《東電の天皇》と異名をとって業界に君臨し、原発を推進してきたのが勝俣恒久元会長。福島第1原発事故の未曽有の規模の被害について、業務上過失致死傷罪で強制起訴されたが一審無罪の判決を得た(9月19日)。
「被害者らが提起した民事訴訟では、東電の過失を認める判決が相次ぐ。一方、個人に刑罰を科す刑事裁判では、具体的な予見可能性や結果の回避可能性など、より厳格な立証が求められる。判決は、個人の過失を問う刑事裁判のハードルの高さを改めて印象づけたとも言える(河北新報社説)」ことはそのとおりだが、何とも納得しがたい。
「政府の事故調査委員会は、事故の背景について政府や東電に『複合的な問題点があった』と指摘した。国会事故調などは『人災』と判断した。今回の判決でそれがくつがえるわけではない(東京新聞社説)」こともそのとおりだが、何ともおさまりが悪い。
これだけの規模の大災害である。原発とは管理をあやまれば壊滅的被害あるべき危険物であるとは、誰もが知っていること。あの規模の津波の発生も、設備の浸水にともなう事故の発生も警告はされていた。そして、その結果回避も可能ではあった。しかし、判決は、さらに具体的なレベルでの予見可能性を要求しているようだがその判断に疑問なしとしない。
検察官役の指定代理人の下記コメントに賛同する。
「国の原子力行政をそんたくした判決だといわざるをえない。原子力発電所というもし事故が起きれば取り返しがつかない施設を管理・運営している会社の最高経営者層の義務とはこの程度でいいのか。原発には絶対的な安全性までは求められていないという今回の裁判所の判断はありえないと思う」
案の定、この判決はすこぶる評判が悪い。巷の声は、次のようなものだ。
「ふざけるな」「不当判決だ」「市民常識とかけ離れている」「被災として怒りと失望を感じる」「ふるさとに帰りたいと思って亡くなった方がたくさんいることを考えれば、こんな判決は受け入れることができない」「裁判官の常識と一般市民の常識が違う」「裁判所は福島の被害者に真摯に向き合ったのか」「司法が死んでいることが証明された。世界中に恥ずかしい」「あれくらいの事故を起こして無罪ということはない」「それだけの責任ある立場の方々です」「それが知らなかったでは済まされないと思う」「とうてい理解できない判決だ。被災者の思いを東京電力も裁判所も受け止めてくれない結果」「誰も責任を取らないなんて納得いかねえよ」「事故を繰り返さないため、トップの責任をはっきりして欲しかった」「本当に残念でなりません」…。
「これだけのことをしでかして、トップが責任を取らなくていいのか」という声が日本中に渦巻いている。その市民感情は健全で、当然のことと思う。私が注目したのは、「誰も責任を取らない日本社会の文化が続いてしまう」という、市民のコメント。当然に天皇(裕仁)の戦争責任を念頭に置いての一言。
《東電の天皇》ならぬ《本家本元の天皇(裕仁)》の戦争責任も、同様のトップの責任。「あれだけのことをしでかして、トップが責任を取らなくていいのか」という声が日本中に渦巻いてよいのに、そうはならなかった。これが不思議。戦後最大のミステリー。おそらく、天皇本人も戸惑っていたに違いない。次のような声が飛びかってもよかったのだ。
「天皇無責とは到底考えられない」「戦争被災者として怒りと失望を感じる」「望郷の念にかられながら果たせず、外地で亡くなった方がたくさんいることを考えれば、天皇無責は受け入れることができない」「天皇は、国内外の戦没者に真摯に向き合ったのか」「天皇無責は、日本社会の秩序が崩壊していることの証明だ。世界中に恥ずかしい」「あれだけの戦禍を引き起こして無責ということはない」「それだけの責任ある立場の方です」「それが知らなかったでは済まされないと思う」「天皇の免責は、とうてい理解できない。戦没者の思いを受け止めてくれない結果」「天皇が責任を取らないなんて納得いかねえよ」「戦争の惨禍を繰り返させないために、天皇の責任をはっきりして欲しかった」「本当に残念でなりません」…。
原発の責任と戦争の責任。企業トップの責任と天皇の責任は、実によく似ている。《東電の天皇》を免責したのは裁判所。《本家の天皇》を免責したのはマッカーサーだ。せめて、《東電の天皇》の責任については、健全な世論の追及が続けられることを期待したい。
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ところで、日課にしている早朝の散歩。この3か月、不忍池の蓮の華を愛でてきた。昨日最後の一華を見つけたが、今日はなくなっている。9月19日をもって、岸辺から目視の限りだが、今年の華との別れの日としよう。
実は、不忍池には、折々に薀蓄オジさんが出没する。桜の時期には「桜の薀蓄オジさん」、水鳥の時期には「水鳥の薀蓄オジさん」、そして当然のことながら「蓮華の薀蓄オジさん」も。
このオジさんによると、今年の蓮の開花は6月11日だった。昨年の最後の華は、9月17日だったという。このあたりを諳んじているのが、薀蓄オジさんたる所以。
今年の華の命は去年よりも2日長かったということになるが、華のない不忍池はまことに寂しい。サルスベリも、カンナも、キョウチクトウも終わった。季節は、確実に遷っている。政権も遷ればよいのだが。
(2019年9月20日)
一昨日(9月17日)の夕刻、「表現の不自展・実行委員会」が主催する「《壁を橋に》プロジェクト 今こそ集会(in東京)」に足を運んだ。200人の参加で、盛会だったことに安堵の思いである。
仮処分申立報告と支援要請を中心とした、事実上の東京版提訴決起集会。法的手続が常に望ましい解決方法でないことは共通の理解の上で、時期を失すれば展示再開が不可能になるという懸念の中でのやむを得ない選択であることが強調された。
「〈壁を橋に〉プロジェクト」とは、耳に馴染まないネーミング。このネーミングに込められた思いが、配布されたリーフに次のように語られている。
いまもなお、「表現の不自由展・その後」の入り口は巨大な壁で塞がれています。これは検閲というかたちで、真実の開示と表現の自由を阻もうとする、人の心がつくり出した隔たりです。美術の検閲を主題とした不自由展に強いられたこの状況は、まさしく日本社会の現実そのものではないでしょうか。
しかし、人の心がつくった壁は歴史上すべて壊されてきました。不特定多数の市民の自発的かつ勇気ある行動は、冷戦の象徴であったベルリンの壁を倒壊させました。いまアメリカとメキシコに立てられた「排外主義」の象徴である「壁」も、アーティストの創意と想像力によって風穴が開けられつつあります。私たち不自由展実行委員会は、自由を求める人の心の力を信じています。
目の前に立ちはだかる「壁」を壊すべく、新たなステップに歩み出したいと思います。司法の良識を信じ、多くの人の応援を拠り所に、壁を打ち倒す。
「壁が横に倒れると、それは橋だ」(アンジェラ・デーピス)という言葉があります。ここから、私たち不自由展実行委員会は、再開を求める行動を「〈壁を橋に〉プロジェクト」と命名しました。
なるほど。「壁」は人と人との断絶の象徴であり、「橋」は人と人との連帯の象徴。今、「表現の不自由展・その後」の入り口を塞ぐ巨大な壁を倒すことは、差別という人と人との断絶を克服すること。そして、倒された壁は、表現の自由から民主主義に通じる橋となるのだ。
