昨日(5月10日)、森友問題での刑事告発人らや代理人弁護士らが、大阪地検特捜部の担当検察官と面会し、厳正な再捜査と起訴を要望した。
学校法人「森友学園」への国有地タダ同然売却問題、そしてそのことを隠蔽するための決裁文書改ざんや国会答弁問題で相次いだ告発がすべて不起訴となった。この安倍政権への忖度処分を不服として、大阪検察審査会への審査申立がなされ、その一部が「不起訴不当」の議決となった。大阪地検(特捜部)は、誠実に再捜査を遂げ、今度こそ政権への思惑を捨てて、厳正に起訴をすべきである。
共同配信記事は、こう伝えている。
大阪第1検察審査会が佐川宣寿前国税庁長官ら10人について不起訴不当と議決したことを受け、審査を申し立てていた醍醐聡東大名誉教授らは10日、大阪地検特捜部検事と面会し、厳正な再捜査と起訴を求める文書を出した。
約40分間の面会終了後、大阪市で報道陣の取材に応じた醍醐氏は「地検の不起訴理由と検審の議決内容は著しく食い違う」と強調。検事は醍醐氏らに対し「ご要望として承る」と応じたという。
醍醐さんの報告では、短い時間に準備した資料を検事に提示して、4点を強調して発言したとのこと。その中心は下記のとおり。
「安倍首相は2017年3月6日の参院予算委における答弁で『ゴミを取ることを前提に1億数千万円で売った」と答弁した。しかし、森友学園は埋設物をそのままにして校舎を完成した。特捜は安倍首相と、開学に向けた森友の工事の実態の重大な食い違いに強い関心を持って再捜査に当たると考えてよいか?」また、「上記の発言の中で安倍首相は何度も『ゴミがあるからディスカウントした』『瑕疵担保責任というのはそういうこと・・・』と発言している。専門家の特捜部が瑕疵の対象物を『ゴミ』などと世間話のレベルで捉えておられるとは、無論思わないが、国会でもマスコミでも、ゴミが、ゴミが、と語られてきた。私たちがこれまでに提出した申入文書で指摘したように、瑕疵担保責任が問題になる地下埋設物とは、買い受けた土地を目的の用に供する工事をする際に障害となる物を指すという解釈は判例でも定着している。特捜部は、瑕疵担保責任をこのような厳密な法的意味で解釈していると理解してよいか?」(以上は、参議院予算委の議事録の該当箇所を示しての発言)
これに対する検事の応答は、「ここで、こちらの考えを話すのは控える。ご要望として受け取める。」「4月1日にみなさんが提出された申入書は私も受け取っている。その他のことはご要望として受け止める。」というものだったという。
また、NHK記者時代に事件を追っていた相澤冬樹さんが次のように、報告している。
森友事件を一貫して追及してきた大阪の阪口徳雄弁護士は、応対する蜂須賀検事に見覚えがあった。12年前、奈良県生駒市の前市長が逮捕される背任事件があった。前市長が現職当時、タダ同然の山林を親しい業者から市の公社を使って1億3480万円で買い上げた。これが市に損害を与えた背任として立件された。阪口弁護士は市長が替わった後の生駒市の顧問で、新市長の意向を受けて特捜部にこの件を持ち込んだ。これを受けて大阪地検特捜部で捜査にあたったのが蜂須賀検事だったのだ。
阪口弁護士)あなた、生駒市の背任事件を担当したんじゃないですか?
蜂須賀検事)よく覚えてますねえ。
阪口弁護士)私は生駒市の顧問としてあの事件を特捜部に持ち込んだんですよ。たしかあのころお会いした記憶がある。
蜂須賀検事)あの事件は私も記憶に残っています。
阪口弁護士)あのころ、奈良市の市議会議長が贈賄で逮捕される事件もあったでしょう。あれも私が持ち込んだんですよ。
蜂須賀検事)あれも私が担当しました。
阪口弁護士)あのころの大阪特捜は頑張ってましたねえ。
この皮肉に、蜂須賀検事はただ笑っているだけだったが、雰囲気は和やかだった。阪口弁護士としては、かつて公職者の背任を手がけた検事に再び頑張ってほしいという思いもあった。申し入れはそこからが本題だ。ここから阪口弁護士は厳しく迫った。
・大阪地検がこれまで政治家や公務員の犯罪に毅然と対処し起訴に踏み切ったことを関西の我々は知っているし、期待もしてきた。
・しかし検察審査会は今回の検察の捜査について極めて恣意的で不十分だと指摘している。
・有権者から無作為に選ばれた委員がこのように判断したということは、これが国民の大多数の意向を反映したものだ。
・法律的にも、この事件は起訴して無罪になることなど、およそあり得ない。むしろ検察の不起訴の理由の方がとってつけた屁理屈としか思えない。
・検察が適当にお茶を濁す再捜査をして、またも不起訴にするなら、国民の信頼は喪失されるだろう。政権の関係者が関与するとして注目されるだけに、なおさらである。
・検察審査会の「不起訴不当」の議決は多くの国民の検察に対する批判、叱咤激励と受けとめ、徹底的に再捜査して起訴するよう強く要請する。
同じく申し入れを行った醍醐聰東大名誉教授は安倍首相の答弁の齟齬を指摘して捜査を求めた。
・森友事件が発覚した2年前の当初、安倍首相は国会で問題の国有地について「ごみを撤去することを前提に(8億円あまりを値引きして)1億3400万円で売却した」と答弁している。実際にはごみは撤去されていないのだから現実との間に重大な齟齬がある。
・あの土地にごみがあるというが、工事の妨げになるようなごみがなければ値引きの理由にはならない。実際にはごみは撤去されていない。
・「土地の瑕疵(欠陥)を見つけて価値を下げていきたい(値下げしたい)」などと、財務局側が値引きが背任にあたるという認識を持っていたことを示す証拠がある。
特捜部の蜂須賀検事は申し入れに対し、次のように答えたという。
・検察審査会の議決が出たことは重々承知しています。議決書を踏まえて適正かつ慎重に再捜査します。
・ご指摘の点はご要望として受けとめました。ここで我々がどうかはお答えすることができません。
ほぼこの答えを繰り返すだけだった。申し入れの参加者は、検察がひたすら慎重な姿勢に終始し、揚げ足をとられないようにしていると感じた。
国家公務員がなぜこれほどの不正行為に及んだのか? 政権や政治家に忖度したのか? 政権側の関与はないのか?小学校の名誉校長を務めていた安倍昭恵首相夫人の存在はどのように影響したのか?
