昨日(1月10日)の毎日新聞に、「ヘイト集会拒否できる」「東京弁護士会がパンフ 自治体向け」の記事が掲載されている。ヘイトスピーチの集会に公共施設が利用される事態を防ごうと、東京弁護士会が利用申請を拒否する法的根拠をまとめたパンフレット「地方公共団体とヘイトスピーチ」を作製し自治体向けに配布している、との内容。
このパンフの内容となっている「地方公共団体に対して人種差別を目的とする公共施設の利用許可申請に対する適切な措置を講ずることを求める意見書」の発表は、昨年(2015年)9月7日のこと。以来4か月、東京弁護士会は、東京都内の全自治体や議会事務局、全国の弁護士会に配布してきたという。東京以外からも「参考にしたい」との問い合わせが相次ぎ、これまでに全国の25団体に送付。具体的な取り組みについて、東京弁護士会の担当弁護士と話し合いを始めた自治体もあるとのこと。
パンフの内容となっている意見書の全文は、東京弁護士会の下記URLで読むことができる。表現は慎重で穏やかだが、ヘイトスピーチの撲滅が国際条約上の国の義務となっているにもかかわらず政府は無為無策、これを放置している人権後進国日本の現状がよく分かる。
http://www.toben.or.jp/message/ikensyo/post-412.html
国がなんの施策も行おうとしない現状で、自治体がヘイト集会への会館使用を拒否することは、ヘイト対策として実効性のある手段の提供としてその着眼がすばらしい。しかも、このパンフは、実によくできている。表現の自由にも慎重な目配りをしたうえでの具体的な提言である。説得力がある。今後の課題は、これを全国の自治体に普及して啓発し、遵守してもらうよう粘り強く働きかけること、さらにはその実現のための実効的措置を追求すること、だと思う。
東京弁護士会は、日本が締結し批准もしている人種差別撤廃条約を根拠に、「自治体は差別行為に関与しない義務を負って」おり、「公共施設が人種差別に利用されると判断される場合には会館等の利用を拒否できる」だけではなく、「会館等の利用を拒否しなければならない」と指摘している。
もちろん、要件は厳格でなければならないが、昨今問題となっているヘイトスピーチの集会に、会館等使用を許可すれば違法となり、当該自治体の住民の誰もが、自治体の財産管理における違法を主張して、住民監査請求から住民訴訟を提起することができることになる。
また、この東京弁護士会の「反ヘイト・バンフ」が普及してくれば、自治体の首長や責任者がヘイト集会に会館使用を許可したことは、違法というだけでなく、過失の認定も容易になる。集会と、それに引き続くデモなどで精神的被害を受けたという被害者にとって国家賠償請求が容易になると考えられる。このような事後的な法的支援についても、具体的な方策が考えられてしかるべきではないか。
東京弁護士会意見書の意見の趣旨は以下のとおりである。読み易いように、カギ括弧などを入れてみた。
地方公共団体は,「市民的及び政治的権利に関する国際規約」及び「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」に基づき,人種差別を撤廃するために,人種的憎悪や人種差別を扇動又は助長する言動など,人種差別行為を行うことを目的とする公共施設の利用申請に対して,「条件付許可」,「利用不許可」等の〈利用制限その他の適切な措置〉を講ずるべきである。」
この意見書の下記の言及は、襟を正して読まねばならない。
ヘイトスピーチなどの人種差別行為の放置は,社会に深刻な悪影響を与える。差別や憎悪を社会に増大させ,暴力や脅迫等を拡大させる。国連人種差別撤廃委員会が2013年の一般的勧告「人種主義的ヘイトスピーチと闘う」で強調しているように,それらの放置は,「その後の大規模人権侵害およびジェノサイドにつながっていく」。ナチスによるホロコーストやルワンダにおける民族大虐殺等だけでなく,日本においても,1923年に発生した関東大震災で,朝鮮人が暴動を起こしているとの流言飛語が広まり,日本軍や,民間の自警団によって少なくとも数千人の朝鮮人が虐殺された。これは,1910年に朝鮮半島を植民地とした後,被支配民族としての朝鮮人に対する蔑視と,植民地化に対する朝鮮人の抵抗運動に対する恐れから,日本国内で朝鮮人に対するヘイトスピーチが蔓延した結果であった。日本にもこのような過去があることが想起されなければならない(2003年8月25日付け日弁連「関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺人権救済申立事件」勧告書参照)。
人種や民族間の差別意識は、人為的に創られ煽られて生じる。植民地支配や戦争の準備と重なる。アベ政権の好戦的な憲法改正の策動と切り離せない問題といわざるを得ない。
ナチスはユダヤ人をホロコーストの対象とした。その数、500万人を超す。一般のドイツ人がそのことを知らなかったわけではない。ある日ユダヤ人が消える。その財産は、ドイツ人に分け与えられる。あるいは消えたユダヤ人が占めていた地位をドイツ人が襲うことになる。こうして、ホロコーストは、ドイツ人に現実的な利益をもたらしたのだ。
社会の中の特定の集団を敵として、多数派が寄ってたかっていじめるとはそういう実利に結びつくことなのだ。恥ずべき泥棒根性といわざるを得ない。いま、ヨーロッパでもアメリカでも、そしてもちろん日本でも、弱い立場の人種や民族に対しての非寛容な空気の醸成がおぞましい。ヘイトスピーチの抑制は、平和に通じるのだ。東京弁護士会の試みを、成功を念じつつ見守りたい。
なお、紹介されている具体例を挙げておく。
公共施設の利用拒否が可能になり得る具体的な例。
・人種差別集会を繰り返している団体や個人から申請があった
・施設の利用申請書に特定の民族を侮辱する表現が含まれていた
・集会の案内状に人種差別をあおる内容が書かれていた
施設の利用拒否が可能な人種差別行為の具体例
・「○○人は犯罪者の子孫」などの発言を繰り返す
・「○○人を殺せ」などのプラカードを掲げる
・「○○人のゆすり・たかりを粉砕せよ」などと告知して集会を開く
ここを出発点に、ヘイトスピーチ撲滅の動きを作り出せそうな気がする。
(2016年1月11日)
水島朝穂さんのメルマガ「直言」は、胸のすくような鋭い切れ味に貴重な情報が満載。教えられることが多い。
http://www.asaho.com/jpn/index.html
その最近号は、明日(2016年1月11日)付の「メディア腐食の構造―首相と飯食う人々」というタイトル。ジャーナリストたる者が、「首相と飯食う」ことを恥ずべきことと思わず、むしろ、ステイタスと思っている節さえあるのだ。この人たちに、アベとともに喰った飯の「毒」が確実にまわっているという指摘である。その指摘が実に具体的であるところが切れ味であり、胸のすく所以である。
かなりの長文なので、私なりに抜粋して要点をご紹介する。ぜひ下記の原文もお読みいただきたい。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2016/0111.html
水島さんは、「10年でメディアの批判力はここまで落ちたのか。劣化度は特にNHKに著しい」と嘆く。アベ政権は、「政府が右と言うときに、左とはいえない」という会長人事や、経営委員会に百田・長谷川のような右翼を送り込むだけでなく、論説委員や記者への接触によって籠絡していることを具体的に語っている。
批判力の劣化を嘆かざるを得ないNHK政治部記者3人の名が出て来る。まずは、ご存じ岩田明子(解説委員・政治部)。
この人は、安倍首相の「想い」を懇切丁寧に読み解いて、「安倍総理大臣は、日本が再び戦争をする国になったといった誤解があるが、そんなことは断じてありえないなどと強調しました。安倍総理大臣は行使を容認する場合でも限定的なものにとどめる意向で、こうした姿勢をにじませ、国民の不安や疑念を払拭すると同時に、日本の平和と安全を守るための法整備の必要性、重要性を伝えたかったのだと思います」と言っている。客観報道ではなく、「忖度報道記者」なのだ。