いまある厚い堅固な壁は、実は民衆に支えられている。一握りの攻撃的な右翼活動家は、歴史修正主義者・安倍晋三の政権を支持する少なからぬ民衆の中から生まれている。〈壁〉を倒すには、対話あるいは説得によることが望ましい。しかし、状況がそれを許さず、時間の制約もあるからには、法的手続によることを躊躇する理由はない。その法的手続の具体的な手段が、9月13日の仮処分命令申立である。
弁護団長・中谷雄二さんの説明によれば、その申立の趣旨は、「展示会場入り口の壁を撤去し、『表現の不自由展・その後』を再開せよ。」というもの。立ちはだかる『壁』の撤去がまずもっての具体的な獲得目標となっている。
この仮処分命令申立の債権者は5人(アライ=ヒロユキ・岩崎貞明・岡本有佳・小倉利丸・永田浩三)からなる「表現の不自由展」実行委員会。債務者は「あいちトリエンナーレ実行委員会」(権利能力なき社団)とのこと。この両当事者間に詳細な「作品出品契約」が締結されているという。
被保全権利の構成は、第1に「人格的利益にもとづく差し止め請求権」であり、第2に「作品出品契約にもとづく展示請求権」というもの。いずれも、その請求権を根拠付ける事実の疎明は容易である。問題はその先、債務者が当該債務の履行は事実上不可能となっているという疎明に成功するか、である。債務者が、警察力の庇護のもと最大限の防衛策を講じてもなお、展示の再開が不可能と言えるか否か、自ずから争点はこの一点に絞られる。
この局面で、講学上の「敵意ある聴衆の法理」や「パブリック・フォーラム」論の適用妥当性が争われることになる。判例に照らしてみる限り、申立が却下となることは考え難い。
9月13日の申立当日のうちに、係属裁判所は9月20日と27日の2回の審尋期日と指定したそうだ。また、具体的に追加すべき疎明資料の提出も求めたという。裁判所の「やる気」を感じさせるに十分と言ってよい。表現の自由のために、朗報を待ちたい。
なお、この日関係者からの印象的な発言がいくつも重ねられた。永田浩三さんが言ったことだけをご紹介しておきたい。
この16人の展示作品は、いずれも闇夜でマッチを擦るような意味をもつことになりました。それぞれの作品が灯すマッチの火が、闇の深さを照らし出しています。この火が照らし出した今の社会の闇の深さ、あるいはジャーナリズムの闇の深さにたじろがずにはおられません。あらためて、この闇を克服する「表現の自由」の大切さを思い、また、その自由を求めて闘い続けてきた先人たちからのバトンをいま手渡されているのだという責任の重さを感じます。
「表現の不自由展」再開の可否が日本の自由や民主主義についての将来を占うものとなっている。
(2019年9月19日)
昨日(9月17日)の午後、沖縄の地方紙記者からの電話取材をうけた。住民訴訟を提起した市民6名を被告として、宮古島市が損害賠償請求訴訟を提起予定という件。これをスラップというべきか意見を聞きたい、という内容。
私が記者に話したのは、基本的には9月2日の下記ブログ記事のとおり。
おやめなさい ― 宮古島市・下地敏彦市長の市民に対するスラップ提訴
https://article9.jp/wordpress/?p=13268
あれやこれや、DHCスラップ訴訟の吉田嘉明との比較で話をしたが、記者が最も興味をもったのは、下記の点だった。
「客観的に見て、市長がやろうとしていることは、市への批判に対する報復と萎縮を狙った民事訴訟として、典型的なスラップと言わざるを得ない。
スラップの提訴は、民事訴訟制度本来の趣旨から逸脱した違法行為だ。だから、スラップ提訴の原告は、不法行為損害賠償の責任を負うことになる。当然に反訴あることを覚悟しなければならない。
その場合、スラップ訴訟の原告となった宮古島市だけでなく、これを推進した下地市長個人も、提訴の提案に賛成の表決をした市議会議員も、共同不法行為者として責任を問われることになる公算が高い。
憲法51条によって、国会議員はその表決について責任を問われることはないが、地方議員にこの免責特権はない。もちろん、合理的な根拠にもとづく限り、軽々に議員が表決の責任を問われるべきではないが、明らかな市民イジメのスラップでの賛成表決では事情が異なる。
一連の経過から見て、現在議会に上程されている本件提訴案件は、一見明白なスラップであり、一見明白な違法提訴である。したがって、賛成の表決をした議員も有責となる可能性が限りなく高い。
スラップの被告とされた住民側の弁護団は、必ず、市と市長だけでなく、賛成討論をした議員、賛成表決をした議員をも被告として、逆襲の訴訟を提起する。そうなると、市議会議員が被告席に座らされて、スラップの痛みを実感する側にまわることになる。
だから、沖縄県内のメディアが、宮古島市議会議員に「市長の提案に賛成の表決に加わると、被告席に座らされ、個人責任を追及されることになる」という警告の記事を書くことの実践的意味は大きい。うっかり賛成しようとしている議員への親切ともなる。ぜひ、その旨を大きな記事にしていただきたい。
取材の電話は2度あった。2度目の電話で要点を確認している最中に、記者が突然声をあげた。
「あれ、ちょっと待ってください。今緊急速報が入りました。市長は、議会への提訴案件を取り下げたそうです」
「おや、そうですか。それはよかった」ということとなったが、小一時間の電話での取材が無駄になった模様。
ただ、どうもこの撤回は確定的なものではないようだ。現地紙の報道は、下記のようなものとなっている。
「下地敏彦市長は17日、市議会9月定例会に提出した、市民6人を『名誉毀損』で訴える議案を撤回することを佐久本洋介議長宛てに文書で通知した。撤回の理由を『内容を精査する必要が生じたため』としている。再提案の可能性も含んでおり、野党側は市の動きを注視する考えだ。」(宮古毎日新聞)
「宮古島市議会(佐久本洋介議長)は18日の本議会で、宮古島市(下地敏彦市長)が市議会に提案していた不法投棄ごみ事業を巡る住民訴訟の原告市民6人を提訴する議案について、市側が申し出た議案の撤回を全会一致で承認した。
下地市長は質疑で、撤回理由につて『(議案の中身を)きちんとする必要があるので、精査する』などと述べた。再提案については明言しなかった。」(琉球新報)
だから、再度申しあげる。市長さん、こんなみっともないスラップはおよしなさい。宮古島市と市民の恥となる。市長個人もスラップの責任を問われて損害賠償請求訴訟の被告となる。それだけではない。スラップの提訴に賛成した市議会議員諸君も、同様に表決の責任を問われて被告となる。誰にとっても、よいことはないのだから。
(2019年9月18日)
一昨日(9月15日)の午後、東大本郷キャンパスで「日本の植民地支配と朝鮮人虐殺」と題する集会があった。発会したばかりの「1923関東朝鮮人大虐殺を記憶する行動」が主催するもので、発会記念の講演会だった。本日(9月17日)の赤旗にも、「官民一体の迫害が蓄積」「関東大震災朝鮮人虐殺 記憶する集会」との見出しで概要が紹介されている。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-09-7/2019091712_01_1.html
講演は、法政大学社会学部の慎蒼宇(シン・チャンウ)教授。明快な語り口で、震災後の朝鮮人虐殺を偶発的な個別の事件と見るべきではなく、「植民地戦争」の一断面という位置づけが必要だと述べた。「植民地戦争」には、植民地征服戦争のみならず、植民地支配を持続するための継続的な「植民地防衛戦争」がある。その全体像の中に「1923年朝鮮人虐殺」を置いてみなければならないという視点の提示で、資料にもとづく詳細な解説があった。