すべては当事者を起訴しなければ法廷で明らかにされない。そして起訴されるかどうかは、国民世論が高まるかどうか、国民1人1人の声が大阪地検に届くかどうかにかかっている。森友事件を追及してきた阪口徳雄弁護士は、そう考えている。
共同通信配信
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/418296
「関西NEWS WEB」(動画付き)
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190510/0015393.html
相澤冬樹さん記事
https://news.yahoo.co.jp/byline/aizawafuyuki/20190510-00125569
森友問題を「再捜査し起訴を」不起訴不当で弁護士ら要望
https://www.asahi.com/articles/ASM5B4RKKM5BPTIL00Z.html
なお、醍醐さんらが提出した、申し入れ書は以下のとおり。
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?2019年5月10日
大阪地方検察庁特捜部 御中
申 入 書
大阪第一検察審査会の議決を真摯に受け止め、背任の嫌疑について厳正な再捜査のうえ、起訴処分を求める
平成30年大阪第一検察審査会審査事件(申立)第13号
審査申立人 醍醐 聰 他18名
申立人ら代理人弁 護 士 澤 藤 統一郎
同 佐 藤 真 理
同 杉 浦 ひとみ
同 ?澤 藤 大 河
被疑者 池田 靖(近畿財務局管財部統括国有財産管理官・当時)
私たちは本年4月1日、貴庁に対し、「大阪第一検察審査会の議決を真摯に受け止め、真相解明のために厳正な再捜査と起訴処分を要望します」と題した申入書を提出しました。
貴庁特捜部が、森友学園への国有地売却に係る背任の嫌疑につき、大阪第一検察審査会(以下、「大阪検審」)が示した不起訴不当の議決を受けて再捜査をされるにあたり、改めて申入れをいたします。
1. 本件土地には値引きで補償すべき法的意味での瑕疵は実在しなかったこと、その事実を被疑者は十分認識していたことを徹底究明されるよう求める。
貴庁は、本件土地売買契約書に、買主が今後、損害賠償請求をできなくする特約が盛り込まれたことを理由に挙げて、被疑者には違法な値引きをした背任があったとはいえないとして、被疑者を不起訴処分としました。
しかし、大阪検審議決は、問題にされた地下埋設物撤去費用試算にあたって、検察官が小学校校舎建設を前提とする検証をしていないことを指摘し、今後、客観性のある捜査を尽くすべきだとしています。この指摘は、当然に当該地下埋設物は校舎建設にあたって、撤去を必要とするようなものではなかったこともありうることを示唆しています。国交省航空局長も国会で同様の答弁をしています。
また、大阪検審は森友学園の代理人弁護士も、被疑者ら自身も、かりに森友学園が国を相手に損害賠償の訴訟を起こしても訴えが認められる可能性は極めて低いことを認識していたと指摘しています。
私たちも過去の類似の事案の判例等をもとに、本件土地には、法的な意味で損害賠償を必要とするような瑕疵(それを撤去しなければ土地を目的の用に供せないような地下埋設物)はなかったこと立証する資料を提出しました。
再捜査にあたっては、これらを証拠資料として、本件土地には瑕疵にあたるものは実在しなかったこと、被疑者らはその事実を十分、認識していたことを明らかにされるよう、強く求めます。
2.限りなく起訴相当に近い大阪検審の議決の重みを真摯に受け止め、公判で事の真相を明らかにする徹底した審理が行われ、公正で社会的正義を踏まえた判決に道を開くよう、起訴処分を求める。
大阪検審の議決要旨は随所で、具体的な事実を上げながら、貴庁の不起訴処分に強い疑問を投げかけています。そして結びでは、本件背任の嫌疑について公判の場で真実を明らかにする意義がきわめて大きいと指摘しています。長期にわたる審査を経て大阪検審が示したこのような指摘は極めて重いものです。
また、本件は、国会審議の報道などを通じて社会的にも大きな関心を集め、各種世論調査において、政府や財務省当局の説明に納得できないと答える人々は一貫して7割を超えています。
貴庁におかれましては、こうした世論を納得させるためにも厳正な再捜査を尽くされるよう要望します。そのうえで、公判で事の真相を明らかにする審理が行われ、公正な判決に道を開くよう、起訴処分を求めます。
さらに私たちは、被疑者に係る背任の捜査を端緒として、被疑者らに背任の罪を負わせるような力がどこから、どのように働いたのか等についても毅然と解明され、社会正義にかなった判断を示されるよう、強く要望するものです。
以上
(2019年5月11日)
衆議院は,昨日(5月9日)午後の本会議で、天皇の即位に祝意を示す「賀詞」を全会一致で議決した。共産党も出席して賛成した。残念でならない。
共同配信は「平成の際の賀詞は昭和天皇逝去に伴う1989年1月の皇位継承時ではなく、90年11月に行われた『即位礼正殿の儀』に合わせて議決した。当時、天皇制廃止を掲げていた共産党は反対した」とし、産経は「平成の御代替わりの際の賀詞に反対した共産党も、今回は賛成した」と書いている。
その「賀詞」なるものの全文は次の通り。
「天皇陛下におかせられましては、この度、風薫るよき日に、ご即位になりましたことは、まことに慶賀に堪えないところであります。
天皇皇后両陛下のいよいよのご清祥と、令和の御代の末永き弥栄をお祈り申し上げます。
ここに衆議院は、国民を代表して、謹んで慶祝の意を表します。」
「陛下」「おかせられましては」「風薫るよき日」「ご即位」「慶賀に堪えない」「天皇皇后両陛下」「ご清祥」「令和の御代」「末永き弥栄」「お祈り申し上げます」「国民を代表して」「謹んで慶祝の意を表します」。一言々々が、耳にざらつく。天皇制に阿諛追従のこんな決議が議院の全会一致で成立とは、これは悪夢だ。一人の議員の反対もないのか。嗚呼、共産党までが…。
戦前の大政翼賛下の議会を彷彿とさせる。同時に、9・11直後に、たった一人反対票を貫いた米下院のバーバラ・リー議員を思い起こさせる。
2001年9月14日、9・11同時多発テロ事件3日後のこと。米連邦議会の上下院は、ブッシュ大統領に対しテロへの報復戦争について全面的な権限を与える決議を成立させた。これに対し、上下両院を通じてただ一人これに反対票を投じたのが、カリフォルニア選出のバーバラ・リー(Barbara Lee)民主党下院議員だった。私は、この一票を、議会制民主主義に生命を吹き込んだものとして高く評価する。
その「ただ一人反対を貫いた下院議員」の議会での発言の一節がこうであったという。
私は確信しています。軍事行動でアメリカに対する更なる国際的なテロを防ぐことは決して出来ないことを。この軍事力行使決議は採択されることになるでしょう。(それでも、)…誰かが抑制を利かせなければならないのです。誰かが、しばし落ち着いて我々が取ろうとしている行動の意味をじっくり考えなければならないのです。皆さん、この決議の結果をもっと良く考えて見ませんか?
昨日の衆院では、非力でも、孤立してでも、誰かがこう言わなければならなかった。
私は確信しています。天皇制を賛美することが、国民主権や民主主義と相容れないものであることを。この賀詞決議は多数決で採択されることになるでしょう。それでも誰かが、抑制を利かせなければならないのです。誰かが、しばし落ち着いて、新天皇の即位に祝意を述べるという議会決議の意味をじっくり考えなければならないのです。皆さん、過熱している新元号制定や新天皇即位の祝賀ムードが、国民の主権者意識とどう関わるものなのか、もっと深くよく考えて見ませんか?