ついで、田中泰臣(記者・政治部)。
「その『解説』はひどかった。例えば、採決を強行した安倍首相を次のように『弁護』していた。
『安倍総理大臣とすれば、安全保障環境が厳しさを増しているなか日米同盟をより強固なものにすることは不可欠であり、そのために必要な法案なので、いずれ分かってもらえるはずだという思いがあるものとみられる。また集団的自衛権の行使容認は、安倍総理大臣が、第1次安倍内閣の時から取り組んできた課題でもあり、みずからの手で成し遂げたいという信念もあるのだと思う。』」これも典型的な忖度記者。
そして3人目が、島田敏男(NHK解説副委員長)。この人の名は、まずはアベの「寿司友」の一人として出て来る。もっぱら、西新橋「しまだ鮨」での会食なのだそうだ。
「メディア関係者との会食も、歴代政権ではかつてなかった規模と頻度になっている。このことを正面から明らかにしたのは、昨年の『週刊ポスト』5月815日号である。それによると、安倍首相は2013年1月7日から15年4月6日まで、計50回、高級飲食店で会食している。記事の根拠は、新聞の「首相動静」欄である。首相と会食するメンバーは、田崎史郎(時事通信解説委員)、島田敏男(NHK解説副委員長)、岩田明子(同解説委員)、曽我豪(朝日新聞編集委員)、山田孝男(毎日新聞特別編集委員)、小田尚(読賣新聞論説主幹)、石川一郎(日本経済新聞常務)、粕谷賢之(日本テレビメディア戦略局長)、阿比留瑠比(産経新聞編集委員)、末延吉正(元テレビ朝日政治部長)などである。
首相とメディア幹部がかくも頻繁に会食するという「腐食の構造」は、それまでの政権には見られなかったことである。「毒素」は、メディアのなかにじわじわと浸透していった。」
島田敏男への「毒素」のまわり具合については、水島さん自身の体験が語られている。
「NHKの『日曜討論』に呼ばれたのは、安保法案が衆議院で採決される4日前という重要局面だった。『賛成反対 激突 安保法案 専門家が討論』。控室での打ち合わせの際、司会の解説委員(島田敏男・澤藤註)は、『一つお願いがあります。維新の党の修正案には触れないでください』と唐突に言った。参加した6人の顔ぶれからして、私に向けられた注文であることは明らかだった。自由な討論のはずなのに、発言内容に規制を加えられたと感じた。実際の討論でも、私が発言しようとすると執拗に介入して、憲法違反という論点の扱いを小さく見せようとした節がある。結局、『法案が成立したら自衛隊は国際社会で具体的にどう活動していくか』という方向で議論は終わった。採決を目前にして、『違憲の安保法案』というイメージを回避しようとしたのではないか。それを確信したのは、帰り際、送りのハイヤーに乗り込んだ私に対して、その解説委員がドア越しに、『維新の修正案は円滑審議にとてもいいのですよ』と言ってにっこり微笑んだからである。車内でその言葉の意味に気づくのにしばらく時間がかかった。」
こうして、水島さんは「『日曜討論』は私の『島』だという顔をしている島田解説副委員長」について、「これ以上、『日曜討論』の司会を彼に続けさせてはならない。」ときっぱり言っている。はっきりものを言うことのリスクを承知の上での発言である。
さらに、水島さんは、浅野健一著『安倍政権言論弾圧の犯罪』(社会評論社、2015年)を高く評価して、その一読を勧める書評の中で、こう書いている。
「本書は著者(浅野)の最新刊。『戦後史上最悪の政権』が繰り出す巧妙かつ露骨なメディア対策の数々を鋭く抉りながら、他方、メディア側の忖度と迎合の実態にも厳しい批判を速射する。特に、一部週刊誌が暴露した安倍首相とメディア関係者のおぞましい癒着の実態を、本書はさらに突っ込んで剔抉する。」
「本書によれば、安倍首相は第2次内閣発足後、親しいメディア関係者と30数回も会食している」「時事通信解説委員(田崎)が最も多く首相と会食しているが、彼はTBSの番組で、『政治家に胡蝶蘭を贈るのは迷惑。30ももらって置くところがない。もらってくれと 言われ、もらった。家で長くもった』と言い放ったという。こんなジャーナリストは米国では永久追放になる、と著者は厳しく批判する。政権とメディアの関係を正すためにも、本書の一読をおすすめしたい。」
「米国では永久追放になる」という「こんなジャーナリスト」には、NHKの3記者も含まれることになるのだろう。
ジャーナリズムは、社会の木鐸っていうじゃないか。権力を叩いて警世の音を響かせるのが役目だろう。政権の監視と批判が真骨頂さ。権力と癒着しちゃあおしまいよ。安倍晋三なんぞと親しく飯喰って、それでズバリと物が言えるのかい。自分じゃどう思っているか知らないが、世間はそんな記者も、そんな記者を抱えているメディアも、決して信頼できないね。
民俗学では共同飲食は祭祀に起源をもって世俗的なものに進化したというようだ。「一宿一飯」「同じ釜の飯」という観念は世俗社会に共有されている。酒食を共にすることは、その参加者の共同意識や連帯感を確認する社会心理的な意味を持つ行為である。親しく同じ飯を喰い、酒を酌み交わしては、批判の矛先が鈍るのは当然ではないか。ジャーナリストが、権力を担う者と「親しく同じ席の飯を喰う」関係になってはいけない。
産経のように、ジャーナリズムの理念を放擲し政権の広報紙として生き抜く道を定めた「企業」の従業員が、喜々として首相と飯を喰うのなら、話は別だ。しかし、仮にもジャーナリズムの一角に位置を占めたいとするメディア人の、「腐食の構造」への組み込まれは到底いただけない。とりわけ「公正」であるべきNHKのアベ政権との癒着振りは批判されなけばならない。
アベ政権だけにではなく、アベと癒着したメディアに対しても、冷静な批判の眼を持ち続けよう。
(2016年1月10日)
年末には「本郷・湯島9条の会」紙へ原稿を届けたが、年始に「文京9条の会」の機関紙「坂のまちだより」から「年頭の辞」の執筆依頼をいただいた。
「2016年の年頭にあたって、思われることなどありましたら、なんでも結構です。内容はお任せしますので宜しくお願いいたします。」とのこと。近々、根津憲法学習会でも今年の憲法情勢に関して報告しなければならない。さて、「憲法」とりわけ「9条」に関して、年頭に何を語り、何を書くべきだろうか。
日本国憲法とりわけ9条にとって、2015年は重大な試練の年となった。安倍政権と自公両党による解釈改憲の動きの進展は、前代未聞の95日の会期延長の末、違憲の戦争法を成立せしめた。その強引な立法手続によって、憲法9条は大きく傷ついた。残念でならない。しかしその反面、この違憲立法に反対する国民運動が大きな盛り上がりを見せた。そして、「アベ政治を許さない」「野党は共闘」の声が、議事堂を揺るがせた。「立憲主義の危機」「立憲主義の回復」が広く自覚的な国民の共通認識となり、共通のスローガンとなった。これは憲法と平和への光明である。
2016年は、憲法への試練と光明の両側面がさらに厳しくせめぎ合うことになりそうだ。安倍政権は、けっして解釈改憲では満足しない。違憲立法の成功に味をしめ、さらなる軍事大国化と戦後レジームからの脱却を目指した明文改憲が目論まれることになるだろう。国会に改憲派の議席多数のいまこそ明文改憲のまたとないチャンスだと虎視眈々なのだ。
安部晋三は官邸での年頭の記者会見で、「憲法改正については、これまで同様、参議院選挙でしっかりと訴えていくことになります。同時に、そうした訴えを通じて国民的な議論を深めていきたいと考えています」と明言している。そのために、衆参両院の憲法審査会がフル稼働することになるだろうし、そこでの喫緊の焦点は緊急事態条項の新設ということになりそうだ。
