澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会 総会

本日は、「「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会」の定期総会。この会は「東京君が代裁判」の原告で構成されている。年に1度の総会が、創立総会を含めて、今回が11回目である。あれから10年。会員も、弁護団員も、10歳の年輪を重ねた。この間、会の活動に参加した教職員の熱意には敬意を禁じ得ない。とりわけ、この長きにわたって中心的に活動を支えた人々の労苦と献身性には頭が下がる。日本の教育の希望はこのような集団にこそあると言って過言ではない。

石原慎太郎教育行政の「10・23通達」以来、卒業式等の起立・斉唱・ピアノ伴奏の強制に従わなかったとして処分された教職員は、延べ450名に上る。これは、現代の思想弾圧であり踏み絵だ。また、教育を権力の下僕にしようとする邪悪なたくらみでもある。これに対する現場の教員の抵抗と支援の運動が満10年継続して、今日の総会に至っている。

この間、法的手段としては、予防訴訟を提起し、処分に対しては人事委員会に審査請求をし、行政訴訟を提起し、服務事故再発防止研修執行停止の申立をし、君が代処分を理由とする再雇用の拒否に対する権利救済の訴訟を起こした。

この10年の闘いが一通りの最高裁判決を経て、今やや膠着した状態にある。これまでに勝ち得た成果もあるが、勝ち取れなかったものもある。そして、今後の課題が見えてきている。

私たちは、法廷闘争においては、違憲論として次の二つの柱を建てた。
(1) 精神的自由の侵害(思想・良心・信仰の蹂躙の違憲違法)
(2) 教育の自由の侵害(権力の教育への介入の違憲違法)
そして、違憲論とは別建てに、
(3) 公務員に対する懲戒権の逸脱濫用としての違法の判断と救済
を求めた。

この10年間で、勝ち得た成果といえば、
*服務事故再発防止研修執行停止申立についての須藤決定(研修内容が内心の自由に干渉するに至れば違法となる)。
*予防訴訟一審の難波孝一判決(「日の丸・君が代」強制の違憲違法を全面的に認めた)
*処分取消請求一次訴訟の控訴審大橋寛明判決(戒告を含む全原告の懲戒を処分権濫用として、取り消した)
*同訴訟の1・16最高裁判決(減給以上の懲戒処分は過酷として原則違法)
*第2次訴訟の確認(戒告は認めるが、減給以上の処分は原則違法)
*最高裁判決における、裁判官2人の違憲の少数意見と、都教委批判の補足意見

勝ち得たものはけっして小さくはない。とりわけ、私どもが「思想転向強要システム」と呼んだ、機械的な累積加重の処分基準を最高裁が違法として、都教委が現実に過酷な処分をできなくなっていることの意味は大きい。これまで、判決によって25人(30件)の処分取り消しが確定しているが、この基準は当然に大阪の処分にも適用されることになる。

しかし、最高裁判決は違憲の主張を排斥している。これは到底容認できない。最高裁の使命は、憲法に忠実な判決を言い渡し、社会に憲法の理念を実現することにある。権力による国民への「日の丸・君が代」強制が思想・良心を蹂躙することは本来自明というべきことではないか。これを合憲として、行政を免責する最高裁は、憲法をねじ曲げる存在と断定せざるをえない。

「日の丸・君が代」強制を、思想良心の自由を保障した憲法19条に違反しないとした最高裁判決の「論理」は次のようなものである。
※「強制される外部行為による思想良心への直接制約の否定」
 起立・斉唱・伴奏という「外部行為」と、
 そのような外部行為をとることはできないとする理由としての「思想良心」
 との密接不可分性の有無の判断について
 A 行為者の主観においては関連しているものと認められる。
 B しかし、一般的・客観的に両者が密接不可分とは言い難い。
 C 従って、起立斉唱の強制が直ちに思想良心を侵害するとは言えない。

