澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

安倍流解釈改憲ーその薄汚さの形容いろいろ

内閣法制局長官のクビのすげ替えによる、集団的自衛権行使容認への安倍流解釈改憲の薄汚さの形容。いろいろに言われているものを整理してみよう。

「これは改憲クーデターだ」
内閣限りの憲法解釈の変更で、日本を戦争ができる国に変えてしまおうというたくらみ。国民の意思を抑え込んでの国の基本構造の転換は、まさしく「改憲クーデター」というにふさわしい。

「立憲主義に反する」
恣意的な権力行使を許さぬよう、国民が権力者を縛るのが憲法制定の趣旨。権力が勝手な解釈で憲法の縛りをすり抜けることは、立憲主義を無にするものとして許されない。

「これは法治主義違反」
公権力の行使が法に基づくものであってはじめて国民生活は安定する。ところが、法制局長官の人事次第で法の内容が変わったとしたら…、それこそ「法治」ではなく「人治」の悪夢だ。

「まさしく脱法行為だ」
国民が制定した憲法は、国民が憲法改正手続をも決めている。この正規の手続を踏まずに、条文の解釈を変えることによって事実上の改憲をしてしまうもの。これが、憲法の改正規定を僣脱する「脱法行為」なのだ。

「なし崩し改憲は許されない」
例の麻生流「ナチスに学べ」手口。「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」というもの。安倍流解釈改憲は、その手口を学ぼうとしてのもの。
「憲法解釈がなし崩しに変更されたら、他国から攻撃されるより先に『法治国家』日本が崩壊する」。これは、毎日・特集ワイド(8月20日)の締めくくりの名言。

「これはどう見ても本末転倒」
「本」は憲法改正の正規の手続。「末」は人事権利用の解釈改憲手口。解釈改憲のすべてが本末転倒となる。視点を変えて、憲法の平和主義が「本」、アメリカへの従属が「末」と解してもよい。

「これは邪道だ」
邪道は、正道に対するもの。正々堂々と国民に信を問うのが正道。正道を歩んだのでは、国民を説得する自信を欠くからこその安倍流邪道なのだ。

「やり口が姑息だ」
姑息とは、卑怯、卑劣、怯懦の同義語。要するに、正々堂々としていない、公明正大なところがない、潔さも毅然さもない、アンフェアな手口ということ。

「これは裏口改憲ではないか」
表口からの訪問は、門前払いとなることが目に見えている。だから、こっそりと裏口から、という手口となる。改憲内容以上に、こういう改憲のやり方が国民の反発を招くことになるだろう。

「解釈の限界を超えている」
これは、手口の汚さそのものではないが決定的な批判である。阪田雅裕元内閣法制局長官が、「集団的自衛権の行使容認と9条2項の整合性は…憲法全体をどうひっくり返してもその余地がない」というとおりなのだ。

そして、この手口を薄汚さの視点から批判する人としては、今のところ、阪田雅裕・山本庸幸の元内閣法制局長官のお二人、自民党長老の古賀誠・山崎拓の両氏、それに元防衛庁官房長の柳沢協二氏などが目立っている。

加えて、公明党からも名乗りを上げた人がいる。
「公明党の斉藤鉄夫幹事長代行は20日夜のBS番組で、憲法解釈の変更による集団的自衛権行使の容認について「本当に(行使を認める)必要があるなら、憲法改正の議論をすることの方が筋ではないか。憲法解釈上、認めるのは論理的にかなり無理がある」と、反対する考えを示した。
斉藤氏は集団的自衛権について「海外で外国軍と軍事行動することができる権利だ」と指摘。「(行使を認めれば)平和国家として生きていくと宣言してきた日本の生き方を根本から変える」と強調した。

公明党にも、筋の通った人がいる。他党からも、陸続とこれに続く人の出でんことを期待したい。

なお、実は今朝の「毎日」を開いて驚いた。昨日(8月20日)の山本庸幸氏記者会見記事についてである。

大きな活字の見出しが、「集団的自衛権:山本最高裁判事『改憲が適切』」となっている。そして、何とも小さな活字で、「解釈変更『難しい』」と添えられている。これだけ見れば、山本庸幸最高裁判事が「集団的自衛権容認に向けて改憲すべきが適切」と語ったごとくではないか。しかも、解釈変更「難しい」の添え書きは、「解釈の変更は難しいのだから断固憲法改正をすべきだ」とさえ読める。こんな見出の付け方でよいのか。

