの功績は、もっと強調されなければならない。われわれは、この朝日の記事によってはじめて、福島第1原発事故の「本当の恐ろしさ」を知った。「メルト(炉心溶融)の可能性」「チャイナシンドローム」「東日本壊滅ですよ」という言葉が出て来る深刻さだったのだ。事故後の対応の実態もはじめて知って、これにも衝撃を受けた。あらためて、人の手に負えない「原発という危険な怪物」の正体に接した思いであった。国民に原発再稼働是非の判断において不可欠の資料を提供したものが、この朝日の記事ではなかったか。その肯定的評価がPRC見解では不十分ではないか。PRCの結論が、原発事故の恐怖までを「取り消す」印象となることを恐れる。角を矯めて却って牛を殺すの結果となってはいないだろうか。
最大の「誤り」とされている朝日記事の内容は、「所長命令に違反 原発撤退」の見出しを付けた記事について、「?『所長命令に違反』したと評価できる事実はなく、裏付け取材もなされていない。?『撤退』という言葉が通常意味する行動もない。『命令違反』に『撤退』を重ねた見出しは否定的印象を強めている」というもの。
この点、吉田調書では、「操作する人間は残すけれども…関係ない人間は待避させます」とされ、どのように待避が行われたかについて、「私は、福島第1の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに一回待避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2F(福島第2原発)に行ってしまいましたと言うんで、しょうがないなと。」となっている。
つまり、所長は、次の指示があれば直ちに応じることができるように、「福島第一の近辺に待避せよ」と命令したつもりだったのだ。ところが、所員は所長の意図とはまったく別の離れた場所(福島第2原発)にまで行って、必要な指示をしても即応はできない事態となった。これを朝日記事が「命令違反」の「撤退」と言って、誤りとは言えないのではないだろうか。「命令」とは、「業務命令」「職務命令」のそれ。広辞苑を援用しての語釈ではなく、勤務時間における労務指揮の内容を「命令」と言って不自然ではない。所長が、次の業務指示に即応できる場所に待避せよと言った、とはその旨の業務命令があったといってよい。それが、どこかで「伝言ゲーム」のように不正確に伝わって、所長が想定した場所から10キロも離れた場所に所員が移動してしまった。これを「命令違反」の「撤退」と言って重大な誤報などと言えるだろうか。
もっとも、「大混乱の中、所長の避難指示不徹底」「明示の指示ないまま所員第二原発へ避難」「曖昧な指示 所長の想定に反した所員の移動」などとした方が正確かも知れないが、「所長命令に違反 原発撤退」と、さほどの差があるとは思えない。
この点について、PRC見解は次のようにいう。
「吉田氏の指示は的確に所員に伝わっていなかったとみるべきである(裏付け取材もなされていない)。さらに極めて趣旨があいまいであり、所員が第二原発への退避をも含む命令と理解することが自然であった。したがって、実質的には、『命令』と評することができるまでの指示があったと認めることはできず、所員らの9割が第二原発に移動したことをとらえて『命令違反』と言うことはできない」「本件記事の見出しは誤っており、見出しに対応する一部記事の内容にも問題がある」
「福島第1の近辺で待避して次の指示を待て」という指示はあったが、それは趣旨が曖昧で的確に所員に伝わっていなかった。だから、『指示』に反した結果とはなったが、それをとらえて『命令違反』とまでは言えない、というのだ。記事に根拠はあった。根も葉もあった。煙だけではなく、火もあったのだ。それでも、「全文取り消しが妥当な」「重大な誤り」という結論になっている。本当にこれでよいのだろうか。
朝日の記事の正確性の問題とは別に、私は9月12日の当ブログで、「明らかに所長の指示がよくない。この事態において、650名もの所員に、『何のために、どこで、いつまで、どのように、待避せよ』という具体性を欠いた曖昧な指示をしていることが信じがたい」と書いた。自分がその立場で十分なことができる自信はないが、しかるべき立場にあるものには、その立場にふさわしい能力が求められる。
