宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその13
正月。天気晴朗にして風が心地よい。海岸で凧揚げに興じた。中国・浙江省の製で大型のトビの形。青い空を背景に、翼を広げ風を切ってのびのびと宙を舞う、その姿がすがすがしい。今年、かくありたいものと思う。
さて、正月らしく、原則に戻ってものを考えてみたい。
宇都宮選対の一連の事件は、徹頭徹尾民主主義の問題なのだ。
事件の発端が問答無用の私の息子の任務外し。ここから始まった事件の結末が問答無用の私の解任劇。宇都宮君がどのようにとり繕おうとも、この事実は動かしがたい。いずれも問答無用で、うるさい組織への批判者を切って捨てたものだ。これが、宇都宮君とその選対の手口。これは、民主主義の許さざるところ。民主主義を大切に思う人なら、到底この事態を看過しえない。宇都宮君を革新陣営の共闘候補としてふさわしいとは、よもや考えまい。
民主主義とは、成員の話し合いに基づいて組織や集団の意思決定をする手続きだ。面倒ではあっても、話し合いが尽くされて後に初めて集団の方針が定まる。だから、民主主義社会においては、話し合いのための発言の自由が全成員に保障されなければならない。とりわけ、権限や権威を持つ者への批判の発言が保障されなければならない。うるさい批判者を組織から排除するなどは、民主主義を破壊する手口と指弾されなければならない。宇都宮君と宇都宮選対がやったことは、まさに民主主義破壊の行為なのだ。
民主主義成立の基礎となる話し合いを成立させることは、成員に自由な発言の権利を人権として認めることでもある。だから、民主主義社会においては、「言論の自由」が常に人権のカタログの筆頭に上げられる。宇都宮君と宇都宮選対は、この「言論の自由」を封殺したのだ。このような人物が、都知事選の候補者としてふさわしくないことは、自明ではないか。
宇都宮選対は、市民に開かれた市民選対を自称していた。閉鎖された部分社会ではなく、市民社会の共通ルールが妥当しなければならない。ここでは、民主主義も人権も、花開かなければならない。いわば、宇都宮君が当選した暁に実現すべき社会のモデルを、実験的に社会に示しているのだ。その選対の現実が、民主主義の破壊だった。宇都宮陣営の選挙公約である「四つの柱」は実に立派なものだ。しかし、宇都宮君と宇都宮選対は、この公約とは無縁な実態をさらけ出した。到底、再度の都知事選候補者たりえない。
宇都宮選対は、広くすべての市民に開かれたボランティア組織として出発したはず。「四つの柱」に賛同する市民が、その自発性に基づいて参加している。すべての参加者に、民主主義社会の原則のとおりに、対等平等な立ち場が保障されなければならない。ここには、支配・被支配、命令・服従、上意下達の関係はあり得ない。つまりは、権力という怪物が出て来る幕は本来的にないはずのだ。ところが、自分を権力者と錯覚した選対本部長や選対事務局長が、本来はあり得ない権力を振りかざした。ボランティア活動者に任務からの排除を「命令」したのだ。宇都宮君やその取り巻きはこれを是認した。宇都宮君も宇都宮選対も、民主主義の原則を弁えた行動をとることができなかった。市民選挙の主宰者としてふさわしくない。そのような人物を都知事選の候補者として認めることはできない。
宇都宮選対の選対本部長と事務局長とは、対等な一選挙運動参加者として振る舞わずに、「小さな権力者」として振る舞った。これがそもそもの間違いなのだ。わたしは、民主々義と権力の問題を考え続けてきた。民主々義は、所与の権力をコントロールする技術として語られることがあるが、けっしてそれにとどまらない。民主々義の手続原理は権力の存在を前提とせず、複数人間が共通の行動を決定するに際しての普遍的な原理として尊重されなければならない。そして、権力を形成する際には民主々義が最も有効に働かなければならない。平等な成員からの明示的な権力形成についての合意と、特定の者への権力の負託が必要なのだ。それなくして、権力の形成はあり得ない。
自律的な発意によって市民選対に参加した者が、選対本部長や事務局長に、明示的に権力を負託したなどということはありえない。役割の分担はあっても、あくまで提案と納得の関係でしかなく、問答無用の命令の権限などあるはずがない。選対本部長と事務局長の「権力」「命令権限」は、愚かな錯覚に過ぎない。
錯覚であろうとも、無法な実力に過ぎないものであろうとも、振りかざされた「小さな権力」に対しては、格別の批判の言論の権利が保障されなければならない。成員の「権力」に対する批判は、成員相互間の意見交換の自由とは別の次元の重要性を持ったものとして、意識的にその権利保障がなされなければならない。宇都宮君と宇都宮選対には、この理がわからない。「小さな権力」の横暴を許して、これに対する批判の言論を封殺したのだ。
「小さな権力」に対する批判が意識的に必要だという理由は二つある。一つは、批判を受けない権力は往々にして間違う。批判を受けない権力は間違いを是正できない。組織が、可及的に正しい方針を決定するためには「権力」に対する批判が不可欠なのだ。
もう一つは、成員の権力者批判は事実上困難だからだ。権力を持つ者が、ドスのきいた声で「おまえには批判の自由があるぞ。さあ、言ってみろ」と言われても、批判の発言ができるはずはない。権力を持つ者は、意識的に成員の批判に寛容でなくてはならない。これが、民主々義の大原則。
にもかかわらず、批判者を問答無用で切って捨てるこの宇都宮君や選対のやり方は、民主主義の原則を蹂躙することこの上ない。正確には、むちゃくちゃと言うほかはない。彼がしたことは、取り返しのつかない、言論封殺という、民主主義圧殺行為なのだ。
だから、もしあなたが「民主主義は大切だ」「民主主義は擁護に値する手続き原則だ」と思われるのなら、宇都宮君を支持してはならない。反対に、もしあなたが「民主主義のようなまだるっこい手続きは犬に食われてしまえ」「権力を批判する言論の自由なんぞを認めてしまっては、決められる政治が成り立たない」と言う立場であれば、話は別だ。宇都宮君を支持するがよかろう。
私たちは、保守陣営の言論封殺には血相を変えて批判をする。しかし、身内の言論封殺には甘くはないか。身近な集団における「小さな権力」の批判には臆病ではないだろうか。とりわけ、美辞麗句で持ち上げられた、「民主陣営」内の候補者について、批判をはばかる風潮がないだろうか。このダブルスタンダードは、結局のところ、より大きな権力に対する批判の矛先を鈍らせてしまう。
あなたも試されている。宇都宮君を推すことは、民主主義者の本来よくするところではない。日本国憲法を擁護する立ち場の人が、宇都宮君を推薦することはできない。宇都宮君は、よくよく反省の上、立候補をおやめになるがよかろう。
(2014年1月2日)