澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

穏やかな東京で、ウクライナの危難に胸を痛める。プーチンを許せない。

(2022年3月14日)
 本日の東京は、雨上がりの穏やかな本格的な春日和。空は澄んで青く、梅は盛りを過ぎて散り残りの風情たが、桜のつぼみがふくらんでいる。小鳥も春をうたっている。キエフには砲弾の雨が降り、ウクライナ全土に母と子の悲鳴が上がっているというのに、このうららかさ。何とも申し訳ないような、後ろめたいような。それにつけても、プーチンが許せない。

 あらためて今ある平和のありがたさを思う。そして、その平和の脆さと、けっして当然にいつまでもあるはずのものではないことを噛みしめつつ、平和を求めての努力が必要なことを再確認する。それにつけても、プーチンが許せない。

 ウクライナの悲惨な事態には胸を痛めざるを得ない。とりわけ、「祖国を守るための英雄的な闘い」に立ち上がる人々が余儀なくされる苛酷な犠牲についてである。何とも痛ましい。このことについても、プーチンが許せない。

 局面は極限の事態にある。犠牲を覚悟で武器を取る人々の勇気を讃えるべきだろうか。あるいは、それでもなお武器の使用を諫めるべきだろうか。武器の援助をすべきだろうか。武器以外の人道支援に限定すべきだろうか。

 平和を求めることに反対する者は、おそらくはいない。平和の実現への道筋をどう考えるべきかが問題なのだ。古来の言いならわしの通り、「平和を望むのなら、戦争の準備をせよ」というのか、「平和を望むのなら、平和の準備をせよ」というべきか。「侵略を防ぐために武器を準備せよ」というのか、「確実な平和のために武器を捨てよ」とするのか。攻撃の側にだけ、武器を捨てよというのか、攻撃されている側にも同じことを言うべきなのか。ウクライナの犠牲に胸を痛めながら、ロシア軍兵士の犠牲には喝采を送る自分の気持ちにウンザリする。こんな気持ちにさせる、プーチンが許せない。

 そして、究極の問に回答が迫られる。自分がウクライナの人々と同じ立場に立たされたとして、「国家の防衛のために、国民の一人として侵略者と闘う」べきか。あるいは、「国家よりも個人の生命が大切なのは自明なのだから、屈辱を忍んでも不戦を貫く」べきなのか。答は容易に出て来ない。こんな問に直面させる、プーチンが許せない。

 おそらくは、この事態に至る以前に、ウクライナにはいくつもの最悪の事態回避の方法があったのではないか。それをこそ、教訓とすべきなのだと思うのだが、それにつけても、プーチンが許せない。

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