PRCも、「所長の指示を極めて趣旨があいまい」と強調した。曖昧な指示だったから、所員が「第二原発への退避をも含む命令と理解」することが自然であり、したがって、実質的には、『命令』と評することができるまでの指示があったとは認めることはできない、だから朝日の記事は重大な誤り、となる。
9月12日当ブログの感想を再掲しておきたい。PRC見解が出たいまも、このとおりだと思う。
「朝日に対して、もっと正確を期して慎重な報道姿勢を、と叱咤することはよい。しかし、誤報と決め付け、悪乗りのバッシングはみっともない。そのみっともなさが、ジャーナリズムに対する国民の信頼を損ないかねない。
各紙に報道された吉田調書を一読しての印象は三つ。
一つは、原発の過酷事故が生じて以降は、ほとんどなすべきところがないという冷厳な事実。なすすべもないまま、事態は極限まで悪化し、『われわれのイメージは東日本壊滅ですよ』とまで至る。原発というものの制御の困難さ、恐ろしさがよく伝わってくる。『遅いだ、何だかんだ、外の人は言うんですけれど、では、おまえがやって見ろと私は言いたいんですけれども、ほんとうに、その話は私は興奮しますよ』という事態なのだ。3号機の水素爆発に際しては、『死人が出なかったというので胸をなで下ろした。仏様のおかげとしか思えない』という。正直に科学や技術が制御できない事態となっていることが表白されているのだ。
二つ目。官邸・東電・現場の連携の悪さは、目を覆わんばかり。原発事故というこのうえない重大事態に、われわれの文明はこの程度の対応しかできないのか。この程度の準備しかなく、この程度の意思疎通しかできないのか、という嘆き。これで、原発のごとき危険物を扱うことは所詮無理な話しだ。
さらにもう一つ。吉田所長の発言の乱暴さには驚かされる。技術者のイメージとしての冷静沈着とはほど遠い。この人の原発所長としての適格性は理解しがたい。
たとえばこうだ。
『(福島第1に異動になって)やだな、と。プルサーマルをやると言っているわけですよ。はっきり言って面倒くさいなと。…不毛な議論で技術屋が押し潰されているのがこの業界。案の定、面倒くさくて。それに、運転操作ミスがわかり、申し訳ございませんと県だとかに謝りに行って、ばかだ、アホだ、下郎だと言われる。くそ面倒くさいことをやって、ずっとプルサーマルに押し潰されている』
吉田調書は、原発事故の恐怖と、原発事故への対応能力の欠如の教訓としてしっかりと読むべきものなのだと思う。」
改めて恐れることは、吉田清治証言が虚偽とされるや従軍「慰安婦」そのものがなかったかのごとき言説がまかりとおること。同様に、吉田昌郎調書報道に「誤り」があるとして、原発事故を起こした東電が免責され再稼働派が勢いづくことである。
これで決着がついたとするのではなく、心あるジャーナリストには、今回のPRC見解を十分に検証し、果敢にこれに切り込んでいただきたいと思う。
(2014年11月13日)
本日、私が被告になっている「DHCスラップ訴訟」(東京地裁民事第24部)の第4回(実質第3回)口頭弁論が開かれた。
前回(9月17日)の期日では、裁判長は原被告の双方に「主張対照表」の作成を指示した。「現在、東京地裁での名誉毀損訴訟の審理においては通常このような対照表を作成するかたちで行っていますので」とのコメントを付しての指示であった。
名誉毀損訴訟の事案類型は、「事実摘示型」と「論評型」の2類型に大別される。
前者は、特定の人物の「社会的評価を低下させる事実」を摘示(曝露)するタイプの言論を違法と主張するもの。後者は、既知の事実を前提とした批判(評価)の言論を違法と主張するもの。各々の判断枠組みが異なる。
事実摘示型の言論は原則として違法とされ、違法性を阻却される要件が充足されるかという観点で審理が進行する。違法性阻却事由は、(1)当該の言論が公共に係るもので、(2)もっぱら公益をはかる目的でなされ、(3)かつその内容が真実である(あるいは真実であると信じるについて相当の理由がある)場合とされる。(1)公共性、(2)公益性、そして(3)真実性(ないし相当性)と定式化される。この3点を充たして始めて、他人の名誉を毀損する言論が許容されるという枠組みでの判断なのだ。
これに対して、論評型では、問題とされている言論の真実性や真実相当性が問題となる余地はなく、「人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱」していない限りは違法性がないとされる。
