(2021年1月11日)
一朝有事の際には、一国の政治的指導者の求心力が格段に強まる。典型的には戦時の国民が、強力なリーダーシップを求めるからだ。指導者と国民とは、一丸とならなければ敗戦の憂き目をみることになるという共通の心理のもと、蜜月の関係となる。
戦時に限らず、災害の克服が一国の重要課題となるとき、同じことが起きる。無用な足の引っ張り合いや内部抗争はやめて、政府と国民一体となって効率的に課題を克服しなければならないとする圧力が生じる。こういうときの政府批判者や非協力者は、「非国民」と非難される。
だから、戦時も有事も自然災害も、為政者にとっては、権力拡大のチャンスとしてほくそ笑むべき事態である。新型コロナ蔓延も、その恰好のチャンス。安倍晋三の国政私物化政権を見限った国民の支持を再構築するために、なんと美味しいお膳立て。そう、菅義偉はほくそ笑んだに違いない。実際、台湾やニュージーランドを筆頭に、多くの国の有能な指導者が政治的求心力の高揚に成功している。
ところが、どうだ。菅義偉、このチャンスを生かせていない。いや、こんなチャンスに大きな失敗をやらかしている。政治指導者にとっての「チャンス」は、実は国民にとっては、生きるか死ぬか、生活や生業を継続できるか否かの切実な瀬戸際である。リーダーの舵取りの失敗は、厳しい批判とならざるを得ない。
最新(1月9・10日調査)のJNN(TBS系)世論調査において、「内閣支持と不支持が逆転 コロナ対応で軒並み厳しい評価」との結論が出た。菅内閣、政権支持率を浮揚して、求心力高揚のチャンスに大失態である。この政権の前途は多難だ。国民からの強い批判がもう始まっている。
菅内閣の支持率は先月より14.3ポイント下落して41.0%となり、支持と不支持が逆転しました。政府の新型コロナ対応にも厳しい評価が出ています。
菅内閣を支持できるという人は、先月の調査結果より14.3ポイント減って41.0%でした。一方、支持できないという人は14.8ポイント増加し55.9%と、支持と不支持が初めて逆転しました。
新型コロナウイルスの感染防止に向けた政府のこれまでの取り組みについて聞いたところ「評価しない」が63%と、「評価する」を上回っています。
政府が1都3県に緊急事態宣言を出したことについて聞きました。
宣言発表を「評価する」人は65%、「評価しない」人は30%でしたが、タイミングについて尋ねたところ、「遅すぎる」が83%に達しました。
新型コロナ特措法の改正について聞きました。
飲食店などが時短要請に応じない場合に罰則を設けることの是非を尋ねたところ、「賛成」は35%、「反対」は55%でした。
今年夏に予定される東京オリンピック・パラリンピックについて、「開催できると思う」と答えた人は13%、「開催できると思わない」と答えた人は81%でした。
「桜を見る会」の前夜祭をめぐる事件で、これまでの安倍前総理の説明に「納得できる」と答えた人は12%にとどまり、「納得できない」が80%にのぼりました。
最後の3問が興味深い。コロナの蔓延を押さえ込むために特措法の緊急事態宣言に罰則を盛り込むことは、憲法を改正して政権の恣意を許す緊急事態条項創設への地ならしにほかならない。油断はできないが、反対世論が過半数であることに安堵の思いである。
東京五輪について「開催できると思わない」が81%(!)。これは、衝撃の数字だ。「金食い虫の五輪は早々とやめて、コロナ対策に専念せよ」が世論なのだ。政権がこれを軽視すると、取り返しのつかないことになる。
そして、世論は安倍晋三の旧悪について手厳しい。安倍晋三の「桜・前夜祭」のカネの流れについての認識如何は「総理の犯罪」の成否に関わる。その説明「納得できない」が80%(!)。これまた、世論の健全さを物語っている。なお、共同通信の同時期の調査も、ほぼ同じ傾向となっている。
衆院解散・総選挙の日程を間近にした今の時期、コロナの渦中でのアベ・スガ政権への国民の審判の厳しさは想像以上である。
(2021年1月10日)
衝撃的な一昨日(1月8日)のソウル中央地裁慰安婦訴訟判決。その判決文の全訳が読みたいものと思っているが、まだ入手できていない。同地裁は、判決言い渡しと同時に判決の要旨を記載した「報道資料」(4頁)をメディアに配布している。各紙は、これをもとに報道したようだが、その信頼に足りる全訳を昨日(1月9日)読売が配信した。これを引用させていただく。読売の判決評価の姿勢はともかく、この判決要約の全訳配信はジャーナリズムとして立派なものだ。
これを一読、さすがに良くできた判決理由である。焦点は「主権免除」適用の是非だが、例外的に適用はないとした理由について説得力は十分だと思う。「日本の国家が非道徳的な加害行為を組織的に行った」と一国の裁判所が認定して、仮に、このような場合にまで主権免除を認めれば、「(日本に)人権を蹂躙された被害者は憲法で保障された裁判を受ける権利を剥奪され、自身の権利をまともに救済してもらえない結果を招来し、憲法を最上位の規範とする法秩序全体の理念にも合致しない」と、指摘して被害者救済の判決を言い渡したのだ。
その理由(要旨)の中で、こうまで述べられている。
「被告となった国家が、国際共同体の普遍的価値を破壊し、反人権的な行為によって被害者に甚大な被害を与えた場合にまで、最終的手段として選択された民事訴訟で裁判権が免除されると解することは、不合理で不当な結果を生むことになる。すなわち、ある国家がほかの国家の国民に対して人道に反する重犯罪を犯せないようにした各種国際協約に違反するにもかかわらず、これを制裁することができなくなり、これにより、人権を蹂躙された被害者は憲法で保障された裁判を受ける権利を剥奪され、自身の権利をまともに救済してもらえない結果を招来し、憲法を最上位の規範とする法秩序全体の理念にも合致しない。
主権免除の理論は、主権国家を尊重し、むやみに他国の裁判権に服さないようにするという意味を持つものであって、絶対規範(国際強行規範)に違反し、他国の個人に対して大きな損害を与えた国家が、主権免除理論の陰に隠れて賠償と補償を回避できる機会を与えるために形成されたものではない。」