他方、立憲主義を取り戻そうとする自覚した国民の側の運動も大きくなりそうだ。「戦争法の廃止を求める2000万人署名」の活動を軸に、多くの市民運動の大同団結が昨年に引き続いて発展している。その運動が背中を押す形で、戦争法廃止・立憲主義の回復・明文改憲阻止のための野党の共闘は、少しずつ形ができようとしている。安全保障をめぐっては、沖縄県民がオール沖縄の団結で安倍政権と激しく対峙している。全国からの支援が沖縄に集中し、全国が沖縄に学ぼうとしている。
昨年に引き続く試練と光明、そのボルテージの高いせめぎ合いが今年7月の参院選で激突する。3分の1の壁をめぐっての攻防である。その結果が今後の憲法状況を占うことになる。アベ政権の改憲野望を挫くか。改憲路線を勢いづかせるか。3月施行となる戦争法の具体的な運用や、自衛隊海外派遣の規模や態様にも大きな影響をもたらすことになる。そして、その前哨戦が1月17日告示24日投開票の宜野湾市長選挙。そして4月の衆院北海道5区補欠選挙。
2015年選挙のない年に、国民は政治を動かす主人公は自分自身なのだということを学んだ。そして、16年には選挙で直接に国政を動かすことができる。仮に7月参院選が総選挙とのダブル選挙となれば、まさしく直接にこの国の方向を決めることになる。
せめぎ合う主要なテーマは、昨年に続いて立憲主義・民主主義・平和主義である。明文改憲でその総体が問われることになる。その明文改憲の突破口が緊急事態条項。来たるべき参院選はまことに重大な位置を占めることになる。7月参院選の闘いは既に始まっている。遠慮せず、臆せず、言論の発信を続けよう。違憲の戦争法を強行したアベの手口を思い起こすだけでなく、口にしよう。黙っていては人を説得出来ない、状況を変えることもできない。憲法擁護を言葉に発しよう。平和の尊さを、民主主義の大切さを語ろう、そして文章に綴ろう。ハガキでも、封書でも、メールでも、ツイッターでも。言論の自由を最大限有効に活用して、ビリケン(非立憲)アベ政権による改憲の野望を打ち砕こう。
こんな骨子を与えられた字数にまとめることにしよう。
(2016年1月9日)
本日の東京新聞「平和の俳句」欄に
冬北斗心を殺すことなかれ(田中亜紀子・津市)
これを、ふたりの選者それぞれに、金子兜太は「いまこころに決している平和への意思を貫くぞ」と読み、いとうせいこうは「生きて揺らぐなかれ」の意と解する。
北斗は揺るぎのない生き方が目指すかなたにある。誰しも、自分の心のなかに北斗を持ち、北斗を目指す生き方を貫きたいと願う。しかし、それは決して容易なことではない。
北斗は理想の象徴である。冬の夜、凍てつく寒さの中に北斗は高く輝いて動かない。その輝く北斗を見上げては、自らのこころに語りかけ言い聞かせるのだ。いつまでも、この星を目指す心を大切にしよう。理想を曲げ妥協をすること、怯むことは、自分の心を殺すことなのだ、と。
その東京新聞の今日の社説が小気味よい。「安倍首相答弁 憲法軽視の反省見えぬ」というタイトル。ジャーナリズムにとっての北斗は、怯まず臆せず権力への監視と批判に揺るがぬことである。必ずしも容易ではないその姿勢がこの社説には見えて快い。いささかも心を殺すところがないのだ。
「衆参両院での各党代表質問が終わった。野党側は安全保障関連法の成立強行や臨時国会見送りなど、憲法を軽視する安倍晋三首相の政治姿勢をただしたが、首相の答弁には反省が見えなかった」とリードがついている。そうだ、憲法を軽視する安倍晋三には反省が必要なのだ。ところが、反省するどころが、居直り開き直って恥じない。立憲主義を忘れたこの安倍政権の姿勢を徹底して批判しなければならない。
「野党がただしたのは首相の政治姿勢である。安倍政権は昨年9月、多くの憲法学者らが憲法違反と指摘する安保関連法の成立を強行。野党が憲法53条に基づいて臨時国会を開くよう要求しても拒否し続けた。
安保法について、野党側は「憲法違反の法律を絶対に認めない」(岡田克也民主党代表)「安倍内閣には憲法を守る意思がない」(松野頼久維新の党代表)「戦争法廃止、立憲主義回復を求める声が聞こえているか」(穀田恵二共産党国対委員長)などと追及した。
これに対し、首相は「世界の多くの国々から強い支持と高い評価が寄せられている。決して戦争法ではなく、戦争を抑止し、世界の平和と繁栄に貢献する法律だ」などと成立強行を正当化した。臨時国会見送りについても『新年早々に通常国会を召集し、迅速かつ適切に対応している』などと突っぱねた。憲法の規定など、なきがごときである。」
そうだ。忘れるな。ビリケン(非立憲)安倍の憲法無視を。餅を食っても門松がとれても、梅が咲いても桜が散っても、今年の夏の参院選までは、安倍の所業を忘れてはならない。
「首相の答弁からは、憲法と向き合う真摯な姿勢は感じられない。」「自分たちが変えたいと考える現行憲法は軽視する一方、新しい憲法をつくろうというのでは、あまりにもご都合主義だ。」
「憲法は、国民が権力を律するためにある。その原則を忘れ、憲法を蔑ろにする政治家に、改正を発議する資格はそもそもない。」
そうだ。そのとおりだ。国民共通の北斗は立憲主義にある。日本国憲法の理念が、北の空にまばゆいほどに光っているではないか。公権力はその方向に向かなければならない。国民は、権力にその方向を向かせなければならない。
立憲主義をないがしろにする首相を持つ国であればこそ、国民が毅然と北斗を見つめなければならない。メディアは、国民の先頭に立って、方向を踏みはずした政権を厳しく批判し叱咤しなければならない。権力におもねり、あるいは怯むことは、自分の心を殺すことになるのだから。
(2016年1月8日)
私は怒りに震えている。北朝鮮が4度目の核実験をしたという、その報せにである。原爆・水爆・放射能・被曝などという言葉は、私にとって生理的に受け容れがたいもの。
少し気持ちを落ち着けて、北朝鮮政府の声明文を読んでみた。
やや長文だが、以下のくだりに留意せざるを得ない。対決すべき思考の構造が見えている。
「わが共和国が行った水爆実験は、米国をはじめとする敵対勢力の日を追って増大する核脅威と恐喝から国の自主権と民族の生存権を徹底的に守り、朝鮮半島の平和と地域の安全を頼もしく保証するための自衛的措置である。
思想と制度が異なり、自分らの侵略野望に屈従しないとして千秋に許せない前代未聞の政治的孤立と経済的封鎖、軍事的圧迫を加えたあげく、核惨禍まで浴びせようと狂奔する残虐な白昼強盗の群れがまさに、米国である。
米帝侵略軍の原子力空母打撃集団と核戦略飛行隊を含むすべての核打撃手段が絶え間なく投入されている朝鮮半島とその周辺は、世界最大のホットスポット、核戦争の発火点になっている。
米国は、敵対勢力を糾合して各種の対朝鮮経済制裁と謀略的な「人権」騒動に執着してわれわれの強盛国家の建設と人民の生活向上を阻み、「体制崩壊」を実現しようとやっきになって狂奔している。
膨大な各種の核殺人兵器でわが共和国を虎視眈々と狙っている侵略の元凶である米国と立ち向かっているわが共和国が正義の水爆を保有したのは、主権国家の合法的な自衛的権利であり、誰もけなせない正々堂々たる措置となる。
真の平和と安全は、いかなる屈辱的な請託や妥協的な会談のテーブルで成し遂げられない。こんにちの厳しい現実は、自分の運命はもっぱら自力で守らなければならないという鉄の真理を再度明白に実証している。恐ろしく襲いかかるオオカミの群れの前で猟銃を手放すことほど、愚かな行動はないであろう。
朝鮮民主主義人民共和国は米国の凶悪な核戦争の企図を粉砕し、朝鮮半島の平和と地域の安全を保障するために努力の限りを尽くしている真の平和愛護国家である。
わが共和国は、責任ある核保有国として侵略的な敵対勢力がわれわれの自主権を侵害しない限り、すでに闡明した通りに先に核兵器を使用しないであろうし、いかなる場合にも関連手段と技術を移転することはないであろう。
米国の極悪非道な対朝鮮敵視政策が根絶されない限り、われわれの核開発の中断や核放棄はどんなことがあっても絶対にあり得ない。」(朝鮮中央通信配信記事からの抜粋)