冒頭「虐殺の正当化 ― 荒唐無稽な『虐殺否定論』の拡大」という話題の中で、この虐殺を免れたある在日朝鮮人の証言をこう紹介した。
「(1923年)10月下旬頃総督府の役人がやって来て私達に、(中略)又この度の事は、天災と思ってあきらめるように等、くどくどと述べたてました」(慎昌範証言)(朝鮮大学校『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』1963年、163p)。
これは小池百合子の言と同じだ。人災と天災の区別を重々承知していながら、「人災と天災を曖昧にし」たうえ、「天災としての処遇」で文句を言うな、というのだ。
九死に一生をこの慎昌範氏の凄まじい証言は、下記のURLで読める。主要部を抜粋して記しておきたい。
http://tokyo1923-2013.blogspot.com/2013/09/192392_4.html
【1923年9月4日午前2時/京成線の荒川鉄橋上で】(抜粋)
燃えさかる町を逃げまどい、朝鮮人の知人を頼りながら転々と避難。荒川の堤防にたどり着いたのは3日の夜だった。堤防の上は歩くのも困難なほど避難民であふれ、押し寄せる人波のために、気がつくと京成線鉄橋の半ばまで押し出されていった。東京で暮らす同胞も合流していた。
?深夜2時ごろ、うとうとしていると、「朝鮮人をつまみ出せ」「朝鮮人を殺せ」という声が聞こえてくる。気がつくと、武装した一団が群がる避難民を一人一人起こしては朝鮮人かどうかを確かめているようだった。
?日本語でいろいろ聞かれても分からなかった林善一さんが日本刀で一刀の下に切り捨てられ、横にいた男も殺害されるのを目の当たりにした慎さんは、弟や義兄とともに鉄橋の上から荒川に飛び込んだのである。
だが彼は、小船で追ってきた自警団にすぐつかまってしまう。岸に引き上げられた彼はすぐに日本刀で切りつけられたが、相手に飛びかかって抵抗する。
?次の瞬間に、周りの日本人たちに襲いかかられて失神したらしく、慎さんにその後の記憶はない。気がつくと、全身に重傷を負って寺島警察署の死体置き場に転がされていた。同じ寺島警察署に収容されていた弟が、死体のなかに埋もれている彼を見つけて介抱してくれたことで、奇跡的に一命を取りとめた。
10月末に重傷者が寺島警察署から日赤病院に移された際、彼は総督府の役人に「この度の事は、天災と思ってあきらめるように」と念を押されている。重傷者のなかで唯一、日本語が理解できた彼は、その言葉を翻訳して仲間たちに伝えなくてはならなかった。日赤病院でも、まともな治療はなく、同じ病室の16人中、生き残ったのは9人だけだった。
?慎さんの体には、終生、無数の傷跡が残った。頭に4ヶ所、右頬、左肩、右脇。両足首の内側にある傷は、死んだと思われた慎さんを運ぶ際、鳶口をそこに刺して引きずったためだと彼は考えている。ちょうど魚河岸で大きな魚を引っかけて引きずるのと同じだと。
なお、当日配布の資料の中に、ハングルでの挨拶が何通か寄せられている。そのうちの2通の訳文をご紹介しておきたい。被害者側からの事件の見方を知る上で貴重なものと思う。
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こんにちは。
私は、韓国の<平和の道>理事長です。
<平和の道>は、分断された祖国の統一のために、また、疎外され寂しく貧しい力のない人たちの側にたち、人が人らしく生きる世の中を作るために昨年、社団法人として発足しました。
海外で困難の中、分断のために南か北かを選択せねばならない海外同胞たちと、また、正義と人権と自由のため連帯して力を合わせている皆様にご挨拶申し上げます。
9月1日、1923年は今から96年前ですね。
あと4年もすれば関東大地震朝鮮人大虐殺は100年になります。
人間が人間として、どれだけ乱爆で残忍なのかを見せつけた関東大虐殺に対し、真相が今でも究明されず、調査も行われておらず、どのくらいの人が犠牲になったのかが明らかにされていません。
少なくは、3千名、6千名という説もあり、多くは1万人を超えるという説もあります。
日本の軍人及び警察の公権力が扇動し、そこに自警団も加わり、朝鮮人を無差別的に虐殺し、井戸に毒を入れたという流言飛語、放火をしたという流言飛語、様々な流言飛語を通じ、関東大震災での日本国民の不安を朝鮮人に矛先をむけさせた日本のやり方が、数多の朝鮮人を死においやりました。縛られ、焼け死に、竹やりで刺され、その苦痛の声と共に死に、溺死した人もいます。
そのすべての真相が明らかにされなくてはなりません。100年が経つにもかかわらず、いまだに事件自体があった事も知らされていない無残な大虐殺でした。
それは、言い換えれば、朝鮮が分断され、お互いが敵対関係になることにより、日本は、そのすきを利用し、自らの犯罪行為を隠蔽し縮小し、そして、歴史を歪曲し、今日まで来たという事です。
浮島丸沈没事件や、関東大虐殺事件も、日本帝国主義を志向した高位官僚たちにより作られた嘘と、真実に対する隠蔽もしくは操作だという事は日本の良心的な国民の皆様はお分かりだと思います。
今、日本は、平和憲法構造を変え、また戦争のできる国、他国を侵略できる国、他国の民を苦しめる事の出来る国になろうとしている明確な意思を表しながら、安倍政権は進んでおります。
大多数の日本の国民はこれに同意しないでしょう。
にもかかわらず、日本の政治指導者たちは、第2次大戦時のように、満州を進撃し、東南アジアを掌握したあの頃の空虚な栄華は忘れられず、日本を帝国主義の方向に導いています。
過ぎた過去の虐殺の蛮行が、現在も進行中であり、未来にもその惨状が起こりうるという憂慮を禁じえません。
良心ある日本の方々、そして、在日同胞の皆様
関東大震災での大虐殺事件についての真相究明を通じ、我々人間が人間らしく生きる世の中にするため邁進する大きな一歩を踏み出すべきと考えます。
そのためにも、南と北がひとつになり、日本の真相究明を要求し、その力を通じ、真実を明らかにすべきと考えます。
海外で、祖国の統一と繁栄を願い、同胞たちが関東大虐殺真相究明に、積極的に取り組み、
私自身も、ここ韓国の地で皆様の真相究明及び日本の謝罪、それに対する懺悔と、許しを得ることのできる環境を作るため、努力していきます。
関東大虐殺真相究明のために、手をつなぎ、連帯し、共に人間が人間らしく生きる世を作るため頑張りましょう。(訳;梁大隆)
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《1923関東韓日在日市民連帯 金鐘洙》(訳;梁大隆)
96年前の9月15日に遡ります。
ナショナリズムのソンビになった殺人鬼たちの狂乱と虐殺で荒川は血で染まり、町には無残に殺された朝鮮人の死体がそこら中に捨てられたまま、嘲弄を受けていました。日本帝国主義はその証拠をなくすため、生き残った朝鮮人たちに同族を燃やさせる反人道的犯罪を行っていたのです。
どこからか生じた流言飛語ではありませんでした。地震による混乱状態で、朝鮮人がどうやって日本の家庭と村、企業と国家を破壊するため動く事ができたでしょうか?
