国旗国歌強制をめぐってー「秘密保護法と根は一つ」
「日の丸・君が代」強制問題の院内集会に、多数ご参集いただきありがとうございます。「国旗国歌強制は、秘密保護法問題と根は一つ」。その根とは、主権者である国民が、あたかも行政の僕のごとくに扱われてはならない、ということだと思います。
特定秘密保護法は、行政の思惑一つで情報を規制することができる仕組みです。国民には、当然国会にも、行政が許容する範囲の情報を提供することで十分だという、国民主権原理を蹂躙する基本思想で成り立っています。行政の情報操作は、国民と政府、国家と行政との力関係を根底から覆すものとなります。
国旗国歌強制の問題も、国が国民に対して「国への敬意の表明を強要する」ことを意味します。本来、行政が主権者に対して、国への敬意表明の強制などできることでははない。ここにも、主権者国民と行政との関係において発想の逆転があります。
石原慎太郎教育行政が、10・23通達を発して教職員に対する「日の丸・君が代」強制を始めて以来10年。法廷闘争の弁護団に参加してまいりました。当初、「日の丸・君が代」強制を違憲という根拠の柱の一つとして、国民の思想良心の自由侵害、つまりは憲法19条違反を立て、最初の事件の地裁段階では違憲判決を勝ち取りました。当然のことと胸を張ったものです。
ところが、その後間もなく言い渡しになった最高裁ピアノ判決がこれをひっくり返しました。以来、憲法19条論では、1件も違憲判断が出ていません。最高裁で二人の裁判官が少数意見として違憲論を述べているにとどまっています。そのお二人も、今は退官しました。
もちろん、19条違反の主張を撤回はしませんが、実務家としては、勝ち目のないことを繰り返しても能のない話し。そこで考え出したのが、国旗国歌強制は立憲主義違反だ、というよりラジカルな論法です。日の丸・君が代という固有の歴史をもった旗や歌に着目するのではなく、国旗・国歌という「国の象徴」への敬意の表明強制は、とりもなおさず、国家という存在を、主権者たる国民の上位に位置づけるものとして、価値倒錯であり背理であって、その強制は憲法上許容されない。というものです。憲法19条論については、最高裁は一応の理屈を付けてこれを斥けいますが、立憲主義違反の方には、何の応答もないままです。
そこに、自民党の改憲草案が発表されました。その草案3条は、国民に国旗国歌尊重義務を課しています。この自民党案は、まさしく現行憲法の構造を根底から覆すもの。近代立憲主義の大原則に挑戦するものにほかなりません。
近代立憲主義について述べておきたいと思います。
近代憲法は市民革命の所産です。近代憲法の骨格は、市民革命の精神に則った、次の2点にあります。
(1) 個人の尊厳を至高の価値とすること(基本的人権の尊重)
(2) この価値を侵すことのないよう国家機構を整備すること
これを1789年フランス人権宣言(「人と市民の権利の宣言」)16条は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」と定式化しています。
つまりは、「個人主義」(国家や集団ではなく、個人にこそ価値の源泉がある)と、「自由主義」(国家の干渉から国民の自由は保護されねばならない)の政治原理を基調として、「主権者(憲法制定権力)としての国民が、国民の基本権を擁護する目的で、国家の権力を制約すべく国家に対する命令の体系としての憲法を制定する」という法原理が「立憲主義」と言って良いと思います。
当然に、「日本国憲法」も近代憲法の正統の系譜に連なっています。我が憲法が最も関心をもつテーマは、「国民」と「国家」との関係であって、その関係あり方は国家が国民の人権を侵害してはならないこと、最大限擁護し国民に奉仕すべきとするものにほかなりません。
あくまで「主」は国民。国家は「従」の地位にあるのです。そもそも、国家は国民が、その便宜のために拵えたもので、国民が創造主、国家は被造物でしかありません。
「日本国憲法」においては、国民からの国家(ないしはこれを司る公務員)に対する命令の体系という構造が貫かれています。このことを端的に表現しているのが、99条の公務員の憲法遵守義務です。