つまりは、水爆を保有することが「自国と国民の平和と安全を邪悪な敵から防衛するための正義の自衛的措置」だというのだ。その前提として、「自国こそが平和愛好国家であり、他は虎視眈々と自国を脅かす凶悪な敵」との断定がある。抑止論者にこれを嗤う資格はない。北朝鮮こそは、抑止有効の論理が自国の軍事力の際限の無い拡大要求に帰結する見本ではないか。
「我が国に対する中国や北朝鮮の脅威が根絶されない限り、日本の自衛力の質的・量的な拡大を中断することはあり得ない。日米軍事同盟の強化を継続し続ける以外の方策はない。」これが、安倍政権の危険なホンネではないか。
さらに、「日本の平和と安全を確保するための軍事的抑止力は、可及的に質的・量的に強力であることが望ましい。通常兵器を有するだけでなく、核兵器を持つことがより我が国の安全を高める。また、現実に敵の侵略が生じてからの自衛の措置では遅きに失することが明らかなのだから、先制的な自衛の措置が執れるだけの攻撃力を完備する必要がある」となり、究極的には「われわれの核開発の中断や核放棄はどんなことがあっても絶対にあり得ない」に至ることになるのだ。
改めて、憲法9条の理念を思い起こそう。浮き足だって、我が国にも軍事的対抗措置が必要だなどと言う愚論を制しなければならない。問われているのは、「オオカミの群れの前で猟銃を手放すことほど、愚かな行動はない」との行動原理と、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」理念に立つかの選択である。愚かな抑止力拡大競争の連鎖を絶対に阻止しなければならない。
そのために、まずは北朝鮮に今回の核実験に踏み切ったことを、大きな間違いだったと悟らせなければならない。国際的威信を確立するどころか、結局は国際的孤立化を深め、経済的な窮乏化を招き、国の存立すら危うくする愚挙であることを思い知らねばならない。
この日の北朝鮮は、1941年12月8日の日本に似ている。あの太平洋戦争開戦の日、日本の指導者もメディアも国民も、これが希望の幕開けだと錯覚させた奇襲の成功に熱狂した。しかし、実はあの日こそ、破局への幕開けの日だったのだ。この教訓を思い起こそう。北朝鮮に、核実験の成功体験をさせてはならない。日本国内の抑止論者を勢いづけさせないためにも、である。
(2016年1月7日)
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なお、3度目の核実験(2013年2月12日)の当時には、私の「憲法日記」はまだ日民協のホームページに間借りしていたが、当日と翌日にブログの記事にした。今読み返して、今の私の気持ちと変わらない。これを再録しておきたい。
朝鮮の核実験に抗議する 2013年02月12日(火)
北朝鮮が3度目の地下核実験を行った。昨日には、米・中両国への事前通告があったとのことだから間違いなかろう。満身の怒りをもって抗議する。
私の抗議は、「北朝鮮の核実験だから」ではない。米・露・英・仏・中の5大国にも、印・パ両国にも、そして核を外交カードに使おうとするイラン・イスラエルにも、改めて抗議する。人類は核と共存し得ない。核をもてあそぶ者は、人類の存亡をもてあそぶ者だ。
かつて、「いかなる国の・論争」があった。私には、そのような論争の存在自体が信じがたく、「いかなる国の核実験にも反対」は自明だと思っていた。その私を、理論派の友人が説得にかかった。
「いかなる国の核実験にも反対という論法は、問題を核兵器と人類との対立という誤った構造に陥らせる」「戦争も核兵器も、人がつくり出す。社会の構造が生み出すものだという社会科学的な視点が必要だ」「戦争や核兵器廃絶のためには、それを生み出す体制の矛盾をこそ見据えなければならない」「世界の情勢を体制間の対抗関係として見れば、問題の本質が核そのものではなく、核の背後にある体制の問題であることが見えてくるはず」「いかなる国の核実験にも反対というのは、そのような問題の根本を見誤らせる間違ったスローガンだ」
理論派ならざる私は上手に反論できなかったが、この「理論」には胡散臭さを感じて、結局説得はされなかった。いまにして私の方が正しかったと思う。どこの国の核であろうとも、米国に対する「自衛的核抑止力」であろうとも、核保有国が増え、核技術が拡散することは絶対に容認し得ない。
アメリカとの間にオスプレイ問題があり、中国とは尖閣問題、韓国とは竹島、ロシアとは北方4島、そして北朝鮮とは拉致問題に核実験。日本は、周囲の各国と軋んだ関係を余儀なくされている。このようなときこそ、「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という憲法9条を思い起こさねばならない。冷静で賢い対応が求められている。武力による威嚇のエスカレートを許してはならない。
いかなる口実をつけようとも、北朝鮮の核実験も、それへの対抗措置としての我が国の軍備の増強も、「ならぬことはならぬもの」なのだ。
北朝鮮の核実験に、再度抗議する。2013年02月13日(水)
私は、1945年8月6日午前8時15分をもって、人類史を2分する。人類が自死の能力を明確に自覚する以前と以後とにである。そう考えさせる事件後の爆心地近くで、私は小学校に入校した。広島市立幟町(のぼりちょう)小学校というその学校の担任の女性教師の顔面にはケロイドの痕が生々しかった。広島の街は、まだ片づけられない瓦礫が残っており、原爆ドームも子どもの遊び場となっていた。そこで、地元の人のピカに対する怨念を心に刻んで育った。
1954年3月焼津に第五福竜丸が寄港したころ、私は清水の小学校の5年生だった。「放射能の雨」に戸惑ったことをよく記憶している。そして、今は公益財団法人第五福竜丸平和協会の監事を務めている。核兵器に対しても、被曝についても、徹底したアレルギー体質となっている。
もっとも、広島の原爆投下が核爆発の第1号ではない。悪名高いマンハッタン計画の「成果」として、人類最初の核実験(プルトニウム型)が1945年7月16日にアメリカ・ニューメキシコ州アラモゴードで秘密裡に行なわれている。「核の時代」の幕開けはこのトリニティ実験をもって始まる。
以来、昨日の北朝鮮地下核実験は2054回目の核爆発だという。
これまで、アメリカは1030回、旧ソ連が715回、フランス210回、イギリス45回、中国45回、インド4回、パキスタン2回、そして北朝鮮3回の核実験が大気圏で、地下で行われてきた(外務省データによる。イスラエルの実験は未確認として含まれていない)。
その間、原爆は水爆となり、爆発力を示すキロトン(TNT火薬換算)はメガトンの単位となった。なによりも運搬手段の発達がその脅威を増強している。
制憲国会で、幣原喜重郎は憲法9条の論議に関して次のように答弁している。
「一度び戦争が起これば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまう。ここに於て本章(日本国憲法第2章「戦争の放棄」)の有する重大な積極的意義を知るのである」「原子爆弾の出現によって、文明と戦争は両立しえなくなった。文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺する」
改めて、北朝鮮に抗議し要請する。いかなる理由に基づくものであろうとも、核兵器を廃棄していただきたい。文明と核兵器とは両立しえない。文明が核兵器を抹殺しなければ、やがて核兵器が文明の全体を抹殺するのだから。
春はあけぼの。冬はつとめて。そして、初春は伊勢神宮だよ。ねえキミ、日本人ならそうだろう。閣僚の仕事始めが伊勢神宮詣で悪かろうはずはない。つべこべ文句を言う奴は、定めし非国民というところだな。
靖国参拝には何かとうるさいメディアだが、閣僚の伊勢詣には何にも言わなくなったから清々しい気分じゃないか。中国も韓国も問題にしていないようだし、ニッキョウソも、ゼンキョウも黙りこくっている。すっかり定着だな。各党の党首も初詣に伊勢まで来りゃあいい。まずは与党の公明党から…、あっ、こりゃ口がすべったかな。
