沖縄の本土復帰運動の気運を高めた「甲子園の土」
(2022年5月18日)
復帰前の沖縄に本土の人々の目が冷ややかだったかといえば、必ずしもそうではない。1958年夏の甲子園(第40回記念大会)に、戦後初めての沖縄代表チームとして首里高校が出場したときの同校への国民的な声援は大きく暖かいものだった。開会式では同校の仲宗根主将が選手宣誓を行っている。首里高は1回戦で敦賀高校(福井)に3対0で敗れるが、その後の「甲子園の土」のエピソードで、再びの話題となる。
「沖縄 : 戦後50年の歩み 激動の写真記録」(沖縄県作成・1995年)の203ページに、この試合後「甲子園の土」をビニール袋に詰めている選手5人の大きな写真が掲載されている。そのキャプションが次のとおり。
「首里高校が沖縄から初の甲子園出場。持ち帰ろうとした記念の土は、植物検疫法違反を理由に海中に投棄された。1958年8月」
この記述だと、「植物検疫法違反を理由とする海中投棄」を指示したのが、日本側なのかアメリカ側なのか、よく分からない。この間の事情を「ハフポスト」が次のように要領よく解説している。
「首里高ナインの数人がビニール袋に詰めて甲子園の土を船で持ち帰ったが、那覇港で彼らを待っていたのは冷たい仕打ちだった。アメリカの法律では甲子園の土は「外国の土」ということで、植物検疫法に抵触して持ち込み不可能だったのだ。
沖縄はアメリカ統治下にあったから、検疫の検査を受けなければならなかった。検疫では「外国の土は持ち込んではならない」という規定があり、球児たちが大事に持ち帰った甲子園の土は外国の土だから検疫法違反と言うことで没収され、那覇港の海に棄てられてしまったのだ。」
このニュースは大きな反響を呼んだ。あらためて、引き裂かれた沖縄の深刻な悲劇として強く印象づけられた。日本航空の客室乗務員が甲子園の小石を集めて首里高校に贈るなどのエピソードが続いた。
「土の代わりに、せめて…」との思いを込めて。絹の布を敷いて小石を入れたガラス張りの箱が、58年9月上旬に空路で届けられた。その後、学校の敷地内に二つの石碑が建てられた。小石がはめられた「友愛の碑」と「甲子園出場記念の碑」。それから60年以上、そして本土復帰50年の今も、変わらずに息づいている(時事)。
この「甲子園の土・投棄事件」は、沖縄返還運動の気運を大いに高める事件となった。その後、沖縄代表高が甲子園に出てくると、大きな声援に包まれる時代が続いた。相手校やその関係者にとっては、なんともやりにくい雰囲気。
私がそれを実感として語れるのは、私の母校がその首里高校と甲子園で対戦しているからだ。1963年の春の選抜大会である。その1回戦で、私の母校が対戦した相手が、2度目の甲子園出場となった首里高校だった。私は、この試合を甲子園の母校応援席の一隅で観戦している。
私の母校は大阪府富田林市にあるから通常はホームの雰囲気なのだが、このときは完全にアウエイだった。球場全体が首里の応援団なのだ。
寒い日だった。しかも、途中からナイターになった。首里の選手には気の毒なコンディション。それゆえか、試合は8対0。観戦の印象では点数以上の大差だった。何しろ、投手戸田善紀(後にプロ入り。阪急から中日)の奪三振が21を数えた。首里のヒットは1本だけ。それでも、観客の声援は首里高に大きかった。
前年の春に、私は高校を卒業している。母校の中心選手は、私が3年の時の一年生。小さな学校でたいていの選手とは知り合いだったが、私も心中では、首里高を応援していた。ウチのチームは、武士の情けというものを知らんのかね、と。
首里高側の記事はこうである。
「1963年(昭和38年)の春の選抜。泊港(那覇)から出航し鹿児島へ渡り、鹿児島から夜行列車で大阪入り。沖縄を出発してから3日目にたどり着いた甲子園で待ち受けていたのは、強豪のPL学園だった。
抽選会でいきなり甲子園の常連校を引き当てた宮里さん(主将)は、自分自身で『あじゃー、へんなくじを引きやがって』と思ったという。チームは硬さのとれないまま強豪PLと対戦する。相手投手は、後に阪急ブレーブスに入団した戸田。『当時としては球は速かった。打席に立ってバットで捕らえきれるという感覚はなかった。ファールするのが精一杯』と21個の三振を喫する。
『結局、野球をしたんじゃなくて、あそこにユニフォームを着て立っていただけなんだよ』と当時を振り返る宮里さん。」
その年の夏の大会で、首里は初めて本土チームを破って一勝を挙げる。この試合にも全国が沸いた。それから9年後に復帰が実現し、復帰から50年が経過した。復帰後、沖縄は野球の強豪チームを輩出し、全国優勝の数も重ねた。しかし、今あの時代の沖縄のチームへの応援の声はない。おそらくは、政治や経済においても。