イレッサ判決に思う
私は医療弁護士として、専ら患者側の立ち場で医療過誤訴訟・薬品副作用訴訟に携わってきた。また、消費者弁護士として製造物責任訴訟に関わってもきた。さらに、非小細胞肺がん患者の立ち場でもある。イレッサ訴訟には関心を持たざるを得ない。
「イレッサ」は、肺がん治療に用いられる分子標的剤ゲフィニチブの商品名である。従来の抗癌剤とちがって、がん細胞の増殖に関わる酵素や分子に直接作用することによる抗腫瘍効果を発揮する。だから血液毒性が低く、「副作用の少ない抗がん剤」「夢の新薬」「通院治療で使える」などと発売前から誇大な宣伝がされた。当然薬価も高い。現在1錠(1日の処方量)あたり6526円である。
2002年7月、厚労大臣の輸入承認を得て販売したイレッサは発売直後から、間質性肺炎など重篤な副作用で、多くの服用者が亡くなった。2002年が180例、03年が202例,04年が175例(最高裁判決から)である。夢の新薬は、悪夢の新薬となった。
その副作用死を薬害被害とする損害賠償請求の集団訴訟が東京と大阪で提起された。製薬会社アストラゼネカに対しては製造物責任の追求であり、輸入販売を承認した国の違法についての責任追求である。
製造物責任とは製造物の欠陥に着目して、欠陥ある製造物のメーカーあるいは輸入業者に、欠陥と因果関係のある被害について認められる賠償責任である。消費者法の分野のこの法律を薬品の欠陥として争った、おそらくは初めての事案であろう。
欠陥とは「通常有すべき安全性を欠いていること」であるが、実務上その態様は3種類ある。設計上の欠陥、製造上の欠陥、そして警告表示上の欠陥である。薬剤、とりわけ抗癌剤には本来的な危険が存在し、副作用があっただけでは欠陥があったとは言いがたい。しかし、危険な薬剤を医師が臨床で使いこなすためには、正確な副作用情報が不可欠であり、添付書面にそれが欠けていれば「警告表示」の欠陥である。
東西2件のイレッサ訴訟では、添付書類における間質性肺炎についての副作用警告が適切なものだったか否かが争われた。一審段階では、両地裁とも判決でアストラゼネカ社の添付書類の警告表示として不十分だったことを認めた。「警告」欄がなく、「重要な副作用」の欄にわずか3行だけ。現実に多くの医師が、他の抗癌剤と同程度の危険性と誤信したことを重視して「欠陥あり」とされた。併せて、東京地裁は国の規制権限不行使の責任も認めた。
ところが、高裁段階では、両事件とも被害者側の逆転全面敗訴となった。そして、昨日(4月12日)、最高裁第3小法廷は上告棄却の判決を言い渡し、訴訟としては被害者側全面敗訴で終わった。
最高裁の判決理由を読んでみると、警告表示のあり方について非常に形式的に、「予見し得る副作用の危険性が薬品を取り扱う医師らに十分明らかにされているといえるか否かという観点から判断すべきものと解するのが相当」という。ここでは、「間質性肺炎のひと言あれば、その危険性は医師なら分かるはずだろう」という思い込みが強い。「大事なことだから、薬剤を投与する医師の立場、投与される患者の立場にたって、もっとしっかりわかるように書かなくてはならない」とする一審判決との姿勢の差が大きい。また、「安全な、夢の新薬」と鳴り物入りで宣伝したことについてのアストラゼネカの責任には触れるところがない。
法も訴訟も裁判所も、人を幸せにするためにある。理不尽な不幸から人を救済するためにある。患者が要求する救済の水準と、製薬会社が要求する免責の水準とは常に拮抗する。最高裁は、患者の要求水準を切り下げ、企業の免責水準に肩入れした。
私は、がん患者として、また医療訴訟・消費者訴訟に携わってきた者として、最高裁判決には納得しがたい。製薬会社にも、厚労省にも、そして裁判所にも、不幸な者を救う姿勢を求めたい。とりわけ、最高裁には、である。
本日も、新装開店サービスの続き。
『東京都庁舎のこと』
先日久しぶりに東京都庁へ行ってきた。威圧的で鋭角的でやっぱりなじめない。国会周辺も含めて、政治の場は人が近づかないように、意識的によそよそしく作るのだろうか。内部も無味乾燥で、職員が気分よく働ける場所ではなさそうだ。にもかかわらず、職員は丁寧で、にこやかだ。昔のお役人とはだいぶ違う。
窓の下の新宿中央公園にはホームレスのブルーテントが見える。天国と地獄。
1990年に完成したこの都庁舎は、第1、第2、議会の3庁舎からなり、総工費は1569億円。当時は「バブルの塔」とか「タックスタワー」とか言われたはずだけど、このごろあまりにも大きな数字になれすぎたせいか、だいぶお安く感じる。年間の維持費は40億円。これは高い。23年たって920億円。水漏りがするとかいわれていたけど、直ったのだろうか。
この都庁舎を含めた新宿西口副都心は、1965年、東村山へ移転した淀橋浄水場跡地が再開発された場所にできた。水をたたえた、四角い人工池のことをおぼえている人はまだたくさんいるはずだ。淀橋浄水場は1898(明治31)年、明治政府が近代国家の威信をかけて、帝都の衛生を改善するために建設した。江戸時代からの玉川上水は明治に入って、自殺の名所となり死体や、塵芥の浮かぶ、とても飲用にはできないほどの汚水となってしまった。、1886(明治19)年には、コレラで10万人の人が亡くなったと言われている。お定まりの「鉄管納入不正事件」で知事が辞職するなどの紆余曲折もあったが、完成した水道は主婦には大歓迎された。消防用水としてもおおいに役だった。1923年の関東大震災、1945年の東京空襲を経て、新宿西口副都心の現在につながつている。
東京空襲の前の1944年に、現在の新宿中央公園のなかにある角筈十二社熊野神社の境内に立った今井金吾は「西の道路向こうを見おろすと、十二社花街の大看板が立ち、貸席など並んでいるが、この辺りがその昔の池の跡。広重はこの池の風景を描いて、『大いなる池ありて、山水自然の絶景なり』と述べている」と書いている。(「詳説江戸名所記」社会思想社刊)
たかが150年ぐらいの間のこの激変。そうであるなら、確固不動に見えるこのビル群も、近々廃墟にならないと誰が保証できるのか。そう考えたら、39階の床がユラリとゆれた。
(2013年4月13日)