彼らの流言飛語は非常に巧妙な内容で作られていました。
平凡な日本の家庭に朝鮮人が侵入し、婦女を暴行、強姦し、略奪しているという流言飛語は、朝鮮人を家庭破壊犯にしました。そして、井戸に毒を入れ人々を皆殺しにしようとしたとして、人々が自ら朝鮮人を逮捕し、殺しても、村を守ることだという名分を与えたのでした。
また、工場に爆弾を投げ、産業施設を破壊しているという流言飛語は日本の経済を揺るがす事であるから、隠れた朝鮮人労働者を、地域の自警団と共に人々が町に引き釣りだし、その場で虐殺したりしました。
そして、帝都に敵が現れたと、天皇暗殺を企てる者が朝鮮人だと確信させ、国民の憤怒と敵恢心をあおりました。
結局、朝鮮人を、日本の家庭、村、企業、国家を転覆しようとする敵にし、戒厳令を宣布する名分を作り、それにより、軍人も警察も民衆もみな、虐殺のソンビになったのです。
(2019年9月17日)
嫌いな言葉は山ほどある。なかでも、「愛国」「愛国者」「愛国心」はその最たるもの。憂国・国士・祖国・殉国・忠義・忠勇など、類語のすべてに虫酸が走る。「真の愛国者」は、なおいけない。生理的に受け付けない。
パトリオティズムやナショナリズムと横文字に置き換えても同じことだ。パトリオティズムは理性の香りあるものとして肯定的に、ナショナリズムは泥臭く否定的に語られることが多いが、大した変わりはない。どちらも胡散臭さに変わりはない。どちらも、個人よりも国家や民族などを優越した存在として美化するもの。まっぴらご免だ。
辟易するのは、「愛国」とは倫理的に立派な心根であると思い込んでいる多くの人びとの押し付けがましい態度である。この愛国信仰者の愛国心の押し売りほど嫌みなものはない。夫婦同姓の強制、LBGTへの非寛容などとよく似ている。要するに、過剰なお節介なのだ。
国家や社会にゆとりがあるときには、「愛国」を叫ぶ者は少なく、邪悪な思惑による愛国心の鼓吹は国民の精神に響かない。愛国心の強制や強調が蔓延する時代には、国家や社会にゆとりがなくなって、個人の尊厳が危うくなっているのだ。とりわけ、政治権力が意図してする愛国心の鼓吹は、国家や社会が軋んでいることの証左であり警告なのだ。まさしく今、そのような事態ではないか。
為政者にとって最も望ましい国民とは、その精神において為政者と同一体となった国民,それも一つの束となった国民である。為政者は国家を僭称して、国民を愛国心の紐で、ひとつの束にくくろうと試みる。それさえできれば、為政者の望む方向に国民を誘導できる。そう。戦争の準備にも。場合によっては開戦にも。
国民の「愛国心」は、易々と為政者の「国家主義」に取り込まれる。あるいは、国家主義が愛国心を作り出す。愛国心に支えられた国家主義は、容易に排外主義ともなり、軍国主義ともなる。結局は、大日本帝国のごとき対外膨張主義となるのだ。愛国心とはきわめて危険なものと考えざるを得ない。
もうすぐ東京五輪である。ナショナリズムとナショナリズムが交錯して昂揚する一大イベント。どの国の為政者も、この場を利用しようとする。国旗国歌が輻輳 する空間が生まれる。旗や歌がもつ国民統合の作用を最大限利用しない手はない。どの為政者もそう考えて実行する。
日の丸が打ち振られる。あの戦争のときのように。今度は旭日旗までがスタジアムに登場するという。形を変えた、擬似戦争であり、ミニ戦争である。
今のままでは、安倍政権下、小池百合子都政が、東京五輪の主催者となる。世が、あげて東京都五輪礼賛であることが、まことに不愉快極まりない。
山ほどある嫌いな言葉に、もう少し付け加えよう。「東京五輪」「日本選手を応援しよう」「日本チームの奮闘が素晴らしい」「日本の活躍が楽しみですね」…。
(2019年9月16日)
3日前(9月12日)の午後、菅義偉官房長官は記者会見で日韓関係について語っている。その内容を、同日夕刻のNHK NEWS WEBが以下のとおり簡潔に伝えている。
見出しは、「日韓請求権協定の順守 大原則」「『徴用』問題で官房長官」
「(菅官房長官は、)太平洋戦争中の『徴用』をめぐる問題に関連し、日韓請求権協定は、両国の裁判所を含むすべての機関が順守するのが国際法の大原則だとして、あくまで韓国側に協定違反の状態を是正するよう求めていく考えを強調しました。
この中で、菅官房長官は「徴用」をめぐる問題に関連し、『1965年に日韓請求権協定が結ばれ、日本は当時の韓国の国家予算の1.6倍の有償 無償の資金を提供している。交渉の過程でも、財産請求権の問題はすべて解決したということになっており、協定によって最終的かつ完全に解決済みだ』と述べました。
そのうえで、『こうしたことは、それぞれの行政機関や裁判所を含む司法機関、すべてが順守しなければならないというのが国際法の大原則だ。韓国の大法院判決によって作り出された国際法違反の状況を是正するよう強く求めるというのが、わが国の立場だ』と述べ、あくまで韓国側に是正を求めていく考えを強調しました。」
これに、記者が質問をぶつけて食い下がったという記事はない。もちろんNHKが菅義偉官房長官改憲の内容に賛成したわけではないが、疑問を質すことはしていない。誤導・誤解注意のコメントも付されていない。結局、官房長官の言いっ放しを垂れ流しているのだ。ここが、世の嫌韓ムードの発生源となっている。これでよかろうはずはない。
NHKを先陣とするメディアは、世の嫌韓ムード蔓延の重要な共犯者ではあるが、主犯とは言い難い。主犯は飽くまで政権である。その筆頭に安倍晋三がおり、次鋒として菅義偉があり、そしてもう一人、「極めて無礼でございます」の河野太郎。
この度の記者会見発言に及んだ菅義偉という人物。はたして、徴用工事件大法院判決の訳文を読んでいるだろうか。大法院自身が作成した日本語の判決要約だけにでも目を通しているだろうか。また、関連するこれまでの我が国の国会答弁を理解しているだろうか。さらに、この点についての日本の最高裁の立場を心得ているのだろうか。おそらく、すべて「否」であろう。でなくては、こんな記者会見での発言ができるわけはない。
菅会見で、またまた出てきた「国際法の大原則」。いったい、どのような「国際法」を想定しての発言なのだろうか。何を根拠に「国際法の大原則」というのか、その根拠をご教示に与りたいところ。個人の尊厳ないし人権という普遍的価値を国家の利益や国家の判断に優越するものとする潮流を無視してもよいのか。いったい誰が原稿書いて、こんな断定的なことを喋らせているのだろうか。
私は、昨年(2018年)の大法廷判決(同年10月30日)の翌日から、次のブログ記事を書いた。
11月1日「徴用工訴訟・韓国大法院判決に、真摯で正確な理解を」
https://article9.jp/wordpress/?p=11369
11月2日「徴用工訴訟・韓国大法院判決に真摯で正確な理解を(その2)」
https://article9.jp/wordpress/?p=11376
11月6日「徴用工訴訟・韓国大法院判決に真摯で正確な理解を(その3) ― 弁護士有志声明と判決文(仮訳)全文」
https://article9.jp/wordpress/?p=11400
その11月6日ブログの冒頭に,当時の問題意識をこう書いている。
「10月30日韓国大法院の徴用工訴訟判決が、原告(元徴用工)らの被告新日鉄住金に対する「強制動員慰謝料請求」を認容した。この判決言い渡し自体は『事件』でも『問題』でもない。主権国家である隣国司法部の判断である。加害責任者は我が国の企業、まずは礼節をもって接すべきである。
この判決に対する政権と日本社会の世論の感情的な反応をたいへん危ういものと思わざるを得ない。私たちの社会の底流には、かくも根深く偏狭なナショナリズムが浸潤しているのだ。肌に粟立つ思いを禁じえない。」
