澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

安倍晋三の虚偽答弁は主権者国民に対する背信行為であって、政治家失格である。

(2020年11月26日)
民主主義とは、国民自身が統治の主体であるという思想であり制度である。思想として語ることは易いが、現実の制度を設計し運用することは決してたやすいことではない。常に、国民一人ひとりに、主権者としての自覚が求められることになる。

制度としては、間接民主制の手続を採用して、選挙を媒介に執行機関を作らざるを得ない。主権者国民と、国民から選ばれ国民から委託された行政権とが対峙して、あたかも行政権の長が国民に対する支配権を持つような倒錯の関係が生じる。

しかし、間違ってはならない。飽くまでも主権者は国民である。行政権の長といえども、主権者国民に奉仕すべき公僕に過ぎない。行政府の長は、国民の利益のために、国民に対する説明責任を果たしつつ、その職責を全うしなければならない。

主権者は当然に公僕の判断や活動について報告を求め、その内容を詳細に知る権利があり、公僕は主権者にその活動の全てを報告し説明する義務がある。公文書の作成・保管・開示や、国会での誠実な答弁がその主要な手段である。

ところが、この度明らかになった「桜を見る会・前夜祭」の会計処理。国会における首相(当時)答弁が明らかな虚偽であることが判明した。民主主義の観点からは、大きな問題点が2点ある。ひとつは、首相が選挙民を飲み食いに誘う形での集票行為をしていたこと。そして、国会での野党からの追及に虚偽答弁を重ねて、主権者を欺し続けていたことである。

折も折、衆院調査局の調べで、安倍晋三の虚偽答弁ぶりが明らかになった。「17年2月15日から18年7月22日までに、衆参の国会質疑で安倍政権が行った答弁のうち、事実と異なる答弁が計139回あった」という。

民主主義社会の主権者である国民は、この息を吐くように平然と嘘をつき続けてきた公僕を徹底的に叱りつけなければならない。平然たる首相の嘘によって、主権の行使に歪みが生じたことに、また虚偽答弁それ自体によって主権者の矜持を傷つけられたことに怒らねばならない。そして、こういう嘘つき公僕を、さっさと取り替えなければならない。

本日の毎日新聞、万能川柳欄の秀逸句がピッタリである。

 選挙区の民度と合った当選者 (東京 恋し川)

安倍晋三という嘘つきを、このまま政治家として永らえさせておくことは、山口4区(下関市、長門市)の「民度」を貶める恥ではないか。また、こんな人物を長期間首相にして、たぶらかされていた日本人の恥とも考えねばならない。

有権者国民が安倍晋三のやり口に怒らず、安倍晋三を叱らず、安倍晋三的な政治を許していれば、いつまでもその「民度」と合った政治しかもつことができないことになる。我等主権者、大いに怒らねばならない。

Comments are closed.

澤藤統一郎の憲法日記 © 2020. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.