澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「古事記及び日本書紀の研究」(津田左右吉)拾い読み

(2021年1月6日)
例年、暮れから正月の休みには、まとまったものを読みたいと何冊かの本を取りそろえる。が、結局は時間がとれない。今年も、年の瀬に飛び込んできた解雇事件もあり、ヤマ場の医療過誤事件の起案もあった。「日の丸・君が代」処分撤回の第5次提訴も近づいている。やり残した仕事がはかどらぬ間に、正月休みが終わった。結局は例年のとおりの、何もなしえぬ繰り返しである。

取りそろえた一冊に、津田左右吉の「古事記及び日本書紀の研究[完全版]」(毎日ワンズ)がある。刊行の日が2020年11月3日。菅新政権がその正体を露わにした、学術会議会員任命拒否事件の直後のこと。多くの人が、学問の自由を弾圧した戦前の歴史を意識して、この書を手に取った。私もその一人だ。

が、なんとも締まらない書物である。巻頭に、南原繁の「津田左右吉博士のこと」と題する一文がある。これがいけない。これを一読して、本文を読む気が失せる。

南原繁とは、戦後の新生東大の総長だった人物。政治学者である。吉田茂政権の「片面講和」方針を批判して、吉田から「曲学阿世の徒」と非難されても屈しなかった硬骨漢との印象もあるが、この巻頭言ではこう言っている。

「津田左右吉博士の研究は、そもそも出版法などに触れるものではない。その研究方法は古典の本文批判である。文献を分析批判し、合理的解釈を与えるという立場である。そして、研究の関心は日本の国民思想史にあった。裁判になった博士の古典研究にしても、『古事記』『日本書紀』は歴史的事実としては曖昧であり、物語、神話にすぎないという主張であった。その結果、天皇の神聖性も否定せざるを得ないし、仲哀天皇以前の記述も不確かであるという結論がなされたのである。」

これだけで筆を止めておけばよいものを、南原はこう続けている。

「右翼や検察側は片言隻句をとらえて攻撃したが、全体を読めば、国を思い、皇室を敬愛する情に満ちているのである。」

 また南原は、同じ文書で戦後の津田左右吉について、こうも言っている。

「博士は、われわれから見て保守的にすぎると思われるくらいに皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価された。まことに終始一貫した態度をとられた学者であった。」

 津田の「皇室を敬愛する情に満ち」「終始一貫、皇室の尊厳を説き、日本の伝統を高く評価した」姿勢を、「学者として」立派な態度と、褒むべきニュアンスで語っている。このことは、南原自身の地金をよく表しているというべきだろう。これが、政治学者であり、東大総長なのだ。

また、この書は読者に頗る不親切な書である。いったいこの書物のどこがどのように、右翼から、また検事から攻撃され、当時の「天皇の裁判所」がどう裁いたか。この書を読もうとする人に、語るところがない。今の読者の関心は、記紀の内容や解釈にあるのではなく、戦前天皇制下の表現の自由や学問の自由、さらには司法の独立の如何を知りたいのだ。

南原の巻頭の一文を除けば、この300余頁の書は、最後の下記3行を読めば足りる。

 『古事記』及びそれに応ずる部分の『日本書紀』の記載は、歴史ではなくして物語である。そして物語は歴史よりもかえってよく国民の思想を語るものである。これが本書において、反覆証明しようとしたところである。

 確かに、この書は真っ向から天皇制を批判し、その虚構を暴こうという姿勢とは無縁である。後年に至って「皇室を敬愛する情に満ち」「皇室の尊厳を説く」と、評されるこの程度の表現や「学問」が、何故に、どのように、当時の天皇制から弾圧されたか。そのことをしっかりと把握しておくことは、今の世の、表現の自由、学問の自由の危うさを再確認することでもある。

戦前の野蛮な天皇制政府による学問の自由への弾圧は、1933年京都帝大滝川幸辰事件に始まり、1935年東京帝大天皇機関説事件で決定的な転換点を経て、1940年津田左右吉事件でトドメを刺すことになる。

太平洋戦争開戦の前年である1940年は、天皇制にとっては皇紀2600年の祝賀の年であった。その年の紀元節(2月10日)の日に、津田左右吉の4著作(『神代史の研究』『古事記及び日本書紀の研究』『日本上代史研究』、『上代日本の社会及び思想』、いずれも岩波書店出版)が発売禁止処分となった。当時の出版法第19条を根拠とするものである。

そして、同年3月8日、津田左右吉と岩波茂雄の2人が起訴された。罰条は、不敬罪でも治安維持法でもなく、「皇室の尊厳を冒涜した」とする出版法第26条違反であった。南原の巻頭言に「20回あまり尋問が傍聴禁止のまま行なわれた」とこの裁判の様子が描かれている。天皇の権威にかかわる問題が、公開の法廷で論議されてはならないのだ。

翌1937年5月21日、東京地裁は有罪判決を言い渡す。津田は禁錮3月、岩波は禁錮2月、いずれも執行猶予2年の量刑であった。公訴事実は5件あったが、その4件は無罪で1件だけが有罪となった。結果として、起訴対象となった4点の内、『古事記及び日本書紀の研究』の内容のみが有罪とされた。

何が有罪とされたのか。これがひどい。「初代神武から第14代仲哀までの皇室の系譜は、史実としての信頼性に欠ける」という同書の記述が、「皇室の尊厳を冒涜するもの」と認定された。これでは、歴史は語れない。これでは学問は成り立たない。恐るべし、天皇制司法である。

なお、判決には、検事からも被告人からも控訴があったが、「裁判所が受理する以前に時効となり、この事件そのものが免訴となってしまった。これは戦争末期の混乱によるものと思われる」と、南原は記している。

古事記・日本書紀は、天皇の神聖性の根源となる虚妄の「神話」である。神代と上古の記述を誰も史実だとは思わない。しかし、これを作り話と広言することは、「皇室の尊厳を冒漬すること」にならざるを得ないのだ。それが、天皇制という、一億総マインドコントロール下の時代相であり、天皇の裁判所もその呪縛の中にあった。

あらためて、学問の自由というものの重大さ、貴重さを思う。

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