この指摘に対して逃げているだけでは解決しない。日本国政府は、控訴審を受けて立つべきだろう。主張は、そこで尽くせばよい。そして、重ねて言いたい。65年日韓請求権協定も、2015年慰安婦問題日韓合意も、その文言如何にかかわらず、対日個人請求権消滅の理由にはなりようがないのだ。それは、被害者個人を抜きにした国家間合意の限界と知るべきなのだ。日本政府は、旧天皇制日本帝国が犯した犯罪の被害者個人に直接謝罪し賠償しなければならない。国家無答責や主権免除で問題をはぐらかそうという姿勢が、真の解決を妨げているのだ。この訴訟の控訴審は、日本政府が被害者と向き合う、絶好の機会ではないか。
なお、「主権免除」については、朝日がこう報道している。朝日らしく客観的で分かり易い。
日本政府は訴状を受け取らないなど一貫して裁判への参加を拒否する一方で、外交当局間では韓国側に対し、主権免除を理由に訴訟の不当性を訴えてきた。裁判で焦点になったのも主権免除の適否だった。
戦争や統治で生じた被害への賠償と主権免除をめぐり、地裁が注目したのは、イタリアの判例だった。第2次大戦末期にナチスドイツに捕らえられ、ドイツで強制労働を強いられたとするイタリア人男性がドイツに賠償を求めた訴訟だ。
04年にイタリア最高裁は「訴えられた行為が国際犯罪であれば主権免除は適用されない」とドイツに賠償を命じた。ドイツの提訴を受けた国際司法裁判所(ICJ)は12年、「当時のナチスドイツの行為は国際法上の犯罪だが、主権免除は?奪(はくだつ)されない」とした。
地裁はICJ判決を検討しつつも、慰安婦制度について、
?逸脱が許されない国際法の強行規範に違反する反人道的な犯罪
?現場は日本が不法占領する朝鮮半島だった、
などの理由を挙げて例外的に韓国が裁判権を行使できると判断した。
その上で、「主権免除は主権国家を尊重し、みだりに他国の裁判権に服従しないようにするためのもので、強行規範に違反して他国の個人に大きな損害を与えた国に賠償逃れの機会を与えるためのものではない」として、日本政府に主権免除を認めなかった。また、主権免除の考え方は「恒久的ではなく、国際秩序の変動に応じて修正される」とも言及した。
国際法に詳しい名古屋大大学院の水島朋則教授によると、主権免除の原則は、戦時行為などにおける賠償の問題は政府間で解決すべきだとの考えから、国際法として広まった。主権免除を認めなかったのはイタリアの判例など数例で、一般的ではないという。ただ、主権免除は不変の原則とも言えず、新しい判例が重なると、変化していく可能性もあるという。
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「報道資料」読売新聞訳
■主文
原告の請求をすべて認め、被告・日本国に対し、原告に1億ウォンずつを支払えとの判決を宣告する。
■主権免除の是非
主権免除は、国内の裁判所は外国国家に対する訴訟について裁判権を持たない、とする国際慣習法だ。19世紀後半からは、例外事由を認める相対的主権免除の理論が台頭した。
我が国の大法院(最高裁)の判決によっても、外国の私法的行為については、裁判権の行使が外国の主権的活動への不当な干渉となる懸念があるなど特別な事情がない限り、当該国家を被告として我が国の裁判所が裁判権を行使することができる。しかし、本事件の行為は、私法的行為ではなく主権的行為だ。
国際司法裁判所は2012年2月3日、ドイツとイタリアの事件で、「主権免除に関する国際慣習法は、武力衝突の状況における国家の武装兵力及び関連機関による個人の生命、健康、財産の侵害に関する民事訴訟手続きにも適用される」との趣旨の判決を宣告したことがある。
しかし、本事件の行為は、日本帝国による計画的・組織的で広範囲な反人道的犯罪行為として、国際強行規範に違反するものであり、当時日本帝国によって不法占領中だった朝鮮半島内で、我が国民である原告に対して行われたものとして、たとえ本事件の行為が国家の主権的行為だとしても、主権免除を適用することはできず、例外的に大韓民国の裁判所に被告に対する裁判権がある。
その根拠として、韓国憲法、国連の世界人権宣言でも、裁判を受ける権利をうたっている。権利救済の実効性が保障されなければ、憲法上の裁判請求権を空文化させることになる。裁判を受ける権利は、ほかの実体的な基本権とともに十分に保護・保障されるべき基本権だ。
主権免除は、手続き的要件に関するものではあるが、手続き法が不十分なことによって実体法上の権利や秩序が形骸化したり歪(ゆが)められたりしてはならない。
主権免除の理論は、恒久的で固定的な価値ではなく、国際秩序の変動によって修正され続けている。
1969年に締結された条約法条約53条によると、国際法規にも上位規範たる「絶対規範」と下位規範との間に区別があり、下位規範は絶対規範を外れてはならないと言える。この絶対規範の例として、国連国際法委員会の2001年の「国際違法行為に関する国家責任協約草案」の解説で挙げられた奴隷制及び奴隷貿易禁止などを挙げることができる。
被告となった国家が、国際共同体の普遍的価値を破壊し、反人権的な行為によって被害者に甚大な被害を与えた場合にまで、最終的手段として選択された民事訴訟で裁判権が免除されると解することは、不合理で不当な結果を生むことになる。すなわち、ある国家がほかの国家の国民に対して人道に反する重犯罪を犯せないようにした各種国際協約に違反するにもかかわらず、これを制裁することができなくなり、これにより、人権を蹂躙(じゅうりん)された被害者は憲法で保障された裁判を受ける権利を剥奪(はくだつ)され、自身の権利をまともに救済してもらえない結果を招来し、憲法を最上位の規範とする法秩序全体の理念にも合致しない。「慰安婦」被害者たちは日本、米国などの裁判所に何度も民事訴訟を提起したが、すべて棄却・却下された。(日韓)請求権協定と2015年の慰安婦合意もまた、被害を受けた個人に対する賠償を含むことはできなかった。交渉力、政治的な権力を持ち得ない個人に過ぎない原告としては、本事件の訴訟以外に具体的な損害賠償を受ける方法がない。
主権免除の理論は、主権国家を尊重し、むやみに他国の裁判権に服さないようにするという意味を持つものであって、絶対規範(国際強行規範)に違反し、他国の個人に対して大きな損害を与えた国家が、主権免除理論の陰に隠れて賠償と補償を回避できる機会を与えるために形成されたものではない。
