口頭弁論後の報告集会で
本日の法廷に、多数の傍聴ありがとうございます。傍聴席が限られていて、わざわざお出でいただきながら法廷にはいれなかった方にはお詫びを申しあげます。
「日の丸・君が代」強制とそれに派生する服務事故再発防止研修受講強制については、憲法違反であるということが一貫した弁護団・原告団の主張です。条文を挙げれば、思想・良心の自由を保障した19条や、教育の自由に関する26条・13条・23条に抵触する、というものです。ご存じのとおり、この違憲の主張については、一昨年5月以来の一連の最高裁判決が一応の判断を示しています。
最高裁判決は、要約すれば「国旗国歌の強制は、強制される教員の思想・良心を間接的には侵害するものである。しかし、その強制が間接的であることに鑑み厳格な違憲判断を行う必要はなく、緩やかなレベルの判断で合理性と必要性が認められるから、違憲とは言えない」という合憲判断でした。とうてい納得し得ず、その後の訴訟では、なんとかこの理屈を覆そうと、智恵をひねっています。なお、教育の自由の問題に関しては、最高裁は何とも言わず無視し続ける態度です。このことにも納得できません。
我々が今後とも違憲論の旗を降ろすことはけっしてなく、裁判官説得の努力を積み上げることは当然として、もう一つの現実的な勝訴の方策である懲戒権の逸脱・濫用についても併せて主張しています。昨年1月16日に言い渡された、処分取消第1次訴訟の最高裁第一小法廷判決は、原則として懲戒が認められるのは戒告まで、減給以上は特別の事情がない限り懲戒権の濫用として違法になることを認めました。その後の判決は、すべてこの判決が示した線に沿ったものとなっています。
最高裁は、教員の不起立等が怠慢や付和雷同からではなく、真摯な思想・良心の発露として悩んだ末に選択した行為であったと認めて、減給以上の処分は重きに失して原則違法としたのです。下級審の裁判官は、最高裁判決に制約されて違憲論での判決は書きにくいが、裁量権濫用論に基づく判決なら書くことができます。私たちは、この面でも裁判官を説得して適用範囲を拡げたいと努力しています。
そこで強調していることの一つに都教委の処分目的の不当ががあります。最高裁判例は、公務員に対する懲戒権創設の根拠を、公務員秩序の維持のためとしています。公務員に、公務員秩序を乱す非違行為があったときに、秩序を維持するためのものとして懲戒という制度が設けられたというのです。いま、問題は職務命令違反を理由とする懲戒権の行使ですから、乱される公務員秩序とは、整然たる上意下達、上命下服の組織原則そのもののように思われます。しかし、教育公務員の公務員秩序とは、そのようなものと考えてよいのでしょうか。
自衛隊や警察あるいは消防の部門においては、あるべき公務員秩序とは、上意が速やかに整然と下達されること、上司の命令が下僚に貫徹することと言ってよいでしょう。現場では、原則として上命に遅疑逡巡することは許されません。しかし、一般事務部門においては様相が異なると言えます。公務員の職責として、何が国民に奉仕すべき合理的な行為であるのか、職務命令も吟味されなければなりません。少なくとも、上級への盲従が公務員秩序とはいいがたい。
ましてや、教育部門の秩序の内容が、単に上司の命令が下僚に貫徹することや下級が上級の指示に盲従することを意味するはずがありません。これは、教育という営為の本質に関わる問題です。教育とは、盲従を美徳として教え込むものではない。多様な価値観、多様な信条の中から、主体的な選択の能力を獲得し、自分自身を形成していく過程にほかなりません。教員は、子どもとの全人格的な接触によって、そのような営為をともにします。公権力の強制が正しいという保証がないというのみならず、公権力が一定の価値観の注入を強制することは許されないのです。価値観に関わるテーマについての上命下服の公務員秩序などは教育部門には想定することができません。