現実には、こう発言する議員も政党もなく、あたかも国民は、新天皇即位に祝賀一色のごとく後世に記録されたことを残念に思う。
本日(5月10日)の赤旗が、党委員長の記者会見記事を掲載している。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-05-10/2019051002_04_1.html
以下に、志位委員長発言のポイントを抜粋して、これにコメントしておきたい。
志位 天皇の制度というのは憲法上の制度です。この制度に基づいて新しい方が天皇に即位したのですから、祝意を示すことは当然だと考えています。私も談話で祝意を述べました。国会としても祝意を示すことは当然だと考えます。
いつもの理路整然たる共産党の発言とは思えない、驚くべき非論理ではないか。「われわれは現行憲法を尊重する立場であり、天皇が憲法上の制度である以上、新天皇即位を妨害しない」なら、論理として分かる。しかし、「祝意を示すことは当然」とは論理的にあり得ない。
内閣総理大臣は憲法上の制度ではあるが、安倍首相就任に祝意は当然だろうか。最高裁長官や下級審裁判官についてはどうだろうか。これに、いちいち「国会としても祝意を示すことは当然」はなりたちえない。
「現行憲法を丸ごと擁護する立場から、憲法上の制度とされている天皇を認める」としても、その天皇の役割を制約し存在感を極小化しようとする立場に立つのと、天皇の役割の拡大を容認する立場に立つことの間には、天と地ほどの差異がある。政党は、とりわけ共産党は、自らの立場を明確にしなければならない。
志位 ただ、(賀詞の)文言のなかで、「令和の御代」という言葉が使われています。「御代」には「天皇の治世」という意味もありますから、日本国憲法の国民主権の原則になじまないという態度を、(賀詞)起草委員会でわが党として表明しました。
そのことは知らなかったが、共産党も、少なくとも賀詞の文言の問題点は認識していたわけだ。それならば、「『令和の御代』との文言を削除しない限り、日本国憲法の国民主権の原則になじまないのだから、わが党としては反対」という選択はありえたのだ。文言をそのままで、賛成をしてしまったのは、どうしたことか。
志位 (前天皇の即位の賀詞に反対した)当時の党綱領は「君主制の廃止」を掲げていました。その規定は2004年の綱領改定のさいに変えたわけです。改定した綱領では、天皇条項も含めて現行憲法のすべての条項を順守する立場を綱領に明記し、「君主制の廃止」という規定は削除しました。そういう綱領の改定に伴って、こういう態度を取ったということです。
「現憲法下で、憲法のすべての条項を順守する立場」と、「新天皇即位への賀詞決議に賛成」という態度とは、必ずしも結びつかない。むしろ、「現行憲法を順守する立場」は、国民主権や人権という憲法体系の基軸部分と、天皇制という周辺部分とに、ことの軽重のメリハリをつけてしかるべきではないのか。新天皇の賀詞決議に反対したところで、新綱領違反になるわけはない。
志位 私たちの綱領では、将来の問題として、日本共産党としては、天皇の制度は「民主主義および人間の平等の原則と両立するものではない」として、「民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ」と明記しています。同時に、天皇の制度は憲法上の制度ですから、その「存廃」は「将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきもの」だということを綱領では書いています。
全体の論理は分からないではない。しかし、「その『存廃』は『将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきもの』」というのは、「前衛」を自負する共産党の姿勢として、あまりに第三者的・傍観者的なものの言い方ではないか。社会を、歴史の発展の方向にリードしていこうという主体性に欠けることにはならないか。
志位 そして同時に、憲法上の制度である以上、「その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべき」だと述べているわけですから、綱領のこの規定は、「私たちの立場はこうです」――つまり将来的にこの制度の存廃が問題になったときには、そういう立場に立ちますと表明していますが、同時に、わが党として、この問題で、たとえば運動を起こしたりするというものではないということです。
えっ? これは一大事だ。「共産党として、天皇制廃止問題で運動を起こしたりはしない」というのだ。天皇制に関連する、元号使用反対運動、「日の丸・君が代」反対運動、紀元節復活反対などなどはどうなるのだろう。まさか、こうした運動のすべてが、「将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべき」というわけではあるまい。
あらためて思う。天皇とは、まぎれもなく日本社会の旧態依然たる保守勢力の社会意識に支えられた「権威」である。その対極の進歩の陣営における「権威」が永く共産党であった。共産党の権威は、果敢に天皇制の権力と権威に対峙して闘ったことによって勝ち得たものである。天皇制と闘わない共産党は、自ら権威を捨て去ることにならないか。残念でならない。
天皇制と闘わない共産党とは、形容矛盾に見える。大衆運動をリードしようとしない「前衛」も同様である。泉下の多喜二が嘆いている。そしてこう呟いているのではないか。「天皇制とは、時の権力に使い勝手よく利用されるところに危険性の本質がある。いつの時代も甘く見てはならない」と。
(2019年5月10日)
早朝不忍池の周りを散策。花の季節は去って、遅く開花したダイゴジジュズカケサクラも散りおわった。ハスの浮葉が水面をおおって、既に緑濃い初夏の風景である。インバウンドの人影も少なく、穏やかな連休明け。今月(19年5月)はじめて、五條神社に足を運んだ。
今、境内に見るべき花はない。見たいものは、二つ。その一つは、善男善女が奉納の絵馬。マジックで、健康と病気回復、手術成功などの切実な願文が認めてある。関心は、その年月日の表記。実は、元号が圧倒ということではなく、西暦表記が意外に多いのだ。平成はあったが、令和は目につかなかった。これは面白い。
そしてもう一つ、見たいものは、社頭に月替わりで掲示される「生命の言葉」。実は、東京都神社庁が作成して配布し、傘下の各神社が掲示しているもの。 天皇代替わりの今月はどんな言葉かと、興味津々だった。普通は三十一文字で、代替わりにふさわしいものとして、どの天皇の歌を引いてくるのだろうかと思いきや、歌ではなかった。掲示されていたのは、次の4文字。
天 壌 無 窮
敗戦までは、教育勅語の一節にあったから、全小学生が暗記しなければならなかった言葉。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という一節の中の4文字。
「天壤無窮」は、音で読めば「テンジョウムキュウ」だが、訓で読み下せば「あめつちとともにきわまりなかるべし」と読むのだろう。要するに、天と地とが永遠であるごとく、天皇の治世にも終焉はない、ということ。もう少し付け加えれば、祖先神アマテラスの子孫であり、自らも神であるという神聖天皇の治世の永遠性のことである。
これは、天孫降臨の神話に由来している。天孫とはニニギノミコトのこと。女性神アマテラスの孫である。日本書紀には、アマテラスが、ニニギに語ったという、次の一節がある。
「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、これ吾が子孫(うみのこ)の王たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫(すめみま)就(ゆ)いて治(しら)せ。さきくませ。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、まさに天壌(あめつち)と窮(きわま)り無けむ」
分かり易く、意訳すれば、こんなところか。
「ほら、あそこに見える日本という国はね、神様である私の子孫が王となるよう決められたところなの。さあ、私の孫よ。あんたが行って治めるのよ。うまくやってね。私の家系が栄え続けることはね、天地がある限りずっとずっと永遠なの。」
もちろんこれは、たわいもない神話である。どこの世界、どこの民族にも、神を起源とすることで自らを権威付けようと神話を作りあげた一族がいる。他方に、この一族と闘い、あるいは抗って破れた対抗勢力も存在するのだ。
「あの国はお前のものだから、さあ行って切り従えて治めなさい」とは、何とムチャクチャな神さま。天皇一族だけに好都合なこんな荒唐無稽な作り話が史実であるはずもなく、権威や権力の正統性の根拠として語り継がれることは、嗤うべき後進性というほかはない。嗤われているのは、われわれ日本人と知らねばならない。
この天孫降臨の際にアマテラスからニニギに皇位の印として与えられたものが、三種の神器だという。いまだに、剣爾等承継の儀として、神器の承継にこだわる皇室の権威なるものの滑稽さは如何ともしがたい。さらに滑稽なのが、恭しくもったいぶってこれを伝えるマスメディアの醜態。
日本国憲法は、神権天皇制を否定した。天皇は象徴として残したがこれを再び神としてはならないという趣旨で厳格な政教分離の規定を設けた。果たして、宝祚(あまつひつぎ⇒皇位)は、今なお「天壌無窮」なのだろうか。
2019年5月、新天皇即位の月の「命の言葉」は、今なお皇位の承継は「天壌無窮」であるぞ、という宣言なのだろうか。あるいは、憲法や政教分離やらの制約を取り払って、戦前の「天壌無窮」を取り戻したいという願望の表明なのだろうか。
「そんなもの見て、そんなことを考えているのは、あなただけですよ」と、神社のハトが、クククと笑った。そして、こう付け加えた。「実はね、天皇だけでなく、ハトだってカラスだって万世一系で天壌無窮なんですよ」。
(2019年5月9日)
令和という字は「命令に和せよ」と書くのね
「お上に従順に」という嫌みな言葉ね
それが、今風の生き方かも知れないけれど
とても使う気持ちにはなれないから
熨斗を付けてお返しするわ
サヨナラ 令和
令和という字は「冷和」に似てるわ
冷たい日本ということなのね
「冷倭」ともよく似ているね
冷酷な日本人ということなのかもね
弱者に冷たい時代を受け入れたくはないから
熨斗を付けてお返しするわ
サヨナラ 令和
令和の由来は文選の「歸田賦」だそうね
「歸田」は腐敗した宮仕えに嫌気の詩なのよね
令和の令には、「へ」と「マ」が読めるけど
こんな元号選定は政権のヘマじゃないかしら
忖度政治にはもうウンザリだから
熨斗を付けてお返しするわ
サヨナラ 令和? 永遠に
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「元号さよなら声明」への賛同署名運動を展開中。ご協力を。
署名は、下記のURLから。
http://chng.it/7DNFn7sCfz
目標は10000人。是非とも、拡散のご協力をお願いいたします。
「元号さよなら声明」
もう使わない、使わされない!