自民党の「日本国憲法改正草案」は、「国民に対する憲法遵守義務」を課する点で、近代憲法の立憲主義を放棄するもの。つまりは、「憲法が憲法でなくなる」事態をもたらすものと言わざるを得ません。
自民党改憲草案第3条の国旗国歌条項もこのことと軌を一にしています。
「第3条1項 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
2項 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。」
この1項は、憲法に定める必要のないことです。憲法にこう書いてはいけないというものでもありませんが、本来の憲法事項ではありません。
問題は2項です。これは、明らかに憲法にこう定めてはならないことです。憲法の基本原則に反する規定として「違憲の憲法条項」と言わざるを得ません。この「改正」は、憲法96条の改正手続の限界を超えて許されないものと言うべき代物です。
国旗国歌は国家の象徴であり、「国旗国歌=国家」の等価関係が成り立ちます。
国旗国歌の尊重義務とは、国民に対して国家を尊重すべき義務を設定するもの。これは、立憲主義の構造からの主従の逆転であり、憲法価値の倒錯というほかありません。個よりも集団を、国民よりも国家を重要視するイデオロギーとして、国家主義・ファシズムの思想と言って差し支えありません。日本国憲法が、絶対に認めることのできない思想です。
1999年制定の「国旗国歌法」は、国民に国旗国歌の尊重義務を課してはいません。したがって、違憲の問題が起きませんが、それでも、その政治的効果は甚大です。万が一にも、自民党改憲草案が実現した場合には、その影響には恐るべきものがあると考えなければなりません。
戦前、国民の思想統制に猛威を振るったのが治安維持法。治安維持法の法文では、取り締まりの対象は「国体を変革し、私有財産制を否定する目的の結社」でした。つまりは、天皇制否定思想と共産主義を弾圧対象としたのです。しかし、弾圧されたのは共産主義・共産党だけではありませんでした。社会民主主義も、自由主義も、反戦平和の運動も、宗教団体も、天皇制ファシズムに邪魔な存在は根こそぎ弾圧の対象になったのです。
特定秘密保護法も同じ。秘密の範囲は、際限なく広がることを防げません。私たちは、権力や政権を信用してはならないのです。ましてや、好戦的な安倍政権。国防軍をもつための改憲をたくらむ安倍政権ではありませんか。こんな最悪政権に、最悪の法律を持たせてはなりません。
「戦争は秘密から始まる」。「戦争準備には軍事秘密保護法が必要」なのです。軍国建設のために必要な秘密保護の法律を与えてはならない。同様に、国旗国歌の尊重義務も、軍国主義建設に不可欠のものと指摘せざるを得ません。
特定秘密保護法の制定も、国旗国歌尊重の設定も根は一つ。立憲主義からの逸脱であり、その強行の影響は、いずれも軍国主義をもたらすものと考えなければならないと思います。
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さて、本日(12月9日)は、特定秘密保護法成立後初めての「本郷三丁目交差点・昼休み街宣行動」。およそ20人ほどの人が参加して、怒りを燃やしてマイクを握り、新しいビラを撒いた。通行人に、あきらめないで怒りを持続させようとの訴え。
ところで、特筆すべきは、本日の行動に、2人の方が飛び入り参加をしてくれたこと。「ツィッターを見ての参加」だという。お二人とも、マイクを握って訴えた。ツィッターって凄いんだ。
なお、本郷三丁目交差点の昼休み行動は、今週は11日(水)と13日(金)で、一応締める予定。その後、おそらくは「本郷・湯島九条の会」の活動として、特定秘密保護法に限らない諸課題での、定期的な行動を継続することになるはず。地元の町内会長さんが、「九条の会」の会長さん。今日も、街宣行動にお顔をみせていました。こうでなくっちゃ。
(2013年12月9日)