肌に粟立つ思いは今も続いている。植民地侵略に何の反省もない日本社会が、韓国大法院判決に真摯で正確な理解を怠っているからだ。政権が、礼節を忘れて「極めて無礼でございます」という態度に終始して現在に至り、メディアがこれを増幅して、刺激された日本人の意識の古層にあった民族差別の感情が噴出しているのだ。この「政権・メディア・民衆」の基本構造は、朝鮮併合の前夜と変わらない。
菅会見における、『1965年日韓請求権協定で、財産請求権の問題はすべて解決したということになっており、協定によって最終的かつ完全に解決済みだ』は、間違っている。
韓国の元徴用工が訴訟手続で請求したものは、未払いの賃金ではない。大法院判決の用語に従えば、「強制動員慰謝料請求権」なのである。つまりは、不法行為損害賠償請求権である。
同判決は、主要争点を4点に整理して、そのうちの第3点「? 原告らの損害賠償請求権が、日韓請求権協定で消滅したと見ることができるか否か (上告理由第3点)」を、「本件の核心的争点」としている。当然、その点の判断の理由を丁寧に説明している。その結論は、「消滅したと見ることはできない」。要するに解決済みではないのだ。
この結論は、水掛け論でもなければ、日韓の見解の相違でもない。日本の国会での外務省答弁も、一貫して「両国間の請求権の問題」と「個人の請求権の問題」とは意識的に分けて、協定の効果が考えられている。たとえば、「両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。その意味するところでございますが、日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません」というふうに。
つまり、解決済みというのは、「日韓両国が国家として持っている権利」であって、個人の民事的請求権ではないのだ。このことは、日本の最高裁も同様である。
元徴用工の原告が旧日本製鉄に対してもっている不法行為慰謝料請求権と、韓国が日本に対してもっている外交保護権とは本来別物で、「最終かつ完全に解決した」のは外交保護権だけなのだから、韓国の裁判所が、元徴用工の旧日本製鉄に対してもっている慰謝料請求を認容することは、その権限に属することである。したがって、大法院判決を「国際法の大原則に違反する」などということは、「それこそ無礼でございます」なのだ。
(2019年9月15日)
どうして、もっと大きなニュースにならないのだろうか。昨日(9月13日)、中止になっていた「表現の不自由展・その後」の展示再開を求める仮処分命令が名古屋地裁に申立てられた。中止になったのは、愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の一部門としての企画展であり、過去に公的な施設から、表現の機会を奪われた16点の作品群の展示であるという。その再開を求める仮処分命令申立。表現の自由に関わる大事件に、ようやく司法が関わることになったのだ。申し立てた側は、記者会見で展示中止を「民主主義の決定的な危機」と訴えたという。もっと、メディアの関心が高くて然るべきであろう。
まだ、詳細な報告に接していないが、概要は次のごとくである。
債権者(仮処分の申立人をこういう。ヘンな業界用語)は、この企画展の「実行委員会」と報道されているが、実行委員会を構成している5名の個人が共同して債権者になっているものと思われる。
債務者(仮処分申立の相手方のこと)は、展覧会を主催する国際芸術祭実行委員会。
申立の趣旨(求める仮処分命令の内容)は、「中止となっている企画展の各作品の展示を再開せよ」というものなのだろう。もちろん、もう少し、展示再開のための実効的で具体的な作為命令を求めているものと思われる。たとえば、展示再開にともなって当然に予想される右翼勢力からの妨害行為への対応策として必要な具体的施策なども内容とされているだろうが、詳細は把握していない。
一般に仮処分命令認容の可否に関しての最大の問題点は、被保全権利(債権者が債務者に対して有する請求権)の構成であるが、本件においてはさしたる困難はなかろう。本件の債権者は債務者に対して、作品展示に関する契約上の債権として、所定の期間中作品を安全に観客に展覧せしむる請求権を有していると考えられるからである。報道では、申立書は文化芸術基本法などに基づいた構成になっているというが、裁判所はそんな難しいことには踏み入らず、手堅く骨組みだけでの認定をするだろう。
債務者の側は、心ない右翼勢力の妨害から展示作品を守り、一般の鑑賞者に安全に鑑賞してもらうよう万全を尽くす義務を負っている。これは自明なことなのだ。
この債権者の主張に対して、債務者の側から一応はこの被保全債務の存在を否定する主張がなされることになるだろう。契約締結時とは事情が変って当該義務の履行が不可能な事態となっている、具体的には安全に展示を行う環境が喪失されている、という主張である。しかし、裁判所がこんな主張を認めるとは到底考えられない。
万が一にも、こんな債務者の主張を裁判所が認めるとすれば、表現の自由は死滅する。展覧会に対する脅迫で表現の自由を屈服させてはならない。それこそ、文明国にあるまじき、恥ずべき野蛮国家(≒ヘイト蔓延国家)への堕落である。当然のこととして、予想される混乱に対しては、展覧会主催者は、なし得る最大限の防衛策を講じなければならない。
この局面での法的問題はけっして複雑なものではない。民意がこのような展示に賛成しているか否か。あるいはその賛否それぞれ合理性があるかは、いま問題にはならない。この件の法的争点は、愛知県が最大限の防衛策を講じてもなお、展示会続行が不可能と言えるか否かという,この一点に絞られる。
いうまでもなく、「威力を用いて人の業務を妨害すること」は威力業務妨害罪を構成する犯罪である。直接の有形力を行使して展示を妨害することはもとより、電話・メール・ファクスでの害悪の告知の一切が犯罪である。会場で大声を発することさえも、犯罪たりうる。
犯罪から、市民社会の平穏を守るのが、警察の役割である。愛知県警は、表現の自由擁護のために、誠実に盡力しなければならない。
意見は多様であってよい。嫌韓の立場から、国粋の立場から、このような展示には反対という不寛容な意見もあるだろう。そのような意見の表明にも自由は保障されている。しかし、意見の表明の域を超えて、有形力を行使し、あるいは脅迫的な言辞で展示を妨害しようとすることは、犯罪として許されることではない。ことここに至っては、警察も徹底した検挙に乗り出すに違いない。右翼諸君は、このことを肝に銘じるべきである。
なお、この国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の会期は10月14日までである。企画展再開の機会はそれまでである。再開のために万全の準備も必要であろう。ぜひ、再開実現に間に合うよう、素早い仮処分命令が発せられるよう期待したい。平穏に行われていた展示が、明らかな犯罪行為と権力の圧力で中止に追い込まれたのだ。再開なくしては民主的社会の秩序が成り立ち得ない。
なお、やや気になる報道がある。申し立て後に記者会見した不自由展の実行委のメンバーらは「芸術祭実行委が対話に応じないので申し立てた。司法の力で展示期限内に再開したい」「芸術祭の実行委は話し合いに応じると言いながら、実際の協議は何も進んでいない。表現の自由を回復させるために裁判所に申し立てることを決めた」と述べたという。
展示再開の仮処分命令が発せられた後に、企画展の実施を担当するのは、県の職員ということになる。妨害からの防衛策に万全を期すべきは当然としても、それぞれの担当職員に,使命感や士気が望まれる。芸術祭実行委員会会長を務める大村秀章・愛知県知事のリーダーシップに期待したい。
(2019年9月14日)