本件において対照表を作成することに、さしたる意味はない。原告は、私のブログの文言を寸断して、「これも事実の摘示」「あれも事実の摘示」という。これに対して、被告は「事実の摘示であることを争う」「全ては、原告吉田が週刊誌に告白した事実と社会的に周知されている事実から合理的に推論した論評である」と反論する。
もちろん、本件名誉毀損訴訟は典型的な「論評型」と理解しなければならない。DHC吉田嘉明からみんなの党渡辺喜美に8億円ものカネが渡されていたことを曝露したのは私のブログではない。吉田自らが週刊誌で曝露したことなのだ。私は、吉田の手記を前提に論評したに過ぎない。つまりは、論評の前提となる事実は、吉田自身が提供したものなのだ。仮に吉田手記が真実でないと仮定しても、私が真実と信じるについて相当な理由があることは明白である。私の言論は、既知の事実を前提とする論評なのだ。
本日の裁判所の仕切は、被告に対して「論評が前提とする事実を、『吉田が週刊誌に告白した事実』というだけではなく、もっと特定していただきたい」というものだった。裁判所の求めているところや、裁判所の考え方などを明確化するためのやり取りがかなり長時間続いたが、裁判所の基本的な枠組みについての考え方が、常識的なものと確認できたので指示に従うことを了解した。
とは言うものの、釈然としないものが残る。本件は、8億円ものカネを政党の党首に注ぎこんだ人物を対象に、その行為を民主主義の政治過程を金の力で歪めてはならないとの観点から批判し、社会に警告を発したものである。私のこのような言論が、仮に、いささかでも違法というのであれば、およそ政治的言論は成り立たなくなる。同種のスラップ訴訟が頻発することとなり、これを恐れたジャーナリズム総萎縮の事態が出来することとならざるを得ない。それは、憲法21条が画に描いた餅になることを意味している。民主主義の衰退の由々しき事態でもある。
裁判所には、そうさせないための訴訟指揮を期待したい。
次回の口頭弁論期日は、年末ぎりぎり12月24日午前11時?11時30分。631号法廷である。
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法廷終了後、第一東京弁護士会の講堂を借りて、報告集会を行った。
弁護団長の経過説明のあと、三宅勝久さんの「『名誉毀損裁判』という訴訟テロにどう立ち向かうか」という報告に耳を傾けた。
三宅さんは、武富士の記事を書いて1億1000万円の損害賠償請求訴訟の被告となったジャーリスト。三宅さんは、スラップ訴訟という言葉を使わない。生々しさがないという。「訴訟テロ」という表現がぴったりだという。
印象に残ったのは、不当な恫喝目的訴訟には逆効果を突きつけなければならない、という提言。具体的には下記の5点を挙げた。
1 訴訟テロの被害者は、屈することなく、脅しには効果がないという断固たる姿勢をみせる。
2 訴訟テロを起こすことが、真っ当ではない企業だという評判が広がり、業績が落ちる。株価も落ちる。
3 訴訟(反訴)を通じて、訴訟テロ企業に関するより多くの問題を明らかにする。消費者被害、労働被害を発掘し、社会にあらたな話題を提供する。
4 訴訟テロ企業を支援したり、脅しに屈しているメディアが、相応の社会的批判を受ける結果となる。
5 訴訟テロ支援弁護士が社会的に批判を浴び、同様の仕事をしにくくなる。
訴訟提起が言論の沈黙や萎縮をねらっているのだから、決して沈黙してはならない。萎縮してもならないのだと思う。
なお、8億円事件の金銭交付側批判の言論を対象とする「DHCスラップ訴訟」は、私を被告とする事件を含め計10件ある。そのうち、1件(東京地裁民事第35部係属事件)が訴えの取り下げで終了している。そして、1件(同30部係属事件)が10月16日第4回口頭弁論で終結して1月15日に判決の言い渡しが予定されている。証拠調べなく、結審したことから、事件が論評型として審理を遂げたものと推測して間違いはなさそうであるし、被告側の勝訴も動かしがたいところ。
私の件について直ちに訴権の濫用として訴えの却下が現実的でないとすれば、むしろじっくりと吉田嘉明原告尋問と渡辺喜美証人尋問によって8億円授受の動機や思惑を徹底して明らかにすべきというのが、弁護団結成以来の確認となっている。