地公法が処分権者に付与した『公務員関係の秩序の維持のための懲戒権』の行使は、生徒の教育を受ける権利を十分に保障する公務員秩序の維持を目的とする限りにおいて合法性を有します。これまでくり返し主張してきたとおり、10・23通達およびそれに基づく起立斉唱命令並びに懲戒処分は、「特定の価値観、特定の教育観を以て、教育を支配し統制しようとする違法な意図と動機に基づくもの」であって、その目的において違法といわねばなりません。
本日の法廷で、Y弁護士が陳述したとおり、アメリカの歴史上、最も引用されているといわれる1943年の連邦最高裁バーネット判決は次のように言っています。
「もし、我々の憲法という星座の中に不動の星があるとするならば、それは、すべての公務員は、その地位が高いか低いかを問わず、政治、ナショナリズム、宗教その他の事項について、何がオーソドックス(正統)かを定めることができないという点である」
これが、民主主義の普遍的な原理。都教委は、自らの見解のみが正統・適正であるとして、これを全教員と生徒に押し付けて、見解を異にする教員をあぶり出して、機械的に処分を繰り返してきたのです。ですから、そのすべての処分が懲戒権濫用として違法なのです。
まだまだ続く、新装開店のおまけ。
『殲滅戦のこと』
今日は物騒な皆殺しの話。でもご安心を。庭の植物につく害虫の話。私は科学戦はしない。チョウチョの幼虫がいる。金魚もいるし、近所の猫も来る。小鳥も飛び回るし、人間もいる。だから殺虫剤は使わない。
緑が濃くなり、気温が上がると、とたんに昆虫の天国だ。まず吸血鬼退治。スモモの木などは幹に緑のフェルトを巻き付けたように、びっしりとアブラムシの行列ができる。みんな若芽の樹液を吸おうと上へ上へと登るのだ。これは箒で掃き落とす。同じく樹液を吸う憎きカイガラムシもブラシで掻きおとす。
バラにつくのはハモグリバエやチュウレンジバチ。ハモグリバエは一枚の葉っぱの裏と表の間に親が卵を産む。孵った幼虫は組織を食べて進むので、そのトンネルが白いラインを残す。別名エカキムシという名前の由来だ。これは、自分では隠れたつもりかもしれないが、トンネルの終点にいるのはお見通しなので、指で加圧する。
チュウレンジバチは緑色の尺取り虫のようだ。葉っぱの縁に取り付いて、もりもり食べる。気がつかないでいると、バラは丸坊主の枝だけになってしまう。小さければこれも指で加圧。大きければ、足で加圧。
ツバキにつくチャドクガは手強い。指などだそうものなら、毒針毛にカブレて医者行きだ。黄色と黒の横縞に毒針の毛で武装した毛虫がおいしそうな若葉に20匹ほどラインアップして食事している姿はちょっとすごみがある。しかし、シャキシャキうまそうな音と雨だれのように糞が落ちる音がするので、居場所はすぐわかる。で、枝きりバサミで枝ごと切り取って、二重のゴミ袋に入れて、ゴミ収集車の助けを借りて火葬の運命。
ヨトウムシは若葉を食い荒らすだけでなく、茎を根元からバッサリ食い切る。証拠歴然で、仏心は微塵も起きない。夜盗虫(ヨトウムシ)の名のとおり、夜活動するので、懐中電灯で見つけて、これも火葬。
ナメクジはほんとうに舐める。コチョウランの葉っぱなどをザリザリの舌で舐めとって、大穴を開ける。こいつはほんとうに極楽往生させてやる。深いガラス器にいれたビールをおいておくと酔っ払って溺れて、一巻の終わり。ただし、それを見た人は二度とビールは飲みたくなくなること請け合い。
しかしながら、毎年毎年、性懲りもなく現れるこれらの虫たちを見ていると、とても勝ち目はなさそうな気分になる。上にあげた虫はほんの一部で、そのほかに、トウガネブイブイ、コガネムシ、アメリカシロヒトリ、ハダニ、ツマグロヨコバイ、名も知らぬ虫、気がつかない虫など数限りない。で、傭兵を雇い入れることにした。スズメやシジュウカラなど小鳥の援軍はまえからある。クモやヤモリのお世話にもなっている。アブラムシにはナナホシテントウ虫が天敵ときいて、捕まえてきて放してみたが、すぐに敵前逃亡したようだ。今年はカマキリの卵鞘を二つ取ってきて、卵が孵るのを楽しみにしている。
まてよ。一個から数百匹孵るということなので、この狭い庭はカマキリだらけで足の踏み場もなくなってしまうのではないだろうか。そうすると、生態系を攪乱することになるのではなかろうか。心配の種は尽きない。