「検察庁法改正案」(検察人事介入法案)への抗議を貶めようという人々
先日、今年の流行語大賞候補には滅入る言葉ばかりと愚痴ったが、必ずしもそうでもなさそうだ。「Twiterデモ」や、「巣ごもりデモクラシー」などには、勇気づけられる。アベ政権とその応援団だけの天下ではない。いや、今やアベ政治の終焉が見えている。コロナ対応の失策と「Twiterデモ」とは、その象徴である。
5月8日17時40分発信という、歴史的な1件のツィートの主は、「笛美@fuemiad」と名乗る方。「広告業界の片隅にいます。20代で女性蔑視に染まり、30代でフェミニズムを知りフェミニズム関連の意見を発信していましたが、新型コロナきっかけで政治にも関心を持つようになりました。」と自己紹介をしている。「fuemiad」は、フェミニズムとアドバタイズの連結語なのだろう。
そのツィートは、下記のとおりである。
「1人でTwiterデモ #検察庁法改正に抗議します」「右も左も関係ありません。犯罪が正しく裁かれない国で生きていきたくありません。この法律が通ったら『正義は勝つ』なんてセリフは過去のものになり、刑事ドラマも法廷ドラマも成立しません。絶対に通さないでください。」
この方が、ネットに一文を寄せている。そのごく一部を抜粋して紹介したい。
「#検察庁法改正案に抗議します デモで知った小さな声を上げることの大切さ」
https://note.com/fuemi/n/n56bdee1d8725
「5月8日にいきなり内閣委員会で野党欠席のもと審議されて、来週には法案が通ることになったというニュースを見て震え上がりました。マスコミも大々的に報道せず、こっそり隠して採決まで持ってこうとしているようにも見えました。いても立ってもいられなくなり、とりあえず金曜の夜に1人でTwitterデモをやってみました。自分から発信した初めてのオンラインデモでした。」
「これまでグルグル考えていたことをベースにしながら、見た人がリツイートする敷居を低くしたいなと思いました。だから燃えるような怒りというより、静かな意思を感じられる表現にしました。それはデモビギナーの自分にとっても、自分らしく気負いなく言えるワードだったなと思います。ドラマなどの例えは、まだ知らない人にも分かりやすく伝わるようにと心がけました。独りぼっちで寂しかったので、バニーの絵文字を入れて行進してるっぽく見せました。…ぶっちゃけ本気で拡散させるぞ!なんて言う気は全くありませんでした。」
「最初はいつも仲良くさせてもらってるフェミニストの方々が投稿に反応してくださいました。…しばらくして、手作りバナーや相関図を作るアカウントさんが出てきたり、政治にアンテナの高いアカウントさん、作家さん、さらには野党の議員さんにも、ツイートが広がっているのに気付きました。」と予想外の事態の展開が述べられている。
この人の文章は、「次はあなたが、どんな声でもいいので出してみませんか?」という呼びかけで締めくくられている。
このたった一人のTwitterデモの呼びかけに多くの人が呼応した。まさしく燎原の火のごとき勢いで。これは、政治的・社会的事件である。本日(5月13日)の東京新聞の紹介では、同じハッシュタグを付けたツィートは900万件を超えたという。多くの人が、この政権への潜在的批判者となっているのだ。
有名無名を問わない多くの人々がツィートに賛意を表し、自分の言葉でこの法案に抗議した。当然これを面白くないとする勢力がある。このTwitterデモの「山が動くがごとき盛り上がり」を貶めようという、いつもながらのアベシンパは少なくない。
これまでその名が目立っているのは、高橋洋一、百田尚樹、加藤清隆、足立康史、竹内久美子、堀江貴文、鈴木宗男などである。総じて、取るに足りない。
彼らの立論のひとつは、「反対論者バッシング」である。「反対論者は、法案を読んで理解の上で反対しているのか」という、上から目線の無礼な物言い。反対論者の反対理由に噛み合った反論はなく、自らは積極的に法案賛成の理由を述べるところはない。ひたすらに反対論者をバッシングし、「政府は正しい。反政府論者は根拠なく騒いでいるだけだ」という発言によって、自らの忠勤な御用ぶりを見せようという、さもしい論者の言でしかない。
立論の二つ目は「陰謀論」である。「検察庁法改正案を反民主主義的悪法と宣伝する陰謀に乗せられるな」というわけの分からない論法。わけが分からないが、政権が論理的に追い詰められたときには「陰謀論」は万能薬として使われる。もっとも、どんなときでも使えるという万能薬の効き目は薄い。普通は、陰謀論を持ち出した途端に論拠破綻の自白とみなされ、みっともなさをさらけ出したことになる。
立論の三っ目は、「すりかえ論」である。「法案に対する反対論は、こう言っている」と的はずれのすり替え論点で、反対論を批判するやり口。反対論の内容を正確に把握しての批判であれば有益な議論になるが、検察庁法改正問題については、官邸も法務省も的確な反論をしていない。
立論の四っ目は、検察権力の過剰な強化に反対の立場からの、体験的な官邸権力強化擁護論である。これは、堀江や鈴木の立場である。検察権力の過剰な強化に反対は納得できるが、今問題は、検察を政権の番犬に貶めてよいかという局面での議論である。現在の法案に賛成する理由にはならない。
問題の本質は、検察官の定年延長にあるのではない。これまでなかった定年延長を導入するに際して、内閣がその恣意に基づき、「特例」として、検察官役職と定年の延長・再延長の可否を決することができることが問題なのだ。この法改正によって、内閣が検察幹部人事に介入し、検察のトップを官邸の息のかかった人物で固めることができる。この権力分立の崩壊は民主主義の根幹に関わる。
その問題性の本質を理解するためには、政権というものに対する批判の基本姿勢、とりわけ数々の政治の私物化をしてきたアベ政権に対する批判の姿勢がなくてはならない。そして、検察官という職能は、他の公務員とは根本的に異なり、犯罪行為あれば安倍晋三をも逮捕し起訴する権限をもっていることの重要性の把握が不可欠である。その地位の保障は、公務員一般と同等に考えることはできない。準司法的立場にあって、政権の清廉のために、検察官は政権からの介入を厳格に排除した独立性の確保が求められる。これを切り崩すことにならざるを得ないというのが、法案反対論の核心である。
これに対する、真正面から噛み合った反論も弁明も提起されていない。
(2020年5月13日)