ここはなんたって天つ神の本宗だ。皇室の祖先神。そんじょそこらの神社とは格が違う。権力の頂点にいる私が、神道の総元締めに参拝するのだから、政教分離の問題が起こらないはずはない。しかも首相が、外相やら防衛相ら9閣僚を引き連れての参拝なのだから、これが公式参拝でなかろうはずもない。しかし、それがどうしたってことだ。
三木内閣の時に、私的参拝であるための4原則の基準が打ち出されたね。
まずは、肩書記帳だ。内閣総理大臣の肩書きを用いないこと。
次いで、公務の随行者を伴わないこと。
さらに、交通手段として公用車を用いないこと。
最後に、玉ぐし料は公費から出費しないこと。
あの三木さんのことだ。律儀に、この4基準を厳守したんだろうな。でも、私はそんなことに頓着しない。昨年、あれだけの反対のあった9条の解釈改憲をやってのけた私だ。20条違反など、ものの数ではない。肩書は堂々と「内閣総理大臣」と記帳した。それで何か? 公務の随行者なくして伊勢詣などできるはずもなかろう。新幹線と近鉄線以外は公用車だよ。玉串料はどこから出したかって? そりゃノーコメントに決まっている。これで何か差し支えがあるのかね。
いまだに、新年の閣僚伊勢神宮参拝は政教分離を定めた憲法20条に違反する、などと執拗に言い続けている連中がいる。最高裁判例では、参拝の目的と効果を吟味することで、政教分離に違反するかしないかを判断するようだ。愛媛玉串料訴訟大法廷判決などではかなり厳格な基準として使われているそうで、判決が合違憲判断にまでいけば違憲となるだろうというアドバイスも受けている。でも、総理大臣の違憲行為は、訴訟では争いにくいそうじゃないか。裁判にもちこむこと自体が難しく、メディアが黙り、政党も騒がないんだから、八方丸く収まっているってことじゃないの。
伊勢神宮参拝で、何を祈願したかって。そりゃ、何よりも皇室の弥栄。そして、世界の平和と、国民の福利。もう一つ特別なのが、6月の伊勢志摩サミットの成功。このあたりが公式見解だね。
でも、ここだけの話だが、ホンネは少し別だ。私は、総理総裁のイスに少しでも長く坐り続けたいのだ。そして、念願の憲法改正をやり遂げたい。なかんずく、自衛隊を堂々の国防軍とする9条改憲を実現することこそが、私がこの世に生を受けた意味なのだ。
そのために私は神宮の祭神に祈願した。「アマテラスよ。日本の守護神よ。なにとぞ今年7月の参院選に我が党を勝利に導きたまえ。思いのとおりの憲法改正発議ができるだけの議席を与えたまえ」。これがメインの願い。
しかし、祈願はそれだけではない。アマテラスは、おそらく選挙情勢に明るくない。だから、もっと具体的なサブ祈願事項が必要だと考えて、次のようにも付け加えた。
「昨年の安保関連法案反対の国民運動が今年は終息しますように」
「あの運動の高揚感を餅を食ったら忘れますように。」「遅くとも、梅が咲く頃には忘れますように」「残った人も、桜の咲くことにはすべて忘れてしまいますように」
「野党が分裂状態を続けて、選挙共闘が成立しませんように。」
「18歳選挙権がわれわれの利益につながりますように。」
「神様、アベノミクスとは結局のところは株価のことなのです。選挙が終われば『あとは野となれ山となれ』で結構ですから、選挙までは東証の株価を維持してください。」
「そして、前哨戦としての選挙が重要です。まずは1月17日告示24日投開票の宜野湾市長選挙です。そして4月の北海道5区補欠選挙。この二つの選挙に勝って弾みをつけさせてください。」
「けっして、我が党の政策が国民の支持を得ることまでは望みません。ともかく、議席が欲しいのです。」
「私は、神道政治連盟に加盟し、神道政治連盟国会議員懇談会でも真面目に活動しています。『国政の基礎に神道を置く』ことを目標に、日々政教分離を掘り崩し、20条改憲の実現を目指す活動に邁進しています。」
「ですから神様。私を嘉して、ご褒美をください。この私の願いを叶えてください。」
なに? 一国の首相としては次元の低過ぎる祈願だと? どうせ私は右翼の軍国主義者、しかも反知性主義で名を売った政治家だ。でもネ、よく言うだろう。国民はそれにふさわしい政府しか持てないってネ。だから、私はキミたちにふさわしい。今のキミたち国民は、私程度の首相しか持てないのさ。
(2016年1月6日)
今年の初詣に、ちょっとした異変があったという。相当数の神社の境内で署名活動が行われていたというのだ。神社と署名活動。これだけでも不似合いだが、署名活動の内容は、「私は憲法改正に賛成します」というもの。なんとも場違いで、正月気分を殺ぐこと甚だしい。神社がこんなことをしていては、善男善女の神社離れを起こし、結局は自分の首を絞めることになるだろう。
しかも、この署名簿。「私は憲法改正に賛成します」とだけ書いてあって、どのような憲法に改正すべきかの趣旨の記載も説明もない。「憲法改正に反対します」なら、その意味は一義的に定まるが、「憲法改正に賛成」では、いかなる改正を求めているのか分からない。
何を隠そう、実はこの私も、本当のところは「憲法改正に賛成」なのだ。天皇制をなくすこと。自衛隊を憲法違反と明記すること。いかなる国とも軍事同盟を結ばないとすること。税金は累進課税とし、貧困者からはとらないこと。教育と医療はすべて無料とすること。人種や民族の差別を一切なくし外国籍の居住者にも選挙権・被選挙権を認めること。同性婚を認めること…。そんなことが「本来の憲法改正」なのだ。天皇の元首化や、人権規定の形骸化、戦争のできる国への明文化などは、「改正」ではなく「改悪」といわねばならない。
また、署名といえば、普通は「改憲反対」「憲法守れ」なのだから、「私は憲法改正に賛成します」だけの署名用紙では、護憲派の署名運動と勘違いして署名に応じた人も多いのではないだろうか。
この署名は、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」なる組織が、「1000万人賛同署名」を目標に取り組んでいるもの。署名用紙には、「私は憲法改正に賛成します」という文言だけで、目指す改正案の内容の記載がない。神社の境内では分からない。ネットの検索を丹念に続けて、いったんはあきらめかけて、ようやく見つけた。
ようやく見つけたとはいうものの、実は内容確定していないのだ。「美しい日本の憲法をつくる国民の会」のホームページに、ようやく「具体的に、どのような点を改正する必要があるのですか?」という問を見つけた。このような問があるのは、改憲目標の草案がないということなのだ。改憲草案なしの憲法改正運動、ってそりゃいったいなんなのだ。なんともしまりのない「1000万人署名」。「なんといい加減な」と呆れるか、「さすがに大らか」と褒めるか、あるいは「これが神さまのすることか」と怒ってもよさそうだ。
この「問」に対する回答では、冒頭「次のような点の改正が必要だと考えられます。」といって、7点を挙げている。「前文」「元首」「9条」「環境」「家族」「緊急事態」そして「96条」である。なるほど、すべて右翼・右派が言いそうなこと。しかし、飽くまで、改正個所の指摘にとどまり、どう改正すべきかの具体案を欠いている。以下にその7点を吟味してみたい。
1.「前文」…美しい日本の文化伝統を明記すること
自らの国の安全と生存を、「平和を愛する諸国民の公正に信頼」して委ねるという、他人任せな規定を見直す必要があります。また、前文には、建国以来2千年の歴史をもつ、わが国の美しい伝統・文化を明記することや、世界平和に積極的に貢献する、国民の決意を表明することも大切です。
前文の改正具体案を作らず、「美しい日本の文化伝統を明記すること」とは、無責任でもあり、本気度を疑いたくもなる。要するに、平和主義がお嫌い。軍備増強に金をかけ軍国主義の危険を冒しても、国の政策として戦争という選択肢を作ろうとおっしゃるのだ。「わが国の美しい伝統・文化を明記」とは、なんともいじましい姿勢。「世界平和に積極的に貢献する国民の決意」は、積極的平和主義をとなえる安倍晋三の応援団。こんなのを、「お里が知れる」というのだろう。
2.「元首」…国の代表は誰かを明記すること