元号の強制、元号への誘導、押し付けはごめんです。
また元号が変えられました。私たちは、一生の間にいったいいくつの元号を使わされるのでしょうか?
いま多くの人が元号はもう使いたくないと感じています。グローバル化が進んだ今日、日本国内にしか通用せず、また国内でも複数の年の間の年数をかぞえるにも元号は実に不便です。
日本の手帳には年齢早見表がついています。いくつもの元号にまたがって年数を数えるのは厄介だからです。グローバル化の時代に日本でしか通用しない元号は不便です。
それだけではありません。公的機関が元号だけを使っているため、改元の度に必要となる情報システムの改修には莫大な費用がかかり、IT社会は絶えずこのシステムの不安定性に振り回されます。
元号を使うことは義務ではありません。しかし現実には、それが当然であるかのように元号を使うことを求められたりします。
元号を使いたくない人、元号を知らない人に元号を使うよう「協力を求め」たり、無理強いをしないでください。また、誰もが使ったり見たりする公的な文書や手続き書類は、元号を使いたくない人でも困らない、元号を知らない人でも分かるものにして下さい。
私たちは元号を使いたい人が元号を使うことを妨げようとしているのではありません。ただ私たちは、次の三つのことを求めたいのです。
1.届出や申し込みの用紙、Web上のページなどにおける年の記載は、利用者が元号を用いなくても済むものとし、また利用者に元号への書き直しを求めないこと。
2.公の機関が発する一切の公文書、公示における年の記載は、元号を知らない者・使わない者にも理解できる表示とすること。
3.不特定多数を対象とする商品における年の記載は、元号を知らない者・使わない者にも理解できる表示とすること。
* 上記の1・2は、衆参両院議長、内閣府、最高裁判所事務総局、地方自治体に要請します。また同じく3は、元号表示しかしていない金融機関や企業などに対して、各地の賛同者の皆さんと共に要請します。
(2019年5月8日)
5月3日、有明での憲法集会の中央ステージで、東京朝鮮中高級学校合唱部の皆さんが、胸に響く訴えをされ、美しい歌声を聞かせてくれた。
集会後、その生徒たちがコーラスのCDを販売していた。そのうちのお一人にサインをしてもらって、1枚買った。「東京朝鮮中高級学校合唱部『ウリハッキョ ? 私たちの学校、私たちのふるさと』」というタイトル。2018年12月の収録で、1800円。これが素晴らしい。1枚といわず、もっと買っておけばよかった。
「私たちは朝鮮高校にも無償化が適用されるよう、運動を行っています。このCDの売上の一部がその運動資金に充てられます。」という訴えに応えるというだけでなく、「どこまでも澄んだ泉のような美しい歌声、心洗われるハーモニー」という惹句が、そのとおりなのだ。人にも薦めたくなる。
これまでは起床して朝食までの毎朝のBGMは、古きよき時代のアメリカンポップスだった。いま、「ウリハッキョ」がこれに代わった。「米」から「朝」にである。しばらくは、毎朝これを聞き続けることになる。
収録されているのは、下記の10曲。
このうち、「4. 声よ集まれ、歌となれ」「5. アリラン?赤とんぼ」「8. 花」の3曲が、日本語の歌詞で唱われ、その他は朝鮮語で意味は分からない。訳詞を読みながら聞いている。
1. 故郷の春
2. 私の故郷
3. 子どもたちよ、これがウリハッキョだ
4. 声よ集まれ、歌となれ
5. アリラン?赤とんぼ
6. 月夜の星芒
7. アリラン
8. 花
9. あじさい
10. 私たちのふるさと ? ウリハッキョ
題名からも分かるとおり、「故郷」の歌が多い。唱われているのは、しみじみと懐かしい故郷。遠い異国で懐かしむ故郷は、美しい自然の調和に恵まれ、豊かさをもたらす労働の喜びと自由に溢れた平和な里である。隣国からの侵略もなく、南北の分断も克服された、理想郷として追い求める彼らの故郷。それは同時に、人類共通の願いでもある。
なお、東京朝鮮中高級学校のホームページの閲覧をお勧めしたい。そこでの彼らの祖国の旗は、南北統一旗となっている。いうまでもなく、その南北分断には日本が大きな責任があるのだ。
http://www.t-korean.ed.jp/
このアルバムのほとんどが、しみじみとした、あるいはやるせない曲調である中で、日本語で唱われる「4. 声よ集まれ、歌となれ」だけが異色。労働歌の趣き。運動の歌、闘いの歌なのだ。「いますぐその足をどけてくれ。4・24(サ・イサ)の怒りがよみがえる。踏まれてもくりかえし立ち上がる」という歌詞の生々しさに、ギョッとさせられる。もしかして、私も足を履んでいる側にいるのではないだろうか。
声よ集まれ、歌となれ
どれだけ叫べばいいのだろう
奪われ続けた声がある
聞こえるかい? 聞いているかい?
