当ブログ連続700号の日に「赤旗・君が代強制反対の主張」
思い切りよく2月のカレンダーを破り捨てて、冷たい雨の日ではあるが今日から3月である。本日は、「3・1ビキニデー」であり、韓国での「三一節」でもある。核廃絶に思いをいたし、我が国の植民地支配の歴史を痛恨の思いで省みるべき日。
私的なことだが、本日は当「憲法日記」700日連続更新という節目の日となった。多少の感慨を禁じ得ない。当「憲法日記」が日民協の軒先間借りから独立して、一人前のブログの体裁となり、新装開店第1号記事を発信したのが2013年4月1日。以来、途切れることなく毎日更新を続けて、本日(2015年3月1日)のブログで700回を重ねた。この期間が、第2次安倍政権暴走の時期とほぼ重なる。安倍内閣の終焉を見ることなく当ブログを擱筆することはできない。連続第700号を通過点として当ブログは今後も続くことになる。
日民協ホームページを間借りしていた当時には植民地支配を受けていた、などとは言わない。しかし、店子という立場は肩身が狭い。遠慮しながら配慮しながらの、当たり障りのないブログではわざわざ時間をかけて書く意味がない。ある人たちにとっては確実に不愉快な内容であっても、敢えて書くことに意味がある。むしろ、物議を醸すようなブログでなければ存在価値はない。「一国一城望むじゃないが、せめて持ちたや自前のブログ」である。このブログが私の表現の手段であり、私を、憲法(21条)が保障する表現の自由の主体としてくれている。
私のブログが、安倍政権、財界、企業、原発産業、右翼メディア、皇室、靖国、都教委、大阪府市、ネトウヨ…等々の耳に快いはずはない。いや、不愉快でなかろうはずはない。そのような仮借のない批判が必要だ。私は人権・平和・民主主義を大切にする革新の立場に立つ。しかし、同じ違法があった場合に、保守の行為だけを厳しく批判し、革新陣営の違法行為には目をつぶるというダブルスタンダードは取らない。そうでなくては、批判の切れ味を保っておくことができないからだ。
なお、600回のときに、次のように書いた。
「ときに『もの言えばくちびる寒し』と思わぬこともないではない。しかし、常に感じるのは、『もの言わぬは腹ふくるるわざ』の方である」
「当ブログの論評に対する宇都宮陣営(及びその付和雷同者)からの舌足らずな批判や、DHCとこれに類する輩からの過剰な反応も、それなりの彩りである。思いがけなくも、批判よりは、激励や連帯のエールを得ている。ありがたいことだ。そのような反応に接して、いささかの充実感を得ている」
この気持はまったく変わらない。実は「彩り」は、このほかにもいくつかあるが、「彩り」も、にぎわいのうちだ。
さて、700回の積み重ねを省みなければならない。権力や権威を批判する姿勢については変えようもないが、読者への配慮は大いに必要だと思う。以前から言われているとおり、「文章が長過ぎる」「1ブログ1テーマに押さえよ」「冗長で分かりにくい」「写真も絵もなく、親しみにくい」…。これをほんの少しは改めたいと思う。読んでいただだかねば書く意味がない。少しは短めに、もう少しは読みやすく分かり易い、こなれた文章を心掛けよう。あれっ…600回のときも同じことを書いたっけ?