「表現の不自由展・その後」と銘打った企画展は、展示の機会を奪われた経歴を持つ16点の作品に、奪われた展示の機会を回復させようというコンセプトでのプロジェクトであって、それ以上のものでも以下のものでもない。日本軍「慰安婦」を連想させる「平和の少女像」や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品などが話題となったが、展示された作品群が統一された主張をもっているわけではなく、また当然のことながら、企画展の主催者がその作品のもつ政治的主張に賛同したわけでもない。飽くまで、その作品から奪われた展示の機会を回復することを通じて、近時の表現の自由のあり方についての問題提起を試みたものである。
展示の機会を奪われたという経歴をもつ作品は、いずれも何らかの意味で、権力や権威、あるいは社会の多数派から疎まれ嫌われる存在なのではあろう。そのような作品であればこそ、失われた展示の機会が与えられて然るべきだとするコンセプトは、表現の自由を重んじる民主主義社会の理念によく適合したものというべきであろう。
ところが、この展示を敵視する側は、表現の自由一般ではなく、飽くまで個別の作品がもつ具体的な政治性に反応して攻撃する。たとえば、河村たかし名古屋市長は、「日本国民の心を踏みにじる行為であり許されない」として展示の中止を求めた。
企画展主催者は、表現の内容を問題することなく、多数派から排除された表現に展示の機会を回復した。これに対して、河村市長は、もっぱら表現の内容を問題とし、「日本国民の心を踏みにじるもの」となどとと主張したのだ。一方に、「日本国民大多数が歓迎しない表現だから展示を中止せよ」という意見があり、他方に「多数派から排斥される表現であればこそ展示の機会を与えることに意義がある」とする見解があって、議論が噛み合わぬまま対立している。
このような基本構造をもった問題が生じ、幾つかのフレーズが、大手を振ってまかり通っているの感がある。これに反論を試みたい。
※公共団体が一方的な政治的意見の表明に手を貸すべきではない。
☆「愛知県が今回の展示で一方的な政治的意見に手を貸した」というのは、誤解ないし曲解というべきでしょう。「表現の不自由展・その後」がしたことは、民主主義の土台である表現の自由が侵害されている深刻な事態を可視化して、これでよいのかと世に問うたということにほかなりません。民主主義成立のための土台の整備という事業は、公共団体がするにふさわしいものというべきです。
☆表現の自由の保障は憲法上の基本的価値なのですから、自由になされた多様な表現の共存が望ましいありかたです。ところが、現実には、「発表を妨害された表現」が少なくないのです。これでよいのか、民主主義社会のあるべき姿に照らして再考すべきではないのか。その問題提起が「表現の不自由展・その後」にほかなりません。公共団体が「発表を妨害された表現」を展示して、多様な表現の共存を回復することは、公共団体のもつ公共性に適合することではないでしょうか。
※少なくとも両論併記しないと、公共性が保てない。
☆「両論」という言葉遣いが、「『表現の不自由展・その後』が特定の立場の政治的見解を発信しようとしている」という前提に立つもので、誤解あるいは曲解のあることを指摘せざるを得ません。
「特定の意見」の表明と、「表現一般の自由を保障せよという意見」の表明とを、ことさらに混同してはなりません。「表現の不自由展・その後」は、「特定の意見」を表明するものでも、特定意見に与するものでもなく、「特定の意見」の表現妨害例を紹介することで「表現一般の自由を保障せよ」と意見表明したものです。特定意見の内容に与しているのではありませんから、両論を併記せよという、批判ないし要望は的を射たものにはなっていません。
☆もしかしたら、「両論併記」要望は、こういう意見ではないでしょうか。
「この展示は、『表現一般の自由擁護』という名目で、実質的に『国策と国民多数派の意見を批判する表現』の肩を持つことになっているではないか」「公共機関としては、国策に反する意見の肩をもつべきではない」「百歩譲っても、国策側の意見も明記しておかねばならない」。とすれば、実はこの意見は危険なものを含んでいるといわねばなりません。
この場合の「両論」とは、「国策とそれを支える多数派の意見」と、「国策を批判する社会の小数派の意見」の対立を意味しています。考慮すべきは、この「両論」間の圧倒的な力量格差です。歴史の知恵は、民主主義の成立要件として、「少数意見の尊重」と「多数派の寛容」を求めてきました。
妨害され排斥されて表現の場を奪われてきた「国策に反する意見」「少数派の意見」に、表現の機会を確保して少数派の意見を紹介することは、「国策」「多数派の意見」を否定することではなく、国民に選択肢を提示して議論の素材を提供するものとして、公共性の高いことというべきなのです。
※どうして、大切な公共の税金を反日的なものに使うのか。
☆「反日」というレッテル貼りは、かつての「非国民」「売国奴」「スパイ」と同様、議論の展開を閉ざしてしまうものとして、危険な言葉と指摘せざるを得ません。
国策や多数派の意見に反し、国民に心地よくない意見が、実は長い目では高次の国民の利益に適うものであったことは歴史上いくらもあったことで、近視眼的に「税金を『反日的』な目的に使うな」と拳を振り上げるべきではありません。
☆表現の自由は、より良い民主主義社会を形成するために不可欠なもので、意見の正否は、国民的な議論の場の中で国民自身が判断することになります。その議論の場を作るための税金の投入は、税金本来の使い方として、適切なものというべきです。「表現の不自由展・その後」のコンセプトはそのようなもので、税金本来の使い方から逸脱するものとは考えられません。
☆よく引用されるとおり、公共図書館の蔵書が好例です。税金で様々な立場の書籍が、揃えられていますが、図書館が特定の書物の見解に与するものではありません。「図書館が税金で、『反日』の本を買って怪しからん」というのは民主主義を理解しない滑稽な意見です。名古屋市長の意見は、公共図書館の蔵書の中の特定のものを「焚書」せよ、と言っているに等しいものというほかはありません。
☆かつては、「地動説」も「種の起源」も少数派の意見であり、政治弾圧も受けました。税金を投入しているから、権力や多数派の承認しない表現は受け付けない、では人類の進歩に逆行することになりかねません。
※「反日」と言えないまでも、結局は特定の政治的意見表明らしきものに税金を使うことに納得しがたい。
☆「表現の不自由・その後」の展示は、表現の自由保障というベーシックな民主主義的価値の現状についての訴えであり、そのことを通じての民主主義の環境整備です。仮に、作品がもつ固有の「政治性」を個人的な不愉快と考えても、その展示の公共性・公益性に照らして、受忍していただくしかありません。
☆国や自治体が税金を投入することで、特定の意見に国民を誘導することは禁じ手です。国民が正確な議論と選択ができるよう、民主主義の環境を整えることが、国や自治体のなすべきことです。「反日と言えないまでも、政治的表明らしきもの」は公的な場から追放すべきだという考え方は、結局「国策に適う多数派意見」だけを、公的な場で公費を使って表現させることになります。そのような、国策への意見の統一を望ましいとすることこそが、民主主義に反する危険な意見なのです。
※公共団体の一方的な政治的意見の表明で,たくさんの国民が傷ついている。
☆表現の自由の保障は、人を傷つける表現を想定してこれを許容しています。むしろ、誰をも傷つけることない、誰にとっても心地よい表現は、その自由を保障する意味がありません。
☆「平和の少女像」が訴えている日本軍「慰安婦」問題ですが、旧日本軍が組織的に慰安所を設置し、これを管理し運営したことは、厳然たる歴史上の事実です。強制性も否定することができません。日本人の心が傷つくとして、この議論に蓋をすることこそ、韓中蘭など多くの国の国民を傷つける行為ではありませんか。