国際社会では、天皇は日本国の元首として扱われています。しかし、国内では、「天皇は単なる象徴にすぎない」とか、「元首は首相だ、国会議長だ」という憲法論議が絶えません。国家元首は一体誰なのか、憲法に明記する必要があります。
「天皇は単なる象徴にすぎない」からこそ、憲法での存在を認められている。これを元首にしようというのは、天皇制を危険に晒すことと知るべきである。また、天皇の元首化は一昔、二昔の話し。今はもう、流行らない。初詣に出かけて、「天皇を元首にしましょう。ぜひ署名を」ということが、笑い話ではなく、現実に起きていることの不気味さを警戒しなければならない。
3.「9条」…平和条項とともに自衛隊の規定を明記すること
自衛隊は国防の要であり、さらに世界の平和貢献活動や大規模災害支援にも大きな役割を果たしています。しかし、憲法上「違憲」の疑義があると指摘され、自衛隊の憲法上の根拠はあいまいです。9条1項の平和主義を堅持するとともに、9条2項を改正して、自衛隊の国軍としての位置づけを明確する必要があります。
軍事力は、他国を刺激して軍拡競争の負のスパイラルに陥る危険を常に秘めています。また、治安出動をして国民運動に対する弾圧装置としての役割も負っています。平和貢献活動は軍事に限る必要はありませんし、大規模災害支援には自衛隊ではなく専門組織を作った方が効率のよいことは明らかです。明らかに違憲の自衛隊を存続させなければならない根拠はあいまいです。少なくとも、9条改憲の必要はまったくありません。
4.「環境」…世界的規模の環境問題に対応する規定を明記すること
古来より、日本人は自然への敬意をいだき自然環境の保全に努めてきました。地球規模の環境破壊が進む中、自然との共存、環境保全は世界的課題であり、環境規定は喫緊の現代的課題です。
環境は大切。辺野古の美ら海を埋め立てて新基地を作らせてはならない。原発も、戦争も、環境の立場からも許してはならない。しかし、環境権を突破口に改憲を実現しようというのが、一貫した改憲派策動の手口。環境権規定は新設せずとも、13条が保障する新しい人権として認め、立法で対応することで十分なのだ。
5.「家族」…国家・社会の基礎となる家族保護の規定を
家族は、国家社会の基礎をなす共同体です。社会の発展、子弟の教育などを支える家族の保護育成は、世界各国でも憲法に規定されている重要な項目です。
家族には2面性がある。かつて、「家」が個人を圧迫し、とりわけ女性の自立を妨げた。家族共同体の強調は個人の自立を妨げる側面を持つ。ここでも、現行の24条が「我が国の醇風美俗を破壊している」という保守派の論理を押し通そうというものになっている。
6.「緊急事態」…大規模災害などに対応できる緊急事態対処の規定を
東日本大震災は、1,000年に一度という想定できない大惨事を招きましたが、緊急事態対処の憲法規定があれば、多くの国民を災害から守ることができました。来るべき大災害に対処しうる憲法規定が必要となっています。
「緊急事態対処の憲法規定があれば、東日本大震災で多くの国民を災害から守ることができました。」というのは、まったくのデマ。安倍晋三ですら、そんなことを言っていない。緊急事態条項の真のねらいは、緊急事態を口実にした、人権・民主主義の制約規定を置くこと。こんな危険なことにうかうか乗せられてはならない。
7.「96条」…憲法改正へ国民参加のための条件緩和を
我が国の憲法は、国民大多数が憲法改正を求めても、国会議員の3分の1が反対すれば改正できない、世界で最も厳しい改正要件になっています。憲法改正への国民参加を実現するため、憲法改正要件の緩和が求められます。
これこそが、改憲派が欲しくて手に入れることのできない魔法の杖。第2次安倍内閣が、96条先行改憲を目論んで、世論の袋だたきに遭って引っ込めたもの。これを蒸し返そうというのだ。
初詣の善男善女の皆さま。
オレオレ詐欺みたいな、こんな署名活動に引っかかってはいけません。
初詣に出かけて、こんな署名をさせられたのでは、正月気分も目出度さもすっかり失せてしまいます。せっかくのお正月、欺され初めは避けましょう。
「残念、もう遅かった」という方は、来年からは神社への初詣をやめましょう。
そして、お口直しに「戦争法の廃止を求める2000万人統一署名」の方をどうぞ。
こちらは、各署名用紙ごとに請願の趣旨が明記されていますから。
(2016年1月5日)
戦後70周年の旧年(2015年)に続いて、憲法公布70周年の新しい年(2016年)の始動である。本日、首相の年頭記者会見があり、通常国会が召集され、アベノミクスの成否を占う東証の大発会もあった。解釈改憲の旧年から明文改憲の新年となりかねない、危うさを感じる。
首相年頭記者会の全文が官邸のホームページに掲載されている。
質疑前の首相のコメントは、我田引水の他愛のないもの。「昨年は、平和安全法制が成立し、私たちの子や孫の世代に平和な日本を引き渡していく基盤を築くことができました。」などという牽強付会のトーンの一色。
質疑応答なければそれだけのこと。幹事社からの質問が2問あった。そのうち1問が選挙情勢と改憲に関わる質問。その問と回答を掲載する。
(記者)
幹事社の西日本新聞です。今年は夏に最大の政治決戦となる参議院選があります。現在は自民党が115議席、公明党の20議席を加えて過半数に達しているような状況です。これを夏の参議院選では自民党単独で過半数を目指すのか、それとも、自民・公明におおさか維新の会などを含めたいわゆる改憲勢力で3分の2を目指すのか、勝敗ラインについてはどのように考えていらっしゃいますか。
それと、改めて参議院選の争点についてはどのように考えていらっしゃいますか。
また、更に衆院解散による同日選の可能性についてもお聞かせください。
(安倍総理)
まず、自由民主党と公明党の連立政権、この連立政権は風雪に耐えた、強固な連立政権と言ってもいいと思います。この安定した政治基盤の上に、「一億総活躍」への「挑戦」を初め、内政・外交の課題に決して逃げることなく、真正面から「挑戦」し続けていきたいと考えています。
参議院選挙においては、全ての候補者の当選を目指していくことは当然のことであり、それが自由民主党総裁の責務であろうと思います。その上で、自公での連立政権の下、安定した政治を前に進めるため、参議院において自公で過半数を確保したいと考えています。その勝利を勝ち取るために全力を尽くしていく考えであります。
憲法改正については、これまで同様、参議院選挙でしっかりと訴えていくことになります。同時に、そうした訴えを通じて国民的な議論を深めていきたいと考えています。
なお、衆議院の解散については、何度も同じことを申し上げて恐縮でございますが、全く考えていないということであります。
参議院の選挙のテーマは様々でありますが、3年間の安倍政権の実績に対する評価、そして、今、私たちが進めようとしている「一億総活躍社会」について、国民の審判をいただきたいと思っております。
これにどう見出しを付けるか、各紙のセンスが問われる。
朝日は、平板に「参院選『自公で過半数確保』 安倍首相が年頭会見」>とした。読売も「参院選『自公で過半数確保』…年頭会見で首相」。両紙とも、「改憲」の文字が出て来ない。
さすが東京新聞は「年頭会見、参院選で改憲争点化 首相、自公過半数目指す」とし、毎日は「首相年頭会見 改憲 参院選で訴える『国民的議論を』」と打った。「改憲争点化」「改憲 参院選で訴える」をアピールポイントとしたのだ。
ちなみに、産経は「『未来へ挑戦する1年に』『参院選で憲法改正訴える』『同日選は考えていない』」というもの。右派の立場で、右派なりに改憲に敏感なのだ。
それにしても、幹事社の質問がこれで終わりなのがもの足りない。
