天皇への態度こそは、精神のリトマス試験紙である。
とあるメーリングリストで、こんな投稿に出会った。
自ら文化人とか知識人と自任しているであろうマスコミに登場する人達の実態は天皇制に対する立ち位置で簡単に判別できる。憲法の本質から外れる天皇制を容認するのか否か。これが、有名無名に限らずその人の認識を判断するリトマス試験紙だ。
まったくそのとおり、「天皇制についての態度はリトマス試験紙」は至言である。天皇制を容認するか否かがその人の精神の在り方を映し出す。
権威に従うのか、自立の精神を尊ぶのか。
社会の主流におもねるのか、抵抗するのか。
同調圧力に屈するのか、反発するのか。
現状を容認するのか、変革を求めるのか。
天皇を敬う、天皇に恐れ入る、天皇を褒める、天皇を敬語で語る…そのときに、その人の蒙昧さが滲み出る。天皇の御代をことほぐ、天皇の弥栄を讃える、テンノウヘイカ・バンザイを叫ぶ…そのときその人の知的頽廃が顕れる。天皇制の永続を願うという…その人の臣民根性こそが救いがたい。
投稿の「憲法の本質から外れる天皇制」という断定が鋭い。
「憲法が天皇を認めているから、護憲派の私も天皇を認めざるを得ない」ではない。「憲法の条文に天皇が書かれてはいるが、それは『憲法の本質』ではない。護憲派の私なればこそ、天皇を容認しない」ということなのだ。
まずは、「憲法になんと書いてあろうとも、私は世襲や差別を認めない」と言わねばならない。「高貴な血という馬鹿げた迷信をこの世からなくそう」「戦争に利用された天皇制という危険な存在を容認してはならない」が、当たり前の感性であり、精神の在り方なのだ。
憲法とは核心(コア)をなす部分と、核心の外にある周辺部分とからできている。天皇制は、核心部分にはない。核心と矛盾するものだが、「国民の総意に基づく限りにおいて」憲法の周辺部の端っこに位置している。個人の尊厳が、憲法の「1丁目1番地」だとすれば、天皇の存在の位置は「番外地」なのだ。
憲法のコアをなす部分こそが、「憲法の本質」である。明らかに、「天皇制は憲法の本質から外れ」ている。平等原則とも、主権原理とも、もちろん民主主義とも。
「憲法を護ろう」とは、天皇が公布した日本国憲法という憲法典を守ろうということではない。「日本国憲法の本質としてのコアな部分」、つまりは近代市民社会の理性が到達した「人権体系」と「その人権体系を擁護し実現するための統治機構の原則」をこそ護ろうということなのだ。
だから、敢えて言えば、憲法の本質と明らかに矛盾した天皇制条項をなくしていくことこそが、真に憲法を擁護することなのだ。
(2019年11月20日)