主張整理の経過を見つつ、別件の判決内容にも注目しながら、立証計画を具体化すべき時期にさしかかってきている。
それにしても、今回も多くの弁護士と支援の方々に法廷にまで足を運んでいただき、また集会にもご参加いただいた。
厚く感謝を申し上げます。次回もよろしくお願いします。
(2014年11月12日)
日曜(10月9日)の赤旗一面「2014 黙ってはいられない」に、伊藤光晴が登場。よくぞ赤旗に、である。いまや、この人こそ日本の知性。日本の良心。
私は、1962年4月に東京外国語大学に入学している。一年間だけの在籍だったが、そこで新進気鋭の伊藤光晴助教授の流麗な講義を聴いている。もっとも、当時の若者の気風は、「社会を根底から変える思想を持たない経済学は真剣に学ぶに値しない」などというもの。私もそんなポーズを装ってはいたが、本当のところ、社会科学の素養に欠けて、十分な理解ができなかった。今にして、何ともったいないことと残念に思う。もっと真剣に学んでおくべきだった。
いまや経済学の泰斗となった伊東光晴翁からの赤旗記者の聞き書きは、実に分かり易い内容。タイトルは、「いま政権を批判するわけ」。安倍政権に対する仮借ない批判として3点が語られている。まずは憲法、そして経済と雇用についてである。
彼の安倍内閣批判は鋭い。政治について発言しないとする主義を撤回して、都留重人さんなきあと「同じ立場で発言する人がいないから、政治的発言をする」と宣言してのこと。87歳の迫力である。
「特にいま批判しなければならないのが、アペノミクスに隠された『四本目の矢』、安倍晋三首相の『政治変革』です。安倍政権は保守政権ではありません。右翼政権です」と、まず自らの立場を鮮明にする。
その上で、憲法9条の解釈問題に言及する。
「集団的自衛権を認めることは憲法9条に完全に違反します。集団的自衛権は国家間の紛争を武力で解決できるという考えの上に立っています。憲法9条は理想主義ではなく、現実主義だと思います。国家間の紛争は武力以外で解決するしかないというのが2度の世界大戦の教訓です。戦後アメリカが中東その他に何度も武力介入しましたが、国際紛争は一度も解決されませんでした。武力以外で解決するのが現実主義なのです」
そのとおりだ。心してこの言に耳を傾けねばならない。
次いで、専門の経済分野においてではアベノミクスを「経済効果なし」と徹底批判である。
「安倍首相は株価の上昇を得意がっていますが、株価が上がったのは『外国人買い』のためです。欧米市場で株価がリーマン・ショック前を回復し、投資先を探していた外国人投資家が、安倍政権誕生前に日本市場に入ってきて株を買ったのです。政権交代を期待して日本の投資家が買ったのではありません。日銀は年間50兆円もの国債を買い入れてきました。しかし、各銀行は融資先がないので、資金は銀行が日銀に持っている当座預金勘定に積み上がっています。経済的効果を及ぼすはずがありません」「財政では税収がぐんと落ち、支出が増えました。アメリカのような『フラットな税』にすると言って所得税や法人税を減税したからです。税収減と支出の増加を折れ線グラフにすると「ワニの口」のような形です。安倍政権はこの状態で法人税を減税するというから、まさに開いた口がふさがりません」
第一人者の経済政策批判は、心強いことこのうえない。
最後に、雇用政策についての「労働憲法崩す」との批判。
「そして小泉政権以来の労働市場改革です。戦前、中間搾取を許した教訓から、戦後、営利をもった職業あっせんを禁止しました。これを労働憲法と呼びました。それを崩して派遣労働を認めてしまった。とんでもないことです。有能な女性が正社員になれず、派遣社員をしている。そんな状況をつくりながら安倍首相は『女性が活躍する社会』などとよくも言えたものです」
赤旗記事の中では、この3点だけに絞っての批判。しかし、安倍右翼政権の罪は深い。批判すべき点は数え切れないほど。
特定秘密保護法、河野談話批判、朝日バッシング加担、靖国参拝、近隣外交失敗、日米ガイドライン、辺野古新基地建設、オスプレイ配備、原発再稼働、原発輸出、TPP、消費再増税、カジノ解禁、NHKお友だち人事、国営放送化、教育「再生」、右派閣僚人事、格差拡大、弱者切り捨て、地方無視、そして小選挙区に固執しての憲法改正への執念‥‥。
早期に退陣していただかねばならない。平和と民主主義のためにも、庶民の暮らしのためにも。(2014年11月11日)