「参院選でしっかりと訴えることになる改憲のテーマは、どんなものをお考えですか」「憲法9条改憲については参院選の争点としますか」「昨年9月安保関連法成立時に、総理は『国民の皆様の理解が更に得られるよう、政府としてこれからも丁寧に説明する努力を続けていきたいと考えております』と言われました。あの説明はどうなりましたか」「まず、この点についての丁寧な説明なければ、憲法に関する国民的な議論は深まらないのではありませんか」「今年の参院選で改憲賛成の議席が3分の2に達しなければ総理在任中の改憲はあきらめざるを得ないと思いますが、いったいどの勢力を改憲賛成派とお考えですか」などと、突っ込んでもらいたかった。
さて、第190回通常国会が本日開会した。会期は6月1日までの150日間。参院選の日程から、会期の延長はないと言われている。問題は山積だ。が、今日のところの私の関心は、もっぱら共産党議員団が初めて開会式に出席したこと。玉座の天皇を見上げ、他党の議員たちと同様に、おとなしく「(お)ことば」を聞いたという。
私は、「日の丸・君が代」強制を受け入れがたいとする教員たちの訴訟を担当している。自らの思想、教員としての良心に忠実であろうとして、不利益を覚悟して起立・斉唱を命じる職務命令に毅然と不服従を貫いている尊敬すべき教員たち。その教員たちにとって、これまでは共産党こそが最も頼りになる支援の政治勢力であった。スジを通す、原則に忠実、けっしてぶれない、その姿勢を貫く共産党であればこそ、躊躇することなく懲戒処分を受けた教員の側に立って都教委を批判してきた。教員たちからの厚い信頼を勝ち得てもきた。共産党の「スタンド・バイ・ミー」の姿勢は今後も変わらないのだろうか。一抹の不安なきにしもあらずである。党勢拡大や国民連合政府構想推進のためとする大所高所に立っての天皇制やナショナリズムへの妥協。残念と言わざるを得ない。
憲法公布70周年(11月3日)を迎える今年。情勢は険しくも複雑である。その中での明文改憲をめぐるせめぎ合いは一層熾烈になるものと覚悟しなければならない。
(2016年1月4日)
2015年は憲法に大きな傷を負わせた解釈改憲の年だった。明けて16年は、明文改憲が話題の年となりそうな雲行きである。毎日新聞元日号のトップ記事が、「改憲へ緊急事態条項 議員任期特例 安倍政権方針」。そして2面に、「透ける『お試し改憲』 緊急事態条項 他党支持得やすく」という解説記事。見出しだけで内容がよく分かる。改憲勢力にとっても、阻止勢力にとっても、せめぎ合いの正念場が近づきつつあるという緊迫感を持たざるを得ない事態なのだ。
毎日新聞の記事は、「安倍政権は、大規模災害を想定した『緊急事態条項』の追加を憲法改正の出発点にする方針を固めた。」「安倍晋三首相は今年夏の参院選の結果、参院で改憲勢力の議席が3分の2を超えることを前提に、2018年9月までの任期中に改憲の実現を目指す」と、断定調。おそらくそのとおりなのだろう。
政権が目指す改憲の内容は、「衆院選が災害と重なった場合、国会に議員の『空白』が生じるため、特例で任期延長を認める必要があると判断した」というもの。このテーマなら、「与野党を超えて合意を得やすいという期待もある」という。
ニュースソースは「政権幹部」。その政治家が、「首相の描く改憲構想を明らかにした」「首相は在任中に9条を改正できるとは考えていない」「首相は自身が繰り返し述べてきた『国民の理解』を得やすい分野から改憲に着手するとの見通しを示した」という。
また、自民党の保岡興治衆院憲法審査会長が「今後は緊急事態条項が改憲論議の中心になる」と報告したのに対し、首相は「与野党で議論を尽くしてほしい」と応じたこともあげ、「衆院憲法審査会では、衆参両院議員の任期延長や選挙の延期を例外的に認める条項の検討が進む見通しだ」ともいう。
もっとも、毎日のこの記事、ややミスリードの気味もないわけではない。実害あって問題なのは、「一時的な私権の制限」が盛り込まれることで、「政治空白の回避策」(緊急事態における国会議員の任期延長)だけであれば、緊急事態条項提案の合理性を当然の前提としているように読めることである。実は「お試し改憲」などと安閑とはしておられない事態なのではないか。この点、大いに警戒を要する。
毎日の報道は、「自民党の改憲推進派は『最初の改憲で失敗すれば、二度と改憲に着手できなくなる』と懸念しており、首相も国会の議論を見極めながら、改憲を提起するタイミングを慎重に計るとみられる」というもの。これは、誇張ではない常識的な情勢の見方だが、このような情勢判断を含む毎日の記事全体が、政権の観測記事であろうということ。産経や読売ではなく、毎日へのリークであることに意味がある。おそらく、政権はこのような記事への世間の反応を見ているのだろう。
毎日の記事では、緊急事態の内容を《「政治空白の回避策」(緊急事態における国会議員の任期延長》と《「一時的な私権の制限」》とに二分し、前者であれば人畜無害の「お試し改憲」、後者なら「実質的な人権制約改憲」としている。
「政治空白の回避策」とは、衆院が解散後総選挙を経ての国会召集までの間に緊急事態が生じた場合、空っぽの衆院が緊急事態に対応できないではないか、という問題提起への対応策。なに、たいしたことではない。半数ずつ改選の参院が空っぽになることはない。二院制の存在理由の一つはここにある。憲法54条2項但し書きの「内閣は、国に緊急の必要あるときは、参議院の緊急集会を求めることができる」を活用すればよいだけのこと。こんなテーマで、ことさら憲法改正の必要があるわけはない。
憲法は、硬く安定しているところに値打ちがある。現行の規定のままでは耐えがたい不都合が生じており、どうしても条文を変更しなければ不都合を解消できない場合以外には、軽々に変更をすべきではない。東日本大震災においても、事態への対応に憲法が桎梏となった事実はなかった。仮にあの事故が衆院解散中のものであったとしても、事情は変わらない。「54条だけでは大規模災害時の国会対応が不十分になる」という立論は、ためにするものとしか考えられない。要するに、改憲の立法事実が存在しないのだ。
自民党改憲の狙いは、もっと実質的な人権制約にある。「自民党改憲草案」(2012年4月)は、現行憲法にはない「第9章 緊急事態」を設けようと具体的な提案をしている。
そのさわりは、以下のとおりである。
「第98条(緊急事態の宣言)1項 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
第99条(緊急事態の宣言の効果)1項 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
3項 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、…国その他公の機関の指示に従わなければならない。」
法は「要件」と「効果」で書かれている。緊急事態の要件は、戦争・内乱・政府批判の大行動・自然災害…だけではない。国会で議席の過半数を占めた与党が、「法律の定めるところ」としてどこまでも広げる可能性を残しているのだ。そして、緊急事態の効果。政府の思惑で国民の人権を制約できるのだ。政権にとって、こんなステキな魅力的な魔法のカードはない。
悪名高いヒトラー・ナチスの全権委任法(授権法)は、国会放火事件を口実とする「民族と国家防衛のための緊急大統領令」に続いて登場した、緊急事態に備えての時限立法であった。その第1条「ドイツ国の法律は、憲法に規定されている手続き以外に、ドイツ政府によっても制定されうる」と、アベ・自民党の「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」の近似性に驚かざるを得ない。
大江志乃夫さんはその著「戒厳令」(岩波新書)の前書きで、次の趣旨を述べている。
「緊急事態法制は1枚のジョーカーに似ている。他の48枚のカードが形づくっている整然たる秩序をこの一枚がぶちこわす」
日本国憲法が形づくる、人権と民主主義の整然たる秩序の体系。これを根底からひっくり返すジョーカーが緊急事態条項なのだ。こんな物騒な緊急事態条項改憲を、危険なアベ政権の手に委ねてはならない。後戻りできない、不可逆的な効果を持ちかねないのだから。