■国際裁判管轄権の有無
不法行為の一部が朝鮮半島内で行われ、原告が大韓民国の国民として現在韓国に居住している点、物的証拠は大部分が消失し、基礎的な証拠資料は大部分が収集されており、日本での現地調査が必ずしも必要ではない点、国際裁判管轄権は排他的なものではなく併存可能である点などに照らすと、大韓民国は本事件の当事者及び紛争となった事案と実質的な関連性があると言え、大韓民国の裁判所は本事件について国際裁判管轄権を有する。
■損害賠償責任の発生
日本帝国は、侵略戦争の遂行過程で軍人の士気高揚や効率的な統率のため、いわゆる「慰安婦」を管理する方法を考案し、これを制度化して法令を整備し、軍と国家機関が組織的に計画を立て、人員を動員・確保し、歴史上前例を見いだしがたい「慰安所」を運営した。10代から20代の、未成年または成年になったばかりの原告らは、「慰安婦」として動員された後、日本帝国の組織的で直接・間接的な統制の下、強制的に、1日何十回も、日本の軍人たちの性的行為の対象となった。原告らは、過酷な性行為による傷害、性病、望まぬ妊娠などを甘受しなければならず、常時、暴力にさらされ、まともに衣食住を保障されなかった。原告らは最小限の自由も制圧され、監視下で生活した。終戦後も、「慰安婦」だったという前歴は被害を受けた当事者にとって不名誉な記憶として残り、精神的に大きな傷となり、これによって原告らは社会に適応するのに困難を抱えた。
これは、当時日本帝国が批准した条約および国際法規に違反するだけでなく、第2次世界大戦後、東京裁判で処罰することとした「人道に対する罪」に該当する。
従って、本事件の行為は、反人道的な不法行為に該当し、被告は、これにより原告が負った精神的な苦痛に対して賠償する義務がある。被告が支給しなければならない慰謝料は少なくとも1億ウォン以上とみるのが妥当である。ただし、原告が1人あたり1億ウォンを請求しているため、それを超える部分については判断しない。
■損害賠償請求権の消滅の是非
原告の損害賠償請求権は、(日韓)請求権協定や、2015年の慰安婦合意の適用対象に含まれておらず、請求権が消滅したと言うことはできない。
(2021年1月9日)
本日の毎日新聞朝刊「時の在りか」に、伊藤智永の「象を撃つ政治指導者たち」という記事。達者な筆で読ませる。
https://mainichi.jp/articles/20210109/ddm/005/070/007000c
「象を撃つ」は、作家ジョージ・オーウェルの23歳での体験だという。ビルマという英国植民地の警察官であった彼は、民衆に対して権力者として振る舞うべき立場に立たされる。
銃を手にした彼は2000人もの群衆の眼を背に意識しつつ、逃げた象と対峙する。一人のインド人を殺した象ではあったが、既に凶暴性はなかった。撃つ必要はなく、撃ちたくもなかった。伊藤の文章を引用すれば、
「あの時、どうすべきだったのだろう。オーウェルは書いている。「私にははっきりと分かっていた。近づいてみて襲ってきたら撃てばいいし、気にもかけないようなら象使いが帰ってくるまで放っておいても大丈夫だと」。でも、そうしなかった。できなかった。撃て。そう群衆が無言で命じるのを背中が聞いたからだ。民衆と権力者のその手のやり取りに言葉は要らない。」
こうして、権力者が、群衆の無言の命令のもと、群衆に迎合した無用の行動に走ることになる。その行動が「象を撃つ」であり、人種や民族の差別であり、侵略戦争でもある。「象を撃つ」は、民衆を支配しているはずの権力者が、民衆の願望に支配される、逆説の一面の象徴となる。伊藤は続ける。
「「議事堂へ行くぞ」。トランプ米大統領は、象を撃った。象は倒れたか。撃った弾数は今、何発目だろう。いや、すでに群衆は、まだ生きている象の肉を一部そいでいる。これはディストピア小説ではない。」
トランプは、自分の支持者を煽動し支配しているつもりで、実は支持者たちの過剰な期待に応えねばならない苦しい立場に立たされたのだ。「議事堂へ行くぞ」「議事を阻止せよ」と、強がりを言わざるを得ない立場に追い込まれた。こうして、トランプは撃ちたくもない「象を撃った」。トランプが撃った象とは、民主主義という巨像である。幸い、まだ、撃たれた象は致命傷には至っていない。
トランプの心境は、オーエルが綴っている、以下のとおりであったろう。
「象は静かに草をはんでいた。一目で撃つ必要はないと確信したが、いつの間にか2000人を超えた群衆は、暗い期待で興奮している。撃ちたくなかった。だが、白人は植民地で現地民を前におじけづいてはならない。撃つしかなかった。」
もちろん、この事態は、今のアメリカだけのことではない。伊藤はこう言う。
「日本にもよそ事ではない。敗戦した神国ニッポンの軍国体制、ウソを重ねて恥じない指導者をウソと知りつつ支持し続けた国民、コロナ時代の「自粛警察」に表れた相互監視にいそしむ黒々した庶民心理。どれも立派に「オーウェル的」である。」
《神国ニッポンの軍国体制》の構造は分かり易い。天皇制権力が臣民を欺いて煽動する。煽動された臣民が、本気になって「神国ニッポン」という妄想を膨らませて政府の弱腰を非難し始める。こうなると、政府は臣民をコントロールできなくなって、やみくもに「象を撃ち」始めたのだ。こうして始まった戦争は、敗戦にまで至ることになる。
《ウソを重ねて恥じない指導者と、ウソと知りつつこれを支持し続けた国民》の関係はやや分かりにくい。安倍晋三という稀代のウソつきが総理大臣になって、ウソとゴマカシで固めた政治を強行した。ところが、少なからぬ国民がこのウソつきを許容した。「株さえ上がればよい政治」という人々の責任は重い。ウソつきと知りながら、そのウソに目をつむったまま、ウソつき政治家を抱えていると、ウソつき政治家は、自分の背中を見つめる民衆の目を誤解して、間違った方向に「象を撃ち」始める。こうして、安倍晋三政権は、いくつもの負のレジームを残した。
