「日本国憲法時代遅れ論」論者の時代遅れ
肩の力を抜いて、気楽にお読みいただきたい。
改憲論の一つに、「日本国憲法時代遅れ論」がある。制定以来65年余を一度もリニューアルしてこなかったから、日本国憲法は古くさくなって、変化した時代の状況に合わなくなった。そろそろ、時代に合わせた衣替えが必要、という論法である。これを「自民党改憲草案Q&A」では、「時代の要請に即した形での憲法改正」と表現している。
憲法とは現実として既にあるものではない。法的拘束力をもってはいるが、飽くまで理想であり目標である。現実に追い越された理想は時代遅れとなるが、今、現実は憲法の理想に肉薄すらしていない。人権・国民主権・恒久平和という日本国憲法の理想は、現実をリードする規範としてその輝きをいささかも失っていない。私はそう確信している。
とはいえ、憲法制定当時には理想として掲げることができなかった時代の制約がなかったわけではない。今ならこんなことも‥、といういくつかは思いつく。
まずは、天皇制の廃止である。憲法発足の当時、旧臣民の圧倒的多数が天皇制の呪縛下にあった。その時代の制約下に象徴天皇制が憲法の第1章に位置することになった。しかし、これほど古くさく、時代遅れのものは他にあるまい。65年後の今日、日本国憲法の第1章が「天皇」から始まっているのは不自然極まる。憲法のここだけが、まことに座りの悪い時代遅れの古くささを漂わせている。この点のリニューアルなら合理性があろう。
基本的人権の条項には、65年前の主権者が考え及ばなかった新しい権利がありうる。同性婚はその典型。憲法24条が、「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し」とあるのを、「婚姻は異性または同性両名の合意に基づいて成立する」という改正が第一歩。3人以上の婚姻関係を認める状況が成熟しているとは軽々には言えまい。
形式的な人権保障にとどまらず、その権利を実現する手段の保障が追求されなければならない。たとえば、表現の自由を形式的に保障するだけでなく、各自に表現手段のツール保有を現実化させなければばならない。教育を受ける権利は「いかなる公教育も無償とする」と実質が伴わなければならない。さらには、経済的弱者の生存権保障を実質化する財源確保のために、富者に対する社会への利益還元の義務付けなども考えられよう。
また、人権の普遍性が徹底されなければならない。日本国民と非日本国民との国籍による差別なく、すべての人間が日本国憲法適用における人権主体であることが宣言されなければならない。人権の普遍性をして、国境や国籍を超越させよう。
平等原則には、大いに手を入れる必要がありそうだ。「形式的平等から実質的平等へ」「機会の平等から、結果の平等へ」が目指されねばならない。自民党改憲草案では、差別禁止事項として、「障害の有無」を盛り込もうという。もとより、反対の理由はない。しかし、健常者と障がい者が同じ条件で競争する機会を保障することだけでは、障がい者のハンディキャップに十分な配慮をしたことにはならない。このハンディを埋めて実質的な平等をどう実現するかを工夫しなければならない。アファーマティブアクションやクォーター制というものを憲法に取り入れることを考えねばならない。
憲法が時代に合わなくなったというのは、以上のようなテーマについて言えることだ。しかし、改憲論者の本音がそんなところにあるわけはない。だから、「時代の要請」論に乗せられてはならない。自民党改憲草案の復古主義、守旧主義の極端さは目を覆わんばかり。
「現行憲法時代遅れ論」論者の時代遅れの甚だしさ、古くささを見極めよう。選択制夫婦別姓にすら賛成し得ない感性が、憲法の時代遅れを云々する資格はない。