怒りが今また声となる
声よ集まれ 歌となれ
声を合わせよう ともに歌おう
聞こえないふりに傷ついて
?かすれる叫びはあてどなく
?それでも誰かと歌いたいんだ
一人の声では届かない(だから)
ふるえる声でも 歌となる
声を合わせよう ともに歌おう
ただ当たり前に生きたいんだ
ただ当たり前を歌いたいんだ
いますぐその足をどけてくれ
4・24(サ・イサ)の怒りがよみがえる
踏まれてもくりかえし立ち上がる
君といっしょならたたかえる
声よ歌となれ 響きわたれ
声を合わせよう ともに歌おう
この歌詞の中に出て来る「4・24(サ・イサ)の怒り」とは、次のできごとを指す。
「連合軍総司令部(GHQ)の指示により、文部省(当時)は1948年1月24日、各都道府県宛に『朝鮮人設立学校の取り扱いに関する文部省学校教育局長通ちょう』(第1次閉鎖令)を通達。従わない場合は学校を閉鎖するよう指示した。
同胞らは各地で抗議活動を広げ、48年4月24日、兵庫では県知事に閉鎖令を撤回させた。
しかしその夜、GHQが『非常事態宣言』を発令し、いわゆる『朝鮮人狩り』が始まった。大阪の同胞たちは26日、府庁前で3?4万人規模の集会を行い、朝鮮人弾圧と閉鎖令の撤回を訴えた。大阪市警は放水・暴行で取り締まり、射撃まで行った。大勢の同胞らが不正に検挙されただけでなく、警察が発砲した銃弾によって、当時16歳の金太一少年が犠牲となった。
民族教育を守るための同胞たちの闘いは、閉鎖令の撤回を勝ち取った4月24日の兵庫での闘いに象徴的な意味を込め『4・24教育闘争』と呼ばれるようになった」(「朝鮮新報」〈在日本朝鮮人総聯合会機関紙〉記事)
以上は、ブログ「アリの一言」(鬼原悟さん)からの引用だが、同ブログは「GHQ(実質はアメリカ)と日本による暴力的な民族(教育)弾圧に対する朝鮮人の闘いの象徴が『4・24教育闘争』です。それは日本人にとって、戦後の朝鮮人差別・弾圧の象徴的な加害の歴史なのです。しかも、決して70年前の「過去のこと」ではありません。文字通り今日的な問題です。」と続けている。まったくそのとおりなのだ。
「4・24(サ・イサ)の怒りがよみがえる」という、「声よ集まれ、歌となれ」は、2013年に朝鮮大学校生によってつくられ、朝鮮高校への「無償化」適用を訴える文科省前「金曜行動」のテーマソングとなっているという。文字通り、闘いの歌として生まれ、闘いの中で唱い継がれている。私も、毎朝これを聞いて、思いを重ねることにしよう。
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(2019年5月7日)
5月3日の東京新聞22面(第2社会面)に、こんな見出しの記事が掲載されていた。
「美智子様の言葉」「『憲法のはなし』毎年家族で熟読」「復刻本発行者・田中さんが感銘」
「美智子様」とは生前退位した前天皇の妻(旧姓・正田)のこと。「憲法のはなし」とは、文部省が日本国憲法施行間もなくの時期に、新制中学校1年生用社会科の教科書として発行された新憲法の解説書。正確には「あたらしい憲法のはなし」である。1947年8月2日文部省検査済とされている。「田中さん」とは、政府に不都合として絶版とされたこの教科書を復刻した出版社「童話屋」の創業者とのこと。
その復刻版『あたらしい憲法のはなし』を、前天皇の一家が毎年憲法記念日には、家族で熟読していたというのだ。これも、「国民とともに憲法を守る」姿勢を見せた、前天皇にまつわるあたらしい神話の一つ。
前天皇の家族が熟読という、その「家族」の範囲はよく分からない。もちろん、、「熟読」の程度も不明だが、この「教科書」をどう読んで、どう理解していたのか、聞いてみたいところではある。
これまで、当ブログでは「あたらしい憲法のはなし」の各章を取りあげて論じてきた。戦力不保持の決意など評価すべき点がないわけではない。しかし、今どき、こんなものを有り難がってはならない。この「憲法のはなし」には、国民と国家、人権と権力の緊張関係が描かれていない。つまりは、立憲主義という憲法の基本構造の解説が抜け落ちているのだ。解説が抜け落ちているというよりは、個人主義・自由主義という近代憲法の根本理念に対する理解がない。
つい、この間まで神とされた天皇の権威と権力が、国民の思想や信仰や政治活動に、あれ程の弾圧の猛威を振るったことへ反省の言葉が一つとしてない。侵略戦争や植民地支配の加害責任を語って、再び同じ過ちを繰り返さないことを宣言したはずの憲法制定の趣旨が語られていない。
特に、「五 天皇陛下」の叙述があまりにもひどい。
冒頭、「こんどの戦争で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。」という一文で始まる。最後が、「ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、国を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が、天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。」と締めくくられている。分かるはずはない。この文章の起案者自身が、天皇制の呪縛から逃れ得ていないこと、象徴天皇とは何かについて何も分かっていないことが、よく表れている。
この書は、戦後民主主義の不徹底の墓碑銘として、読まねばならない。国民が天皇の政治責任・戦争責任を追及し得なかったことの慚愧の証言でもある。マッカーサーの、占領政策に天皇の権威を利用しようとした意図そのままの憲法解釈なのだ。
しかし、いつからのことかは分からないが、次代の天皇の家族が、この書物を読みながら、象徴天皇のありかたを考えていたとすれば、示唆的ではある。
この短い文書の中に、まとまりなく論理のつながらない、こんな文章がある。
「つまり天皇陛下は、一つにまとまった日本国民の象徴でいらっしゃいます。これは、私たち日本国民ぜんたいの中心としておいでになるお方ということなのです。それで天皇陛下は、国民ぜんたいをあらわされるのです。」「天皇陛下は、けっして神様ではありません。国民と同じような人間でいらっしゃいます。ラジオのほうそうもなさいました。小さな町のすみにもおいでになりました。」
こんな文章を「熟読」して、前天皇は、「象徴としての勤めとは、小さな町のすみにも行って、国民と接することだ」と思い立ったのだろうか。また、この文章に決定的に欠けているものは、過去の天皇制が果たした対内的な弾圧体制への反省であり、侵略戦争や植民地支配の天皇の加害責任である。結局のところは、この熟読した書物に書かれていなかったことには、思い及ばなかったということであろうか。
なお、当ブログでの、「あたらしい憲法のはなし」についてのコメントは、以下のとおりである。
「あたらしい憲法のはなし 『天皇陛下』を読む」
https://article9.jp/wordpress/?p=11417
「『新しい憲法のはなし』のはなし」
https://article9.jp/wordpress/?p=11686
「あたらしい憲法のはなし 『戰爭の放棄』を読む」
https://article9.jp/wordpress/?p=11701
「あたらしい憲法のはなし 『主権在民主義』を読む」
https://article9.jp/wordpress/?p=11779