ちなみに各紙を較べてみた。
朝日「集団的自衛権行使容認『非常に難しい』 最高裁判事会見」
共同「前法制局長官、憲法解釈変更は困難 集団的自衛権で」
時事「憲法解釈変更『難しい』=集団的自衛権で山本新判事―最高裁」
東京「集団的自衛権『憲法解釈では容認困難』最高裁判事就任 山本前法制局長官」
日経「山本新判事、解釈変更『難しい』 集団的自衛権行使で」

読売の報道はなく、産経が「『憲法改正が適切』 前内閣法制局長官 最高裁判事就任で」である。今回の見出に関する限り、毎日が産経並みなのだ。何たる醜態…。

私は長年の「毎日」愛読者。型に嵌められずに、各記者がのびのびと記事を書いている雰囲気がよい。ということは社論に統一性を欠くということでもある。張り切って記事を書いた記者は、整理部にこんな見出しをつけられて、さぞ不満なことだろう。
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  夏の花「クサギ(臭木)」
夏の花木は情緒に欠ける。花の色が強烈なものが多い。ノウゼンカズラ(凌霄花)のあのオレンジ色はどうだ。ヒャクジッコウ(百日紅)の紅色は野暮ったい。百日もの長い間咲いて、一体全体、夏をいつまで長引かせるつもりだ。濃いピンクのぼってりした八重花のキョウチクトウ(夾竹桃)が咲いていると景色が重苦しくなる。排気ガスを生産しているのはお前さんか。紫紅のムクゲ(木槿)は毎日毎日花を咲かせ続けてよくも飽きないものだ。ムクゲの無限の強靱さに人は圧倒されてしまう。

と、あまりの暑さに、お門違いの言いがかりをつけてみる。実を言えば、ヒャクジッコウにも雪のような白花がある。キョウチクトウだってムクゲだって、一重の白花は清々しいものだ。夏の花は生命力と不屈のパワーにあふれて、暑さにも乾燥にもびくともしない。これくらいの暑さで、弱音を吐く人間は、恐れ入って見習うべきであろう。

その夏の花のなかで、とくに名前で大損をしている花がある。クサギ(臭木)である。触ったりもんだりすると枝や葉っぱに臭気がある。ビタミン剤のような、オナラのような臭いがする。けれども、この若葉は立派な山菜で、ゆでたり、油で炒めたりしておいしくいただける。臭いのは摘んでいるときだけで、加熱すると全く臭わなくなる。ゆでて乾燥して、飢饉のときのための保存食にしたこともある。

真夏の今頃、8,9月いっぱい咲くクサギの花はなかなか美しい。枝の先が散状花序でおおわれて、5メートルほどの木全体が薄いピンクのパラソルを拡げたようにみえる。近寄ってみると、1センチぐらいの真っ白いプロペラのような花が、ピンクがかった萼から長く突き出て無数に咲いている。こよりのような蘂が猫のひげのようにピンピンと出ている。不思議なことに、花はユリのような甘い香りがする。それに誘われて、昼はいろいろなアゲハチョウ、夜間はスズメガなどが群がって賑やかである。

そして、晩秋には、実がなる。つやつやとした赤紫色になった5弁の萼の真ん中に濃い藍色をした丸い実がコロンと鎮座する。これが木全体をおおうようについて、秋空に浮き上がる。大変派手で、サイケデリックである。この藍色の玉のような実を煮出して、「クサギ染め」ができる。媒染なしで、絹は青空のような透明なブルーに染まる。明礬などの媒染を使って、木綿もブルーから濃い紺色まで染めることができる。

「臭木」の名ゆえ、わざわざ庭に植える人も少ないが、実生がよく出るので、地方へ行けば、日当たりのよい道路脇などに無造作にはえている。学名は「クレロデンドロン・トリコトミュウム」で、「運命の木」の意だそうだ。なぜ「運命の木」なのかはよく分からないが、この学名をつけた人は、乾いた標本しか手に取ったことがなかったのだろう。

この美しい木には「臭木」の名はふさわしくない。「運命の木」もイマイチ。よい名前をつけてもらってさえいたら、この木はもっと人の身近に植えられたろうに、と少しかわいそうな気がする。
(2013年8月21日)

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Published in 水曜日, 8月 21st, 2013, at 23:19, and filed under 未分類.

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