憲法集会に参集の人々と、一般参賀に列を作る人々と。
このところの「天皇交代報道」の異常さに、半ばは呆れ、半ばは空恐ろしさを感じてきた。戦前、神権天皇制の煽動に、理性を失った民草たちが、あのようにいとも易々と操られたことが理解し難かった。しかし、今は実感としてよく分かる。この国の多くの人は、あの頃と変わってはいない。あの頃も今も、天皇の赤子たちは、自ら社会的同調圧力を作り出し、これに酔いしれたいのだ。
自立してものを考えることは、面倒だし苦しくもある。人と違う考えをもてば、孤立を余儀なくされるリスクも覚悟しなければならない。それよりは、社会の多数に追随することが、楽で、安全で、無難な生き方ではないか。メディアがそう教え煽っている。欺しの主犯は政権だが、メディアは欺しに加担した積極的共犯者となっており、さらにこれに追随する多くの人々が、消極的共犯者となっている。
私には本当に分からない。天皇の交代が、何ゆえに祝意を表さねばならないことなのか。税金を拠出して優雅な暮らしをさせてやっている一族に、国民がなぜ旗を振ったり「感謝」したりしているのか。天皇の交代が、何ゆえに時代の変わり目となるのか。こんな不便で面倒な元号の押しつけを、どうして有り難がっているのか。
昨日(5月3日)の憲法集会で、印象に残るこんな一場面があった。
野党各党の党首が発言した。それぞれに力のこもった良い発言だった。立憲民主党の枝野幸男さんがトップで、国民民主党の玉木雄一郎代表が続いた。登壇して、開口一番が、「令和初めての憲法記念日に…」というものだった。
とたんに、大会参加者から失笑が巻きおこった。「えっ?」「なんだって?」「れいわ?」「なぜ、れいわ?」「こんな場で、れいわ?」。明らかに、異様な言葉を聞かされたというどよめきと失笑だった。産経の報道では、「聴衆から『令和って言うな!』『そうだ!』『令和はいらねえぞ!』などと怒声が飛んだ」というが、私にはそこまでの声は聞き取れなかった。
私は、比較的ステージに近い位置にいた。聴衆の多くは、せっかく来てもらった野党党首に失礼あってはならないという雰囲気。あからさまに非難するという感じではなかった。しかし、「憲法集会で、令和」は、不意を突かれたような違和感。思いもかけない発言に、どよめきが生じ、失笑が洩れたのだ。
これも産経の報道によるが、玉木さんの挨拶の冒頭部分は、次のとおりだった。
「令和初めての憲法記念日に(聴衆から『令和って言うな!』などのやじ)こうして多くの皆さんがお集まりになって集会が開催されることを心からおよろこび申し上げたいと思います。安倍政権の最大の問題は何だと思いますか(聴衆から『令和だ』とやじ)。嘘をつくことだと思います。何度も予算委員会や国会で議論をしましたが、聞いたことに答えない、聞いていないことをいっぱいしゃべる。これではまともな議会制民主主義が成り立ちません」
玉木さんには気の毒だったが、あの集会参加者は、みな一様に「代替わり報道」に辟易しているのだ。憲法集会に令和は似合わない、不釣り合いだと思っている。玉木さんの「令和発言」で、集会参加者の一体感が明らかに増した。
有明の憲法集会に集まった人々と対極にあるのが、本日の「一般参賀」に列を作った14万の人々。いったい何のために、何を求めて、皇居にやってきたのか。
天皇の権威なんてものは、もともと何の実体もない。人々があると思う限りであるように見えるだけのもの。無自覚な14万の人々が作る列の長さだけが、天皇の権威なのだ。「王様は裸だ」と、曇りない目が看破すれば、たちまちにして破れる催眠術みたいなもの。
私は、この14万人に、半ばは呆れ、半ばは空恐ろしさを感じざるを得ない。この人たちが、天皇追随の同調圧力をつくるのだ。政権に躍らされ、その共犯者となる人々の群。
過熱報道も長くは続かない。あんなに、天皇交代フィーバーを演出してきたメディア各社もそろそろ息切れである。読者も明らかに食傷なのだ。いい加減に元に戻らねばならない。たとえば、本日の毎日新聞。紙面からは、天皇も令和も片隅に追いやられ、代わって社会面のトップは、「改元祝賀関係なし」「困窮者 おにぎりに列」という真っ当な報道。一面には、「削られる美ら海 辺野古」の記事も。
メディアで働く諸君に訴える。正気を取りもどせ。そして、もうこんなバカ騒ぎはやめようではないか。自立した主権者として、自覚的な曇りない目をもった人々も、少なくないのだから。
(2019年5月4日)