「あたらしい憲法のはなし 第7章 基本的人権」を読む。
https://article9.jp/wordpress/?p=12292
(2019年5月6日)
江東区・夢の島の第五福竜丸展示館は、9か月にわたる改修工事を終えて、4月2日にリニューアルオープンした。核の脅威を語る生き証人であるこの船体を、まずは保存すること、そして多くの人に見てもらい、核なき未来をつくる運動の拠点とすること。それが、展示館の使命である。この展示館は都立であって、核廃絶を願う都民の願いと運動が、この船体の保存と展示の施設をつくり、維持してきた。
都から委託を受けて、保存と展示の業務を担当しているのは、公益財団法人第五福竜丸平和協会である。ぜひ、下記のURLにアクセスして、協会のホームページをご覧いただきたい。
http://d5f.org/event.html
改修工事期間中の9か月の休館は長かった。しかし、リニューアルして、展示館は、明るくもなったし、床の不陸もなくきれいになった。雨漏りもなくなったという。映像機器を使っての展示内容も格段に充実した。ボランティアガイドの皆さんも、張り切っておられる。ぜひとも、再度展示館を訪れていただきたい。そして、第五福竜丸の「核なき未来への航海」に伴走をお願いしたい。
館の展示内容は随時変る。それぞれの時期にふさわしい企画展が行われる。
現在は、「リニューアルオープン記念特別展」(2019年4月28日?6月16日)として、《第五福竜丸の航海を支える展示館大規模改修をたどる》展示をしている。改修の内容や規模については、館は、次のように説明している。
東京都のゴミ捨て場・夢の島に打ち捨てられた第五福竜丸が市民の手によって保存されてから43年。第五福竜丸展示館は、平和な海へ航海を続ける第五福竜丸のシェルターとして、この貴重な船を守ってきました。しかし、老朽化に伴い天井からの雨漏りや埋立地ゆえの地盤沈下など、各所に痛みが生じていました。これまでも度々補修をくり返してきましたが、今回の改修工事は開館以来最長の9カ月間にわたる大がかりなものとなりました。
建物は曲面で構成される特殊な形状(シェル構造)で、内部には動かすことのできない木造船。この難工事をどうすれば完遂することができるのか、工事関係者の知恵と工夫が生かされました。
本日(5月5日)は、オープニングイベントとして、「船首下スペースで、改修工事に携わった方から、展示館改修の知恵や工夫をお話しいただきます。」という集会企画。第五福竜丸展示館の設計者、工事の設計監理者、監理技術者、都の担当者などから解説を受けた。説明を聞いて、なるほど、この急勾配の巨大な屋根の補修が大工事で難工事であることがよく分かった。
あらためて、第五福竜丸展示館の何たるかを確認しておこう。
この展示館には、木造のマグロ漁船「第五福竜丸」およびその付属品や関係資料を展示しています。「第五福竜丸」は、1954年3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被害を受けました。
木造漁船での近海漁業は現在も行われていますが、当時はこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行ったのです。
「第五福竜丸」は、1947年に和歌山県で建造され、初めはカツオ漁船として活躍し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に出ていました。水爆実験での被爆後は、練習船に改造されて東京水産大学で使われていましたが、1967年に廃船になったものです。
東京都は、遠洋漁業に出ていた木造漁船を実物によって知っていただくとともに、原水爆による惨事がふたたび起こらないようにという願いをこめて、この展示館を建設しました。 <東京都 1976年6月10日開館>
原水爆は、人類を絶滅させるに足りる脅威である。愚かな人間たちは、こんな危険なものを作り出し、現在なお1万5000発もの核爆弾を保有している。人類は、この脅威の上に危うく生存しているのだ。第五福竜丸とともに、核のない、そして戦争のない、平和な世界をつくりたいものと思う。そのためにも、折あるごとに第五福竜丸展示館を訪れていただきたい。
アクセス
東京都江東区夢の島2-1-1、夢の島公園内
TEL: 03-3521-8494
東京メトロ有楽町線、JR京葉線、りんかい線、『新木場駅』下車、徒歩10分
都営バス「夢の島」バス停下車、徒歩5分
入場は無料である。修学旅行や学校行事など、団体の見学を歓迎している。問合せをお願いしたい。
http://d5f.org/dantai.html
なお、できることなら、あなたも第五福竜丸平和協会の賛助会員になって、常に枯渇している運動の財政を支えていただきたい。
第五福竜丸平和協会では、第五福竜丸の維持管理と財団の活動を支える賛助会員を募集しています。
皆様のご好意により第五福竜丸はこれからも航海を続けていくことができます。
ぜひとも寄附のご協力、会員としてご支援賜りますよう、よろしくお願いいたします。
会員としてのご支援
1.賛助会員
?第五福竜丸だよりはじめイベントのご案内などを差し上げます。(年会費:個人5千円、団体1万円)
2.ニュース(福竜丸だより)会員
?会員様のご自宅へ「福竜丸だより」(現在、隔月刊)をお送りいたしております。(年会費:個人2千円)
今回のみの支援
会員としてではなく寄附も受け付けております。ご支援いただけると幸いです。
?*賛助会費等も税制優遇措置の適用を受けます。
?*当法人は平成23年10月26日付で税額控除対象法人になりました。
[賛助会費及び寄附金?2,000円]×40%が所得税額から直接控除されます。
詳細は下記URLを。
http://d5f.org/contribute.html
(2019年5月5日)
このところの「天皇交代報道」の異常さに、半ばは呆れ、半ばは空恐ろしさを感じてきた。戦前、神権天皇制の煽動に、理性を失った民草たちが、あのようにいとも易々と操られたことが理解し難かった。しかし、今は実感としてよく分かる。この国の多くの人は、あの頃と変わってはいない。あの頃も今も、天皇の赤子たちは、自ら社会的同調圧力を作り出し、これに酔いしれたいのだ。
自立してものを考えることは、面倒だし苦しくもある。人と違う考えをもてば、孤立を余儀なくされるリスクも覚悟しなければならない。それよりは、社会の多数に追随することが、楽で、安全で、無難な生き方ではないか。メディアがそう教え煽っている。欺しの主犯は政権だが、メディアは欺しに加担した積極的共犯者となっており、さらにこれに追随する多くの人々が、消極的共犯者となっている。
私には本当に分からない。天皇の交代が、何ゆえに祝意を表さねばならないことなのか。税金を拠出して優雅な暮らしをさせてやっている一族に、国民がなぜ旗を振ったり「感謝」したりしているのか。天皇の交代が、何ゆえに時代の変わり目となるのか。こんな不便で面倒な元号の押しつけを、どうして有り難がっているのか。
昨日(5月3日)の憲法集会で、印象に残るこんな一場面があった。
野党各党の党首が発言した。それぞれに力のこもった良い発言だった。立憲民主党の枝野幸男さんがトップで、国民民主党の玉木雄一郎代表が続いた。登壇して、開口一番が、「令和初めての憲法記念日に…」というものだった。
