宇都宮健児君立候補はおやめなさいーその18
昨日に続いて、「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」に対する反論。
もう一度、読み直して印象を拭えないのは、この「見解」には、一片の反省もないことである。私の渾身の指摘を本当に全面否定でよいのか。省みて不十分なところは、潔く認めて反省すべきがよかろう。この「見解」の姿勢のごとき頑な無反省の姿勢では、再度の宇都宮選挙があった場合には、同じ轍を踏むことになる。
何人かの親しい人から「『私憤論』には踏み込まない方が良かろう」という忠告をいただいている。「法律論ではないところで、足を掬われる」「『なんだ私憤なのか』というだけで、人が耳を傾けてくれなくなる」「『見解』の狙いはそこにあるのだから、慎重に」というもの。ありがたい忠告なのだが、私にはどうしても避けて通れない。
私は、弁護士とは、他人の私憤に寄り添う職業だと思っている。とりわけ弱い立場にある人の私憤に、である。それぞれの人が、この世の理不尽に私憤をたぎらせている。その私憤をどのように昇華させるのか、その人に寄り添って知恵を絞り、汗をかくのが弁護士としてのあるべき姿ではないか。私憤を切り捨てては、弁護士の職務を全うすることができない。少なくとも、弱者の側に立とうとする弁護士のすることではない。私は、宇都宮君への批判の動機が、私憤であることを隠さない、恥じることもない。この私憤は、必ずや共感・共鳴を得ることができると考えているからだ。
さて、「見解」は、「3 選挙運動の為に使用する労務者の報酬の支払い」において、かなりきわどい論理を展開している。徳洲会やUE社が喜びそうな理屈だ。
この節の根幹は、「澤藤氏は、『公職選挙法の定めでは、選挙運動は無償(ボランティア)であることを原則としています。』…との一方的な思い込みに基づく論理を主張している」というところにある。「法的見解」を書いた三弁護士は、「選挙運動は無償であるべきだという原則」が間違いであるかのごとく主張する。しかし、これは明らかに三弁護士の方が、公選法の理解を大きく間違えているのだ。
「見解」の内容を正しいと信頼して読む読者は、「公職選挙法の定めでは、選挙運動は無償(ボランティア)であることを原則としています」という澤藤の指摘が間違っているかと錯覚することだろう。「公職選挙法の定めには、選挙運動は無償(ボランティア)であることの原則などはないのだ」と、思いこむはず。しかし、誤解してはいけない。公職選挙法の定めでは、明らかに「選挙運動は無償(ボランティア)であることとが原則」なのだ。「見解」の立場は大きな間違いなのだ。
公職選挙法の条文の中に、麗々しく「選挙運動は無償(ボランティア)であることの原則」がその文字通りの表現で記載されているわけではない。しかし、公職選挙法の選挙運動についての定めの構造を読み込めば、「選挙運動は無償」の原則が貫かれていることが明白なのだ。
やや面倒だが、次の判決文をお読みいただきたい。
すこし以前のものだが、次のように、格調高く理念を述べている判決がある。
「民主政治に不可欠な選挙は、国民が国家や地方の重要な施策の決定に参画すべき代表者を選出する手段であるから、選挙運動は自発的に応援すべきものであって、手弁当で自己の信じる人を出すということに至って初めて理想的なものといえる。公選法第221条は右の理想に基づき選挙運動者に対する報酬の支給に対し、厳罰をもって臨んでいるのである」(東京地裁、1964年1月29日判決)
また、主流をなす判決として次のものを挙げることができる。
「公職選挙法第197条の2は『選挙運動に従事する者』と、『選挙運動のために使用する労務者』を区別し、前者に対しては…実費弁償のみを支給することができるとし、後者に対しては実費弁償ばかりでなく報酬をも支給することができるとしているのであるが、これは、選挙運動が本来奉仕的な性質のものであるべきだとの建前から、これを原則とし、ただ… 選挙運動のために単なる機械的労務に服する使用人であるいわゆる労務者に対しては、無償の奉仕を期待しがたいところから、これに対し報酬を支給することを認めたものと解される」(1972年3月27日東京高裁判決)
この法理は、確立されたものとして下級審判決に受継されている。ごく最近の判決例として、下記の神戸地裁尼崎支部(合議事件)2012年3月5日公選法違反被告事件の判決理由中の一節を引用する。
「公職選挙法は、選挙運動が本来奉仕的な性質のものであるべきだとの建前から、原則として無報酬とされる『選挙運動者』と、無償の奉仕を期待しがたいところから、報酬支給を認めた『選挙運動のために使用する労務者』を区別しているところ、これは人による区別であると解されるから、『選挙運動者』がたまたま選挙運動のための労務を行ったからといって、当該部分に対して報酬を支払うことは原則として許されないものと解するべきである」
以上に明らかなとおり、法も判例も、「選挙運動(者)」と、「選挙運動のために使用する労務(者)」を厳格に区別している。そのうえで、「選挙運動(者)」は原則無償とし、「選挙運動ではない、選挙運動のために使用する労務(者)」には、定められた範囲での報酬の支払いを認めている。つまりは、「労務(者)」は、「選挙運動(者)」ではない。「選挙運動は無償(ボランティア)であることの原則」が貫かれているのだ。「法的見解」を書いた三弁護士は、この無償性の原則をどうしても認めたくないのだ。潔癖性に欠けると指摘せざるを得ない