※「外部行為による思想良心への間接制約の存在とその容認」
 D とは言え、間接的には侵害があるものと考えざるを得ない。
 E 間接侵害の合違憲は「必要かつ合理的」という緩い基準の判断でよい。
 F 本件職務命令は「必要かつ合理的」という緩い基準に適合しており合憲。
結局、D以下は言い訳に過ぎない。厳格審査を僣脱して緩い審査基準で判断してよいするための範疇作りで、結論を引き出すために論理操作のフリをしているだけ。

本日の総会では、「何としてでも違憲判決を勝ち取ろう」という真摯な熱意に溢れた意見が交わされた。メインの訴訟形態となっている処分取消請求事件では、1次に続いて2次の訴訟が最高裁判決で終了となり、現在東京地裁に3次訴訟が係属中である。そして来春、4次訴訟の提起が予定されている。違憲判決を勝ち取るまで、運動も訴訟も続くことになる。

では、違憲判決を勝ち取るにはどうすればよいか。もちろん、容易ではないが、挑戦し続けなければならない。

ひとつには正面突破作戦がある。最高裁の論理の間違いを徹底して弾劾し、真正面から判例の変更を求めるという方法である。裁判所の説得方法は、「判例違反」「学界の通説に背馳」「米連邦最高裁の判例」などにある。

ついで、正面突破ではない迂回作戦がある。そのひとつが、最高裁の判断枠組みをそのままに、実質的に換骨奪胎する試みである。一連の政教分離訴訟において、最高裁は厳格な分離説を排斥して、緩やかな分離でよいとする論理的道具として日本型目的効果基準説を発明した。しかし、この目的効果基準を厳格に使うべきとするいくつもの訴訟の弁護団の試みが、愛媛玉串料訴訟大法廷判決に結実して、歴史的な違憲判決に至っている。本件でも、間接侵害の枠組みをそのままに、「間接と言えども思想良心の侵害は放置しえない」「本件の場合、必要かつ合理性ありとはいえない」との論理を追求しなければならない。

また、もう一つの迂回作戦が考えられる。最高裁がまだ判断していない論点で結論を覆すことである。この点については、
(1) 公権力は国民に国家シンボルの強制をなしえない(根拠は立憲主義・自由主義の大原則。条文では、前文・13条・99条違反)
(2) 公権力は限度を超えた教育への介入をなしえない(根拠は憲法26条・23条・13条、教育基本法16(旧10)条)
の2点がメインとなる。

さらに、法哲学的アプローチや、違憲をカムフラージュする儀礼論や公務員論への対抗理論の構築、国際人権論からの反撃なども重要であり、処分の裁量権逸脱濫用論の深化も課題である。

そして、付言しなければならない。なによりも裁判所・裁判官を何とかしなければならない。個別事件において法廷での説得も重要ではあるが、裁判官の採用システムや養成システムそして、裁判官の人事を通じての官僚的統制などの問題に切り込まねば、百年河清を待つことになりかねない。

「司法も権力の一翼である以上、司法だけが『民主化』することはあり得ない」という見解がある。この見解の説得力は限りなく大きい。とりわけ、精神的自由に関する最高裁判例を見ていると、ときに絶望的にならざるを得ない。とはいえ、そのように一刀両断に切り捨てることで、地道な努力を怠る口実にしてはならない、とも思う。

たしかに「裁判所も権力の一部」ではある。しかし、相対的に行政権力中枢からの独立の側面をもっていることを見落としてはならない。個別事件での裁判所説得の努力と、憲法の理念を実現し人権を擁護する裁判所の確立に向けた「あるべき司法改革」をなし遂げなければならない。迂遠の道程ではあっても、けっして百年河清を待たねばならない課題ではない。
(2013年10月5日)

Info & Utils

Published in 土曜日, 10月 5th, 2013, at 23:09, and filed under 未分類.

Do it youself: Digg it!Save on del.icio.usMake a trackback.

Previous text: .

Next text: .

Comments are closed.

澤藤統一郎の憲法日記 © 2013. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.