とたんに、大会参加者から失笑が巻きおこった。「えっ?」「なんだって?」「れいわ?」「なぜ、れいわ?」「こんな場で、れいわ?」。明らかに、異様な言葉を聞かされたというどよめきと失笑だった。産経の報道では、「聴衆から『令和って言うな!』『そうだ!』『令和はいらねえぞ!』などと怒声が飛んだ」というが、私にはそこまでの声は聞き取れなかった。
私は、比較的ステージに近い位置にいた。聴衆の多くは、せっかく来てもらった野党党首に失礼あってはならないという雰囲気。あからさまに非難するという感じではなかった。しかし、「憲法集会で、令和」は、不意を突かれたような違和感。思いもかけない発言に、どよめきが生じ、失笑が洩れたのだ。
これも産経の報道によるが、玉木さんの挨拶の冒頭部分は、次のとおりだった。
「令和初めての憲法記念日に(聴衆から『令和って言うな!』などのやじ)こうして多くの皆さんがお集まりになって集会が開催されることを心からおよろこび申し上げたいと思います。安倍政権の最大の問題は何だと思いますか(聴衆から『令和だ』とやじ)。嘘をつくことだと思います。何度も予算委員会や国会で議論をしましたが、聞いたことに答えない、聞いていないことをいっぱいしゃべる。これではまともな議会制民主主義が成り立ちません」
玉木さんには気の毒だったが、あの集会参加者は、みな一様に「代替わり報道」に辟易しているのだ。憲法集会に令和は似合わない、不釣り合いだと思っている。玉木さんの「令和発言」で、集会参加者の一体感が明らかに増した。
有明の憲法集会に集まった人々と対極にあるのが、本日の「一般参賀」に列を作った14万の人々。いったい何のために、何を求めて、皇居にやってきたのか。
天皇の権威なんてものは、もともと何の実体もない。人々があると思う限りであるように見えるだけのもの。無自覚な14万の人々が作る列の長さだけが、天皇の権威なのだ。「王様は裸だ」と、曇りない目が看破すれば、たちまちにして破れる催眠術みたいなもの。
私は、この14万人に、半ばは呆れ、半ばは空恐ろしさを感じざるを得ない。この人たちが、天皇追随の同調圧力をつくるのだ。政権に躍らされ、その共犯者となる人々の群。
過熱報道も長くは続かない。あんなに、天皇交代フィーバーを演出してきたメディア各社もそろそろ息切れである。読者も明らかに食傷なのだ。いい加減に元に戻らねばならない。たとえば、本日の毎日新聞。紙面からは、天皇も令和も片隅に追いやられ、代わって社会面のトップは、「改元祝賀関係なし」「困窮者 おにぎりに列」という真っ当な報道。一面には、「削られる美ら海 辺野古」の記事も。
メディアで働く諸君に訴える。正気を取りもどせ。そして、もうこんなバカ騒ぎはやめようではないか。自立した主権者として、自覚的な曇りない目をもった人々も、少なくないのだから。
(2019年5月4日)
本日は、1947年5月3日に日本国憲法が施行されてから、72回目の憲法施行記念日。もとより、この憲法が理想の憲法というわけではない。一字一句、永遠に手を付けてはならないとする「不磨の大典」でもありえない。旧憲法の残滓を多分に引き継いで、改正を要する部分もあることは当然である。
しかし、72年前に実定憲法となった日本国憲法の主要部分は、人類の叡智の結実というべき近代憲法として、現代日本に有用で貴重なものと言わねばならない。憲法規範とは、社会の現実をリードすべきものであるのだから、社会が憲法に追いついていない以上、規範としての日本国憲法はその貴重な存在価値を失わないのだ。
憲法にはコアの部分の体系とは相容れない大きな例外領域を残している。それが象徴天皇制という憲法の飛び地とも、番外地とも、ブラックホールともいうべき制度。憲法本来の体系とはなじまないこの夾雑物を廃絶することは、真の意味での「憲法改正」である。
政治勢力を革新と保守に二分すれば、日本国憲法制定以来、革新の側は憲法を理想の方向に「改正」する力量を持ちえなかった。いま、天皇制廃絶の「改憲」を提起する実力をもっていない。将来の課題としておくほかはない実情なのだ。
さりとて、保守勢力による「憲法改悪」を許さないだけの力量は、革新が身につけてきたところである。現にこの72年間、保守ないし右翼勢力の改憲策動を封じて、日本国憲法は一字一句変えられていない。
革新陣営に憲法改正を実現する力量なく、さりとて保守勢力にも憲法改悪の実力を欠くことが、長く憲法を改正のないまま推移させてきた。
今また、憲法は、保守ないし右翼の側からの攻撃に曝されて試練の時にある。が、けっして改憲実現が容易な事態ではない。改憲を阻止し憲法を擁護しようという市民の力量には侮りがたいものがある。
本日、この憲法を擁護しようという護憲派の市民集会が、全国の各地でもたれた。東京有明では、その中央集会が開催され、盛会だった。
「2019 平和といのちと人権を! 5・3憲法集会 ?許すな!安倍改憲発議?」の会場は人の波で埋まった。天候にも恵まれ、主催者発表で6万5000人の大集会だった。
集会のスローガンは、以下のととおりである。
私たちは
安倍政権のもとでの9条改憲発議は許しません
日本国憲法を守り生かし、不戦と民主主義の心豊かな社会をめざします
二度と戦争の惨禍を繰り返さないという誓いを胸に、
「戦争法」の廃止を求めます
沖縄の民意を踏みにじる辺野古新基地建設の即時中止を求めます
被災者の思いに寄りそい、原発のない社会をめざします
人間の平等を基本に、貧困のない社会をめざします
人間の尊厳をかかげ、差別のない社会をめざします
思想信条の自由を侵し、監視社会を強化する「共謀罪」の廃止を求めます
これらを実現するために行動し、安倍政権の暴走にストップをかけます
メインステージでのスピーチは、耳を傾けるに値する気合いのはいったものだった。沖縄・原発・格差・貧困・教育・外国人・差別、そして選挙共闘が話題となった。中でも、永田浩三さんと本田由紀さんの発言は出色だった。東京朝鮮学校生徒の訴えとコーラスも胸に響くものだった。
永田浩三さんのやや長いスピーチを、産経が全文文字に起こしている。「こんな怪しからんことを言っている」という趣旨なのかも知れないが、文字で読み直すと、あらためて覚悟を決めた発言の迫力が伝わってくる。しかもその迫力を包み込んだユーモアが耳に心地よい。主要なところを抜粋して、紹介させていただく。これで、会場の雰囲気を感じていただきたい。
「皆さん、こんにちは。32年間、NHKでプロデューサー、ディレクターをしていました。今は大学の教員として若者とともにドキュメンタリーを作ったりしています。今日は、総理の仕事をしている安倍晋三君について話したいと思います。知らない人は、あの嘘つきといえば思い出されるかもしれません。
私と安倍君は同じ1954年生まれです。同じ学年には志位和夫君、前川喜平君、ドイツの首相、メルケルさんがいます。安倍君は福島原発事故の後、すぐに原発をやめると決めたメルケルさんとは相性が良くないみたいですし、加計学園の獣医学部を作るのが、いかに無理筋だったかを証拠立てて語る前川君が苦手なようです。あと志位和夫君も苦手みたいです。
私たち1954年生まれは、皆、戦後民主主義教育の申し子です。日本国憲法の3つの柱、『国民主権』『基本的人権の尊重』『平和主義』がどれほど大事なのか、小学校や中学校でしっかり学んだんです。先生たちも熱心でした。
?