では、「無償を原則とする選挙運動」とは何であるか。そして、「選挙運動ではない労務」とは何か。
最高裁判例は「選挙運動とは、特定の公職の選挙につき、特定の立候補者又は立候補予定者のため投票を得又は得させる目的をもって、直接間接に必要かつ有利な周旋、勧誘その他諸般の行為をすること」という。この定義が、1963年10月22日決定以来定着したものとして繰り返されている。「直接間接に必要かつ有利な周旋、勧誘その他諸般の行為をすること」であるから、極めて広い。この極めて広く定義されている「選挙運動」が無償でなされなければならない。
ウグイス嬢を「選挙運動者に当たる」とした著名な最高裁判決(1978年1月26日判決)を紹介した「判例タイムズ」(№366)は、「公職選挙法によると選挙運動は無償で行われるのが原則であって、報酬を受領すると供与罪、受供与罪が成立する」と解説している。
同判決は、「『選挙運動のための労務』とは、選挙運動に当たらない行為を言い」と、両者を厳格に区別している。その上で、連呼行為をしたウグイス嬢を選挙運動者に該当し、197条の2にいう「選挙運動のために使用する労務者」には該当しないと結論づけた。その結果、ウグイス嬢(車上運動員)に報酬を支払った陣営幹部の有罪が確定した。当然ウグイス嬢にも受供与罪が成立することになるが、判例には被告人として出てこない。起訴猶予とされたものであろう。なお、周知のとおり、この判決のあと法改正があって、ウグイス嬢については「選挙運動者ではあるが、上限を設けた報酬の支払いが認められる」取扱いとなった。
判例上、一応「選挙運動」の定義は確立し、「労務」はその外の範疇にあることとはなった。しかし、現実にはその境界は必ずしも明確ではない。「選挙運動のために使用する労務者」を定義した判決として、次のものがある。
「『選挙運動のために使用する労務者』とは、自己の判断によって候補者の当選又は落選に影響あるかを認定し方針を決定することなく単純に選挙運動者の手足となりその命ずるままに肉体的な労働又は機械的な事務に従事する者をいい、しからざる者はすべて『選挙運動に従事する者』である」
「電話の取次ぎ、封筒の宛名書き、ポスター等選挙関係書類の発送、謄写版印刷のごときは機械的事務といえよう。しかし、各都道府県興行組合の要請や都合を照合し、遊説計画立案会議に列席してメモをとり、あるいは被告人Kが欠席した場合には同被告人に会議内容を伝えたりすること、遊説日程の連絡、宿舎手配の依頼、配車指図、選挙事務所設置移転の指示、標札標旗の移送指示、ポスター掲示依頼等をすることなどは、たとえそれが被告人KやMの指示によったものとしても、ことがらの性質上、自己の判断を交える余地とその必要のある行動である」として、このような「選挙運動」に報酬を支払ったことをもって、運動員買収が成立するとして、労務者報酬の名目で金銭を供与した側も受領した側も有罪となった。(東京地裁、1964年1月29日判決)
なお、「選挙運動者」と「選挙運動のために使用する労務者」とは、人による区別であると解されている。『選挙運動者』がたまたま選挙運動のための労務を行ったからといって当該部分に対して報酬を支払うことは許されない。また、「選挙運動」と「機械的労務」との混在がある場合には労務に対する一切の報酬を支払ってはならない。
念のために、付記しておきたい。「運動員として事前に登録されていれば、一日1万円の人件費を払って選挙活動(ビラまき・候補者と練り歩きなど)ができることになっています」という見解があるようだ。つまりは、「届出さえしておけば、選挙運動者にも報酬を支払うことができる」という理解だが、完全に誤っている。選挙運動(員)であるか否かは、実際に行う仕事の内容によるもので、届出の有無は無関係である。ビラまき・候補者と練り歩きなどは、典型的な選挙運動に当たり、報酬を支払えば、運動買収に当たる。法の解釈の誤解は弁解にならない。選挙運動はあくまで無償が原則である。
以上で、「見解」の「選挙運動は無償(ボランティア)原則否定論」への批判は十分であろう。上原公子選対本部長、服部泉出納責任者、その他の「労務者」(あるいは「事務員」)に対する報酬の支払いは、すべて洗い直さざるを得ないことがお分かりだろう。ことは、上原公子一人について「訂正すれば済むこと」ではないのだ。「見解」の作成者は責任をもって、早急に訂正をされたい。なお、昨日記載し忘れたが、公選法191条は、支出に伴う領収証の保存期間を3年と明記している。上原・服部、その他の「報酬領収証」は、「記載ミス」だったとして、訂正後の報告内容に沿う領収証がないとの言い訳はできないことを、十分に弁えておいていただきたい。
公開情報にアクセスするのは、市民の権利でもあり責務でもある。
「記載ミスを訂正すれば済む問題」なのだそうだから、訂正はすぐになされるだろう。
はたしてどう訂正されたか、東京都選管に閲覧に行こう。もし、緊急に「記載ミスの訂正」すらできないようなら、宇都宮君、やっぱり立候補はおやめなさい。
(2014年1月7日)