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ところで、本日の「しんぶん赤旗」主張(社説)が、「『君が代』の強制ーいったい誰のための式なのか」を掲載している。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2015-03-01/2015030102_01_1.html
3月の初め、卒業式シーズンの幕開けに際しての「主張」掲載。赤旗らしく、品のよい主張となっている。「いったい誰のための卒業式なのか」という切り口も、本質を衝くものとしてなかなかのもの。
政党とは政権を目指すもの。一歩一歩有権者の支持を固めていかねばならない。そのためには選挙に勝たねばならない。有権者の耳にはいることを言わねばならない。有権者の気分を見据えて、反感を持たれるような主張は避けねばならないこともある。民主主義とはそんなリアリスティックな側面をもっている。
だから、共産党の機関誌である赤旗は、天皇制批判や、ナショナリズム、国旗国歌問題への言及に慎重であるように見受けられる。
もちろん、この問題を赤旗の主張が取り上げたのは初めてではない。調べた限りでは以下のとおり春の主張の定番となっていたが、ここ3年は途絶えていた。
2007年3月6日「日の丸・君が代」/強制は教育の営みを台無しに
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-03-06/2007030602_01_0.html
2008年3月3日「強制おかしい」が国民の合意
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-03-03/2008030302_01_0.html
2009年3月31日「日の丸・君が代」処分/教育は命令では達成できない
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-03-31/2009033102_01_0.html
2010年3月7日「日の丸・君が代」/鳩山政権は強制方針を見直せ
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-03-07/2010030702_01_1.html
2011年2月2日「日の丸・君が代」判決/強制を続けていいはずがない
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2011-02-02/2011020201_05_1.html
4年ぶりの社説での言及はありがたい。「多様な思想良心の自由」と「教育の自由」を根拠に、「異常な強制」を批判して、「強制はただちにやめるべきです」ときっぱりしている。全文を紹介しておきたい。
「卒業式のシーズンがきました。子どもたちが自らの成長を確かめ合い、新しい旅立ちへと決意を新たにするときです。その門出をみんなで祝う式にしたいものです。
■子どもの思いを台無しに
「日の丸・君が代」への起立・斉唱の異常な強制によって、子どもたちの思いが押しつぶされ、教職員が監視され萎縮するような事態が、各地で起きています。
卒業生と在校生、保護者、教職員が向き合い、壇上には卒業生の作品が飾られる。そんな卒業式が、東京都では教育委員会の2003年の通達で認められなくなりました。壇上には「日の丸」を掲げ、全員がそちらを向かなければならないというのです。
異常な強制は他の地方にも広がりました。大阪府では府教委が13年に、校長らが卒業生をそっちのけにして、教職員が「君が代」を歌っているか口元を確認するよう通知しています。北海道では道教委が、「君が代」を「他の歌と同様」の大声で歌うよう子どもたちに指導しろと校長らに命じています。いったい何のため、誰のための式なのでしょうか。
「日の丸・君が代」については多様な意見がありますが、それらが侵略戦争に突き進んだ日本のシンボルであったことは歴史的事実です。起立したくない、歌いたくないという教職員や子どもは当然います。宗教上の理由で「君が代」は歌えないという人、日本の侵略を受けたアジア諸国出身の人もいます。
政府は1999年の国旗・国歌法制定時に「強制はしない」としていました。「日の丸・君が代」の歴史やそれに対するさまざまな思いを考えると重要なことです。だから03年以前は、式の前に「君が代」斉唱について、「内心の自由がある」ので強制ではないことを子どもや保護者に説明する学校がありました。ところが都教委はこれも禁止してしまいました。
「君が代」斉唱のさいに起立せず処分された東京都の教職員が起こした裁判では、12年1月の最高裁判決以来、減給・停職の処分は重すぎるとして、取り消す判断が続いています。これらの判決は、強制を「合憲」とし、戒告処分を容認しているという問題はありますが、起立しなかったのはそれぞれの「歴史観・世界観」によるものだということを認め、自らの信念に従って誠実に行動する教職員を重い処分で追い詰めるやり方に、一定の歯止めをかけています。
ところが都教委は、裁判で減給などの処分を取り消された教職員に対して、改めて戒告処分を出して、執拗に強制を続ける姿勢をとり続けています。その執念深さは尋常ではありません。都教委は一連の裁判の結果を真摯に受け止めるべきです。
■教育に自由な雰囲気を
教育は人間的ふれあいを通じて営まれるべきもので、自由な雰囲気が欠かせません。そのかけがえのない自由を奪うことは許されません。卒業式や入学式は、それぞれの学校で子ども・保護者・教職員が話し合って、子どもたちの新たな出発にふさわしいものにすることが本来のあり方です。
憲法や子どもの権利条約が保障する思想・良心の自由、表現の自由、信教の自由を侵し、子どもたちのための式を台無しにする強制は、直ちにやめるべきです。」
なお、2011年2月2日付主張「強制を続けていいはずがない」の中に、「個性豊かな教育のために」と小見出しを付した次の一節がある。
「『日の丸・君が代』の強制は、今では生徒にも及びはじめています。挙手採決さえ禁じられた都立学校の職員会議では自由な雰囲気が影をひそめ、形式主義や事なかれがはびころうとしています。都立校は個性豊かな卒業生を世に送りだしてきました。そのひとりである歌手の忌野清志郎さんは、遅刻の多い自分を困った顔をしながら叱ってくれた先生らしくない恩師を、名曲『ぼくの好きな先生』で歌いました。強制の果てには『ぼくの好きな先生』の居場所がありません。その道を続けていいのか、考える時です」
確かに、『ぼくの好きな先生』の居場所はもうなかろう。なるほど、このような「主張」の書き方であれば、「日の丸・君が代」を語って多くの有権者からの共感と支持とを獲得することができるに違いない。見習いたいと思う。
(2015年3月1日)