さて、背に受けた群衆の無言の圧力に負けて発砲する指導者では困るのだ。必要なのは、象使いが到着するまで群衆の興奮を静めるだけの力量を持った政治指導者である。民衆の信頼獲得しており、民衆との誠実な対話の能力が備わっていなければならない。安倍や菅のように、質疑とは論点をずらしてはぐらかすこと固く信じている輩は、明らかに失格なのだ。
(2021年1月8日)
「韓国裁判所が慰安婦被害者勝訴判決…『計画的、組織的…国際強行規範を違反』」こういうタイトルで、韓国メディア・中央日報(日本語版)が、以下のとおり伝えている。
旧日本軍慰安婦被害者が日本政府を相手に損害賠償訴訟を提起し、1審で勝訴した。日本側の慰謝料支払い拒否で2016年にこの事件が法廷に持ち込まれてから5年ぶりに出てきた裁判所の判断だ。
ソウル中央地裁は8日、故ペ・チュンヒさんら慰安婦被害者12人が日本政府を相手に起こした損害賠償請求訴訟で、原告1人あたり1億ウォン(約948万円)の支払いを命じる原告勝訴の判決を出した。
裁判所は「この事件の行為は合法的と見なしがたく、計画的、組織的に行われた反人道的行為で、国際強行規範に違反した」とし「特別な制限がない限り『国家免除』は適用されない」と明らかにした。
また「各種資料と弁論の趣旨を総合すると、被告の不法行為が認められ、原告は想像しがたい深刻な精神的、肉体的苦痛に苦しんだとみられる」とし「被告から国際的な謝罪を受けられず、慰謝料は原告が請求した1億ウォン以上と見るのが妥当」とした。
さらに「この事件で被告は直接主張していないが、1965年の韓日請求権協定や2015年の(韓日慰安婦)合意をみると、この事件の損害賠償請求権が含まれているとは見なしがたい」とし「請求権の消滅はないとみる」と判断した。
この判決の影響は大きい。被告は日本企業ではなく、日本という国家である。日本は、国際慣習法上の「主権免除」を理由に一切訴訟にかかわらなかった。いまさら、日本がこの判決の送達を受領して、適法な控訴をするとは考え難い。とすれば、この地裁判決は公示送達(韓国では、裁判所が書類を一定期間ホームページに掲示することで送達完了とみなすという)手続後の控訴期間徒過によって確定する公算が高い。またまた、韓国内の日本の国有財産差押えの問題が生じてくる。
菅首相がさっそく反応した。政府は、1965年の日韓請求権協定で解決済みだとする立場で、「断じて受け入れられない。訴訟は却下されるべきだ」と記者団に語っている。加藤官房長官も、「極めて遺憾で、断じて受け入れることはできない」と述べ、日本政府として強く抗議したことを明らかにしている。
あ?あ、このようにしか言いようはないのだろうか。原告となった女性に対する、いたわりやつぐないの心根はまったく窺うことができない。せめて、「原告となられた方々の御苦労はお察ししますし、我が国がご迷惑をおかけしたことには忸怩たる思いはありますが、当方としては、こういう立場です…」くらいのことが言えないのだろうか。そうすれば、韓国国民の気持ちを逆撫ですることもあるまいに。
韓国外務省の報道官は、8日の判決を受けて「裁判所の判断を尊重し、慰安婦被害者たちの名誉と尊厳を回復するために努力を尽くしていく」と論評したという。両国政府の落差は大きい。
この訴訟の原告は12人。日本政府の「反人道的な犯罪行為で精神的な苦痛を受けた」として、日本国を被告とする慰謝料の賠償請求訴訟だが、5年に及ぶ訴訟の期間に、半数の6人が亡くなったという。
「1965年日韓請求権協定で解決済み」が私的な請求権については通らない理屈であることは、実は日本政府もよく分かっている。徴用工訴訟判決で明確になってもいるし、日本の最高裁の立場も私的な請求権までが全て解決済みとは言っていない。
この訴訟の論点は、もっぱら『主権免除』適用の有無にあった。日本政府の立場は、「主権国家は他国の裁判権に服さない。これが国際法上確立した『主権免除の原則』であって、訴えは当然に却下されるべきだ」というもので、まったく出廷していない。訴状の送達も受け付けないし、当初は調停として申し立てられたこの事件に応じようともしなかった。
しかし、ソウル中央地方裁判所は本日の判決で、原告側の主張を容れて、主権免除の原則について「計画的かつ組織的に行われた反人道的な犯罪行為」には適用外とし、今回の裁判には適用されないとする判断を示した。
また、原告の損害賠償請求権は、1965年「日韓請求権協定」や、2015年の「慰安婦問題をめぐる日韓合意」の適用対象に含まれず、消滅したとは言えないとも判示しているという。
来週の13日(水)には、元慰安婦ら20人が計約30億ウォンの賠償を求めている事件での判決が言い渡される。おそらくは、本日と同様に請求認容の判決となるだろう。
これに自民党内からは韓国に対し、激しい怒りの声が上がっているという。佐藤正久外交部会長は「国家間紛争に発展する可能性がある」とツイートしたという。これは穏やかではないし、危険で愚かな対応でもある。
戦後補償問題においては、加害国・加害企業・加害者が、被害者本人と向き合わなければ、いつまでも真の解決にはならない。日本国対戦時性暴力被害者が、直接に向き合う恰好の舞台が設定されているのだ。日本政府は、これを好機として被害者と直接に向き合い真の解決を試みるべきではないか。
(2021年1月7日)
かつて、アメリカは、日本にとっての民主主義の師であった。そのアメリカが、今尋常ではない。民意が選挙を通じて議会と政府を作る、という民主主義の最低限の基本ルールが、この国では当たり前ではなくなった。
1月6日、バイデン勝利の大統領選結果を公式に集計する連邦議会の上下両院合同会議に、トランプの勝利を高唱する暴徒が乱入して、議事を妨害した。議事堂が大規模な侵入被害に遭うのは、米英戦争時に英国軍により建物が放火された1814年以来のこと。アメリカ合衆国の歴史の汚点というべきだろう。その汚点を作り出した、恥ずべき人物をドナルド・トランプという。彼が、暴徒を煽動したのだ。この汚名は、歴史に語り継がれることになるだろう。
バイデンは同日夕、テレビ演説で「これは米国の姿ではない。今、私たちの民主主義はかつてない攻撃にさらされている」と非難したという。だが、悲しいかな。「これが米国の姿なのだ。」
このトランプをツイッター社が叱った。同社は、投稿ルールに抵触したとして、トランプのアカウントを凍結したという。たいしたものだ、というべきか。恐るべき出来事というべきか。