小学校4年生のとき、東京五輪がありました。オリンピックは参加することにこそ意義がある。日の丸が上がるかどうかは関係ない。優れた競技やすごい記録に拍手を送るんだ。アベベ、チャフラフスカ、ショランダー…。柔道で神永昭夫がオランダのヘーシンクに負けたときも、ショックはなくて、ヘーシンクに私は拍手を送りました。『日本を、取り戻す。』『がんばれ! ニッポン!』。その旗を振る安倍君、少し了見が狭すぎませんか」
「大学を卒業し、安倍君はサラリーマンを経て、政治家になり、私はNHKのディレクターになりました。ある時、思いがけない接点ができました。2001年のことです。私は、日本軍の慰安婦として被害に遭った女性たちを扱ったNHKの番組の編集長でした。一方、その時、安倍君は内閣官房副長官。君は放送の直前にNHK幹部たちにちょっかいを出し、番組が劇的に変わってしまいました。永田町でどんなやりとりがあったのか。その後、朝日新聞の取材で輪郭が明らかになっています。私は抵抗しましたが、敗れました。体験したことを世の中に語ることができず、孤立し、長い間、沈黙を続けました。悔しく、また恥ずかしいことです。あのとき君はそれなりの権力者でした。放送前に番組を変えさせるなんて、憲法21条の言論の自由、検閲の禁止を犯すことになり、そのことが世の中にさらされれば、君は今のような総理大臣になっていなかったことでしょう」
「今、官邸記者会見で、東京新聞の望月衣塑子記者が菅(義偉)官房長官からさまざまな圧力を受け、質問が十分にできない中、それでも、われわれの知る権利の代行者であろうと必死で頑張っています。私には人ごととは思えません。でも、私と大きく違うのは、望月さん自身が勇気を出してSNSや集会で状況を発信し、市民とともに事態を共有することで、ジャーナリストを含めた連帯の輪が広がっていることです。市民とジャーナリストの連帯、メディアを市民の手に取り戻す。希望の光がわずかに見える思いです」
?「安倍君の話に戻ります。君が以前アメリカを訪問したとき、キャロルキングの『You’ve Got a Friend』という曲が好きだと言いましたね。『どんなに苦しいときでも友達でいようよ』。僕も大好きですし、その感覚はわかります。でも、残念だけど、君とトランプ米大統領は友達なんかじゃない。欠陥だらけの高額な兵器を買わされるカモにされているだけです。君には戦争の中で傷ついた人、声を上げられない弱い人を思いやる気持ちが欠けています。君の『You’ve Got a Friend』は友達にえこひいきをし、国の仕組みを私物化することです。それは友情ではない!」
「友情とはもっと気高く素晴らしいものです。君は実力以上に大事にされました。これ以上、何を望むことがあるでしょうか。同い年、同じ学年として忠告します。『これ以上、日本社会を壊すことはやめなさい! これ以上、沖縄をいじめるのはやめなさい! 大事な憲法をいじるのはやめておとなしく身を引きなさい!』
?「今日は5月3日、32年前、朝日新聞阪神支局で小尻知博記者が銃弾に倒れました。言論の自由が脅かされる社会なんてあってはなりません。ここにお集まりの皆さんが思っておられるのは多分、こうだと思います。リセットすべきなのは、元号ではなく、今の政権なのだと」「今の政権は嘘をつく、今の政権は嘘をついているのです。嘘にまみれた安倍政権こそ終わりにすべきです。心あるジャーナリストとの連帯で、安倍政権を今年中に終わりにさせましょう。ありがとうございました」
(2019年5月3日)
天皇の地位は、「主権の存する国民の総意に基づく」とされる。国民は、天皇の在り方について、忌憚なく意見を言わねばならない。国民一人ひとりの意見なくして、主権者国民の「総意」は見えてこないのだから。
また、天皇は、憲法99条において主権者国民から憲法尊重擁護義務を課せられる公務員の筆頭に位置する。天皇とは公務員職の一つであって、その任にある者が全国民の奉仕者であることに疑問の余地はない。主権者国民が、国民に奉仕すべき立場にある天皇の職務の内容や、仕事ぶりに関して意見を述べることに、いささかの躊躇があってもならない。新天皇就任の最初の公的な発言に、忌憚のない意見が巻きおこってしかるべきである。私も、主権者の一人として、意見を述べておきたい。
昨日(5月1日)新天皇が就任した。その最初の行事は「天皇の憲法遵守宣誓式」であるべきに、なんと「即位後朝見の儀」なる行事が行われた。国民主権の今の世に、臣民を見下した「朝見の儀」が真面目に執り行われていることに一驚を禁じえない。これが、けっして学芸会の余興ではなく、国費を投じた国事行為なのだ。
新天皇(徳仁)は、この行事で次のように発言したという(宮内庁ホームページから引用)。
「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより,ここに皇位を継承しました。この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
顧みれば,上皇陛下には御即位より,三十年以上の長きにわたり,世界の平和と国民の幸せを願われ,いかなる時も国民と苦楽を共にされながら,その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ,一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
ここに,皇位を継承するに当たり,上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し,また,歴代の天皇のなさりようを心にとどめ,自己の研鑽さんに励むとともに,常に国民を思い,国民に寄り添いながら,憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い,国民の幸せと国の一層の発展,そして世界の平和を切に希望します。」
この方59歳だというが、この発言の文章は極めて幼い印象。社会経験ない故か、社会常識を弁えた内容になっていない。自分の父母に敬語を使い、身内の業績を褒め称えるのは見苦しい。皇室は特別という非常識は、今の世には通じないことを知らねばならない。「お姿に心からの敬意と感謝を申し上げます」などは、非公開の私的な席で親にいう言葉であって、国民に向かって公式の場で述べる言葉ではない。以下、逐語的に点検して、意見を述べる。
「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより,ここに皇位を継承しました。この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。」
そんなに、力むことも緊張することもない。日本国憲法は、天皇個人の見識や判断を問うべき事態を想定していない。もちろん、天皇が責任を問われることもない。天皇とは、内閣の指示のとおりに動くことで勤まるので、「重責を思う」必要はさらさらにない。
「顧みれば,上皇陛下には御即位より,三十年以上の長きにわたり,世界の平和と国民の幸せを願われ,いかなる時も国民と苦楽を共にされながら,その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ,一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。」
この文章には、前任者の「象徴としての行為」を肯定して、これを承継しようという含意が滲み出ている。前任天皇の「象徴としてのお姿」は、けっして国民の「総意」に適うものではない。とりわけ、内閣の助言と承認を離れた「象徴としての(公的)行為」を拡張しようとする指向は違憲の疑い濃く、危険なものと指摘せざるを得ない。
そもそも日本国憲法の天皇とは、「何かをなすべきもの」と期待されてはいない。徹底して「あれもこれも、してはならない」ことが規定されているのだ。「前任天皇の行為を踏襲をする」との発言は、国事行為の場にはふさわしからぬものとして慎むべきであろう。
「ここに,皇位を継承するに当たり,上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し,また,歴代の天皇のなさりようを心にとどめ,自己の研鑽さんに励むとともに,常に国民を思い,国民に寄り添いながら,憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い,国民の幸せと国の一層の発展,そして世界の平和を切に希望します。」
切れ目のない長い一文だが、問題が多い。
「上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し」は、既に述べたとおり。
「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ」とは、いったい何のことだ。そもそも、国民主権下の天皇は、裕仁・明仁の2人しかいない。まさか、「侵略戦争を唱導して国民と近隣諸国の民衆を塗炭の苦しみに突き落とした天皇のなさりよう」や、「統治権・統帥権の総覧者としての天皇のなさりよう」を真似ようということではあるまい。また、神権天皇や、臣民をしろしめす天皇のなさりようを心にとどめてはならない。新天皇発言のこの部分には、日本国憲法下の天皇は、それ以前の天皇とは隔絶した存在であることの認識が欠けているといわざるを得ない。
「常に国民を思い,国民に寄り添いながら」とは、上から目線の僭越な言葉。国民から徴税した潤沢な資金の支給で衣食住に困らない立場の者が、国民の困苦を理解できるのだろうか。同じ日のメーデー会場では、「8時間働いて普通に暮らせる賃金を」という切実な要求が掲げられていた。恵まれた環境で、「常に国民を思い,国民に寄り添いながら」は不遜というべきだろう。
「憲法にのっとり」は、公務員であるからには当然だが、やや舌足らず。前任者の就任時の言葉と比較して批判されてもいるところ。端的に「憲法第99条にもとづき、日本国憲法を尊重し擁護する義務を負うことを自覚して」というべきだろう。他の公務員にもまして、厳格な憲法遵守義務擁護の宣誓があってしかるべきである。
「日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い」は、実は無内容なのだ。象徴とは存在するだけのもの、何かの積極的行為によって「何らかの具体的な責務を果たす」ことを誓ってはならない。前述のとおり、天皇の責務とは、基本的に不作為なのだ。
「国民の幸せと国の一層の発展,そして世界の平和を切に希望します。」
「祈る」を避けての「希望する」は、適切な語彙の選択と言えよう。「祈る」「祈念する」「祈願」、あるいは「御霊」「慰霊」「鎮魂」などの宗教的色彩の強い用語は、公的な場では避けなければならない。政教分離とは、かつての神権天皇制による国民意識操作の反省に基づいて、天皇の公的行為から一切の宗教性を剥奪したものなのだから。
総じて言えば、天皇とはなにごともなさないことが責務だと自覚すべきなのだ。新天皇の最初の発言が必ずしもそうなっていないことに、主権者の一人としての立場から、懸念の意を表しておきたい。
(2019年5月2日)