☆表現が人を傷つけるのではなく、歴史的事実が人を傷つけているのです。傷ついても、苦しくても、知らねばならない歴史の真実というものがあります。これに蓋をするのではなく、向かい合ってこそ、再びの過ちを繰り返さないことができることになります。
※こんなに反対の多い企画は,そもそもやってはならない。
☆この展示は、表現の自由侵害の現状を世に問うた立派な企画として評価しなければなりません。この企画の展示内容だけでなく、この企画への社会の対応も、今の社会が民主主義の理念から逸脱して危険な現状にあることをまざまざと示すものとなりました。この展示の企画よりは、この企画を妨害してやめさせたことの責任の方がはるかに大きいのものと考えなければなりません。
企画に賛否の意見があることは当然としても、「ガソリンをまく」など、明らかな脅迫を手段とする威力業務妨害の犯罪行為には、毅然と対処しなければなりません。批判されるべきは、暴力的に展示を妨害した犯罪者らと、これを煽った政治家たちです。とりわけ、河村たかし名古屋市長の責任は重大です。
☆賛成が多く、反対が少ない企画だけが、許されるとすれば、「国策に沿うもの」「現政権に忖度しているもの」「社会の多数派の意見に迎合するもの」だけの展示になります。それは、少数派の意見も尊重されるべきとする表現の自由の理念から、けっして許されません。
☆また、今後の教訓とすべきは、一部勢力の表現の自由に対する組織的な妨害があることを想定しての対応だと思います。主催者は、電話の発信元を確認しすべて録音する、暴力的な電話やファクスは即時公表し、警察に告訴する。事前に、このような心構えをスタッフが共有しておくこと…などでしょうか。今の時代、表現の自由を守るには、相応の覚悟が必要となっています。本件は、そのことを教えています。
(2019年9月13日)
9月8日深夜から9日未明に、台風15号が関東を直撃した。週明けの9日(月)には首都圏一円の交通機関混乱一色の報道となり、10日以後本日(9月12日)に至るも、千葉の大規模停電と断水が大きな話題となっている。
第4次安倍再改造内閣は、このような時期を見計らったように発足した。慌てふためいて首相自ら災害地に飛んで見せ、組閣を遅らせるなどというパフォーマンスも不要とする政権の傲慢ぶりを見せつけてのことである。「何をしようが、内閣の支持率は下がらない」。そう、国民は完全に舐められている。国民は、そんな内閣の存続を許してきたのだ。
昨年(2019年)の「赤坂自民亭」事件を思い出す。7月5日夜、熊本が未曾有の水害に襲われたその最中に、安倍晋三以下の与党首脳がこぞって,赤坂の議員宿舎で酒盛りをしていたというあの事件。世人がこれを知ったのは、西村康稔なる自民党議員(当時官房副長官)がツイッターで赤い顔の安倍晋三以下のスナップをネットにアップしてのことである。言わば、証拠写真の社会への提供。その西村が、今度は経済再生担当大臣である。
さて、今回の組閣ならびに党役員人事に関して、昨日(9月11日)の首相記者会見冒頭のコメントでこう発言した。
内政、外交にわたる各般の挑戦を進め、令和の時代の新しい日本を切り開いていく。そして、その先にあるのは、自民党立党以来の悲願である憲法改正への挑戦です。いずれも困難な挑戦ばかりでありますが、必ずや、成し遂げていく。そう決意しています。
「内政、外交にわたる各般の挑戦を進め、令和の時代の新しい日本を切り開いていく」は、この人らしい、まったくの無内容。要は、「自民党立党以来の悲願である憲法改正への挑戦」「困難な挑戦でありますが、必ずや、成し遂げていく。そう決意しています」とだけ言いたいのだ。
幹事社質問に対する彼の回答が次のとおりである。
「さきの参議院選挙では、常に私は、この選挙において、しっかりと憲法の議論を進めていくのか、あるいは議論すらしないのか。それを決めていただく選挙ですとずっと訴えてまいりました。その結果、私どもは国民の信を得ることができたと思いますし、最近の世論調査においても、議論はしなければいけないという回答が多数を占めているというふうに承知をしております。正に議論は行うべきというのが国民の声なんだろうと考えています。
そうではなかろう。自民党は9議席を減らしたではないか。自民党が改憲についての国民の信を得るこことができたとの強弁は見苦しい。また、共同通信社が8月17、18両日に実施した全国電話世論調査によると、安倍首相の下での改憲に反対が52・2%と、賛成の35・5%を大きく上回っている。
さらに、最近のNHK世論調査でも次の結果が出ている。
安倍総理大臣は、9月11日に内閣改造を行います。新しい内閣が最も力を入れて取り組むべきだと思うことを、6つの選択肢をあげて聞いたところ、
「社会保障」が28%で最も多く、次いで、
「景気対策」が20%、
「財政再建」が15%、
「外交・安全保障」と、
「格差の是正」が11%、
「憲法改正」が5%でした。
「正に議論は行うべきというのが国民の声」も、牽強付会と言うほかはない。
選挙でお約束したことを実行に移していくことが政治の責任であり、自民党としては本日発足をした新しい体制の下で憲法改正に向けた議論を力強く推進していく考えであります。それは党四役を含め、自民党の役員あるいは自民党の議員共通の考え方だと考えています。
約束とは当事者双方の意思の合致をいう。自民党が、「改憲をお約束した」と一方的に言っても、国民の側が改憲を依頼した覚えはない。成立していない「約束」を実行に移していくことは政治の責任ではない。自分だけがやりたいことを勝手にやらせていただくと駄々をこねているだけのこと。
なお、質問には、「党の憲法改正推進本部長にはどのような人物を起用するお考えなのでしょうか。」があったが、これには答えない。完全スルーだ。質問者も、重ねての質問をしない。これでは困ったものだ。
令和の時代にふさわしい憲法改正原案の策定に向かって、衆参両院の第一党である自民党、今後、憲法審査会において強いリーダーシップを発揮していくべきだろうと、私は考えております。
安倍くん、今キミは首相として記者会見をしている。お分かりかね。キミは、憲法99条によって、憲法の尊重擁護義務を負っている身だ。それが、勝手に国民の声を僭称して改憲の議論を進めようとは、なんたること。少しは、自分の立場を弁えたまえ。
自民党は、既に憲法改正のためのたたき台を示しています。このたたき台については、既に党大会で承認をされた党としての意思となっていると思いますが、立憲民主党を始め、野党各党においても、それぞれの案を持ち寄って憲法審査会の場で憲法のあるべき姿について、与野党の枠を超えて活発な、国民が注視している、注目をしているわけでありますから、その期待に応えるような議論をしてもらいたいなと期待をしています。
また、国民投票法の改正案については、憲法審査会の場で、与野党でしっかりと議論していただきたいと期待をしていますが、同時に、憲法改正の、先ほど申し上げましたように、中身についても議論をしていくことが、やはり国民の皆様に求められているのではないかと、このように思います。」
「自分の方は、憲法改正案のたたき台を作った」「だから、あなたも作るのが当然」だという、何と身勝手な世間には通用しない議論。何を焦っているのやら。
安倍首相は2019年11月には在職期間が戦前の桂太郎を超え、歴代一位となる見込みだという。東京新聞社説は、これを「長きをもって貴しとせず」といい、「国民やその代表たる国会と謙虚に向き合い、政治の信頼を回復する。そんなまっとうな政治姿勢こそ安倍政権には求められている」と結んでいる。まことにそのとおり。