一方中国では事情大いに異なる。中国電子商取引最大手アリババ集団の創業者、馬雲(ジャック・マー)が「姿を消した」と話題となっている。同人の政権批判に反応した当局が拘束したとの報道もある。
かつて中国は、世界の人民解放運動の先頭に立っていた。その輝ける中国が今輝いていない。尋常ではない。民意が選挙を通じて議会と政府を作る、という民主主義の最低限のルールが、この国では長く当たり前ではなくなっている。法の支配という考え方もない。剥き出しの権力が闊歩しているのだ。恐るべき野蛮というほかはない。
香港は一国二制度のはずだった。二制度とは、「野蛮と文明」を意味する。つまり、中国本土は野蛮でも、香港には文明の存在を許容するという約束。昨年来の一国二制度の崩壊とは、香港の文明が中国の野蛮に蹂躙されるということなのだ。
昨日(1月6日)朝の香港で、立法会の民主派の前議員や区議会議員など50人余が逮捕された。被疑事実は、香港国家安全維持法上の「政権転覆罪」だという。これは、おどろおどろしい。
去年6月末に施行された「香港国家安全維持法」は、
(1) 国の分裂
(2) 政権の転覆
(3) テロ活動
(4) 外国勢力と結託して、国家の安全に危害を加える行為
の4つを取締りの対象としているという。今回は、初めて「政権の転覆」条項での取締りだという。
昨年7月、民主派が共倒れを防ぐために候補者絞り込みの予備選を実施した。これが政権の転覆を狙った犯罪だというのだ。さすがに野蛮国というしかない。戦前、治安維持法をふりかざした天皇制政府もひどかったが、中国当局も決して引けは取らない。
バイデン次期政権の国務長官に指名されているブリンケンは、ツイッターに投稿し「香港民主派の大がかりな逮捕は、普遍的な権利を主張する勇敢な人たちへの攻撃だ」と批判したという。そのうえで「バイデン・ハリス政権は香港の人たちを支持し、中国政府による民主主義の取締りに反対する」と書き込み、中国政府に強い姿勢で臨む立場を示したと報道されている。
米国内でも対中関係でも、アメリカのデモクラシーは蘇生するだろうか。中国の野蛮はどこまで続くことになるのだろうか。日本もひどいが、アメリカもひどい。中国はもっともっとひどい。
暗澹たる気持ちにならざるを得ないが、香港にも、中国国内にも、最も厳しい場で苛酷な弾圧にめげずに、自由や人権を求めて闘い続けている人たちがいる。その心意気を学ばねばならないと思う。
(2021年1月6日)
例年、暮れから正月の休みには、まとまったものを読みたいと何冊かの本を取りそろえる。が、結局は時間がとれない。今年も、年の瀬に飛び込んできた解雇事件もあり、ヤマ場の医療過誤事件の起案もあった。「日の丸・君が代」処分撤回の第5次提訴も近づいている。やり残した仕事がはかどらぬ間に、正月休みが終わった。結局は例年のとおりの、何もなしえぬ繰り返しである。
取りそろえた一冊に、津田左右吉の「古事記及び日本書紀の研究[完全版]」(毎日ワンズ)がある。刊行の日が2020年11月3日。菅新政権がその正体を露わにした、学術会議会員任命拒否事件の直後のこと。多くの人が、学問の自由を弾圧した戦前の歴史を意識して、この書を手に取った。私もその一人だ。
が、なんとも締まらない書物である。巻頭に、南原繁の「津田左右吉博士のこと」と題する一文がある。これがいけない。これを一読して、本文を読む気が失せる。
南原繁とは、戦後の新生東大の総長だった人物。政治学者である。吉田茂政権の「片面講和」方針を批判して、吉田から「曲学阿世の徒」と非難されても屈しなかった硬骨漢との印象もあるが、この巻頭言ではこう言っている。
「津田左右吉博士の研究は、そもそも出版法などに触れるものではない。その研究方法は古典の本文批判である。文献を分析批判し、合理的解釈を与えるという立場である。そして、研究の関心は日本の国民思想史にあった。裁判になった博士の古典研究にしても、『古事記』『日本書紀』は歴史的事実としては曖昧であり、物語、神話にすぎないという主張であった。その結果、天皇の神聖性も否定せざるを得ないし、仲哀天皇以前の記述も不確かであるという結論がなされたのである。」
これだけで筆を止めておけばよいものを、南原はこう続けている。
「右翼や検察側は片言隻句をとらえて攻撃したが、全体を読めば、国を思い、皇室を敬愛する情に満ちているのである。」
また南原は、同じ文書で戦後の津田左右吉について、こうも言っている。
「博士は、われわれから見て保守的にすぎると思われるくらいに皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価された。まことに終始一貫した態度をとられた学者であった。」
津田の「皇室を敬愛する情に満ち」「終始一貫、皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価した」姿勢を、「学者として」立派な態度と、褒むべきニュアンスで語っている。このことは、南原自身の地金をよく表しているというべきだろう。これが、政治学者であり、東大総長なのだ。
また、この書は読者に頗る不親切な書である。いったいこの書物のどこがどのように、右翼から、また検事から攻撃され、当時の「天皇の裁判所」がどう裁いたか。この書を読もうとする人に、語るところがない。今の読者の関心は、記紀の内容や解釈にあるのではなく、戦前天皇制下の表現の自由や学問の自由、さらには司法の独立の如何を知りたいのだ。
南原の巻頭の一文を除けば、この300余頁の書は、最後の下記3行を読めば足りる。
『古事記』及びそれに応ずる部分の『日本書紀』の記載は、歴史ではなくして物語である。そして物語は歴史よりもかえってよく国民の思想を語るものである。これが本書において、反覆証明しようとしたところである。
確かに、この書は真っ向から天皇制を批判し、その虚構を暴こうという姿勢とは無縁である。後年に至って「皇室を敬愛する情に満ち」「皇室の尊厳を説く」と、評されるこの程度の表現や「学問」が、何故に、どのように、当時の天皇制から弾圧されたか。そのことをしっかりと把握しておくことは、今の世の、表現の自由、学問の自由の危うさを再確認することでもある。