さて、明日から始まる通常国会に目を離せない。
(2016年1月3日)
正月。いくつかの機関誌の新年号に目を通した。目を通したなかでは、靖國神社の広報誌「靖國(やすくに)」(全24頁)が最も興味深いものだった。
私は、靖國を語るときには襟を正さねばならない、と思っている。ことは国民皆兵の時代の夥しい兵士の戦死をどう受け止めるべきかという厳粛なテーマである。240万人の非業の死があり、その一人一人の死者につながる家族や友人の、故人を悼む気持ちが痛いほどよくわかるからだ。
だが、その襟を正さねばならないとする厳粛な気持ち故に靖國神社批判を躊躇してはならないとも考えている。むしろ、戦死者につながる家族や友人の故人を悼む純粋な気持を、靖國神社に利用させてはならない、という思いが強い。「靖國」新年号は、その私の思いを固めるものとなっている。
靖國神社とは、天皇制と軍国主義と神道との奇妙な結合体である。それは国民の宗教感情を利用するものてはあるが、むしろ宗教のかたちを借りて国家が作り出した人為的な疑似宗教施設であり、イデオロギー体系である。国民心理操作システムと言ってもよい。
国家は、靖國神社という宗教的軍事施設を創設して、戦没兵士の死と魂を国家が独占して管理するシステムを確立した。その目的は戦没者を悼む国民の心情を国家の側に取り込むことにある。こうすることによって、戦争や戦争を推進した天皇制を美化し、戦争や天皇制批判を封じ込めることが可能だったのだ。
英霊を取り込んだ側であればこそ、「英霊を傷つけるな」「英霊を侮辱するな」「そんな弱腰では英霊が泣いているぞ」という台詞を吐くことができる。違法な戦争も、無謀な戦争も、「英霊」を傷つけるものとして批判を躊躇せざるを得なくなる。
私はかつてこう書いたことがある。
「靖國は、一見遺族の心情に寄り添っているかのように見える。死者を英霊と讃え、神として祀るのである。遺族としては、ありがたくないはずはない。こうして靖國は遺族の悲しみと怒りとを慰藉し、その悲しみや怒りの方向をコントロールする。
しかし、あの戦争では、「君のため国のため」に命を投げ出すことを強いられた。神国日本が負けるはずのない聖戦とされた。暴支膺懲と言われ、鬼畜米英との闘いとされたではないか。国民を欺して戦争を起こし、戦争に駆りたてた、国の責任、天皇への怨みを遺族の誰もが語ってもよいのだ。
靖國は、そうはさせないための遺族心情コントロール装置としての役割を担っている。死者を英霊と美称し、神として祀るとき、遺族の怒りは、戦争の断罪や、皇軍の戦争責任追及から逸らされてしまう。合祀と国家補償とが結びつく仕掛けはさらに巧妙だ。戦争を起こした者、国民を操った者の責任追求は視野から消えていく。」
「靖國」新年号は、この私の考えが、誤りでも誇張でもないことを裏付けている。いまだに、靖國神社と戦争とは強固に結びついている。靖國神社側がそのことを隠そうともしていないのだ。
新年号で注目すべきは、「やすくに活世塾」なる講座の紹介である。靖國神社そのものの思想としての記事の掲載ではないが、日の丸を背景とした講演者の写真入りでの新年号への掲載である。靖國神社が親和性をもっている思想の紹介と理解するよりほかはない。
「やすくに活世塾」で講演したのは、日本政策研究センター代表という肩書きを有する伊藤哲夫なる人物。講演内容は以下のとおり。
今回議論になった平和安保法案は常識的な内容であったが、世間では七十年代の安保闘争の思想を持つ空想的平和主義者による偏った考えがマスコミにより大きく取り上げられた。
現実に則さない平和主義は戦後日本にのみ蔓延ったのではなく、実はヨーロッパが第一次大戦後から第二次大戦までの間かぶれていた。第一次大戦の敗戦で国力の弱まったドイツにおいて大ドイツ構想を掲げて台頭したヒトラーは再軍備と徴兵制を行ったが、平和主義を唱えるイギリス、フランスは抑止力を持たない非難決議を出すに留まったため、ドイツのラインラント進駐やオーストリア併合を許してしまった。さらにはドイツの脅威を恐れたイギリス首相がチェコ大統領に圧力を掛けチェコスロバキアの一部をドイツに割譲させることで収めようとミュンヘン会議を開いたが、それが逆にドイツの勢いを増大させ、ポーランド侵略を開始、結果として第二次世界大戦へ突入した。このことをチヤーチルは、ドイツには勝利したものの、平和主義を掲げておきながら戦争をもたらしてしまった勝者の愚行であったと断じている。日本はこのような過去の【平和主義歴史】から学ばねばならない。
現在の中国の軍事進出は大ドイツ構想を掲げて進出したヒトラーと同じであり、宥和政策は通じない。憲法第九条は戦争をしない国と掲げているが、軍備を整え、他国の戦争をさせない国にならなければならない、と述べるとともに、日本人は歴史を鑑として物事を考える力をつけなければならない。
「靖國派」という言葉は、むべなるかな。靖國神社とは、このような講演会を主催してこのようなイデオローグを招いてしゃべらせ、機関誌で紹介する「宗教団体」なのだ。けっして戦没将兵をひたすらに追悼あるいは慰霊するにとどまらない。「平和主義は危険」。「憲法9条を遵守していてはならない」。「軍備を整え、他国の侵略戦争をさせない国にならなければならない」ことを喧伝しようというのだ。
また、同新年号は2面を割いて言論人からの寄稿を掲載している。東京新聞でも、毎日・朝日でも、読売ですらない。靖國神社は、産経の論説委員を選んで、寄稿を求めているのだ。産経は9条改憲に積極的で、戦争法に賛成の立場を明確にし、中国を危険視することで知られた存在。靖國神社と産経、よく似合うではないか。
「渡部裕明・産経新聞論説委員」の、「『父祖の歴史』を知ることから」と題する文章が掲載されている。
この人、祖父はシベリア出兵従軍の経歴を持ち日中戦争に応召して戦死。父親は職業軍人として「戦死こそ免れたものの、幼少時からの『人生の目的』を奪われた内面の傷は深」かった、という家系。その上で、次のように述べている。
これが、わが「ファミリーヒストリー」である。一家が戦争でこうむった被害はやはり甚大だと言わねばなるまい。だが、祖母も父親も、苫難の連続ではあったが、この国を恨んだり、だれかの責任を問うた形跡はない。父親が進んで軍人の道を選んだ以上、「意に反して兵士とされた」と、国家を弾劾するわけにもいかなかったのだ。
マイルドな言い方だが、戦争を推進した「この国」や「誰か」を免罪する論の展開である。シベリア出兵にも日中戦争にも、そして太平洋戦争にも、国としての責任を問題とする姿勢は皆無である。わざわざ「この地上から戦争がなくなるとはとても思えない」とまで書いているのだ。
また、同論説委員氏の結論めいた一節は以下のとおりである。
「戦争は悲惨なもの」と訴え、それを表明する会合やデモに参加するのも一つの行動だとは思う。しかしまずは、白分たちの父祖が戦争の時代に何を考え、どう生きたかを知るところから始めるべきではないか。主義主張やイデオロギーにとらわれない「実感できる歴史」は、そこで見つかるはずだ。
おやおや、「戦争は悲惨なもの」という考え方は、主義主張やイデオロギーにとらわれた、実感できる歴史観ではないというのだ。だから、「戦争は悲惨なもの」と訴え表明する会合やデモに参加することは勧められない。白分たちの父祖が戦争の時代に何を考え、どう生きたかを知ることだけが勧められる。そして、その先で何をなすべきかは語られない。ここにも、靖國のイデオロギーが振りまかれているのだ。
日本の戦争を語るとき、靖國を避けることはできない。靖國を語るとき、過去の靖國だけでなく、現在の靖國の批判を避けて通ることができない。わけても、今、戦争法によって日本が海外で戦争をできる国となりつつあるのだ。70年間なかった、戦争による死者が確実に出て来ようとしている。国家による戦死の意味づけや、死者の魂の管理は過去の問題ではなく現在の問題となっている。
当ブログでは、今年も、政教分離・靖國神社問題に真っ当な批判を続けていこうと思う。(2016年1月2日)