安倍晋三ほどに尊敬されざる政治家も少ない。政治の私物化、行政の私物化、ウソとゴマカシ、食言、歴史修正主義、オトモダチ優遇,上から目線、トランプ追随、詐欺的演説でのオリンピック誘致…。これほどの批判、非難にかかわらず、永らえてきたことの不思議。もう、いい加減に終止符を打ちたい。
たまたま手許に、映画『記憶にございません!』のチラシがある。チラシのトップに、「この男に任せて」
「あなたは、第127代内閣総理大臣 国民からは、史上最悪のダメ総理と呼ばれています。総理の記憶喪失は、トップシークレット、我々だけの秘密です」
もちろん架空の設定だが、「史上最悪のダメ総理」は大いに現実とかぶるところ。まことに「アベ長きがゆえに迷惑」ではないか。
(2019年9月12日)
またまた安倍内閣の新装開店セールである。11か月前の「在庫一掃内閣」の組閣で払底したはずの在庫商品を、またどこからか引っ張り出しての並び替えである。こんな目先幻惑商法に乗せられてはならない。
11か月前、私は在庫一掃内閣を象徴する「愚かな人材」として、教育勅語への思い入れをアピールした新文科大臣・柴山昌彦を取りあげて論じた。2018年10月4日の下記ブログをぜひお読みいただきたい。安倍内閣の性格とその閣僚のレベルとを的確に描写し得ていると思う。
柴山昌彦くん、愚かなキミには文科大臣は務まらない。
https://article9.jp/wordpress/?p=11246
その柴山昌彦くんは、今回店先からは外される商品のお一人となって庫に戻る。その彼が去るにあたってまったく無視をするのも礼を失する。なにか言わねばと思っていたところ、やっぱり言うべきことが出てきた。
本日(9月11日)朝刊各紙の見出しはこうだ。「高校での政治談議、柴山文科相『適切な行為?』と投稿」(朝日)、「高校生が友人相手に政権批判、違法ですか? 柴山文科相のツイートに波紋広がる」(毎日)、「英語民間試験、反対投稿に文科相異議 高校生は政治議論禁止!? 専門家『飛躍しすぎ』」(同)。
アベ内閣の一員である柴山くんとしては、若者の政治意識が向上することはたいへんに憂慮すべきことなのだ。20才だった選挙権年齢を18才に引き下げたのは、若者の保守化著しいことを見極めてのこと。近年の教育行政の成果ようやくにして結実し、若者は黙っていても自民党に投票してくれる存在となった。いや、正確に言えば、周囲が黙ってくれる限りは自民党に投票してくれるのだ。下手に政治意識を刺激されて、アベ政権のウソやゴマカシを論じるようになられては困る。人権や平和や民主主義や、あるいは憲法や、憲法の理念形成の歴史などを議論し合うようになられてはなおのこと。取り返しのつかないことにならぬうちに手を打たねば、せっかくの若者保守票が野党に流れてしまうではないか。そんなことになったら、安倍チームの一員としての柴山の面子が丸つぶれだ。
もっとはっきり言えば、こういうことだ。高校生に政治を議論する必要はない。その資格もない。むしろ、政治的な意見交換は有害だ。黙って、自民党に投票するだけでよい。そのための18才選挙権ではないか。政治とは何か、アベ政権とは何か、その利権との結び付きはどうだ、などとつまらぬ入れ知恵をする大人や教員の存在こそが諸悪の根源なのだ。もひとつ大事なことは、「柴山はこんなにガンバっていますよ」という姿のアピール。それが、ツイッターでの発信となった。
ことの発端は、2020年度の大学入試への英語民間検定試験導入を巡る高校生たちの議論である。9条改憲でも、辺野古基地建設でも、モリ・カケでもない。政治性は希薄だが、大学受験生の深刻な問題。
大学入試のあり方をめぐる問題を通じて、多くの高校生が自分たちの生活や将来と、政治や行政とがつながっていることを意識し始めたのだ。そして、ツイッターで、高校生や教員が不満や反対意見を述べた。そのやり取りの中で、こんなツイートがあったという。
教員 「次の選挙ではこの政策を進めている安倍政権に絶対投票しないように周囲の高校生の皆さんにご宣伝ください」
高校生 「私の通う高校では前回の参院選の際も昼食の時間に政治の話をしていたので、きちんと自分で考えて投票してくれると信じている。もちろん今の政権の問題はたくさん話しました」
これに反応した柴山くんは考えた。これは、たいへん深刻な事態だ。大学入試のあり方などは些事に過ぎないが、高校生が日常政治の話をしていることは看過しがたい。「きちんと自分で考えて投票する」「今の政権の問題はたくさん」とはいったいなにごとか。こんなことを勝手に喋らせておいてはならない。大学受験問題をきっかけに、高校生が政治的に先鋭化しているとすれば、オレの失敗でオレの責任ではないか。ここは、押さえ込んで、高校生を善導しなければならない。
そこで、こんなコメントを発信し,これが「高校生が友人相手に政権批判、違法ですか? 柴山文科相のツイートに波紋広がる」と話題となった。
「こうした行為は適切でしょうか?」「公選法137条や137条の2の誘発につながる」「学生が時事問題を取り上げて議論することに何の異論もない。しかし未成年者の党派色を伴う選挙運動は法律上禁止されている」
重ねて、柴山くんは、9月10日の閣議後の記者会見でこう言っている。弁明でもあり、再度の挑発でもあろうか。
「教育基本法は学校の政治的中立確保を求めている」「教員が規定に反する行為を行っていたとすれば不適切」「昼休みであっても生徒の選挙運動は禁止することがあり得る」「公選法に反する行為を誘発する恐れもあると考えたので問題提起した。高校生の政治談議を規制することは全く意図していない」
これって、要するに「高校生諸君、諸君らの『昼食の時間にする政治の話』も、公職選挙法違反になることがある」「未成年者の選挙運動は法律上禁止されているのだから、政治に触れた話はせぬ方が無難だぞ」と脅しているのだ。文科大臣がこう言えば、これを忖度する教育委員会も校長もあるだろうとの思惑が透けて見えている。あるいは、「文科相の意向は、総理のご意向と承れ」とでも言いたいのだろうか。バカげた話、バカげた文科大臣というほかはない。
優れた文科大臣、気の利いた政治家ならこう言うところだ。
「民主主義は、主権者一人ひとりの政治的自覚を基礎にするものです。そして、民主主義の政治過程は自立した主権者の徹底した議論によってしか成立しません。民主主義社会の国民は政治的な自分自身の意見をもって、他の人びととの政治的な議論に習熟しなければなりません。そのためには、物心ついたときから息をするのと同じように、政治な会話ができなくてはなりません。高校生と言えども、また未成年者と言えども、常に政治に関心をもち、人の意見に耳を傾け、自分の意見を述べられるよう、ことあるごとに経験を重ねましょう」
優れていない文科大臣、気の利かない政治家も、これくらいのことは言わねばならない。
「高校生が政治に関心をもち、政治的な話題を口にすることは、犯罪でも何でもありません。公職選挙法違反だという脅かしは、民主主義大嫌いな右翼勢力や、自由な選挙運動を恐れる与党勢力の常套手段です。『18才になるまでは政治的な話題を口にしてはいけない』では、せっかくの18才選挙権を生かすことができません。校内でも校外でも、政治的なテーマの議論をすることに躊躇する必要はありません」
なお、毎日が解説しているとおり、「選挙運動とは『特定の選挙について、特定の候補者の当選を目的として、投票を得又は得させるために直接又は間接に必要かつ有利な行為』(総務省ホームページ)を指す。いつの選挙で、だれを当選させるための特定なければ、選挙運動には当たらない。教員のツイートが問題になる余地はない。公選法137条、137条の2違反のおそれなどというのは、「若者の政治参加や教育現場に萎縮を招きかねません」(広田照幸・日本教育学会長)との指摘のとおりである。
さて、本日(9月11日)発表の改造人事。柴山に代わる次の文科相は、萩生田光一である。愚かな文科大臣から、邪悪な文科大臣へ。嗚呼。
(2019年9月11日)