戦前の野蛮な天皇制政府による学問の自由への弾圧は、1933年京都帝大滝川幸辰事件に始まり、1935年東京帝大天皇機関説事件で決定的な転換点を経て、1940年津田左右吉事件でトドメを刺すことになる。
太平洋戦争開戦の前年である1940年は、天皇制にとっては皇紀2600年の祝賀の年であった。その年の紀元節(2月10日)の日に、津田左右吉の4著作(『神代史の研究』『古事記及び日本書紀の研究』『日本上代史研究』、『上代日本の社会及び思想』、いずれも岩波書店出版)が発売禁止処分となった。当時の出版法第19条を根拠とするものである。
そして、同年3月8日、津田左右吉と岩波茂雄の2人が起訴された。罰条は、不敬罪でも治安維持法でもなく、「皇室の尊厳を冒涜した」とする出版法第26条違反であった。南原の巻頭言に「20回あまり尋問が傍聴禁止のまま行なわれた」とこの裁判の様子が描かれている。天皇の権威にかかわる問題が、公開の法廷で論議されてはならないのだ。
翌1937年5月21日、東京地裁は有罪判決を言い渡す。津田は禁錮3月、岩波は禁錮2月、いずれも執行猶予2年の量刑であった。公訴事実は5件あったが、その4件は無罪で1件だけが有罪となった。結果として、起訴対象となった4点の内、『古事記及び日本書紀の研究』の内容のみが有罪とされた。
何が有罪とされたのか。これがひどい。「初代神武から第14代仲哀までの皇室の系譜は、史実としての信頼性に欠ける」という同書の記述が、「皇室の尊厳を冒涜するもの」と認定された。これでは、歴史は語れない。これでは学問は成り立たない。恐るべし、天皇制司法である。
なお、判決には、検事からも被告人からも控訴があったが、「裁判所が受理する以前に時効となり、この事件そのものが免訴となってしまった。これは戦争末期の混乱によるものと思われる」と、南原は記している。
古事記・日本書紀は、天皇の神聖性の根源となる虚妄の「神話」である。神代と上古の記述を誰も史実だとは思わない。しかし、これを作り話と広言することは、「皇室の尊厳を冒漬すること」にならざるを得ないのだ。それが、天皇制という、一億総マインドコントロール下の時代相であり、天皇の裁判所もその呪縛の中にあった。
あらためて、学問の自由というものの重大さ、貴重さを思う。
(2021年1月5日)
毎日新聞デジタルの本日付のインビュー記事のタイトルである。私はノーベル賞の権威を認めない。だから、ノーベル賞受賞者の言をありがたがる心もちは皆無である。が、この人、臆するところなく、言うべきことをきちんと口にしている。なるほど、読み応え十分である。その、本庶さんの語るところを抜粋してみる。
僕は、医療を守り、安全な社会を作ることでしか経済は回復しないと考えます。政府はこの順番を間違えています。人々が安心して活動できてはじめて、自然と経済活動が活性化するはずです。政府は観光業を救おうと需要喚起策「GoToキャンペーン」を昨年の夏に始めましたが、検査を求めても受けられないようでは、旅行する気にはなかなかならないのではないでしょうか。
(コロナの流行を抑えるには)検査をしっかりやる体制が必要だと考えます。入国時の防疫体制も重要です。ワクチンでコロナの流行がいきなりなくなるわけではありません。政府は「検査をやり過ぎると医療が崩壊する」と言って相変わらず検査数を抑え込んでいます。旅行業界や飲食店はGoToで支援しようとするのに、医療従事者や医療機関にはどんな支援があったのでしょうか。看護師不足や患者の受診控えによる医療機関の経営悪化の問題。「医療は大切」と言葉では言いますが、具体的に何をしてきたのでしょう。政府予算の中で、医療提供体制の強化策は経済対策と比べて極めて微々たるものです。国民の安全、安心に関係することをなぜしっかりやらないのでしょうか。医療の逼迫は人為的に引き起こされている面があると言わざるを得ません。
少なくとも「感染しているかも」と思ったら即座に検査を受けられる体制を作るべきで、早期の検査はコロナ感染の広がりを防ぐ予防手段なのです。日本のクラスター(感染者集団)対策ですが、あくまでコロナが発生した後の処理で、コロナの感染が拡大するのを予防することはできません。予防的観点からの広範な検査体制の確立と陽性者の隔離が必要なのです。また、検査に資金を投じた方が社会的還元は大きいと考えます。政治の最大の使命は国民が安心して生活できることのはず。それによって経済が活性化していくわけで、現在はそれができていない。根本的な問題だと思います。
崩壊が取り沙汰されている医療提供体制は、感染症に対してもっと備えておくべきです。たとえ新型コロナが収束しても、新しい感染症のリスクは常にあるからです。司令塔不在の厚生労働省、医療従事者の犠牲によって成り立つ国民皆保険制度、それぞれの改革にきっちり取り組むべきでしょう。
本庶発言の白眉は、「政府は『医療は大切』と言葉では言いますが、具体的に何をしてきたのでしょう」という重い一言。思い当たるし、具体性があるから、厳しいものになっているのだ。
毎日も、このフレーズをタイトルにとって、「『医療は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」とアピールした。これは、広範囲に応用が利く。『医療』を他の言葉に置き換えることがいくらでも可能なのだ。
