澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「もの言わぬ教師」が作り出されるとき、平和と民主主義は危機を迎える。

(2022年3月31日・本日毎日連続更新満9年)
 年度末の3月末日。例年、都立校関係者の『卒業式総括・総決起集会』が開催される。東京都教育委員会の《卒入学式における国旗・国歌(日の丸・君が代)強制》に抗議しての集会である。本年は、『卒業式総括・再任用打ち切り抗議 総決起集会』となった。

 私も出席して、都立校の校内で起こっている様々な出来事の報告を聞いた。共感し、励まされ、元気の出る話が多かった。誇張ではなく、立派な教育者が悩み嘆かざるを得ない事態に追い込まれ、それでもよく頑張っているのが現状である。私も要旨次のような報告をした。 

 悪名高い「10・23通達」の発出から18年余。今の高校生が生まれる前のことだと聞いて、改めて感慨深いものがあります。あれから毎春の卒入学式が、東京都の公立校における教職員に対する国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の場となり、これに現場で、社会で、訴訟で闘ってきました。私たちは、この間何を求めて闘い、何を獲得して、未だ何を得ていないのか。

 この旗と歌とを、国旗・国歌と見れば、国家と個人が向き合う構図です。憲法は、個人の尊厳をこそ根源的な憲法価値としており、国家が個人に愛国心を強制したり、国家に対する敬意表明を強制することなどできるはずはなかろう。

 また、この旗と歌とを「日の丸・君が代」と見れば、この旗が果たした歴史と向き合わざるを得ません。「日の丸・君が代」こそ、戦前の天皇制国家とあまりにも深く結びついた、旗と歌。天皇制国家が宿命的にもっていた、国家神道=天皇教による臣民へのマインドコントロールの歴史を想起せざるを得ません。そして、軍国主義・侵略主義・民族差別の旗と歌。これを忌避する人に強制するなどもってのほか。

 そして、問題は教育の場で起きています。国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制は。国家主義イデオロギーの強制にほかなりません。戦後民主主義は、戦前の天皇制国家による国家主義イデオロギー刷り込みの教育を根底的に反省するところから、出発しました。教育は、公権力から独立しなければならない。権力は教育内容を支配し介入してはならない。この大原則を再確認しましょう。

 法廷闘争では、懲戒権の逸脱・濫用論の適用に関して一定の成果を収めています。懲戒処分対象行為が内心の思想良心の表明という動機から行われたこと、行為態様が消極的で式の進行の妨害となっていないことなどが重視されて、「実質的な不利益を伴わない戒告」を超える過重な処分は違法として取り消させています。この点は、憲法論において間接的にもせよ思想良心の制約の存在を認めさせるところまで押し込んだことが、憲法論の土俵では勝てなかったものの懲戒権の濫用の場面で効果を発揮したものと考えています。

 私たちの闘いの成果は、十分なものとは言えませんが、闘ったからこそ、石原慎太郎教育行政が意図した民主的な教員をあぶり出し放逐しようという、邪悪な企てを阻止し得たのだと思います。

 今、処分取消第5次訴訟。これまで積み残しの課題もあり、新たな課題もあります。この意義のある壮大な民主主義の闘いを、ともに継続していきたいと思います。

 そのあと、大阪高裁の「再任用拒否国家賠償訴訟」逆転勝訴判決の内容紹介をした。またまた、東京でも、再任用打ち切りが問題となっている。

 以下に、本日の集会が確認した抗議声明を掲載する。この声明、気迫に溢れた立派なものではないか。《「もの言わぬ教師」が作り出されるとき、平和と民主主義は危機を迎える》という指摘は、今の情勢を見るとき重いものがある。

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「君が代」処分を理由とした再任用不合格に抗議する声明

 1月19日、東京都教育委員会(都教委)により、1名の都立高校教員が校長を通じて再任用の不合格を告げられた。
 当該教員が定年を迎えるに当たり再任用を申し込んだ2019年以来3回にわたって、毎年繰り返されてきた「懲戒処分歴がある職員に刻する事前告知」の内容を強行したものである。これは以下のように幾重にも許しがたい暴挙であり、私たちは断固として抗議するとともに再任用不合格の撤回を要求する。

 まず、「事前告知」において問題として挙げられている処分は、2016年の卒業式における不起立に対する戒告処分であるが、当該処分については現在その撤回を求めて裁判を行っている係争中の案件であるにもかかわらず任用を打ち切ることは、裁判の結果如何によっては都教委が回復不能の過ちを犯すことにもなりかねない。
 また、すでに戒告処分によって不利益を被っている者に対して任用をも奪うことは、二重処罰と言っても過言ではなく、これが容認されるならば行政処分の中で最も軽いとされる戒告処分が免職にも相当することになる。
 さらに、「事前告知」では卒業式での不起立に対する戒告処分が理由として言及されていたにもかかわらず、今回の不合格通知に際しては理由すら明らかにされなかった。校長からの問い合わせに対しても、「判定基準を満たさなかった」とのみ回答した。しかも、再三にわたる私たちの要請や質問に対して、都教委は「合否に当たり、選考内容に関することにはお答えできません。」との回答に終始しており、任用を奪うという労働者にとっての最大の権利侵害に対して理由すら明らかにしない姿勢は、任命権考としての責任をかなぐり捨てたという他はない。
 何よりも、卒業式での不起立は一人の人間として教員としての良心の発露であり、過去の植民地支配や侵略戦争、それに伴うアジア各国の人々と日本国民の犠牲と人権侵害の歴史を繰り返さないため、憲法と教育基本法の精神に基づいてなされた行為であると同時に、憲法が規定する思想良心の自由によって守られるべきものである。

 「10・23通途」発出以来今日までの18年半の間に、通達に基づく職務命令によってすでに484名もの教職員が処分されてきたこの大量処分は東京の異常な教育行政を象徴するものであり、命令と処分によって教育現場を意のままに操ろうとする不当な処分発令と再任用の不合格に満身の怒りを込めて抗議し、その撤回を求める。
 あまつさえ都教委は再三にわたる被処分者の会、原告団の要請を拒んで紛争解決のための話し合いの席に着こうともせず、この問題を教育関係考自らの力で解決を図るべく話し合いを求めた最高裁判決の趣旨を無視して「職務命令」を出すよう各校長を指導し、結果として全ての都立学校の卒業式・入学式に際して各校長が「職務命令」を出し続けている。それどころか、二次?四次訴訟の判決によって減給処分を取り消された現職の教職員に対し、改めて戒告処分を発令する(再処分)という暴挙を繰り返し、再任用の打ち切りまで強行するに至っては、司法の裁きにも挑戦し、都民に対して信用失墜行為を繰り返していると言わざるを得ない。

 東京の学校現場は、「10・23通途」はもとより、2006年4月の職員会議の挙手採決禁止「通知」、主幹・主任教諭などの職の設置と業績評価制度によって、閉塞状況に陥っている。「もの言わぬ教師」が作り出されるとき、平和と民主主義は危機を迎える。
 私たちは、東京の学校に自由で民主的な教育を甦らせ、生徒が主人公の学校を取り戻すため、全国の仲間と連帯して「日の丸・君が代」強制に反対し、不当処分撤回一再任用打切りの撤回を求めて闘い抜く決意である。この国を「戦争をする国」にさせず、『教え子を再び戦場に送らない』ために!

 2022年3月31日
 四者卒業式・入学式対策本部
 (被処分者の会、再雇用2次訴訟を語りつぐ会、予防訴訟をひきつぐ会、解雇裁判をひきつぐ会)

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