「『学問の自由は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『教育は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『人命は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『真実は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『説明責任は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『憲法は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『公平な選挙制度は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『福祉は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『貧困の撲滅は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『表現の自由は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『政教分離は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『平和は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『司法の独立は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『歴史の真実を見つめることは大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『デマやヘイトの一掃は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『国民の豊かな生活こそが大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『公文書の管理は何より大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
政府は何もしてこなかった。ただただ、総理大臣のオトモダチを優遇し、国民には自助努力を求めてきただけではないか。
(2021年1月4日)
正月三が日の明けには、三余という言葉を思い出す。冬(年の余り)と、夜(日の余り)と、陰雨(時の余)を指して、このときにこそ書を読み思索して学問をせよということらしい。「余」という語感が面白い。原義とは離れるかも知れないが、はみ出した自由なひととき、というニュアンスがある。ならば、昨日までの正月三が日が、まさしく「三余」であった。その三が日がなすこともなく終わって、せわしい日常が戻ってきた。しかも今日は月曜日。
事情は下々だけでなく首相も同様のごとくである。本日の年頭の記者会見が、彼の仕事始め。予め用意された原稿をまずは読み上げた。下記は、その後半の一節(官邸ホームページから)。
コロナ危機は、国際社会の連帯の必要性を想起させました。我が国は、多国間主義を重視しながら、「団結した世界」の実現を目指し、ポストコロナの秩序づくりを主導してまいります。
そして、今年の夏、世界の団結の象徴となる東京オリンピック・パラリンピック競技大会を開催いたします。安全・安心な大会を実現すべく、しっかりと準備を進めてまいります。
本年も、国民の皆様にとって何が「当たり前のこと」なのかをしっかりと見極め、「国民のために働く内閣」として、全力を尽くしてまいります。国民の皆様の御理解と御協力を賜りますよう、お願い申し上げます。
客観的に見て、頗る出来の悪い文章というほかない。何を言いたいのか、言っているのか、皆目分からない。言質を取られないように、ことさら何を言っているのか分からない、具体性のない言葉を連ねているだけなのだろう。聴く人の心に響くところがない。訴える力もない。
伝わってきたのは、「東京オリパラはやりたい」という願望のみ。それも「やれたらいいな」という程度のもの。コロナ対策とどう折り合いを付けるのかという、具体策は語られない。何よりも、情熱に欠ける。
わずか15分間だが、記者からの質問に答弁した。幹事社からの質問には答弁の原稿が準備されているものの、それ以外の記者との質疑は首相にとっての恐るべき試練であり、避くべき鬼門である。
その鬼門に待ち構えていたのが、フリーランスの江川紹子。質問が聴かせた。
「外交関係になるんですが、中国の問題です。リンゴ日報の創業者の人が勾留されたり、あるいは周庭さんが重大犯罪を収容する刑務所に移送されたというような報道がありました。天安門事件の時の日本政府の融和的な方針も明らかになって、議論も招いているところであります。菅首相はこの一連の問題についてどのように考えるのかお聞かせください」
これに対する菅答弁は以下のとおり。
「中国問題については、多くの日本国民が同じ思いだと思っています。民主国家であって欲しい。そうしたことについて日本政府としても折あるところに、しっかり発信をしていきたいと思ってます」
率直で、悪くない答弁ではないか。スガ君、原稿見ないでもしゃべれるじゃないか。おっしゃるとおりだよ。中国に民主主義が根付くことは、日本国民圧倒的多数の共通の願いだ。世界の良識が「当たり前のこと」とする、人権尊重も中国に望みたいところ。
まずは、このことを口に出したことについて評価したい。その上で、今後はその言葉のとおり、「そうしたことについて、日本政府としては折あるごとに、しっかりと明瞭に発信をしていくよう」期待したい。
(2021年1月3日)
昨日の毎日新聞デジタルに、「『へいわって…?』 激動の香港で日本の絵本が読まれている理由」という記事がある。
https://mainichi.jp/articles/20210101/k00/00m/030/175000c
「中国政府による締めつけが続く香港で、日本の絵本『へいわって どんなこと?』が読まれ続けている。日中韓の3カ国で出版された後、2019年12月に新たに「香港版」が刊行され、現地の出版賞も受賞した。」という内容。
浜田桂子さんが執筆した、この絵本には「へいわって どんなこと?」の問いかけに、考え抜かれたこんな答が連ねられている。
「きっとね、へいわってこんなこと。
せんそうをしない。
ばくだんなんかおとさない。
いえやまちをはかいしない。
おなかがすいたら だれでもごはんがたべられる
おもいっきり あそべる
あさまで ぐっすり ねむれる」
それだけでなく、
「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる。」
そしておしまいが、
「へいわって ぼくがうまれて よかったっていうこと
きみがうまれて よかったっていうこと
そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」
と結ばれているという。
浜田さんは「平和絵本は戦争の悲惨さを伝えるものが中心で、これが平和だよと伝えるような作品がないと感じていました。自分にとって平和とは何かを考えられるようなものを作りたいという思いが、ずっとありました」と語っている。
この絵本の制作は中国・韓国・日本の3カ国12人の作家によるプロジェクトによって生まれた。「悲惨な戦争ない状態の平和」にとどまらず、積極的に平和とその価値を語ろうという試み。その結論は、「ぼくがうまれて よかったっていうこと。きみがうまれて よかったっていうこと。そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」と収斂する。なるほど、と頷かざるを得ない。
今、香港に、せんそうはない。ばくだんなんかおとされていない。いえやまちがはかいされているわけでもない。しかし、明らかに「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる」状況にはない。「ぼくがうまれて よかったっていうこと。きみがうまれて よかったっていうこと。そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」とは、ほど遠いものと言わざるを得ない。
だから今、「香港にはこの絵本が必要」とされているのだという。香港で絵本は増刷され、2020年末までの1年間で6000部発行された。2020年7月には、この絵本が公共放送局「香港電台(RTHK)」が主催する出版賞「香港書奨」(Hong Kong Bookprize)の9作品に選ばれた。30年以上続く伝統ある賞で、作品は「子どもの視点から、平和とは何かを伝えている。人間性の真善美を示している」と評されたと、毎日は伝えている。
この記事の示唆するとおり、香港は「平和」ではない。そのとおりだと思う。だとすれば、中国本土にも「平和」はない。香港以上に、「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる」状況にはないからだ。言論が抑圧され、平和なデモ参加者が逮捕され有罪とされる社会は「平和」とは言えない。その地に、「ぼくがうまれてよかったって。きみがうまれてよかった」という安心が得られないからだ。
日本国憲法は、人権と民主主義と平和を3本の柱として成り立っており、それぞれの柱は互いに緊密に支えあっている。日本国憲法だけではない。いずれの国や社会においても、人権と民主主義を欠いた、「平和」はあり得ない。専制が人権を蹂躙するところ、たとえ隣国との交戦はなくとも「平和」ではない。
(2021年1月2日)
めでたくもないコロナ禍の正月。年末までに解雇された人が8万と報じられたが、そんな数ではあるまい。暗数は計り知れない。一方、株価の上昇は止まらない。なんというグロテスクな社会。あらためて、この国の歪み、とりわけ貧困・格差の拡大が浮き彫りになっている。
暮れから年の始めが、まことに寒い。この寒さの中での、路上生活者がイヤでも目につく。心が痛むが、痛んでも何もなしえない。積極的に具体的な支援活動をしている人々に敬意を払いつつ、なにがしかのカンパをする程度。
コロナ禍のさなかに、安倍晋三が政権を投げ出して菅義偉承継政権が発足した。その新政権の最初のメッセージが、冷たい「自助」であった。貧困と格差にあえぐ国民に対して、「自助努力」を要請したのだ。明らかに、「貧困は自己責任」という思想を前提としてのものである。
国家とは何か、何をなすべきか。今痛切に問われている。
国家はその権力によって、社会秩序を維持している。権力が維持している社会秩序とは、富の配分の不公正を容認するものである。一方に少数の富裕層を、他方に少なくない貧困層の存在を必然とする富の偏在を容認する社会秩序と言い換えてもよい。富の偏在の容認を利益とする階層は、権力を支持しその庇護を受けていることになる。
しかし、貧困と格差が容認しえぬまでに顕在化すると、権力の基盤は脆弱化する。権力の庇護を受けている富裕層の地位も不安定とならざるをえない。そこで国家は、その事態を回避して、現行秩序を維持するために、貧困や格差の顕在化を防止する手段を必要とする。
また、貧困や格差を克服すべきことは、理性ある国民の恒常的な要求である。富裕層の利益擁護を第一とする国家も、一定の譲歩はせざるを得ない。
ここに、社会福祉制度存在の理由がある。が、その制度の内容も運用も、常にせめぎ合いの渦中にある。財界・富裕層は可能な限り負担を嫌った姿勢をしめす。公権力も基本的には同じだ。しかし、貧困・格差の顕在化が誰の目にも社会の矛盾として映ってくると、事態は変わらざるを得ない。今、コロナ禍は、そのことを突きつけているのではないか。
本来、国家は国民への福祉を実現するためにこそある。今こそ、国庫からの大胆な財政支出が必要であり、その財源はこれまで国家からの庇護のもと、たっぷりと恩恵に与っていた財界・富裕層が負担すべきが当然である。富の再配分のありかたの再設定が必要なのだ。
生活保護申請者にあきらめさせ申請撤回させることを「水際作戦」と呼んできた担当窓口の姿勢も変わらざるを得ない。
この暮れ、厚労省が「生活保護は国民の権利です」と言い始めた。
「コロナ禍で迎える初めての年末年始に生活困窮者の増加が心配されるなか、厚生労働省が生活保護の積極的な利用を促す異例の呼びかけを始めた。「生活保護の申請は国民の権利です」「ためらわずにご相談ください」といったメッセージをウェブサイトに掲載し、申請を促している。」「厚労省は22日から「生活保護を申請したい方へ」と題したページを掲載し、申請を希望する人に最寄りの福祉事務所への相談を呼びかけている。」(朝日)
結構なことだが、これだけでは足りない。相も変わらぬ「自助努力」要請路線では、人々が納得することはない。昔なら、民衆の一揆・打ち壊しの実力行使が勃発するところ。幸い、われわれは、表現の自由の権利をもち、投票行動で政権を変えることもできる。
今年は、総選挙の年である。無反省な政権に大きな打撃を与えたいものである。